【第六章】
その日、朱音はいつも通りに学園へ向かった。
いや、一つだけ違うことがある。それは、お弁当を二つ持っているということだ。
実はちょっと早起きをし、クロの分のお弁当も作っていた。
これが先日のクロの活躍に対するお礼なのだが……果たしてこれがお礼になっているのか、朱音はいまだに悩んでいた。
神様を含め、あやかしたちが食事をしている光景は何度も目にしたことがある。
ただ、クロが物を食べている姿はまだ見たことが無いため、もしかしたらこのお弁当も食べない可能性があるのだった。
だからお昼休み、屋上でクロに直接訊いてみることにした。
「ねえクロ」
「なぁに?」
「クロは食事ってするの?」
「必要じゃ無いからしないよ」
あっさりとそう言われてしまった。
一応、物が食べれないというわけではないようなので、ダメ元で言葉を続ける。
「あの……あのね? この間のお礼に、お弁当を作ったんだけど……」
そこまで言いかけた途端、クロから勢いよく抱き付かれた。
「朱音ぇ~! オレのためにお弁当を作ってくれたの? 嬉しい嬉しい! やっぱり朱音はオレの花嫁だねぇ~!」
「だぁああ! 引っ付かないでよ! 危ない!」
体格差がある所為で、クロから覆い被さるように抱き付かれていた。
スリスリと朱音の後頭部に頬ずりしながら、クロは朱音に怒られないぐらいでパッと体を離す。
そして両手を差し出した。
「ちょーだい、オレのお弁当」
とても神様としての威厳など無い様子で、手作り弁当をねだってくる。
改めてねだられると少し恥ずかしい気がしたが、朱音はそっと鞄からお弁当を取り出し、クロへと渡した。
「やったー! 金庫に保管しておこう」
「今すぐ食べてよ!」
「えー。食べたら無くなっちゃうじゃん」
「食べ物は味わってこそなんだから! それに数年後、金庫を開けたくなくなるような真似はやめて!」
本気か冗談かあまりにもわからなかったので、朱音はそうツッコミを入れた。
屋上には他にも昼休み中の生徒がいるのだから、あまり目立つようなことをさせないでほしいと心から思った。
クロはしばらく、お弁当を眺めては嬉しそうに笑ったり、掲げたり、見下ろしたり、やはりまた眺めたりを繰り返していた。
しかし朱音にジト目で見られていることに気が付いたクロは、ようやくお弁当に手を付け始めた。
「わあ、これ美味しい。さすがオレの花嫁」
「そういうのいいから」
とは言いつつ、作ったものを褒めてもらえるのはとても嬉しいことだった。
朱音は年相応に、思わず顔をにやけさせながら自分のお弁当に手を付けた。
そんな呑気なお昼休みを過ごしながらも、朱音の頭の片隅にあるのは黒幕の存在だ。
お弁当を食べ終えた朱音は、同じくご馳走様をするクロのお弁当箱も回収しつつ、その重たい口を開いた。
「あのね、クロ」
「うん?」
「今日の放課後……黒幕を追い詰めてみようと思うの」
朱音の横顔は決意に満ちていた。
そんな朱音を、クロは真面目な表情で見詰めていた。
「理事長先生たちにはもう話してあるの。ただ、最後まで自分の力で解決したいって言ったら、サポートするよ、って。だから蒼亥にも協力を頼んで、放課後に……」
そこまで言って、自分の手が震えていることに気が付いた。
あの人に黒幕だと突きつけることが恐くてたまらなかった。
そんなことはないと信じたい気持ちと、白竜のアドバイスに沿うならどう考えてもあの人に怪しいところがありすぎるという気持ち。
朱音は一晩かけて覚悟を決めたが、それでも迷いが全く無いわけではなかった。
「……朱音」
そんな朱音の手に、クロは優しく触れる。
「こういう時、何て声をかければいいのかオレにはよくわからないけど……どんな朱音であろうと、オレは愛しているからね」
「……そっか、ありがとう」
クロなりの労わりに、朱音は微笑を返す。
「クロ……放課後、もしも『狐』が出たらその時はお願いね」
「もちろん」
そうしていくつかの授業を終え、ついにその時がやってきた。
放課後。校舎にはまばらに生徒が残っている。
そんな中、朱音が職員室へ入ると、残っている先生もほとんどいなかった。
だがそこに斎藤先生の姿があり、朱音は意を決して彼の元へと近付いた。
「斎藤先生」
「おお、どうした?」
採点を切り上げ、斎藤は朱音の方を向く。
「あの……一連の騒動の犯人がわかったんです」
「なに……?」
「轟先生が犯人だったんです」
「なっ……」
予想外の言葉だったのか、斎藤は目を見開き、一度辺りを見回した。
他に数名の教師の姿があり、斎藤は悩んだ末に立ち上がった。
「場所を移そうか」
「はい」
斎藤に誘導されるまま、近くの会議室へと朱音は連れていかれる。
部屋に入ると、しばし二人は無言だった。
先に口を開いたのは斎藤の方だ。
「一連の騒動ってのは、『狐の呪い』の話だよな?」
「そうです」
「犯人がわかった、って……三条の他に、ってことか?」
「はい」
「それが轟先生だっていうのか?」
斎藤はまだ疑っているようだった。
だが、朱音は真っ直ぐと斎藤を見つめて話し始めた。
「この間、夜間の学校で襲われた時、『狐』が撤退してから轟先生は現れたんです。タイミングが良すぎると思いませんか?」
「そうは言ってもな……あの日は轟先生はたまたま居残りなさってたんだ。それだけで疑うのはよくないぞ」
「でも、その前にも私に何か探りを入れようと質問をしてきた時もありました。わざわざ荷物を運ばせて。そんなことをするってことは、犯人として何か私から情報を聞き出そうとしてたんだと思います」
「うーむ。そうは言ってもなぁ……」
決め手に欠けると感じているのか、斎藤は腕を組んで唸るように首を傾げた。
そこに、朱音は追い打ちをかける。
「それに犯人がわかる証拠を掴んだんです」
その言葉に斎藤の顔付きが変わった。
「証拠……?」
「はい。まだ検証中で轟先生だと判明してませんが、今日この後、これを蒼亥の『狗』に確かめてもらうつもりなんです」
そう言って朱音は、鞄から小さな布切れの入った透明な袋を取り出した。
「それは……?」
「犯人が現場に残したと思われる布です。これを蒼亥の使役する『狗』にニオイを確かめてもらえば、きっと轟先生のニオイが出るはずです」
「……なるほど」
驚いたような納得したような、そんな表情を斎藤は浮かべた。
「ところで鬼ヶ華。あの忌神はどうしたんだ? 今日は一緒じゃないのか?」
「クロですか? クロなら今は、理事長先生のところに行ってもらってます。轟先生が犯人だと思うって、伝えてもらってるんです」
「そうか」
「でも轟先生が犯人だなんて……本当は私まだ、信じたくないです……」
悲しげな表情を浮かべながら、朱音は鞄へと証拠品を戻すために斎藤へと背を向ける。
窓からは夕暮れが綺麗なほどに映っていた。
そして同時に、朱音の背後から襲い掛かろうとする斎藤の姿もまた、窓に反射し映り込んでいた。
しかし。
「ぐあっ!」
悲鳴を上げたのは斎藤の方だった。
斎藤の振り上げた腕には蒼亥の『狗』が噛み付いており、斎藤が後退するのを見て噛み付くのをやめていた。
噛まれた腕を抑えながら斎藤が顔を上げると、いつの間にか蒼亥の姿が室内にあった。
蒼亥はこれ以上無いほど冷ややかな視線を斎藤に向けている。
「なっ……何をするんだ鬼ヶ華! これは何の真似だ」
「それは斎藤先生、貴方の方ですよ」
蒼亥は『狗』の殺意を斎藤に向けたまま冷たい声でそう言い放つ。
そして。
「……斎藤先生」
先程よりも悲しげな顔で、朱音は、一度奥歯を噛み締め、そうして告げた。
「本当は斎藤先生が、一連の騒動の犯人なんですよね?」
◆◇◆
「何を言っているんだ、鬼ヶ華。俺が犯人……?」
斎藤は、落ち着いた様子でそう返した。
先程まで背後から朱音に襲い掛かろうとし、それを蒼亥の『狗』によって止められたにもかかわらず、白を切るつもりのようだ。
朱音は眉根を寄せながら、悲しげに話し始めた。
「斎藤先生は、『狐面』の騒動の全てに駆け付けていましたよね」
「そりゃあおまえらが心配だからな」
「でも、先生は駆け付ける前に起こっていたことを知っていました」
「なに……?」
「まず校舎裏で真衣が襲われていた時、私がクロに抱えられて二階から飛び降りたことを知っていました。あの時はまだ、先生が駆け付ける前だったのに」
「遠くの方からたまたま見えていたんだ」
「じゃあどうして、先日の夜、私がクロに抱えられて屋上までジャンプしたことを知っていたんですか? あの場には『狐面』の結界が張られていて、私たちの他に誰もいなかったのに」
「………」
そこで初めて斎藤は口を閉ざした。
元より、こんな詰め方をしなくても斎藤が犯人である証拠は揃っていた。
先程提示した、現場に残っていた布というのは斎藤のものである。
それだけでなく、蒼亥が調査したところ、『狐面』の出現したどの場所にも斎藤の妖力が残っていた。真衣の妖力よりもずっと濃いものが、だ。
今思えば、一番初めの『狐面』騒動の際、理事長室には斎藤の姿があった。もしかしたら、あの時からすでに理事長先生たちは斎藤を疑っていたのかもしれない。
どちらにせよ、斎藤はこれ以上言い訳を口にする気は無いようだ。
諦めたような、それでいて何か強い思惑を秘めた瞳で俯いていた。
「斎藤先生……どうしてこんなことを」
「どうして? そんなの決まっている。平穏な学園生活を送るためだ」
こんな騒動を起こしておいて、それは矛盾しているのではないかと朱音は思った。
だがそれでも、黙って斎藤の話を聞いた。
「いつだってエリート科の生徒は普通科の生徒を下に見ている。妖力が無い、育ちが悪い、そんな理由で。俺からすればおまえらだって同じガキだっていうのに、何を偉そうにしているんだか」
「………」
「そんな時、三条から相談があったんだ」
「真衣から……?」
思いがけない話の展開に、朱音は目を見開く。
「自分の親友がエリート科の生徒にいじめられている。何とかできないか、ってな。そこで俺は『狐』を使った呪いを思いついたんだよ」
「真衣が……」
真衣の言う親友とは、まぎれもなく朱音のことだ。
ずっと、どうして今回のこの騒動に真衣が関わっているのか気掛かりでしょうがなかった。
しかしこれでわかった。
真衣は朱音が受けるいじめを少しでも無くそうと考え、行動に起こしたのだ。
「『狐』の召喚は俺がした。そして『呪い』を願ったのは三条だ。だから『呪い返し』も三条の方にしかこない」
「っ……」
「教師としてそれはどうなんです?」
それまで黙っていた蒼亥が、聞くに堪えないと言いたげにそう口にした。
だが、斎藤はそれを無視し、朱音に笑ってみせる。
「それで?」
「え……」
「それで、どうする? 確かに『狐』の召喚は俺がしたが、俺は何も願っていない。『呪い』を願ったのは三条だ。俺は何もしていない」
「何を言って……」
「俺はナイフを買っただけ。そのナイフをどう使ったのかは三条の仕業だ。俺には関係無い」
まさか、そんな開き直りを見せるとは思ってもみなかった。
少なくとも朱音も蒼亥も、斎藤のことは教師として尊敬する面があった。
それなのにこんな態度を見せられ、何か大きなものに裏切られるような気持ちに陥った。
「先生! 真衣が『呪い返し』で危ない状態なんです! 先生の力で『狐』を消して下さい!」
「知らんな。『狐』は『呪い』と化して三条の指揮下になっている。三条が『呪い』を解かない限り無理なんじゃないか?」
真衣が意識不明の重体であることを知っていて、斎藤はそう言い放った。
許せないという気持ちが朱音の心の底から湧き上がる。
どんな理由であれ、真衣は『呪い返し』という責任を取っている。
なのに斎藤は、『呪い』の全ての責任を真衣に押し付けているのだ。
悔しさから、朱音は唇を噛み締めた。
その時。
「朱音にとって彼は厄災?」
不意に、澄んだ声が耳朶を震わせた。
朱音と斎藤の間に、闇が……闇の塊が生まれた。
闇色に反した真っ白な肌。薄紅色の唇をニンマリと持ち上げ、血のように赤い瞳を細めている。
忌神クロが、そこに居た。
彼は虚ろな目付きで斎藤を見ると、次に朱音の方へ視線をやった。
口元は笑っていても、いつものふざけた様子は一切無い。
「ねえ朱音。彼は朱音にとって厄災?」
同じ質問をされた。
朱音はクロと斎藤を交互に見る。
思い描いたのは真衣のこと。
真衣は、朱音のために『呪い』を行使することを決めた。
ならば朱音の答えは決まっていた。
「うん。私にとって厄災だよ」
瞬間、クロの背中から大きな腕が生え、斎藤の頭をガッシリと掴んだ。
「うぐっ、あ……うあぁ!」
何かオーラのようなものが、ベリベリと剥がされていくのが見える。
しばらくしてその塊が、あの『狐面』であることに気が付いた。
「朱音の厄災はオレだけでいいんだ。オレ以外の厄災は一つもいらない」
「やめろ……やめろぉお……っ」
「おまえという厄災は消させてもらう」
「うあああああああああああ!」
悲鳴というよりは絶叫だった。
苦しむ斎藤など気にもせず、クロは容赦無く闇色の手で斎藤にまとわりつくオーラを……『狐面』を剥ぎ取った。
『グギッ、ギ、ギィイイ』
「さようなら」
『ギッ、ギャアアアアア!』
つんざく獣の悲鳴が響き、朱音は覆わず耳を塞いだ。
クロの闇色の手に掴まれた『狐面』は抵抗を見せるも意味は無く、しばらくもがいてはいたものの、闇色の手が力を込めた途端に弾けるように霧散してしまった。
「あ……あ……」
そして遅れて、斎藤が白目を剥いて倒れこんだ。
「……おい。大丈夫なのか?」
斎藤に駆け寄り、様子を見ながら蒼亥がクロに向けてそう訊ねた。
クロは無視しようとしていたが、朱音からの視線に気付き仕方なく答える。
「命には別条は無いでしょ。ただし『狐』ごと妖力を剥いだから、その辺りはどうなっているかわからないけど」
あまりにも恐ろしいことを軽い口調で言ってくれる。
仰向けになって気絶する斎藤に、今しがた消え去った騒動の大元となる『狐面』。
これを願ったのは自分自身だと、朱音はごくりと息を呑んだ。
「そんなに気にしなくていいんじゃない? それとも、もっと消してほしい厄災があるのかな?」
誘うようにクロが耳元で囁いてきて、朱音は驚きながら数歩後退した。
「そっ、そんなんじゃないよ……」
そうは言いつつも、クロの言う通り朱音は斎藤に対し何も思わないわけにはいかなかった。
本当に、知る限りでは良い先生だったのだ。
生徒思いで、何かと頼れる先生だった……けれど、だからこそエリート科の生徒と普通科の生徒の確執に思うところがあったのかもしれない。
理事長先生たちなら、もっと上手く斎藤先生の気持ちに寄り添うことができただろうか。
真衣のことで頭に来てしまったが、果たしてクロに任せたこの判断は正しかったのだろうか。
様々な思いが、考えが、朱音の中を駆け巡った。
そうして出てきたのは、言葉ではなく涙だった。
「っ……」
ボロボロと、大粒の涙がこぼれ始める。
ようやく騒動を解決できた涙であり、自分自身の未熟さを感じる涙でもあった。
簡単には形容できない涙を零し続ける朱音を、クロはそっと抱き締める。
「泣かないで、朱音」
「無理ぃ……」
「じゃあオレが泣き顔を隠してあげるね」
朱音をすっぽりと覆い隠し、クロは愛おしそうに朱音を抱き締める。
かくして、『狐面』の騒動は幕を下ろしたのであった。
◆◇◆
「真衣……真衣!」
「ん……朱音?」
「真衣……良かった……」
病室で真衣の手を握ったまま、朱音は涙目で安堵した。
ベッドに横たわった真衣は、しばらく茫然としていたが、少しずつ自分が何故ここにいるのか理解していき、その表情を変えた。
「朱音……私、私が……」
「わかってる。それが正しいことだとは言えないけど、真衣が私のことを思ってやったことなのはわかってる」
「そっか……。ごめん、こんなことになって」
「ホントだよ。真衣の馬鹿……死んじゃうかもしれなかったんだから……っ」
朱音は涙を拭いながら、弱々しく真衣を叱責する。
真衣は苦笑しながら、朱音の手を握り返した。
「それじゃあ、斎藤先生のことも知ってる……?」
「うん」
朱音の返答に、真衣は目をつぶる。
「……斎藤先生、言ってたんだ。一部のエリート科の普通科に対する態度が許せないって。それを聞いたら私、真っ先に朱音に対する鬼ヶ華さんのこと思い出しちゃって。それに私自身も、エリート科の人に目を付けられてた。だから先生の計画に乗ったの。『呪い』を行使すればどうなるかわかっていながら、乗ったの」
「うん」
「でも『呪い』なんかに頼って朱音を助けようだなんて、もうそこで全部間違ってた。だけど斎藤先生は本気で普通科の生徒のことを思ってて、それが伝わったから……。だから今回のことは、全部自分の意思でしたことなの。斎藤先生は何も悪くない」
「………」
真衣は涙を溢れさせながらそう言い切った。
確かに真衣には真衣の責任がある。だからその罪を、『呪い返し』というカタチで受けたとも言えた。
だが、真衣が斎藤を庇っている姿は見ていて痛々しかった。斎藤は少しも真衣を庇おうとしていなかったからだ。
そしてそのことは伝えないべきだろうと、朱音はグッと言葉を飲み込んだ。
「理事長先生たちがね、今回のことで真衣はこれ以上罪に問わないって言ってた」
「え、どうして……」
「まず『呪い返し』が十分な罰であったこと。そして、一部のエリート科の普通科に対する所業に目を配れていなかったのは学校側の責任であり、今回の件が今後の抑止力に繋がるってことから、真衣へのお咎めはこれ以上は無しなんだって」
「……いいのかな」
「いいんだよ。理事長先生たちがそう決めてくれたんだもん」
「……うん」
再び泣き出した真衣を、朱音はそっと見守る。
ちなみに斎藤の方はしっかりとした罪に問われることとなった。
責任能力のある大人が、生徒をたぶらかすような真似をした上に、全ての責任を真衣に押し付けようとしたためだ。
どんなカタチであれ、生徒思いでなあの斎藤ともう会えなくなるのだと思うと、何とも言えない気持ちになった。
「朱音……」
「ん?」
「ごめんなさい。こんなことをしたのも、朱音だけじゃなく蒼亥くんも巻き込んでしまったことも。全部全部、本当に……ごめんなさい」
「うん」
変に慰めの言葉は用意しなかった。
代わりに、いつものような話題を提供する。
「そーいえばあの『あやかし相談所』に行ってみたんだけどさ」
「えっ、あの『あやかし相談所』に?」
涙目だった真衣が、いつもの調子で食いついてきて朱音は安心する。
「どうだった……?」
「白竜さんっていう『龍』がいたの」
「へえ~。『龍』が経営してたんだ」
「でね、白竜さん、登場する時に演出があったり、所々決めポーズしたりでぶっちゃけちょっと変わった人だったんだよね」
「えぇ~何それ。『龍』ってちょっと気難しめの人が多かったイメージ」
「白竜さんはどっちかというと真逆って感じだったね。よければ今度一緒に行こうよ。今回の件ですごーく力になってくれたし」
「……いいのかな、私が行っても?」
「いいんだよ。むしろ事件解決のお礼を言いに行こうよ。白竜さんもきっと喜ぶ」
「うん……そうする」
病室には二人の明るい声が飛び交った。
ここのところずっと気が張り詰めていた二人が、ようやくこれまでのように笑い合えている。
そんな優しい光景を眺めながら、蒼亥はそっと病室に入っていった。
「お話中ごめん。真衣さん、調子はどう?」
突然現れた蒼亥を見て、真衣はピシッという音が聞こえてくるかというぐらいガッチガチに固まっていた。
若干、顔も赤く染まっている。
「蒼亥、来てたんだ」
「俺も真衣さんが心配だったし」
「えっ、あ、し、心配ってそんな……わた、私の方こそたくさん迷惑かけて、ごめんなさいっ!」
蒼亥の言葉で我に返ったのか、真衣は声を裏返しながら言った。
「そんなに謝らなくて大丈夫ですよ。きっと姉さんに対してたくさん謝ったと思いますし。むしろ俺も『狗』の扱いがまだまだ未熟で、屋上では上手く助けられなくてすみません」
「あ、蒼亥くんが謝る必要なんてほんと……げほっげほっ」
「あーもう、無理しないで真衣」
「ご、ごめん」
真衣は昔から蒼亥に対して憧れのようなものを持っているのは知っていた。
それが恋愛感情に繋がっているのかはわからないが、少なくともこんな調子になるぐらいには、蒼亥のことを強く意識している。
当の蒼亥といえば真衣を気遣い、近くにあった水差しから水を入れ、冷静にコップを渡してあげていた。
「ふう……ごめんなさい本当に。蒼亥くんも、改めてありがとう」
「思ったより元気そうで安心しました。学園に戻って、また姉さんと仲良くしている姿を早く見たいです」
「うん」
蒼亥からの言葉に、少しだけ涙をため、真衣は一つ頷いた。
「姉さん、そろそろ鬼ヶ華の方に戻らないと。今回のことで椿姫さんがピリピリしてるし」
「そっか」
なんだかんだ椿姫も今回の件に巻き込まれた側だ。
しかし真衣が願ったように、あれ以来、椿姫は本当に朱音を使用人扱いしなくなった。
もちろんそれは『呪い』よりも恐ろしいクロの存在あってこそだが。
それに、実のところ今回のことで一部のエリート科が大人しくなっていた。
実際に『狐面の呪い』に出くわしたエリート科の生徒による話がどんどん誇張されていき、今では普通科の生徒をいじめると呪われる、なんて話にまで繋がっているそうだ。
理事長先生たちはあえてその噂話を否定しないでいる。
だから本当にもう、真衣が心配するようなことは無くなったのだ。
「それじゃあ真衣、私たちもう行くね」
「うん。本当にごめ……」
「ごめんなさいじゃなくてありがとうって言ってほしいな」
「……うん、ありがとう」
もう一度だけ二人は、ギュッと手を握り合った。
そうして涙でくしゃくしゃになりながらも笑顔を浮かべた真衣に見送られ、朱音と蒼亥は病室を後にするのだった。
「なんだかんだ大丈夫そうで安心した」
帰路につきながら、蒼亥は隣を歩く朱音の方を伺いながらそう告げる。
蒼亥の心配は、もちろん真衣に対してもあったが、それ以上に朱音の方に向いていた。
友人が一連の騒動に関わっていたことで胸を痛めていないか、気掛かりで仕方なかったのだ。
だが、病室でのやり取りを見るに大丈夫そうだと判断したからこそ、蒼亥はそう口にしたのだった。
「そうだね。私も真衣が起きるまでは色々なことを考えていたんだけど……実際に目覚めた真衣を見たら、自然と話すことができた」
「なら良かった」
ニッコリと微笑む蒼亥の姿は実に絵になり、こんなところを学園の人や真衣が見たら黄色い悲鳴が上がりそうだと朱音は思った。
と、そこで朱音は思い出したように蒼亥の方を向く。
「蒼亥、付き合ってくれて悪いんだけど、私ちょっと寄る所あるんだ」
「そうなの? じゃあ先に戻ってるよ」
「うん、ありがとう」
そうして蒼亥は去ろうとしたが、その足を止めて振り返る。
「姉さん」
「ん?」
「あんまりあの『忌神』に気を許しちゃ駄目だからね」
「あはは……りょーかいしました」
やはり蒼亥は鋭いなと思いながら、朱音は蒼亥の姿が完全に見えなくなったところで声をかける。
「……クロ」
途端に、朱音の影が膨れ上がり、そこから溢れた闇が人のカタチを成していく。
その美貌に薄ら笑いを浮かべながら、クロは朱音を見下ろしていた。
「なぁに?」
「ん……影の中に潜んでいてくれてありがとう」
朱音は、クロがずっと傍にいることに気付いていた。
それでもクロは気を利かせたのか、病室ではその姿を表に出すことがなかったのだ。
「べつに。オレは朱音にしか興味が無いだけだよ」
照れ臭さではなく本心からそう言っているものだから、朱音は苦笑を浮かべた。
そんな朱音を、クロはジッと見つめている。
「でも今回のことは……たくさんクロにお礼しなきゃだね。クロがいなかったら、真衣を救うことも、犯人から守ってもらうこともできなかったもの」
「………」
「クロ、本当にありがとう」
朱音は、心からの感謝と共に、柔らかな矢顔をクロに向けた。
しばし、クロは何かを考えているように固まっていた。
そしてようやく動き出したクロは、その真っ白な手を朱音の頬に優しく添える。
「ねえ朱音」
「何?」
「キスしたい」
「えっ?」
予想外の言葉に、朱音は一瞬思考停止する。
冗談か何かかと思いたかったが、クロの目は真剣だし、そもそもクロは冗談を言うような性格ではない。
「そんな、何をいきなり……っ」
「なんだろ。そういう気分っていうか、今の朱音、いつも以上に可愛くてしたくなってっていうか」
軽薄な口調ではあるが、クロの手は妖しげに朱音の頬をなぞる。
官能的なその仕草に、朱音は真っ赤になった。
「で、でもそんなこと言われても……っ」
「じゃあ今回のお礼としてでいいよ。それなら大義名分が付くでしょ?」
「そ、それは……」
確かに今回、クロの活躍無くして解決は見込めなかった。
そのことを誰よりも実感している朱音は、『お礼』としてクロに何か返そうと考えていた。
だがまさか先手を取られ、しかもキスをねだられるとは思ってもおらず、なんて返答していいのかわからなくなる。
「朱音……」
そんな朱音の胸中を察しているように、クロは迷いの無い口調でその名を口にする。
何も不安がることはないと、その赤い瞳が語っていた。
「前みたいに奪うようなキスじゃなくて、ちゃんとしたキスを……しよう?」
「く、クロ……」
「朱音、オレの朱音……愛してる」
呪いのような愛の言葉。
その言葉と共に、朱音はクロからゆっくりと口付けられた。
「ん、ぅ……」
以前の時とは異なる、お互いの唇をしっかりと感じるキス。
クロの唇はとても冷たいのに、朱音の体温はどんどん上昇していった。
しばらくそうしていた二人だったが、クロが朱音の唇を甘噛みし、ゆっくりとクロの方から離れていく。
「これ以上は、オレの方が我慢できなくなるなぁ」
「我慢って?」
「キス以上のことしたくなる、ってこと」
「んなっ……」
「あはは。朱音、顔真っ赤だ」
「もう! からかわないで!」
「からかってなんてないよ」
クロは、ゆらりと動き、朱音を背後から抱きしめる。
「オレはいつだって朱音の全てが欲しいんだよ。オレを助けてくれたあの時から、オレは朱音のモノだし、朱音もオレのものなんだから」
絶対的なルールを口にするように、クロは真っ直ぐとした口調でそう語りかける。
何よりも誰よりも恐ろしい『忌神』。
何の因果かそんな『忌神』に見初められた朱音。
両者は、不思議なバランスでもってお互いの関係を成り立たせていた。
「クロのモノになりはしないけど……これからもたまに助けてくれたら嬉しいな」
「朱音が望むならいくらでも助けるよ」
二人は顔を合わせ、同じタイミングで笑った。
そうして帰路につく二人の影は、お互いの関係を暗示するように重なっていたのだった。
【END】