#16
#16
4年生に進級する春は就活に追われ、バイトすることすらままならなかった。毎日説明会やら、エントリーシートやらで手一杯であの日のことを深く考える日々も少なくなってきていた。
今考えると、和泉が私の中にいたことなんて私の幻想なんじゃなかろうか。
本当は何にもしてなくてただ酔った私のそばにいてくれてただけじゃないんだろうか、と自分の記憶を疑った。
でも、ごく稀にバイトで一緒になるとき、不意に匂ってくる和泉の甘い匂いやワイシャツ越しの身体のラインにクラっとするのはごまかせなくて、生々しいあの夜が呼び起こされる。
初めて見た和泉の色っぽい表情が忘れられない。
もう手に入らないとわかっていても。
「和泉、四菱に行ったらしいよ」
夏も終わる頃、咲穂と飲みに行くと、そう言えばと思い出したように言った。
「そうなんだ」
「知らなかったの?」
「会っても業務の話しかしないもの」
「このバイト好きめ」
大皿に盛られた生ハムのサラダの残りを自分の皿に取り分けた咲穂は、通りがかった店員さんにサングリアを頼んだ。
和泉とは今まで通り仕事はしてる。本当に何も無かったように。
阿吽の呼吸は依然として変わっていない。
変わったとしたら、和泉じゃなくて私だろう。
前よりも異性として見てしまう、私だ。
「雪乃、やっぱり和泉のこと好きでしょう?」
「なんでそうなるの」
「ときどき泣きそうな顔してる」
「え」
「彼女持ちが相手は切ないよなぁ」
運ばれてきたサングリアは可愛いグラスに注がれていて、オレンジが添えられていた。ちびりと唇濡らす咲穂は興味津々とばかりに上目遣いをしてくる。
「好きってわけじゃないよ」
「じゃあなんで彼氏と別れたの?」
「それは」
「嫌いになった?」
「…このまま付き合っててもお互いに良くないと思ったから」
「その原因は和泉でしょ?」
「…」
間髪いれずに聞いてくる咲穂は、質問の手を緩める気はないらしい。
「誰にも言わないでよ」
「うん」
「1回だけ和泉と」
「…え?」
その言葉だけで百を承知したらしく、ポカンと口を開けたまま、え?本気で行ってる?と慌てている。
「お酒のせいにして忘れられるはずなのにね
…女々しい、よなぁ」
私の手元にあったカクテルの氷が溶けて、カランと音を立てた。
正直私が、1番驚いているところはそこで。
こんな女らしくて、私が軽蔑するような情けない部分が自分に存在しているのかと目を背けたくなった。
「雪乃が色っぽくなったのはそれが理由なんだね」
「え?」
ニヤッと笑う咲穂。
「そんなに、和泉は良かったの?」
「馬鹿」
ふくれっ面を見せても、咲穂のニヤニヤは変わらない。
余計なことを言ったかもしれないと思ったけれど、あの夜に向き合うことができたのは認めざるを得ない事実だった。