【第二章】
「忌神……様?」
聞き慣れぬその単語を口にすると、男は嬉しそうに頷いた。
「そう。オレは、太古から続く呪いや災いによって形成されていた」
「呪いや災い……」
「昔はオレを信仰し、他者を呪ったり祟ったり災いを起こしたりするためにたくさんの祈りが捧げられてきた。だからオレは厄災を司る忌むべき神として存在することができた。だけど……」
そこで一度顔を伏せ、チラリと朱音の方を見る。
「時が経つにつれ、オレへの祈りは減っていってしまったんだ。他者を呪う気持ちはあっても、祈るほどじゃなくなっちゃったのかな」
寂しそうに男はそう告げた。
確かに、例えば鎌倉時代や戦国時代など、そういったお家同士、または身内同士での争いが絶えなかった時代ならば、彼に願ってでも呪いをかけたいという人が多かったことだろう。
ただ、今はもうそういった時代ではないし、協定によってあやかしを私欲で使役することは基本的に禁じられている。
そういった背景もあり、忌神と名乗るこの男に誰も祈りを捧げなくなったという流れはなんとなく理解できた。
「十年前……忌神様は消えかけていたの?」
「うん。だけど朱音がそれを聞いてすぐに祈ってくれたよね。オレのために。だからオレは消えずに済んだし、こうして時をかけて元の力を取り戻すことができたんだ」
朱音の話になる度に、男は屈託の無い笑顔を浮かべる。
忌神という恐ろしい名前とは裏腹に、男はどこまでも朱音に対して優しかった。
「忌神様のことはわかったけど、それはそれとして私は……」
「名前」
「え?」
朱音の言葉を遮り、男は首を傾げながら言う。
「名前がほしいな。忌神様だなんて他人行儀な名前、やだな」
子供のような態度に、朱音は目を丸くする。
彼は、あやかしたちの中でもトップに君臨する『神』の位を持っているのだ。
協定が結ばれているとはいえ、『神』ほどの相手になると、さすがに対等のような態度は出しにくくなる。
だからこそ、基本的に『神』は人間たちにあまり関わらないようにしてくれているのだが……どうやら彼はそうではないらしい。
「名前……私が付けるのですか?」
「うん。あと敬語も無し。ね、お願い?」
その切れ長の暗い瞳を潤ませながら、男は甘えた表情を見せてくる。
人間離れしたその美貌でそんなことをお願いされては、とても断れたものではない。
朱音は困り顔で、必死に彼の名前を考えた。
「えー……えーと、じゃあ……クロ、とか」
「クロ?」
「うん……黒いから……」
言いながら、自分はなんてセンスが無いんだと密かに朱音は落ち込んだ。
しかし、クロと名付けられた男の顔は、一気に満面の笑みでもって輝いた。
「クロ! 良い名前だね。朱音がオレのために付けてくれた、オレだけの名前! ありがとう。大事にするね」
どうやらお気に召したようだ。
良かった、と安心していたのも束の間……朱音の唇に、何かが触れる。
それは、クロのスラリと長い人差し指だった。
「ね……朱音。オレの名前、呼んで?」
「えっ……」
「呼んで?」
誘惑するように、クロは朱音の唇をゆっくりとなぞる。
朱音は耳まで顔を赤くさせつつ、言う通りにしないとずっとこうして攻められると確信し、意を決してその名を口にした。
「く……クロ?」
「はぁい」
ご満悦、といった表情だ。
なんだか完全にクロの手の平の上のような気がして、朱音は照れる気持ちを抑えてクロと向き直る。
「忌神様……クロのことはわかった。あと、学園で助けてくれてありがとう」
「うんうん」
「それはそれとして、私は花嫁なんてならないよ」
意を決し、キッパリとそう告げた。
この短時間であっても、クロがとても友好的であることはわかった。それが十年前の出来事によるものなのもわかった。
しかしそれと、いきなり花嫁になるということは全くの別問題である。
だからここばかりは流されてはいけないと、朱音はハッキリと物申した。
の、だが。
「……何故?」
それは、地の底から湧くような低い声だった。
クロにまとわりつく影がざわざわと動き出し、よく見るとその中には無数の目があり、全て朱音の方を向いている。
そしてクロの紅い瞳もまた、朱音を逃すまいと真っ直ぐに向けられていた。
「く、クロ……?」
「朱音、何故? 何故オレの花嫁にならないの?」
「だ、だってそれは……」
「まさか想い人が?」
「えっ」
「その想い人が亡き者になったら? そうしたら朱音はオレの花嫁になる?」
「ちょっ……」
「それとも何か気掛かりなことが? 邪魔な人間がいる? だったら全部オレが排除するよ。大丈夫、安心して。オレたちの婚礼に邪魔者なんて一匹も寄越さないから」
ニッコリと笑っているのに、少しもその目は笑っていない。
朱音の手を包み込むその白い両手も、人間ならば絶対にありえないほど冷やかだ。
「朱音……オレの花嫁になるよね?」
今にも唇が触れそうなほど、クロは朱音の瞳を覗き込む。
完璧に作られた美術品のような美貌から与えられる圧は、思わずイエスと言ってしまいそうなほど迫力があった。
だが、それでも朱音は何とか自分を保とうと鼓舞する。
「ま、ま、待って! ちょっと待って!」
間抜けなほど上擦った声が出た。
気付けば背中も汗びっしょりで、心臓がバクバクと跳ねている。
朱音は、恐る恐るではあるがクロの方を向いた。
「あの……は、花嫁っていきなり言われても……だって私はまだあなたのこと何も知らないから……」
「………」
「もう少し、クロのことを知る機会がほしい……です」
しばし、沈黙のまま見つめ合い。
先に引き下がったのはクロの方だった。
「……そうか。でも、オレのこと知ってくれたらオレの花嫁になる?」
「えーっと……可能性は高くなるかと」
「そっかぁ」
ならいいや、といった感じでクロは殺気を消す。
「でも確かに、朱音にはもっともっとオレのこと知ってもらいたいかも。オレも、今の朱音についていっぱい知りたいし」
さっきまでの様子が嘘のように、またニコニコと笑いながら話している。
どうにも『神』というのは気まぐれで……そしてその感情のままに、時には人を消してしまうこともあるのだと朱音は肝に銘じた。
「朱音はオレの何が知りたい? 何でも教えてあげるよ」
熱のこもった視線を向けられ、朱音はつい顔を赤くする。
「えーと……とりあえず、ここはどこ?」
「オレの屋敷」
「こんな広いお屋敷に住んでるんだ」
「オレに仕える使用人も何人かいるよ。別にオレはそういうのいらないけど、どうしてもお仕えしたい、って言って聞かなくて勝手にやらせてる」
曲がりなりにもクロは『神』だ。
付き従いたいと考える者は、あやかしだけでなく人間の中にだっているだろう。
「つまり私、あの狐面に襲われて、助けられて、それでそのままこのお屋敷に来てるってこと?」
「そうだね」
それを聞いた瞬間、朱音は弾かれたように立ち上がった。
「授業!」
あんな騒ぎが起こった後だから学園の方がどうなっているかはわからないが、どちらにせよ急いで学園に戻らなければならないと思った。
だが、焦る朱音に反し、クロは呑気な調子で答えた。
「朱音はオレのお嫁さんになるんだから、あそこに通わず、ここで永遠にゆっくりしてればいいよ」
とんでもないことを軽く言ってくれたものである。
だがクロは本心からそう言っているし、実際にそれを叶えられる力もあった。
もちろん、それを朱音は断固として拒否する。
「バカ言わないでよ。人間には人間のルールがあるんだから。それに……ああ。授業をさぼったことが家にバレたら……」
朱音は文字通り頭を抱えた。
これまで無遅刻無欠席、授業態度も優等生並みに頑張ってきたのも、本家が学費を出してくれているからである。
あくまで蒼亥のおまけとしてではあるが、それでも学園に通わせてくれることに恩義を感じているからこそ、朱音はこれまでずっと頑張ってきた。
それなのに授業をサボるだなんて、そのまま学費の援助を打ち切られたっておかしくない。下手をすればそれを理由に家を追い出されるかもしれない。
それぐらい朱音の立場は、あの家の中で最下層にあるのだった。
「お願いクロ。早く学園へ戻して。じゃないと私……」
懇願に近い格好で朱音はクロに願う。
すると、彼は音も無く立ち上がった。
スラリと高いその背丈に驚いていると、クロは目を細めて笑う。
「カワイイ朱音からのお願いはとても嬉しい。でも……何を怯えている?」
「お、怯えてなんて……」
「家の奴ら?」
ドキリ、と朱音は反応に出してしまった。
途端にクロは口角を上げ、ゆっくりと首を傾げる。
まとわりつく闇の中、その青白い笑顔がぼんやりと浮かんでいるようで恐ろしかった。
「十年前も、朱音は家の奴らに困らされているようだったね。でももう怯える必要は無いよ。オレが全員消してあげるから」
本当にそうする、という確信があった。
だからこそ朱音は慌てて声を上げる。
「す……ストップ! ストーップ!」
少し気を抜くとすぐに主導権がクロの方へ行ってしまう。
朱音は強い心を持ってクロの方を向いた。
「わ、私のことを考えて言ってくれるのは嬉しいよ。でも、そんな簡単に人を消すとか……そういうのは無しにしてほしいの」
「……でも」
「さっきも言った通り、人間には人間のルールがあるの。私を花嫁にしたいって言うなら、クロにもそのことを理解してほしい」
でなければクロはきっと、少しでも朱音の障害になる人間やモノを片っ端から消し去っていくだろう。
朱音自身、そんな暴君のような真似はとてもごめんだし、そもそも本当にそんなことになったら、国が抱えるあやかしたち……それこそ『神』や『龍』クラスのあやかしたちが動くような大ごとになる。
だからクロには、何が何でもそこを譲歩してもらわなければならない。
「うーん……朱音の平穏を脅かす奴は問答無用で消したいんだけどな」
むしろクロの存在こそが平穏を脅かしかねない。
そんなことを思われているとはつゆしらず、クロは必死な朱音の眼差しを受け、渋々折れた。
「わかった。でも本当に危険な奴……または朱音が願ったらすぐに消すから安心してね」
「う、うん」
それもあんまり安心できないが、これ以上物騒な話になるのは困るので話題を戻した。
「とにかく、私を学園に帰して」
「……仕方ないな。でも、ここはいつでも朱音の家だからね」
魅惑的な眼差しを朱音に向けながら、クロはエスコートするようにその手を取る。
途端に、足元の影が膨れ上がり、二人を包み込んだ。
「っ!」
闇に包まれるのと同時に、クロから強く抱きしめられる。
その抱擁は見かけに反してとても優しく、壊れ物を扱うかのように繊細だった。
「オレの腕の中に朱音がいるだけでとても幸せだなぁ」
ホワイトノイズの混じる音の中、クロのそんな嬉しそうな声が朱音の耳に触れた。
◆◇◆
「な、なんだぁッ?」
浮遊感が終わり、文字通り地に足が付いたその時、どこからか男性の声が響いた。
朱音がゆっくりと目を開けてみると、まず目に入ったのが斎藤琢磨先生の姿だった。
がたいのいい割と厳しめの斎藤先生が、しかし今は顎が外れてしまったかのように、あんぐりと口を開けたまま朱音の方を見ている。
「鬼ヶ華……おまえ、どうやってここに……」
「あ、えっと……」
そこで朱音は、自分の今いる場所が、狐面と遭遇した購買近くの場所ではないことに気が付いた。
何やら厳格めいた雰囲気漂うこの部屋には、応接室のようにテーブルとソファがあり、そして壁には額縁によって数名の写真が飾られている。
次第に視界がハッキリしてきてわかったが、この部屋には斎藤先生だけでなく、他に二人の人影があった。
片方はお年を召しながらも眼光の鋭い老人で、もう片方はとても整った利発的な顔立ちの青年だった。
二人は観察するような目を朱音に向け、何やら考え込んでいる。
「それと君は誰だ? 本校には君のようなあやかしはいないはずだが……」
ここが何処なのか、この状況が何なのかわからずにいた朱音は、斎藤先生がクロに向けたその言葉によってハッと我に返る。
「こ、この人は、その……えーと……」
「オレは朱音の花婿。旦那。夫だけど」
「ちょっと!」
あまりにも直球に、しかも勝手に言ってくれるものだから、朱音は慌てて声を上げた。
斎藤先生は眉根を寄せて訝しげな顔をしている。
だが、老人と青年の反応は穏やかだ。
というより、青年の方は口元に手を当て、何かに思い至ったようにクロへと喋りかけた。
「忌神か……?」
「んー……もしかして賢神かな?」
突然、両者が知り合いの様子で話し始め、今度は朱音の方が驚きの表情を浮かべる番だった。
「え、知ってるの? いや待って。賢神? か、神様ッ?」
「慌てる朱音もカワイイけど、落ち着いて」
愛でるように朱音の頭を撫でながら、クロは呑気な口調でそんなことを言う。
一方、賢神と呼ばれた青年は朱音へと向き直り一礼した。
「こんにちはお嬢さん。賢神アクルだ。この学園のあやかし代表として理事長をしている、と言えば僕のことがわかるかな」
「り、理事長ッ?」
言われて素っ頓狂な声が朱音から飛び出た。
賢神アクルと言えば、その名の通り知恵を司る神様であり、この妖協学園を創立させた一人だと授業で習ったことがある。
そもそも妖協学園には理事長が二人おり、片方はあやかし代表の理事長……つまり賢神アクルで、もう片方は人間代表の理事長となる。
つまり……
「なるほど。朱音くんは『神』に好かれてしまったようじゃな」
老人の方が、穏やかな口調ながらも、やはり眼光は鋭くさせたまま、朱音とクロを交互に見る。
それで朱音はようやくわかった。
その老人が、妖協学園の人間代表の理事長……初学院時房であることに。
「り、理事長先生……ってことは、ここはもしかして理事長室、ですか?」
「そのとおり」
賢神アクルが軽快な口調で答えた。
その隣で、斎藤先生がやはり顔をしかめて朱音に訊ねてくる。
「一体全体どういうことなんだ鬼ヶ華。一限目が始まる前に、購買近くで狐面のあやかしが暴れていると報告があったんだ。それで教師一同急いで駆け付けてみたら、狐面はいなくなってるし、今度は鬼ヶ華が闇に呑まれて消えたって目撃証言ばかりじゃないか。それでそのことを理事長たちに相談してたら突然おまえがこうして現れた。何が何だか俺にはさっぱりだ」
頭を掻きむしりながら、斎藤先生はこれ以上ないほど困惑した表情を浮かべていた。
だが、それは朱音も同じような気持ちである。
狐面に襲われ、十年ぶりの再会となった忌神クロに自宅へとさらわれ、そしてようやく学園へ戻れたと思ったらこの理事長室。
朱音もまた、斎藤先生と同じように困惑するしかなかった。
「えーとですね……私も狐面に襲われまして。それでそこを救ってくれたのが彼……忌神様のクロでして。クロとはどうやら十年前に会っていて、そういう積もる話をクロの家でしていて、それで学園の方へ戻ってきたら突然ここに居て……」
「知っている『神』の気配がしたからそこに飛んだんだよ」
やはり朱音の頭を撫でながら、クロはそっとアクルの方を見る。
目が合ったアクルは肩をすくめた。
「なんとなくわかったよお嬢さん。そこの忌神に振り回された、ってことが」
まさにその通りすぎて、朱音は思わず賢神に祈りを捧げたくなった。
「はっはっは。妖力は一切無いのに『神』を使役しているとは、前代未聞かもしれんのぉ」
時房理事長のその言葉に、クロは首を傾げる。
「使役じゃないよ。オレは朱音の旦那様だからね……無償の愛でもって力を貸しているだけ」
「なるほどなるほど。それで忌神どの……相対した狐面のモノについて、何かわかることは?」
「さあ? 朱音のこと以外興味無いから。ただ……」
クロは天を仰ぐ……というより、学園内のどこかを探るように、周囲を見渡した。
「まだ居るね」
ぞわり、と空気が震えた。
アクルと時房理事長の瞳が鋭く輝く。
「まだ居る、か。ということはやはり、狐面騒動の犯人はこの学園内に居るということじゃな」
時房理事長の言葉に、朱音は思わず口元に手を当てた。
だが、学園には外部からのあやかしの侵入を拒む結界が張られている。『神』や『龍』クラスならまだしも、それ以下のあやかしなら学園への侵入はほぼ不可能だ。
しかし、にもかかわらずあの狐面は堂々とあの場所に現れた。
となると考えられるのは、内部の犯行ではないか……ということになる。
「僕の方で探知はしているけれど、どうにも個人的な呪いの類みたいでね。妖力に特徴は無いし呪いは制約が強い分、他者に邪魔をされにくいものでもある。遠くからでは犯人の特定がしにくいね」
アクルは腕を組み、どうしたものかと考えている。
そこで、時房理事長が改めて朱音とクロへと向き直った。
「ではこういうのはどうじゃろうか」
「え……」
「朱音くんと忌神どのに、犯人探しを手伝ってもらうというのは」
「ええーッ?」
予想外の発言に、朱音の声が理事長室に響き渡るのだった。
「ま、待って下さい。そんな……狐面のあやかしの犯人探しなんて、私には荷が重すぎます……っ」
時房理事長のまさかの提案に、朱音は必死に抗議した。
ただでさえ妖力を一切持ち合わせていない上に、あの購買近くで襲われた際は死を覚悟したぐらいなのだ。
もしもあの時クロが助けてくれていなかったらどうなっていたか……考えただけで恐ろしい。
「妖力を持たない私が、『狐』クラスのあやかしを相手にできるわけありません」
「しかし君には忌神がついておる」
落ち着き払った時房理事長の声音に、ビクリと朱音は体が震えた。
よく見ると、時房理事長の顔は穏やかであるのに、その眼光だけは鋭くクロを射抜いている。
そこで初めて朱音は、時房理事長がクロを強く警戒しているのだと気が付いた。
「朱音くん。その忌神は君に対して好意的なようだから、先に教えておこう。忌神はその名の通り、ありとあらゆる『忌むべき現象』を司った神様じゃ。過去、忌神によって滅んだ村もあれば、おぞましいほどの人間同士の争いが起こったこともある」
「そんな……」
「彼がやろうとすれば、この学園を血みどろの修羅場へ変えることもそう難しいことではない」
確かにクロは少し前に、朱音の邪魔となる者を消してあげようとしていた。
本当に、彼にとっては何てことなどないのだ。人を一人消すことなんて。
「忌神は、存在そのものが忌むべき者なのじゃ。つまり朱音くん……君は特大の爆弾を抱えているということになる」
ハッキリとそう告げられたことで、朱音は隣に立つクロのことが改めて恐ろしくなった。
見上げたそこにあるクロの顔は、この話に相応しくないほどニコニコしていて、それがまたいっそう不気味でしかない。
「私も賢神も、君たちが入室してから一度たりとも警戒を解いていない。いつ、忌神が不審な動きをしても対処できるように、じゃ」
「正直言って、僕と時房の二人がかりで完全に防ぎきれるか微妙なところだけどね」
賢神アクルもまた、ゆるやかな口調のままあっさりとそんなことを言う。
まさかここまでクロという存在が恐ろしいものだったのだと知らず、朱音は自身が、とんでもないモノに好かれてしまったのだとわからされた。
「今回の件の犯人探しについても、朱音くんに責任を負わせたいわけではない。本当に忌神どのに協力する気があるのかを知りたくての提案じゃ」
「今回の件を通して、本当に忌神がこの学園に害は無い……むしろ協力態勢であると判断できたら、国のあやかし機関にも危険ではないと申請しよう」
時房理事長と賢神アクルの申し出に、朱音は何も言えなくなった。
というより、この提案を飲めないとなると、クロの対処のために国が動くことになるということだ。
「クロ……」
恐る恐る、朱音はクロの方を見る。
目が合うと、クロは口端を持ち上げてなんてことはないように笑った。
「朱音はどうしたい?」
「え……」
「もし朱音が、今この場にいる全員が邪魔だと言うならオレが消してあげる。きっと一分もかからずにできるよ」
子供が自慢するような口調で、とんでもなく恐ろしいことを言ってくる。
見た目は人間の青年であるが、その実態は、忌むべき怨念によって形成された闇そのものなのだとよくわかる。
クロの発言により、いっそう室内の緊張感が増した。
朱音は一度深呼吸し、言葉を間違えないように気を付けて口を開く。
「私……は、クロが犯人探しのお手伝いをしてくれたら嬉しいよ」
「朱音は何にも悪くないのに、犯人探しの仕事を押し付けられたんだよ?」
「それは……」
確かにそれはその通りだ。
だけど朱音は首を横に振る。
「そうかもしれないけど。でも理事長先生たちの言う事はもっともだと思う。クロのことを恐がる人たちに、安全だ、って行動で示していかなきゃ」
「べつに、オレを恐れる人間なんて端から消していけばいいよ」
「でもそうやってしてきたから……クロのために祈ってくれる人がいなくなっちゃったんじゃないの?」
そこで初めて、クロが目を見開いたまま固まった。
時代の変化によって必要とされなくなっていったあの日々。
忌むべき者として恐れの方が勝り、誰もが関わらなくなっていったあの日々。
だからこそ祈りや思いを向けてくれる人々がいなくなり、存在そのものが朽ち果てようとしていた十年前。
朱音の言う通り、度が過ぎた恐怖の塊は、全ての者から否定されていったのだ。
「花嫁とか、まだそんな気はないけど。でもクロは狐面から助けてくれたし、私のために色々してくれようとする。そんなクロが、国から目を付けられてしまうのはさすがに悲しいって思うよ」
「朱音……」
「クロには助けてもらったし、その恩を返すと思って私も協力す……うわぁ!」
話していた途中で朱音は悲鳴に近い声を上げた。
というのも、突然クロが朱音を軽々と抱き上げたからだ。
身長差のせいか、もはやそれは子供にする高い高いに近い。
「朱音はいつも嬉しいことを言ってくれるね。十年前も今も、オレがこの世界に存在することを考えてくれている。やっぱり朱音を好きにならずにはいられない。ああ、愛してる……大好きだよ朱音。早く犯人を見付けるからさ、朱音も早くお嫁にきてね」
「わ、わー! ちょっと、あんま揺らさないでっ! ひえぇええ! 降ろして降ろしてぇ!」
感極まったクロからの熱い抱擁からようやく解放された朱音は、ここが理事長室であり、理事長先生二人と斎藤先生に一部始終を見られていたことに気付く。
すぐに朱音は顔を真っ赤にして俯いた。
「はっはっは。忌神どのは本当に朱音くんが好きなようじゃな」
「その点においては心配無さそうですね」
「逆に言うと、学園の平穏は朱音くんの一存にかかっているとも言えるがのぉ」
呑気な会話をしつつも、やはりまだ、クロに対する警戒心は一切解いていない理事長二人。
残された斎藤先生だけが、呆気に取られた様子で事の成り行きを必死に追うしかないのだった。