23. 信頼
数週間後―――。
アンナは魔法学校での生活を楽しんでいた。勉強にバイト、友人たちや恋人との時間。忙しくも充実した日々を送っていた。
ルミエールの学生が襲撃される事件も、最近はぱったりと止んでいた。
ある日、アンナがいつも通りバイト先へと向かって歩いていると、不意に見知らぬ男性が前に立ちはだかった。
「アンナさんですね?」
「え? あ、はい、そうですけど……」
男性はどこか冷徹な雰囲気を漂わせている。アンナは思わず一歩引いた。
「単刀直入に申し上げます。エリオット様と別れてください」
「え……?」
突然の言葉に、アンナは思わず眉をひそめる。
「私はグレイフィールド家に仕える執事です。エリオット様のお父様から、あなたにお伝えするよう命じられました」
「そんなこと、急に言われても……」
「エリオット様には婚約者がいらっしゃいます」
(婚約者……?)
アンナの心臓が大きく跳ねた。思考が追いつかないまま、彼の言葉が冷たく続けられる。
「エリオット様と別れることを拒否されるのであれば、あなたの魔法界での記憶を消し、人間界に転送させていただきます」
「な、なんですって……?」
「これは脅しではありません。あなたのこれまでの努力が無に帰すことにならないよう、賢明なご判断をお願い申し上げます」
アンナは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。
「では、失礼します。三日以内にご決断ください。もしその時点でお別れいただけない場合、こちらも行動を起こしますので」
そう言い残すと、執事は一礼し、背筋を伸ばしてその場を去った。
アンナは、こみ上げる混乱と恐怖を抱えながらバイト先へと足早に向かった。しかし、彼女の胸の中では「婚約者」という言葉が何度も響き渡り、平常心を保つことができなかった。
バイト先での仕事を終えたアンナは、エリオットに話を聞くため、急いで彼のもとへ向かった。
部屋のドアをノックすると、エリオットがすぐに顔を出した。
「アンナ、こんな遅くにどうした?」
「聞きたいことがあって……」
アンナは不安げな表情で言い、エリオットに促されるまま部屋に入った。
ソファに腰を掛けると、少しの間ためらってから、話を切り出す。
「今日、知らない男性に話しかけられたの」
「知らない男性?」
「その人が……エリオットには婚約者がいるから、別れろって言ってきたの」
その言葉に、エリオットの顔が一瞬強張り、次の瞬間には冷静さを装った表情に戻った。
「……父上の仕業だな」
「婚約者がいるって、本当なの?」
アンナの声は震えていた。
「……ああ。本当だ」
アンナは心臓が締め付けられるような痛みを感じ、言葉を失った。
「けど、それは親が勝手に決めたことで、俺は結婚するつもりなんてない。一度しか会ったこともないし、俺の意思じゃないんだ。だから――」
「どうして黙ってたの?」
アンナは涙をためながら声を上げた。
「ごめん。俺と親の問題だと思ってたし、アンナに余計な心配をさせたくなかったんだ」
「……ひどいよ」
アンナの呟きに、エリオットは苦しそうに目を伏せた。
「でも、俺はアンナが好きだ。父上ともちゃんと話をつける。絶対に――」
「三日以内だって」
アンナはエリオットの言葉を遮った。
「三日以内……?」
「三日以内に別れないと、私のここでの記憶を消して、人間界に戻すって」
エリオットは息を呑んだ。
「そんなこと、絶対にさせない」
そう言う彼の目は真剣だったが、アンナの胸にある傷は癒えなかった。
「でも……何より、エリオットが黙ってたことが、一番ショックだよ」
アンナの声が掠れた。
「必ずなんとかする。約束するから――」
「もういい!」
アンナは立ち上がり、ドアのほうへ向かったが、エリオットが慌てて彼女の腕を掴んだ。
「待って! 行かないでくれ、アンナ」
アンナは止まらない涙をぬぐいながら振り返った。
「だって……ひどいよ」
エリオットは迷いもなく、アンナをぎゅっと抱きしめた。
「ごめん。本当にごめん」
アンナは一瞬ためらったものの、エリオットの胸に顔を埋めるように泣き続けた。
しばらくの沈黙の後、エリオットがそっと口を開く。
「……少し落ち着いた?」
「……うん、少しだけ」
アンナの声は震えていたが、彼女は涙を拭きながらエリオットを見上げた。
「アンナの記憶を消して人間界に送り返すために、また誰かがアンナのもとに現れるはずだ。だから、それまで俺と一緒に行動してくれないか? 必ず守るから」
エリオットの真剣な表情が、彼の決意を物語っていた。しかし、アンナはすぐには答えられなかった。
「ごめん……少しだけ考える時間がほしい」
アンナの言葉に、エリオットの眉がわずかに曇る。
「考えるって……」
彼の声には戸惑いが混じっていたが、アンナは視線を逸らして立ち上がる。
「今日はもう帰るね」
エリオットは慌てて彼女の言葉を遮る。
「送っていくよ」
「ううん、大丈夫。ひとりで平気だから」
「ダメだ。もう夜遅い。送らせてくれないなら、泊まっていってくれ」
「泊まりたくない」
エリオットは彼女をじっと見つめた後、落ち着いた声で言葉を続けた。
「アンナ、頼む」
「……わかった」
アンナは迷いながらも、エリオットの真剣な様子に押されるように静かにうなずいた。
翌朝、薄明りが部屋に差し込む中、アンナは隣で眠るエリオットを見ていた。
実際にはほとんど眠れず、目覚めたときには疲れが取れていない感覚に襲われていた。
二人がまだベッドに横になったまま、アンナはためらいながらも口を開いた。
「エリオット」
「ん? どうした?」
「ごめん。別れよう」
エリオットは少しの間、言葉を失い、彼女をじっと見つめた。
「……俺は、別れたくない」
アンナは視線をそらし、ぎゅっと布団を握りしめた。
「ごめん。今は、エリオットのことを信用できない」
その言葉に、エリオットは眉を寄せ、静かにうなずいた。
「……わかった」
アンナはベッドから起き上がり、手早く身支度を整えた。
「じゃあね」と小さな声で告げると、エリオットの返事を待たずに部屋を出ていった。
エリオットはベッドに横たわったまま、彼女が去ったドアをしばらく見つめていた。