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【第五章】

「んぅ……?」

 ぼんやりとした思考が徐々にクリアになっていく。

 気付くと朱音は、レッドベルベッドで仕立てられたロココ調の一人掛けソファに座っていた。

 いつまでもここで惰眠を貪っていたいという心地良さを打ち払いながら目を開けると、ガラステーブルを挟んだ向かいに同じソファの三人掛けタイプが置かれている。

 その中央に、一人の少年が座っていた。

 水干(すいかん)という平安時代の男児のような装束を身にまとい、前のめりになって朱音を見つめる青黒い髪の少年の頭頂部には、小さな角がちょこんと生えている。

「起きましたか?」

 少年にそう問われ、朱音は頭を抱えながら姿勢を正した。

「ここ……クロの屋敷?」

「正解で御座います」

「……あなたは?」

「申し遅れました。忌神様に仕える邪鬼の遊鬼(ゆうき)と申します」

 ぴょこんっとソファから下り、ぺこりと頭を下げた彼……遊鬼は、その大きな瞳をキラキラと輝かせて朱音を見つめている。

「今すぐに忌神様を呼んできますので、お嫁様はこちらで少々お待ちください」

「お、お嫁様?」

 驚きと訂正したい気持ちとで思わず声が出たが、遊鬼はそんな朱音を気にも留めず、ニコニコと笑顔のまま縁側を伝って何処かへ行ってしまった。

 以前クロは、自分に仕えたいという者が屋敷にいると言っていたが、たぶん遊鬼はその一人なのだろう。

 自己紹介とあの角からして『鬼』のあやかしなのがわかる。

「クロ……またいきなり私をこの屋敷に連れてきたんだ……」

 今頃、残された蒼亥が心配しているに違いない。

 だが自分一人ではどうやって此処から帰ればいいのかわからない。

 まさに『神隠し』にあっている状態なのだ。

「……真衣」

 此処から帰ることは一旦隅に置き、朱音は真衣のことを思い浮かべた。

 まさか右腕の包帯の理由が、『呪い返し』によるものだったなんて。

 そしてその証明のように、屋上では右腕に狐面と同じ炎が宿り、全身へと燃え移っていた。

 もしもあの時クロがいなかったら……そう思うとあまりにも恐ろしく、そしてクロに改めて感謝を述べなければならないと感じた。

「ん……?」

 不意に、朱音は誰かから見られているという視線を感じた。

 その視線を辿ってみると、少しだけ開かれた扉の隙間に誰かが立ち、こちらを見ているではないか。

「え、えっと……」

 バッチリ目が合ってしまったため誤魔化すこともできず、朱音は引き攣った顔のままそちらを向いた。

 しばし沈黙。

 観念したのか意を決したのか、扉がゆっくりと開かれる。

 そこに立っていたのは陰のある青年だった。

 暗い紫色の前髪で右目の隠れたその青年は、視線を泳がせながらも朱音の前に立ち、一礼する。

「……どうも。紫龍(しりゅう)と申します」

 なんとか聞き取れるぐらいの声量だった。

 彼もおそらく、クロに仕える者の一人ということだろうか。

 一応朱音も挨拶をすると、紫龍はその不健康な色の肌をわかりやすく赤くさせ、もじもじと胸の前で指を絡める。

「私に挨拶までしてくださるなんて……花嫁様は想像以上にお優しい方だったんですね」

「は、花嫁様っ?」

 さっきの『お嫁様』と同じように驚きと訂正したい気持ちで声を上げたが、紫龍の耳には全く届いていないようだった。

「素敵な方です。もしも忌神様の花嫁様でなかったら、私はきっと……」



「きっと、何?」



 ひんやりとした声音は縁側の方からやって来た。

 星空色のケープを夜風に舞わせ、陶器のように白い肌に漆黒色の着物をまとわせた男がそこに一人。

「忌神様……」

 紫龍が恍惚とした表情で呟いた通り、忌神クロがそこに立っていた。

 クロは鋭い眼差しを紫龍へと向けていたが、朱音からの視線に気付くとすぐに柔和な笑顔を見せる。

「起きたんだね、朱音。よく眠れた?」

「まあまあ」

「もっと寝てても良かったのに」

 ふわり、と。

 舞うような所作で縁側から中に入り、音も無く朱音の前に立ったクロは、愛おしそうにその頬を撫でる。

 そんな彼を追うように、縁側からはひょっこりと遊鬼の姿があった。

「クロ、彼らは……」

「ああ。なんか勝手に仕えてるあやかしたち」

 朱音の関心が自分に無いことが嫌なのか、実に適当に遊鬼と紫龍についてクロはそう説明した。

 それに対して嫌な反応どころか嬉しそうな反応を見せている遊鬼と紫龍は、それぞれ礼をするや否や、二人のお邪魔をしないよう部屋からそっと出て行ってしまう。

「朱音。あいつらのことはいいでしょ?」

 腰に手を添え、ワルツでも踊るような軽やかな足取りで、クロは三人掛けのソファへ朱音を誘導する。

 互いに見詰め合うように腰掛け、クロは微笑する。

「やっぱり朱音にはずっと此処に居てほしいなぁ。誰の目にも届かない、この屋敷に、ずっと」

 薄ら恐ろしいことを口にするクロに、朱音は苦笑いを見せる。

「クロ。真衣のことなんだけど……」

「うん?」

 また第三者の名が出てクロはやや口を尖らせた。

「屋上であの子を助けてくれてありがとう」

 だが朱音から感謝を述べられ、クロはすぐに機嫌を取り戻す。

 クロは優しく朱音の頭を撫で、そのまま髪の毛を指先に絡めて遊ぶ。

「朱音の頼みだからね。しかも有償だし」

 ニンマリと口角を上げるクロに、朱音は頬を引き攣らせた。

 確かに朱音はあの時クロと約束を交わした。

 真衣を助ける代わりに、口付けをする、という約束を。

「やっぱり覚えてたか……」

「朱音とのことなら忘れないよ」

 恐らく本心であろうクロのその言葉に、朱音はますます頬を引き攣らせる。

「………」

 改めて、朱音はクロを見た。

 ウェーブのかかったフワフワの長い黒髪。白い肌の上に影を作る長い睫毛を従えた赤い瞳。陶器で造られた美術品のように整ったその顔立ちは、文字通り人間離れした美しさがあった。

 言動はもちろんだが、見た目だけでも十分に人外である。

 これまで誰かと口付けなどしたことのない朱音は、今からこんな美しさと恐ろしさを持った男と口付けするのかと思うと、今にも恥ずかしさで卒倒してしまいそうだった。

 と、そこで朱音は名案を思いつく。

「……じゃあクロ。口付けするから、目をつむってほしいの」

「えー」

「そこは妥協してよ」

「可愛い朱音の頼みだからね。いいよ」

 どこまでも機嫌の良いクロは、微笑と共に目をつむった。

「………」

 目をつむり、月光に照らされたクロのその顔は、どこか神聖だった。

「んっ!」

 そんなクロのほっぺに……そう頬に、朱音はチュッと口付ける。

「……え」

 目を開けたクロは、珍しくキョトンとした表情を浮かべていた。

「はい、口付けた!」

「え?」

「ば、場所の指定は無かったし! それに言っておくけど、ほっぺにだって凄く恥ずかしいんだからね!」

「えぇ~?」

 忌神とは思えないほど残念そうな表情を浮かべ、クロはジト目で朱音を見つめる。

 朱音は顔を赤くしつつ、クロからの視線に負けないよう必死だった。

 しばらくクロは納得いかなそうにしていたが、不意にその顔に微笑を浮かべて改めて朱音の方を向く。

「……でも、しょうがないか。朱音はつまり、唇に口付けたこと無いってことだよね?」

「そうだよ。悪かったね」

「悪くないよぉ。オレ以外の誰かと口付けてたら、とっくにそいつの存在を消してたところだし」

「恐いこと言わないでってば」

「あはは。でもだからさ……」

「ん?」

 朱音が気付いた時にはもう遅かった。

 クロが手ほどきするままに、朱音はソファの背もたれに上半身をしっかりと抑えつけられる。

 そして真正面には、作り物のように美しいクロの顔。

「オレが教えてあげる」

「は?」

「全部」

「え?」

 優しく告げられたと同時に、唇に、柔らかいものが当たる。

 月明かりに照らされながら、朱音はクロから優しく口付けられていた。

「……はい、おしまい」

 そっとクロは距離を取る。

 その目はまだ物足りなそうではあるが、それ以上をするとさすがに朱音が怒るだろうと見極め、ここまでにしておく。

 一方、朱音はポカンと口を半開きにしたまま固まっていた。

 ヒラヒラと目の前でクロが手を振って、ようやく魂が戻ってきたかのように動き出した。

「く、クロ……今……」

「うん。キスしたけどどうしたの?」

「どうしたのじゃないよ! な、な、な、一体何をッ!」

「あはは、落ち着いて落ち着いて。慌ててる朱音も可愛いなぁ」

「ふざけないでよ! 一体何考えて……」

「ふざけてないよ」

 パニックになりかける朱音の手を取り、その甲に口付けながらクロは告げる。

「ふざけてなんかない。ずっと……会えなかった十年間、ずっと朱音のことだけを考えてた」

「………」

「本当にね、無理矢理にでも朱音をこの屋敷に閉じ込めて、オレと二人きりで永遠にここで暮らしたいぐらいなんだ。でもそれをしないのは朱音に嫌われたくないから」

「クロ……」

「朱音がこの先、友人や知り合いを作るのも黙って見てる。だけど、できるだけ朱音の『初めて』はオレのモノにしたいんだ」

「だ、だからっていきなり……」

「いきなりじゃなきゃ、イイ?」

 美しく顔の整った男が……神様が、上目遣いでそんなことを問うてくる。

 そんなの反則じゃないかと朱音は心の中で悔しくなった。

「朱音は、オレのこと嫌い?」

「……嫌いじゃないよ」

「じゃあ好き?」

「好きか嫌いかの二択なら好きだよ。でもクロが私に向けているほどの好きかというと、それはちょっと違うと思う」

「それでも朱音からの好意は凄く嬉しいよ」

 嬉しそうにそう告げたかと思うと、流れるような動作でクロもまた、先程の朱音と同じように頬へ口付ける。

「ちょっ!」

「ふふふ、隙アリ」

 暴れそうになる朱音の両手を取り、クロはどちらも恋人繋ぎにして動きを封じてしまう。

 文字通りどこまでもクロの手の平の上で嫌になると、朱音は口をへの字に曲げた。

「朱音、怒らないでよ。代わりにいいこと教えてあげるから」

「どーせたいしたことじゃないんでしょ」

「どうかな。朱音のお友達の話だけど」

 そこで朱音の表情が変わる。

「真衣の……?」

「そう」

「なに? 真衣がどうしたの?」

 今度は朱音の方からクロへと詰め寄る。

 クロは嬉しそうに笑った。

「今回の『呪い』は、他に黒幕がいると思うんだよね」

「他に黒幕って……どういうこと?」

 予想していなかった言葉に、朱音はクロへと詰め寄った。

「そのままの意味だよ。朱音の友達だけが犯人じゃないと思うってこと」

「どうしてそんなことがわかるの……」

「単純に、妖力の量かな」

「妖力の量?」

 朱音はやや気まずそうな表情を浮かべた。

 何故なら朱音は妖力を全く持ち合わせていないので、この手の話になるとついていけなかったり、話の蚊帳の外になったりすることが多いからだ。

 だが、クロはそれを見越していたのか、なだめるように朱音の頭を撫でながら話し始めた。

「あの『呪い』は『狐』によるものだけど、そうなると犯人はそれに相当する妖力を持っていなければ『狐』が言う事を聞く筈もない。一部例外は除くけど」

 一部例外とは、まさにクロと朱音のような関係……つまり個人的にあやかしが相手の人間を気に入り、手助けをする、ということだ。

 しかしこの手のパターンは滅多に無いのと、実際に『狐』は容赦無く真衣に『呪い返し』を喰らわせていたため、その線は無いだろうと推測した。

「あの学園って、持ってる妖力の量でエリート科と普通科を分けてるんでしょ?」

「う、うん」

「もしも朱音の友達が『狐』を扱えるほどの妖力を持っているなら、エリート科に行ってるんじゃないの?」

「あっ……」

 言われてみればその通りだった。

『狐』を扱えるということは、例えるなら蒼亥ぐらい妖力を持っているということになる。もし真衣にそれほどの妖力があれば、今頃蒼亥と一緒にエリート科に通っていただろう。

「誰かと一緒に『呪い』を実行してる……? それとも、誰かに騙されて……? ううう、考えてもわかんないことばっか」

 そう。全ては気を失ってしまった真衣が目覚めるのを待ち、何があったのか……そして狐面の『呪い』とどう関わっているのか訊かなければわからないことばかりだ。

 苦悩する朱音に反し、クロはニコニコと笑みを浮かべながらやはりその彼女の頭を撫でている。

 と、その時。

 部屋に響く着信音。

 朱音は慌てて通話ボタンを押し、一方のクロは二人の時間を邪魔されたことに不満げだった。

「も、もしもし椿姫さん?」

 着信は椿姫からだったこともあり、余計に朱音は慌てた。

 使用人扱いは無くなったとはいえ、長年染み付いた習性である。

『単刀直入に聞くわ。蒼亥さんはどうしたの?』

「……えっ?」

 突きつけられた椿姫からの本題に、朱音は一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「え、あの……蒼亥がどうかしたんですか?」

『それを聞きたいのはこちらの方よ! 蒼亥さんがまだ帰って来てないのよッ? 貴女が帰って来ようが来まいがどうでもいいけど蒼亥さんは別よ!』

 放課後に屋上でひと悶着があり、そしてこのクロの屋敷で目を覚ました。

 この部屋に時計は置かれていないため、朱音がクロの方を向くと、クロは指で『七』を示す。だいたい今、夜の七時ということだろう。

 基本的に蒼亥は部活に属さず、真っ直ぐ鬼ヶ華家に帰宅することが多い。もし放課後に用事があったとしてもそこまで遅くはならないし、そもそもその場合は必ず当主である椿姫に一報入れるわけである。

 連絡も無く夜の七時を回っても帰ってこない蒼亥に、椿姫は業を煮やして直々に朱音へと電話をかけたという流れだろう。

「蒼亥……まだ帰って来てないんですか……?」

『だからそう言ったでしょ! 何? 貴女も行方を知らないの?』

「は、はい……」

『あっそ。だったらこの電話も無駄ね。切るわ』

 やや言葉に被りながら、何の余韻も残さずブツリと電話は切れた。

 使用人扱いを無くしたのはあくまで忌神クロの威光があったからだ。椿姫は今も朱音を良く思っていないようだった。

 だが、今はそんなことどうでもいい。

「蒼亥……」

 呟いて浮かぶその姿は、あの屋上で、保健室に運ぶために真衣を負ぶっていた姿だ。

「まさかあの後、何かあったんじゃ……」

 クロの力で一時的に狐面の『呪い返し』を払ったとはいえ、元となる『呪い』についてはまだ解決していない。

 朱音は急いで蒼亥へと連絡してみたが、やはり応答は無かった。

「どうしよう……蒼亥……っ」

 あの時、軽率に真衣を頼んでしまったことを朱音は悔いた。

 自分自身を責めるように、朱音は自分の爪が当たっていることも気にせず強く拳を握った。

「朱音……」

 だが、その拳はそっと開かされる。

 恋人のように手を絡め、クロが、その赤い瞳を朱音へと向ける。

「朱音が弟くんのことで手をダメにするのは嫌だなぁ」

「そんなこと言ったって……」

「弟くんがそこに居るかは知らないけど、あの『呪い』が今どの辺りにあるかはわかるよ」

「えッ!」

 食いついてきた朱音に対し、クロは嬉しそうに笑う。

「連れて行ってあげようか」

「そりゃ……いやでも、次はどんな対価が必要なの……?」

「これぐらいのこと、対価なんていらないよ。オレは朱音を愛してるんだから」

「………」

 朱音は、自分に妖力が無いからこそ、対価について忘れてはいけないと、クロと出会ってから強く感じていた。

 妖力は、あやかしに何かしてもらうための対価である。つまり、人間でいうお金と同じようなものだ。

 それなのにクロは、その対価を『好意』で『無償』にしようとする。

 タダより高い物はない、ということわざがあるように……理事長先生や蒼亥が警戒をしているように、その『好意』に甘えていたら最後、いつの間にか戻れぬところまでいってしまう気がするのだ。

 それに、あやかしだとか妖力だとか抜きにしても、何でもタダでやってもらうのは朱音にとってどうにも気持ちのいいものではなかった。

 だが、今は一刻を争う時である。

「わかった。後でお礼するから、『呪い』の場所へ連れて行って!」

「え、お礼してくれるの? 何してくれるの?」

「うえっ、えーと……」

 おそらく口付けのことが頭によぎったのだろう。

 顔を赤らめながら慌てる朱音を前に、クロは笑顔を見せた。

「あはは。何してくれるのかなー?」

「う、うるさい! キスはもうしないから!」

「えぇ~。キスがお礼なら、オレなんだってしちゃうよ?」

「しない!」

「ふふふ……」

 とても楽しそうに笑いながら、クロは指先でゆっくりと朱音の頬を撫でる。

 その笑みも仕草も、あまりにも官能的でありながら、クロの瞳はただ一心に朱音だけを見つめていた。

「朱音が望めば、何だってやってあげるのに。対価なんていらないよ。ああ、いや……朱音が元気に生きててはほしいかな。それがオレの傍でだったらもっとイイけど」

「……なんだかんだ対価あるじゃん」

「あはは、そうかもね。でもほら、オレが対価を望もうと望まないと関係ないからさ」

「どういうこと?」

 クロは、笑う。

 それまで見せていた笑みとは違う、歪んだ笑みを、口元に貼り付ける。

「やろうと思えばほとんどのことをオレは叶えられるもん。朱音をこの屋敷に閉じ込めることも……そうだなぁ、催眠術で言うがままにすることもできると思うし」

 冗談めかして言っているが、それはあまりにも恐ろしい内容だ。

 朱音は文字通りクロから目が離せなかった。

 そんな朱音の緊張を感じ取ってか、クロはすぐにまとう気配を緩和させ、ゆるい空気感へと変化させた。

「でも、さっきも言ったけど、朱音に嫌われたくないからしない。嫌われてでもしちゃおうって思ったらするけど」

「やめてよ」

「はぁい。とりあえず朱音が一生懸命考えてくれるお礼を楽しみにしてるね」

 どこまでも一枚上手な気がするクロからの熱い視線を感じながら、朱音は話を戻す。

「そうと決まれば早く行こう」

「そうだねぇ」

「ちなみに何処なの? その『呪い』の気配がするところ、って」

「あの学園」

「え?」

 クロは喋りながら、ヒョイッと朱音をお姫様抱っこした。

「でも結界の中って感じだね」

「結界……?」

 あやかしは現実世界と少しズレた時空を行き来することができるらしい。

 そこを区切ったものを結界と呼び、場合によってはそこに人も入ることが可能だとか。

「なんで結界の中なの?」

「さあ?」

「っていうか、なんでお姫様抱っこしてるのッ?」

「それはオレが朱音といっぱいくっつきたいから」

「ちょっと!」

「ほら行くよ」

 恥ずかしさで暴れようとする朱音を抱き締めながら、クロは自身の影に自分たちを飲み込ませ、転移するのだった。



   ◆◇◆



 水の中から浮上する感覚が終わり、朱音はゆっくりと目を開ける。

 目の前には妖協学園の普通科の校舎があり、自分たちがちょうど門のところに立っていることに気付いた。

 クロが言っていた通り、狐面の張った結界の中にいる所為か、人の気配がまるで無い。

 そもそもこの学園は理事長先生たちによる、部外者を寄せ付けない結界が張られている。そして狐面のあやかしは内部犯の犯行という線が強い。

 なので構造的には今、理事長先生たちの張った結界の、更に内側に張られた狐面の結界の中にいるということになるのだろう。

「真衣と蒼亥の気配はする?」

 朱音は不安げにクロを見上げる。

 夜空からそのまま生まれたかのように闇をまとわせているクロは、朱音に問われ、校舎をなぞるように視線を動かす。

「朱音のお友達の妖力はわからないけど、弟くんの妖力は少しだけ感じ取れるね」

「ホント? 何処にいる?」

「屋上」

 クロの細長い指が上を差す。

 ならば急いで屋上に向かわなければと朱音が駆け出そうとするよりも早く、クロは朱音を抱きかかえる。

「えっ、ちょ、なにっ?」

「屋上に行きたいんでしょ?」

「そ、そ、そうだけど」

「急いでるんでしょ?」

「う、うん、でも」

 言葉はそこで途切れた。

 ふわり、と浮遊感が訪れたと感じた瞬間、視界に映っていた景色が変化した。

 つまり、見慣れた地上ではなく、夜景が一望できるほどの上空に、だ。

「きゃあああああああっ!」

 こんなふうに叫ぶのは何度目だろうか。

 確かに校舎から階段を伝って向かうよりも数倍早いだろうが、それにしたって荒業(あらわざ)すぎると朱音は半泣きでクロにしがみついた。

「ほら、いた」

 クロの言葉に誘われ、何とか顔をそちらに向ける。

 すると、確かに屋上には倒れている真衣と、狐面に首を締められている蒼亥の姿があった。

「真衣! 蒼亥!」

 上空にいる恐さも忘れ、朱音は叫んだ。

 そんな朱音の意思を汲むように、クロはフェンスを越え、狐面に横から蹴りを入れる。

『ギャッ!』

 濁った獣の声が響き渡る。

 蒼亥から離れた狐面は、しかし真衣の方へ近寄り、今度は真衣を抱えた。

「何をする気……っ」

 狐面は真衣を抱えたままクルリと方向転換をし、屋上から繋がる階段を下りていってしまった。

「待って! 真衣!」

「うっ……姉さ……」

 追いかけようとする前に、朱音の耳には咳混じりの蒼亥の声が届いた。

 真衣の行方も気になるが、蒼亥をこのまま放っておけない。

 すると、クロが朱音の顔を覗き込む。

「狐面はまだこの学園内にいるよ。とりあえず弟くんに何があったか聞いてから追いかけても間に合うんじゃないかな」

「そ……っか。教えてくれてありがとう」

 真衣への心配は無くならないが、ひとまず冷静さを取り戻し、朱音は蒼亥へと向き直る。

「ごほっ、ごほ……ごめん姉さん、俺、真衣さんを守れなかった……」

「そんな……っ。一体何があったの?」

 蒼亥の体を支えながら朱音は問う。

「姉さんたちがいなくなった後……屋上から去ろうとした俺の前にあの狐面が再び現れたんだ。たぶん、忌神っていう驚異がいなくなったからチャンスだと思ったんだろう」

「それじゃあ……蒼亥はずっと真衣を守ってたの?」

「まあね。ただ、『狗』は力比べに秀でているわけじゃないから、最後の辺りはボロボロにやられてたよ。危うく殺されかけてたけど、姉さんが来てくれて助かった」

「蒼亥……」

 朱音は蒼亥をギュッと抱きしめた。

 驚きはしたものの、蒼亥も朱音を抱き返す。

 たった二人きりで生きてきた双子は、お互いの確かな体温を感じ、落ち着きを取り戻した。

「さっき、なんで真衣を連れて行ったんだろう」

 蒼亥を殺し損ねた狐面は、ただ撤退するだけでなく、わざわざ真衣を連れて退散した。

 朱音は真衣の行方が心配でならなかった。

「たぶん人質じゃないかな。脅威となる忌神が来たから……」

 ちらり、と蒼亥がクロの方を見るが、クロは朱音の方だけをずっと見ていた。

 そんな朱音の視線が、クロの方を向く。

「ねえクロ」

「なぁに?」

「念のために聞いておきたいんだけど。クロの力であの狐面を消し去ることってできるの?」

「できることにはできるよ。だけど呪いの元を断つ行為にはならないから、『呪い返し』も続行するだろうね」

「そっか……」

 ただ力任せにあの狐面をやっつければいいという話ではなくなってきた。

 真衣がどうして狐面と関わっているのか知らなければならないし、もしも裏で手を引く人がいるならばその人を突き止めることもしなければならない。

「とりあえず今は真衣を助けなきゃ……!」

「姉さん。俺の『狗』を使って追跡しよう」

「体はもう大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ありがとう」

 心配する朱音を安心させるように、蒼亥は優しく朱音の手を握った。

 だが、そんな朱音の手を、凄い速さでクロが奪う。

「なっ……」

「クロ……」

 呆れる二人を余所に、クロは朱音の手をにぎにぎと触りながら朱音にだけ笑いかける。

「呪い退治、がんばろうねー」

 お花でも飛ばさぬ勢いで、ニコニコと笑うクロ。

 そんな呪いよりも恐ろしい忌神だというのに何を言っているのだかと思いながら、朱音たちは真衣と狐面を追うために夜の校舎へと入っていくのだった。


 夜の学校というのは、どこか特別な空気が漂っている。

 普段いるべき時間帯ではない時にいるからか。夜の陰りで彩られた校舎内が美しいからか。それとも明るい時間帯から一変し、人の気配がまるで無い不気味さの所為か。

 なんにせよ、夜の校舎内は実に神秘的でそれでいてやや恐ろしかった。

 しかも今はあやかしを追っている最中である。些細な物音にでさえも敏感に反応してしまうほど、緊張感が漂っていた。

「この階にはいない。まだ下りているみたいだ」

 最上階となる四階で一度止まり、蒼亥が『狗』を使役して探った結果がそれだった。

 探索に向いている『狗』は、こういう時にとても心強い。

「何処へ向かっているんだろう……」

「二階……いや、一階まで下りた。俺たちも急ごう」

 街灯と月光の明かりだけを頼りに校舎内を動いているため、とくに階段では気を付けた。

 が、注意も虚しく朱音が足を踏み外しかけると、待ってましたと言わんばかりにクロが朱音をお姫様抱っこにする。

 そしてそのまま一階へと向かい始めた。

「ちょっと!」

「これが一番安全で早いからね」

「姉さんを落としたら許さないからな」

 それぞれの反応を見せながら、三人は一階へと急ぐ。

 キョロキョロと辺りを探る蒼亥を先頭に、下駄箱を通り過ぎ……そして行き着いたのは購買の近く。

 そこは、初めて狐面と出会ったあの場所だった。

 購買から少しだけ離れた場所に何かが落ちている。いや、人が倒れている。

「真衣!」

 朱音は渾身の力でクロから離れ、一目散に真衣の元へと駆け寄った。

 しかし、その時。

「ッ!」

 柱の影から黒い何かが飛び出し、覆い被さるかたちで朱音へと襲い掛かる。

 それは赤いローブの狐面だった。

「くっ……あ……」

 肩を掴まれたまま強く床へと押し倒された朱音は、身動きが取れぬまま狐面と対峙する。

 ぽっかりと空いた闇色の目元と、狐になぞらえた模様の描かれた仮面。

 ローブの下から伸びるその手は、しわがれた獣の手だ。

 このまま殺されてしまうのか。

 朱音にかつてない緊張感が走った。

 そんな朱音の心臓を掴むように、ゆっくりと狐面がその顔を朱音の耳元に近付けた。

『……ナ』

「え……?」

『コレ、イジョウ、サグルナ』

「っ……!」

 明確なメッセージを、唸り声と共に伝えられた。

 朱音はそこでゾクリ、と背筋を凍らせる。

 それは決して、目の前に迫った狐面に対する恐怖ではなかった。



 本当の恐怖は、この世の厄災を固めたようにそこに存在していた。



「……誰の許可を得て?」

 廊下の、中央。

 朱音たちから少し離れたそこに、闇の塊が……いや、クロが。忌神クロが立っていた。

 辺りの闇にその体を溶かし、混ざり合いながら。その(ろう)のように白い顔を朱音たちの方へ向け、形の良い唇で再び言葉を紡ぐ。

「誰の許可を得て、触れている?」

 キシリ、と。

 ガラスが軋むような音が周囲に走る。

 同時に、朱音の上に馬乗りになっていた狐面が、頭を抱えて悶え始めた。

『ア、ガッ……』

 朱音も蒼亥も、ただ黙って二者の成り行きを眺めていることしかできなかった。

 起きている事象もそうだが、その身が自然と震えるほどに恐ろしく感じているのは、クロから放たれる純粋な怒りだった。

 まさに狐面は、神の怒りに触れたのだ。

「低級が……理解する頭も持ち合わせていないのか?」

『ギ、ギ、ギッ……』

 頭を振り、暴れ狂う狐面を前に、クロはただ笑った。

「死んだ方がマシだろう? そう簡単に殺すものか」

 口元に浮かんだ三日月のような笑み。

 それが消えた瞬間、周囲からガラスの割れるような音が響き渡った。

 おそらくそれは、狐面の張った結界が割れる音なのだろう。

 実際、周囲の校舎内には何の影響も出ていない。

「朱音はオレのモノだ。オレだけの大切な……大切なただ一人だ」

『ギガッ、ガ、ァ』

「消え失せろ」

 狐面の体が、まるでちり紙を丸めるのと同じ動きで、ぐしゃりと潰れてしまった。

 そしてそのまま体が闇の粒子となって霧散する。

「………」

 しばし、沈黙が続いた。

 上半身を起こしながらクロの方を見上げると、その顔は月明かりによって逆光になっていた。

 正直、恐ろしかった。

 人の及ばぬ力を持ったその強大な存在は、そこにいるだけで周囲を巻き込んでいく。

 では果たして、自分も巻き込まれた一人だろうか。

 そこまで考え、朱音は違うと思った。

 自分は、自分の意思でクロに傍にいてもらっている。

 だから朱音はその名を呼んだ。

「クロ」

 たった二文字の名前。

 それが辺りに響き渡った途端、クロを中心に張り詰めていた空気が一気に緩和した。

 そして、今度はクロが朱音へと飛び付いてきた。

「朱音~! 大丈夫? 怪我は無い?」

「な、無いよ。大丈夫」

「もう。お友達が心配だからって無作為に飛び出すのは感心しないなぁ」

「返す言葉も無いです……」

 さすがに今回ばかりはクロの言う通りで、朱音は頭を下げた。

 ひとしきりクロに抱きしめられた後、朱音は改めて真衣の傍へ寄る。

 先程、一時的に狐面は倒したものの、やはりまだその『呪い』と『呪い返し』は続いているのだろう。包帯の巻かれた右腕を中心に、真衣は痛々しげに呼吸を乱しながら気を失っていた。

「やっぱり、他に犯人がいるのかな……。さっき狐面も、これ以上探るなって言ってきたし」

 真衣が目覚めれば話は早いのだが、それは『呪い返し』の影響によって叶わない。

 もしかしたら黒幕も、それを見越しているのかもしれない。だとしたら実に狡猾な犯人だ。

「真衣……あやかし科の病院に連れていくべきかな」

 これは家で療養などというレベルではない。

 そう思って朱音が病院へ連絡を入れようとしたその時、廊下の奥から靴音が響いた。

「騒ぎがあったみたいですけど……大丈夫ですか?」

「えっ……と、轟先生?」

 現れたのは、『物理』の轟先生だった。

 相変わらず覇気の無い風体で、片手にはライトを持っている。

「先生……どうしてここに……」

 轟は、ぐしゃぐしゃと頭をかきながら、やや面倒くさそうに話し始めた。

「時房理事長に、内側から結界を張られた話を振られたんですよ。それで見回りに来たんですが……」

 ちらり、と轟の視線が倒れている真衣の方を向く。

「もう少し早く来るべきでしたね、すみません」

 言いながら、轟は何を言うでもなく自然と真衣を背負った。

「三条さんは私が病院へ連れて行きます。鬼ヶ華のお二人はもう遅いのでお帰りなさい」

「……はい」

「それと朱音さん。色々と頑張りましたね」

「………」

 叱られるかと思っていた朱音は、轟からの思わぬ労いに安堵した。

 問題は、おそらく今も蒼亥の帰りを待っている椿姫にどう説明するかということだ。たぶん蒼亥が上手く言いくるめてくれるだろうが。

 そんなこんなで朱音たちは轟に真衣を託し、夜の校舎を後にするのだった。



   ◆◇◆



「なるほど。三条真衣さんが、今回の事件に関わっている、と」

 賢神アクルが、眉根を下げて苦笑する。

 理事長室には今、朱音の他に斎藤と轟の教師二人が一緒だった。

 時房理事長は出張だとかで不在である。

 ここしばらく狐面騒動で慌ただしかった朱音だが、今日は何事も無く授業を受けられた。

 しかしそう思ったのも束の間、放課後に事情聴取としてアクルから理事長室へと来るよう呼ばれたのだった。

 なのでこうして斎藤、轟の教師二人と一緒に、狐面についての情報を共有し合っていた。

「三条さんは昨夜、あやかし科の病院へ連れて行き、意識不明のまま入院となりました。ご家族には、あやかしの『呪い』に巻き込まれたという説明でとどめてあります」

 抑揚の無い声で、轟は淡々とそう伝えた。

 真衣の意識が戻らないままなのは心配だが、とりあえずは無事な場所で入院となったことに、朱音は胸をなでおろした。

 その上で、真衣だけが犯人になってしまわないよう、朱音はアクルの方へ向き直る。

「あの、もしも真衣が狐面に『呪い』を依頼するとしたら、所持している妖力が足りないと思うんです」

 アクルはわかっているように頷き、柔和な微笑と共に口を開いた。

「そうだね。ただし『呪い返し』を喰らっているのは彼女自身だから、全く無関係というわけでもないだろう。そのあたりは慎重に調べさせてもらうよ」

「はい……」

「一度、昨日のことを整理させてもらおうか」

 アクルの目は斎藤、轟、そして朱音を一度ずつ射抜き、そうして話し始めた。

「まず一限目の授業後、裏庭の方でエリート科の女生徒に絡まれていた三条さんの元に、狐面が現れ、お嬢さんと忌神がやって来たから未遂で消えた。次に放課後……中庭で今度はエリート科と普通科の男子生徒の呼び出し場所に狐面が現れ、エリート科の子たちを襲い、逃亡。その一方で三条さんには『呪い返し』が起こっており、意識不明になった、と」

「更に放課後から夜にかけて、狐面は鬼ヶ華さんたちに襲いかかったそうです」

「だからって鬼ヶ華なぁ。いきなり屋上までジャンプで侵入したのは褒められたことじゃないからな! 忌神とやらにもよく言っとけ!」

「はいぃっ、気を付けます!」

 訥々と喋る轟と、思い出したように軽く叱りの声を上げる斎藤。

 朱音は斎藤に手を合わせて謝罪した。

 そんな三者のやり取りを眺めつつ、アクルは軽く咳払いして話を戻す。

「やはりこれまでの動向を見るに、いわゆるいじめ……または呼び出し、といった状況下で狐面は現れるようだね」

「そして『呪い返し』を三条さんが受けている、と」

「三条がいじめを無くしたくて、無理に『呪い』を願ったとかかぁ?」

「まあ、そのケースもありえるかもしれませんね」

 斎藤の思い付きに、轟は相槌程度にそう言った。

 朱音としては少しでも真衣の罪を軽くしたいのだが、下手なことを言って疑われてしまうのも恐かったため、黙って耐えることにした。

「条件が揃うと自動的に動き出す『呪い』なのに加え、その『呪い返し』が一方的に発動したままなのが良くないね。早々にこの問題を解決しないと」

 神様だからか、あまり焦りの見えない、むしろ優雅ささえ感じられるアクルではあるが、理事長としてこの学園を守ってくれると朱音は信じるしかなかった。

 話はそこで終わることとなった。

 退室する際、視界の端に映ったアクルの姿は西日に照らされ、どこか神々しくあった。

 クロとは違う、浮世離れしたその美しさをまといながら、アクルは朱音に向けて優しい微笑を見せるのだった。


「真衣が目覚めるのを悠長に待ってられないってことだよね」

 トボトボと学校を後にした朱音は、ある程度歩いたところでポツリとそう呟いた。

 途端に、ぬるりと朱音の影からクロが出てくる。

「そうだねぇ。それはいいんだけど何処に向かってるの?」

 朱音の進む方向が、鬼ヶ華家の方向ではないことに気付いている。

 クロの問いに朱音は苦笑を向けた。

「『あやかし相談所』に行ってみようかなって思って」

「『あやかし相談所』?」

「そう。その名前の通り、あやかし関係のお悩みを聞いてくれる場所なの」

「ふーん。胡散臭い」

「そっ、そんなことないよ……たぶん」

 実のところ、朱音自身もまだ行ったことの無い場所だった。

 クラスの子や、真衣が話題にしていたのを聞いて、正直なところクロと同じような気持ちでいたことは内緒だ。

 胡散臭そうではあるが、今は頼れるものになら何にでも頼りたい。

 なので思い切って『あやかし相談所』へと足を運んでみたのだが……

「ここ……?」

 辿り着いた先にある建物を上から下まで眺め、朱音は確かめるように言った。

 そこにあったのは、入り口がわからないほどの花に埋め尽くされた小さな店だった。

 視界に入る花だけでも数十種類はある。しかも季節感を忘れているのか、左方には向日葵が、そして右方には水仙が飾られていた。

 そんな、一瞬花屋かと見間違いそうになるその店の看板には、書道家が手掛けたような筆跡で『あやかし相談所』と大きく書かれている。

「………」

「入らないの?」

 唖然として立ち止まっている朱音を煽るように、クロはヘラヘラ笑いながらその顔を覗き込んだ。

「は、入るよ!」

 端正な顔がドアップになり、驚いたその勢いのまま朱音は店へと近付く。

 蒼亥ならそんなに気にせず先に入ってくれるだろう。本当は蒼亥を誘う気でいた。

 けれど昨夜帰りが遅かったこともあり、椿姫の機嫌を取るために今日は授業が終わるや否や帰宅してしまったのだ。

 なので朱音は意を決し、花をそっとかきわけ、入り口と思われる木の扉をなんとか開いた。

「……わ、あ」

 中に入った朱音は、思わず感嘆の声を漏らした。

 外から推測した店の大きさとは思えないほど、中は広々としていた。

 吹き抜けになっている高い天井。螺旋階段の作りで天井へと伸びる本棚。

 ステンドグラスの窓に、所々に置かれたアンティーク品の数々。

 広い一室の最奥に置かれた木の机と、黒革の椅子。机の上には高そうな万年筆や天秤、古いラジオに写真立てなどの卓上品が置かれている。

「凄い……」

 花屋かと思っていたら、今度はあらゆる骨董品(アンティーク)が出迎えてくれた。

 こんなにも素敵なお店……もとい『あやかし相談所』を構える所長のことだ。優雅にアンティークや花々を愛でるタイプの人かもしれない。

 そんな妄想を朱音がしていると、突如、卓上のラジオからベベンッと三味線の音が鳴り響いた。

「えっ……」

 驚きで固まる朱音を余所に、ラジオからは三味線の音だけでなく和太鼓の音も続く。

 気付くと和楽器をベースにした明るい曲が流れ始め、一気に室内を陽気な気分にさせていく。

 更には机の両側にあった背の高いライトが、勝手に椅子をスポットライトのように照らした。

 一体全体、何が始まろうというのか。

 そうして強い風が吹く。

「うわっ、わわ」

 思わず飛ばされそうになってよろけた朱音を、クロはすぐに抱きとめた。

「やあやあやあ! その顔は初めて見るお客様だ。ようこそ我が相談所へ!」

 明瞭で楽しげで快活な口上。

 それと共に、スポットライトの下に現れたのは、背の高い男だった。

 サラリと揺れる白銀の生糸のように長い髪。睫毛の長いタレ目と、その下に付いたチャーミングな泣き黒子(ぼくろ)

 赤紫色を基調にしたメンズのチャイナドレス風の服を身にまとい、男は不思議な決めポーズでもって朱音を歓迎した。

「あ……ど、どうも。あの……」

「初めましてお客様。この相談所の所長を務める白竜(はくりゅう)です。どうぞよろしく」

 全体的にスラリと長細い印象を受ける男は、白竜と名乗った。

 ということはもし間違いでなければ……

「もしかして『龍』ですか?」

「ご明察! やはり僕の『龍』としてのカリスマ性が溢れてしまっているかな?」

 何故かいちいちポーズを取りながら、白竜はキラキラとした笑顔を浮かべている。

「さて、お客様のお名前は……」

「朱音です。鬼ヶ華朱音」

「鬼ヶ華? 天鬼くんが使役しているところの?」

「は、はい。そうです」

「天鬼くん、元気にしてる? あの子、いつもなんかちょっとピリピリしてて面白いよね」

「あ、あはは……」

 一人で大笑いしている白竜を前に、朱音は引き攣った笑みを返すことしかできなかった。

 あの天鬼を『くん付け』で呼んでいる上に、どことなく軽い扱い。

 やはり『鬼』よりも上の『龍』であると感じた。

「それで、朱音ちゃん。今日はどういったご用件かな?」

 ずずい、と前かがみになり、朱音と目線を合わせる白竜。

 その白皙(はくせき)の美貌に浮かぶのは、人が猫や犬などの動物を愛でる時に浮かべる笑顔だ。

 どうやら『龍』である彼はだいぶ『人間』が好きらしい。

 と、その時。

「オレの朱音に近寄らないでくれる?」

 視界が真っ黒になる。

 それは、白竜と朱音の視線を断つように、間にクロが着物の裾を入れたからだった。

「く、クロ……」

 いきなりそれは白竜さんに失礼では……と思うよりも先に、目の前の白竜が反応を見せた。

「うぉおお! え、忌神くん? もしかして忌神くんなのかい? えー、どういうこと? 君たちそういうこと? え、え? マジぃ? わー、おめでとう忌神くん!」

 一人はしゃぐ白竜に合わせ、ラジオからは祝福の曲が高らかに鳴る。

 あまりにも予想外のテンションの白竜に反し、朱音は唖然と立ち尽くすしかないのだった。


「いやはや失礼した。まさか知った顔に会えるとは思わなかったのでね」

 席に着いた朱音の前に、細工の綺麗なティーカップが置かれ、そこに紅茶を注がれた。

 あまり紅茶に詳しくない朱音ではあるが、その芳醇な香りだけでとても良い茶葉であることはわかった。

 白竜も朱音の向かい側のソファに座ると、改めて朱音を見つめる。

「それにしても朱音ちゃん。とんでもないモノに好かれちゃったねぇ」

 クロが朱音の傍で立っているのは見えているだろうに、全く気にした様子も無く、ケラケラと白竜は笑う。

 朱音は何と言っていいかわからず、苦笑いを浮かべることしかできない。

「朱音ちゃんの依頼はできるだけ聞いてあげたいんだけどさぁ。相手が忌神くんとなると話は別だからなぁ。払うのは至難の業だし、忌神くん、ずっと君のことを思い続けていたし……」

「ちょ、ちょっと待って下さい! 私は別に、クロを払ってほしくて来たわけじゃありません!」

「え、そうなの?」

 予想外だと目を丸くする白竜に、朱音は告げた。

「実は今、学園の方であやかしによる事件が起こっていて……」

「ほお」

 そうして朱音は、一連の出来事を白竜へと話し始めた。

 真衣のことをどこまで話すか少しためらいもあったが、気付けばとても真剣に話を聞いてくれている白竜を前にしたら、出来得る限りを話したくなった。

 それもこれも、一刻も早くこの事件を解決したいがためである。

 今こうしている間にも、真衣は『呪い返し』の影響で苦しんでいるのだから。

「ふむふむなるほど。だいぶ大変なことになっているようだねぇ」

 口元に手を当て、白竜は考え込む。

「『狐』は実体こそそこまで強くはないが、こと『呪い』に関しては実に面倒臭い強さを誇っているからな。しかも今回の件は、忌神くんが言うように『黒幕』がいるようだ」

「『黒幕』が、真衣に『呪い』をかけるよう命令したんでしょうか?」

「おそらくは。『狐』を呼び出したのは『黒幕』だが、『呪い』の発動をしたのが朱音ちゃんのお友達なのだろう。だからお友達が倒れた今でも『呪い』は続き、そして『呪い返し』はお友達の元へ返っていくという始末。うーん、なんたる外道か」

「そうなんです! だから早く『黒幕』を見付け出したいんです!」

 つい声を張り上げてしまった朱音はハッと我に返り、恥ずかしさをまぎらわすように紅茶を口にした。

 口の中いっぱいにホッとする味と香りが広がり、心が落ち着いた。

「朱音ちゃん。ここはあくまで、あやかしに関する相談ごとを聞く場所で、事件の解決を約束できる場所ではないんだ」

 実際、あやかしが関わる事件を専門で取り扱う警察の課や、弁護士などがいる。

 それでもまだ理事長先生たちが警察に届けを出していないのは、生徒の……真衣の人生を考えてのことだと思われる。

 しかしこれ以上事件が続けば、いくらいじめをしている側が被害者とはいえ、隠し通すことはできなくなるだろう。

「ただ、そうだな……」

 暗く落ち込む朱音を前に、白竜は言葉を続けた。

「話を聞いて思うんだけどね。真実を知っている者は、ついその人しか知らないことを口走ってしまうものさ」

「その人しか……知らないこと?」

「本来は隠さなきゃいけないことなのに、つい喋ってしまうものなんだよ」

「なる、ほど?」

「あとはそうだな……。もしその『黒幕』が臆病な性格なら、何かと現場に来るだろうね。それが例え夜の学校だったとしても」

「……!」

 そこで朱音の脳裏に浮かんだ一人の大人の姿。

 まさかそんな、という気持ちと、白竜に言われた行動をその人は取っているという事実が、朱音の頭の中を行き来する。

「朱音。あーかーねー」

 グルグルと嫌な気持ちに支配されそうになる寸前、立っていたクロが、椅子の背もたれ越しに朱音を抱き締めた。

 クロの体はとても冷たいが、それでも心がとても安心できた。

「クロ……」

「事件のことばっか考えちゃってやだなぁ。とっとと事件を解決して、オレのことだけ考えていてほしいなぁ」

「そ、それは無理」

「えー」

 二人のやり取りを眺めながら、白竜はクスクスと笑い声を上げる。

「いや~、あの忌神くんがそこまでべったりになるとは。数百年前は、君への苦情で人間たちがわんさかウチに来たっていうのにね」

「す、数百年……」

 どうやらこの『相談所』は、かなり年季の入った場所らしい。

 そして数百年前となると、おそらく今以上の厄災が猛威を奮っていたことだろう。

 ある意味、クロの全盛期あたりの話なのかもしれない。

「それが今じゃ、一人の乙女に熱烈に恋しているのかぁ。なんてロマンチック……」

 白竜はうっとりとした表情でクロの方を見たが、当のクロは朱音にじゃれつき気にも留めていなかった。

「あの……白竜さんはどうしてこの相談所をしているのですか?」

「そうだねぇ。単純に人間が好きだからかな」

「人間が……?」

「うん。むかーしむかしに、私には人間の友人がいたんだよ。その友と、あやかしに困った人間のための相談所を作ってみたらどうか、という話で盛り上がってね。気付いたら『相談所』ができていたんだ」

 その頃を懐かしむ白竜の表情は、とても穏やかで優しげだ。

 瞳はまるで宝石のようにキラキラと輝いており、あまりにも美しく、神々しささえ感じる横顔だった。

「もちろん『相談所』に来る人間の中にも色んなタイプはいた。けれどそれでも人間を愛おしく思うのは、その友人のお陰だろうな」

「そのご友人は……」

 人間と『龍』の年齢差など、考えるまでもない。

 つまらないことを訊いてしまったと反省しかけた朱音に、白竜は意外なことを口にする。

「実は神隠しに遭って消えた」

「え?」

 予想外すぎて、朱音は思わず固まった。

「もう記憶もおぼろげだが、とにかく友人は神隠しによって突然消えてしまった。だから僕は、少しでも友人の情報を得られないかとこうして『あやかし相談所』を続けているし、そこの忌神くんにも頼ったんだ」

 白竜はビシッと指をクロへと突きつける。

 朱音もつられてクロの方を向くと、朱音と目が合って嬉しいのかクロはニッコリと笑った。

「クロ……白竜さんの友達を神隠ししてないよね?」

「するわけないでしょ。何の得も無い。でも朱音ならしてもいいよ」

「絶対やめてね」

「冗談だよ」

 ニンマリと笑うクロからは、とても冗談のような気がしなかった。

「と、まあそんな感じで。あやかしで困っている人間を助けたいのと、その代わりもしかしたら得られるかもしれない友人の情報収集のために、この『あやかし相談所』をやっているんだ」

「そうだったんですか……」

「朱音ちゃんも、もし神隠し関係の話を耳に挟んだらぜひウチに来てね」

 白竜は明るくそう言うが、その瞳はどこか切なげだ。

 一体どれほど長い間、神隠しにあった友人を探し続け、その度に孤独を感じてきたのだろうか。

 少しでも力になれればと、朱音は心に誓うのだった。

「さて。おそらく朱音ちゃんの中で答えは出たと思うから、そろそろお帰り。日が暮れるよ」

 気付けば、窓ガラスから射し込む夕日の色もだいぶ濃く、夜の色とグラデーションし始めている。

「はい、あの……色々とありがとうございました」

「また何かあったらおいでねー。あ、忌神くんも! あと紫龍くんにもよろしくね!」

 帰り際、白竜の口から紫龍の名が出てチラリとクロの方を見た。

 紫龍と言えば、クロの屋敷で使用人をしている『龍』である。

 意外な接点に驚きながらも、朱音はクロと共に『あやかし相談所』を後にする。

 白竜によって導き出された『黒幕』との対決に向けて。


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