山田新聞店物語
山田新聞店物語
三浦ハジメ
プロローグ
その店は、僕の新しい勤務先から3件右隣にありました。2階建ての長屋のような、くたびれた賃貸オフィスの角。暇か、怪しいか、いずれかの会社ばかりの並びにあって、限られた時間に関してだけですが、最も人の出入りが多い活気のあるお店でした。その名は、「山田新聞店 駅東支店」。
これは1000万円の借金を、この店でのアルバイトで、6年と半年で完済した、僕の新聞配達物語です。ほとんどが実話ですが、副業禁止の会社に正社員として勤めておりましたので、場所や社名、人名の特定は何卒ご容赦を。(作中の名前はすべて仮名です)
一般の人はあまり目にすることのないこの業界の内側で、驚いたこと、笑ったこと、泣いたこと、あるいは死にそうになったことや、街の様子、動物や謎の体験について、そして、共に働いた山田新聞店の面々について、思い出しながら綴ってみたいと思います。
借金返済のハウツーでもなければ説教臭い勤労推奨でもありません。どうぞ肩の力を抜いて、最後までお付き合いくださいませ。
伝説のサーファー
「おらは海のないこの街で、一番初めにサーフィンをした男だ、フガフガ」というよくわからない自慢をする吉池さん(御年70)が、この店でついた僕の最初の先輩でした。初日は挨拶しても話しかけても返事がなく、何を聞いても全く口を聞いてもらえずに「なんだこのじいさん(怒)」と思っていたのですが、3日目の終わりに自販機の前でバイクを止めると、おもむろに缶コーヒーをおごってくれました。僕のような若造の新人は(とは言え当時すでに30代後半でしたが)教えたそばからすぐ辞めてしまうので、続くかどうかを3日間見極めてから教えることにしていたんだそうで。「だからみんな辞めちゃうんじゃなの?」という気がしないでもありませんでしたが、いずれにせよ僕は御眼鏡に叶ったのか、ちゃんと教えていただけることになりました。あと1日長く無視されたらヤバかったけど。それから独り立ちするまでの約2週間、配達後の1杯をいつもそこでご馳走になる5分間が、僕らの日課に。入れ歯が合わなくて、いつもフガフガしているけど、色男の面影が少しある、おしゃべりな吉池さんを僕は嫌いじゃなかったし、話も決して苦痛ではありませんでした。ただ、ユウジローや若大将くらいモテたと言う若かりし彼の武勇伝と、羽振りのよかった頃の話は毎日聞かされるのに、家族の話や、昔の仕事の話は一切出ないところがちょっと切なかったです。それが吉池さんに限ったことではないことに、僕は後々気が付くのだけれど。
赤城店長
直ぐにでも始められるアルバイトを、大至急探さなければならなかった僕が、真っ先に思いついたのが、安直にも3件隣の山田新聞店。店舗は小さいのですが、全社合わせたスタッフは200名以上、県内屈指の販売部数と歴史を誇る大手販売店の駅東支店です。店の前を通ったときに求人の張り紙を見た記憶があったので、昼休みに履歴書を持ってアポなしで飛び込みました。運良くその時店にいて対応してくれたのが、赤城店長です。農機具メーカーのキャップが良く似合うトボけたお爺さん。最初は乗り気じゃ無いようで「今のところ大丈夫かなあ、張り紙はいつでもしてあるんだよ」なんて言ってましたが、奥にいた違うおじさんが、履歴書を覗き込んで僕をチラと見たあと、「俺のところやらせてもいいぞ」と言ってくれた途端態度が変わって、「どのくらい稼ぎたいの?」「いつから出来るの?」「免許はあるよね?」こんな程度の会話で即、採用を決めてくれました。こっちが心配になるくらい呆気なくて、まあ、そのくらいおおらかと言うか呑気と言うか。でも、こちらの事情について、つまりは一番聞かれたくない「なんでお金が必要なのか」について一切触れられなかったのはありがたかったです。これは店長だけじゃなく、基本的にどの先輩もみんなそうで、そこはお互いの暗黙のルールの様でした。赤城店長は、僕の入った約1年後に、本社の経営合理化の流れで、支店のメンバー全員に惜しまれながら退職されてしまいましたが、少しでも多くお金が欲しい僕に対して、エリアに空きが出ればすぐに話を回してくれて、いつも気にかけてくれていました。今でも本当に感謝しています。
スーパーカブ
1958年のデビュー以降、抜群の性能と耐久性、燃費の良さで未だに新聞配達員のNO1マシン、それがHONDAが世界に誇る「スーパーカブ」です。ギアチェンジ付きのこの素晴らしき50ccバイクも、この業界以外となると、そばの出前とか、農家のおじちゃんとかくらいしか見かけないかな。安定性に優れているので配達向きなのかも知れません。
さて、アルバイト初日のことです。この日だけは、教育係の吉池さんが出勤するより1時間早く、AM1:00に来るよう赤城店長に命ぜられていた僕は、緊張しながら初出勤しました。そして、店のみなさんへの挨拶もそこそこに、まず最初にこの「スーパーカブ」の運転方法を店長からレクチャーされました。原チャリどころか、バイクの類は一切乗ったことのなかった僕は、どうやらセンスの塊だったようで...。10分後には、あの大らかな店長が「今どき珍しいなあ」と首を傾げ、「今日は配達やめて、バイクの練習日にしよう」と言い出す始末。店の周りで練習走行をなんどやっても、エンジンのフカシ具合とギアを変えるタイミングが掴めなくて、深夜の住宅街で、ローとセカンドを限界まで引っ張てしまう僕の「攻め」の運転に、苦情が来るんじゃないかと心配されたご様子でした。結局「大丈夫ですから!」と意地になって、吉池さんの後をついて廻りましたが、ご近所のみなさんには、大変申し訳なく思っております。
専属・代配・アルバイト
ここらで少し、この業界の内部についてご説明しておきましょう。(うちの販売店に関しての呼び方ですので他所とは違うかもしれません)
まず、一人平均300~400部のエリアを任されている「専属」と呼ばれるスタッフさんたちがいます。彼らは自分の担当エリアに対して、朝刊配達だけじゃなく、チラシの仕分けとその折込、夕刊配達、そして集金までを受け持つ、いわゆる正社員。この「専属」さんたちが、一人では回りきれない所を配るために雇われるのが、僕ら「アルバイト」です。次に、吉池さんの様に、新人に教えたり、専属さんやアルバイトの休日に、代わりに配ったりしてくれる遊撃部隊のような人たちを「代配」さんと呼びます。この人たちも正社員ですが特定のエリアは持たず、店のほとんどすべてのエリアを把握しているベテラン中のベテランさん達。また、この他に新規契約の勧誘や継続依頼を専門に回る「拡張員」もいますが、うちの店の場合この部門は外注に出しておりました。(彼らのガラと悪さと強引な勧誘が、この業界全体の評判を落としていると思うのですが、この話はまた後で触れることになるでしょう)
山田販売店の人員構成は、5人の専属さん、1人の代配さんと、僕を含めた2人のアルバイト、僕らを束ねる店長さんの計8名でした。
ブラック
今でも土下座をしている自分の夢にうなされることがあります。それはたった2年在籍しただけの、週刊で広告媒体を発行している会社でした。
指の先まで伸ばして全力で取り組まなくてはいつもでもやり直しさせられる朝7時のラジオ体操から一日が始まります。その後の朝礼では、前日の受注報告を一人づつ発表し、1分間スピーチを立候補で2名。その全てを声の限り叫びながら行います。自分の受注だけではなく、全体が目標に届いていないと会社には戻れず、平均で22時くらい、締切となる木曜日は午前1時すぎも当たり前でした。
擬似家族化された社風のため、会社に戻ると女性社員手作りの夜食が用意されており、独身者はともかく、僕のような所帯持ちにはありがた迷惑甚だしく、家族と夕食を共にすることなんて夢のまた夢。完全に自分の自由になる休日は月に2日か3日程度。他の休日は、会社の旅行やレクリエーション、スポーツ大会などへの参加が優先されます。まだ小学校低学年だった息子の運動会に参加して、姿勢がなっとらんと幹部に厳しく叱咤されたこともありました。こんな会社ですから社員の出入りは激しく毎年20人ほど採用して1人残るかどうか。中途に関しても来るものは拒ません。出版業界は華やかに見えるので、良い大学を出た4大卒の新卒も入ってきますが、あまりの労働環境に辞めると口にすれば応接室に長時間軟禁されて強く説得されてしまうため、正面から辞めることが為難く、逃げ出して行方をくらましたり、親が会社に乗り込んで来たり、洗脳された状態の本人を無理やり両親が辞めさせたり、弁護士が連絡してきたりすることもしばしばでした。僕の妻ですら、身を案じてタイムカードのない僕の出勤時間と退勤時間を記録するようになっていました。
年に数回別荘地で行われる「合宿」も、よくある幹部研修会の形式で行われ、精神と肉体を限界まで追い込んで最後は涙を流して抱き合うという茶番でまさに洗脳儀式。
情けなく悔しいことですがその異常さに一月も経たずに気づいていながら、僕は辞めることが出来ませんでした。
恥も外聞も捨てていっそ逃げてしまえば良かったものを、その勇気もなく、僕が選んだのは、日々のプレッシャーから嘘をついて逃げることでした。その日のノルマを達成出来なかった時には、消費者金融で金を借り、自腹を切って架空で売上を上げたのです。
発覚するまでの1年半で、その金額は2,000万円を超えていました。発覚後の地獄は言うに及ばず、外に出ては損と判断した会社は責任を折半することを提案、2,000万のうち自腹で払うことが出来なかった1,000万の架空売上のうち500万円を僕が返済することに決まり、結果、その500万円+消費者金融に残った借金1,000万(弁護士を通した過払い金返済と任意弁財で500万に減額になりました)合わせて1,000万円の借金と、僕は6年半向き合うことになったのです。
美技
僕は不器用なので最後までマスターすることが出来ませんでしたが、「片手抜き」は憧れの技でした。後ろの荷台にきちんと積んだ新聞を、片手で一部取って、バイクを降りることなくポストへ入れていくという格好いい技です。これが出来ると、体は前を向いたまま振り向かず手だけを後ろに回し、次の家に到着するまでの間に、素早く新聞を抜いて準備が出来るので、素晴らしく時間の短縮にもなるのです。もしこうやって配っている配達員を見かけたら、心で拍手を送ってあげてください。絶対アルバイトではありませんが。
未配
この業界の言葉で配り忘れのこと。独り立ちして初めのうちは「順路帳」と呼ばれるアンチョコで確認しながら回りますので大丈夫ですが、覚えきって慣れてきたころからチョイチョイ出始めます。その頻度はもちろん配っている数にもよりますが、僕も初めの数年は結構やりました。基本アルバイトは出勤すると既に専属さんが部数を数えて用意してある新聞を積んで配ります。この時点での部数が合っていれば、配り忘れた場合、最後に1部残ってしまうわけです。これがどの家だったかを探し当てるのがとにかく大変で、最悪の場合初めからもう一周して一軒ずつ確認する羽目に。「未配」は無断欠勤の次に罪深いこの業界の御法度です。お客さんはいつもの時間に届かないとすぐに電話をよこし、それが短い期間に2回もあったらまず間違いなく解約され他店に乗り換えられてしまうシビアな世界。それ故に僕らに対しても1回の未配につき3000円給与天引きというペナルティもあるわけで。やっちゃった時には凹みましたね。地域を細かく分けて束にしておいて、余った時の「再確認軒数」を減らすようにするなど、自分なりに対策はしていましたが。勘頼みのようで意外に的中率が高かったのは、「いつもと違うことが起きた場所」を思い出しその近くを確認するというやり方。車にぶつかりそうになった、若い女性が歩いていた、犬が急に吠えた、etc。考えなしの習慣で配っていると、イレギュラーなことに意識を奪われて忘れやすい傾向があるようです。この方法で一発で探り当てたときは、「よっしゃ!」って感じでしたね。
予備タンク
愛車スーパーカブは、燃費もすごく良いのですがガソリンタンクは4Lくらいしか入らないので、給油は2日に一度くらい必要。(もちろんレシートを取っておけば店で月末に精算してくれます)
少し後の話になりますが、田舎のエリアを配達するようになって教わっていた頃、田んぼ道でガス欠を起こし止まってしまったことがありました。こんな場所でどうしよう、と一瞬青くなりましたが、その時教わったのが「予備タンク」の存在。ガソリンタンクの下にあるレバーをひねると切り替わるのでした。これでまたしばらくは走れます。赤城店長も前もって教えくくれりゃ焦らずに済んだものを。ま、このタンクのおかげで、配達中に立ち往生したことは一度もありませんでしたけど。
下ネタ
「小」ならどこでも出来る男の子も、配達時間が4時間を超えれば、体調次第で「大」の気配を感じることが、必ずあります。これが、街中エリアなら、店も近いし、コンビニも多いので大丈夫ですが、田舎はその逆。店が遠い。そして、コンビニが少ない。
なので、使えるトイレのポイントを自分なりに確保しておかないと、いざという時に大変なことになってしますのです。歳を取ると急に催すことも減るんでしょうか、こればっかりは優しいご年配先輩たちも教えてくれなかったので、配りながら自分で見つけました。
校庭に外トイレのある学校、お寺の駐車場のトイレ、大きな公園のトイレなど。結構あるなんて思わないでくださいね。冬場にはかなり着込む僕たちには、ある程度清潔な、脱いだ衣類を置けるスペースが必須なのですから。ギリギリセーフはあったけど、こういった事前の備えのおかげで「悲惨な事故」は無かったです。
和さん
僕の二人目の師匠に当たる方で、田舎エリアを担当しているおじさんです。60代半ばくらいだったかな。お客の個人情報や根も葉もないうわさ話が大好きな人達の中にあって他人のプライバシーに触れることを良しとしない人。無口で優しく穏やかで、仕事も正確でしたが問題が一つありました。半年に一度か二度、満足に歩けないほどベロベロに酔った状態で出勤してくるのです。僕は基本、和さんが配達に出かけた後出勤するのでわかりませんでしたが、ある日いつもは部数に狂いのない和さんの用意してくれている新聞の数が、大きく違っていて、しかも乱雑に積んでありました。その時は、急いでたのかなと思っただけだったんですが、しばらく後の二回目の時は、満足に立ってられない、呂律も廻らない和さんを、平野さんと安さんが叱りつけていて、そういう事か、と。その日はみんなで手分けして配ってあげたようです。付き合いが長い周りのベテランさんたちは、あれはもう病気だからしょうがない、とある意味受け入れて、みんなでフォローしていたのでした。僕も割り切って、和さんがそのモードのときは自分で準備してさっさと配るようにしていましたが。そして三回目は、赤城店長が去って、本社の橋本部長が兼任店長になり、組織の色々な無駄に大ナタを振るい始めていた折も折。部長と泥酔の和さんが店で遭遇してしまったのです。僕が出勤したときには、部長に絡む和さんを、安さんが必死に止めていました。結局、次やったらクビ、という宣告が。それに懲りるような和さんじゃ無かったけど、結局4回目を、僕が見ることはありませんでした。
休刊日
年に10日ほどある、予め決められている新聞の発行されない日のことです。数年前、昼の仕事の移動中に聞いていたラジオ番組で、国際派を自称するなんとかというコメンテーターが、「こんな制度は日本の悪しき習慣だ。すぐに廃止して、毎日休まずに新聞を発行するべきだ」と仰られておりました。苦情の電話をしてやろうかと本気で思いましたね。配達している僕たちだけじゃない、「新聞」に携わるほとんどの人が、毎日のように体のリズムを無視して昼夜逆転の生活をしていることを、わかって言っているのかと。年間予定で決められているこの10日間を、どれだけ大切にして使っているか、
あなたに想像できるかと。体を休める、心を休める、ひたすら眠る、飲みに行く、家族と一緒に外食をする。家長が早く寝てしまう家庭の、声を潜めて過ごす夜、その気遣いをさせないで、予定が立てられるこの休日の価値が、あなたにわかりますかと。
雨
雨の日の配達は時間的にも体力的にも相当大変です。久しぶりのお湿りだなあ、なんて気分には絶対になれません。世の中の農作物やなんやらが大変なことにならない範囲で1日でも少ないほうがいいし、天気予報が雨の夜は、せめて僕が配る間は降らないでくれと、祈りながら眠りにつきます。なぜ、そこまで雨を嫌うのでしょう。
まず、配達前に新聞を一部ずつ薄いビニールで包まなくてはなりません。(それ専用の機械はありますが、アルバイトは専属さんが終わるのを待つので出発も遅くなります)
しかもこのビニールは気密性が今一つの薄いものなので、バイクに乗せるときには、荷台に厚手のブルーシートを置き、ぐるっと新聞の束をくるむ必要もあります。さらには、当然自分も合羽を着て長くつを履かねばならず、フルフェイスのメットは曇り、道路に出れば、白線やマンホールの蓋は超スリッピー。当然思うようにスピードが出せないところに来て、田舎に行けばどういう訳か、道いっぱいを埋め尽くしているカエルとミミズをプチプチ(!)せねばならず、もう、ほんとに嫌になるわけです。それでも暖かい季節はまだよいのですが、冬場の氷雨になると、大の大人が泣きたいくらい。どんなに着込んでも自分の汗が冷えれば寒くなり、何枚重ねても手袋からは染みてきて、防ぎようがありません。
家に帰ってシャワーを浴びた時の、凍った体が溶けてくるような感覚は忘れられませんね。単発ならまだしも、雨が続くと昼の仕事にも響くので、本当にしんどかったです。
順路帳
「ト」「RP」「I0」「3I」「U」これがわかる人は間違いなく同業者。実はこれこの業界で使われる「順路帳」に書き込まれる家の位置やポストの種類を表す記号(のほんの一部)なんです。ベテランになると、おおよその配達ルートさえ頭に入れば、完全に覚えてなくてもこれらの記号が書き込まれた順路帳で、ほぼ完ぺきに新聞を配ることが出来ます。
知らない人にとってはほとんど暗号ですが。ちなみにこの順路帳に記載されている配達の順番は、そのエリアの過去の先輩たちが最も効率的と思われる順番になっていますが、最新の道路状況や新しい住宅街などが反映されていませんので、僕は自分なりの最短ルートで配っていました。この記号と、順路帳を使ったトリックだけで推理小説が書けそうですが...。
ちなみに正解は左から「隣」「赤いポスト」「右側空き地」「左3軒目」「Uターン」
絶対わかりませんよね。
予備紙
配布部数にもよりますが、「落とす汚す切れる」などのアクシデントが起きた時の為に、1部予備の新聞を持って配達に出発します。問題がなければ持ち帰りOKだったので僕は毎日、地元紙と全国紙の2紙を無料で頂いておりました。このバイトを始めるまで新聞を取ったことがありませんでしたから、短い晩酌の時間に2紙も読む習慣が出来て、とても勉強になりましたね。同じ事象でも切り取り方でまるで違う記事になったりするのも面白くて。コスト削減で数年後にはこの予備紙制度もなくなるんですが、せっかく身についた習慣をなくすのはもったいなくて、「悪いなあ」と言いながら思わぬ新規の獲得に笑みが抑えられない平野さんと契約し、泣く泣く有料で取らせてもらいました。
故障したら
配達中にバイクが動かなくなったら出来ることは2つ。一つは店まで押して帰って替わりのバイクに乗り換える。店が遠い場合はもう一つ、契約しているバイク屋さんの携帯に電話して助けてもらう。このどちらかしかありません。バイク屋さんには僕も一度だけお世話になりましたが、3時でも4時でも軽トラに替わりのバイクを積んで駆けつけてくれます。田舎エリアの真ん中で動かなくなったので本当に助かりました。それだけのお金を店が払ってくれているということなのでしょう、この一事だけをとっても、配達員へのケアはかなり行き届いていました。
死のローテ
休みのサイクルは、規則的かつ変則的に毎月少しづつズレていきます。基本は2週配って連休、2週配って単休、そこに休刊日が絡む「月4日」の休みなのですが、月末月初の2日間は全員出勤なので、半年に一回くらい、20日以上全く休みがない「死のローテーション」にハマることがあります。僕の唯一の無断欠勤も、初めて経験したこのローテの終盤でした。絶対的な睡眠不足が蓄積していくので、携帯の充電を忘れ、電源が切れており、セットしたアラームは鳴らず、店からの再三の電話もつながらず、ハッと目が覚めた時には昼の会社への遅刻ギリギリで万事休す。家の電話は無かったのです。昼休みに青くなって店長に誤りに店に誤りにいきました。赤城店長は例の調子で「次やらなきゃいいよ」と寛容でしたが、他のメンバーが自分の配達後に手分けして配ってくれたんだから一人ずつ謝れ、って怒鳴る和さんには逆切れしそうになりました。「自分だって酔っぱらってみんなに迷惑かけてんじゃん」と、腹の中で悪態を突いて、でも癪だから、二度としないようにしようと深く反省もして。この日以降、死のローテ中は、いつもより早く寝るとか目覚ましを時計とダブルにするとか、相当気を使うようになりましたね。
気楽さ
営業やサービス業の経験しかなかった僕にとって、ほとんど「誰とも接しない」この仕事はある面でとても楽でした。時間によっては出勤から退勤まで誰にも会わない日があるくらいで、人間関係のストレスが、皆無に等しい珍しい業種であり職場でした。
時間までにしっかりと配り終えれば、何時に出勤しようがどう配ろうが自由で本人任せ。もちろん配達先でも誰かに会うこともなく。昼の仕事ですり減る種類の神経が、配達でさらに痛むことはありませんでしので、6年半も続けることが出来たのかもしれません。
風
多少吹いてるくらいならどうってことありませんが、台風クラスになれば話は違います。ある意味、雨よりやっかい。まず、風に煽られるので運転が大変。そして、配るほどに減っていく新聞の、固定に神経を使います。こまめに縛り直さないと、風に丸ごと持っていかれてしまうのです。僕は一度だけ、田んぼの中に20部くらいをばらまいてしまったことがあり、慌てて回収しましたがすべて浸水してしまし、取りに戻って和さんに偉く怒られたことがありました。田舎に行けば行くほどこういった自然の影響を受けやすく、その度に、街中ばかりを配る専属さん達が羨ましく思えたものです。
あいのり
若いホスト風のにいちゃん、怪しい外人、お水のお姉さん。深夜のエレベーターで乗り合わせたことのある人達(同業者を除く)はそういう時間に帰宅する人達です。相手にから見れば僕が新聞配達なのは一目でわかりますから、取り立てて警戒されることもなかったですけど、それでもエチケットとして、特に女性と乗り合わせた時には、入り口近くに立って、出入り口のほうを向いて立つようにはしていました。ある夜のこと。
マンション前にバイクを止めると、すぐ後ろから高級そうな車で、ワンピースのきれいなお嬢さんが送られて来ました。僕がそのマンションに配る新聞をまとめている間に、玄関ホールでその女性が、運転してきた50過ぎの男性をなだめており、どうやら、部屋まで送るというのを頑張って断っているようでした。深夜にもかかわらず二人とも酔った様子はありませんでしたし、別に外野が騒ぐほどの状態でもなかったので、僕がいつもの通りにホールを抜けてエレベーターに乗ろうとすると、扉が閉まる直前のタイミングで女性だけがエレベーターに駆け込んできまして。「え?」という僕を無視して扉を閉めて、階数ボタンを確認。僕は上から下に配るので、最上階である9階を押していましたが、その階の住人ということなのか、そのまま9階までのあいのり。ドキドキしている僕をよそに、彼女は9階で降りるとそこから階段で下の階へ降りていきました。なるほど、そういうことかと。これなら、さっきの男性が1階でエレベーター表示を見ながら、降りる階を特定しようとしても、フェイクになるわけです。どんな事情か知りませんが、まあ奇麗な女性も大変ですね。
遺影
玄関ドア横の差し込みへ新聞を入れる家の場合、当然目の前まで近づきますから、もし部屋に明かりがついていれば、覗こうとしなくてもカーテンの隙間から中が見えてしまいます。だからと言ってセクシーなお姉さんがあられもない姿で寝ているなんてことはもちろんありませんが。さて、田舎エリアのその家は、夜でも居間にはレースのカーテンしか引かないため、明かりの付いた中の様子が遠目にも分かってしまいます。部屋の正面に見える仏壇の上に、セーラー服を着ている、かわいらしい女子高校生の大きな顔写真が掛けられていました。それは遺影でした。お客さんのプライバシーを探ることを嫌う和さんは詳しく教えてくれませんでしたが、事故で無くなったお嬢さんだということでした。いつもその写真のほうを向いて、背中を丸めている悲しげな男性の姿は、毎夜のこととは言え、見ていて切ないものでした。
火事
毎日同じルートを通っていると、少しの変化にも、敏感になります。目に見えるものだけではなくて、匂いや、音、明かりの変化にも「なんかいつもと違う」と、感覚で気が付くようになるのです。一度だけ、ずいぶん遠くから、なんか焦げ臭いなあと思っていたら本物の火事が起きていたことがありました。
古い2階建てのアパートの、2階の角部屋から出火して、僕が近づいた時にはもう消防車と救急車とパトカーで大騒ぎ。そのアパートの1階が配達先でしたが、かなり手前から進入禁止になっており、届けることが出来ません。「さすがにこんな場合は未配にはならないだろう」と判断して、しばし野次馬をしていると誰かの怒鳴り声が聞こえてきました。僕が、この業界のベテランの凄さを知ったのはこの時です。他店の配達員のオッサンが「103号室の**さん、居るかい?!」と周囲に向かって叫んでいたのです。近くにいた寝間着姿の男性が「おおい、俺だ、無事だぞー」と返事をすると、オッサンは男性に近づき、「知人の安否確認だろう」というその場にいた全員の想像を裏切って、ただ新聞を渡し、そそくさと去っていったのです。呆気にとられる寝間着の男性。僕には真似できなかった。
何があってもどんな状況でも、とにかく自分の仕事を全うするプロ意識は、少しは経験を積んだはずの当時の僕にとっても、衝撃的ですらありましたね。
夜の動物たち
田舎エリアを回ると、驚くほど多くの小動物との出会いがあります。蛇、キツネ、狸、ハクビシン、アライグマ、テン、イタチ、などなど。生粋の野生かどうかは別として、ほとんど野生化しているので、こちらになついて寄ってくるようなことはありませんでした。ただ、警戒心の特に強いキツネでも、子キツネの場合は、バイクの動く光に反応して立ち止まって振り向いたりすることがたまにありまして。そういう時は必ずしなければならない決まり事が僕の中にはありました。
「ルールルー、ルールー」まあ、あの、ほれ、もちろんそれで近づいてきたことはないんですけど。
捜索願い
集合住宅を配り終えてバイクに戻ると、アッパッパーを着た70位のお婆さんが立っていて、僕の腕をつかみ、「息子を見なかったか?」と聞いてきました。彼女曰く、息子は白い軽自動車に乗っているから見つけたら教えてほしい、あの子は悪い飲み屋の女に騙されているんだ、もう三日も家に帰ってきていない、云々。
老人性痴ほう症。母方の祖母で経験がありましたので、僕はすぐに気が付き、「見つけたら伝えるから、お家で待ってな」と答えました。
深夜3時に、お婆さんが一人で、息子を心配するその「心」は本物なわけで。
切ない話です。
痛車
別に趣味の問題なので構わないのですが、農家だらけの田舎エリアに、車庫にも入れないで雨ざらしにして置いている黄色のスポーツカー、それもアニメの女の子のイラストだらけの痛車がありました。しかも時々、その車の運転席に、携帯かゲームの液晶画面の明かりににうっすら顔を照らされる、30代くらいの男性が座っていまして。初めて見た時は「出たっ」と思いましたよ、本当に。真夜中に家に入らずに何をしているんだか、それは僕の想像を超えていましたが、真冬でもエンジンをかけずに何かに見入っている姿は、いろんな意味で怖かったです。両親も同居している感じなのですが、家の周りと庭の荒れ方もひどくて、まあ、少し異様ではありました。後に聞いた占いババ情報によると、その青年には幼女を悪戯した前科があり、未だに警察にマークされているのだとか。怖い話です。
うずくまっていた人達
•忘年会シーズンのある夜。洒落た新築一軒家の玄関前に、扉を背中にして、スーツを着たサラリーマンがうずくまっていました。「新聞です」と声を掛けてもまったく反応なし。物凄く酒臭かったので、酔っ払って鍵でも無くしたか、奥さんに入れてもらえなかったのかな、と判断して放っておきましたけど。
•暗証番号を入力しないと自動ドアが開かない、そこそこ高級なマンションでのこと。中の集合ポストに新聞を入れていくと、ある部屋のポストに「外にいるから声かけて」と、丸文字で書かれたメモが貼ってありました。「ん?」と思い外を見ると、横の植え込みに隠れるように、膝を抱えてシクシクと泣いている茶髪の女の子の姿が。「大丈夫か?」と声を掛けると、顔を上げて僕を睨み付け、「うるせえ」だって。中学生か、上に見たってせいぜい高校生くらいでした。まあ勝手におやんなさい。
•まだ吉池さんに教わっていた頃の話です。あるマンションの裏手を通った時に急にバイクを止め、非常階段の踊り場付近を指さして、彼はこう言いました。「ここを通るときあそこは見ないようにしろ。時々男がうずくまっている」3年前にそこで首をつって亡くなった方の幽霊が出るんだそうで...。店でも有名な話でした。僕は幸いにも見たことはありませんが。
睡魔
どうにも抗いようもなくて、完全に眠りに落ちてしまう時もあります。バイクを運転しながらでも、です。この業界以外の人は気にも留めないでしょうが、「新聞配達員、バイクで電柱に激突し死亡」みたいな記事は少なくないんですよ。特に、ほとんど交通量もない、つまりは危険に対する緊張感が少ない、田舎のエリアで起こりやすい。
僕の中で最大の「危機一髪」も、やはり田んぼ横の細い道を走っていた時。気が付いた時には、バイクごと宙に浮いていて、奇跡的にその姿勢のまま、田んぼに着水しました。ひとつ間違えば死んでいた可能性すらあったのに、水を張る前だったのでバイクも僕も沈むことなく、かごに積んだ新聞も落ちなかったのは幸いでした。倒れて気を失ったり、血を流して動けなくなっても、ほとんど誰も通らない場所であり、時間なのですから。
もちろん、歩いて配っていても睡魔は容赦なく襲ってきます。電柱にヘルメットをぶつけてハッと気が付くことも。これは少し寝ないと体も精神ももたない、これ以上配れない、と思ってしまうほど疲れているときは、もう耐えきれずに寝ました。
雨の夜、合羽を着たまま蕎麦屋の軒先でしゃがんで。
雪の夜、ブロック塀に背中を預けて、立ったまま。
ほんの数分でもそれで少し回復できるものです。もっとも、そのまま寝入ってしまったら、という死の危険と背中合わせではありましたが。
妖精
中学生の頃隣の席の女の子が「私は時々妖精を見る」と話していたのを、馬鹿じゃないかしらん、と思っていた僕の、妖精目撃談。眠気を究極に我慢したとき、それは現れます。バイクに乗りながら、瞬間落ちてはまた覚める、を繰り返していると、半分寝ている頭で見る「夢」と半分覚醒している頭で見る「現実」の風景が、コラボする瞬間が訪れるのです。僕の場合は、2匹の猫が拳銃を持って、直立歩行してました。
もちろん「タカッ」「ユウジッ」って互いを呼び合いながら。いや、ほんとに。
エチケット
この時間帯にスーパーカブで走っているのは100%同業者。別にすれ違ってもクラクション鳴らす訳じゃなし、挨拶もしませんが、エレベーターのあるマンションを配るときなどは、先に配っている配達人の配り終わりを待つ、という暗黙のルールがあります。一機しかないエレベーターを奪い合うとお互いに時間がかかるだけだからです。向かったマンションに他店のバイクがあれば、次のマンションを先に配る、とか、気を使っていましたね。稀にはライバル店の嫌がらせで「抜き」なんていう犯罪行為もあるようですが、同じ苦労を知る同士、基本的には邪魔にならないようにマナーを守っているのですよ。
占いババ
山田新聞店の紅一点。僕が心で勝手にそう呼んでいた鈴木のおばちゃんのこと。昼は、占星術か何かの占いを生業とする、超話し好きのパワフルでぶっちょおばさん(推定60代)です。初めて会った日に僕の顔をマジマジと見て、「あんたは晩年大成するよ」なんて言ってくれたのですが、よく考えたら晩年って感覚的に60位から死ぬまでの間を差すから、外れたとは言い切れない便利な言葉で、さすがプロだなあと思っていたら、「5000円でもっと詳しく見てあげるよ」だって。平野さんや安さんが、「またはじまったよ」と笑っていましたが。まあ占いはともかく、このおばちゃんの情報収集能力というのはとにかく凄かった。あそこの家の嫁は不倫しているとかどこそこの旦那はガンだとかあそこん家の次男は出来が悪いとか、まあ自分の担当エリアの家のことは家族構成から家庭内での問題まで、ほとんど全てを把握してました。「専属」さんたちは朝刊配達だけじゃなく、夕刊も配れば契約更新や、集金もするので、その気になれば世間話の中で、コアな情報が得られるのでしょう。そんな調子ですから仲間の噂話しも得意で、僕も根掘り葉掘り過去を聞かれたものです。陰で何を言われていたかわかりませんが。まあ、大成するという晩年を信じ、これからも頑張ります。
犯罪との距離
この業界は、ある意味掃き溜めで、前科者が多い、または犯罪予備軍が多いという見方を世間からされています。うちの店は県内で一番の大手で老舗ですから、採用の基準も他店に比べたらかなり厳しく少なくとも僕がいた間には一件の仲間の犯罪もありませんでしたが、仕事の性質上、犯罪に近い仕事といえるのもまた確かなのです。
まずは朝刊配達の時間が未明であること。そして表札や車や自転車などからおおよその家族構成や生活水準がわかること、庭を通って玄関ポストへ入れる場合は、ほとんど家の間取りすらわかります。これが夕刊と集金もする人になれば、住人の姿形もわかるわけで。さらに、旅行や出張で家を空ける際には、ポストから新聞が溢れて不在が知れるのを嫌い、防犯の意味で、販売店に新聞を止めるように依頼される人が多い(留守止めと呼ばれます)のですが、この留守を狙った配達員の空き巣もあったりします。
また、「新規勧誘」を専門に請け負う別会社の「拡張員」とよばれる人たちが存在するのですが、強面の彼らの、一部が行う強引な勧誘がこの業界全体の評判を落としている側面もあります。勧誘先の若い女性に目をつけて、拡張員が乱暴する、という事件も。
残念なのはこうした一部の人たちの犯罪で、毎日歯を食いしばって頑張っている多くの仲間たちまで、同じように見られてしまうことです。確かに、寮もあるし、希望すれば給与も週払いでもらえるし、前科のある人、借金を抱えた人や、日の当たる場所にでられない事情の人の受け皿にもなっています。でもそのほとんどが、そこで踏ん張ろうと真面目に働いていることも、どうか知ってほしいと思うのです。
冬の服装
毎年11月に、店から防寒着が支給されます。生地のしっかりした新品で、しかも年々グレードアップしていましたから楽しみでしたね。幹部が現場を知っているからなのでしょう、こういう配達人の痒いところに手が届くようなケアがうちの店は行き届いていました。僕の住む街では、9月の下旬位からもう、朝の冷え込みが厳しくなってきますので、そこから気温の低下に合わせて徐々に着衣を増やしていきます。1℃下がるごとに1枚増やす感じでしょうか。
最も寒い時期には、風船みたいに着込んだ上に、カイロも使って顔も目だし帽。
寒さを読み誤ってしまうと、我慢できないレベルの極寒地獄に耐えねばならず、帰ってきても硬直した体がなかなか元に戻らないほどなのです。1年目はよくやりましたね。それでも感覚の無くなった手をマフラーに当てたり、耐えきれずに途中で缶コーヒーを買って、お尻とシートの間に挟んだりして冬を凌ぎます。それだけに、寒さが底を打って、春に向かって一枚ずつ服を減らしていける季節になると、嬉しかったですね。
120円
後に変わっていきますが、僕が始めたころは「専属」さんは個人の代理店のようなもので、会社から決められた部数の配達を請け負って、それを手が足りなければ自分でアルバイトを使ってこなします。安さんは人件費削減の意味でもあったのでしょう、自分の奥さんに手伝ってもらっていました。山田新聞店きっての偏屈おじさん。他人に厳しいし協調性もない頑固じじい。とにかく和さんと仲が悪く、よく言い合いをしては、平野さんや占いババに止められていました。そんな安さんのエリアも、僕は街中を50部ほど配らせてもらっていたのですが、寒くなってくると、毎日必ず、奥さんが僕に120円を握らせるのです。知らんぷりしていた安さんのもちろん承知だったと思います。二人とも余計なことはいいませんが、「くじけずにがんばるんだよ」というような愛情を、僕はそこに感じていました。一度だけ、急いでいて、貰った120円を机の上に置きっぱなしで帰ってしまったことがあって、その時は、なぜか仲が悪いはずの和さんに、偉い剣幕で怒られました。でも「何だこれっぽっちのことで」とは思いませんでした。その頃には、安易に多額の借金を重ねてしまった僕の中で、お金を稼ぐこと、と、お金そのものの価値観が確実に変わり始めていましたから。そして、嫌われ者の安さんが、本当はとても優しい人であることにも、気が付いていました。
事あるごとに怒られて、奥さんいつも小さくなっていたけど、きっと幸せなご夫婦だったんだと思います。
柴犬
よく吠える犬も、毎日毎日配っていればそのうち慣れてきて吠えなくなりますが、その家の柴犬は、結構しぶとく吠えていました。臆病な犬程吠えると言うけど、一生懸命ワンワンと、まあ立派に番犬していました。とてもきれいにして貰ってるし、顔も凛々しいたぶん男の子。僕は犬が大好きですが、「一秒が命」の配達商売、戯れている暇はないので基本スルーします。でもその犬だけはなぜだか仲良くなりたくて、ある時からお近づきを図ることに。ムツゴロウさん方式で、お尻を向けて少しずつ近づいていくというアプローチを始めました。(他の人が見たら相当変な姿だったと思います) 吠えなくなったけど、遠ざかるようになって、それからだんだんクンクンしながら近付くようになり。ついには、僕が行くと尻尾を振って小屋から出てくるようになりました。前足で交互に僕にジャレてきて、なでなで、ワシャワシャをしてあげる。あれには癒されましたね。小屋に名前が書いてなかったので僕はいつも小さな声で「シバ」と呼んでいました。しかし蜜月もつかの間、残念なことに6ケ月で契約が切れる家だったので、別れの朝が訪れました。「元気でな、ありがとな」と、いつもより長くなでなでして、お別れしました。そしてそのまた6ケ月後。再契約されたその家に、期待と不安を抱えながら配達に行くと、バイクの音すら覚えていたのですね、小屋の前で尻尾を振ってクルクル回るシバの姿が。もう僕も嬉しくて、「ただいまー」って感じで抱きしめて。名犬ラッシー最終回も顔負けの感動の再開でした。今も元気でいるかなー。
立葵
花鳥風月あまり関心のなかった無粋な僕ですが、恨めしい雨の多い梅雨の季節には、早い終りを願うあまり、何年目かに気が付いて覚えた花の名前です。別名「梅雨葵」とも呼ばれるこの花は、高さが2mほどもあるどこにでもある花なのですが、五月下旬位からゆっくりと花を咲かせはじめ、それが根元からだんだん上に開花が進み、一番上まで咲ききったころに、梅雨が明ける、と言われています。えっへん、このくらいの感性は持ち合わせているのですよ。
耳のお供
今の子ならスマホをイヤホンで聞きながら、となるのでしょうが、僕は基本携帯ラジオを聞いていました。電波状態は良かったので、TBSのJANKには随分気持ちを和ませてもらいました。(今となっては貴重な音源、アンタッチャブルの二人が担当する曜日もありましたよ)生島ヒロシの「おはよう定食」が始まる前に配り終えるのを目標にして。次男から借りたIPODでJPOPを聞きながら田んぼの中を大きな声で歌を歌うのをマイブームにした時期もありましたが、結局後半の2年くらいは何も聞かなくなっていましたね。
運動会の日
配達中はほとんど誰にも会いません。なので、服装も見た目は無視の実用性のみが優先されます。寒くない季節は特に、そのままじゃ知り合いに見せられないだろう、という質の服を着ていたりするわけで。年に一回、担当エリアにある小学校の運動会の日は恥ずかしかったなあ。場所を取るために多くの父兄や祖父母がシートや椅子を抱えて門の前に並んでまして、みなさんご丁寧に挨拶してくださる中を抜けて、届けなきゃいけないのが苦痛でした。穴の空いたシャツとか平気で着てたから、ああやっぱりご苦労されているのね、って思われちゃってたろうなあ。
雷
雨、風から親父に火事まで書きましたが、もちろん「雷」のエピソードもございます。
10mとない距離で落雷を体験したことがあります。雨足はそれほど強くないものの、着実に近づいてくる雷鳴が不気味な夜のこと。住宅街の狭い道、車がやっとすれ違えるくらいの側道でした。突然、鼓膜の破れるような轟音とともに、瞬時に目の前が真っ白になったのです。気を失ったわけではなく、本当の白煙に当たりが包まれて視界はゼロに。焦げるような匂いがたちこめる中動くこともできずに、急停止させたバイクに乗ったまま様子を伺っていると、徐々に周りが見えてきました。
バイクの前輪の少し前に落ちていたのは1メートル四方はあろうかという大谷石の欠片。右前方の家の庭にあった背の高い一本の木に直撃したらしく、その衝撃で大谷石の塀が崩れ、道路の真ん中まで飛んで来たようでした。もしあとちょっと先に進んでしまっていたら。
フルフェイスのメットを被っていても、しばらくやまなかった耳鳴りと焦げた匂い。今思い出しても身のすくむような体験でした。
釣りキチ
例によってこの人も出身地の話はしませんが、昔は毎日行っていたという海釣りの釣果をよく自慢していた平野さん。平ちゃんと呼ばれていました。海のないこの町でもアユが解禁になると配達後のその足でよく出かけていたようです。お喋りなお調子者で、うるさく感じた時もあったけど、和さんと安さんが喧嘩になるときには決まって間でなだめていて、店内で貴重な潤滑油の役割を果たしていました。パチンコも大好きで、時々儲かった自慢話をすれば、「お前みたいな奴がいるから新聞配達は馬鹿にされるんだ」と、安さんに怒られて。憎めない人ではありましたね。
紙面の温度
大晦日、サッカー日本代表戦、オリンピック、選挙当日etc。深夜から未明に配達していると、街に普段より明かりの灯っている家が多い日が、年に数日はあります。配達先に関していえば、新聞を取っている時点でまず40代以上の世帯かお年寄りに絞られますから何があってもそう夜更かししているものでもありませんが、店の専属さんたちによると例外なくどの家にも明かりがついていた夜が、僕の勤務する以前に数度あったそうです。例えばそれは、9.11アメリカで起きた同時多発テロの夜。
旅客機がツインタワーに突入し爆発炎上したのは、それほど遅い時間ではありませんでしたが、2機で終わりとも分からない緊張感の続く生中継に、明け方まで釘付けになる家庭が多かったそうです。
こうした大きな事件や事故が起きた翌日の新聞は、少しでも新しい、詳しい情報を伝えるために、往々にして到着時間がいつもより遅くて、我々配達部隊からすると大変でしたが、そういう時は配達先でも今か今かと新聞を待っているものです。事件の及ぼす世間の空気が宿る、と言えるのかもしれません。何かが起きた時にこそ温度を上げる、作り手たちの思いやプライドが紙面を通して伝わってくる不思議な「熱」が新聞には有って、それは伝達のスピードでははるかに劣るものの、ネットや電子新聞からの情報には決して真似のできない魅力だと思います。どんなに活字離れが叫ばれても、新聞がなくなることはあり得ない、僕はそう思っているのですが。
チュパカブラ
UMAっていうんでしたか、未確認動物とかの特集をテレビで見た数日後。人の生き血を吸うという謎の生物に遭遇。「目撃談はメキシコじゃなかったっけ、なんで日本のこんな田舎に?」と不思議がっている間に、結構なスピードでそいつはバイクに近づいてきました。「やばい、逃げ切れるか」と思ってよく見ると、真っ赤なトサカがとても立派な黒いチャボでした。小屋から逃げ出しちゃったんだね。
火球
不思議な体験も後に幾つか紹介しますが、まあ大概は科学的な根拠があるわけで。晴れた夜には、田舎へ向かえば向かうほど、回りの明かりが消えて、夜空が美しくなっていきます。山奥ほどじゃないにせよ、女性をうっとりさせるには十分なくらい。そんな夜はついつい空を見上げることも多くなるのですが、その星空にチョイチョイ動くものを見かけることもありまして。登場頻度第一位。「飛行機」動きが直線的であることと、一定のリズムでライトが点滅するのでそれと分かります。第二位。「流れ星」。流星群の時期なんかには、面白いように見ることが出来ます。大小様々ですが、何回みても願い事山塊は至難の業でした。第三位は「宇宙ステーション」。一定のスピードであることと、明るさが全く変わらないことから「流星」ではないと判断できます。ツーッと直線でゆっくり星々の間を動いて行くその様子に、初めのうちは「ついに出た!」と興奮したものでした。そして、レア度NO1が「火球」なのです。みなさんもロシアに墜落した隕石映像をご覧になったと思いますが、まああれのミニュチュア版。明らかに「流星」なんて呼べる光量ではありません。違う方向を向いていてもすぐに気が付きます。「バチバチっ」と火花を散らす音が聞こえそうなほど鮮明に尾を引いて、比較的ゆっくり流れていきます。色も、ミドリだったりオレンジと黄色だったりその時々で違っていますが、とにかく明るい。「これは絶対ニュースになる!」と、初めて見た日は興奮してネットで検索しましたが、結構な方がまあまあの頻度で目撃している現象だと知って、ガッカリ。こちとら40数年生きてきて初めて見たのになあ。まあ、僕もトータルでは5,6回は見たんですえけどね。UFOだけは、見なかったなあ。
■「火球」とくに明るい大流星。火の玉が飛ぶようにみえるというところからきた名である。空に見える星の中で最も明るい金星よりも明るいものを呼ぶ場合が多い。
流星群の中に火球と呼ばれえるような明るいものが現れる場合もあるが、概して単独で現れ、途中で爆発したり火の粉を振りまくように分裂したり、また著しい痕を残したりするものも多い。その中で、さらに大きな爆音をとどろかし、地上まで届くものを「隕石」と呼ぶ。
子犬
「シバ」とは違う柴犬を飼っている別のお宅でのお話。とても大人しい雌の柴犬にある日子供が生まれました。僕がそれを知ったのは数日経ってからだったと思います。ある日、2匹の子犬が、その家に向かう僕のバイクに向かって「キャンキャン」吠えながら全速力で突っ込んで来たのです。慌ててバイクを止めると、足元に2匹してジャレついてきて。あの大人しかったお母さん犬が少し離れたところから「ウーッ」って警戒してました。子犬にはまだ首輪がついてなかったので、繋がれたお母さん犬には止められなかったのかな。動くもの何にでも興味が沸いて突っ込んじゃうのでしょう、バイクを降りてしゃがむ僕を、舐めるわ噛むわひっくり返るわ吠えるわの大騒ぎ。母犬は心配そうだったけど、あまりにも可愛くてしばらくワシャワシャと遊んでしましました。
ひとしきり癒された後、このままだとバイクに乗っても追いかけられるなあ、と気が付いたころに家からおじいさんが出てきて、「これこれ、すいませんねえ」と言って、ひょいと抱き上げ家の中に連れていてしまいました。すぐに貰われちゃったのでしょう、次の日からは、さみしげなお母さん犬の姿だけで、子犬をもう見ることもありませんでしたが、まあなんていうか、至福の時間でしたね。
禁煙
自堕落な人は、この仕事を長く続けることはできないと、今の僕は思っています。お金も大事にしますから、喫煙率もそれほど高くない。度重なる値上げで辞めたひとも多かったです。僕も、高校で出てから1日ひと箱、ずっと吸い続けていて、初めのころは一つのエリアを終えることに一服を習慣にしていましたが、2年目だったか、300円を超えた時点できっぱり辞めました。家族が驚くほど、一発であっさりと。禁煙ブームに乗ったとも言えますが、苦労して、本当に苦労して稼いでいるお金を、大切に使おうという意識はあったかもしれません。ほとんどが借金の返済に回っていたので、そういうシビアな感覚が身に付き始めていたのかもしれません。
点検する人達
JRの線路点検をしていると思われる作業集団に、週に2回くらいのペースで遭遇していました。線路を照らすライトが明る過ぎて、まるでイカ釣り漁船のようにも見える点検用の1両車両を、ゆっくり走らせながら本格的に点検する場合もあれば、数人で線路沿いをヘッドライトで照らしながらゆっくり歩いたり、踏切の動作チェックをしている時もあり。僕が会うのですから時間は2:00~4:00くらい、つまりは終電から始発の間で貨物も通らない限られた時間が、彼らにとっての勝負時間。「仕事」といえばそれまでですが、頭の下がる思いでした。日本の鉄道は世界的にも安全水準が高く、多くの人がそれを当たり前として利用していますが、その安全はこういう黒子の人たちの日々の働きの上にあることをどれだけの人が理解しているでしょうか。命にかかわるという意識からなのか、どこで見かけても彼らの仕事ぶりは夜目にもきびきびとして緊張感がありました。ひとたび大きな事故が起きると、やれJRの体質が、とか、運転士の適性とか、マスコミの大騒ぎに乗じて、全く無責任に責め立てますが、一番悔しいのは昼夜逆転で働き続ける、彼ら保守点検のスタッフ達なのかも知れません。
鉄ちゃん
線路のある所に電車在り、電車の在る所にこのみなさんはいる訳で。僕らは配達ルートをわざわざ違う角度から見て景色を楽しんだりすることはありません。なので、初めて彼らを見た時には何をしようとしているのか本当にわかりませんでした。田舎エリアのとある踏切のすぐ横の草むらに、14,5人のオジサンが小さい椅子に座ってカメラを構えていたのです。珍しい電車が通る日だったのか、事情は知りませんが後にも先にもこの日だけ。言われてみれば彼らがカメラを向けているアングルは、人工的な建造物のない自然の背景で、朝日と電車通過のタイミングによっては、いい写真が撮れそうでした。それにしても、寒くない季節とはいえ、下は朝露で濡れてるだろうし、虫もいるだろうに、マニアの皆さま、ご苦労様です。
絶対に音を立ててはいけない家
配達の時間が時間ですから僕らが物音に気を付けて配るのは当たり前。でも、その家の要求レベルだけは常軌を逸していました。一切物音を立ててはいけないという不思議な家でした。一度目は、始めに引継ぎで回った時に、説明を受けているその話声がうるさい、と解約。2度目は、新聞を入れた時にポストが音を立てたから。3度目はクシャミ(もちろん手で押さえてはいましたよ) こんな調子ですから、人間である以上ご要望に応えられる訳もなく、他紙もすぐに解約するので、実質一か月の契約が、3月に一回くらい回ってくる感じになっていたのです。ちょっと病んでいる不眠に悩む奥さんが、一度物音で起きてしまうともう眠れなくなるから、というわかったようなわからないような事情があるそうで。コンビニに行って自分で新聞買えばいいのにね。
財布
6年半で2回、配達中に僕は財布を拾いました。1回目は繁華街の居酒屋前。2つ折りの厚みのあるお財布に、かなり僕の中の悪魔のテンションが上がってしまいましたが、中を見ると免許書やカード類がびっしりと数枚の千円札。これは困るだろう、とさすがに天使がささやいて、近くの交番にお届けしました。2回目は住宅街。一目で子供用とわかる水色の安いビニール地の二つ折り財布。中には、小銭が少しと、おかあさんがこんな時の為に入れておいたのでしょう、住所とその子の名前が書いてあるカードが入っていました。おっちょこちょいの息子君、今日は怒られちゃったかな、と思いながらなんとなく微笑ましくもあり、その足で家を探して、そっとポストに落としておきました。お母さんの怒りが収まるといいね。
朝焼け
周りに背の高い障害物のない田舎で見る朝焼けは、赤やピンクや紫色が時間とともにその配合を変えて、思わずバイクを止めて見とれてしまう程。思考が止まり、朝日のパワーが体に染み込んでくる感覚に身を任せます。もちろん、季節と天気によりますから、年に何度も見れるものでもありませんでしたが。
嫌な道
感覚的、あるいは生理的に「嫌だった」としか言いようのない路地が一か所だけありました。街中から少し入った古い住宅街、500M程の狭い一本道です。一歩その道に入っただけで、早くそこを出たくなる何とも言えない気持ち悪さ。何か不思議な現象が起こるわけでもないんですが。...。調べてはいないので想像ですが、昔墓地だった、とか処刑所だったとか的な場所だったのかなと思っています。とにかく空気が重いというか淀んでいるというか。通算では相当な道を配ってきた僕ですが、こんなエリアは他になかったです。古い一軒家が多かったですが、住んでる人たちは平気だったんでしょうか。
変顔
昼の勤務先は偶然にも僕の配達エリアの中にありました。まあ、だからと言って会社に深夜誰かいるわけでもないし、別になんの問題もなかったのですが、ある日のこと。
4時くらいだったでしょうか、踏切で貨物列車の通過を待っていると、ウォーキング中の50くらいの男性がすぐ横に並びまして「おはようございます」と。どっかで聞いた声だなあと思いながらも挨拶を返した僕の視界に入ってきたのは、なんと職場の先輩社員だったのです。どうしようどうしよう、僕の頭は軽くパニック、こういう時に限って電車も長く感じ、人間追い詰めれれるとおかしなことをするものですね。僕はヘルメットの中で、一生懸命「変顔」をしていました。幸い気が付かれませんでしたが。副業は就業規則違反の堅い会社なんですよ、いきなりクビにされたら大変です。いやーあせった。そもそも、外見は着ぶくれして体型もわからないし、フルフェイスのメットですから顔だってバレルことはあり得ないんですけどね。次は声もカン高くしよう、と心に決めた朝でした。
アメリカンデブ
僕が勝手にそう呼んでいた、アメリカのコメディ漫画に出てくるようなおデブちゃん。大きな風船(胴体)にめりこむような小さい風船(頭部)に、やたら細く見える足が2本で手が短い。体重は100kgやそこらじゃ全然済まないようなボリュームで、どこで売っているものかアディダスの派手なジャージを着てウォーキングをしていた30代の男性です。歩くこと自体が大変そうなので、これは続かないだろうなと思っていたら、きっちり一週間で見なくなりました。最後に見た日に、自販機の前でコーラのロング缶を飲んでいたのはご愛敬。まあでも、彼くらい目立ってくれればよいのですが、黒っぽい恰好をしてウォーキングやジョギングをする方たちには時々ヒヤッとさせられました。我々配達員は、ポストのなるべく近くまでバイクで行くために、時々歩道を走ったりしますので(いけないことですが)少し白っぽい帽子やジャンパー、理想を言えば反射ラベルの付いたモノを身に着けていただけると非常に助かります。懐中電灯で自分の前を照らしながら歩く方もいますが、あれは自分の視界は確保できても後ろからくるバイクや車への注意喚起にはなりませんのでご注意くださいませ。
メッセージ
新聞を数日止めてほしい、とか、置く場所を変えてほし、とか、ポストにそういうメモが貼ってあることが時々ありました。「いつもご苦労様です」「毎日ありがとう」そこに書き添えてあるそんな一言にどれだけの力を与えられるか。
チラシの多い日
新聞に折り込まれるチラシの量は景気を反映する、と言われます。ネットの普及で新聞そのものの販売部数は頭打ち感があるようですが、僕の配った6年の間でも、チラシが少ない年と多い年がはっきりとありました。専属さん、代配さんに(正社員に)支給されるボーナスは、チラシの数に、いわば販売店に入る広告収入に大きく左右されるようで、みなそれは気にしていましたね。ちなみに1年で一番チラシが一番多いのは元旦号。これはもう特別すぎる量ですが、曜日で言えば、金、土が多く、日、月が少ないかな。水曜もまあまあです。当然ボーナス時期などはさらに増えますので、チラシの量が反映されないバイトの身としては、少ないに越したことは無いわけで、軽ければ軽いほどテンションがあがりましたね。だって重さによっては、バイクに乗りきらなくなりますから、途中で店に取りに来なくちゃならないんです。
選挙翌日
チラシが一部もない日。それが衆参の国政選挙の翌日でした。僕は3回経験したのかな。チラシを入れてはいけないっていうルールがあるんだと思います。まあ、配達の楽なこと。普段は前と後ろにびっしりと積むのに、この日は前かごにすっぽり入り切ったりします。バイクは軽いし、薄いからポストにも入れやすいし、所要時間もいつもの70%くらいしかかからなかったですね。ただ、だからと言って大歓迎できない大きな要因がありました。新聞の到着時間が遅いんです。普段は1時くらいなのに3時くらいになっちゃう。ギリギリまで見極めて最新の情報を掲載したいということなんでしょうけど、昼の本業の出勤時間のある僕にとっては、大変スリリングな状況でした。こんな日に未配なんて出そうものなら絶対にOUTなので、急ぎながらもすごく神経も使いましたね。
オールブルー
田舎に行けば行くほど、星空や朝焼け、自然の景色に見入ってしまうこともありました。街中エリアで唯一僕が好きだったのが、明け方の国道4号線、その信号が一斉に青に変わる瞬間です。車の全く走っていないどこまでも続く直進道路を、紫とピンクの朝焼けが照らし始める中、等間隔で点る緑の光。人も車もない中で見るその瞬間は、ちょっとした、世界を独り占め感が味わえましたね。
夜桜
田舎エリアでは、墓地を怖がっていたら配達になりません。お寺や神社は少なくないし、荒れてさえいなければ、静謐な感じが心地よく、気持ちの悪い雰囲気は逆にないものです。そんなお寺の一つに、樹齢100年は超えようかという、大きな桜の木がありました。ただ、桜の季節にその辺りを配るのは、いつも「日の出」前のことでしたので、実際に桜が咲いた様子を見たことはありませんでした。ですからその日は、きっとご住職がスイッチを切り忘れた珍しい夜だったのだと思います。4基の照明で下からライトアップされた満開近いその桜の美しさと言ったら。明かりの少ない田舎ですから遠くからぼうっと浮かび上がって見えていて、近づく程に鮮明になる、まるで夜空に浮かぶサンゴ礁のような姿に、思わず見とれてしまいました。こういう景色を一瞬でも独り占めできるのですから、まあこの仕事も満更大変なだけでもありません。
巨大牛の怪
闇は本能的な恐怖心を駆り立てます。気配に過敏に反応したり、小さなものが大きく見えたり。その典型と言えるお話を一つ。
田舎エリアには牛舎を持つ家も数件ありました。牛は基本夜は動きも鳴きもしないので、犬と違って配達中に驚かされたりすることもなく、いたって無害な存在です。
ある夜、JA(農協)のカントリーエレベーターと呼ばれる農業用の大きい施設の駐車場に、10tタイプの大型トラックが止まっていました。お尻とお尻を合わせるようにして、2tくらいのトラックも止まっていました。荷台で何かが動いていたのでよく見ると、2tから10tへ、牛を移動させているようでした。なるほど、10tでは牛舎のある家の道へ入っていけないから、2tで中継して運んでここで荷の積み替えをしているんだな、と納得できたのですが、問題はその牛の大きさです。僕のその時の印象では横が10mで背の高さが5mくらいの超巨大牛。もう恐竜のレベルでした。これはもしや、秘密裏に闇の世界で売買されている希少動物なんじゃないか、と妄想してしまった僕は、帰宅後朝を待って、妻にインターネットで調べてもらうことに...。世界中のどこにもそんなサイズの牛の情報はありませんでした。結局、横幅は2頭が重なって見えていて、背の高さは地面から荷台まで高さの分、より高く見えていたらしい。遠くに運ぶからなのか、夜のほうが暴れないからなのか知らないけど、なんで深夜にあんなことしているんだか、紛らわしい。
能力者
もともと寝つきは良いほうでしたが、このバイトを始めてから特技と呼べるレベルにまで進化したと思います。少しでも睡眠をとろうという体の本能的な作用だと思いますが、とにかく瞬時に、それも深い所へ眠り落ちることが出来るようになりました。朝配達後の2度寝、約1時間と昼食後の昼寝、約30分を質の良い眠りにすることで、夜の睡眠不足を補っていたように思います。常に1日のトータルで6時間未満の慢性的な寝不足状態でしたけど。売れっ子の芸能人はもっと凄いのでしょうね。若いとはいえ1日3時間程度の睡眠で体がもつなら、移動中や休憩中のちょっとの時間に、僕よりも深い所へ落ちることが出来る、さらに上の能力を持つということなのでしょうから。
闇の住人達 その1
繁華街では、まともに生活していたらなかなかお目にかかれない世界の方々に遭遇することがよくあります。3階建てのL字型の古いマンションでのこと。そこにはお水のお姉さん方と、中国系の外人さんが多く、僕が配る時間でも、たまにすれ違ったりしたし、明かりがついていたり話し声が聞こえてくる部屋も結構ありました。ただ、2階にあった、隣接する二部屋に関しては、少し趣が違いまして...。不特定多数の女性(20代から30代くらい)が毎夜頻繁に出入りするのです。皆、きれいな感じなのに、例外なくすれ違う時は顔を伏せ、酔った様子もない。後で安さんが教えてくれました。そう、ここは「デリバリーヘルス」と呼ばれる派遣型風俗店の事務所だったのです。
平日でも雨の日でもかなり多くの女性の出入りがありましたから、人気のお店だったかもしれませんね。僕にはご縁がありませんでしたが。
一度だけ、怖い光景も目の当たりにしました。やはりこういう業界はそういう業界だということなのでしょう、大柄な坊主頭の明らかにその筋の男性が、ブリーフ1丁で隣の部屋へ入っていき(上半身中に派手な「絵」が書いてありました)、その直後部屋の中から、女性の叫び声が聞こえてきたのです。ルールを破った女性が折檻された、そんな感じだったでしょうか。軽い気持ちで夜のお遊びをされる男性諸氏、夜の色香は闇の世界と密接な関係にあるようですよ、ご用心。
怖い話 その1
丑三つ時、俗に「出る」と言われる時間に6年間、バイトを続けてきましたがUFOも幽霊もやっぱり出会ったことは無い。ただ、明らかにおかしい、どう考えても説明のつけようのない不思議な現象は、いくつかありました。
ある雨の夜。築10年くらいでしょうか、比較的新しい国道沿いの10階建てのマンションでのことでした。正面玄関にセキュリティロックがないので、エレベーターを使って昇降し、戸別に新聞を入れていきます。基本的にエレベーターは、緊急時に管理会社で遠隔操作出来るようになっていますし、一定の時間が経てば勝手に一階に降りていく、というタイプがほとんどですが、その日の動きは、明らかに異常なものでした。
下から上へと配る僕は、まずは1階で乗り、3階で降ります。すばやく配ってエレベーターに戻ると、もう1階に戻っていて。自動で降りたにしては早すぎるので、誰かが1階で呼んだと判断し、△ボタンを押して待つと、エレベーターは僕の前を素通りして、表示は6階でストップ。ならば6階で呼んだのかと思って、さらに待つと、ようやくエレベーターは3階でストップ。無人のエレベーターの扉が静かに開きました。ちなみにそのエレベーターは、ドア面の上半分がガラスになっていて中が見えるタイプで、終始だれも乗っていませんでした。つまりこれは、まるで見えない誰かが、6階に帰ってきたかのような動きなのです。もちろん、他店の配達員は居なかったし、どの階にも住人の姿はありませんでした。それ以降、雨の日に、6階を配るのは結構怖かったです...。
闇の住人 その2
週末になると必ず、黒くて丈夫で怖そうな車が横付けしている、2階建てのアパートがありました。まだ子供が小さい家族が住むような、なんでもない普通のアパートです。怖いなのは車だけじゃなくて、明らかにその業界の男性が2人常に、闇に隠れて周囲を窺うように立っていたことです。はじめの数週間は、覗き込むように顔を見られて、その度肝を冷やしましたが、そのうちに覚えていただいたようで、フリーパスに。おそらくは、その二人の上司にあたる偉い方の、ご家族かご愛人が住んでらっしゃったのでしょう。まあ、何事もなくてよかったです。
怖い話 その2
田舎エリアの静かな家でした。他店に浮気することなく、常にうちの新聞を取ってくれる優良顧客で僕が配るようになってからも、1年以上経過していたと思います。ある夜のこと。何の前触れもありませんでした。バイクを庭先に止めて、いつものように玄関のポストへ歩いていくと、突然、家全体が中から「ピカッ」と発光したのです。明かりは白色、まるで2階も含む全ての部屋にある尋常でない量の蛍光灯が、音もなく一斉に点灯した、そんな感じでした。僕は間抜けにも、爆発する、と思ってしまい、その場にしゃがみ込みましたが、何も起きず、明かりはすぐに消えました。雨戸の隙間、玄関のガラス、家中の窓という窓から、一瞬だけ同時に漏れた強烈な光。僕が、その現象の意味を知ったのは二日後、玄関でお通夜と葬儀の案内の立て看板を目にした時でした。人魂、とかそんな儚い感じの光じゃなかったけど、きっとあれはそういう事だったんだと思っています。
闇の住人 その3
高級マンションの玄関エントランスから、ある夜、長身長髪で、ちょっと目を引くくらいのいい男が1人出てきまして。彼は大きな麻の袋を片方の肩に背負っていたのですが、異様だったのは、その袋がもぞもぞと「動いて」いたこと。もしかして、、の疑惑は、次の瞬間麻袋から聞こえた、くぐもった女性の悲鳴で確信に変わりました。間髪入れず、男性は開いている手で袋を思い切り殴りつけ、止めてあったジープみたいな車の後部座席に放り込み、あっという間に去っていきました。トラブルに巻き込まれるのは大嫌い僕ですが、さすがにこの時は、警察に通報しなければと思いました。しかしその直後、電柱の陰から出てきた背広の男性2人が、どこからか現れた車に乗り込み、まるで後でも付けるように同じ方向へ走って行ったのを見て、「警察が捜査中」だったと思うことに。もちろん真偽のほどと、袋の女性の安否は、今でもわかりません。
怖い話 その3
新聞店には、束ねた新聞にPPロープ(幅1cm位のプラスチックのような材質の紐)をかける電動式の機械があります。新聞を設置してスイッチを押すと、バシーンという音とともに、グルッと一瞬で縛ってくれる優れもの。みんなが新聞を準備する1:00から2:00は順番待ちになる機械ですが、それ以降は、ちょっと遅く来るアルバイトしか使わないので、僕が他の人とぶつかることはありませんでした。この機械、電源を入れるとそれだけでモーター音がうるさいので、使い終わったら電源を落とすのが鉄則。誰かが切り忘れていれば、出勤したときに音ですぐにわかります。
ある日。誰もいない中、いつものように自分の新聞を準備していると、突然後ろにあったその機械から、「バシーン!」という、ロープを掛けるあの音が。驚いて振り向くと、もちろんその機械に電源は入っておらず、無人の店内で、ロープを掛けるアームだけが、振り子のように動いておりました。これが一番怖かった。
闇の住人 その4
未明の繁華街。片側3車線の大通りで僕を抜いていったやんちゃなうるさい車がありました。突然、後部座席のドアが開き、おそらくは全裸(少なくても上半身は)の若い女性が身を乗りだし「助けて!」と叫んだのです。正確には「助」位で中に引き戻され、違う手でドアを閉められていましたが。さすがにこの時は、その足で交番へ。貴重な睡眠時間がやたら時間のかかる調書で奪われたのは癪だったけど、知らんぷりは出来なかった。新聞には出ていませんでしたが、まだ若そうだった彼女の、無事を祈るばかりです。
馬場君
僕の田舎エリアのアルバイト前任者。専門学校生といってたから20歳そこそこなのかな。アルバイトを始めて3か月でもう辞めますと音をあげた子で、おかげさまで僕はエリアを増やしていただけることになりました。それは大変に嬉しかったのですが、代配さんや専属さんではなく、アルバイトに、しかも辞めていく人間に教わるのは初めてのことで、嫌な予感は無くもなかったのです。その日。僕は繁華街エリアを配り終えて3時に店に集合、彼はその3時に出勤し、そこから一緒に田舎エリアを配るという段取りだったのですが、彼が来たのは10分後。しかも3時に赤城店長が携帯に電話して起こしてから出てきたのです。これが毎日続きまして。配り始めてしまえば後ろをついていって、要所要所を順路帳にメモすればいいだけですからなんてことはないのですが、この毎朝の10分が無駄で無駄でしょうがなかった。まあ辞めようとして、いやせめて後任が覚えるまでは、と引き止められていたのですから、意識が低いのは仕方がないのだけど、別に教育してやろうとも仲良くしようとも思わないから、早く覚えてさっさと辞めさせてやれ、と我慢していました。1週間後くらいでしょうか、たまたま赤城店長がお休みでして、彼は当然出てきません。万が一のためにと店長から聞いていた携帯の番号にかけても出ない。30分待ってもう気持ちも時間も限界が来た僕は、分厚いゼンリンの住宅地図と順路帳をもって一人で配ることに。通常は最低でも2週間はかかりますからまだまだうろ覚えでしたがやるしかなかったのです。いざ配り始めると、一軒配ったら地図を確認し、を売り返すので全然捗らず、結局、30部ほど残したところで昼の出勤時間へのタイムアウトになりました。無念でしたが、悪いのはもちろん奴ですから開き直って帰ることにし、6時近かったのでもしかしたら起きるかな、と思って電話すると、今度は出た。不愛想な声にも怒りを抑えて大人の一言。「あと残り少しまでは配ったからこの先だけ頼む」すると彼は「ちょっと今日は無理なんで自分で何とかしてくだい」 大人も怒る一言をのたまう。「お前いい加減にしろよ」と怒鳴ると「うるせえよ」と言ってブチッと切られてしまいました。未配を大量に出してしまうことは本当に心苦しかったけどどうすることもできず、僕はそのエリアを後にして店に戻りました。誰かいれば、事情を説明しお願いするしかありません。すると店に唯一いてくれたのが、地獄に仏、配達を終えた吉池さんだったのです。すぐに順路帳を受け取り、配りに行ってくれたその後姿は、後光がさして見えるくらい有難くて頼もしかった。いや助かりました。
次の日。店長の横で神妙に頭を下げている彼の姿が。僕はもう彼を当てにする気がなかったので、謝る彼を無視し、もう大丈夫ですから辞めてもらってください、と店長に告げ、一人で配達に出かけました。もちろん前日の夜に、しっかりと予習はしてありましたので、時間はかかったけど未配はなく完了しました。
そういえば朝刊配達はその多くが、数日で来なくなって辞めていくという現実を教えてくれたのは奇しくも吉池さんだったなあ。落ち着いて考えれば、そういう連中に比べれば引き継ぎの要請に応じただけ、マシな奴だったと考えるべきでしょうか。馬場君、ちゃんと就職できたかなあ。
警察24時 その1
表向き僕らの業界は「防犯パトロール協力店」なーんてポスターも貼ってあったりするくらい警察に協力的で、僕もなにかの時にはすぐ通報しようくらいの意識は持っていました。もちろん、警察の側も、協力的な市民として、見てくれているものと思っていましたが、中にはそうじゃないのもいるみたいです。いつものように軽快にバイクを走らせていると、後ろから「そこのバイク止まりなさい」の声。全く身に覚えがないので(この時は)知らんぷりして走ってたら、再び「止まりなさい」とサイレンも一回し鳴らす始末。仕方ないから一度止めて、近寄る警察官に「なんすか」と聞けば、ブレーキランプが切れている、整備不良だ、免許書をみせろ、というのです。深夜3時にフルフェイスのヘルメットかぶった安全運転の新聞配達員に、ですよ。「はい?」と聞き返したところで気が付きました。通常、夜間のパトロールは二人一組のはず。この時は1台のパトカーに3人の警察官が乗っており、うち一人の話しかけてきている警官はとても若かった。どうやらこのメガネ小僧、職質の実地練習をさせられているようなのです。尚更頭にきて、「そもそも俺のバイクじゃない、文句があったら販売店に言っとくれ」と不満げに言ったところで、後ろから偉そうなのが出てきて凄んでみせる。「乗っている人間の過失になるに決まっているだろう、そんなことも知らんのか!」配達中の一秒は命の一秒、これ以上時間を無駄にしたくないと思い、「じゃ早くしろよ」と言えば「今回は特別に大目に見てやる、次から気を付けろよ」だって。だったら初めから止めるなよ...。 深夜の巡回なら、他にやること、もっとあるだろ!
警察24時 その2
というわけで、この件で警察に対する意識が随分下がった僕でしたが、まあ次の話に関していえば、悪いのは完全に僕。よいこの配達員はマネしちゃだめだよ。
アルバイトも同じエリアを一年も回れば、自分なりの最短ルートを見つけるもの。裏道、抜け道、歩道走行、一通の逆走など、なかにはやっちゃいけないルール違反も含まれるわけで。この日僕が無視した信号は、こんなに交通量が少ないのになぜ点滅式じゃないのか、と思うくらい左右を見渡せる小さな交差点でした。いつも目視確認で通行する習慣がついていたのですが、おそらく「張られて」いたのでしょう。通過した瞬間に30mほど前の闇から突然ヘッドライトとパトランプが点灯したのです。反射的にUターンした僕は、サイレンを無視して交差点に戻って左折し、加速。パトカーがこちらに曲がってくるのを確認してから、ある袋小路へと誘い込みました。追ってきたパトカーはそこで立ち往生。なぜならその道は、バイクなら、高さ20cmのブロックを越えれば、アパート玄関前の通路を通って、横の道へ抜けることができる道だったのです。実はこれ、一度近道としてで使ったら、住人から苦情が出て、それ以来使っていなかった僕のオリジナルルート。警察官は、どこへ消えた?と思ったでしょうね。いい気味です。もちろん、再遭遇は避けなければなりませんので、その日は順番を大きく変えてそのまま田舎エリアへジャンプして配りましたが。ちなみに夜勤のパトカーは朝の5時で交代に戻ること知っていましたので、その近辺へは時間を見計らって戻りました。悪いことなので誰にも自慢は出来ませんが、なかなか痛快な一夜でしたよ。
相沢君の罠
「専属さん」は基本、まず自分が最も多くの部数を効率的に配れるエリア、つまりは配布先が狭い範囲に集中しているエリア、なおかつ店から近いエリアを配ります。「アルバイト」は、そうじゃないエリアを担当をすることになりますから、非効率で、範囲が広くて、店から遠いエリアを配るわけです。
大きなエラーもなく1年が過ぎたころから、「専属」にならないか、と誘われるようになりました。本業との掛け持ちでないと、借金を返していけない僕は、その度にお茶を濁してきておりましたが、まあそのくらい信頼も得ていましたので、ある時部長に呼ばれて、より中心街に近いおいしいエリアを追加していただくことになったのです。そのエリアの専属さんは「相沢君」。この業界には珍しいくらい愛想のいい30代の青年でした。もちろん直接教えてくれたのは吉池さんでしたが、何しろ配りやすいのですぐに覚えて独り立ちした気がします。
1週間も過ぎた頃でしたでしょうか、「昨日未配があった」と相沢くんに注意を受けました。大体未配があるときは、部数も余るし記憶も怪しいことが多いのですが、その日新聞は一部も残らなかったし、指摘のあった家には確かにいれた記憶もあったのでその旨伝えると、彼はしばし考えた風で「じゃあ抜かれたかな」といいます。「未配」が2回も続けば契約を解除され他紙に乗り換えられてしまうシビアな世界、他店の担当者の変わり目を狙って同業者が、ポストから新聞を抜いて、後日その家に営業をするという嫌がらせ行為が(立派な犯罪です)たまにあるんだそうで。
抜かれない対策として、新聞を2つに折って、ポストへ完全に落としきる様に指示を受けたその翌日。今度は違う家で未配があったと注意を受けました。それこそ注意深く配っていたので、やっぱり抜きか、と思った僕を、なぜか叱りつける相沢くん。抜かれたことに僕の責任は無いし、未配でない以上責められる謂れもないのですが「本当に気をつけてよ」とご立腹。あれ?この人、あれ? ちょっとおかしいかなあ、とここで僕は感じ始めていました。
案の定、次の日もまた別の家で「未配」が発生。今度は頭から「いい加減にしてくれよ」と怒鳴ってきた相沢くん。怒り心頭といった様子で部長へ直訴しに行きました。こんないい加減な人に自分のエリアは任せられない、バイトを変えて欲しいと主張されたそうです。結局僕は、このエリアを外されてしまうことになるのですが、それは僕に非があると判断されたわけではなくて。後日知ったのですが、誰かがこの3日間の未配について、客からの連絡が事務所の電話に一本もなかったことを確認して部長室へ行き、証言してくれたそうです。つまりこれは相沢くんの「狂言」だったわけです。恐らくは、専属に誘われるなどして幹部の覚えが目出度い僕が、更に美味しいエリアを担当することが面白くなかったのでしょう。かと言って10年近くこの店で頑張っている相沢くんを強く責めるわけにもいかず、僕を外すことで話を収めたということでした。つまらないことをする男だと思いましたが、まあ関わらなければ害もないのでその後はなにもありませんでした。その半年後くらいに、彼はあまりよくない形で店を去っていくことになるのですが。
黒川さんのボーナス
新聞の契約は基本的に6ケ月サイクルです。更新や契約切れで配達先に動きがあるのは、1月・4月・7月・10月の4回に集中しており、中でも、4月と10月は大きく変わるので覚え直すのが大変。前の月の月末に専属さんと打ち合わせをして、「新規」と「止め」の確認をします。その動きが少ないほどアルバイトは楽ですが、全体の部数の低下は専属さんのお給料に関わってくるので、喜んではいられません。僕にとってのラスト2年間、新しい住宅街のエリアを任せてくれた黒川さんは、その2回の打ち合わせの後に、新規が増えていようが減っていよう関係なく、「寸志」と書いた熨斗袋に入った10,000円と350mlのビール6本を必ずくれる人でした。相沢君が辞めた後に他店からやってきた黒川さんは、どんなに僕が遠慮しても、「俺はいつもこうやってバイトに頑張ってもらってきた、無遅刻無欠勤へのご褒美だから受け取れ」と言って渡すのです。
100万、200万とカード一枚で簡単に借りることが出来るおかしな世の中と自分の弱さに、あまりにも安易に多額の借金を重ねてしまった僕でしたが、10,000円を稼ぐことの大変さを知ったこのころには、頂くことが心苦しかったです。専属さんだって、そんなに裕福な訳ないのですから。
地震翌日
お客様と対面する集金や契約は「専属」さんたちの仕事。配達中はほとんど誰にも会わないアルバイトには、モチベーションは得にくくて、ただ機械的に仕事をこなすのみ、慣れれば慣れるほどに、ひたすらミスなく配り、一分一秒でも早く帰ることしか考えられなくなります。あの日あの朝まで、新聞を配るという行為を、誰かに労われたり感謝されたりなんてことは想像したこともなかったし、もちろん求めてもいませんでした。
3月11日、東日本大震災の夜。
僕の住む地域でも、大規模な停電が夜になっても復旧されていない状況で、もともとたいした備えもない我が家は、携帯電話の充電が切れてしまったあとは、全く外部の情報がわかりませんでした。これはさすがに新聞も発行できないだろう、明日は土曜日だしゆっくり寝てやれ、と思いましたが、万が一の場合に無断欠勤扱いされるのも嫌なので、念のためいつもの時間に出勤することに。するとそこには、ヘルメットにヘッドランプを付け、懐中電灯を片手に新聞を仕分けしている店の専属さん達の姿がありました。まるで普段とは違う表情の、別人のような彼らの姿が。
普段はろくに挨拶も返さないくせに、この日は僕が着くなり、和さんが声を掛けてきます。「ばかやろう、こういう日はもっと早く来て手伝うもんだ」腹を立てる間もなく「道路に陥没あるかもしれないぞ」「エレベーターは動いていても絶対使うな」「余震あるからブロック塀には近づくな」と続く皆からの親身の注意喚起。こんなによく喋る彼らは初めてで、でもそれが何故なのかがわからないまま、取りあえず僕は、配達に行きました。
街中エリアでの、高層マンションでもエレベーターが使えない体力的な負担もさることながら、信号や街灯が消えてしまった町の風景は、配りなれているはずの感覚をも狂わせて、いつものように慣性で配ることができません。それでも時間をかけてようやく田舎エリアに入ると、驚いたことに普段は寝静まっている家の玄関先に、家人が迎えに出てくれているのです、それも1軒2軒ではありません。「ありがとう」「大変だね」「こんな時はやっぱり新聞が頼みだよ」「停電でテレビが見れないんだ」「町の様子はどう?」「火事なんか起きてないだろうね」
普段は当たり前に過ぎて、毎朝届く新聞について、誰も改めて意味など考えないでしょう。でも僕はこの日知りました。停電でラジオもテレビも使えない、携帯電話も充電が切れた、危なくて外にもいけない、こういう極限状況では、いつも通りに届けてもらえる「新聞」だけが、外部とのつながりであることを。そしそれを支えるのは、何があっても新聞を「作る」人たちと、どんな状況でも「届ける」人たちの、プライドであることを。この業界には、退職した年配者のほかに、僕のように借金がある人や、何か不始末をして失業した人、人に言えない過去のある人が多いのも事実で、みなが過去を伏せる山田販売店も例外ではありません。僕はそれまで、彼らの働きぶりに敬意を払ったことがありませんでした。でも、配達前にみた店の風景は、まさにプロの仕事場。そしてそこから溢れていたのは、自分の仕事に誇りを持つ男たちの発する熱気だったのです。
彼らに比べれば、僕などまだまだ、ほんの小僧でした。
朝顔の君の物語1
お色気のパーセンテージが限りなくゼロに近いこの仕事にあって、6年間で唯一といえる、甘くて切ないお話です。パーツの小さい顔の造作と赤い半キャップがよく似合った彼女の笑顔を、僕は今でも、覚えています。
勤務の時間帯はもちろん、想像以上に体力(腕力も脚力も)を使うこの仕事は、女性向ではありません。うちの店でも女性は占いババと安井さんを手伝う奥さんだけでした。なので他店の同じエリアを担当しているオッサンが、まだ若そうな女性を後ろに従えて教えながら配っているのを初めて見た日には、本当に驚いた。すっかり枯れたような歳のオッサンですら妙にニヤニヤして見えて。まあそのくらい普通に可愛い感じの華奢な女の子でした。オッサンのことは「火事」の件以降、密かに尊敬はしていましたが、信号待ちで並べば挨拶する程度の中でしたので、この子がここを担当することになれば、まあなんとなく今までよりは楽しそうだな、とは思っていたわけで。
ちなみにスーパーカブの乗りこなしから、彼女が新人ではなく、どこかから店を移ってきた経験者と思われました。(エリアの変更であれば隣の店のことなので若い子がいることは噂になっていたはずですから)老いたとはいえ所帯を持っていない男たちが多いこの業界ですから、若い女性であるが故の大変さがきっと多いのだろうなあと漠然と想像はしていましたが。幸か不幸か彼女は辞めることなくすぐに独り立ちし、一人で配る彼女を毎朝のように見かけるようになりました。もしかしたら無意識に探していたかもしれません。ある日ついに、高架下の信号で一緒に止まりまして、「オッサンにも挨拶してたんだからこれは自然だ」と自分に言い訳してから「おはよう」と声を掛けました。「おはようございます」と人懐こい警戒心のない笑顔。「山田新聞店さんですよね」なんて話しかけられて、僕は随分と締まりのない顔をしていたことと思います。
可愛かった。青に変わって「じゃ頑張って」と告げて別れるとまた心配になってしまいまして。こんな子が居て、その店の風紀は大丈夫なのだろうか。どんな事情があるにせよ、お金が必要な状態での仕事の選択肢として、あの容姿で、夜の仕事ではなく新聞配達を選んでいるその時点で彼女の強さはわかりました。そのくらい可愛かった。
「今日新聞重いですね」「もう長いんですか」「晴れて気持ちいいですね」
それから約一か月、3日に一度くらいは同じ信号で一緒になれば会話をする仲になって、僕にとってはそれがいつも楽しみで、単調な繰り返しの中での唯一の励みになっていました。ところが。
ある日を境に、彼女の姿を見かけなくなりまして。以前とは違う代配と思われるオッサンが配るようになりまして。体でも壊しちゃったか、それとも辞めちゃったのか、今度そのオッサンに聞いてみよう、なんて思っていた矢先に、僕はその理由と彼女の名前を、自分が配る新聞で知ることになりました。
朝顔の君の物語2
■○○県××市のスーパーマーケットの駐車場で、交際していた女性の首を絞めて殺害しようとしていたとして、新聞配達員の男が逮捕された。殺人未遂の容疑で逮捕されたのは××市の新聞配達員木村健二容疑者。警察の調べによると木村容疑者は今月1日スーパーの駐車場に止めた車の中で、同僚の近藤恵美さんの首を絞め殺害しようとした疑いがもたれている。近藤さんは現在も意識不明の重体。木村容疑者は2日午後駅前の交番に出頭し、「服で首を絞めた」などと話した。木村容疑者と近藤さんは交際中だったということで、警察は動機などについて追及している■
彼女の名前は近藤恵美さん。出勤したらみんなが騒いでいました。扱っている新聞が違うだけで、その店とは1kmも離れていませんから情報は早く、あとで部長に聞いたところによると、その店では二人揃って無断欠勤して連絡がとれなかったので相当心配していたようです。公認カップルのはずが他の男性たちが触手を伸ばし、愛想のいい子でもありましたから、嫉妬や別れ話のもつれ、というのが理由のようでした。(噂レベルですが)
うちは絶対に若い女性は採用しないから安心しな、と部長は冗談で言っておりましたが僕は笑えなかったです。お金が必要だっただろうに、手っ取り早い水商売は選ばずに、同年代の友達との付き合いもままならないこのバイトを選んで、睡眠時間を削って頑張っていただろうに、同じように頑張っているはずの同僚に、首を絞められてしまうなんてやりきれない。容疑者の彼も、もしかしたら恋愛の免疫の少ない純粋な青年だったかもしれない、それ故の、愚行だったのかもしれないと思うと、一方的に彼を責める気にもなれませんでした。もちろん僕は彼女(近藤さん)のことは何もしらなかったし、見かけてから一か月も経ってなかったし、さすがに惚れた腫れたでもなかったけど、胸が痛かったです。気が付けば、高架下の信号を「赤になれ」と祈る自分がいましたから。
続報は新聞でもネットでも得ることができませんでしたから、彼女の容態がどうなったか、彼がどう裁かれたか、理由はなんだったのか、今でも何もわかりません。
夜明けに向かって、ひっそりと健気に花を咲かて、見た人だけを束の間幸せな気持ちにさせて、昼にはしぼんでしまった彼女はまるで、朝顔のような人でした。
不良少年
世間が夏休みだったある夜のこと。住宅街の一角の小さな公園に、たばこを吸って屯している3人の茶髪少年(高校生くらい)の姿がありました。夜と言っても3時を過ぎてますから人がいること自体珍しいのですが、別に気にもせずに配っていると、バイクを止めて玄関先へ届けている間に、そのうちの一人が僕の愛車にまたがっているのです。決して武闘派ではない僕も、そのまま乗って行かれては商売になりませんし、本物の闇の住人に比べれば高校生など可愛いものなので、「何やってんだ、降りろ!」と胸倉を掴むと、意外にも素直にバイクを降ります。驚いたのはそのあと、その彼が「新聞配達って金になるんすか」と聞いてきたことでした。1秒が命の配達商売、この日は時間もありませんでしたので、「まあそれなりだよ」と流して答えてその場を去ると、その翌日、今度は1人で彼が公園にいます。声をかけると、どうやら僕を待っていたようでしたので少し話を聞いてみることに。「金が欲しいの?」「はい、家を出たいんで」「なんで?」ここから聞いたのは高校生一人が背負うにはちょっと重い話。父親が去年のクリスマスイブに酒気帯びで追突事故を起こし相手に重傷を負わせその場から逃走、警察が自宅に押しかけてきて緊急逮捕され、しかも父親の運転する車には若い女性が同乗していてたこと。実名が出たので学校でも噂になり、行くのが嫌になったこと。それ以来母親が事故と浮気の両方のショックでうつ状態になり、家にも居たくないこと。それをほぼ初対面の僕に話してくれたのは、彼がそこまで追い詰められていたか、僕に同じ匂いを感じたか。誰も責めたくない、たぶん本当はとても優しい彼の、誰かに聞いてもらいたかった心の底からのSOSだったのだと思います。不運も重なって大よそ想像できる中で最悪の事態を招いたその父親に、僕は同情の余地があると思ったし、僕自身が顔も覚えていない頃に女を作って失踪し死んだ父親を持っていたので、彼の父親が家を捨てようとしていたのでないのなら、再起のチャンスを与えてあげて欲しいと彼に話しました。そして奇麗ごとを言えば、どこで何をして働くにしても未成年に親の承諾は必要だけど、それも出来ないくらい参っているなら、逃げ込めばいい、ここには寮もあるし住まいの心配もないから、と伝え僕の携帯と店の電話番号を教えてその日は別れました。
それから半年後。
バイトを辞めることが決まった僕が、引継ぎをしたのが彼だったのですから、人の縁とは、不思議なものです。「ショウ」というその17歳の少年は寮に入り、親にもしっかり筋を通してくれた橋本部長に厳しく鍛えられ、今でも元気に頑張っているようです。
病院からのSOS
二階のガラス張りのロビーから、いつも外を見ている車いすのお年寄りが居ました。気のせいでなければ、僕がバイクで近づくと、いつもガラスの際まで移動してじっとこちらを見ていました。そこは市内でも比較的大きな総合病院の敷地の一角にあった介護老人施設。時々、外に悲鳴のような声が聞こえることもあって、介護士さんも大変なんだろうなと漠然と思っていたのです。だから、ロビーにお年寄りの姿が見えなくなったその数日後、新聞を読んだ時には驚きました。あれは悲鳴のような、ではなく紛れもなく悲鳴だったのかと思うと、胸が痛かったです。僕に出来ることは、何かあったのだろうか。
■○○市の介護老人保健施設「***シルバーホーム」(入所定員100人)で、介護職員5人が入所者の80~90代の認知症の男女4人に対し虐待行為をしていたことがわかった。施設を運営する医療法人は「虐待があった」と認めているが、義務に反して同市には通報していなかった。かかわった職員のうち1人は依願退職。残り4人は今年2月下旬に訓戒処分とされ、うち2人も既に依願退職しているという。■
深夜の買い物
たまにトイレを借りたりコーヒーを買ったりするので同年代のコンビニ店長さんとはすっかり顔なじみ。深夜のバイトがなかなか決まらず、夜勤はほとんど店長さんがシフトに入っています。ある日のこと。トイレを借りようとバイクで近付いていくと、おかしな歩き方をする二人組が店に入っていきます。強盗や酔っ払いなら一大事ですから、外からそっと様子を見ていると、どうやらそうじゃありません。しっかりと歩く年配の男性が、縄のロープを握っており、その先はもう一人の男性に、体が斜めになって、ロープで持たれていないと立っていられない男性の腰に、しっかり結ばれていました。そして最も異様だったのは、その男性は目と口のところに穴を空けた大きな茶色い紙袋を頭から被っているのです。彼らが店を出た後、尋ねた僕に店長が教えてくれました。
今のお客さんは月に1回くらい買い物に来るご近所に住む親子で、息子さんには先天性の重度の障害があるのだそうです。朝早くに散歩がてら、何か甘いものを買いに来るのが息子さんの楽しみだったようですが、ある日他のお客様が、出合頭に悲鳴を上げてしまい、その様子を見て、もう来ませんから、と謝るお父さんに、店長が提案して、深夜の誰も店にいない時間を見計らって、買い物に来るようになったそうです。(もちろん顔を隠すのはお父さんの配慮)この日はハイチューを一つ買ったという、その親子と世間をつなぐわずかな時間を、その唯一の空間を、守ってあげている店長は立派だなと思いました。もしかしたら夜勤のバイトは、決まらないのではなく、あえて決めていなのかもしれません。
元旦号
去年の12月31日、僕は紅白歌合戦のエンディングを見ながら涙ぐんでいました。
21:00に寝る必要のない6年ぶりの大晦日。数日前から、この日のことを、テレビはあれを見てからこれを見よう、晩御飯は何を食べよう、年越しソバは何時にしよう、なんてワクワクしながら計画を立てて。家族と一緒に「起きて」過ごせる当たり前の年越しが、とにかく嬉しかったのです。
「元旦号」と呼ばれる1月1日の新聞のボリュームは、ご周知の通り。普段の10倍もある初売りのチラシもさる事ながら、本紙の厚みがとにかく凄い。通常は一度に150部はバイクに積むことが出来るところを30部がやっと。つまり4,5回は店に新聞を取りに戻らなければならない計算になりますが、遠いエリアを任されている僕はそうも行きませんので、元旦号の配達を効率よく行うためには、相応の工夫が必要になります。予め自分の配布エリアを平均で30件になるように5つのブロックに分けておき、各ブロックに新聞を仮置きしておける中継点を設定します。(雨に濡れず人目につかないなるべく公共の施設)出勤したらまずは車で、中継点を廻りそれぞれに新聞を落としていき、それから店に戻って改めてバイクで出発。積み替えは中継点で出来ますから店に戻る時間が省けるわけです。かしこいでしょ。(専属さんはみんなやってますが)
新聞自体の到着時間はいつもより1時間以上早いのですが、とにかく重いものですからそれでも配り終わるのはいつもより遅くなりました。まあ、なんとなく目出度い気持ちになるのか、次の日が休刊日だからなのかわかりませんが、独特の熱気があって嫌いではなかったですが。多くの家にまだ明かりが灯り、楽しげな話し声も聞こえてくるこんな特別な夜に仕事したい人なんているわけないけど、この業界は誰ひとり休みを取らない総力戦。和さんも酒飲んでないし、他の専属さんたちもこの日だけのアルバイトを知り合いに頼んだりして、むしろ、みんなどこか楽しげでしたね。配り終えて店に戻っても、いつもと違って慌てて帰るひともいなくて、和さんに「お屠蘇だ」なんておチョコで冷をもらって「和さんは飲みすぎないでよ」なんてみんなで笑ったり。今となっては良い思い出です。
配達を終えて家に帰ったら、夜更ししていた家族を起こさないようにそっとひと眠りして、お昼くらいに起きたらやっと我が家の新年のご挨拶。
昼の仕事ももちろん正月休みですからそういう意味では普段より気も楽なのだけど、バイトをやめた今では、寝ている僕に気を使ってそっと過ごす大晦日から家族を開放してあげられたことが、一番うれしいです。世間と同じリズムで生活することの有り難さを痛感しています。それにしても6年見ないうちに、紅白も変わりましたねえ。
部数とエリアとバイト代
バイト代はエリア毎に決められた月給ですが、わかりやすく均して時給に換算すれば、1300円くらいです。時間帯と労力の割には少ない気もするけど、慣れれば慣れるほど時間も早くなりますからまあ妥当かな。店によるとは思いますが山田新聞店の場合は1部いくら時給いくらの設定ではありません。配達単価には少なからず「配りやすさ」も加味されているのでどのエリアを任された時にも、月給設定に不満はありませんでしたけど。僕の場合は、月40,000円から始まって、どんどんエリアを増やしていただいたので、最高値は月160,000円まで稼いでいました。平均すれば月130,000万円くらいかな。6年5ヶ月で×77ヶ月=1000万円。もちろん目的が借金の返済ですから、返済に充てるお金は本業の給料からではなく、全てこのアルバイトで稼ごうと決めていたので(生活レベルを下げず家計を圧迫せずに返そうとしていたのです)頑張りきれたのですが。持ち出しはゼロ。自分の中では最高に頑張った6年半だったと今でも思いますし、新聞配達という選択もこれ以上ないものだったと思っています。腐らぬよう挫けぬよう慎ましくコツコツ頑張っていた、そんな僕に訪れた最大のピンチ。それは4年目の、昼の本業会社の倒産というピンチでした。
倒産
不本意な借金を抱えて失業した僕は、当時のお客様だった同郷の社長夫妻に拾われ、すぐに再就職することが出来ました。もちろん辞めた事情と借金があることは伏せたまま。社員10名ほどの小さな会社でしたが、競合他社が少ない特殊な業種であるため業績は悪くなく、いずれはお子さんの居ない社長夫妻の後継者として含みを持たせていただき、営業部長として採用されました。同時進行で新聞配達をしながらではありましたが、リスタートとしては順調だったと思います。
風向きが変わり始めたのは、入社2年後社長の発病でした。脳梗塞で倒れ危ないところをなんとか持ち直したのですが、半身不随の寝たきりになってしまったのです。現場は今までどおりに動いていましたが、経理を不慣れなはずの奥さんが丸抱えにしたことで、先行きの不安はありました。
そんな中、結果的には倒産への引き金を引くことになった「東日本大震災」が起こりました。被災地近郊の方は覚えておいででしょうか。地域ごとに停電時間をローテーションさせていく「計画停電」という天下の愚策が施工されたのです。
僕の会社は隣市にある業界大手メーカーの仕事が売上の8割を占めていました。オーダーが入れば、常に短納期、その厳しさを必死の思いでクリアしながら独占に近い状態で注文をいただいていたのです。不運としか言いようがありませんでした。その工場は「計画停電対象地域外」にあり、うちは「計画停電地域」となり、メーカーはかどうしているのにうちは製品が作れない状態が発生してしまったのです。受注生産品ですから在庫などありません。結局、納期を優先せざるを得ないメーカーは、同じ「対象地域外」にあった同業他社へオーダーを出し、僕らは売上のほとんどを失ったのです。
銀行にも役所にも「間接的な被災である」というこちらの主張は通らず、あっという間に資金繰りは苦しくなり、もともと体力の無かった会社は震災から僅かに3月後、倒産しました。
失業 1
こうして最後の月の給料はもらえないまま僕は「またしても」失業してしまいました。まずは家族へ伝えなければなりません。長男は高校生、次男は中学に上がったばかり、二人共僕に似ず成績は優秀でしたので彼らの進路に心理的な影響を与えないよう前向きな姿勢を見せる必要がありましたし、苦労をかけ通しの妻の精神面もケアして上げなくてはならなかったのです。どう伝えよう...流石に真っ直ぐ帰る気にもなれず、まだ明かりがついていたお店に寄ってみると、そこには夕刊帰りの和さんの姿。こんな時は、調子のいい平野さん辺りに軽い調子でこぼすくらいが調度いいんですが贅沢は言えません。和さんだってまさか怒りはしないだろうと思い「和さん、会社倒産しちゃったよ、部長に言えばまだ専属で雇ってくれるかな」というと、驚いた和さんは、「まあ落ち着け」と言って僕を座らせ、「ちょっと待ってろ」と言ってワンカップの日本酒を二つ買って戻ってきました。「こういう時にはまず落ち着け」って言いながら一息に飲んじゃって。僕はそれほど動揺してなかったけど、悪いからチビッと舐めていると「専属には絶対なるな」と言います。「まだ若くて才能が有るお前のような奴が本業にしていい仕事じゃない、他を探すべきだ」と。「もし万が一仕事が見つからなかったら、俺が部長に言ってすぐに専属にしてやる、それなりに稼げるように配慮してやる、だから保険をかけたと思ってあまり慌てないで他を探してみろ」と。この一言は本当に大きかったです。おかげで僕は、最悪の失業状態は避けられることで家族を安心させられたし、その後も冷静に就職活動を始めることが出来ました。
失業 2
昼の仕事を失うことで、睡眠時間が今までより取れるようになりましたが、もちろんそれは本位ではありません。より意識を高く持たなければ新聞配達を軸とした生活のリズムになってしまいます。そこで僕は、自分の中で5つのルールを決めました。
•一ヶ月以内に仕事を決める
•配達後も今までどおりに起床する
•午前中はハローワークへ、午後はネットや求人誌をチェックする
•空いた時間で市体育館のジム(200円)またはプール(350円)で体を鍛える
•夕飯の準備等家事を積極的に手伝う
こうして規則正しい生活を守ったことが、結果的に面接等の就職活動にも良い影響を与えることになったのだと思っています。さて、肝心の就職活動について、です。今回は何のアテも縁故も無いのですから大変でした。
ハローワークに通い始めた僕がまず感じたのは、「選び過ぎなければ仕事は有る」ということでした。失業率の増加や雇用のミスマッチ、あたかも働く場の少なさこそが社会の問題のように当時も声高に言われていましたが、それは一面での真実でしかありませんでした。
失業 3
ハローワークには老若男女大勢が毎日通っていますが、まず目に付くのは、喫煙ブース一体に集まる20から30名位の人だかり。別に失業中にタバコ吸っても構わないのですが、その一帯は、危機感や真剣さとは無縁の人たちのサロンと化していたのです。一方で、対人の相談コーナーからは、あれは嫌、これも嫌、自分には合わない、自分が活きないなど、紹介を拒むかのような言葉ばかりが漏れ聞こえてきます。ハローワークには様々な求人が出ていますし、特にこの時期には被災特別雇用という雇った企業側に補助金が出る施策もありました。例えば新聞配達にしても、専属もアルバイトも求人はたくさん出ています。仕事は、あるのです。それなのに、そうやってグズグズしていればお金が受け取れる雇用保険というシステムが、逆に人をダメにして、本当に苦しんで仕事を探している人のために活かされていないような気がしていました。また、景気の低迷で地元工業団地にある大企業の大幅な人員カットや、派遣切りにしても、頑張っている人優秀な人は基本的にクビになることはないですから、誤解を恐れずに言えば、さした能力もないのに楽で高収入の仕事を求めているから見つからない、そういう現象が起きている様に見受けられました。もちろん僕とて、40に近い普通免許以外には資格を持たない立派な失業者でしたが、その競争相手が「彼ら」なのであれば、絶対に再就職してやるという覚悟に於いては、負ける気がしなかったのも事実です。
再・再就職
実質的な就職活動は約3週間。年齢と書類で2社断られましたが、3社目の紹介で、今の会社へ採用となりました。創業120年を超える老舗の安定企業が、震災の復興需要で、異例の中途営業社員を募集しており、震災で仕事を失った僕がそれに見事にハマった形でした。今まで働いてきたどの職場よりも会社の規模は大きく、待遇と仕事内容にも恵まれており、後に、1名の募集に対して30名の面接をしたことを聞かされました。残業もほとんどなく、今まで通り新聞配達も続けることが出来ましたしね。
こうして僕は、これまでの人生で最大のピンチを脱し、チャンスに変えることが出来たのです。規則正しく生活したことと、僕を信じてくれた家族の支え、そして配達で培った、どんな仕事もやり遂げることが出来るという自信が、この結果を呼び込んだものと思います。採用の電話を切った後には涙が出ました。今だから笑って振り返ることが出来ますが、本当のことを言えば、毎日、気を抜けば足が震えそうなくらいの不安を無理やり押さえつけて過ごしていたんです。新聞配達を一生の仕事にしてはいけない、という和さんの言葉は、それだけ重かったですから。次の日の朝、和さんに報告すると、ニヤリとして一言。
「大丈夫だと思ってたよ」
飲んた夜
翌日が休みでない限り、外では飲まないのが新聞配達員の基本。その休みも前述の通り指定できないローテーションなので、土日と重なる可能性は3か月に1回くらいでしょうか。仲間と飲みに行きたければ、そのタイミングを待つしかなく、それを6年以上続けた訳ですから、だんだん誘われなくなって、以前に比べると飲みに行く回数そのものが激減していました。「配るなら飲むな」この掟をたった一度だけ、破った夜があります。それが、和さんのお通夜でした。元々過ぎたアルコールで体がボロボロで、腎不全で過去に一度入院してからは、すい臓、肝臓、腎臓と内臓を徐々にやられて体重が激減、それでも医師の指示を無視して酒を辞めることなく、救急車で運ばれたその夜のうちに息を引き取ったそうです。突然の死でした。内縁の妻というお婆さん以外、親族らしい人の姿もなく、参列は山田新聞店の面々だけという、寂しいお見送り。過去の事情は知る由もありませんが、「昔名前も顔も変えた」という占いババ情報が頭をよぎりました。昼の仕事がある僕以外のメンバーは、和さんと配達の時間まで一緒に過ごしたようです。帰された僕も、自宅で一人呑みながら和さんを送りました。実質4年の付き合いだったでしょうか。はじめは酒好きで意志の弱いダメおやじという印象だったのに、振り返れば、教わったことのなんと多かったことか。30過ぎて尚、舐めたサラリーマンだった救いのない僕を本気で叱り、働くとこの本当の意味を、お金の価値を、稼ぐことの大変さを、教えてくれました。どんなに酔っても、わが身の不運を嘆くことなく、過去を愚痴ることもなく、ただひたすらに何十年も配り続けた和さんは、立派だったと思う。ただただ、ご冥福を祈るばかりです。
表彰式
年に一度、休刊日前の日曜日に、県内でも一二を争う立派なホテルに、全店舗全スタッフが集まり、表彰式と懇親会が行われます。アルバイトも参加対象ということで、無料でご馳走が頂けるというので1年目は誘われるままに参加したのですが...。
全部で200人位の大きなパーティーでした。会場も料理も素晴らしかったのですが、偉い方々や招待客のスピーチの時点で、あちこちで次々と居眠りをする人が出始めて、
その光景に、僕はなんだかガッカリしていました。そりゃあ眠いのはわかりますが、たった30分くらい、しかも年に一度しかない機会に、背筋を伸ばして座っていることすらできないのかと。情けない人たちだと思いました。
そんな訳で2年目からは何だかんだと理由をつけて欠席するようになりましたが、別にそれを咎められることもありませんでした。5年目の表彰式の日程が決まった時、僕は部長に呼ばれました。勤続5年は表彰対象になり、昼の仕事と掛け持ちをしているアルバイトの中では最長となるから、必ず出席して、簡単でいいから一言スピーチして欲しい、ということでした。自分が表彰されると聞いて、やっと僕はわかったのです。称えられるべきは僕などではない。大事な式典でも居眠りを我慢できないくらい、働いている偉大な先輩たちでした。だから役員の誰も、あの時それを注意しなかった。そんな人たちをマナー知らずとわかったような顔で見下して、わかってないのは僕のほうでした。辞退する僕に部長がこう言ってくれました。「それならその気持ちをスピーチで伝えてくれ、それが先輩たちにとって何より嬉しいことだから」
こうして僕は5年目の表彰式で表彰され、皆の前でスピーチをすることになったのです。表彰者席にいた僕からは、店のみんなのテーブルは席が遠くて、彼らの表情が見えないのがちょっと残念でしたが。
スピーチ
「このような立派な表彰をしていただき、ありがとうございます。僕は、何でも器用にできるタイプでどの会社で仕事をしてもすぐに評価されて重宝されるんですが、なぜか長続きしなかった。今まではそれを会社や運のせいだと思っていたのですが、新聞配達を始めてそれを続ける中で、そうじゃないことに気が付きました。新聞配達は僕に、目の前のことを一つずつ、コツコツと真面目にこなしていく積み重ねこそが、仕事であることを教えてくれました。一足飛びに派手な結果を残してきた僕には、その地味な裏付けがなかった。だから困難な壁が現れたときそれを超えることが出来なかったのです。
正直に言います。新聞配達なんて底辺の仕事だ、と思っていました。そこで働いている皆さんのこともドロップアウトした訳アリの人たちだと、下に見ていました。でも今はそれが間違いであったことを知っています。この生活リズムを保つのがどれだけ体に負担がかかるか、氷点下の凍てつく寒さ、雨風雪との闘い、なによりそれを継続することの大変さ。それをプライドを持ってやり遂げる意志の強さと使命感。僕が今まで経験してきたどの仕事よりも、これは大変で、そして誇り高い仕事でした。今ならわかります。僕はみなさんとこの仕事をご一緒できたことを、皆さんのファイトを目の当たりにできたことを心から嬉しく思っています。橋本部長、安さん、平野さん、黒川さん、吉池さん、鈴木さん、お辞めになった赤城店長、そしてこの場にいらっしゃるすべての素晴らしい先輩と、師匠だった亡くなった和さんに、この賞は捧げます。ありがとうございました。」
雪
僕の住む街では、年に1、2回雪が降ります。店のバイクのタイヤは12月に入る前にすべてスタッドレスに変えてくれますが、積もるほどに降ることは珍しく、僕がこの白い洗礼を受けたのは2年目の冬でした。出勤したときは、降り始めたばかりの雪がうっすらと路面を白くする程度でしたが、バイクで出発するときには2~3cm程積もっていたと思います。バイクのスピードとブレーキポイントさえ気を付ければそれほど危険なこともなく、むしろ町の粗を消すように雪化粧された景色を楽しむ余裕すらありました。問題はその翌日。前日と同じような降り方をしていたので同じように配り始めると、街中や団地は自平気なのですが、より冷え込みのキツイ田舎エリアに入ると、様子が一変。まずなんでもないカーブを曲がろうとして、バイクごと横滑りで「1コケ」。相当に着込んでいますから衝撃はだいぶ緩和されるんですが、それでも倒れた側の肩や腰は痛い。もっとつらいのは、前カゴも後ろの荷台も新聞が全部ばらけてしまうので、水分がビニールから染みないうちに急いで拾い集めて積みなおさなくちゃいけないこと。まだこの時は、たまたま悪い場所を通った位に思っていたのですが、50mと進まないうちに「2コケ」「3コケ」。前ハンドルをほんの少し動かすだけでステーンと行きまして。今見えている新雪の下にある昨夜の雪の残りが、完全に凍結していたのです。スタッドレスもアイスバーンには歯が立ちません。そうとわかればフットブレーキは禁物。エンジンブレーキを効かせて走ろうとしたのですが、クラッチを踏み込むために片側に力を加えるだけで「4コケ」。「10コケ」くらいまでは数えていましたが、トータルでは何回転んだか。技術でどうこうできるレベルじゃないのです。体の痛みとその度にバイクを起こす疲れで、完全に心が折れた僕、最後には倒れて大の字になったまま、起きる気力がなくなり、いい歳こいて夜空を見上げて涙を流していました。
しばらくそうしていた後で、雪国を配る同志たちは、もっと大変なんだ、冬はこれが毎日なんだぞ、そう思ってなんとか自分を奮い立たせ、ほとんどバイクを使わずになんとか配り切りました。
注意すべきは今降っている雪ではなく、翌日の気温と日照時間で、それによって溶けなかった雪や路面に残った水分が、凍結することこそ一番怖いのだと学びました。
つまりそういう日は、バイクで配ることは諦めて、狭い所へ入れない分時間はかかっても「車」で配るしかないのです。そして、この教訓はその2年後にしっかりと活かされました。
大雪
準備も覚悟も出来ていました。そのくらいのレベルの「大雪警報」が出ていたのです。2年前の経験から早々と車で配ることを決めていた僕は、タイヤは履き替え、ガソリンも満タン、いつもより早く起きて考えられる限りおよそ万端の準備でこの日の配達に臨みました。スタート時の積雪は10cmくらいでしたが降る雪の勢いが尋常ではなく、目に見えて積もっていきます。轍をなぞりながら店に着くと、例によって非常時にはなぜか活気あふれる我が山田新聞店。脱輪等の緊急時に呼ぶレッカーの電話番号を和さんに持たされて、僕も出発です。覚悟はしていたものの、田舎エリアが凄かった。車に関しては雪が視界を奪い、もちろんこの時間の田舎道には轍などあろうはずもなく、街灯の明かりなんて全く届きませんから道路と田んぼの境界が分かりにくく相当慎重に運転する必要がありました。車を降りれば、吹雪に呼吸も苦しいほど。積もった新雪の中を一歩ずつ進むため体力の消耗も尋常ではありません。神経も体力もすり減っていく中で、汗が冷え体温も下がり始めて、まさに命がけの配達でした。
なんとか無事に店にたどり着いたのは午前9時を過ぎたころ。僕にとって幸いだったのは、この日(翌週も)が土曜日で昼の仕事が休みだったことでした。だから配り切ることが出来たのです。一番最後の帰還となった僕を、皆が笑顔で迎えてくれました。「こんな大雪は俺たちも初めてだ、よく頑張ったな」と労ってくれる彼らのその表情は、疲れた中にも達成感があり、やっぱりこの人たちはすごいと思いました。何があっても配る、それを当たり前にしているプロ意識に感動したし、なんとかやり切った自分も少し近づけた気がしました。ただ、この時点ではまだ誰も知りませんでした。
ちょうど一週間後に、観測史上初、関東甲信越地方に多くの人的経済的被害を出したあの「雪害」が待っていたことを。誰もが今年一番の難所を超えたと信じていたし、これ以上の生死をかけた配達があるなんて、想像もしていなかったのです。
雪害
それからちょうど一週間後のこと。「大雪」だが、前回ほどではない、という予報を信じ、僕は教訓を活かすべく、ちょうどまた翌日が土曜日で休みでもありましたから、妻に助っ人を頼み、彼女に車を運転してもらうことにしました。前半配達した住宅街ではこの2人作戦がハマリ、車が移動している間に次の新聞の準備が出来る僕のペースは、前回より相当に速かったはずです。
ところが、田舎道に入った途端に様子が一変しました。先週の比ではない、ひざ上ほどもある轍無き新雪を掻き分け車を進めることそれ自体困難なのに、地吹雪が視界をも奪い、脱輪のリスクとも戦わなければなりません。既に田んぼ道の所々に、動かない車のヘッドライトが見えています。こうなるともう、配達どころの騒ぎではありませんでした。如何にしてこのエリアを抜けて「生還」するかに目的は変わり、かろうじて見える自販機の明かりを目指してそろそろと車を動かしていきましたが、案の定、程なくして脱輪。前輪左を田んぼに落としたらしく、車がまったく動かなくなりました。すぐに、予め聞いていたレッカー屋に電話をすると、全部救援で出払っており、到着は朝になるとのこと。JAFも同じでした。部長に電話しても、違うエリアの救助に向かっていて助けられないとの返事で、万事休す。このまま朝を待つしかなくなりました。
音の無い白い世界。マフラーが雪に埋もれていたので、エンジンを止めて、妻と二人で、なんだか久しぶりにいろんな話をしたような気がします。寝ちゃだめなのはわかっていたけど、それまでの配達で磨り減った体力と神経は限界で、二人とも危険な夢の中へ。窓ガラスを叩かれて目が覚めたときには、びっくりするほど体が冷たかったです。本当に危なかった。(実際にこの夜、凍死や一酸化炭素中毒で亡くなった方がいました)そして起こしてくれたのは、朝まで来れないはずのレッカー車の運転手さんでした。嘘みたいにあっさりと車を引き上げて、開けた道まで移動してもらい、ようやく脱出。部長からは今日は配達しなくてよろしいと電話で言われましたが、まだ朝の5時。こんな日だからこそ、きっと待っている配達先へ届けない訳には行きません。一度自宅へ戻り、シャワーを浴びて体を戻し、今度は一人でもう明るくなった空の下で、配達を続けました。もちろんほとんど徒歩で配ったので、店に戻ったのは午後の一時すぎ。先週同様、もうみんな戻っていて僕が一番最後でしたが、今回は誰も迎えてはくれませんでした。なぜなら、全員が床にダンボールを引いて、仮眠を取っていたからです。配達を途中でやめた人など誰もいなかった。専属さんたちは午後から翌日のチラシ準備があるため、一度帰宅する時間すら惜しんで休んでいたのでした。僕は声を殺して泣きました。
気が遠くなるほどの金額だった借金も、あと半年、6回で完済するところまで来て、一番大変な日に一緒にいてくれた妻がいて、何があっても配るプロに囲まれて、この雪の中ありがとうとおばあさんが手を合わせてくれて。
その全てに、なんだか泣けて仕方なかったのです。
完済
始まりはその道のりの長さに、考えるほど憂鬱になっていた完済への道も、気が付けば6年がすぎ、ゴールが近づいていました。最後の月になると、返済日が近づくにつれ、「返し終えたら泣いちゃうかなあ」なんて思っていましたが実際にはそんなこともなくて、ホッとはしましたが、それだけ。「借金を返す為」だけに、大変な苦労をしてここまで来た、という感覚はなく、このバイトから得たものは、決して苦労だけでは無いと思っていたからなのでしょうか。
そして、辞める気もありませんでしたから、この先も続ければ、今度は「借金返済」が「財産を増やす」ことに変化していくので、それが楽しみですらありました。
振り返れば、いくつかポイントになる出来事がありました。1つ目は、死ぬも逃げるもせず借金と向き合ったこと。2つ目は、それを妻が支えてくれたこと。3つ目は、弁護士の勧めを断り、自己破産せずに返済をしたこと。この3つが、僕をこの素晴らしいプロ達と出会わせ、好条件での再就職という強運を、呼び込んだのだと思っています。
そしてその翌月、まるで全てを見通している不思議な存在に導かれているかのように、本業の会社から、僕に転勤の内示がありました。それは、借金完済前なら受けることが出来なかった、栄転の辞令でした。
バイトを辞めた日
僕は6年半付き合った愛車を、ステップを立てた後ろ姿から、心で「バンビ」と呼んでおりました。最後の朝、店に戻ったあと、自分がやります、というショウを制し、僕は丁寧に丁寧に、バンビを拭きました。ありがとうと言いながら。雨の日も風の日も雪の日も、地震の翌日も、本当に良く走ってくれました。ふと振り返って店を見れば、相変わらず寂れた並びに、「山田新聞店」の看板だけが朝日に照らされて光っています。
「お疲れさん」とでも言われた気がしました。
みんなには、前日までに個々に挨拶を済ませていたので、後は帰るだけです。鍵をキーラックヘ戻し、タイムカードを押そうとすると、そこにチラシの裏紙に書いたメモが張ってありました。
僕はしばらく、そこを動けませんでした。
「うまく行かなかったら戻ってきて専属になれ 橋本」
「これからが晩年、運気があがるよ 鈴木」
「後は心配なく 俺に任せて ショウ」
「配達根性があれば何だってできる 平野」
「よく頑張ってくれた、ありがとう 黒川」
「男の顔になった 和さんも喜んでる 安田」
エピローグ
占「ほら、平ちゃん起きなよ、いよいよだよ」
平「んー、お、ハジメの番か」
黒「スーツが似合うじゃないか」
平「当たり前だ、昼間はサラリーマンなんだから」
占「でも、これでよかったのかねえ」
平「なにが?」
占「ハジメに何も言わないでよかったのかってことだよ」
平「だから何をだよ」
占「全部だよ。採用の時も相沢の馬鹿の時も、大雪の日にやっと手配のついたレッカーをハジメのところに向かわせた事も、全部和さんだったって、教えなくていいのかってこ…」
安「馬鹿野郎!」
黒「しー、声が大きいよ」
安「それが奴の遺志だろう、いくら女でもそれ以上しゃべると許さねえぞ」
占「わかったよ、わかってるよ私だって」
平「ほら、舞台に上がるよ、言い合いしてないで、ちゃんと遺影ステージ向けて」
黒「そうだそうだ、みんなでしっかり聞こう」
安「おい和、見えるか?あの野郎ちったあ男の顔になったじゃねえか。鍛えた甲斐があったなあ。和お前、たいしたもんだよ、何にも言わずに死んでくんだものたいした男だよ。なあ和、その辺に来てるんだろ、見てるか、おい。
お前の息子の、晴れ舞台だぞ。」