5. 病
翌朝――。
エヴァンは特別ラウンジのソファに体を預け、腕を額に乗せて目を閉じていた。その姿を見つけたリオ・ヴァルデとフィリップ・カヴァリオが、心配そうに駆け寄る。
「エヴァン、お前顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
リオが眉をひそめて尋ねた。
「……胸が苦しい……」
「何だと!? 今すぐ診てやる!」
フィリップが慌ててエヴァンに両手をかざし、目を閉じて魔力を込めた。淡い光がエヴァンの体を包む。
「……うーん……」
「どうだ?」
リオが尋ねると、フィリップは腕を下ろして首をかしげた。
「どこも悪くない。心臓も、魔力の流れも異常なし」
「は?」
リオは目を見開いたが、すぐに口角を上げてにやりと笑った。
「わかったぞ。病名が」
「何だ……?」
エヴァンが目を細めて問い返す。
「一度かかったら治すのは困難――恋だ」
「……ふざけてるだろ」
「ふざけてない」
「マジかよ! エヴァン! 誰だ!? 何年生だ!?」
興奮したフィリップが身を乗り出す。
「ありえねえだろ」
エヴァンは視線をそらし、呟いた。
その頃――。
アンナは寮の自室で、競技場へと向かう準備をしていた。今日はルミエール・アカデミーと、名門のグリフォネス魔法学校の学生たちとの親善試合「エアリアル・レース」が行われる日だ。
参加できるのは最高学年である六年生だけ。アンナは出場しないが、この試合は伝統的な大イベントで、学校中の学生や教授陣が観戦し、年に一度の楽しみとなっている。
「わあ……すごい人……」
競技場へ向かう道すがら、すでに多くの学生たちが集まり、興奮気味に談笑しながら試合の開始を待ちわびている。活気に満ちた空気が辺りを包み、旗や校章が風にはためいていた。
観客席に向かおうとしたその時、アンナの耳に気になる声が飛び込んできた。
「グリフォネスはライバル校だ。試合前にやつらの選手を少しでも弱らせておけば、ルミエールの優勝は確実だ」
視線を向けると、校舎の陰でルミエールの学生たち5人が密談している。
(まさか……不正を企んでるの?)
アンナの胸に嫌な予感が走る。彼らがグリフォネスの選手控室の方向へ向かうのを見て、足早に後を追った。
控室の近く――。学生たちは息を潜め、一人のグリフォネスの選手が控室から出てきた瞬間を狙い、一斉に杖を構えた。
(まずい――!)
「プロテクタ・シグナム!」
アンナは咄嗟に防御魔法を唱えた。透明な魔力の盾が選手の目の前に現れ、5人の放った呪文をすべて弾き返す。
「な、なんだ!?」
「やばい、逃げろ!」
跳ね返った魔法の衝撃で場は混乱し、ルミエールの学生たちは逃げ去った。しかし――弾かれた斬撃の一部がアンナの方へ飛び、直撃する。
「きゃっ!」
バランスを崩して倒れ込むアンナ。その瞬間、目の前のグリフォネスの学生が驚いたように駆け寄った。
「大丈夫か!?」
彼はアンナを支え起こし、急いで彼女を医務室へと連れて行った。
会場の喧騒の中、彼女を抱える腕には驚くほどの温かさがあった。
アンナが目を覚ますと、ルミエール・アカデミーの医務室のベッドに横たわっていた。
頭がぼんやりする中、隣の椅子に見覚えのない少年が座っているのに気づく。彼はさらりとした髪に整った顔立ちをしており、深い色の瞳がアンナを見つめていた。
「目が覚めたか?」
穏やかな声に、アンナは少し驚きながらも答えた。
「あ、はい。すみません……助けるつもりが、結局助けられちゃって……」
彼は微かに笑みを浮かべ、軽く首を振った。
「いや、こちらこそありがとう。でも、あれぐらいなら一人で防げたよ」
「え……」
アンナの肩がしゅんと落ちる。
「そんなに落ち込むなって。だから、無茶しないでって意味さ」
「ふふっ」
突然笑い出すアンナに彼は首をかしげた。
「……どうした?」
「あ、ごめんなさい。昔の私だったら絶対ケガなんて嫌だって思って、試合の観戦席でじっとしてたと思うんです。でも今は――何だか、少し違う私になれた気がして」
彼はその言葉に目を細め、柔らかな表情を見せた。
「そっか。今の君、悪くないと思うよ」
「そうですか……あの、試合の方は……?」
アンナが恐る恐る尋ねると、彼は肩をすくめた。
「補欠の選手が代わりに出てくれた。気にするな」
「そ、それでも! ご迷惑を……!」
「親善試合だし、本気で勝ち負けを争うわけじゃないから大丈夫。何より、君が無事でよかった」
アンナの心に温かな何かが広がる。彼をじっと見つめながら、ふと尋ねた。
「あの……お名前は?」
その問いに、彼は少し戸惑った様子を見せたが、すぐに答えた。
「……エリオット。君は?」
「アンナです」
「アンナか。良い名前だな」
エリオットは微笑みながら立ち上がった。そして扉の方へ向かう前に、振り返る。
「今日はもうすぐグリフォネスに戻るけど――また君の様子を見に来るよ」
「え!? そんな、お気遣いなく……!」
「気遣いじゃないよ。俺がそうしたいだけさ」
そう言い残し、彼は軽く手を振って出ていった。
アンナの胸が不思議な高鳴りを覚えながら、静かになった医務室でその名前をそっと繰り返した。
「エリオット……」