辺境伯令嬢は甘い餌付けを拒めない
(どこまで行っちゃったんだろう、あの人)
艶やかな黒髪を靡かせながら、エリーは全力で走っていた。
人で賑わう市場を抜け、石畳の大通りに出ると、菫色の瞳をキョロキョロと動かす。高揚した頰には玉のような汗が浮かんでいた。まだ春先だというのに今日の日差しは強力で、けっこう暑い。
(こんな事なら、せめて重い暗器ぐらい外して来れば良かった)
薄いワンピースの下に隠した革ベルトの感触を確かめながら、エリーはため息をついた。――しかし、憂いている時間はない。
濃い緑色の帽子とコート。
皆が薄着をしている中で、あの格好はかなり目立つ。ようやく発見した後ろ姿に、最後のダッシュをかけて駆け寄る。
「あのっ。これ、落とされましたよ」
エリーは金細工の鍵を差し出しつつ、極力トーン控えめに声をかけた。
家庭教師のミナに『大声は剣の鍛錬の時だけにしてくださいませ』といつも注意されている。
まだ十二歳とはいえ、モラヴィア辺境伯の新しい当主として、ゆくゆくは一人で社交の場に出て行かなければならない。以前は渋々聞いていたお小言も、最近ではなるべく従うようにしていた。
(わたしは淑女、わたしは淑女)
まじないのように唱えるエリーを、帽子を目深に被った少年が振り返る。
「ああ、どうもありがとう。――探してたんだ」
金髪碧眼の美少年にいきなり手を握られ、思わずぎゃっと飛び退く。
「なな、何するんですか!」
「何、って……鍵を返してもらおうと」
「手を握る必要性は?」
「感謝の気持ちを伝えたくて」
「それなら言葉でお願いします! 初対面の女性の手を断りなしに握るだなんて、失礼じゃありませんか!!」
茹で上がったように真っ赤な顔でエリーが叫ぶと、少年は目をぱちくりとさせた。
「君は……もしかして、僕の事を好きではないのか?」
「……………………は?」
つい素のままで言ったエリーを、上から下まで、まるで珍獣でも見るかのようにじろじろと少年が眺める。何やらぶつぶつと「信じられない」などと呟いているが、信じられないのはこちらのほうだ。
(自意識過剰にも程がある)
もしかしたら頭のネジがどこか外れてるのかもしれない。
さっさと鍵を返して帰ろう。エリーは少年の手を取り、金細工の鍵を握らせ――ようとして、はたと気付く。
(この彫刻は)
鎖で花を象った、バルサラクの紋章――つまり。
「もしかして、貴方は王族?」
「そうだよ。どう? 僕の事好きになった?」
満面の笑みで言う少年を、エリーが半眼で見返す。
「わたしはっ。王族だからという理由で、人を好きになったりしません!」
ここバルサラク王国には、王族がわんさかいる。
王が代々好色なせいで正妃にも側妃にも子どもが多く、それゆえ親戚も多い。一日中王都を歩けば、最低でも二、三人とすれ違う。だから全然珍しくないし、正直ありがたみも感じない。
エリーは至って本気だった。が、少年は全く意に介さない様子でにっこり微笑む。
「でも、僕と仲良くすると豚の丸焼きや鴨肉のソテーが食べられるよ」
「た、食べ物で釣ろうだなんて卑怯です!」
「もし君が僕と一緒に食事をしてくれたら、デザートにワッフルも付けよう。ふわふわの生クリームに、たっぷりの蜂蜜も添えて」
蜂蜜、とつい繰り返す。
そういえば、半年前パンケーキにかけて食べたきり、口にできていない。王族が管理している養蜂場で採れる蜂蜜は王都の人気商品で、入荷してもすぐ売り切れてしまうため、なかなか手に入らないのだ。
(それに加えて生クリーム……!)
ごくりとエリーの喉が鳴った。
少年の甘い囁きが十二歳の少女の心を、いや胃袋をがっちり掴む。
「お土産にはマカロンを用意させよう」
もはや断る余地がなかった。
カラン、と扉のベルが鳴る。
名も知らぬ少年に連れられてやって来たのは、ごく普通のレストランだった。さほど広くない店内は、食事時ということもあって沢山の人で賑わっている。
(わたしとした事が……なんたる不覚)
案内された席に着くなり下を向き、どよんと落ち込む。王族とはいえ、どこの誰とも分からない男にのこのこ付いて来るなんて、あまりにもチョロすぎる。
エリーはちらりと向かいの席の少年を覗き見た。
(せめて名前くらい聞いておかなきゃ)
「あ、あの」
「食前にジュースは飲む? 桃のミックスジュースがおすすめだけど」
「いただきます! ……って、そうじゃなくて。わたしは貴方のお名前を」
「僕は紅茶かな。――すいません、オーダーお願いします」
食い下がるエリーを綺麗に無視し、帽子を脱いだ少年が手を上げたとたん――ウェイトレスがトレイを落っことした。ガシャン、とコップが床で砕け散る。
「あっ、あああ、アルバート様!」
ウェイトレスが震え声で叫ぶ。
もしかしたらこの少年、この界隈では有名な王族なのだろうか? 分からないが、少年の名前を知る事ができたのはラッキーだった。
(覚えておこう。アルバート、アルバート………。はて? どこかで聞いたような)
人の顔と名前を覚えるのはあまり得意じゃない。破壊系の魔法詠唱なら、一発で覚えられるのに。
ぽけっと考え事をしているところへ、目の前にグラスを置かれはっとする。――そうだ。ジュースでも飲んで、一回落ち着こう。
「! 美味しい」
鼻を抜けていくフレッシュな桃の香り。甘さ控えめで、とろりとした舌触りなのに後味がすっきりしている。
こんな美味しいジュースは初めてだ。つい夢中になって飲んでいると、向かいの席からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「……何がおかしいんですか?」
「ご、ごめん。だって君があんまり必死になって飲んでるものだから……誰も横取りしたりしないのに」
芸術作品のような美少年が、綺麗な藍色の瞳を涙で潤ませている。うん、尊い。
(ッじゃなくて!)
「わたしは五人きょうだいの長子ですから、美味しいものは一番最初にさっさと食べるようにしてるんです。残しておいたら強奪されてしまいますので」
生存競争はいつの世も非情である。きりっとした顔でエリーが力説すると、目を真ん丸くしたアルバートがこくんと頷き――吹き出した。
「あっはっはっはっは!」
人目も憚らず、お腹を抱えて大笑いする。エリーは一瞬ぽかんとした後、ばん、とテーブルを叩いた。
「何で笑うんですか! わたしは真剣に――」
「ずいぶんと楽しそうですわね。アルバート様」
突然テーブル脇に現れた人影に視線を上げると、扇で口元を隠す、いかにも上級貴族な雰囲気の令嬢が立っていた。
この暖かい陽気に、レース盛り盛りのドレスと鳥の羽根付き帽子で上から下までがっつり武装している。このままで城の夜会に行っても何ら違和感のない、完璧な仕上がりである。
「奥のVIPルームにまで声が届いてましたわよ。それに……貴方のそんな笑い方、わたくし初めて見ましたわ」
「あ、ああ。すまないグレイス。レディング公爵はお怒りではなかったかい?」
「いいえ。お父様は貴方だと気付いてらっしゃらないから大丈夫よ。わたくしが黙っていさえすれば、ね」
扇の上の、モスグリーンの瞳がちらりとエリーの方を向く。
目がばちんと合って驚き、思わず肩が跳ねた。
「なっ、何か?」
「うふふ。ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」
「グレイス、僕と奥へ行こう。レディング公爵に挨拶がしたい」
「あら、わたくしはこのお嬢さんと話がしたいわ。――ねえ貴女、お名前は? アルバート様とはいったいどういう関係で」
「はいよ、豚の丸焼きお待ち!」
アルバートとグレイスの間に割って入ったコックが、テーブルにどんと大皿を置く。エリーの瞳が今日イチ輝いた。
ほかほかと湯気を上げる焼きたての子豚。食欲魔神のお腹が、遠慮なくぐうと鳴った。
「あのぅ、コレ……いただいても?」
おずおずと言うエリーに、アルバートが目をまばたかせ――再び、思いきり吹き出した。
その様子を見て、グレイスが呆れたように肩を竦める。
「……何だか馬鹿らしくなってきちゃったわ。お邪魔なようだし、わたくしは退散させていただきますわね、アルバート様」
「ご、ごめんグレイス。今度の夜会では君を一番にダンスに誘うから、今日のところは許してくれ」
涙を拭いながらアルバートが言うと、グレイスはくすりと笑ってエリーのほうを見た。
「期待しないで待っていますわ。……では、ご機嫌よう」
鳥の羽根を揺らしつつ、奥へと戻って行く公爵令嬢の背中を見送ると、アルバートはようやく豚の丸焼き――ではなく、エリーの前の席に腰を下ろした。
先ほどのコックが、引いてきたワゴンをテーブル脇につける。
「切り分けて皿にお取りしましょうか?」
「いや、それには及ばない。……色々と、気遣いありがとう、カレブ」
アルバートがチップを渡すと、カレブはエリーに「ごゆっくり」とウィンクし、下がっていった。
「……切り分けてもらったほうが良かったんじゃないですか? これ」
つやつやとした焼き目がなんとも美味しそうなメインディッシュを前に、ナイフとフォークを手にしたエリーは攻めあぐねていた。
(頭から……? いやいや、ここはやっぱり肩からかしら??)
「僕は足が好きだ」
「足ですね。了解しました」
「あと、顔も結構好みかな」
「か、顔? ああ、頭の事ですね。……なにぶんナイフが小さいもので、時間が少々かかります。ゆっくりと紅茶でも飲みながらお待ちください!」
「食べ終えたらぜひ名前を教えて欲しい」
「はい! ――って。こ、この豚の名前ですか? それはちょっとわたしには……。ああっ、そうだ。さっきのカレブさんに聞けばもしかして」
これから食する豚の名前など聞いてどうする気なのだろう? 首を捻りたくなったが、スポンサーの希望である。タダ飯食らいの身としては、出来る限り叶えてやらねば。エリーはナイフを置いてがたんと席を立った。
その手首を、アルバートががしっと掴む。
「僕が聞きたいのは、君の名前なんだけど」
「……え?」
きょとんとして振り返ると、藍色の瞳が真っ直ぐエリーを見つめていた。
「教えてもらえるかな? できればフルネームで」
甘く微笑み、そのまま床へ跪く。
それと同時に周囲の雑音が消えた。ええええ、とエリーが辺りを見回す。が、みんな一様に目を合わせようとしない。
(な、なな、何これ怖い。たかが名前を聞くぐらいで、どうしてこんな状況に……!)
エリーの目線が、アルバートと豚の丸焼きの間を往復する。子豚は惜しいが、いっそこのまま逃亡してしまおうか。
(でも、ジュースぜんぶ飲み干しちゃったし)
なぜか胸の前で両手を組むウェイトレスと、コック帽をくしゃりと握り締めるカレブの視線が痛い。
無意識にだらだらと流れていく冷や汗を感じつつ、エリーは重い口を開いた。
「エ、エリー。わたしの名前は……エリー・モラヴィアです」
羞恥と戸惑いが綯交ぜになり、みるみる頰が染まっていく。
「……エリーか。良い名だ」
「あ、ありがとうございます」
「モラヴィア辺境伯の活躍も素晴らしい」
「ありがとうございます!」
「エリー・モラヴィア。僕と結婚して欲しい」
「ありがとうございま――――ええ??」
思わずぱっと手を離し、エリーは二、三歩後ずさった。後ずさって――その拍子に思い出す。"アルバート"という名の王族で、金髪碧眼の美少年といえば、この王国にたった一人だけしかいないことを。
「王太子妃になれば、蜂蜜食べ放題だよ。エリー」
やんごとなき御方のひと声に、皿の上の子豚と自分が重なって見えた。
〜fin〜
[後日談〜バルサラク王城にて〜]
王太子 「エリー、OKしてくれるかな?」
第二王子「まさか断れないだろ」
第三王子「諦めが肝心ですよ、お兄様♡」
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Q.この苺の行き先は?
※イラストは
「こんぺいとうメーカー」様にて作成♪
picrew.me/image_maker/648
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[資料]
※ 辺境伯:国境付近に防備の必要上置いた軍事地区(マルク(Mark):辺境地区、辺境伯領)の指揮官として設けられた地方長官の名称である。
※ 暗器:身体に隠し持つ事が出来る小さな武器の総称。暗器械とも称する。(出典/Wikipedia)
A.年末スタートの連載で明らかに……
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