「もう一度、会いたくて。」 閑話 ~フェイのある一日~
私の小説、「もう一度、会いたくて。」の物語に出てくるキャラクター、フェイにちょっとした出来事が起こる話です。
本編に触れる、フェイ自身のネタバレがあるため、平気な方のみ推奨です。
のちに本編でもフェイ自身について語られる予定ですが、本編で楽しみたい方はご遠慮くださいませ。
では、よろしくお願いいたします。
尚、本編のほうは金曜に更新予定となっておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
追記:友人との合作です。
ひゅ、と耳朶を何かが掠った。間髪入れず、ちりちりと僅かに痛みだす。おそらく、皮膚が切れたのだろう。
「……不審な動きは見せないほうが、身のためですわ」
風が吹き、深緑の木々が葉擦れの音を立てる。
フェイは身じろぎもせず、眼前に立っている白い髪の女と、その背後に立っている男を見つめた。
「ん、いやぁ~ちょっと頬が痒くて~……掻いていい~?」
気が抜ける声色でそう尋ねると、女は目を眇めた。若干頬が引きつっている様に見えるのは気のせいだろうか。
女は、再び手の平を前方―――……フェイに突きだした。しかし、先刻のように掠り傷を負わせた能力を使う気はないらしく、魔力は一切感じられない。
フェイが怪しい所作をした場合すぐに対処できるようにしているのだろう。
唇を引き結んだまま身動きしない女を見て了承ととったフェイは、ようやく欲望を満たし、破顔した。
「はぁ~……気持ちいい~……」
何気ない風を装いながら、目前の男女を観察する。女は相変わらずフェイを警戒しているようだが、眼帯をしている男はそうでもないらしい。
女を止める気はないようだが、積極的に攻撃を仕掛ける気もないようだ。かわりに、じっくりと品定めをされている気がする。
―――さて、どうしたもんかな~
まさかちょっとした好奇心がこんなことに発展するとは思いもよらなかった―――……。
時を遡る事、数時間前。
「え、噂~?」
「そうさぁ! 聞いたことないかい? あ、お前さんはたまにしか顔ださねーから知らねぇか~! がはっはっは!」
そう言って店のおっちゃんは豪快に笑い、カウンターの奥へと引っ込んでいく。途端、背後の大通りから響いてくる激しい雑音で店内が満たされた。が、すぐに戻ってきたおっちゃんはフェイの手に焦げ茶の装丁の本を、トンと置いた。
「ほいっ! 前回おめーさんが欲しがってたやつだ」
「うぉ~! さっすがおっちゃん! 頼りになるね~!」
外界から聞こえてくる騒音に負けないくらいの声を張り上げたフェイに、おっちゃんはドヤ顔でふんぞり返った。フェイは望んでいた書物が手に入り、おっちゃんも懐が潤って万々歳である。
フェイは代金を支払うと、それで? とおっちゃんをせっつく。
話の続きが気になったのだ。このまま終わっては、フェイの好奇心が満たされないではないか。
催促されることは分かっていたのであろう。おっちゃんは、そうこなくっちゃというように、にんまりと笑った。
「町の北門を出て森を道なりに進むと、分かれ道があるんだってよ! そこを左にずっと行った先に妙~な水溜りがあるってんで噂になっててよ。なんでも、うっすらと赤味がかっててしかも消えないんだと! 普通なら、土に吸い込まれて無くなんだろ? 怪しいってんで、そこに立ち入り禁止の札立ててるのさぁ」
お前さん、そういうの好きだろ? とおっちゃんは良い笑顔だ。
暗に、調べてこいと言われているようでフェイの頬が引きつった。
だがしかし、その口角は上がっている。
―――面白そ~!
好奇心が膨れ上がり、つい深く息を吸い込むと鼻の穴が膨らんだ。
「北門ね~、おっちゃんありがと~! またね~」
回れ右し、北に向かって走り出すと背後から「おぅ!」と威勢のいいおっちゃんの声が聞こえ、フェイは口元を緩めた。
それからフェイは、おっちゃんの言っていた通り北門から森に入ると、道なりに歩いていた。まだ昼前のため、陽光が射して木漏れ日が落ち、周囲は明るく足取りも軽い。
遠いという情報はなかったため近場だと踏んで軽食は用意しなかったが、果たしてどうだろうか。
そんな雑多なことを考えながら脚だけ動かしていると、ふと遠目に茶色いものが視界に映った。
「あれは立札かなぁ~?」
小走りで駆け寄ってみれば、立札と共に話にあった赤い水とやらが確かに存在していた。その大きさは直径50センチくらいの円を描いているものだった。
周囲を見渡してみても土の色が変色していたり樹が腐ったりなどの変異は見られず、異臭がするわけでもない。
誠に摩訶不思議な現象である。
フェイは申し訳程度に囲ってある細い縄を跨いで赤味のある水溜りに近づいた。そしてその場にしゃがみ、水面を覗き込む。
半透明らしく、うっすらと底が透けて見えるが、変な植物が生えているわけでもなさそうだ。
だとしたらこの色はどこから来たのか?
新緑の瞳を眇め、フェイは手を伸ばす。
指先が水面に触れ、波紋が立ったその瞬間。
「っ!?」
目が眩むほどの眩しい光が迸り、フェイは両腕で目を庇った。頭の中に警鐘が鳴り響くが時すでに遅く。
光が収まった、と感じたあたりで伏せていた瞼をそぉっと開けると、目を見開いた。
どう考えてもさっきまで居たところとは全く別の森の中に立っていたのだ。
「……………………」
さすがのフェイも二の句が継げなかった。
どうなっているのか理解が追いつかない。表面で取り乱していないだけで頭の中は真っ白。
叫ばない自分をほめてやりたいくらいだ。
途方に暮れ、どうしようかと頭を悩ませ頬を掻こうと手を挙げた瞬間―――。
ひゅ、と何かが耳朶を掠り、気がつけば二人の人間が忽然と現れていたというわけだ。
「……貴方、どうやってここまで来たのですか? 案内人は?」
冷ややかな声が鼓膜に響く。フェイは首を傾げた。
「初めて聞く名前だけど~。オイラは何も知らないし分からないことだらけなんだ~」
辺りを見渡した後で肩をすくめて見せても、女の警戒は解けない。
―――これは、何を言っても無駄かなぁ~?
「カタ?」
眼帯の男が女の制止を無視し、フェイの目の前に立ち止まった。お互いに手が届く距離だ。それはすなわち、相手の命を奪えるということを意味する。
だがフェイは動かなかった。自分を射抜く茜色をじっと覗き込む。
「夕焼けの色だね~」
その言葉を拾った眼帯の男が鼻で笑った。だが、嘲笑のそれではない。
「変わったヤツだなお前。いいぜ、案内してやる」
―――案内? どこへ?
目を瞬かせるフェイを見て口元を緩めると、女を振り返る。
「いいだろミゾレ」
「……仕方がありませんわね。責任はとってくださいな」
「決まりだな」
女は片腕を下すと軽く振った。男は何故か楽しそうに見える。全くわからないが、どうやら男の警戒心は解けたらしい。
まあ、見せかけだけかもしれないが。
「じゃ、行こうぜ。俺はカタだ。よろしく」
「オイラはフェイ。こちらこそよろしく~」
にこやかに手を伸ばせば、一拍間を置いてからカタがその手を握った。一瞬だけ彼の平に力が込められたのは気のせいだろうか。
「こっちだ」
そう言って歩き出すカタの後ろをついて行く。
不意に、森が風もないのに葉擦れの音を立てた。それは収まるどころか広範囲に広まっていき、まるで会話をしているように見えてくる。
ふと、この森は明確な意思を持って生きているのではないかという疑問が脳裏を掠めた。
とても不思議だ。ここでは何が起きてもおかしくない、そんな気持ちにさせる何かがある。
突然、木々が歪んだ。驚愕し目を見開いている中で、一斉に木々たちがぽっかりとした円を描くようにその場から避けていく。
あまりの異様さに開いた口が塞がらないでいると男の笑い声が耳朶を打ち、はっと我に返る。
「ようこそ、中立の森へ」
カタが片腕で指し示した先には、一軒の家が佇んでいた。先程までは、なかった筈だ。
「……中立の、森……?」
茫然としていると、カタが顎をしゃくる。
「ほら、行こうぜ」
気が付くと、ミゾレと呼ばれた女は既に建物へ向かっていた。足を止めていたカタが動き出し、フェイも慌ててついて行く。
二人のあとについて開け放たれた建物に入ると、そこはリビングだった。床は綺麗な木目のもので掃除が行き届いているのだろう、自分の姿が映って見える程だ。中央にはテーブルと何脚かの椅子が置かれてあり、奥のほうには存在を強調するかのような漆黒の扉があった。
―――内装は、普通の民家と変わりない……か~。でも何か……不思議な存在を感じるなぁ~。
「突っ立ってないで、そこ座ったら?」
カタに視線を移すと、すでに席についてくつろいでいた。指先で、彼の正面に当たる空席をちょいちょいと示している。
そこに座れということなのだろう。
椅子に座ったところで、三つのカップをお盆に乗せたミゾレが姿を現し、音を立てずにテーブルへ並べる。湯気がたつ綺麗な赤味のあるお茶には薄くスライスされた果物が一枚、水面を漂っていた。
「どうぞ、お召し上がりください」
ミゾレと呼ばれていただろうか。女に勧められ、フェイはお茶を口に含むと舌の上で転がし、飲み下した。
「美味しいですね~、ありがとうございます~」
「だろ?」
カタが微笑みながら答える横で、ミゾレが口元を引き結んだまま腰を下ろした。
「で、本題に入るんだけど。フェイはどこからどうやってきたの?」
二口目を含んだ際に言われ、カップをソーサーの上に戻すと顔を上げた。
「ん~さっきも言ったけど本当に分からないんだよね~。ただ、ここは……おそらくオイラが居た場所とは全く違う……と、思う」
「根拠は?」
フェイは、ぽりぽりと頬を掻いた。なんと説明したら伝わるだろうか?
「オイラは、知り合いのおっちゃんに変な赤い水があるから調べてくれって言われたんだ~(直接じゃないけど)。で、行って水面を指先でつついたら突然光に包まれて、気づいたらさっきの場所に立ってたんだ~信じてくれないかもしれないけど。うん、美味いね~この飲み物~」
「マイペースな奴だなお前」
「あ~、よく言われるかも~」
カチャンと音を鳴らしてソーサーにカップを置くと、カタが隣のミゾレに目配せした。
「ミゾレ。どう思う?」
音も立てずにお茶を飲んだミゾレが静かにカップを戻す。
「そうですね。少し前になりますが、松姫から町のほうで怪しい水溜りがあるという話を小耳にしましたわ。そちらは紫色のようですけれど」
「そうか……俺は初耳だけどミゾレさん?」
「ええ、今言いましたもの」
「…………」
微笑みを張り付けたまま口を閉ざすカタを見て、フェイは強く感じた。
尻に敷かれている。
―――ん~強い女性って好きだけど、たまにはほわ~んとする子だともっといいなぁ~。
「というわけだ。繋がりがあるかは調べてみないと何とも言えないが、行ってみる?」
「あ、そうですね~そうしていただけたら助かります~。」
「決まりだな。じゃあミゾレ」
「訊いてまいります」
素早く席を立ったミゾレは奥に見える扉へ颯爽と消えていった。
心なしかその速度は今までで最速だった気がするのは気のせいだろうか。
「なぁなぁ、フェイ君ってさぁ……何者?」
カップを口元に傾けていた手が、一瞬だけ止まった。そのままお茶を一気に呷ると、顔に微笑みを張り付ける。
「ん~?」
カタは何が面白いのかニヤニヤしていた。
その笑顔を見ていると張り倒したくなる。
そんな気持ちを理性で抑えたフェイは、首を傾げた。
「ま、言えないよなぁ。でもさ、分かってるんだぜ」
ぐっと身を乗り出してきたカタの顔が、至近距離で止まった。彼の吐息がかかり、思わず眉間に皴が寄る。
「お前、普通の人間と雰囲気が違うんだよ。何か、隠してるんだろ?」
フェイは、笑みを浮かべたまま新緑の双眸を眇めた。
がたん、とカタが姿勢を正した。口角を上げたまま見据えてくる真紅が、嘘はつくなよと訴えてくる。
そういう発言をするということは、やはりカタとミゾレも普通の人ではないのかもしれない。それは二人を一目見た瞬間から考えていたことではあった。
―――……まぁ、別にいいかなぁ~。
「ご名答~。でも褒美は出ないよ~」
「やっぱりな!」
あからさまにご機嫌になったカタを見て、まるで子供のようだと思う。この子たちは、純粋だ。
「お、なんで笑ってんだ?」
前のめりになって尋ねてくるカタに、フェイは頭を振った。
「別に~」
つと、扉の奥に気配を感じたと同時にそれが開け放たれ、白髪の女が姿を現した。
「お。どうだって?」
「外出許可を頂きました」
金色の瞳がフェイを射抜いた。彼女の表情は相変わらず硬い。
「町へご案内します。そして貴方を在るべき場所へ還します」
未だ警戒心を解かないミゾレに、フェイは好感を抱いた。
通常、人は己の都合の良いように本音を隠し他人に愛想笑いをして生きる者が多い。だが彼女は自分を繕うことをしない。そういうところが好ましいと思う。
「よろしくお願いします。……さて、じゃあお喋りもおしまいだね~」
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がったフェイはカタに微笑んだ。これで別れるのは寂しい気もするが、話し続けていると芋ずる式に何もかも聞きだされそうで怖い。
「ああ、楽しかったぜ。元気でなフェイ。ミゾレ、あとはよろしく」
扉の前に立つと、間近に来たカタが手を差し出した。フェイは口元を緩め、固い握手を交わす。
―――ほんの数十分前まではお互いを怪しんでいたのに、新しい友達ができちゃったなぁ~。
「なんだ~? またニヤニヤして」
「いや……新しい友達が出来たと思ってね~」
急にカタが真顔になり、ぷいっと視線を逸らした。ついで手の甲を口元に寄せる。
「なんだよ……恥ずかしい奴」
息を吐きながら小さく笑ったフェイは満面の笑みを浮かべ、金色の頭に手の平をぽん、と乗せた。一瞬反論をしかけたカタはフェイの表情を見て口を噤むと頬を緩め、間を置いてから呟くように言った。
「……またな」
「そうだね」
二度目はもうないだろうと互いに考えていることが透けてみえていたが、きっとこれでいいのだろう、と思う。
「元気で」
タイミングを見計らっていたのか、フェイが言ったと同時にミゾレが扉を開けた。途端、そよ風が頬を優しく撫で通り過ぎていく。
何故かそれは今まで生きてきた中で、一番優しく温かいものに感じた。
少し、後ろ髪を引かれるけれど。
―――帰らないとね。
フェイの靴底が土を踏みしめると間髪入れず背後から、扉が閉ざされる音が聞こえた。けれど、フェイはもう振り返らなかった。かわりに顔を上げて正面を見つめる。
「行きましょう。ついて来てくださいな」
「わかりました~」
そのあとフェイは、森を抜けるまで一言もミゾレと言葉を交わさなかった。
「ここですわ。森の出口―――……そして、町への入り口です」
そう告げたミゾレの足元には、ドーム型に切断された石が三角点に並べられてあった。というか、最早それ以外は先程と変わりない景色が視界いっぱいに広がっているだけである。
目を瞬かせたフェイは三角に並んでいる石に視線を落とし、そしてゆっくりと上げてミゾレを見た。彼女は身じろぎ一つせず顔色も変えず、ただじっとそこに立っている。
フェイは無意識に唾を飲み下した。
「……あの~、もしかして足元の石……の、ことでしょうか~?」
「他に何が?」
―――いえ、ありません~。
そうですよね~周りは変わり映えのない森しかないですもんね~。
賢明にも、フェイは一言も心の声を漏らさなかった。
きっとこれは、この中立の森に住む住人たちにしか分からない入り口なのだろうと思う。
そう、おそらく余計な危険分子を弾くために設置されたものなのかもしれない。
「入り口は、ここだけなんですか~?」
「そうとも言えますし違うとも言えます。魔法使いはあらゆる方法を用いて侵入して来ますので。暇な事ですわ」
―――うん、このストレートさ嫌いじゃないなぁ~。
「……なに変な顔をしていますの。さっさとお入りになって」
「はいは~い」
とん、と三角点の中心に立つ。これでいいのかと尋ねようと背後を振り返った瞬間、フェイは目を見張った。
鼓膜が拾う、人々が生み出す騒音と、中央に大きく幅をとって両端を挟むように奥まで続く軒並みや、不思議なオーラを纏い空中をランダムに浮遊しているカラフルな球体。
それらが何の前触れもなく突然出現したのだ。
あんぐりと空いたままの口が塞がらない。
―――すごい。この世界には、驚かされてばかりだ~。
魔法使いには、天国かもしれない。
自由に能力を使える場所。誰にも文句を言われず、恐れられることもなく空気を吸うように力を振るえるのだ。
そんな場所は、自分の世界では一ヶ所しか知らなかった。
「随分と驚いていらっしゃいますね」
耳朶を打った声にはっと我に返ると、隣にミゾレが立っていた。気のせいか、先刻までより表情が柔らかいようにも見える。
「いや……まあ、……そうですね~。驚きました~」
そう言って面を落としたフェイに、ミゾレが続けて言う。
「貴方の世界にはないのですか? 魔法使いの国が」
「ん~……ない、といえばない……ですねぇ~……オイラの世界では魔法使い……魔術師と呼ばれる存在はほんの一部しかいないんですよ~。しかも、一般人からは公に存在を認められてもいないので、この町の人みたいに……堂々と胸を張っている者はいませんね~」
「……貴方は?」
「はい?」
顔を上げ、正面に立っているミゾレを見つめる。
「貴方も魔法使いでしょう?」
一瞬言葉に詰まり、ふ、と小さく笑いを零した。
正面切って訊かれるとは思っていなかった。
―――まあ、別にもういいけどね~。
「そうですね~」
フェイはついに認めた。
新緑の双眸に、無表情のミゾレが映る。
「それは寂しいですね」
「もう慣れましたよ~」
ふっと、ミゾレの金目が細まる。
「……行きましょう、こちらです」
ミゾレが身を翻して大通りを歩き出し、フェイは穏やかな笑顔を浮かべたままその後をついていった。
そうして数分が経った頃、フェイの目を惹くものがあった。本屋だ。店の前で、数段の棚に分けて並び展示されている。すぐ奥に見える店内へ続く扉は開け放たれており、狭いが明るい部屋の中で綺麗に陳列されている様子が垣間見えた。
―――魔導書……この世界にもあるのかな~? こっちのほうではどんなもの売ってるんだろ~?
「気になりますか」
はっと視線を正面に戻すと、ミゾレが足を止めて待っていた。いつの間にか自分は立ち止まっていたらしい。
「すみません~少し気になってしまって」
「入ってみますか? 少しだけならいいですよ」
「本当ですか~! ありがとうございます、すぐ戻ります~!」
いい切る前にすでに走り出したフェイを見て、ミゾレがほんの少し頬を緩める。そんな二人の様子を金と赤のオッドアイが見つめていたことなど、誰も気が付かなかった。
数分で店内の物色を完了させたフェイは、すぐに本屋をでた。
「お待たせしました~。いや~こっちの文字読めないこと忘れてました~」
「……ああ、それもそうですね。もうよろしいですか?」
「はい~」
「では」
再び動き出したミゾレのあとを追おうと一歩踏み出した途端、今度は彼女が足を止める。
―――何かあったかな~?
「どうしました~?」
ひょいとミゾレの横から顔を出してみれば足元に真っ白な猫が一匹、道を塞いでいた。純白の長い尾をひと振りし「にゃ~」と鳴くその声は鈴のように軽やかで、金と赤のオッドアイも爛々と輝いている。
「こんな綺麗な猫がいるんですね~、この世界には~……」
そう感嘆した次の瞬間、オッドアイが眼前に迫り左耳に痛みが走った。
「っ!?」
咄嗟に左耳を押さえた。
そこにある筈のものが無くなっていることに気付き素早く振り返れば、猫の口元が金色の光を放った。
「オイラのピアス!」
その声に反応したように白い尾がぴしっと大地を打ち、砂煙が立つ。フェイが立ち上がった刹那、猫が身を翻し駆け出す。
「ちょっと待ってよオイラのピアス~!」
「あっ!」
脇目も振らず疾走し始めたフェイには、ミゾレの小さな声など耳に入らなかった。
それからフェイは猫を追いかけ全力疾走した。
路地に入ったと思えば忽然と消え、にゃーと屋根の上から鳴くオッドアイと目が合えばしなやかに着地した猫を追いかけ、建物の回りをぐるっと一周する。そのまま大通りを横断して脇道に入り、すばしっこい背中をおいかけていたはずが見失って、困り果てているといつの間にか背中を取った猫が存在を主張するようにひと鳴きするのだ。
そしてまた鬼ごっこが再開されたのだが、その数分後とうとうフェイは猫を完全に取り逃がした。
「あ~~~……オイラのピアス……長年溜めてた魔力が~~~」
肩を落とし両腕をぶらぶらさせ、相当待たせているミゾレの元へとぼとぼと向かいながら、何度目か知れない憂愁な溜め息を漏らす。
「あ~~~~もう悲し~~~~~~」
このセリフももう何度目か知れない。
「はああああぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~」
「……戻られましたか」
「あ~~~~はい……ああぁぁぁ~~~!? その猫!?」
ミゾレの胸元にちゃっかり収まった猫が、鳴く替わりに白い尾を大きくひと振りさせた。
「お……オイラの努力はなんだったの~~~~~~!?」
両手に顔を埋め天を仰ぐフェイの悲鳴を聞いた猫は楽しそうに尻尾をひと振り。
「ま、まあ……とりあえずそのピアス、オイラのだから返してください~……」
じり、と足を踏み出す。猫は逃げない。
―――お~? これはいける!?
「そのまま……逃がさないでくださいね~!」
小走りで猫に立ち向かった瞬間、白いモフモフは忽然と姿を消した。間髪入れずフェイの背中を何かが押し出し視界が目を見開いているミゾレでいっぱいになり―――……重たい音が響いて砂埃が舞う中、二人の男女が絡み合って倒れていた。
「っ!」
「いった~」
砂煙が晴れて初めて、フェイはミゾレを組敷いていることに気が付いた。
「…………」
「…………」
刹那、新緑の双眸と金色のそれが数秒無言で見つめ合う。
「……あ、すみませんね~何かに背中を押されてしまって~」
先に起き上ったフェイがミゾレに手を伸ばす。
「……自分で立ち上がれますわ」
フェイが避けると素早く立ち上がったミゾレは、金色の瞳でキッと猫を睨み付けた。
「お転婆もほどほどにしてくださいゴスロリ女王。迷惑も甚だしいですわ」
―――え? 誰それ~?
「あら……もうバレちゃったのね残念」
フェイは、猫から少女の声が聞こえてあんぐりと口を開けた。
「見知った人を見掛けたから、少し遊んだだけよ。視察のついでにね」
「……巡回ですか。例の水溜りですね?」
「ええそうよ」
「でしたらさっさとそちらへ行けばいいでしょうに」
「だから言ったでしょう? 遊んだの」
―――うわぁ~こわい~……。
まさに一触即発。火花が散って見える。
「これ、返すわ」
ミゾレの横を素通りしてフェイに近寄ってきた白猫は、小さな顔を上げた。その唇にはまだ金色のピアスが咥えられたままである。
「あ、どうも~」
フェイが手の平を差し出すと、猫はその上に小さな輪を落とした。戻ってきたそれを陽光に翳し定位置につけると、ようやく人心地ついて息を漏らす。
「で、あなたは何をしにここまで来たの?」
「えっと~……」
ちらりとミゾレの様子を窺うと、視線が合った。
「……その水溜りに用があるのですわ。ですからお帰り下さいな」
「ふぅん……まあいいわ。折角だから最後まで見届けるわ」
「余計なお世話です」
「民の状況は把握しておかないと女王失格でしょう」
口元を引き結んだミゾレが、重い溜め息を吐いた。どうやら結論は出たようだ。
「行きましょう、こちらです」
「はい~」
空気がぴりぴりしているのを肌でひしひしと感じながら、ミゾレと猫一匹が本屋の角を曲がるのをフェイは無言でついていく。
こういう時は口を出さないほうが身のためだ。
数メートル歩いたところで、古びた建物が視界に映った。地面から延びた蔓が壊れている壁や屋根を覆っており、すぐにでも崩れ落ちてきそうな雰囲気がある。
「中に近寄りませんように」
警告したミゾレと白猫が躊躇なく建物の壁で挟まれた路地を通っていき、フェイもそれに続く。突当りまで行くと、先に着いていたミゾレと猫が、距離を空けて同じ方向を見つめていた。
―――確かにあれは、紫色の水溜りだなぁ~。
それは、アメジストという宝石がそのまま液体になったような美しい色合いで、思わず見惚れてしまった。
「これですわ」
「……とても綺麗で驚きました~。これで本当に帰れるんでしょうか」
「正直なところ、試してみないとわかりませんわ」
「その話から察するに、あなた別の場所から来たの?」
「あ、そうです~。……それにしてもこの世界は猫も話せるんですね~。最初びっくりしました~」
「話せませんよ」
ミゾレが冷たく言い放つ。
「え? じゃあ~……」
「それは、可哀想に猫の体を勝手に借りて動かしてるだけですわ」
「そう、魔法でね」
ミゾレのあとを猫が継いだ。その答えに合点がいく。
「なるほど~……」
どうやらこの世界は、自分のところより発展しているようだ。そのような考え方があったとは。
「いい勉強になりました~。あと、色々とありがとうございましたミゾレさん。カタ君にもどうぞよろしく~」
そう言ってフェイはミゾレと猫にお辞儀をすると、真っ直ぐ水溜りへと向かった。フェイの踏み込む振動で波紋が立たなければ、石だと思ったかもしれない。それほど美しかった。
―――さすがに緊張するなぁ~……。
ごくりと唾を飲み下し、覚悟を決めて勢いよく紫色の水溜りに足を突っ込む。アメジスト色の飛沫が飛び、閃光が迸ってフェイの全身を包み込んだ。
やがてその輝きが消滅した時、フェイの姿は跡形もなかった。
「……いったわね」
「…………」
女王の呟きに応えるものは沈黙だけだった。
伏せていた瞼を開けると、辺りは薄暗かった。空を見上げると遠くがぼんやり赤く染まっている。
これは、朝焼けだ。
背後を振り返ると、見たことがある細い縄と立ち入り禁止の立札があってフェイは胸を撫で下ろした。
木々の間から昇りかけの太陽を見つめ、微笑む。左耳についている金色のイヤリングが、強い光を弾いていた。
「帰れたよ~カタ君。……さて、今はいつかな~っと……って、あら~?」
立ち上がると、そこにあった筈の赤い水が枯れていることに気が付いた。
「……なくなっちゃってる~……あ~……じゃあ、本当にもうこれで最後か~。……仕方がない」
フェイはロープを軽く跨ぐと数歩進んで立ち止まり、もう一度振り返った。
やはり、勘違いでもなんでもなく、そこにあった真紅の水は影も形もない。
新緑の双眸を細めると、フェイは水溜りがあったであろう窪みを見据え、呟く。
「……ばいばい」
そしてフェイは、二度と振り返らなかった。
森から抜け出し北門を通って町に入ると、完全に陽が昇っていた。大通りでは商いをするための準備をしている人がちらほらとおり、それは初めに寄った店のおっちゃんも同様だ。
わざと靴音を立てて近づいていくと、おっちゃんが勢いよく振り向いて目を見開いた。
「おっ!! どうしたんだお前さんこんな朝早くから!! というか今、北門のほうから来てたよな……? お、おいおいおいおいまさかお前さん……!?」
「ご明察~」
「あれから何時間経ってると思ってんだ!? まさか噂はマジだったのか!!? なぁおいどうなんだ!!?」
興奮し言い募るおっちゃんに、フェイは微笑んで見せる。
「いいや~、水溜りは見つからなかったよ~。確かに立札はあったけど~」
「はっ!!? ……まじか?」
「うん、まじまじ~」
「枯れてたのか?」
「うんすっかりねぇ~」
「なんだ」
見るからにがっかり肩を落とすおっちゃんを見て、フェイは苦笑する。
―――ごめんねおっちゃん。でも、そのほうがいいと思うんだ~。
「ん? じゃあお前さんこんな時間まで森で何してたんだ?」
心臓が飛び跳ねた。意外と鋭い。
「今までずっと探してたんだよ~見つからなくて迷って、あとは野宿して戻って来たってわけさ~」
「ああ……なるほどな」
一縷の希望を見出したと言わんばかりだったおっちゃんの顔は一気に曇った。
完全に納得したらしい。
「そりゃ~すまねぇことをしたなぁ~デマを掴ませちまって……。朝飯まだだろう? なんか食ってくか?」
「いや~おかまいなく~」
「そうか?」
「それより次なんか欲しいものあった時安くしてよ~」
「おまっ!! ちゃっかりものめ!!」
ふふふふ~と微笑むフェイを見て、勝てねぇなぁと呟いたおっちゃんも声を出して笑った。
「まぁ、茶くらいだしてやらぁ! のんでけ!」
そう言って奥へ引っ込むおっちゃんを眺めてから燦々と輝いているお日様を見上げた。
また、新たな一日が始まる。
――― Fin ―――