第一話 アラフォー派遣OL 犬養 紗良の異世界転移
――古びたアパートの一室。小さな玄関の隅で、中年女性が姿見と対峙している。
その女性――犬養 紗良――は、全身鏡に映っている自身を見つめながら愚痴をこぼし始めた。
「はぁ。久しぶりの再派遣、行きたくない。あの会社、イベントが近くなると社員さんたちの余裕がすっぽりと無くなって、社内の雰囲気が極悪になるのよね。ま、余裕があれば派遣なんて呼ばないんだろうけどね。とりあえず、朝の挨拶は、囁くように、存在感を消し去って社員さんの邪魔をしない事……空気を読まずに、バカでかい声で挨拶なんてしたら――」
言い終わらずにぶるぶると身震いした紗良は、過去を思い出しながら天を仰いだ。あの時は――仕方なかったのよと、小さく呟くと苦々しそうに眉間に皺を寄せながら、頭にこびりついた思いを振り払うようにして首を左右に振り、大きなため息を吐く。諦めた様子で紗良は、下ろしていたいた視線を正面に戻した。姿見と対面する。再度、自分に話しかけ始めた。
「見てよ、この頬のへこみと縦皺、それにこの目の下の隈のどす黒さ。ものすごく時間かけて必死で塗り固めたんだけど……。余計に老けた顔になるってどういうこと?」
紗良は、目の下の隈を睨みつけた。紗良の鋭い眼差しに反抗するように、目の下の隈はより一層その影を増す。紗良は、長いため息を吐きながら諦めたように言う。
「はぁ。仕方ないわね。昨日眠れなくて深酒したものね。肌にでちゃったのね……。」
視線を投げた先の台所には、昨夜紗良が飲み干したビールの空き缶が何個も放置されていた。
「若い時なんてどんなに上司に揉まれても、同僚にいびられても、寝不足でも、飲み過ぎても、お肌も気持ちもぴんぴんしてたのに、今は、うじうじ、しわしわ。」
紗良は鏡に向かいながら、それでも気持ちを持ち直そうとにんまりと口角を上げた。目を細めて無理やり笑顔を作っては、その度に深くなる目尻の皺やほうれい線を指でこすり、消えろ消えろと呪文のように唱える。
何をしてもすぐに元通りになる深い皺としばらく格闘した彼女は、肩を落としながら「仕方ないわね。」と呟いた。短く息を吸い込み、気持ちを切り替えるようにして背中を伸ばした。猫背をしゃんと伸ばして全身を検め始める。
これでもかと、紗良は背筋を伸ばしてみるが、お腹周りにこびりついた贅肉はびくともせずに彼女のシルエットを単調なものにしていた。丸いシルエットを眺めながら、また諦めた表情をした紗良は、それからがっくりと肩を落として視線を足元に移した。
傍らには、黒い通勤鞄が無造作に置かれている。くたびれた通勤鞄を眺めながらよしっと気合を入れた紗良は、通勤鞄の上でぐったりとしているグレーのジャケットを手に取ると、「えいっ」と勢いよくそれを羽織った。
視線の先に映る姿に驚きながら声を上げた。
「うそでしょ? ぱっつぱつなんだけど、肩、やばくない? 二の腕こんなに太くなってたの? うそでしょ? これ、わきの下に穴空いたり裂けたりしないわよね。こわっ。今日はもう何があっても、腕を上げられないじゃない。
――くっ、盲点だったわ。前回の職場の服装が自由だったから、つい油断してしまっていたのね。ジャケットでお腹を隠そうと思っていたのに、これじゃあ、ボタンすら閉められないじゃない......こんな浮き輪肉を曝して一日過ごせっていうの? どうしよう、もう着替えている時間もないし――。」
紗良は、今日何度めかも分からないため息を吐きながら、ジャケットの三つボタンの真ん中だけを閉めた。すっと息を吸い、無理やりにお腹をへこませた彼女は、それから呼吸を止めた。
姿見に映る自身を検める。
しばらくして、苦しそうな表情をしはじめた紗良は、観念したように止めていた息を一気に吐きだした。解き放たれた腹のぜい肉を憎々し気につまみ捻る。しばらく、腹部を睨みつけていた彼女は、それから深いため息を吐き、「仕方ないのよ。」と言い聞かせるようにして呟いた。
――ピピピ ピピピ
携帯電話のアラームが鳴り響く。
「やばい! 初日から遅刻なんて怖すぎる!」
叫びながら勢いよく紗良は、玄関扉を開き――。
「――?!」
扉の向こうで紗良が目にしたのものは、いつものアパートのひび割れた外壁――ではなく、シャンデリアのまばゆい光を反射した大きなホールであった。
玄関から飛び出した瞬間、落とし穴に落ちるように落下した紗良は、そのまま床にへたり込んだ。通勤鞄を肩にかけたまま何が起きたのかと呆けた表情でいる紗良の頭上に、容赦のない冷たい声音が降りそそぐ。
「俺の番って、これ――ばばあじゃん!! 聞いてないんだけど、いやいや、無理無理。いくらなんでも、ばばあが番なんて、絶対無理!!」
声の方向へと反射的に顔を上げた紗良が目にしたのは、冷たい表情で彼女を見下す美麗な銀髪の男性であった。皺ひとつない真っ白なタキシードに身を包んでいるその男性は、不機嫌に腕を組みながら、眉間に皺を寄せて不快感を露わに顔を歪ませている。
彫刻のように整った顔の男性が、敵意むき出しの表情で紗良を睨みつけるその迫力に紗良は居た堪れなくなり、すぐにその視線を逸らした。男性の横には、驚いた表情をした老人が両手のひらを紗良に向けたまま固まっている。老人は、濃紺のローブを羽織っていた。
怒りに震え悪魔のように顔を歪ませているタキシードの男性とは対照的に、この老人は小動物のようにわなわなと震えている。老人は、紗良を凝視しながら伸ばした手をぷるぷると震わせて「いや、こんなはずでは……」と、掠れた声で呟いていた。
タキシードの男性が、おろおろとしている老人に詰め寄ろうとその長い足を踏み鳴らし――
「イヤーー!!」
今度は、女性の悲鳴がホール内に響き渡った。
ぼうっと老人を眺めていた紗良は、背後から聞こえた甲高い声にびくりと肩を震わせた。
叫び声を上げた女性が、金切り声で老人に捲し立てる。
「一体、どういうことですの?! お兄様の番なのよね!? 聞いてないわよ!! 私のお義姉様になる人が――こんな、こんなずんぐりむっくりなんて!! ありえない!! 認めないわ! どうするのよ! どうしてくれるのよ! こんなの召喚して!」
「キーーー!」という女性の悔しさに歪んた声を背に浴びながら、紗良は、恐る恐る振り返った。紗良と女性と視線が交わる。
紗良の顔を見た女性は、驚いた表情で目を見開いた後、すぐにその表情を歪め鬼の形相で、
「しかも、おばさんじゃない!!!!」
女性は、紗良に扇子を突きつけた。
「あ――っ」
女性の気の抜けた声とともに、彼女の突き出した手から扇子が勢いよく飛び出す。
――ガツン
鈍い音と同時に頭に割れるような衝撃を受けた紗良は、そのまま、なすすべなく床に倒れた。
後頭部を床に激しく打ちつけた紗良は、そのまま天を仰いだ。キラキラと光り輝くシャンデリアを眺めながら、彼女が意識を失う瞬間――。
狭まる視界に小さな銀色の毛玉が覆いかぶさった。
「ふわふわ。うっわ。いい匂――」
それは、紗良が、異世界転移して初めて口にした言葉だった――。




