筆を折れ
書けなくなった。
書けなくなってしまった。
ペンを取る。
原稿に向かう。
コーヒーを取り、少し啜る。
精神を集中させる。
あとはプロットの通りに書くだけだ。
書け。書けよ。書くんだ、僕。
ペン先が震える。
手首が痺れる。
汗が噴き出す。
頬を叩く。つねる。
左手でもう一度コーヒーを飲む。
落ち着け。落ち着いて、もう一度原稿を見ろ。
ペンを取り落とす。
万年筆のインク壺が倒れ、原稿を黒く染めた――
「――――!!!!」
叫ぶ。
目にたまった思いを押し流すように、涙が出た。
立ち上がった。
不規則に後ずさる。
バランスを崩す。
後ろに転んだ。
手で頭を抱える。
打ち付けた腰が鈍痛をあげる。
僕は。
僕は。
僕は。
僕は。
書きたい。
書けない。
書きたい。
書けない。
書きたい。
書けない。
書けない。
書けない。
書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない書けない――――
誰か、たすけて…
誰かが言った。
人間は記憶を自分の都合よく改竄する。自分にとって嫌だったことは忘れ、自分が楽しかったことは大切に保存する。何て都合のいい生き物なんだろう、と。
それを聞いた他の誰かはこんなことを言った。
だから人は生きていけるんじゃない? と。
僕も、都合よくなりたい。
忘れてしまいたい。
なのに。
忘れようとすればするほど、あの忌まわしい記憶が僕の中で呪い続ける。
卑劣極まりない笑いを浮かべ、僕を侮蔑する。
――やめろ。
もう分かった。分かったから、やめてくれ。
自分に才能がないのは自覚済みだ。
僕が何を言おうが、それは僕を苦しめるのをやめない。
僕が苦しめば苦しむほど、サディスティックな笑みを浮かべ、麻薬に取りつかれたように中毒的に苦痛を与え続ける。
僕は逆らえない。
トラウマ。
自分にとって死ぬほど嫌な記憶。
なのに。
それなのに。
僕は忘れられない。
忘れたい。
忘れてしまいたい。
忘れて、楽になりたい。
責め苦に悶え苦しむ僕を見て、それは言った――
筆を折れよ。
なぜ?
なぜそこまで苦しむ?
もう僕は十分苦しんだ。
断て。
断ち切れ。
書くことから離れれば、楽になれる。
それなのに、なぜ書くんだ?
書くたびに、ペンを取るたびに、あの記憶を思い出して苦しんでいるだけだ。
もう、やめちまえ。
やる理由がないだろ。
だったら、もう、いいだろ。
もう、十分だ。
それでも僕は原稿に向かう。
それでも。
書こうとする。
苦しみたいのか?
マゾなのか?
…違う。
じゃあ、侮辱されたから、見返してやりたいのか。
…それも、違う。
じゃあ、何だよ。
何なんだよ。
そこまでして、苦しんで、苦しみ抜いてもなお、僕を駆り立てるのは、
何なんだよ。
分からない。
分からないんだ。
僕には書く理由がない。
それでも、衝動的に、原稿とペンを取り、机に向かう。
何度も。
何度も。
何度も。
そして毎回のように再燃するそれを、痛いほど味わって、味わって、味わい続け、続けたあげく、やっぱりペンを取る。
それでもなお。
それでもなお、僕は苦しみ続ける――
書きたい。
理由なら、それで十分じゃないか。
本当に?
本当に、書きたいと思っているのか?
もう書きたくないんだろ。
嫌なんだろ。
…そうだ、もう苦しみ続けるのは、嫌だ。
書きたい。
書きたくない。
書きたい。
書きたくない。
僕は。
僕の本音は。
どっちだ。
空の灯油缶を持ってきた。
要らない古新聞を丸めて放り込む。
僕は、迷う。
まだ迷っている。
拳を膝に強く当てた。
よし。
今まで死に物狂いで書いた、汗と涙の結晶を、ぞんざいに放り込んだ。
まだ新品でまっさらの原稿用紙を折りたたんで投入する。
愛用の万年筆。
長いこと僕に付き合ってくれた相棒を、投げ入れる。
じっと見つめる。
ただじっと見つめる。
マッチをする。
ふう、と一息ついた。
よし。
これで未練を、断ち切ろう。
マッチを投げ入れた。
燃える。
めらめらと自在に踊る炎を、ただぼーっとして見つめる。
中をのぞいた。
パチッという爆ぜる音が、一つした――
はっ。
我に返る。
僕は、僕は、何をやっているんだ。
せっかく必死で、血反吐を吐いてまで書いた大事な大事な渾身の力作達を、あろうことか自分の手で、燃やしてしまうなんて。
よくよくそれらを見る。
破れたように欠けてしまった原稿は、縁が黒く染まっていた。穴だらけになり、しわくちゃになり、灼熱に炙られている。
それでも、僕の作品であろうとしていた。
「――――!!!!」
無我夢中で、手を突っ込んだ。
熱い。
死ぬほど熱い。
歯を食いしばる。
でも。
それでも。
僕の作品だ。
僕の作品を、返せえええええ!!
「はい、これで大丈夫ですよ」
人の良さそうな女性看護師が、僕の両手に包帯を巻いてくれた。
「全く、自分から火の中に手を突っ込むなんて、何やってるんですか」
僕と向かい合って座っている眼鏡でオールバックの中年医師が、呆れ顔でため息交じりにぼやく。
「…すいません」
何だか申し訳ない気持ちになった。
「別に謝ることはないですよ。ただ、次はこんなバカなことしないでくださいね、お大事に」
「…どうもありがとうございました…」
ぞんざいに扱われた。まあ、そうだろう。自分から火の中に手を突っ込むなんて愚挙で、この医師の仕事を余分に増やしたのだ。
薬局で薬をもらって、外に出た。
なんとなく、上を見上げた。
秋の空だ。
暖かくもなく、冷たくもなく、ただ阿呆のように雲一つない青空だ。
風が、強く吹く。
街路樹の枝葉がさわさわと揺れた。
風は、冷めていた。
冷たくもなく、冷えているわけでもなく、ただ冷めていた。
冬が、近い。
根拠があるわけでもなく、ただ直感で、そう思った。