第8話
壁面に囲まれた洞窟上の階段は、下れば下るだけ心細くなる。閉所恐怖症ではないはずだが、それに近い恐怖を覚えるのだ。地下室の主の影響で、下へ進むにつれて徐々に温度が下がっていく。下から昇る冷気が、俺に悪寒をもたらしていた。
階段の行き着く先には、自動ドアが一つ。その右手の壁に静脈認証のパネルがある。それに右手をべったりと着けてロックを解除すれば、後は扉が勝手に動いてくれる。
扉が開くのと同時に、カチャカチャと子気味の良いタイピング音が聞こえ始めた。
彼女を知らない人が訪れれば、もはや古代の遺物とも言えるスイッチ式のキーボードを採用していることに違和感を覚えるのかもしれない。
特徴のない六畳ほどの部屋。鉄筋コンクリートの壁には、何かの記事のような紙が大量に張り付けられている。あと強いて言えば、この部屋にはベッドがなかった。
最初こそ心地が良かったが、聞き慣れてくると何故か耳がむず痒くなる。俺は耳をほじりながら、未だにこちらに気付かないでいる彼女の背後に立った。
随分と背もたれの高い椅子で、何かのコックピットのような椅子だった。
「おい、メタ。悪いが仕事を頼みたい」
声をかけるも、彼女から反応は帰ってこない。
彼女の眼前には、大きなモニターが三つ。それぞれに似たような文字列が並んでおり、少なくとも俺には異国の地だった。
仕方なく肩を掴んで「おい、話を聞けよ」と声をかける。セクハラみたいで好きじゃないが、接触ほど直接的な呼びかけはないはずだ。
――が、ここまでしても彼女は無反応だった。
「あれ? 俺って死んでるんだっけ?」
素っ頓狂な勘違いをするも、誰からもツッコミが返ってこない。というか、メタが否定してくれないから、まるで本当に死んでいるみたいだった。
もう我慢の限界だ。俺は雇い主だぞ。いくら何でも寂しいだろ!
彼女のコックピットを掴んで、強引に回転させた。あえて一回転分多く回してから、俺に向いた瞬間に止めた。
そこまでして、ようやく彼女は俺に視線を合わせた。
彼女は「メタ・アルトキシス」。ロシア人、現在日本在住。
緑色の毛髪、頭頂部から触角のように伸びる二束の髪。まだ10歳ほどの容姿に、死んだ魚のような瞳。上下とも灰色のスウェットを着ている。
「マイコンを持ってきた。ゾンビの理性プログラムをインストールしてくれ」
「……」
彼女は俺ではなく、もっと遠くを見ているかのようだった。
ここまで来ると、本当に自分が死んでいる可能性があるかなと、俺は自分の頬をつねってみた。……痛い。普通に痛い。痛すぎるくらいだ。
「おい! 悪ふざけはよせ。なんかの病気になりそうだから、もう勘弁してくれ!」
「……うわっ!? 腐刃様じゃないっスか!?」
瞬きを繰り返しながら、早口でメタは言った。
「え? 本当に今やっと気づいたの?」
「いやぁ、すみませんっス。急にキーボードを取り上げられたストレスで、普通に気絶しちゃってました」
彼女は右手で頭を掻きながら、テヘヘと笑みを浮かべている。
「お前は餌を取り上げられたハムスターかよ」
「何スか、そのマニアックな例え。普通に理解できないっス」
多分、彼女の口癖は「普通」だ。だって普通じゃない事にも「普通」って使うから。
「えっと……それで、何の用件でしたっけ?」
「だ~か~ら~、マイコンを持ってきたから、ゾンビの理性プログラムをインストールしてくれって言ったんだよ」
「あぁ、そうっスか。このチョーカーには、普通にウチも世話になってるっスからね」
と言って、自分の首元を指さすメタ。そこには緑色のチョーカーがある。
――無論、彼女もゾンビだ。
この屋敷に住んでいる生者は、俺だけなのだから。
メタは白いケースを受け取ると、その中身をサッと確認した。一辺が5ミリほどの金色のチップだ。あの中に理性が入っている。人として最も重要な理性も、形にすれば爪ほどの小さな板だった。
その中の一つを手に取って、コックピットをクルリと回転させる。
「それにしてもメタのモニターには、いっつも文字ばっかり映ってるな。今は立体プログラミングとかもあるんだろ? 新しい手法とかには興味が無いのか?」
「まぁ、もう60年もコレっスからね。今になって別の手法は……」
「なぁ、今年で何歳なんだっけ?」
「72歳っスね。いやぁ、人生って複雑怪奇っスよね~」
10歳ほどの容姿で、彼女はお道化ながら言った。ゾンビ化すれば、肉体年齢は死亡時期に留まる。今のところ最高齢のゾンビだったりする。彼女の動かなくなった時がゾンビの寿命なのかもしれない――が、彼女を見るに、まだその気配はなかった。
「ゾンビになってから60年……ずっとこの場所にいるよな? 俺だったら、発狂して自殺してしまう可能性だってあるぞ」
「生に執着してゾンビになったのに、今さら死んだらバカっスよ」
「まぁ、そりゃそうか」
「10で余命宣告を受けて本当に焦ったっス。ビッグボスにはマジで感謝っス」
ビッグボスとは、俺の父さんの父さんである。つまりじいちゃんだ。稀代の天才医師として、ゾンビを生み出した男。この技術の恐ろしさを理解していたからこそ、ゾンビ化を商売にはせず、こうして地下室に秘匿したのだ。
因みに祖父の代から俺達をサポートしてくれていて、父さんのことは「大ボス」と呼んでいた。父さんがゾンビ化を商売にした時、彼女とは随分と揉めたそうだが、その子供である俺に罪は無いとして、こうして平坦に接してくれている。
「だが、ゾンビになった代わりに、メタは下半身不随になった。もう二度と歩けなくなったあげく地下室に幽閉されただろ? なんというか……苦しくなかったのか?」
「手さえ動いてプログラミングが可能なら、他に何もいらないっス。無論、命だって」
「その強い意志があったから、自我と記憶が残ったのかもな」
俺は顎を撫でつつ、モニターに流れる文字の川を眺めていた。彼女のタイプ音が鳴る度に、川の勢いが増していく。それは次第に激流と化していった。
「ゾンビ化の際に自我や記憶が残るかは、完全にランダムって聞いたっスけど」
「父さんは、そう考えている。だが、俺は意志の強さだと思っているんだ。結局のところ何もかも曖昧な分野だしな。言ったもん勝ちだよ」
文字の流れる黒い川に、ぼんやりとメタの顔が映っていた。彼女の顔は、普段のお道化た感じとは違って、とても強張っている。
「まぁ、おかげで記憶を保持したまま、普通に自我も残って足くらいならどうぞっスね」
「タハハ、メタらしいよ」
「でも、美終ちゃんとウチって、かなり奇特っスよね」
「あぁ、まぁな。これまで多くのゾンビを作ったが、記憶と自我が残ったのは美終だけだったな。祖父の代から換算すれば、他にも幾つかいるが……とにかく数は少ない」
「なら奇跡なのかもしれないっスね。ウチはラッキーっス」
「確かにな。メタには記憶の「前後」がある。だが美終には、記憶の「前」しかない。それじゃ未来が無いに等しい。……何とかして、それさえ改善できれば」
俺には人生の目標がある。それは美終に「記憶する」を与えること。本当は、もうゾンビなんて作りたくない。でもゾンビを作ることで、その答えに少しでも近づけるのなら、と考えて、今もゾンビ製造・販売業者として働いているんだ。
難しい顔をする俺に気付いてか、メタは明るく声を出した。
「でも今は、プログラムで理性を作れる時代っスから、その内なんとかなりそうっスけどね。脳を改造する時代が、もう近くまで来ているのかもしれないっスから」
「……だといいがな」
理性プログラムとは、特定の周波数を発することで、あくまで感情の起伏を抑制しているだけに過ぎない。確かに脳へ干渉できるようになったが、機能を付け足すなどの無茶はできない。この奇妙なニアミスが、プログラムと人間の間に国境を設けている。
それに万が一、美終の記憶の保存が可能になったとして、彼女は生前の全てを取り戻すことになる。それは完全なる死者蘇生に他ならない。
その神域に踏み込む愚行が、果たして人類に可能なのだろうか。
見えない壁がある。それは途轍もなく大きくて、頑丈で……人間には壊せない。
俺の中にだけある、そんなイメージが何故か払拭できなかった。
「もう行くよ。プログラムの件はよろしくな」
「もちのろんっス」
自動ドアを潜り、階段を上る。行きとは違って、足には土嚢がついているかのようだった。俺の肩に乗る苦悩を振り切る為に、スームを一つ口に放った。
隠し扉から出ると、キョトンとした顔の美終と目が合った。
「腐刃様……その扉は?」
「あぁ、気にしないでくれ。仕事部屋みたいな感じだ」
君が死んだ日に、いや君がゾンビになった日に父から教えられた扉だよ、と心の中で情報を捕捉する。
「そ、そうですか。相変わらず変な屋敷ですね」
「そう、この屋敷は変なんだ」
俺は彼女まで止まらず進み、そっと目の前に立った。昔は同じくらいだったのに、随分と身長差が開いたものだ。
ビー玉のように美しい瞳を覗き込みながら、それを俺は実感していた。
この差が時間の差。時間だけがくれるギフトだ。
そしてそれが、俺のエゴが彼女から奪ってしまった全てでもある。