【第四章】
「ん……んぅ……」
朝の気配を感じ、朱音はゆっくりと目を開ける。
滑らかなシーツの感触と、寝起きにしか感じられないまどろみを味わいながら、ふと、何かが視界に入る。
それは、眠る朱音を至近距離で眺めているクロの姿だった。
「キャアアアア!」
「どうしたの姉さん!」
咄嗟に上げた悲鳴で自らも覚醒する。
襖を開けて隣の部屋から駆け付けた蒼亥が、クロの姿を見て心底嫌そうな表情を浮かべた。
「おまえ……姉さんに何をした!」
「何にも。寝てるから可愛いな、って」
なんてことは無いといった口振りで、クロはそう返す。
きっと何を言っても無駄だと思い、朱音は蒼亥の方へ向き直った。
「ごめん蒼亥。ビックリしちゃって……」
「そりゃビックリするだろうさ。姉さん、本当に何もされてない?」
「大丈夫、ありがとう」
自分抜きで話が進んでいるのが面白くないのか、クロは毛布の上から朱音に向かってダイブする。
「ちょっ、クロ、重い!」
「朱音はオレのお嫁さんになるんだから、オレのこともっと大切にして? ね?」
「お嫁さんになってほしいなら、朝から驚かすような真似しないでよ」
「はぁい」
朱音の関心が自分に向いていればそれで満足なのか、クロは素直にそう返事をする。
こんな姿を見ているととても『神』とは思えないのだが、彼の恐ろしい一面は何度も目にしているので気を抜かないよう気を付けないといけない。
「姉さん、支度が終わったら声かけて。一緒に登校しよう」
「うん、わかった。ちょっと待っててね。……というわけだから、クロは部屋から出て行って」
相手があやかしだろうが何だろうが、着替えや支度を誰かに見られながらするのは恥ずかしい。
クロは寂しがる猫のようにチラチラと朱音を見つめながら、これ以上苦情が来ない内に部屋から出て行った。
「昨日のこと、一応お知らせとして全校生徒に通達があったけど、やっぱりお休みする生徒が増えるのかな?」
朝の支度を終えて家を出た朱音は、隣を歩く蒼亥にそう訊ねた。
いつも一人で登校していたから、傍に人がいることが新鮮でたまらない。
「どうだろう。あやかしと関わる学園として事前にそのことは了承して入学しているし……エリート科の人たちは、むしろ犯人探しに躍起になるんじゃないかな」
「そうなの?」
「早い内からそういったあやかし関係の事件をこなしておくと、内申が良くなって進学や就職に有利に働くからね」
妖力が全く無いゆえに、朱音からするとそれは初耳だった。
確かにあやかしの事件を専門で扱う警察や弁護士などがいるのは知っていたが、そういう人たちは学生の頃から、こういった事件に積極的に参加しているようである。
「もしかしたら私たちより早く、エリート科の誰かが事件を解決しちゃうかもね」
「そうなると忌神の友好性は証明できないから、おさらばかもしれないよ? 俺はそれでもかまわないけど」
「それは駄目だねぇ」
ゆらり、と朱音の影が揺れたと思うと、そこにはクロの姿があった。
真っ黒の長髪をフワフワとなびかせ、トンビコートを羽織った影色の着物姿。
黒で構成されたその姿の中で、透き通るほどの白い肌と、血のような赤い目が強く目立っている。
人として見るには神々しく、神として見るには禍々しい、実に異質な存在感。
クロはその赤い目を細め、愛おしそうに朱音を見つめる。
「国のあやかし機関に報告されると、役人たちが否応なく朱音と引き剥がそうとしてくる。そうするとオレはその役人たちを片っ端から消さなければならない。それを朱音は望まないでしょう?」
「そりゃあ……」
「だったらオレと朱音で、頑張って事件を解決しなくちゃね」
ニッコリと笑ってみせるクロに、朱音は苦笑しか返せなかった。
たぶんクロからすれば、その役人たちを片っ端から消す方がずっと簡単なことなのだろう。
そのことを人質に取った上で、共に事件解決に乗り出すことを脅迫してきている。
実に意地の悪い神様だ。
「クロ……あんまり簡単に外に出ないって約束したじゃない」
「学園では、ね?」
どこまでも口が達者な『神』である。
口を尖らせる朱音を、クロは愛玩動物を愛でるかのように、ニコニコと笑いながら頭を撫でていた。
「姉さん。とりあえず学園に着くまでに昨日のことを整理しよう」
蒼亥は一度クロを睨み付けて牽制しつつ、そう切り出した。
「姉さんが昨日、狐面のあやかしに遭遇した時、どういう状況だったの?」
「どういう状況っていうと……」
朱音はやや口ごもりながらも、購買に行き、椿姫とその取り巻きに絡まれたことを素直に話した。
途端に蒼亥は眉をひそめ、その整った顔に不機嫌な表情を浮かべていたが、すぐに切り替えて話し始めた。
「……なるほど、状況はわかった。タイミング的には、姉さんが椿姫さんたちに絡まれていた時に突然、狐面は現れたわけだね?」
「うん、そうなるね。それで取り巻きや椿姫さんに向かって突進していって……」
「姉さんもやられそうになって、忌神に助けられた、と」
口元に手を当て、悩ましげに首を傾げる蒼亥。
「狐面ということは『狐』の仕業だろうから、呪いや恨みの線が濃厚だね。ただ、理事長たちがまだ犯人を特定できてないということは、使役の契約をしている『狐』ではなく、その場限りの契約で『狐』に怨恨を願った線が濃厚なわけだ」
蒼亥の言う通り、賢神アクルも個人的な呪いの類だと言っていた。
それに呪いには秘匿の制約があるため、そもそも犯人探しをするのが難しいのである。
ただしその代わり、呪った相手は『狐』にそれ相応の捧げものをしなければならない。
時には自分自身の命すら必要になることもある。
人を呪わば穴二つとはよく言ったものだ。
「無差別な呪いとは思えないから……やっぱりあの場にいた誰かを狙ったのかな?」
「うーん。その場に居た全員を攻撃している辺り、なんとも言えないね。そもそも『狐』の呪いを使いこなすにはそれなりの妖力がいるから、昨日の時点でどれだけ犯人の思い通りに『狐』が仕事をしてくれたかわからない」
やはり現時点では、わからないことが多すぎる。
だから朱音は、隣を歩くクロの方をちらりと見上げた。
「なぁに?」
朱音から視線をもらい、嬉しそうにクロは反応する。
「クロは狐面のあやかしについて何もわからないんだよね?」
「朱音以外興味が無いからね」
即答だった。
思わず朱音は呆れた表情を見せたが、クロは言葉を続ける。
「ただ、オレからの攻撃でかき消されたにも関わらず、まだ学園内に居るってことは、それだけ強い恨みの気持ちがあるってことじゃない?」
「そっか……『神』の一撃を受けても消えなかったほど、強い呪いってことか」
「悩んでる朱音も可愛いねー」
人の気も知らず、クロは朱音の頭を撫でてご機嫌な表情を浮かべる。
それを蒼亥はしっしっと追っ払った。
「もう学園に着く。とっとと姿を消せ」
「わぁ、恐い。それじゃあ朱音、いつでもそばにいるからね」
そう言ってクロは、朱音の頬にキスを一つ。
蒼亥から追撃が来る前に、その体を影へと溶かし闇に消えた。
「あ、あいつ~ッ!」
「……ビックリした」
怒る蒼亥と、キスを受けた方の頬を撫でる朱音。
二人して忌神クロに振り回されていた。
「姉さん。狐面のあやかしもだけど、あの忌神にもちゃんと注意を払うんだよ」
「う、うん」
「それと……休み時間になったら、『狗』を使って狐面を探ってみようと思う」
蒼亥は高い妖力を持っているため、『狐』と同格の『狗』を使役することができた。
人間に対し友好的で、探し物を見付ける力に富んでいる『狗』ならば、何か事件に関わるものを見つけ出せるのではということだろう。
「ありがとう。蒼亥も無理しないでね」
「わかってる」
こうして蒼亥と顔を合わせ、ゆっくり喋るのはいつ以来だろうかと朱音は思った。
鬼ヶ華家の本家に入ってから、主に椿姫の意向で、二人きりで喋る機会は一気に減った。
だから朱音は内心、この点においてはクロに強く感謝していた。
「それじゃあ姉さん、気を付けてね」
そう告げて、蒼亥はエリート科の校舎へと向かっていく。
しばらくぶりに話した弟の背中は、実に頼りがいのあるものになっていた。
◆◇◆
「このように、板の頂点をA、B、Cとし、板と壁が垂直になるようにすると、値を求めやすくなります」
一限目の授業が『物理』であるため、すでに教室内に眠気が充満していた。
また、『物理』を担当する轟秀一先生の覇気の無い声が、余計に生徒たちの眠気を誘っている。
朱音も何とか机に突っ伏して眠ってしまわないよう、頑張ってノートを取っていた。
と、そこで授業終了のチャイムが目覚まし代わりに鳴り響く。
「あー……では今日はここまで」
轟がチャイムをバックにそう告げると、それまで寝ていた生徒たちが次々と伸びをしながら起き上がっていった。実に現金なものである。
「すみませんが、デモンストレーション用の道具を一緒に運んでほしいのですが……」
授業中、『物理』の問題をわかりやすく再現するための道具を使用していた。
授業前は日直が分担してそれらの道具を教室に運んでいたが、また頼まれるのを察知してか、すでに日直たちは教室から出て行ってしまっていた。
そんなものだから、朱音はしっかりと轟と目が合ってしまう。
「鬼ヶ華さん、手伝ってもらってよろしいですか?」
「あ……はい」
「私も手伝おうか?」
横から真衣が、名乗りを上げてくれる。
しかし真衣の右腕には包帯が巻かれていた。何でも昨夜、料理中に火傷をしてしまったのだとか。
「何言ってんのよ真衣。怪我人は無理しないの」
「そこまで大層な怪我じゃないんだけどね」
「そういう時が一番安静にするべき時なんだよ。ありがとね、気持ちだけもらっておく」
そう言って、朱音は教卓に置かれた道具をいくつか持ち、轟の後をついて教室を出た。
学園では、昨日の狐面の話題で持ち切りだった。
轟と共に廊下を歩いているだけで、四方八方から狐面の話が聞こえてくる。
普通科の生徒たちでこれなのだから、エリート科では巻き込まれた椿姫と椿姫の取り巻きたちを含めてもっと話が盛り上がっていることだろう。
今朝、蒼亥と話していた通り、エリート科の生徒の中には、我こそはと今回の事件の犯人を見付けるべく躍起になっているだろうから。
「鬼ヶ華さんも、昨日、巻き込まれたんですって?」
不意に、これまで黙々と歩いていた轟からそんなことを訊ねられた。
元々、轟は陰気な先生として生徒からあまり好かれていない。
それというのも、口数が少なく、生徒だけでなく他の教師とも喋っているところをあまり見たことが無いほど、交流を断っている先生だった。
あの、交流するのを嫌がっている独特の雰囲気は、言葉にしなくても伝わるものである。
だから生徒たちから轟に関わることはほぼ無いし、轟もまた、生徒たちに関わる気が無い状態である。
そんな轟から昨日の事件について話しかけてくるとは思っておらず、朱音はすぐに言葉が出てこなかった。
「あ、えっと、はい、そうです」
「怪我……などはしていませんか?」
長い前髪の所為で目元が隠れているため、その視線がこちらを向いているとまるで気付かなかった。
朱音は轟からのその言葉に、『心配』よりも何か他の思惑を感じ取る。例えるならば『詰問』に近い気がした。
「怪我はしてません」
「そうですか」
質問した割には、会話はそれで終了してしまう。
目的地である職員室までそう遠くはないのに、気まずい空気が流れている所為か何キロも先にあるような気がした。
なので朱音の方からも轟に訊ねてみることにした。
「やっぱり先生の間でも、昨日のことは知られているんですか?」
「当然ですよ。緊急の会議が開かれて、私は帰りが遅くなりました」
「あ、あはは……それは大変でしたね」
「あの理事長たちが目を光らせるこの学園内で『呪い』を行使するなんて、よっぽど見つからない自信があるのか……。それとも、それほどまでに追い詰められているのか」
独り言のように呟かれた轟の言葉に、朱音は胸がギュッと縮まった。
確かに、時房理事長と賢神アクル理事長の凄さを、この学園で知らぬ者はいない。しかも学園内には、妖力に富んだ他の先生たちだっている。
それなのに白昼堂々『呪い』を発動させたのは、自信があるからではなく、『呪い』に頼らなければならないほど犯人が追い詰められているのだとしたら。
「………」
朱音にだって、人ではなく境遇を呪いたくなる時はあった。
鬼ヶ華家の、とくに椿姫から虐げられている時、悔しい気持ちが無かったと言ったら嘘になる。
つまり誰だって、今回の犯人になり得たということだ。
「……犯人に同情しますか?」
「え……」
まるで朱音の脳内を全てお見通しかのように、轟はそう訊ねてきた。
「同情は……わからないです。ただ、特定の誰かを呪う気持ちを持っているのなら、その根本的なところも解決できたらいいな、と思っています」
「鬼ヶ華さんはお優しい人ですね」
抑揚の無い轟の物言いは、本心からそう語っているのか、それとも皮肉で言ったのかわからなかった。
そうこうしているうちに、気付けば職員室に着いている。
轟は何てことない所作で、朱音から道具を全て受け取る。
「運んで下さりありがとうございました」
「先生……全部一人で持てたんじゃ……?」
「そうかもしれないですね」
さらっとそう返すと、轟は自身の席へと去っていった。
残された朱音は、どうにも釈然としないまま職員室を出る。
「なんで……」
廊下で一人立ち尽くしながら、思わずそう零した。
何故、自分一人でも持てるものを、わざわざ朱音と分担して持ったのか。
授業開始前に日直が道具を用意するのはいつものことだからわかる。
思い返せば、これまでの授業だって轟が授業後に誰かの生徒を頼るような姿を見たことがない。
「もしかして私……疑われてる?」
朱音が思い付いたのはそこだった。
道具運びも、最初から朱音にさせるつもりだったのかもしれない。
それは何故か。
昨日の事件のことで探りを入れるためではないだろうか。
何故なら朱音には、忌神が憑いている。
呪いどころか、厄災そのものの『神』だ。
しかもあの現場で、唯一怪我もせずに助かったのは朱音だけ。
確かに第三者目線だと、朱音が『呪い』を行使し、椿姫やその取り巻きを攻撃したように見えなくもない。
「だから理事長先生たちは、犯人探しをするよう命じたんだ……」
クロが忌神として安全かどうか。
そして、第一に疑われる立場だからこそ身の潔白を晴らすために。
朱音は率先して犯人探しをする必要があるのだ。
「……っ」
その考えに至った途端、朱音は周囲の目が気になり始めた。
廊下の至る所で昨日の事件について話している生徒たちが、実は自分に疑いの眼差しを向けているのではないかと恐くなってくる。
「……あれ?」
その時、廊下の窓から丁度見下ろした位置に数人の人影が見えた。
高い木々の間から見えるのは、よく見知った真衣の姿。
二限目がそろそろ始まるというのに、何をしているのだろうか。
そう思った矢先、真衣の体が突き飛ばされる。
「えっ」
よく目を凝らせば、真衣の前には四人ほどの女生徒が立っており、嫌な笑い方で真衣に向かって何かを話しているようだった。
どう考えても、真衣にとって良くない状況なのは一目瞭然だ。
急いであの場に行かなければと思った矢先、真衣たちの周りに、突如真っ赤な火が灯る。
「な、なに……?」
上から眺めているしかできない朱音からすると、あの場で何が起きているのかよくわからない。
ただ、火の玉は真衣を突き飛ばした女生徒たちにとっても予想外だったようで、真衣と同じように怯えた表情をしている。
いくつもの火の玉はやがて一つになり、そして……あの赤いフードの狐面が現れた。
「嘘……っ」
思わぬ展開に、朱音は駆けだそうとする。
しかし、その体がふわりと浮かぶ。
「朱音、何処に行くの?」
突如、影からその姿を現したクロが、軽々と朱音を抱きかかえていた。
「クロ! ふざけてる場合じゃないの! 真衣が……っ」
「あの場所に行きたいの?」
「そうだよ。だから早く降ろして……」
「走るよりこっちの方が早いよ」
そう言ってクロは、朱音をお姫様抱っこしたまま、窓を開けてその縁に立つ。
ちなみにここは二階で、それなりに地面との距離がある。
「う、嘘……待ってクロ、まさか……」
クロは、何のためらいもなく飛び降りた。
「キャアアアアっ!」
「はい、着いた」
叫んでいる内に、朱音は叫び声と共に真衣の前へ現れる。
「あ、朱音……」
「真衣~……」
半泣きで朱音は真衣の無事を確かめる。
だが、クロはずっと朱音をお姫様抱っこしたままだ。
「クロ、もう着いたんだから降ろして」
「ご褒美が欲しいなぁ」
甘えた口調のクロに、この状況がわかっているのかと言いたくなった。
真衣と、どう考えても真衣に敵意を向けている女生徒たちと、そして現れた赤いフードの狐面。
そんな一同が介しているところで、個人的なご褒美をねだるあたり、空気を読む気が無いようだ。
「ご褒美って……そんなことしてる場合じゃないでしょ。狐面がいるんだよ!」
「あいつをやっつけたらご褒美くれる?」
目を細め、口端を持ち上げながらニンマリと要求してくるクロにとって、あの狐面はたいした敵ではないのだろう。
それどころか、ご褒美をもらうための交渉の道具でしかないところに『神』の威厳を感じた。
ただし、『神』は『神』でも忌神だ。
それを忘れてはならないと、朱音はグッと拳を握り締めた。
「やっつけるんじゃなくて、捕らえることはできないの?」
それができるなら、理事長先生たちにでも引き渡して、この事件の犯人が誰か突き止めてもらえないかと思ったのだ。
クロは腕を組み、考えているというポーズを取っていた。
「できなくはないよ。でも力加減が難しいなぁ。その分いっぱいご褒美が欲しいなぁ」
そんな場合じゃないのに、クロはもったいぶった口調でますます要求を強くしてくる。
朱音にとっては一大事でも、クロにとってはたいした事ではないのだとよくわかる。
改めて、『神』に何かを頼むとはこういうことなのだと感じた。
強い力を持つ者は常に優位であり、そして気分次第に事を運ぶということだ。
「……わかった。何を褒美に欲しいの?」
朱音は様々なものを頭の中で天秤にかけた結果、その結論に至った。
それを聞き、クロは邪悪な笑みを浮かべ、欲しい褒美を口にしようとした……その時だった。
「あっ」
朱音が気付いた時にはもう遅く、狐面は炎をまとわせ、凄い速さでその姿を消してしまった。
「………」
その場に残された、何とも気まずいメンツ。
遠くの方から斎藤先生が駆け付けてくるのが見えて、また下手に狐面と関わってしまったと、朱音は頭を抱えるのだった。
◆◇◆
「それで、おまえらはあそこで何をしていたんだ?」
指導室へと連れてこられた朱音と真衣、そして他四人の女生徒たちは、生活指導の斎藤にそう詰問された。
答えは返ってこない。
上の階から現場を見ていた朱音からすれば、真衣は女生徒たちに突き飛ばされていた。しかも女生徒たちは皆、エリート科の生徒だ。
エリート科と普通科の校舎は別なため、わざわざ普通科の校舎まで足を運び、真衣を取り囲みながら突き飛ばすなど……どう考えてもただのお喋りをしていたとは思えない。
だからなのか、真衣は下を向いているし、エリート科の女生徒たちもツンとして斎藤の前に立っている。
果たして見ていた光景をそのまま話すべきか朱音は迷った。
だが、先に口を開いたのは女生徒の一人だった。
「三条さんがあやかしについて訊きたいことがあるって言ってたんで、教えてあげてましたー」
なんとも嘘くさい棒読みの台詞。
斎藤はちらりと真衣の方を見て確認する。
「あ……はい。あやかしのことを訊きたくて、エリート科のみなさんに、その……質問をしていました」
包帯の巻かれた右腕を擦りながら、真衣は弱々しく答える。
どう考えても話を合わせているとしか思えなかった。
そもそも真衣は普通科でも成績が優秀だし、妖力はほとんど無い分、たくさんのあやかしについて勉強し、知識を身につけている。
それにあんな場所でエリート科の生徒に質問をするぐらいなら、先生に直接質問をしに行くようなタイプだ。
かといって、全くの第三者である朱音が、真衣が突き飛ばされていたことを口にすれば、ますます話がこじれ、結果的にまた真衣が嫌な思いをするかもしれない。
何とも歯がゆい状態に朱音が奥歯を噛み締めていると、斎藤の目がこちらへと向いた。
「それで鬼ヶ華。おまえが二階から飛び降りて、狐面のあやかしを追っ払ったと」
「えぇっと、その……」
「この学園で二階から飛び降りた生徒はたぶんおまえが初めてじゃないか鬼ヶ華?」
「ひえっ。ち、違いますあの、クロが私を抱えて無理矢理……」
腕組みをして怒り顔の斎藤を前に、朱音の声はどんどん弱々しくなっていった。
斎藤は、ふんっと鼻息荒く口を開く。
「今回は被害が無かったからこの場での説教でゆるしてやる。もう二限目も始まるしな。あと三条、あやかしについて知りたいなら俺に質問しに来い」
「は、はい」
真衣と女生徒の関係をわかっているのか、斎藤は最後にそう付け足して解散となった。
エリート科の四人の女生徒は、こそこそと何かを喋り合いながら、一度真衣を睨み付けて自分たちの校舎へと戻っていく。
そして指導室を出て教室へと向かう朱音と真衣は、ゆっくりと顔を見合わせた。
「朱音、ありがとう。助けてくれて」
「何言ってんのよ。っていうか私、真衣が突き飛ばされてるのを見ちゃったんだけど」
「うん」
「うん、じゃないよ。そりゃ、言いたくないこともあるだろうけど……。ねえ真衣。私に何かできること……」
「朱音はさ」
強い語気で言葉を被せられ、朱音はドキリと口をつぐむ。
「朱音は『神様』に好かれて守られてるから、もう何も恐くないと思うの。でも、私は……」
「真衣……」
そこで、二人を分断するように授業開始のチャイムが鳴った。
お互いにそれ以上は何も言わないまま、教室に入り、自分の席に着く。
朱音は真衣の言葉を何度もリフレインさせながら、その小さな背中を見守ることしかできなかった。
「姉さん」
ようやく午前の授業が終わり、お昼休みとなった。
あれから真衣と言葉を交わすことができず、どうしたものかと考えていた矢先、扉の方からそんな声が聞こえた。
振り返ると、そこには蒼亥の姿があった。
近くの女子が黄色い悲鳴を上げ、顔を赤くしているのが見える。
「良ければ一緒にお昼しない?」
ニコリ、と蒼亥が微笑むと、更に女子たちが嬉しそうに騒ぐ。
そんな女子たちの反応は置いといて、朱音は教室に真衣の姿が無いことに気が付いた。いつもだったらお昼を一緒にする相手は真衣だ。
彼女の方から席を立ってしまっているのなら、今は顔を合わせたくないということなのだろう。
朱音は小さくため息をつきつつ、蒼亥へと向き直った。
「いいよ。何処で食べる?」
「屋上とかは?」
「はーい」
そうして一緒に屋上へ向かうことで、改めて蒼亥が普通科でも有名な人なのだと、周囲の反応でわかった。
そもそも鬼ヶ華家というだけで注目の的であり、『狗』を妖力と共に使いこなし、成績も優秀。更に、身内の贔屓目を抜きにしても、蒼亥は実にモテる見た目をしている。
エリート科のことはよく知らないが、普通科の校舎を歩いているだけで何人もの女生徒が振り返って蒼亥のことを見ているのだ。きっと向こうでも同じような扱いを受けているだろう。
教室、廊下と続き、屋上に着くまで、果たしてどれだけの生徒に蒼亥が振り返られたかわからない。容姿の良さもそうだし、エリート科の生徒が普通科の校舎にいるというだけでも目立っていたのだから。
「この辺りで食べようか」
屋上の端の方に蒼亥と朱音は腰掛けた。
ちらほらと他の生徒がいる屋上で、最もひと気の無い場所だ。
「姉さん、今日からお弁当は俺と一緒のだよね?」
「うん」
実は密かに、朱音はそれを楽しみにしていた。
昨夜の一件で使用人扱いでなくなったため、学校用のお弁当も蒼亥と同じしっかりと作られたものを渡されたのだ。
小さなお重のような入れ物の蓋を開けてみると、中には色鮮やかな和食が詰められていた。
「蒼亥……毎日こんな豪勢なもの食べてたの?」
「まあね。でもこれからは姉さんもそうなるんだよ」
「そうだけど……豪華すぎ」
そうしてお昼ご飯を口にしながら、まず蒼亥から話を切り出した。
「朝、教室に着いてから先生に許可をもらって『狗』を使ってみたんだ。そしたら、一限目が終わって休み時間に入ったら、こっちの普通科の校舎で『狐』の妖気を感じたんだけど」
「そうなの、実は……」
朱音はさっき遭遇した一連の出来事を蒼亥に伝えた。
途中、二階から飛び降りたくだりの時は軽く怒られたが、蒼亥は最後まで話を聞いてくれた。
話し終えると、蒼亥は腕を組み、口を開く。
「その……姉さんの友達の真衣さんだっけ?」
「うん」
「真衣さんはいつもそんなふうなの?」
そんなふう、というのは、エリート科の生徒に囲まれ突き飛ばされていることを指している。
まだ確定的でないことを『いじめ』の三文字でまとめたくなかったのだろう。
「そういう話は正直聞かなかったけど……ただ……」
「ただ、何?」
朱音はためらいつつ、続きを口にした。
「私がほら……椿姫さんとその取り巻きさんたちに色々されてた時、真衣がいつも親身になってくれたんだよね。そういうのは絶対許せない、って」
「姉さん……椿姫さんに学校でも酷い仕打ちを受けてたの?」
「まあ……ちょっとだけ」
蒼亥はこれ以上無いほど眉根を寄せ、口角を思い切り下げて黙り込んだ。
あの柔和で優しい蒼亥にしては珍しい表情である。
「でもほら、もう使用人扱いは終わったみたいだから、そういうのともおさらばだよ」
ジト目で蒼亥はしばし朱音を見続けたが、はあ、とため息を吐き、緊迫した空気を緩和した。
「まさか家以外でもそういうことをしていたとは思わなかった。そこは俺のミスだ」
「ミスなんてそんな……」
「姉さん。俺にとって姉さんは全てなんだよ。父さんと母さんを早くに亡くして、俺っていうお荷物を抱えて色々と頑張ってくれてさ。俺が本家にも居やすいようにたくさん頑張ってくれた」
「お荷物なんかじゃないよ。私にとって蒼亥はかけがえのない家族だよ」
「姉さん……」
蒼亥はその憂いに満ちた黒い瞳をキラキラ輝かせ、愛おしそうに朱音を見つめる。
まるで恋人同士のようなその甘い雰囲気を、許さぬ者がただ一人。
「朱音はオレのモノだよ」
ゆらり、と朱音の影が揺れると共に、そこにクロは形を成した。
天気の良い午後の背景がまるで似合わないように、陰鬱で暗いオーラを身に纏い、全てをあざけるような笑みを浮かべている。
「クロ……」
「出たな、忌神」
「おお恐い恐い」
蒼亥の睨みを真正面から受け止めながら、ケラケラと笑い、朱音の後ろに隠れるクロ。
両者の睨み合いに朱音は頭を抱えつつ、このままでは話が進まないと、パンッと手を叩いた。
「話を戻すわ。それで蒼亥の『狗』の追跡はまだ続いているの?」
「うん、続けてる。今は真衣さんたちの前に現れた狐面の残滓を探って、同じ妖力を持っている人が近くにいないか動いてるよ」
「ありがとう。凄く頼りになる」
そう言いながら朱音が微笑むと、蒼亥は少し顔を赤らめる。
そんな二人の様子が面白くないのか、クロは朱音に抱き付いた。
「ねえ朱音? 弟くんじゃなくて、オレたちで事件を解決するんじゃなかったの?」
「だってクロ、全然やる気じゃないし、何かお願いするとすぐにご褒美は、って見返りばっかりなんだもん」
隙あらば何かしてもらおうと企むクロに、朱音は嫌気が差していた。
そんな朱音の態度に焦りを感じたのか、さすがのクロも協力態勢になる。
「んもう、そんなに怒らないでよ朱音。怒った朱音も可愛いけど、笑顔の朱音が一番好きだなぁ」
「誰の所為で怒ってると思ってるのよ」
「うんうん。だからさ、ちゃんと狐面の捜査に協力するってば」
「ホント?」
「うん。まずは狐面が現れた状況から整理しようよ」
深刻な話なのにニコニコと笑顔なのは置いといて、ちゃんと協力する気になったクロは朱音にそう提示した。
「それは、まあ……私は椿姫さんたちに嫌がらせされてて、真衣も……エリート科の生徒に囲まれていた、よね」
「俺も今回の狐面の登場で、前回と共通点があることには気付いてた」
「つまり……いじめられた生徒の所に現れてる、ってこと?」
「まだ二回しかケースがないから断定はできないけど……今のところそうなるね」
「だから賢神アクルであっても探りにくいのかも」
クロの言葉に、朱音は首を傾げる。
「どういう意味?」
「つまりトリガーがないと『呪い』は発生しないようになっているから、発生していない間は妖力や犯人との繋がりが無いってこと。例えば今、弟くんは『狗』を使い続けているから、第三者はその妖力を辿ってその『狗』を誰が使役しているかすぐにわかる。でも今回の『呪い』は発生するまで表に出ないから、妖力を辿る期間が限られているってこと」
「なるほど……」
口元に手を当て、蒼亥は頷く。
妖力を一切持たない朱音には感覚的にわからない部分もあったが、蒼亥の方は強い妖力を持っているためか、よく理解できたようだ。
「でもそうなると、次にまた狐面が騒動を起こさなきゃ犯人探しができないってこと?」
「いや……『狗』の索敵はそこまで弱くない」
蒼亥は、何かを嗅ぎつけたように空を見上げていた。
しばらくそうしていた蒼亥だったが、神妙な顔付きで俯き、そしてゆっくりと朱音の方を見た。
「まだ確定的ではないんだけど……」
「なに?」
「今日の放課後、真衣さんを交えて話をしてもいいかな?」
「えっ……それって……」
そこでお昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
蒼亥はすぐにお弁当箱をしまい、立ち上がる。
「もう一度言うけど、まだ確定的ではないから。だから……放課後、お願いね」
エリート科の校舎がここからだと遠いこともあり、蒼亥は颯爽と屋上から去っていってしまった。
残された朱音は、蒼亥からの言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、真衣のことを考える。
確定的ではなくとも、蒼亥の『狗』が探った結果に真衣が関わっていたことは事実だ。
それがどんな結果であろうと、友達として真衣のことを受け止めなければならない。
「あーかーね」
暗い気持ちで落ち込んでいた朱音の背中から、クロが飛び付くように抱きしめてくる。
クロは、朱音の今の感情を知った上で、目を細めて笑っていた。
「大丈夫だよ。朱音にはオレがいるでしょ?」
「クロ……」
「友達と家族が居なくなっても、オレだけはずーっと朱音の傍にいるからね」
誘惑するような、甘ったるい声音。
それが耳元で囁かれるものだから、朱音は慌ててクロを引き剥がした。
「……っ」
離れたからこそ見えた、クロの表情。
それはこの状況を楽しみ、そして落ち込む朱音に対しチャンスだと感じている笑顔だった。
忘れてはならない。彼は忌神だ。
少しでも気を抜いたら、すぐに彼の忌むべき心に飲み込まれてしまう。
だから朱音は、自分の頬を両手で叩いた。
突然のことにクロは目を丸くする。
「……よし。クロ、悪いけど私、そんな口説き文句なんか全然刺さらないから。真衣のことが気になるのは本当だけど、でも、友達としてどんな結果であろうと受け止めたいって思ってる」
ビシッとクロを指差し、朱音はハッキリと宣誓する。
しばしの沈黙。
そして先に動いたのはクロの方だった。
「はあ……オレの朱音はどこまでも素敵だなぁ」
暗い目を輝かせ、うっとりと恍惚の笑みを悩ましげに浮かべるクロ。
文字通り人間離れした美男子のその姿はあまりにも魅力的だったが……朱音はそれでも強い心のまま、クロが自分の影へ帰っていくのを見届けるのだった。
◆◇◆
いくつかの授業を終え、ついに放課後がやって来た。
いつもならば椿姫よりも早く帰り、使用人としてのアレコレをこなさなければならなかったが、それはもう無くなった。
しかしその代わりに、今は真衣を引き留め、話をしなければならない。
一体、蒼亥は真衣に何を言うつもりなのか。
それを考えるだけで気が重かった。けれどもこれ以上の被害を考えたら逃げるわけにもいかない。
だから朱音は、意を決して真衣に声をかけた。
「ね、ねえ真衣」
「………」
午前のやり取りもあってか、朱音も真衣も気まずそうに顔を合わせる。
真衣はどう思っているかわからないが、朱音自身は午前のやり取りのことを深く反省していた。
『そりゃ、言いたくないこともあるだろうけど……。ねえ真衣。私に何かできること……』
思い返せば、まるで問い詰めるような言い方をしてしまった。その少し前まで、エリート科の女生徒たちに囲まれて恐い思いをしていたというのに。
朱音は、その反省を胸に、真衣へと向き直る。
「さっきは、ごめん。真衣の気持ちを考えてなかったし、私に何かできることはないかなんて偉そうなこと言っちゃって」
先に朱音が謝罪を口にしたからか、緊張で硬くなっていた真衣の表情が柔らかくなった。
「……ううん。私こそ気が立ってて、酷いこと、言っちゃって……」
真衣が泣きそうになるのを見て、朱音は被せるように声を上げる。
「言い方は間違っちゃったかもしれないけど、私にできることがあるなら何でも言ってほしい。全力で力になるから」
「……っ」
「ね?」
「朱音、私……」
真衣は何かを言いかけ、包帯の巻かれた右腕を左手で擦り、言い淀む。
教室からはどんどん人がいなくなり、ついには二人きりになった。
校庭では陸上部とサッカー部の練習風景が見える。
夕焼けが二人の頬を照らす中、朱音はただ、真衣の言葉の続きを待った。
何か、大切なことを言ってくれるのだと思い、ただ待った。
しかし。
「わああああ!」
何処からか聞こえてきたのは男の悲鳴。
朱音と真衣は、顔を見合わせた。
「い、今の……」
「たぶん中庭の方だよ!」
言って、二人は一緒に中庭へと急いだ。
教室の位置的に、中庭はそう遠くない。
一分もかからずに中庭に辿り着いた二人は、その光景を見て息を呑む。
そこにいるのは数人の男子生徒。
一人は木を背にして半泣きで、他二人の生徒は地面に倒れている。
そしてその中心にいるのはあの狐面。
「あっ!」
狐面は朱音と真衣が現れるのと同時に、入れ替わるように立ち去ってしまった。
仕方なく朱音は、意識のある半泣きの男子生徒に声をかけた。
「大丈夫?」
「あ、は、はい」
「何があったの?」
「いや、えっと、その」
制服についたバッジを見るに、目の前の生徒は普通科の生徒で、地面に倒れているのはエリート科の生徒だということがわかる。
「あの、あの……僕、呼び出し……ここに来るように言われて、その……色々話してたらさっきのあやかしがいきなり……!」
半ばパニックになっている彼は、言いにくそうにしながらもそう話した。
気を使ってはいるものの、この状況からしていわゆる『呼び出し』を喰らったのだろう。
つまりまた『いじめ』のような現場に狐面は現れたということになる。
「姉さん!」
まだ学校に残っていた生徒や部活中の生徒が少しずつ集まって来た中、聞き慣れた声が中庭に響く。
蒼亥が急いでこちらへやって来ていた。
「平気? また狐面が出たんでしょ?」
「私は平気。襲われたのは彼らみたいで……」
「隣のクラスの奴らだ」
地面に倒れているエリート科の生徒たちを見て、蒼亥は見覚えがあったのかそう呟く。
また、察しの良い蒼亥は、普通科の生徒のことも含め、どういう状況だったか理解したようだった。
「やっぱり、特定の状況下で発動する『呪い』なのか……」
「私もそう思ってたところ。ねえ真衣、真衣はあの時……あれ?」
そこで朱音は、一緒に来ていたはずの真衣の姿が無いことに気が付いた。
だんだんと生徒たちが集まって来ているが、どこにも真衣の姿は無い。
「どうしたの?」
「真衣と一緒に来たはずなのに、姿が無いの……」
「……姉さん。真衣さんのことなんだけど」
蒼亥が深刻な表情のまま口を開いた。
「俺が使役している『狗』に狐面の痕跡を調べてもらったところ、とある人物の気配に辿り着いたんだ」
「それが真衣ってこと……?」
一つ、蒼亥は静かに頷く。
「つまり一連の狐面の呪いは、真衣がやったってこと?」
「さすがにそこまでは断定できない。ただ、何らかに真衣さんが関わっていることは確かだってことになるよ」
「………」
朱音は愕然とした表情で立ち尽くした。
まだ犯人だと決まったわけではなくとも、この事件に関わっているというだけで胸が痛くなる。
何より今、この状況でその姿が無いことが歯がゆくして仕方が無かった。
「真衣……真衣は今どこに?」
無駄だとはわかっていても、朱音は真衣へと電話をかける。
もちろん向こうからの応答は無い。
「真衣……っ」
どんな結果であっても真衣とは友達だ。受け止めたい。
それなのに今、真衣の姿が無い。
話を聞くことも、話し合うこともこのままではできない。
だから朱音は、一度深呼吸をし、冷静さを取り戻した上でその名を呼んだ。
「クロ」
途端に、朱音の影が揺れ、人のカタチを成していく。
「どうしたの朱音?」
優しい声音で訊ねてくるクロのその笑顔は、全てを見透かしている。
「真衣の居場所を知りたいの。クロならわかる?」
「もちろんわかるよ。だって、『呪い』の気配が付着してるもん」
「なっ……」
思いもよらない返答に、朱音も、後ろにいた蒼亥も絶句する。
「それ、どういう意味……?」
「そのままだよ。彼女の右手の包帯……あれ、呪い返しを受けた所為だね」
「呪い返し……」
クロの言葉に、朱音は言葉を失った。
呪い返しという、呪いを行使した人間に返って来る呪いの存在を忘れていたこと。
そして、クロは早々に真衣が今回の騒動に関わっているとわかっていたこと。
その二つに対し、朱音は驚きを隠せずにいた。
「クロ……どうして言ってくれなかったの……」
「うん? だって朱音は、オレじゃなくてそっちの弟くんを頼ったでしょ?」
ニンマリと笑うクロを前に、朱音はまたも絶句する。
つまりクロは、朱音が自分以外を頼ったから、知っていることについて訊かれるまで何も言わなかった、ということになる。
いうなればそれは嫉妬だ。
嫉妬の感情だけで、クロはそんなにも大切な情報を隠したままにした。
目を細め、口端を持ち上げて笑うクロの姿に改めてゾッとする。
始めは『神』が味方になってくれて嬉しいとすら朱音は思っていた。
だけど違う。
扱い方……というより頼り方を間違えてはならない相手なのだと、改めてわからされた。
理事長先生たちがあんなにも警戒していたのがよくわかる。
「ねえ、朱音。怒った?」
クロは、朱音の考えを見抜いている上でそんなことを訊いてくる。
朱音は色々な感情をグッとこらえ、クロへと向き直った。
「怒ってないよ。私がクロを頼らなかった結果なんだから」
「うんうん。朱音が頼るべきはオレでなくちゃ」
クロは、その白くて長細い人差し指を朱音の顎下に添え、クイッと自分の方へ朱音の顔を向かせた。
「朱音が頼ってくれるなら何でもしてあげる。本当に、何でも。だけど朱音が頼ってくれないなら何もしない。朱音にはオレしかいないんだ、ってわかるまで、何にも、ね」
「わかった。肝に銘じておく」
「それなら良かった」
クロの人差し指が朱音の唇をなぞる。
だいぶ機嫌が戻ったようである。朱音はすぐに気持ちを切り替えた。
「じゃあクロ、真衣の居場所を教えて」
するとクロは、ゆっくりと指先を上に向ける。
「屋上に居るよ」
「屋上……」
場所が場所なだけに嫌な予感がし、朱音は考えるより先に走り出していた。
クロはもちろん、蒼亥もそれに続く。
後ろの方では斎藤先生が駆け付けて何か言っていたが、今回は見つかる前にその場を去ることができたのだった。
「真衣!」
勢いのままに、朱音は屋上の扉を開けた。
放課後ということもあり、お昼のように生徒の姿は無い。
あるのは、フェンスの前に立つ真衣の姿だけ。
「……朱音」
包帯の巻かれた右腕を痛そうに擦りながら、真衣はゆっくりと振り返る。
「ごめんなさい、朱音……私……」
「そんなことはいいから! 大丈夫なのッ?」
「だめ、かも……」
弱々しい声だった。
そして朱音には見えた。
真衣の右腕に、赤い炎が宿っていることに。
「っ……!」
「真衣!」
痛そうにうずくまる真衣の身体ごと、炎が広がっていく。
まるで人体発火してしまっているかのようなその光景に、朱音は体が震えた。
「なんとか……なんとかしなきゃ……っ」
呪いの真相についてはまだ何もわからない。
真衣が犯人なのか。クロが言う通り右腕が呪い返しならば、真衣が呪いを開始したのか。
わからないことばかりだが、それでも朱音にとって、真衣が友達であることは変わりない事実だった。
だから今、ただ思うのは真衣を助けたいということだ。
「……っクロ!」
背後にいる蒼亥ではなく、朱音はクロの名を口にした。
途端にクロは、朱音の隣に立つ。
「どうしたの?」
今がどういう状況かわかっていながら、クロは笑顔のまま朱音を見下ろした。
「真衣を助けるにはどうすればいいのか教えて……っ」
「『呪い返し』は呪いを行使した者に絶対にやってくるものだからなぁ。まあ、所詮は『狐』だから、少し脅かせば一時的に逃げ出すかもね」
他人事のようにクロはそう告げた。
正直言って『狐』はあやかしの中でも上位種に当たる存在だ。
それに対しそう軽々と言ってのけられるのは、クロが『神』であるからだ。
そしてその『神』に頼むには何をすればいいか。朱音はここに至るまでにそれを学んである。
「クロ……何をすれば真衣を助けてくれる?」
朱音は、真っ直ぐとクロの目を見ながらそう告げた。
その目は覚悟が決まっている。
途端にクロは、うっとりとした恍惚混じりの笑顔を浮かべた。
「あぁ……本当に朱音は素敵だね。『神』に対してそんなに美しい眼差しを向けてくれるだなんて。誰もが忌み嫌うこの『神』を必要としてくれるだなんて。愛しているよ、朱音。……じゃあ、お代はキミからの口付けにしようか」
「なっ……」
クロの言葉に驚きの声を上げたのは蒼亥の方だった。
当の朱音は無言のまま一つ頷く。
「わ、わかった。だからお願い、真衣を助けて」
「承知した」
ずるり、と。
朱音の影からクロは分離する。
カラコロと下駄が鳴り、美しい夕日の光は影色の黒い着物とトンビコートの輪郭をくっきりと映し出した。
その光景は一枚の絵画のように幻想的で、それでいてどこか退廃とした不気味さがあった。
「………」
クロは、痛みでうめく真衣を見下ろす。
その体からできた影が真衣をすっぽりと覆うと、真衣を包んでいた炎が怯えるように揺れた。
「矮小な呪いだね。そこの女から離れてもらおうか」
「……っ!」
クロが、青白い腕を黒い着物の裾から伸ばし、包帯の巻かれた右腕を強く掴む。
途端にギャンッという獣の鳴き声が……おそらく狐と思われる鳴き声が響き渡り、それと同時に真衣を包む炎が消えていった。
そうして真衣は、力無くその場に倒れ込んだ。
「真衣!」
慌てて真衣の元へと駆け寄った朱音は無事を確かめる。
ぐったりとしてはいるが、呼吸は続いているし鼓動もある。気絶しているようだった。
「良かった……」
もしあのまま『呪い返し』を喰らい続けていたらどうなっていたのだろうか。
考えただけでも恐ろしくなる。
「姉さん。真衣さんは俺が保健室へ運ぶよ」
「ありがとう蒼亥」
気が利く蒼亥はすでに行動に移っており、真衣を労わりながらその体を背負った。
蒼亥の背中にその身を預ける真衣を見て、前に真衣が蒼亥を凄くカッコイイとかときめく美男子だとはしゃいでいたことを思い出した。
後で蒼亥に背負ってもらったことを伝えたら、一体真衣はどんな反応を示すだろうか。
「………」
そんなことを考える一方、この『呪い』の騒動の中心に真衣がいるという事実が朱音の顔を曇らせた。
妖力が一切無く、家でも椿姫を筆頭に役立たずの出来損ないとして扱われていた中で、仲良くしてくれた友人。
学園でも妖力の無さで馬鹿にされていたが、代わりに怒ってくれた真衣。
そんな真衣が、『呪い返し』を喰らうほど誰かを呪っていたのは隠しようが無い事実だ。
「っ……」
気付けば朱音は涙を零していた。
そんなにも追い詰められていた真衣のことを何にもわかっていなかった自分の不甲斐なさに、朱音はポロポロと涙を零す。
少し前を歩く蒼亥は気付いていない。
だが、隣を歩くクロは違う。
「……おいで」
優しく誘う声。
着物の裾で朱音の涙を拭ったかと思えば、そのままギュッと抱き締める。
「クロ……」
ざあぁっとノイズのような音が響き、闇が、朱音だけでなくクロも一緒に包み込む。
「……姉さん?」
そうして振り返った蒼亥は、クロだけでなく朱音の姿もいなくなっていることに気が付くのだった。