告解
告解
昔、私にとっては星の光みたいに遠い昔のこと。
使い古された野球ボール、メッキが剥げた金メダル。黒ずんで、くたくたになったグラブ、一番使っていた擦り傷だらけのバット、グリップエンドに付けられた赤いシール。
もう何もかも遠い昔になってしまったけど、太陽でくすんでしまった集合写真だけが、時の流れをひっそりと止めていた。
他の全てを段ボールにしまったみたいに、その額縁を最後に入れて、テープで箱をグルグル巻きにした。
私の手にはもう変わったところはなにもない。すり切れたところも、硬くなったところもない。爪も、髪も好きなだけ伸ばせる。
ただの、普通の女の子だ。
たったひとつの金色を除いて。
「さよなら」
そうやって私は暗い奥底へと、色褪せない記憶を隠した。
海の中の泡みたいに、昇ってこないように。
二度と、そんな記憶が開かないように。
私は夢を見た。
長い、長い夢を。
二度と開かないようにしたあの頃を、思い出している。
砂埃が吹いていた。滑り止めの白い粉が入った袋を何度か軽く放り投げて、手の汗を止める。軽く指が震えてる。
手を何度か握ったり開いたりして、震えを止める。
誰かの声は街の向こうから聞こえるみたいに遠くて、バッターが土を蹴る音が聞こえる。
キャッチャーのサインは、スライダー。反則だけど、少し曲げるだけなら使える。帽子を左手でつまむ。
ゆっくりと手と足を上げ、踏み込む。
すぐに右手が振られる。指先に血が上り、指が破裂しそうになる。すぐに球との焼け焦げるような摩擦。
ミットの破裂音。
バッターのヘルメットが地面に落ちた。そして私はグラブを上に突き上げ、笑った。
これで、5回目の金メダルだ。
そこで目が覚めた。
私はベッドから飛び起きて、頭をかきむしった。
電気を付けたままの部屋は、警官にライトを当てられて詰問されてる時みたいに明るかった。
顔を思い切りひっかいて、肌から血が出た。
薬を探したけど、もう残ってなかった。
私はこういうとき、薬を普通より多く飲む。
今は深夜の二時。外には誰もいない。
服を着て、家の外に出た。電灯の明かりの間だけを縫って通った。
朝になるまでずっと、町をさまよって。
暗いところにいると叫び出してしまうほど怖いのに。
これは私の、私への罰だ。
誰かが私をどうにかするというのなら、どうにでもして。
そんな気持ちだった。
酷いくまと顔の傷を化粧と絆創膏で隠して、私は学校へ向かった。
いつものあの坂で、私は彼に会う。
私はいつも、駅の近くで待ち伏せをして、背中を見つけたら、
偶然会ったみたいに、声を掛けた。
私より高い背丈に、ふんわりとした黒髪。
「おはよ、ヒロ」
いつもよりちょっと待たせてくれたお礼に、胸を当ててからかってやる。
「おはよう、カナン」
顔を赤くしながら照れた彼は、いつみてもかわいらしい。
私は、たぶん彼が好きだ。
今はそんなこと言えないけど、いつかは言えたらいいな。
そんな資格は、ないかもしれないけど。
学校で、見たくない相手を見た。
常に何かを憎んでいるような眼で周りを見渡している。
私はすれ違って、昔を思い出して、吐き気がした。
悪いのは、私だ。
その日も、夢を見た。
私は誰かを蹴り飛ばして、あざ笑っている。
後から入ってきた男が、私より野球が上手かった事の憂さ晴らしで、違う誰かを虐めている。
補欠で、足が遅くて一番気弱そうな奴を狙って。
私の球がそいつに打たれたのに頭に来てた。
蹴った後、バットで思い切り頭を殴りつけた。
そいつが倒れて、初めてやりすぎた、と思った。周りの奴は、はやし立ててるままだ。
手が震えてる。隠すために笑って、手をポケットに突っ込んだ。
後から入ってきた男は、私よりもはるかに球が速かった。中学の硬式チームからのスカウトも多かった。
私には一件も入ってこないのに。私は、女だから。そいつより下手だから。キャッチャーにも、ファーストにも、レフトにもスカウトが来てるのに。
でも、エースの座は譲らなかった。父母会での親の力関係とか、そういう実力以外の部分で、お情けで、エースだった。
はじめて、自分が惨めに感じた。
たぶんベンチの奴はいつもそんな気持ちだったのかな、と思って、自分の傲慢さを感じた。
でも、もう遅かったと思う。そんなこと思ったって、すぐに人は変わらない。
チームは一年で7回優勝した。
その間に、私の肘はもうほとんど使い物にならなくなっていた。
結局、ほとんど皆野球をやめた。
たぶん、私のせいだ。
そして、中学の時の夢に移り変わった。
野球を辞めてソフトボールに移った私は、すぐにレギュラーになった。
でも、最後の年、私は失明した。
私に残ったのは、喪失の証の金メダルだけだった。
右目にはめこんだ、金メダルだ。
それで、大会に負けて部活を辞めた。
部活を辞めた私に待っていたのは、いじめだった。
なんてことはない、私が補欠にやっていた虐めなんかよりも軽いものだった。
水を掛けられたり、足を引っかけられたりとか、教科書を捨てられたりとか。
だけど、弱ってた私にはそれが追い打ちだった。
私は学校を休みがちになって、医者から薬を貰うようになった。
私は、初めて夜が怖くなった。
なにも見えなくなったあの日が、全て奪われたあの日が。
私の罪と罰について、考えることも怖かった。
夜になる度に、近づいてくる悪夢が。
そして、止むことの無い明日も。
今度目が覚めたのは、夜中の三時だった。
私は、その日学校を休んだ。
昼から自転車に乗って市内を回って、夕方になる頃には、近所の河川敷に着いた。
北から、もっと南まで流れる大きな河だ。
目が焼けるような金と赤の中に、ぽつんとたっている一本の鉄塔を見ていた。
カラス達が空を飛び回って、誰もいない河川敷でただ座ってる。
そのうちに私は、涙を流していた。
涙なんて、悲しさに比べると、ほんの少しの量しかないね。
私はそう一人で喋って、ずっと座っていた。
このことをずっと隠すつもりだった。
だけど、できなかった。
数週間ぐらいの間に、色んな事があった。
学校を辞めるつもりだったけど、そうはならなかった。
私は、皆に救われた。
皆がやってくれたことは無駄にはしない。
彼や、部活の皆や、クラスの皆、昔虐めてた相手にも、助けて貰った。
もう皆に恥ずかしい姿を見せたくない。
自分勝手だってわかってるけど。
ちゃんと過去に向き合おう。
二度と開かないようにしたあの押し入れは、数週間の間に、少し開けてしまっていた。
部屋に置いておいた金メダルのひとつは、彼にあげた。
段ボールをもう一回開いて、集合写真を机の上に飾った。
私は過ちを犯してしまっていたけど、もうこれからはそんなことしない。
夕陽を浴びて、色褪せた写真だけが机の上できらりと輝いてる。
「ありがとう、皆」
私はそう言って、写真をそっとなでた。




