【第三章】
「ふう……」
全ての授業を終えるチャイムが鳴り響き、朱音はややぐったりとした様子で机に突っ伏した。
あのあと、理事長二人には犯人探しの件は内密にすることと、自分たちも出来得るだけ協力するということを言われクラスへと帰らされた。
そしてクラスに帰る際、他の生徒を驚かさないためにも、クロは緊急時以外、実体化しないという約束を交わした。
最初はごねていたが、朱音の説得により、影の中へ溶けて消えたのだった。
「朱音、平気? なんか疲れたサラリーマンみたいだよ」
真衣からそんなふうに声をかけられ、思わず笑ってしまう。
体を起こした朱音は、帰りの支度をし始めた。
「ちょっとまあ、色々あってね」
「今日はなんか朝から騒ぎだったもんね。購買の近くであやかしが暴れたんでしょ?」
「あー……そうみたいだね」
まさかそのあやかしと対峙した当事者だとは言えず、朱音は言葉を濁した。
「エリート科の鬼ヶ華さんが襲われたって聞いたけど」
「うん、そうみたい。蒼亥が付き添いで早退してた」
朱音は、自身がクロの屋敷に居た間のことを理事長たちから聞かされていた。
そうやらあの狐面は、クロに弾き飛ばされたと同時に消え去ったらしい。
狐面に襲われた生徒たちの中に負傷者はいなかったが、大事を取って簡単な事情聴取だけして帰宅を命じたとか。
その中には朱音のイトコである椿姫も含まれており、理事長たちの話によると、朱音の双子の弟の蒼亥を付き添いに指名して帰ったらしい。
「じゃあね真衣。また明日ね~」
「うん。ばいばーい」
いつものように挨拶を交わし、朱音は帰路につく。
学園の校門前では、エリート科の生徒の送迎者が何台か停まっていた。
妖協学園の、とくにエリート科には、鬼ヶ華家のような格式高い名家の子息が通っていることもあり、ああやって送り迎えをしてくれている家もある。
実際に椿姫もその類だ。
蒼亥も椿姫に誘われていたが、朱音のことを思ってなのかそれは辞退していた。
そんな送迎者を横目に、朱音は考える。
あの狐面のあやかしは、何が狙いだったのか、ということだ。
購買前で突如として現れたあの狐面は、そもそも何を狙ってあの場に現れたのだろうか。
結界の関係で内部の犯行である線が高いとなると、無差別、というよりは個人的な恨み、または目的での犯行だと思うのだ。
何せ『狐』のあやかしは、他のあやかしに比べて『呪い』の力に特化しているのだから。
「あの場にいたのは、私と椿姫さんとその取り巻きの人たち……」
そして何の脈絡も無く、狐面のあやかしに襲われた。
幸い怪我人は出なかったが、それなりに殺意の高い動きをしていたのも事実。
「うーん……これ以上考えてもわからない……」
そうこうしているうちに、朱音は鬼ヶ華家へと到着していた。
平屋で造られた、年代を感じさせる荘厳な屋敷。中には池を携えた和風庭園があり、植えられた草木の色付きによって四季を感じることができた。
朱音は、本家の人たちが使用する門を通り過ぎ、勝手口となる小さな扉から中へと入る。
そのまま自分の部屋へと帰ろうとした、その時。
「遅かったじゃない」
怒りを孕んだ甲高い声が聞こえて振り返ると、廊下に、腕を組んで苛立った表情で仁王立ちしている椿姫の姿があった。
「つ、椿姫さん。あの……ただいま戻りました」
「あんた、私があやかしに襲われたって知っておきながら、突然どこかへ行って、呑気に帰ってきたってわけ?」
椿姫の言葉に、朱音は黙る。
確かに椿姫からすると、あの場ではいきなり朱音が消え去った……つまり逃げたように見えていたらしい。
誤解であるのだが、果たして何て説明すればいいのか頭を抱えた。
「それに……何? あんた、変なもんまとわりつかせてない?」
「え……」
「妖気とも違う……なんなの、気味悪い」
もしかするとそれはクロが原因だろうか。
そう思っていた矢先、今度は蒼亥の姿が飛び込んできた。
「椿姫さん、あの!」
そこで一度、蒼亥は朱音の姿を確認し、改めて椿姫へと向き直る。
「あの、大広間に……天鬼様が現れまして……」
「なんですって?」
それまで勝気だった椿姫が、明らかに顔色を変えた。
天鬼様……それは、鬼ヶ華家が代々契約している『鬼』のあやかしのことであり、『鬼』の中でも頭領を務めているような存在である。
今、鬼ヶ華家の当主となる椿姫の両親は、事業拡大のために海外出張で出払っている。
つまり、この鬼ヶ華家本家を任されているのは椿姫であり、そして契約した『鬼』とやり取りを交わすのも椿姫の役目である。
「わかったわ蒼亥さん。今すぐ大広間に……」
「それが」
珍しく椿姫の言葉を遮り、蒼亥は口を開く。
その目は朱音の方を向いて。
「天鬼様いわく、今この屋敷に帰ってきた者も同行させろ、とのことでした」
それはつまり、朱音のことである。
驚きで固まる朱音を余所に、椿姫は声を上げる。
「なんでこの出来損ないを……っ」
鬼ヶ華家の恥となるような者を天鬼様の前になど出したくないという気持ちと、しかしその天鬼様が朱音を指名しているという葛藤。
椿姫は口元を歪めながら、朱音に告げる。
「天鬼様の前で少しでも鬼ヶ華家の恥になるようなことをしたら、すぐに家を追い出すからね」
「は、い……」
まさに鬼の形相といった椿姫を前に、朱音は静かに頷くことしかできなかった。
◆◇◆
滅多に来ることの無い大広間へと向かった朱音は、正座と共に三つ指を揃えて深く頭を下げた。
使用人が襖を開き、ゆっくりと顔を上げる。
五十以上の畳が敷き詰められた、広く奥行きのある空間が目の前に広がった。
鬼の透かし彫りのされた欄間が均等に配置され、その最も上座となる場所には妖しく光る一本の妖刀が祭られている。いわく、鬼ヶ華の初代当主が、『鬼』との契約の証として授かった妖刀なのだとか。
「来たか」
涼やかな声がどこからともなく聞こえた。
上座に近い柱の影から、一人の男が姿を見せる。
後ろで一つに結んだ赤い髪に、おでこの左右から生えた角。金色の目は肉食獣のように鋭く、口から覗く牙は猛獣と同じぐらい研がれていた。
平安貴族のような服を身に纏うその男こそ、この鬼ヶ華家が契約する『鬼』のあやかし、天鬼様であった。
「こちらへ来い」
天鬼からの言葉に従い、椿姫、蒼亥そして朱音は、極力音を立てぬように畳の上を歩き、大広間の中頃で再び正座をした。
まず口を開いたのは椿姫だった。
「天鬼様。今回は一体どうしたというのですか? 突然顕現されるだなんて……」
「先程、この家に入って来たのはどいつだ?」
椿姫の言葉に被せ、天鬼は問う。
神経質そうに椿姫はピクリと肩を震わせ、蒼亥は心配そうな眼差しを朱音へと向けた。
「あ……わ、私です……」
天鬼とは初対面となる朱音は、恐る恐る返事をした。
すると、天鬼は口元に手を当てながら、まじまじと朱音を見定める。
「ふむ、やはりか。先程、この家に邪悪な気が入り込んだと思ったが……それと同じ気がおまえから漏れ出ている」
予想外の言葉に、朱音は目を見開いた。
「そんな、私は何も……」
「天鬼様を疑う気なのッ?」
声を上げた途端に、椿姫から鋭い叱責を向けられた。
確かに失礼だったかもしれないと朱音は委縮しつつも、しかし天鬼様自らが動いているこの事態に、ただ黙っているだけでは本当に家を追い出されるのではないかと心配でならなかった。
「その奇妙な邪気はなんだ? 呪いとも違う……災いそのもののような、禍々しい気配」
畳の上を滑るように歩きながら、天鬼は朱音の前に立った。
見上げた先の天鬼の姿は、まさに『鬼』の頭領に相応しい威圧感を持っている。
「あ、の……」
「この家への災いならば、わしは祓う義務がある」
ゆっくりと、天鬼が朱音の方へと手を伸ばす。
思わず朱音はギュッと目を閉じた。
「触るな」
キシリ、と空気にヒビが入るような感覚。
どこかで聞いたようなその声につられて目を開けてみれば、そこには天鬼の手を掴むもう一つの手があった。
「……貴様」
天鬼ともあろう存在が、顔を歪ませ驚いている。
「オレの朱音に触るな」
朱音を背後から抱きしめる体勢で天鬼の腕を掴むのは、朱音の影から現れた忌神クロであった。
「クロ……」
「朱音、平気?」
クロは朱音の顔を覗き込みながら、心配そうに尋ねる。
椿姫も蒼亥も、見知らぬ男の登場に驚き、固まっていた。
ただ一人、天鬼だけは、目を見開き口元を引き攣らせている。
「忌神……だと……」
そう口にした途端、朱音に触れようとしていた天鬼の手が、掴んでいるクロの手によって闇に呑まれる。
「ぐあっ!」
天鬼は数歩退き、無くなった自身の手を急いで治癒し始めた。
「あ、天鬼様……! こ、これは一体何事なのッ!」
わけがわからないといった感じで、しかし朱音を睨みつけながら椿姫は声を上げる。
隣にいた蒼亥もまた、困惑した表情を浮かべつつ、こちらはクロの方を睨みつけていた。
「姉さん、そいつは何……ッ?」
いつでも『狗』を呼び出せるよう、蒼亥は構える。
だが、蒼亥からの敵視など気に留めもせず、クロは冷めた目線を蒼亥へと向けた。
「『鬼』ですら相手にならないオレに、『狗』なんかが効くわけないでしょ」
「くっ……」
「ここは騒々しいね。やっぱり朱音はオレの家に居るべきじゃないかなぁ」
朱音をギュッと抱きしめながら、クロは甘えた口調でそんなことを言う。
その光景に蒼亥はますます敵意を高めるが、しかし本能的に力の差が歴然であることを理解してしまっていた。
「忌神……」
クロに消された手を、この短時間で治癒し終えたのは、さすがは『鬼』といったところか。
天鬼は苦々しい表情のまま、改めてクロと朱音を見た。
「何故貴様が人間と共にいる」
「だってオレは朱音のお婿さんだもん。旦那様で、夫で、花婿。ね?」
緊張した天鬼など歯牙にもかけず、クロは呑気な口調で朱音の方を向く。
板挟みになっている朱音は非常にいたたまれなかった。
「あのですね……彼は十年前の恩を返すために、私を色々とその……助けてくれまして」
「そう。だから朱音に手出しする奴には容赦しないから」
クロの口元はヘラリと笑いながら、目元は一切笑っていない鋭さで目の前のモノを射抜く。
天鬼と蒼亥は、クロのヤバさに気付いている。
ただ一人、椿姫だけは違った。
椿姫ももちろんヤバさは感じ取っているが、それ以上に朱音の態度が気に食わなくてしょうがない。
天鬼様に失礼な態度を取り、突如現れた忌神とかいう顔のイイあやかしにちやほやとされている。
それだけで椿姫は我慢ならなかったのだ。
「忌神だか何だか知らないけど、鬼ヶ華家の当主は今はこの私よ。私に歯向かうならこの家から出て行ってもらうから!」
その気丈さだけならば立派なものである。
相手が『神』であり、この状況に置いて朱音に対するちっぽけなプライドを捨てるべきであったということを除けば。
「こいつ、うるさいね」
ぞわり、と背筋を逆撫でされるような感覚が、その場にいる誰もに走った。
底冷えするようなその声音と共に、クロは、ゆっくりと椿姫の方を向く。
「ずっと気になってた。朱音に対して失礼な目を向けてること。帰ってきた朱音にもキャンキャン犬みたいに喚き散らすし」
「く、クロ……?」
「いらないよね、こんなやつ。朱音の人生から消していいよね?」
口角を上げて笑うクロの口元は、闇夜に浮かぶ三日月のようだった。
さすがの椿姫も旗色の悪さを感じ取ったのか、傍に居た天鬼へと助けを求める。
「あ、天鬼様……この不届き者を追い出して下さい……っ」
鬼ヶ華家の敵は天鬼の敵でもある。
これまでだって、鬼ヶ華家に無礼を働いた者は『鬼』の力によって問答無用でわからせてきた。
だが、天鬼から返ってきた言葉は冷淡なものだった。
「馬鹿を言うな椿姫。力量差が見極められぬほど、おまえは愚かではないだろう?」
「で、ですが……」
「わからぬのか? 奴が慈悲をくれているから我々はまだ生きているのだ。朱音という娘への気遣いが無ければ、我々はとっくに闇に呑まれている」
「……っ」
ついに椿姫は黙りこくり、それでも悔しそうに、最後の抵抗とばかりに朱音を睨みつける。
「まだそんな目をオレの朱音に向けるんだ。目玉をえぐって、口を縫って、そのまま土の底へ埋めてしまおうかな」
「クロ!」
あまりにも恐ろしいことを言うクロを、朱音は慌ててたしなめた。
「私は大丈夫だから、あんまり恐いこと言わないで」
「朱音は嘘が上手だね。大丈夫なんかじゃないでしょ? 十年前からずっと、朱音だけ格差のある扱いを受けてきた。そうでしょ? オレは何でもお見通しだよ」
「それは……」
「この家にいる限り、朱音は酷い目に遭うんだよね? だったらオレからできる提案は二択。オレの家に来るか、この場で全員皆殺しにするか。朱音はどっちがいい?」
そんなの、選択肢など始めから無いのと同じだった。
そこまで考えて朱音は、もしかしたらクロがこの状況を待っていたのではないかと思い立つ。
全てお見通しというのならば、狐面から助けてくれて屋敷に連れて行かれたあの時だって、家に帰ればどういう扱いを受けるのかわかっていたということだ。
それなのにあの時、強引に屋敷へと引き留めなかったのは……
こうして人質のように椿姫や蒼亥の命を天秤にかけさせることで、朱音の選択肢を一つに絞らせようという魂胆だったのではないだろうか。
「………」
朱音は、首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
目の前でニコニコと笑うクロが、恐ろしくてたまらない。
『逆に言うと、学園の平穏は朱音くんの一存にかかっているとも言えるがのぉ』
今日言われた時房理事長からの言葉が、頭の奥でリフレインした。
強い意志を持たなければ、この忌神に飲み込まれてしまう。
朱音はグッと奥歯を噛み締めた。
「クロ。私はどっちの選択肢も選ばない」
朱音の返答に、クロは笑顔のままゆっくり目を細める。
「……どうして?」
「確かに私はこの家であまり優遇されていないけれど……だけど、身寄りの無い私と蒼亥を育ててくれた恩がある。それに、今の環境に甘えていたのは私だから。もし環境を変えたいなら、自分でどうにかするよ」
まぎれもない本心だった。
思えば、今の環境でいいと、とくに何もしてこなかったのは自分だ。
蒼亥から提案されても今の扱いでいいと思ったのも自分だし、もしこの家のことが嫌ならば出て行く選択肢だってあるはずだ。
耐えればいいと、結局何もしてこなかったのは自分自身だと、朱音は逆に気付かされた。
「椿姫さん」
朱音は椿姫へと向き直り、そっと頭を下げた。
「クロが失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした。クロは忌神ではありますが、鬼ヶ華家に害をもたらしに来たわけではありません。なのでどうか、引き続きクロと共に私をこの家に置いて下さい」
もちろん朱音も、もう黙って椿姫の言い成りになる気はない。
これは、先程まで散々見せ付けられたクロの恐ろしさを加味した上での交渉だ。
現に椿姫は顔を引き攣らせている。
「っ……いいわよ。ただしお父様とお母様にこのことは報告させてもらいますからね」
「はい。ありがとうございます」
「それと……明日から使用人の真似事はしなくていいから。うちの使用人はもう事足りているし」
クロの影響か、悔しそうにではあるが椿姫はそう言い捨てた。
もしもこれ以上、朱音を使用人としてこき使えばクロがどう出てくるか……それを考えられないほど椿姫も馬鹿ではない。
だから鬼ヶ華家の当主として、これ以上無い的確な判断であったと言える。
「ふむ」
そんな二人の様子を見ながら、天鬼は朱音へと視線を移しながら一人感心する。
「よく知らぬ娘だったが……なかなかに気高いな」
「オレの朱音だからね。あげないよ」
「わかっている。おまえのモノに手を出す愚かなあやかしなどいるものか」
横から割って入ってきたクロに、天鬼は即座にそう言い切った。
「ああ、朱音……オレの提案を蹴られちゃったのは悲しいけど……そういうところも素敵だなぁ」
クロは朱音の頬を撫でる。
その目にはハートマークでも浮かんでいそうなほど、クロはうっとりとした様子だった。
「ねえ……本当にオレの屋敷に来ないの? オレと一緒に二人っきりで、甘い夜を過ごそうよ」
「しないってば、もう」
ベタベタと引っ付こうとしてくるクロを押し退け、朱音はうんざりとした口調でそう答えた。
だが、その顔のどこかには感謝の気持ちも浮かんでいた。
クロがこの事態を起こしてくれなければ、一生、何もしないままだった気がしたから。
「クロ……ありがとう」
「朱音~!」
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟きだったはずなのに、クロにはしっかりと聞こえていたようで、勢いのままに抱き付いてきた。
朱音は大型犬がなついてくるような気持ちで、もう抵抗する気もせず好きにさせておく。
「………」
そんな朱音とクロを見つめる蒼亥は、何か言いたそうに唇を固く閉じていたのだった。
◆◇◆
「はあ……緊張した」
このお屋敷の中で最も狭い部屋――六畳一間の自室へと入った朱音は、畳の空いているところにゴロンと寝そべった。
思えば今日は朝からとんだ騒ぎ続きだった。
狐面に襲われ、クロに助けられつつさらわれ、学園に戻ったら理事長たちと会話し、そして帰宅すれば天鬼と椿姫に真っ向から意見を告げた。
色んなことがいっぺんに起こった一日だったが、なんだかんだ一番緊張したのは、先程、椿姫に面と向かって自分の意思を通した時かもしれない。
それぐらい朱音は、長い間、椿姫とこの家に対し無気力でいたのだ。
「朱音、よく頑張ったね。ご褒美に膝枕をしてあげるよ」
「けっこうです」
寝転がった朱音の傍で正座しながら、クロはそんなことを言ってくる。
恐ろしい忌神としての威厳は、一体どこへ行ったのやら。
少なくとも朱音の前では、お茶目な一面ばかり見せる。
だが、だからこそ恐ろしくもあるのだ。
少しでも目を離そうものなら、息をするのと同じぐらい簡単に、人を消し去ってしまえる力を持っている。
クロは恐ろしい忌神であることを、常に頭の片隅に置いておかねばならないと思った。
「姉さん」
不意に、襖の向こうからそんな声がかけられた。
よく知ったその声の主は蒼亥だったので、朱音は体を起こし襖を開ける。
「どうしたの?」
「姉さん、ちょっといいかな」
言って、入室してきた蒼亥は、クロを鋭く睨みつけた。
基本的に温厚な蒼亥が、そんなふうに敵意を露わにするのは初めてで、朱音は少々戸惑ってしまった。
「あの……クロがいない方がいいなら席を外してもらうけど」
「いや。むしろ忌神にも訊きたいことがある」
朱音から差し出された座布団の上に蒼亥は座り、真面目な表情でそう言った。
「姉さん。そこの忌神が姉さんの旦那だとか言ってたけど……本当なの?」
「それは……まだわからない話で……」
「わからないってことは可能性があるの?」
「まあ、それなりに」
朱音の物言いが何とも歯切れの悪いものなのは、クロの様子を伺っているからだ。
あまり下手なことを言って怒りでもしたらどうなるか、考えただけでも恐ろしい。
そのことを蒼亥だってわかっているはずなのに、彼は少しも譲らず、強気に出る。
「正直言って、俺は反対だよ。こんな、力で相手を屈服させるような奴が旦那だなんて、姉さんが苦労することがわかりきっている」
「蒼亥……」
「姉さん。今からでも遅くないから、理事長先生にでもこのことを話して、的確な処分をしてもらうべきだよ」
「えっと……一応もう理事長先生たちには話してあるよ」
「なんて言ってた?」
「それは……」
狐面のあやかし退治に協力することを条件に出されたと言いかけ、はたしてどこまでこのことを喋っていいのか迷ってしまう。
そこに割って入ったのはクロだった。
「キミ……オレと朱音の邪魔をしたいの?」
ニタニタと笑いながら、クロは蒼亥を指差す。
細くて長いその人差し指が、まるで鋭利なナイフにでも錯覚してしまうほど、クロから強い殺意が放たれていた。
それでも蒼亥は退かない。
その端正な顔に強い意志を乗せ、真っ向からクロと対峙する。
「姉さんを困らせるなら容赦はしない」
「クッ……ハハハ。容赦はしない? キミごときが?」
「俺は刺し違えてでも姉さんを守る」
「相手にもならないことぐらい、キミだってわかっているだろうに」
クロは蒼亥のことをまるで相手にしていない。
小さな子供のわがままを、はいはいと流し聞きしているような態度だ。
そんなクロの態度に怒りを見せたのは、蒼亥ではなく朱音だった。
「……クロ」
朱音から名前を呼ばれ、嬉しそうにクロはそちらを向く。
しかし朱音から怒りの色が見え、クロは笑顔のまま固まった。
「蒼亥は私にとって大事な双子の片割れだから。蒼亥に失礼なことをするなら、もうクロと口きかないからね?」
「えっ……それは嫌だ」
思ったまんまを口にするクロに対し、朱音はツンとそっぽを向く。
途端に慌てたのはクロの方だ。
「やだ……朱音、あーかーね? ねえ、オレと口きかないなんてそんな悲しいことしないで? 朱音? やだやだ、無視はやだよ」
とても『神』とは思えない態度で、必死に朱音の機嫌を伺うクロ。
クロの豹変ぶりに、蒼亥も目を丸くしている。
「朱音、ねえ、朱音。ちゃんと朱音以外の奴らともお話するから。だからオレを無視するのやめて? ね? お願い」
「わかった? 相手にされないって凄く嫌なことなんだよ」
「うんわかった。すーっごくわかった。だからもう無視しないで」
お許しが出て安心したのか、クロは朱音をギュウギュウと抱き締める。
とても忌神としての威厳が無いと蒼亥は思いつつ、そういった態度を姉である朱音にしか見せないところに恐さも感じた。
さっきだって、強気に出たはいいものの、朱音が間に入ってくれなければそのまま消されていたかもしれない。
やはり注意を怠ってはいけないと、蒼亥は余計に覚悟を強めた。
「あのね蒼亥」
ふとそこで、ため息混じりに朱音が話し始めたので蒼亥はそちらを向く。
「実は……理事長先生たちにはもうクロのことは話してあるの」
「そうだったんだ。理事長たちは何て?」
「クロが本当に私に協力する気があるのかを確認するため、狐面のあやかしの正体を突き止めるよう言われたの」
「狐面って、今朝購買の近くで暴れたっていう……?」
「うん」
一瞬にして、蒼亥の眉根にしわが寄った。
大事な姉が忌神の巻き添えになったことや、これから危険な目に遭わせられるのではないかという心配が、蒼亥の顔を曇らせる。
「姉さん……だったら俺も協力するよ」
「えっ……でも……」
「追跡なら『狗』を使った方が早い」
蒼亥は『狗』のあやかしと契約しているため、確かに今回の事件の犯人探しにはもってこいの存在であった。
けれど蒼亥が朱音を心配するように、朱音もまた、蒼亥を事件に巻き込んでしまうという部分を懸念していた。
「蒼亥が危険にさらされるかもしれないんだよ……?」
「それはお互い様じゃないか。俺だって、姉さんが狐面に襲われるかもしれないのを黙って見過ごすなんてできないよ」
「うん……」
「それに、いくら『神』だろうと、追跡における能力の高さは『狗』の方が上だ。そこの忌神よりも俺の方がずっと役に立つと思うけど」
蒼亥がクロへ向ける視線は、バチバチと火花が散っていた。
「うーん……わかった。蒼亥にも手伝ってもらおうかな。正直どうやって事件を解決したらいいか何にも思い浮かんでなかったし」
「姉さん……」
「でも危険だと思ったら深入りは絶対にしないでね? 蒼亥にもしものことがあったら、言葉にできないぐらい悲しいから」
「何言ってるんだ。そんなの俺だって同じだよ。俺からすれば、すでに忌神に困らされていることだって許し難いんだ。姉さんのことはずっと俺が守るって決めていたのに」
姉に向けるにしては熱い感情を、蒼亥は一心に朱音へと向けていた。
実のところ、蒼亥はシスコンと言っていいほどに朱音に対し、強い思いを持っていた。
それというのも、幼い頃に両親を亡くしてから、朱音がずっと蒼亥を守り、頑張って支えてきてくれたからだ。
蒼亥は、朱音と一緒なら何処ででも生きていけると思っていた。それなのに蒼亥の為を思ってか、この本家に住まわせてもらえるよう頭を下げてくれたのも朱音だ。
最初は妖力を持っていないことで蒼亥だけが引き取られる話になっていたが、それだけは断固阻止しようと、蒼亥が椿姫を何とか言いくるめ、朱音も引き取られるようにしたのだ。
椿姫から彼氏まがいの扱いを受けようとも、上手く耐えてやり過ごしてきたのだって、朱音と一緒にいたいからだ。
なのにも関わらず、突如現れた忌神クロとやらは、人外ゆえの話の通じなさを盾に朱音にべったりと付きまとっている。しかも、契りを結ぼうとすらしているのだ。
だから蒼亥は心から誓った。狐面のあやかしからはもちろん、絶対に忌神から姉を守り抜くと。
「……とりあえず、明日からは一緒に登校しよう。椿姫さんの使用人として扱われなくなったから、これでやっと一緒に学園へ行けるね」
蒼亥は気を取り直し、優しい微笑を朱音へと向けた。
今までは朱音が使用人としての扱いを受けていたため、朝からやることが多く、一緒に登校することができなかった。
だけどこれからは違う。
蒼亥は密かに、朱音と一緒に登校するのが夢だったのだ。
「そうだね。いっつも別々だったもんね」
朱音が同意してくれて、蒼亥はますます笑顔を深めた。
こうやってできるだけ朱音の傍にいれば、忌神が手を出す機会も少なくなるだろうと蒼亥は思った。
「そろそろ夜も遅いし俺は自室に戻るけど……」
言いながら、蒼亥はチラリとクロの方を見る。
「まさか忌神もこの部屋にいるのか?」
「当たり前でしょ。オレが朱音の傍から離れる理由が無いもん」
ね~、と同意を求めてくるクロに、朱音は苦笑を返すしかない。
蒼亥がまた苛立ちを見せ始めたので、慌てて朱音は口を開く。
「だ、大丈夫。ボディーガードみたいなもんだし、もし変なことをしてきたら、それこそ二度とクロと口きかないから」
「変なことってどんなこと?」
純真無垢を装いながら、やや意地悪な言い方でクロはそう訊ねる。
朱音が難しそうな照れたような表情を浮かべる様子を、にまにまと笑いながら眺めている。
「わ……私が嫌って言うようなことだよ」
「ふぅん。何が嫌かわからないから、一つずつ色々と試してみようかな」
「姉さん。今日から俺と一緒に寝よう」
どこまでも図に乗って朱音の反応を楽しんでいるクロを見て、蒼亥が割って入った。
「蒼亥、名案だわ。そうする」
「この部屋だと狭いから俺の部屋に来ていいよ」
「椿姫さんに怒られないかしら……」
「俺がちゃんと伝えておくから、安心して」
こうして朱音は蒼亥の部屋へ移ることとなった。
「えー、やだ。朱音と二人きりで寝たい」
「知らないよ。自業自得でしょ」
朱音にべったりと抱き付きながら、この予想外の展開に、クロは忌神らしさの欠片も無いほど口を尖らせて拗ねるのだった。