10-6
10-6
書類を差し出す新妻。
「不備がないか、ご確認下さい」
作成に要した時間は、約10分。
書類は10枚以上、図式やかなり専門用語めいた文章も数多くある。
しかし新妻はペンを止める事無く、全てを一人で書き切った。
「提出者の欄が、空欄になってますが」
「屋神大でお願いします。本人の自筆でなくとも結構ですよね」
「ええ」
苦い顔で、ペンを走らせる理事。
それを見届けた屋神や河合達が、小さく拳を固める。
「……問題はありません。書類を受理します」
「ありがとうございます」
「全員への閲覧時間を取りますので、それも含めて今から休憩とします」
理事の宣言に、張りつめていた空気が一気に弾ける。
「すごいじゃない」
いつもより優しく、彼女の肩に手を触れる笹島。
新妻は小さく首を振り、腕を揉み始めた。
「私は話を聞く側だったから、頭の中で色々と整理していたの。だから、覚えていただけ」
「書類は?」
「もしもの時を考えて、一応」
「さすがコンダクター。実戦には強いわね」
「いいわよ、もう」
はにかんで、外へ出ていく新妻。
「三島、付いていってくれ」
「ああ」
巨体がしなやかに動き、音もなく彼女達の後を追う。
「どうなってんだよ、おい」
「何が」
「DDはどこへやったかって聞いてんだ。お前が持ってたんだろ?」
まっすぐに聞く河合。
頬を抑えていた杉下は、スチール製のバッグをテーブルの上に置きそれを開いた。
中は空で、DD以外に用意していた書類や説明用のメモも一切無くなっている。
「殴られている間に、持って行かれた。記憶はないけど、それしか考えられない」
「キーは」
「君が持ってるだろ」
「ああ、そうか」
一人で憮然とする河合。
杉下はあくまで素っ気ない。
「河合、もう止めろ。とにかく採決まで持ち込んだんだから」
「だけどよ、おかしいぜこんなの。みんなが疑ってるって、分かってるか」
「どう思おうと、それは任せる。俺は、俺のやり方でやるよ」
「何ー」
テーブルに手を付き、河合が杉下を睨み付ける。
屋神が止めに入るが、その巨体を支えるだけで精一杯のようだ。
「お、お前一人でどうにか出来るって思ってんのか?今だって新妻さんが書類を作らなかったら、終わってたんだぞ」
「分かってる」
「そ、それにだな。涼代さんが喋ったあの言葉を、聞いてなかったのか?」
「止めて、河合君」
真っ赤な顔で首を振る涼代。
しかし河合は、怒りを抑えない。
拳がテーブルに落ち、その間にあったバッグが大きく歪む。
「みんな真剣なんだよ。気合いを入れてるんだよ。それをなんだ、自分だけ一人違う事やりががって。俺だって、お前の事を心配してだな」
「君がどう思おうと結構。今回の交渉に関する全体の立案は、俺に一任されている。だから、いちいち口出ししないでくれっ」
突然声を荒げる杉下。
一瞬河合が顎を引き、彼を押しとどめていた屋神も呆気に取られる。
「俺だって、この案を通そうと必死にやってきたっ。その事を、とやかく言われる筋合いはない」
「分かってる、だけどっ」
「頑張って文句言われるんじゃ、話にならないっ。採決が始まるまで、俺は外にいるっ」
壊れたバッグを床へ叩き付け、杉下は足早に部屋を出ていった。
部屋に居合わせているのは屋神達だけなので問題はないが、言ってみれば完全な脇狂言となった。
「何だっ、あいつはっ」
「うるさいよ」
「悪かったなっ」
怒鳴って謝った河合は、荒い息を付いて屋神の隣に座った。
「お前、よくそれで生徒会長やれたな。一票、返して欲しいぜ」
「どうせ俺は、猪だよっ」
「分かった。分かったから、落ち着け。杉下も、お前の言いたい事は理解してる。ただ素直な奴じゃないから、上手く言えないんだよ」
「そういう言い方をされると、俺も困る……」
一気に下がる河合のトーン。
それとは対照的に、屋神の疲労がたまっていくように見える。
「大丈夫、大君」
「ああ、なんとか」
「本当に、猪なんだから」
そう評された河合は、「謝ってくる」と言い残し部屋を出ていった。
細やかな性格というより、物事を悔いるタイプらしい。
「1年はどうした」
「隣の部屋で、休んでる。モニター観てるだけじゃ、暇だって」
「投票権が無いんだ、仕方ない。大山か沢辺りに、意見を聞きたいな」
「栄君の取った行動の意味を?」
苦笑して、髪を撫で付ける笹島。
屋神はだるそうに、机の上へと伏せた。
「学校と内通してるのか、それともまだ奥の手を用意してるのか。どちらにしろ、任せるしか無いでしょ」
「分かってる。しかし、どうして俺がこう気を揉まないと駄目なんだ。本当なら、間の……。間は」
「ご飯食べに言ったわ」
先程の行為を悔いているのか、頭を抱えたまま答える涼代。
屋神もそれを聞き、頭を抱える。
「飯食ってる場合か」
「休憩時間は、3時間もあるわ。私達も、行きましょうよ。水葉ちゃんも」
「ええ、そうね」
「はぁ」
やるせないため息を付き、ドアへと向かう屋神。
涼代も、肩を落としたままその後に続く。
そして笹島も、河合の一撃で壊れたスチール製のバッグに首を振り二人を追った。
「何やってんだよ」
別室で、呆然とモニターに見入る塩田。
やや興奮気味の天満と、やや落ち込み気味の中川。
沢と大山は、表情一つ変えない。
「少し、落ち着いたらどうだ」
笑いを含んだ指摘に塩田の顔色が変わる。
「お前には聞いてない」
「分からないなら、騒ぐな」
「何っ」
「塩田君」
彼を軽く制す沢。
その視線が、足を組み冷静に構えている峰山へと向けられる。
「すると君は、状況を理解していると」
「さあな。誰が何をやろうと、俺の知った事じゃない。河合さんと笹島さんも、君らの口車に乗せられて。この先どうなるかって、分かってるのかね」
「あの人達は、それだけ学校や生徒の事を思ってっ」
「自分達が犠牲になると言いたいのか」
限りなく静かな口調。
腰を浮かし掛けてた塩田すら、言葉を失う。
「この後の採決で屋神さん達の案に賛成すれば、それは学校への背任となる。規則的な問題ではなく、道義的に。勿論学校も、それなりのペナルティは課すだろう」
「あなたは、何も忠告しないの」
険しい眼差しを送る中川。
「意見はした。でも、決めるのは本人だ。人に流される程、軽い人達じゃない」
「褒めてるの、けなしてるの?」
「さあね。今言った通り、俺には関係ない。自分の立場さえ守られるのなら、それで」
「それでもあなたは、この学校の生徒なのっ」
「本音を言ったまでだ。それとも自己犠牲を貫いて、退学になれとでも?逆に聞くが、その勇気を君は持ってるのか」
視線を返す峰山。
今までの強気な表情を消し、口ごもる中川。
反論は簡単でも、その言葉の持つ意味は大きい。
そして、本当の事を語るのはさらに。
「その辺りで止めたらどうだい。結論が出る話でもない」
「人がいいな、フリーガーディアンの割には」
「やっと出来た仲間だからね」
小声で漏らす沢。
顔を伏せ掛けていた中川が、何かを言いかける。
しかし彼はそれを制して、峰山の正面に立った。
「この先の結果は、どう予想してる」
「お前と同じだろ」
「分かった。すると君が、重要になってくる訳だ」
「かもな。……採決を観るまでもないから、俺は帰る」
薄く笑い、沢の隣を抜けて部屋を出ていく。
「峰山さん」
「お前は残って、最後まで見るんだ」
「でも」
「いいから。そいつの事、頼んだぞ」
峰山は振り返りもせず、その姿を消した。
そして残された小泉は、不満そうに彼が座っていた椅子を睨む。
「全く。本当にどうなるんでしょうね」
「さあ」
合わせた視線をすぐに逸らす沢と大山。
お互い表情は、翳りを帯びている。
「あんな人の、どこがいいの」
「峰山さんは、立派な人なんだよ。一見無愛想だけど、後輩思いで優しくて」
懸命に擁護する小泉。
中川はため息を付いて、その足を組んだ。
艶やかな太股が上の方までのぞくが、誰も何も言わない。
「……俺には関係ない、だって。ただの、冷血漢じゃない」
一応、峰山の真似をしたようだ。
しかし返ってきたのは沈黙だけで、すぐに咳払いをする。
「中川さんはともかく、みんなはあの人の事を知らないからそう思うだけだよ。ずっと側にいれば、峰山さんの良さは必ず分かる」
「ベッドの中までですか」
「そ、それはその」
「失礼。言い過ぎでした」
天満に頭をはたかれる大山。
ただ小泉も否定はしない。
「どうでもいい、あんな奴」
鼻を鳴らした塩田に、小泉が嫌そうな視線を注ぐ。
「自分こそ、屋神さんとはどうなの」
「お、お前らと一緒にするな。俺達はただの先輩後輩で、そういうのじゃないっ」
「それこそ、どうでもいい」
可愛らしい顔を横へ背ける小泉。
その子供っぽい仕草に、中川や天満が思わず頬を緩める。
「可愛い顔してるのに、本当どうしてあんな子と」
「もったいないというか、人生無駄にしてるというか。それこそ、この先どうするかって話じゃないのかな」
しかし、酷評も付け加えられる。
「ぼ、僕の事はいいから。それよりも、河合さんと笹島さんは」
「任せるしかないでしょう」
「ああ。峰山君の言った通り、僕らにはそうするしかない」
苦さを含んだ表情で語る大山と沢。
他の者は、訝しげにそんな二人の様子を見つめている。
その言葉が持つ意味に、気付く事もなく……。
再開される委員会。
集まっているのは議決権がある2年と学校関係者のみ。
塩田達は、別室でモニターをチェックしている。
休憩を挟んだとはいえ、場の空気は緊張と熱気をはらんでいる。
これから起こる出来事が持つ影響力の大きさを考えれば、それも当然だろう。
「全員、両案の趣旨は理解出来たとの承諾を受けています。よって、早速ですが採決に入ります」
やや震える声で宣言する理事。
一気に高まる緊迫感。
微かな物音すら聞こえず、全ての神経が次の一言へと向けられる。
「ただいま提出されました改正案Bに賛成の方は挙手を、当初の改正案に賛成の方はそのままでいて下さい。よろしいですか」
「はい」
低い全員の唱和。
理事は小さく息を付き、その顔を上げた。
「それでは、お願いします」
一斉に手を挙げる屋神達。
反対側にいる河合と笹島も。
中立派の生徒達も、3名が挙手をしている。
「30秒後を、決定の時間とします。態度を変えられる方は、その間に」
理事の刺すような視線が、一人一人へと向けられる。
すると河合達の隣にいた管理案賛成派の生徒達が、おずおずと手を下へ下ろした。
「お前ら」
挙げていた手を握り締め、かろうじて堪える河合。
彼等は誰一人、彼と視線を合わせない。
屋神達6票、河合と笹島で2票、中立派生徒3票。
全員で18票なので、過半数は越えている。
「おい」
独り言か、小さな声を挙げる屋神。
中立派の生徒が、一人手を下ろしたのだ。
それでも屋神達は10票、学校側は8票。
勝ちは変わらない。
しかし。
もう一人の手が下がる。
一気に起こるどよめき。
しかし本人は何も言わず、そのまま腕を組んだ。
9票対9票。
数は同数となった。
「……そこまで。本案の採決は同数。よって規則通り、委員長の裁定に委ねるものとします」
理事の余裕に満ちた宣言が響き渡る。
そして委員長とは、他ならぬ彼自身だ。
「審議未了にて、両案は廃案。よって委員会は解散」
どよめく生徒達を目線で抑え込み、彼はテーブルに並んでいた書類を片付け出した。
「今日までご苦労さまでした。両方とも良い案でしたよ。本当、廃案にするのは惜しいくらいに」
屋神達の案を潰せたのが余程嬉しいのか、重い雰囲気にかまわず話し続ける理事。
しかし生徒達の視線は、彼になど向いていない。
「どうして管理案に賛成した」
恫喝でも脅してもない、淡々とした口調。
そんな屋神の視線は、杉下を射殺すような鋭さに満ちている。
またそれは、全員の疑問だろう。
だが杉下は彼等に弁解する事もなく、席を立ち部屋の前へと歩いていった。
「委員長……。いえ、理事。少し、お話が」
「何でしょうか。もう採決は決定しましたから、どうしようと覆りませんよ」
「ええ、そうですね」
ゆっくりと頷く神経質そうな顔。
笑顔を浮かべながら。
「両案は廃案。でも規則変更を話し合う委員会は、いずれ開かれるんですよね」
「ええ。早ければ来週からでも、立ち上げます」
「分かりました。するとその際構成されるメンバーは」
「今と変わらないでしょう。学校と生徒の代表というスキームは。ここにいるメンバーが選抜されるかどうかまでは、分かりませんが」
今度こそ賛成派生徒だけで固めるという表情。
声に出して笑いこそしないが、鼻歌でも飛び出しそうな勢いだ。
「しかし規則変更の責任者は、あなたです。誰を選抜するかも、全て一任されているんでしょう」
「ええ。一人か二人くらいなら、参加してもらってもかまいませんよ。例えば全体を21人にして、今度は同数にならないようにしますが」
「ありがとうございます」
理事の皮肉に、うっそりと頭を下げる杉下。
その口元が、歩み去ろうとしていた理事の耳元へ寄せられる。
「学校との直接交渉を、俺達は要求したいんですが」
「無理な事は言わないで下さい。忙しいので、私はこの辺で」
「話は終わってませんよ」
くすっと笑い、手にしていたバッグから何かを取り出す。
「お、お前っ」
小声で杉下を怒鳴る理事。
しかし周りの目を気にしてか、表情は柔らかなままだ。
「今日は暑いから、日差しを避けようかと思って」
平然とした顔で、そう言ってのける杉下。
青いキャップを、目深に被りながら。
「そんな脅しには乗らない。第一目撃者も証拠もない」
「1年の塩田君。彼が俺の後を付けていた。エージェントの顔は見ていないが、俺が学校側と接触していたという事実があればいい。何なら彼を呼んで、一言話させようか」
「くっ……。会合の時間は、後で連絡する。ただし、その時後悔しても遅いからな」
「今さら、何を」
足早に去っていく理事と、キャップを取りながらそれを見送る杉下。
ただならぬ彼等の様子に、屋神達が駆け寄ってくる。
「どういう事だ」
「学校との直接交渉に持ち込んだ」
疲れ切ったため息をもらした杉下は、顔を伏せて近くの椅子に座り込んだ。
完全に憔悴しきっていて、精も紺も尽き果てたという様子。
本人が言っていたように、この手の交渉は相当苦手なのだろう。
「後で向こうから連絡が来るから。とにかく、俺は少し休む」
「分かった。……中川か。ああ、杉下を頼む」
端末をしまい、そっと彼の肩に触れる屋神。
他の者も、一人ずつその肩に手を添える。
言葉ではない、その思いを伝えるために。
「理由は、今は無理か」
「沢君か大山君なら、多分分かってる。後は、峰山君」
「ああ」
部屋に駆け込んで来るや、青白い顔で杉下に声を掛ける中川。
「心配ない。……一応頑張った事だし」
そう呟き、屋神は床へ腰を下ろして杉下へ背を向けた。
「乗れ」
「恥ずかしいよ」
「いいから」
「全く」
顔を赤らめつつ、それでもその大きな背中に手を回す杉下。
屋神は難なく立ち上がり、軽い足取りでドアへと向かった。
「三島、後は頼む」
「俺に頼むな」
「はは。じゃあ、河合頼むぞ」
「ああ」
背負った杉下と何かをささやき合いながら、屋神は部屋を後にした。
中川も心配そうにその後を追う。
「さて、俺達も行くか。ええ、どうなってんだ、今の。怒っていいのか喜んでいいのか、訳分かんないぜ」
そして室内には、河合の豪快な笑い声が響き渡った……。
一般教棟ラウンジ。
大きめのテーブルを囲む一同。
杉下と中川、そして屋神の姿はないが。
「で、結局どういう事なんだ」
全員を代表する形で尋ねる河合。
大山は河合と視線を交わし、小さく頷いた。
「何らかの圧力を掛けて、学校側を譲歩させたのでしょう」
「圧力だ?それであの理事は、直接交渉を認めたっていうのか」
「ええ。ただ、カードを切るのが早過ぎましたね」
淡々と語る大山。
「そこまでいい手があるなら、最後の最後まで取っておくべきでした」
「どういう意味」
「今回の目的は管理案の撤廃もしくは改正案の採用であり、学校との直接交渉ではありません。つまりその目的を達する前に使ったのでは、という意味です」
「そこまで栄君に責任を押しつけるのは酷よ」
髪をかき上げた笹島が、ため息を付いてテーブルへ頬杖を付く。
苛立ちとも疲れとも取れない表情。
先程までの楽しげな様子は、まるでない。
「でも、杉下さんは何をして交渉したのかな」
おずおずと尋ねる天満。
視線を伏せる塩田を、大山がそれとなく視界に収める。
「私達には言えないような事でしょうね。でなければ、少なくとも屋神さんには話を通してますよ」
「危ない事?」
「かもしれません。実際どうなのかは、分かりませんが」
「全く、何をやってるんだか」
小声で呟く涼代。
新妻は静かに、物憂げな大山の横顔を見つめている。
辺りに漂っていく、重苦しい空気。
「……それはともかく。杉下はどうして、採決に反対したんだ。あのままで行けば、改正案が可決されただろ」
「ええ。ただし採決に加わったのは、生徒のみ。仮に可決しても学校側が反対すれば、委員会自体を否定されかねません。逆に管理案が可決されれば、私達に覆す権限はない。ですから委員長裁定による、両案廃案を狙ったんでしょう」
「DDディスクを盗られたとか襲われたのは」
「そういった偶然を、利用したんじゃないですか」
曖昧な答え。
微かに沢の口元が緩むが、殆どの者は気付いていない。
「どちらにしろ、杉下さんの思惑通りになりました。多少の問題は、残りましたけれどね」
「何とかするさ。なあ、みんな」
「だと、いいんですが……」
豪快に笑う河合と、それに合わせて上がる笑い声。
しかし大山と沢に笑顔が戻る事は無かった……。
カーテンの降りた、薄暗い部屋。
ベッドに横たわっていた少年は、額を抑えたまま端末を手に取った。
「入ってくれ」
聞こえてくる小さな足音。
規則正しい、正確なリズム。
歩いている事を相手に悟らせているようにも思える。
「体調は」
「病人じゃないんだ。少し休めば、良くなる」
「そう」
薄く笑い、ペットボトルを放る沢。
それを受け取った杉下は、体を起こし一口含んだ。
「交渉の日時が決まった。今日の3時、A棟の理事会議室で行う」
「3時って、もうすぐじゃないか。分かった、俺も今用意……」
ほっそりとした沢の手が、杉下の肩に置かれる。
視線を合わせる両者。
鋭さも熱さもない。
お互いを見つめ合う眼差し。
「あなたは休んでいればいい。その代わりに、僕が出席する」
「護衛しかやらないんだろ」
「気が変わった」
しかし杉下は沢の手を払い、ベッドサイドに降り立った。
「厚意は嬉しいけど、ここは俺が出る」
「大山君が言ってたよ。あそこでカードを切るべきでは無かったって」
「金の交渉は得意でも、人を追い込む事は苦手なんだ。とにかく、邪魔しないでくれ」
「そうも行かなくてね」
鈍い音と呻き声。
鳩尾を押さえ、ベッドへと転がる杉下。
沢は手首を押さえ、彼を見下ろした。
「ここであなたを行かせる訳にはいかない」
「じゃ、じゃあ、他の人間がどうなってもいいって言うのか」
「彼等も、覚悟はしてるよ。分かってるだろ、杉下さんも」
「だからこそ、俺も……」
壁が音を立てる。
二度、三度と。
しかし沢は止めない。
「君は、俺にどうしろと言うんだ……」
「要となるのは屋神さん。その補佐が涼代さんと三島さん。そして実行を新妻さん、企画をあなた。間さんはともかくとして、誰一人欠けても駄目なんだよ」
「河合君と笹島さんはどうなってもいいって言うのかっ」
壁を叩き、激しく怒鳴る杉下。
今までに見せた事もない激情。
それでも沢は、冷静な態度を崩さない。
「僕も努力はする。ただ当人達は、どう思ってるのかまでは知らない」
「俺なんかが残るより、あの二人の方が……」
「いつかみんな、学校を後にするんだ。そして別れの時が来る。僕も、そうであるように」
「沢君」
杉下の言葉を振り払うかのように、ドアへと向かう沢。
やがて微かな、ドアの閉まる音が届いてくる。
静まりかえる室内。
一人残された杉下は、血の滲んだ拳をティッシュで拭った。
「これで俺は助かった。熱い男の演技も、疲れるな」
薄い笑顔。
乾いた笑い声が漏れる。
再び壁が音を立てる。
飛び散る鮮血。
杉下は血まみれになった拳を抑え、一人笑い続けた……。
整った調度品と、全面のガラス張り。
そこからの眺望は見事の一言で、学内は勿論熱田神宮を眼下に収める事が出来る。
足の長い絨毯と体が埋まりそうなソファーに収まった一同は、冷え始めたコーヒーを前に黙りこくっていた。
居合わせているのは2年のみ。
屋神と河合の説得より、1年の面々は別室で待機している。
唯一いるのは沢。そして欠けているのは、杉下だ。
何の前触れもなく小さなドアが開き、青いスーツ姿の女性が入ってくる。
30前だろうか。
背の高い、スレンダーなプロポーション。
整った艶のある顔立ちで、上がり気味の瞳は彼女に厳しさを印象づける。
肩口辺りのセミロングをなびかせ、全面ガラス張りの壁際を背にする女性。
「初めまして。理事長の高嶋瞳よ」
一斉に頭を下げる屋神達。
高嶋はゆとりのある笑顔を浮かべ、彼等に座るよう促した。
そして自分も、正面に当たる一人掛けのソファーへと腰を下ろす。
「大まかな経緯は、担当の理事から聞いたわ。彼等が作成した、規則の変更に反対してるそうね」
良く通る、その顔に似合った綺麗な声。
「他校で施行したモデル案で学生が不当な扱いを受け、それに対する抗議がきっかけ。間違いないかしら」
「ええ。その通りです」
静かに答える屋神。
その顔には笑顔と、高嶋にも負けない程の厳しさが感じられる。
「レポートも、口頭での報告も受けてる。処分は撤回されて、斡旋や補償金もされてるんでしょ。これ以上、何を揉めるの」
「本気で言ってるんですか」
拳を固めた屋神を、怪訝そうにうかがう高嶋。
彼等を挑発している素振りには見えず、本心からそう言っているようだ。
「金や物で解決すればいいと、理事長はおっしゃるんですか」
「アフターケアと言ってくれる。カウンセラーも派遣しているし、それ以外のクレームも随時受け付けるよう指示は出ているはずよ。それ以外に、何を望んでるの」
「理屈じゃなくて、気持ちを問題にしてるんですけどね。俺達は」
拳を押し付けられたテーブルがおかしな音を立てるが、高嶋が気にした様子はない。
凛とした態度を崩さず、彼や他の者達の様子を見つめている。
「処分は撤回して、アフターケアも万全。そういった問題点も改善して、今回の規則変更案は作られてるのよ。一体何が問題だっていうの」
「……問題なのは規則じゃなくて人間だ。それが、今分かりましたよ」
吐き捨てるように呟く屋神。
高嶋は肩をすくめ、他の者へ尋ねるような視線を送った。
「僕としては、生徒を管理してその後どうするかに興味があるけれど」
「沢義人君。教育庁から派遣された、特別地方警備担当監査官。私の学校運営が、教育庁では問題になってる?」
「派遣の目的は警備状況の視察で、学校運営とは関係ありません」
「私の所へも、そういう資料が来てる。でもあなたは、生徒達と一緒に行動してるじゃない。高校生だし、遊びたいのも分かるけれど」
屈託無い笑い声。
しかし笑っているのは彼女だけで、それ以外の誰も口元さえ緩めようとはしない。
「それで、何か問題はあった?」
「襲われたのが数度。学内に持ち込み禁止となっている武器でも、襲われました」
「そう。じゃあ警備会社に連絡して、夏休み明けからは警備をそっちに委託するわ。ガードマンとかいって生徒がやってるそうだけど、学生は勉強をしないとね」
「それには及ばない。学内の自治は、生徒が維持する。警備会社への委託は断ると、先日も回答書を提出した」
「生徒会長。それはかまわないけれど、生徒が生徒を取り締まるのも問題だと思うわよ。ある意味、学校の権限強化以上に」
冗談めいて指摘する高嶋。
だがそれがある程度の的を射ているのは、室内にいる全員が分かっているのだろう。
気をよくした感じで表情を和らげる高嶋に、河合は大きく首を振った。
「問題だろうと何だろうと、譲れない事がある。生徒の事は、生徒が決めるんだ」
力強い、誰の胸にも届く言葉。
無表情で聞き入っていた新妻までもが、頬を薄く染めて小さく頷いた。
「そう。なら好きにすればいいわ。でも理事達は必ず規則改正をすると、私に報告書を上げているけれど」
「その際には生徒を参加させるとの確約を、担当理事から取ってある」
「ご自由に。でもあなた、その時までいられる?教育庁から戻るように連絡が入ってるわよ」
鋭い笑顔を浮かべる高嶋。
しかし全員の視線を受けた沢は、くすりともせず彼女を見返した。
「僕の仕事はまだ終わってない。それが済むまでは、ここに残る」
「命令が下っても?解任されても知らないわよ」
「特別地方警備担当監査官は、重大な過失が認められない限り解任は出来ない。僕から辞めるといわない限り、資格は失われない」
「じゃあ、それも好きにして。規則を守れば報償が出る、悪い事をすれば罰せられる。ただそれだけの事じゃない。」
その言葉通りの顔をする高嶋。
屋神達を脅したり、懐柔しようとする素振りはまるでない。
自分の意見が正しいと信じて疑わない姿勢以外は。
「彼等は何度か襲われてるんですが、心当たりは」
「さあ。先走った理事か職員が、勝手にやってるんじゃないかしら。私はそんな指示を出してないわよ」
「教唆もしてませんか」
「勿論。規則改正を申し出てきたのは理事達で、私は直接関与してないもの。それに指示するくらいなら、私の権限であなた達を退学にすれば済む事よ」
ゆとりある、余裕な態度。
大人の女性が持つ、落ち着いた佇まい。
屋神も、涼代も口を開かない。
気圧された訳ではないだろうが、言葉が見つからないという様子だ。
彼女の持つ自信と、確かに感じられるその力。
ここでどう言おうと何をしようと、一つとして変わりはしない。
全ての権限は彼女にあり、またそれを譲る気配はない。
彼女が一言言えば全てが意のままになり、結局自分達は従う他無い。
高校生と理事長。
歴然たる力の差。
たわいもない交渉術やケンカの腕など意味をなさない、大きな隔たり。
地位も権力も財力も、何も及ばない。
経験という面においても、また。
杉下の捨て身の策も無駄になった。
そんなあきらめのムードが漂い、ため息とやるせない視線が交わされる。
しかし、沢はかまわず言葉を続けた。
「規則の変更に、生徒の意見を聞く気はないと」
「そうは言わない。ただ、あなた達の提出してきた案。あれの採用は出来ないわ。少し見たけれど、生徒に都合が良過ぎるもの。学校の権限を排除して、自分達だけで都合良くやろうなんて。そうは思わない?」
「今まで学校の権限が大き過ぎたのでは」
「世間知らずの高校生が、権限を振り回さないようにするためよ。子供は勉強をしてればいいの。それ以外の事は大人に任せてね」
艶を含んだ笑い声。
沢もそれに合わせて、小さく笑う。
「大人の、学校の言いなりになっていればいいという意味でですか」
「極端に物事を捉えないで。それぞれの役割をこなせばいいと言ってるの。学校運営はそういう教育を受けた人間にがするから、あなた達はまず勉強をしてなさい。自治っていうけれど、そんな事していたら授業に出られないじゃない」
「オンラインの授業やレポートで代用すれば済みます。他校では、そういうケースもあります」
「片手間に学内の自治を保ち、片手間に勉強?成績悪化の言い訳にはいいかもしれないけれど、実際はどっちも物に出来ないだけじゃない」
鼻で笑う高嶋。
沢はため息を付き、背もたれへ体を預けた。
「片手間で学校に泊まってる人間もいる。徹夜でレポートを書いてる奴もいる。そういう生徒を、どれだけ知ってるんだ」
指を組み、視線をテーブルに落とし。
低く、小さく語る。
「確かにそれで、いい点を取るのは難しい。授業への出席もままならない。でもな、そういう連中だっているんだ」
「何が言いたいの、生徒会長」
「実際に学校を支えてるのは、そいつらだ。学校のために自分を犠牲にして、頑張ってるのは。誰よりも、学校を想ってるのはっ」
会議室に響く河合の怒号。
屋神達が驚いた様子はない。
顔色一つ変えず、その言葉に耳を傾けている。
「あんたの言う事は確かに正しいよ。俺もそういう考えで、学校の案に賛成した。でも、間違ってる」
「言ってる事が矛盾してないかしら」
「ああ、そうだな。でもあんたは間違ってる」
はっきりと言い切る河合。
高嶋は鋭く彼を睨み付け、端末を操作した。
テーブル上に現れる疑似ディスプレイ。
そこに表示される校則と生徒会規則。
「理事長へのリコールなんて、規則にはないわよ」
「だから何だ。退学にするつもりか」
「お望みなら」
厳しい表情で対峙する両者。
熱気や敵意とは違う、氷を間に挟んだような遠く冷たい距離。
お互いを理解し合う要素は、微かにも感じられない。
「学生は勉強だけしていればいいのよ。それ以外の事は、大人がするわ」
「俺達は動物じゃない。自分の事は、自分で責任を持つ」
「あなたが、でしょ。他の生徒に聞いても、同じ事を言うと思う?」
鋭さを湛えた厳しい眼差し。
河合は唇を噛みしめ、それを受け止める。
「自分一人で突っ走ってるだけじゃなくて。その他大勢の学生は、殆どが学校の案に賛成するわ。普通にしていれば報償を受け、就職や進学も有利になるんだもの」
「俺が間違ってると言いたいのか」
「支持されないと言ってるのよ。学校のため、生徒のため。そんな事を考えてるのは一部の人間だけ。それ以外は、自分さえよければどうでも良いのよ」
「だとしてもだ。学校がその案を通そうとする限り、俺は反対に回る」
力強く言い切る河合。
しかし高嶋は薄く微笑んで、その長い足を組んだ。
「ご自由に。それであなたには、誰が従うというの。今回反対に回った人間を除いて。説得した生徒会の幹部やそれ以外の仲間も、あっさりと裏切ったそうじゃない」
「そういう奴も、たまにはいる」
「世の中は、そういう人間ばかりなのよ。理想や夢を持ってそれを実現しようなんて人は、誰にも相手にされないわ。あなた達のようにね」
「だから何だっていうんだ。俺は何があっても、考え方を変えない」
河合の手が、スラックスのポケットへと入る。
「どういう意味」
「生徒会長を辞任する。理由は……、心労でいい。学校と揉めたと一般生徒に知れたら、混乱の元だ」
「取り引きしたいの?」
「ああ。多くは望まない」
静かな一言。
屋神も、涼代も、誰も口を挟まない。
顔を伏せ、彼の言葉に聞き入っている。
「確かに生徒会長と理事長が対立するとなれば、多少は困るわね。いいでしょう、改正案は撤回。次回の規則変更を制定する委員会は、来年度にしましょう。そう、理事達に伝える」
「再来年度でお願いします」
テーブルに置かれる、カード型のID。
笹島の薄く赤い瞳が、高嶋を捉える。
「いいわ。規則変更に関しては、再来年度以降。……そうね、いっその事あなた達の考えた改正案を夏休み明けから施行しましょうか」
「その条件は」
「あなた達の辞任だけで結構よ。生徒会長があれ程言い切ったんだもの。本当にその通り出来るかどうか、私も興味ある」
やんわりとその視線を跳ね返す高嶋。
二人のカードは、彼女の手の中にある。
「詳細なデータと方法を、DDで提出して。生徒会規則ではなく、校則として改正するわ」
「運営が上手くいかなければ私達の負け、ですか」
「そうならないよう、徹夜でも泊まり込みでもして頂戴。さっき言っていたオンライン授業と出席免除も考慮してあげる。ただしそれを、成績悪化の理由にはしないでね」
「ええ。来週までには、提出します」
丁寧に頭を下げる笹島。
他の者も、河合を除いてそれに倣う。
「じゃあ、その時にまた会いましょう。本当、楽しみだわ」
特別教棟を後にし、ひとかたまりになって歩く一同。
誰もがそれぞれの思惑に捉えられているようで、会話は殆ど聞かれない。
そこから少し離れて並ぶ、屋神と沢。
「どうして、理事長を挑発した」
「交渉しようとしただけだよ」
「そのために、河合と笹島は生徒会長と予算局長を辞任した。任期を勤め上げれば、草薙グループへの就職出来るはずだったのに。それをあいつらは、ふいにしたんだぞ」
語気がやや強くなるが、沢は平然とした態度を崩さない。
「僕は君達を守るために、ここへやってきた」
「河合や笹島は入らないっていうのか」
「人にはそれぞれ役割があるっていう意味さ。気にくわないなら、僕は帰ってもかまわない」
「……お前が何を考えてるのかは知らない。でもな、今回は頭に来たぜ」
低いささやき。
苦さを感じさせる顔が、豪快に笑っている河合と朗らかに笑っている笹島へと向けられる。
「あいつらが納得済みで辞任したのは、俺だって分かる。でもお前は、それを止める事も出来たはずだ」
「終わったんだよ、屋神さん。それに杉下さんにも言ったけど、僕だっていつまでもここにいる訳じゃない」
「その任務を成し遂げるためには、誰かを犠牲にしてもいいって言うのか。それがフリーガーディアンのやり方か」
「間違ってるかい、僕は」
いつになく厳しい顔で屋神を見上げる沢。
頬はうっすらと赤く、表情に普段の冷静はない。
震える拳は、強い力で体に引きつけられている。
「全員が幸せになる。誰一人悲しまないで済む。そんな都合のいい話を期待していたのか」
「なんだと」
「自分の意志を押し通すのは、そんなにたやすい物じゃない。誰かが笑えば、誰かが泣く。幸せの量は相対的なんだよ」
苦しげに漏れる声。
「それに理事長が言っていた事も一理ある。こうして君達が頑張っても、一般生徒には絶対感謝されない。もし学校案を潰したのが悟られたら、余計な事をするなと陰口をたたかれるのが落ちさ」
「人を信用出来ないのか」
「酒を酌み交わしている後ろから警棒を振り下ろされて、誰を信用する?僕を呼んだはずの学生に石を投げられて、まだ笑っていろと?」
「沢……」
しかし屋神は伸ばしかけた手を戻し、それを自分の額へと当てた。
夏の強い日差しがわずかに遮られ、彼の視線を消す。
「俺達も、信用出来ないのか」
応えは返らない。
笑顔も、何もかも。
「任務は果たす。そのために来たんだから」
「どういう手段を使おうと?」
「ああ。一人、孤独に頑張ってる人もいる。例えどう思われようと、僕は自分の道を貫き通す」
矛盾を含んだ、沢の言葉。
しかし屋神は何も言わず、足を速めた。
「お前を呼んだのは俺だ。何をしようと、その責任は俺が取る」
「無理はしなくていいよ」
「後輩が、生意気な口聞くな」
鼻で笑い、先を行く屋神。
一人残された沢は空を見上げ、降り注ぐ夏の日差しを受け止めた。
身を焦がす、心までも焦がすような強烈な熱風。
揺らめく陽炎の向こうには、屋神達の姿がある。
だが顔を戻した沢の視線は、その先へと向いていた。
遠い、彼方へと……。
「俺に、何か」
人気のない公園の片隅。
常用樹の木々が周りを取り囲んでいて、人目を避けるには都合のいい場所となっている。
「話をしたいと思って。ほら。君も来年度はSDCの代表になるっていうから」
「だから」
素っ気ない口調で返す三島。
彼と向き合っていた半袖のワイシャツ姿の男は、気圧されたように顔を逸らした。
「わざわざ呼び出して済まなかったと、僕も思ってる。取りあえずその前祝いでもないけれど、今夜……」
「予定がある」
一言で切って捨てる。
そこに付け入る余裕は、みじんにも感じられない。
「だ、だったらカードでもどうかな。限度額一杯まで使えるし、返済なんて事は言わない。僕の経費として落とすから」
「必要ない」
それ以上は無いという拒絶。
しかも無愛想な表情。
これだけの巨体でそうされては、言い返しようもないだろう。
「その金は、杉下に渡したらどうだ。改正案のDDを渡した報酬として。規則改正後はSDCも重要だが、予算局の方がもっと重要だろう」
「え、ええ?」
「あいつが学校と内通しようと、どうでもいい。それを公にする気もない」
いきなり核心を突く台詞。
男は面食らった表情で、訥々と語る三島を見上げている。
彼自身小柄ではないのだが、前にいる男が大き過ぎる。
その体も、存在感も、人間としても。
「杉下は俺達の仲間だ。だから何があっても、俺はあいつを信じる。そして、守ってみせる」
「な、なにを」
「取引には応じない。そう言ったんだ」
一歩前に出る三島。
それだけで男は、背を向けて走り出した。
手にしていたカードが落ち、三島の足元へと転がってくる。
「拾わないのかい」
「そこまで金に困ってはいない」
かかとでカードを叩き割った三島は、素っ気ない顔付きのまま後ろを振り返った。
「俺を監視しても、意味はないと思うが」
「たまたまだよ。学校側の動きを探っていたら、丁度ね。他の人間にも接触してるようだけど、みんな断ったよ。ストイックというか、真面目というか。勿論、杉下さんを除いて」
「あいつにはあいつの考えがあるんだろう。それと、沢」
真剣みを帯びる三島の顔。
沢もそれとなく、姿勢を正す。
「俺がさっき口にした事は、誰にも言うな」
「杉下さんを信じるのが、そんなに恥ずかしいのかな」
「俺の柄じゃない……」
微かに赤らむ頬と、緩む口元。
沢もまた。
夏の日差しを遮る葉々。
そこを抜ける風は、涼しげで心地いい。
そして二人の表情もまた……。
「俺に付き合っていても、面白くないと思うが」
「自分の存在を知らない訳じゃないだろ。草薙高校最強にして、非公式ながら総合格闘技オープントーナメント高校生部門優勝。各団体からも、引く手あまた」
「たまたま勝てただけだ」
「プロ相手にかい。いくら向こうも高校生とはいえ、それで生きている人間だ。しかも殆どの試合が、1分も掛かっていない。さすがは、熊だね」
冗談めいた沢の口調に、無言で応える三島。
木々の影がその顔に落ち、表情は読み取りにくい。
「あなたがいなくなると、色々困る」
「俺は腕力だけの男だ。代わりは屋神でも塩田でも務まる。人数が足りないなら、他の人間を連れてくればいい」
「彼等も確かに強いけれど、あなたは二桁レベルが違う。そして、その役割も」
風が、木々を抜ける。
葉が、揺れる。
「屋神さんは全体の掌握。塩田君はまだ、何をする訳でもない。彼はこれからの人だよ」
「すると俺は」
「学校最強の男が意見を言えば、それに従う者も当然出てくる。その気になれば学校全体を束ねる事だって、容易に出来る。あなたは自分で思っている以上に、大きな存在なんだ」
「そんな気はないが」
「あろうとなかろうと、影響力は理解してるだろ。さっきのように、それを利用しがたる人もいる」
苦笑する沢。
三島も、微かに口元を緩める。
「それで、俺に何をしろと」
「最後まで、見届けて欲しい。例え、何があろうと」
「どういう事だ」
遠くで聞こえる蝉の声。
アブラゼミではなく、ツクツクボウシのようだ。
そうして夏も、過ぎていく。
「さっき言った通り、あなたの存在は大きい。その力を、次の人達に……」
「まだこれからだ」
「そうだね。でも、今の言葉を覚えてくれるかな」
「……分かった」
静かな、小さな応え。
葉々を過ぎた木漏れ日が、彼等に降り注ぐ。
夏から秋への季節。
焼け付く様な熱さは変わらない。
それでも季節は移り行く。
人も、また。




