1. 自由
この世界には、無数のレールが敷かれている。
右に曲がれば安心、左に進めば大問題。誰もが知らず知らずのうちにそのレールに乗り、自分の進むべき道だと信じて生きている。
もちろん、田舎暮らしのアンナ・ベネットも例外ではなかった。
「女の子は勉強しすぎると結婚できなくなるわよ」
母の言葉に素直に従い、小学生時代のアンナは勉強から距離を置いた。結果、テストはいつもギリギリ。
「家事ができる女の子はいい嫁さんになる」
そんな話を真に受け、料理や裁縫にも挑戦したけれど……まあ、結果はご想像の通り。楽しかったかどうかなんて聞かないでほしい。
バドミントン部で青春を謳歌した中学時代。
けれど父にこう言われた。
「バドミントンばかりしてたらバカになるぞ」
初めて本気で教科書を開いたのもその時だ。
そして15歳のある日、気づいてしまった。
「もしかして、私……ちょっと勉強できる?」
だが、アンナのレールは平坦じゃなかった。
本当は、何度も家を出たかった。
父は会社員で夜遅くまで働き、平日はほとんど家にいない。母はデパートでパートタイム、夕方までいないことが多い。
4歳上の兄――彼が最悪だった。兄が中学に上がった頃から暴力を振るい始め、アンナが12歳のある日、兄に顔を殴られ、前歯が折れた。
号泣しながら母に訴えた。
その時、母はただこう言っただけだった。
「よしよし、大丈夫よ」
その瞬間、何かが心の奥でプツンと音を立てた。
けれど――
アンナは今はもう15歳。
兄は受験浪人の名を借りた引きこもり。親に隠れて学校をサボり、補導された高校時代。最近では母に暴力を振るう。
両親は兄のことを心配し、アンナのことを信じていた。
だからこそ――
「私が喜ばせなきゃ」と、アンナは無意識のうちに思い続けていた。
高校受験では偏差値68の学校にギリギリ合格。必死で基礎から学び直すのは大変だったけれど、意外と楽しかった。
そして、いよいよ明日は――
高校の入学式だ。
(高校では勉強も頑張っていいのかな……でもやり過ぎはダメだよね……?)
そんなふうに考えながら、アンナは心配を抱えつつも眠りについた。
しかし――
目が覚めると、そこは空だった。
空。まさに、大空のど真ん中。
雲がふわふわと流れ、遠く下には地面らしきものが見える。
「え?」
高校の制服とカバンと一緒に、パジャマ姿で宙を漂いながら真っ逆さまに落下中。
「これは夢だよね、夢!?」
大声で叫ぶが、風の音がそれをかき消す。落下速度はどんどん加速し、制服のスカートがひらひらと無意味に翻る。
現実かどうかなんて、考える余裕すらない。
「嘘でしょーーーー!」
地面までの時間はもう残りわずか。
次の瞬間――
「キャーーー!」
アンナが叫ぶと同時に、体がふわっと浮いた。
隣には空中を舞う制服とカバン。
「止まった……?」
ホッとする間もなく――
「痛っ!」
なぜか再び重力が勝利し、そのまま地面に叩きつけられた。
顔をしかめて体を起こすと、目の前には杖を持ち、ローブをまとった初老の男性が立っている。
「すまんすまん。家の中に転送するつもりが、少し失敗してしまったようじゃ」
「て、転送……? というか、何ですかその格好!」
「おお、初めてか。ここは魔法界じゃよ」
「……はい?」
あまりに当然のように言われて、思考が止まる。
「まあまあ。話は中でしよう。さあ、入るがよい」
「いや、困ります! 知らない人の家に入るなんて……それに今日は高校の入学式なんです! 欠席なんてありえません!」
「入学式? ありえない?」
「そうです! とても大事な日なんです!」
初老の男は一瞬、ぽかんとした顔をした。
「大事……。うむ、だが君、あのまま眠っていたら今ごろ死んでおったぞ?」
「……え?」
男はゆったりと杖を振り、宙に画面のようなものを浮かべた。
そこには――
アンナの自宅や近所の建物が火の海となっている光景が映し出されていた。
「こ、これ……!」
アンナの心臓が痛いほどに跳ね上がる。目の前の映像は、あまりにも生々しい。
「見せたほうが早いと思っての。安心せい。何もしないから、まずは話を聞きなさい」
「安心って……これはどういうことですか!? なんで私の家が燃えてるんですか!?」
男は少し眉をひそめ、しかし冷静な声で答える。
「見ての通り、火事じゃよ。君の家だけでなく、周囲の家も巻き込まれた。……君しか助けられなかった。すまない」
「――――っ!」
言葉が詰まり、喉がかすれる。
「そんな……家族は……私の、家族は――?」
視線を男にすがるように向けるが、彼はただ静かに首を横に振っただけだった。
その瞬間、アンナの頭が真っ白になった。
時間が止まったかのような感覚。耳鳴りがし、呼吸が苦しくなる。全身が冷たい。
「嘘……」
震える手で画面を指さしながら、何度も否定しようとするが、映像は変わらない。
燃え盛る炎の中、見覚えのある家の輪郭だけが、歪んでいくように崩れていく。
その後、アンナは、見知らぬ家の暖炉の前に座っていた。木の椅子の硬さを感じながら、手元のカップから立ち上る蒸気をじっと見つめる。
カップの中には温かい香草茶。優しい香りが鼻腔をくすぐるが、その温もりは心の底までは届かない。
「飲まないのかね?」
低い声に顔を上げると、初老の男性が微笑んで立っていた。
「……お名前は、何て言うんですか?」
「おっと、それは失礼した。わしはアルヴァン。占い師であり、魔法使いでもある」
「占い師……?」
「ああ、今朝も占いをしていたのじゃ。ちょっとしたひと財産を築く方法を探してな」
「……それで、私を……?」
アンナの視線が一瞬険しくなるのを感じたのか、アルヴァンはすぐに手を振って否定するような仕草を見せた。
「誤解せんでくれ。わしが君を助けた理由は、それも少し関係するが、すべてではない。占いで、君を救えば――大金持ちになれると出たのじゃよ」
「……はあ?」
「それで、人間界から人を転送することができる魔法具を使った。希少で、一度しか使えん貴重品だ。だが――ひとりしか転送できなかったんじゃ」
言葉が胸に突き刺さるようだった。
「そんな……それじゃ……」
「すまない」
静かな謝罪の言葉が部屋の空気をさらに重くする。
アンナは唇を噛み、震える手でカップを握りしめた。
「それで、どうする?」
アルヴァンは落ち着いた声で言った。
「人間界に返すこともできるが、帰る家も無かろう。わしの家で娘として暮らしていっても良いのじゃよ」
アンナは言葉を失っていた。
「……」
アルヴァンは一拍置いてから続ける。
「すぐに決める必要はない。君の自由じゃ」
その言葉に、アンナの心が揺れた。
「自由……?」
「そうじゃ。魔法界で冒険するも、この家で平穏に暮らすも、魔法学校に通うも、人間界に戻るのも――すべて君の選択次第じゃ」
「魔法界で私と同い年くらいの子は、普通どうしてるんですか?」
アンナの声には微かな不安が滲んでいた。
「普通? 人それぞれじゃな。だが、この世界のことを知らずに生きていくのは難しい。まずは魔法学校に通うのが賢明かもしれん」
魔法学校――。
その響きに、アンナの胸が少しだけ高鳴った。
(自由……本当に私が自由に選んでいいの?)
家も失い、家族ももういない現実。けれど、それを嘆くよりも、目の前にある選択肢が彼女を強く引きつけていた。
「しばらくはこの家でゆっくりするといい。心も落ち着かぬじゃろう」
アンナは深く息を吸って、ようやく顔を上げた。
「……うん」
その瞬間、心の中で何かがふっと解けた気がした。
これまで両親や周りの期待に応え、決して自分の気持ちに素直になれなかった。けれど、今はもう――
(私がどうしたいかで生きていけばいいんだ)
そう感じた。悲しいけれど、それがどうしようもない現実だった。
そして、何よりそのことが、体を軽くしたように思えた。
もはや、どこにも敷かれたレールなんて存在しない。今はただ、自分の足で歩き出すことだけが、真実に思えた。