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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第10話(第1次抗争編) ~過去編・屋神・塩田他メイン~
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     10-5




 男子寮の一角にある、ある一室。

 通常はサークルの会合などに使われる部屋で、大きなテーブルと椅子が備わっている。

 普段なら楽しげな会話や、楽器の奏でる音楽が聞こえてくるのだろう。

「……1年は」

「今回の委員会で投票権を持つのは、俺達2年だけだ。いなくても、かまわないだろう」

「連中に責任が及ばないように、じゃないのか」

 苦笑して、書類の束をテーブルへ置く河合。

 屋神は鼻を鳴らし、手の中で端末を転がした。

「一応会話は録音して、連中にも聞かせる。それは、かまわないな」

「ええ。私達も、そうさせてもらうわ」

 艶のある笑みを浮かべ、自分の端末をテーブルへと置く笹島。

「お互い言質を取り合うという事でもある。成果も、その責任も」

「ああ」

 屋神と河合は重々しく頷き合い、テーブル越しに握手を交わした。

 本来なら間の役目なのだろうが、当人を含め疑問を呈する者は誰もいない。


「栄君は、何か言いたげね」

「別に。総意には従うし、合意出来るよう努力もする。ただ、俺なりの保険はいくつか掛けさせてもらう」

「ご自由に」

 大きな瞳で、からかうように杉下を捉える笹島。

 その手がふくよかな胸元で妖しく動き、微かな吐息が漏れる。

「この程度には、引っかからないって?」

「そこまで俺は純真じゃない。君の魅力にも、そのトリックにもね」

「可愛げが無い事」

「大体笹島さんが魔女と呼ばれるのは、今程度の事ではないから」

 意味ありげにささやく杉下。

 笹島は何も答えようとせず、綺麗な曲線を描く顎に手を当てて彼を見据えている。

「まあまあ。お互い、もう少し穏やかにね」

「涼代の言う通りだ。杉下、抑えろ」

「分かってる」

 軽く手を挙げ、その意志を示す。

 ただ表情は硬く、彼の心を読みとるまでには至らない。

「そっちは、相変わらず無口だな。らしいけどよ」

 豪快に笑う河合。

 指摘された三島は、それでも黙って腕を組んでいる。

「あなたも、現場じゃないと気が乗らない?」

「私の意見より、みんなの話の方が有意義だと思ってるだけよ」

 小さく首を振る新妻。

 静かな、小川のせせらぎのような声。

 笹島はそれ以上話を踏み込まず、河合へと目線で合図を送った。


「という訳で、このメンバーで妥協案を作成する。投票権を持つのは全部で18名。おまえらが6名。俺達も、ここにいない連中を含めて6名。後は一応中立として学校が選んだ生徒が6名。結局俺達とお前らが組めば12名。仮に脱落者が出ても、ま何とかなる数だ」

「ああ。切り崩しに合う前に案を作成して、一気に可決へ持ち込む。杉下、採決を早める方法は」

「動議で過半数の賛成があれば、可決される。今言った通りの人数なら、問題ない」

「よし。この土日で作成。月曜日の委員会で採決。いいな、河合」

「ああ」

 力強く頷く河合、そして笹島。

 杉下の硬い表情と間の嬉しそうな表情の中、議論が始まった……。



「面白くないなー。2年でだけ決めて」

「私達には投票権が無いんだから、仕方ないわよ」

「だけど、仲間だぜ。仲間」 

 見慣れないメーカーのジュースをがぶ飲みする塩田。

 あまり美味しくはないようだが、捨てる程ではないらしく嫌そうな顔で飲んでいる。

「杉下さんは、反対なんだろ」

「そこまではいかないけど、自分の案が採用されないのは面白くないみたい。でも独善的という訳じゃなくて、結局は学校の案も多少は飲む事になるじゃない。それを心配してるのよ」

 そう答える中川だが、彼女の表情はどこか頼りない。

 自分で言った事を完全には信じ切れないようにも見える。

 学校近くのボーリング場。

 塩田はTシャツにジーンズ、中川も淡いピンクのTシャツに赤のショートスカートという出で立ち。

 しかしお互い、ボーリングを楽しんでいる顔ではない。


「ははっ」

「天満さん。何がおかしいの」

「ガーター」

「誰が」

「私が」

 静まりかえる一同。

 その中、一人で笑う天満。

 スコアにはやたらと、Gの文字が目立つ。

「向いてないんじゃないですか」

「失礼ね、大山君。スコアを競うなんて、そんな既成概念に捉えられてるようじゃまだまだよ」

「言い訳にしか聞こえないんですけど」

「気のせい、気のせい」

 朗らかに笑い飛ばされ、大山はその肩まで派手に叩かれた。

 決して立派な体格とは言えないため、顔をしかめてよろけている。

「塩田君の番だよ」

「え、ああ」

「楽しくて、いいね」

 すれ違いざまそう呟き、椅子へ座る沢。

 大山と天満はまだじゃれあっているので、中川の隣へ座る事となる。


「……もっと上手いと思ってたけど」

「ボーリングをする機会は少なくて」

「下手な振りをしている訳でもなさそうだし」

「フリーガーディアンといっても、結局は高校生だよ」

 珍しく沢の顔が、はにかみ気味になる。

「何、照れてるの」

「こういう雰囲気に慣れてなくて」 

「確かにフリーガーディアンとなれば、それなりの扱いを受けるものね。羨望、嫉妬、敵意」

「ああ。その意味ではこの環境は新鮮だし、楽しいよ」

 屈託のない自然な表情。

 彼自身が言った、高校生らしい笑顔。

「親しい人間がいない訳ではないけど、彼らもまた全国を渡り歩いてる。それに時には敵同士のグループに所属するから、仲間とは少し違う存在なんだ」

「そう」

「ただ彼らとは、同じ志を抱いてると僕は思ってる。学校を良くしたい、生徒を守りたいって……。ごめん、変な事を喋って」

「ううん、気にしてない」

 少しの動揺と嬉しさの笑顔。

 顔を伏せ口元を抑えている沢は気付いていない。

 その中川の表情に。

 今まで自分を敵視していた少女の心遣いに。

「駄目よね、私って」

「え」

「なんでもない。あなたの愚痴はもう聞いたから、後は楽しみましょ」

「素っ気ないね、君は」

「切り替えが早いって言うの。天満さーん、足と手が一緒に動いてるー」

 叫びながら前へ出ていく中川。

 それに驚いたのか、細い目を見開いて沢が顔を上げる。

 だがそこに、苦悩の陰はない。

 一人悩む少年の姿は。 

 仲間達の歓声を楽しむ、高校生の他は……。




「今日は、この辺りにしましょう。時間は惜しいけれど、体調も大事にしないとね」

 柔らかな涼代の口調、同意の声が幾つか挙がる。

「三島君、新妻さんを送ってあげて」

「ああ」

 素っ気なく答える三島。

 しかし新妻を見つめる眼差しは、限りなく純粋だ。

「後の整理は……」

 散乱した書類へ視線を落とした彼女の手を、笹島がそっと包み込む。

 女性にしては大きな手。

 力強く、その心を込めて。

「気にしないの。あなたにやってもらいたい時は、こっちから頼むから」

「……ありがとう。だったら悪いけれど、先に失礼します」

「ああ、お疲れ」




 街頭の灯る、学校側の小道。

 大通りから少し入っているため、車は殆ど走っていない。

 飼い犬だろうか、切なげな遠吠えが夜空に響く。

 真夜中近くというのに気温は高く、苛立つような湿気も相変わらずだ。

 その中を、涼しげな顔で歩く二人。

 小さな足音と、それに歩調を合わせた大きな足音。

 小さな影と、大きな影。

「……三島君は、どうして管理案に反対するの」

 蒼い月光のような声。

 視線は、しなやかに動く自分の足下へ落ちている。

「誰もが分かっている、次期SDC代表候補。でも学校に刃向かえば、それもなくなるわ」

「それよりも大事な事があった。ただ、それだけだ」

 口ごもり気味な喋り方。

 街頭の下、三島の頬が微かに赤らむ。

「私への、同情?」

 新妻が用意していた厳しい問いかけに、彼の首ははっきりと横へ動いた。

「自分より強い人間に憧れるなんて、久し振りだったから」

「私は、見ての通りよ。強さの欠片もないわ」

「君の学校へ対する気持ちは、俺などには敵わない。純粋にその思いだけで君は動いている。そんな君……達を守るのが俺や屋神の役目だ」 

 なんとなく言い換える三島。

 新妻は微かに口元を緩め、歩調を落とした。

 三島もその大きなスライドを縮め、窮屈そうに合わせようとする。

「冗談。私だって、もっと早く歩けるわ」

「「あ、ああ」

「ごめんなさい。からかって……」 

 その言葉は最後まで聞かれない。

 三島の巨体が、音もなく彼女の体へと覆い被さってきたのだ。

 上がる叫び声。

 そして、血飛沫。



「三島君っ」

「かすり傷だ」

 肘の辺りに滲む血をティッシュで拭き取り、三島は手慣れた仕草でハンカチを巻き付けた。

 一方の新妻は民家の壁にもたれ、流行る呼吸を整えている。

「君こそ怪我は」

「大丈夫。あなたが、かばってくれたから」

 二人を襲ったバイクの姿はすでになく、二つに折れたスチール製のスティックだけがその痕跡を止めている。

 三島の足が叩き追った場面は、彼と襲撃者しか見てないはずだ。

「みんなは、大丈夫なの?」

「殆どの連中は、学内に泊まり込む。あそこなら、そう派手な行動は取れない」

「でも、私だけ一人……」

「君は体を休める事の方が大事だ。笹島さんも言っていたように、新妻さんの力が必要な時はこちらからお願いする」

 まっすぐに見つめる三島。 

 そして顔を伏せず、その視線を受け止める新妻。

 下らない気遣いや、それに対する遠慮はない。

 お互いの気持ちを理解し合い、し合おうとする気持ちの他は。

 自分のなすべき事は何か。

 そのためには、何をすればいいのか。

 上辺だけではない、本当の気持ち。

「今日の夜は」

「一応、アパートの玄関先で待機する」

「逆に三島君が通報されるわよ。部屋の中にいてくれればいいから。勿論、別室でね」

「あ、ああ」

 薄闇の中でも分かるくらいに顔を赤らめる三島。

 それを見て、声を上げて笑う新妻。

 月は、二人の行く手を照らす……。




 昇る朝日。

 赤い目をこすり、あくびをする笹島。

「徹夜でこんな事やって。肌に悪いわ」

「高校生が、何言ってんだ」

 その隣でやはりあくびをした河合だが、彼はそれほど辛そうではない。

 早朝の、湿り気を感じさせる風。

 教棟は白い日差しに溶けている。

「案をまとめたのはいいけど、この先どうなるの」

「万事上手くいく」

 いつも通りの豪快な笑い。

 しかし、笹島の端正な顔は勝れない。

 それは徹夜明けの疲れだけでは無いようだ。

 胸元が露わになったブルーのキャミソールも、どこか色褪せて見える。


「採決しました。勝ちました。大君達は、それでいいでしょうね。でも私達は、ある意味学校を裏切ったのよ」

「学校案も取り入れた内容だ」

「それは私達の理屈。理事や教職員に通じると思う?」

 鋭さを増す笹島の問い掛け。

 大きな瞳からは艶が消え、人の心を見透かすような淡い赤へと変わる。

 風に揺られていた葉のざわめきが消え、鳥のさえずりまでも止む。

 白い日差しさえも、翳りを帯びる。

 彼女の放つ気配に、気圧されるように。

 いや。

 従うようにして。



 普通ではあり得ない状況。 

 常人ならばその場に崩れ落ち、全てを委ねてしまうだろう場面。

 しかし河合には微かな動揺も見られない。

「通じる通じないじゃない。決まった事はやる。それだけだ」

「……だからあなたは猪なのよ」

「悪かったな」

 苦笑する河合。

 笹島の瞳にも、いつもの柔らかさが戻る。

「さすが魔女。呪い殺されるかと思ったぜ」

「ちょっと雰囲気を出しただけじゃない。風の流れを読んで、日差しの翳りを把握しただけで。全ては科学的根拠に基づく物なの」

「普通の人間は、そんなの分かんないんだよ」

「はいはい。瞳が赤いのだって、角度でそう見えるだけじゃない。あー、面白くないっ」

 やけ気味に河合を蹴る笹島。 

「い、痛いっ。固いのよ、あなたっ」

「人を蹴って、そういう事言うな」

「何が妥協だー。もう今日は寝るっ。明日の採決まで寝るっ」

 右足を引きずりつつ、その姿は朝日の中に消えていく。

 魔女と呼ぶには、あまりにも愛らしい背中。

 その後を追う大きな背中もまた……。




 それとほぼ同じ時刻。

 黒を基調にした、無機質さを感じさせる室内。

 全ては整然と整理されていて、若い男性の住む部屋とは思えない程である。

 壁際にあるローソファーでくつろぐ男は、その雰囲気に非常に合ってはいるが。

「俺に、何か」

 淡々とした口調で尋ねる峰山。

 グレーのタンクトップに、薄い茶の短パン。

 一見華奢に思えるその体格は、意外と引き締まっている。

「用という訳でもないが、どうしてお前は妥協案を話し合う場にいたのかと思ってな」

「本来なら2年だけが許される話し合い。確かに俺は1年ですから、変と言えば変ですね」

「いや。河合は勿論、笹島もああ見えて結構熱い人間だ。そうなると俺達に流されない冷静な人間が、一人くらいは必要になる。例えば、お前みたいな奴が」

「一応、褒め言葉と受け止めておきますよ」

 笑いもせず頭を下げる峰山。

 屋神は苦笑して、その場へ腰を下ろした。

「他の2年は、どうして出てこない」

「学校に睨まれるのが嫌なんでしょう。肩書きはガーディアン連合議長とかSDC代表、総務局局長、生徒会長付きの総務課長とあるけれど、それは3年から受け継いだだけの事。河合さんや笹島さんのように、自分の力で勝ち得た訳じゃない」

「辛辣だな、お前は」

「事実を述べたまでです。しかしその仕事ぶりは、前任者とは比べ物にならないやり手。むしろ、侮れない人達ですよ」

 ようやく笑顔を見せる峰山。 

 皮肉と、信頼を込めた。


「全員先輩だろ、お前の」

「ええ。つまりこれは、北地区と南地区の対立でもある訳です」

「なる程。俺達は大半が南地区、逆にそっちは殆どが北地区だったな」

 ここでいう地区とは、中等部の事を指す。

 高校の中央校は一つだが、中等部の中央校は名古屋の中心部を境にして北と南に分かれている。

 それぞれの校風や人間関係が今の構図を生み出したと、峰山は言いたかったのかも知れない。

「しかしあいつらが、学校に睨まれるのを怖がる性格か?むしろ、逆だろ」

「怖がるんじゃなくて、嫌がってるんです。面倒ごとは、中等部の時で懲りてますから」

「なるほど」

「今は出来の悪い後輩がいない分、気は楽でしょうけどね」

 緩む峰山の口元。

 なんかを懐かしむような、少し切なげな表情。


 屋神はそれについては何も言わず、話題を変えるように軽く背筋を伸ばした。

「お前は怖くないのか。退学や何らかの処分が」

「俺自身は採決に加わらない。当然その責任からも逃れられます。妥協案を作る場に居合わせた唯一の1年として、名を売る事も出来ますし」

「何もしなくても、お前なら自警局長は間違いなしだ。生徒会長を目指したいなら、そのくらいのギミックは必要かも知れないけどな」

「名を売るのは、実を取るため。そこまで欲はかきませんし、目立ちたくもありません」

 あくまでも醒めた態度は変わらない。

 それを、楽しそうに見守る屋神の表情も。

「本当、塩田とは違うよな。あいつこそ熱いというか、燃え上がってるっていうか」

「俺に屋神さんを取られて嫉妬してる、忍者君?」

「だから、そういう言い方は止めろ。俺が好きなのは、女の子だけなの」

「俺だって、好きなのは男だけですよ」

 真顔で言ってのける峰山。

 その視線が、奥の部屋へと向けられる。

「小泉、来てるのか」

「ええ。一人で寝るのが怖いって。子供なんですよ、あいつ」

 微かに和らぐ峰山の表情。

 声にもどこか暖かさが感じられる。     

「赤ん坊の頃、北陸にいたらしくて。例の北陸防衛戦、その空襲と機銃掃射を思い出すんだそうです。本当にそんな頃の記憶があるのかどうかは知りませんけど」

「繊細そうな奴だからな。それでお前に添い寝を頼みに来ると。可愛い顔して、女の子にももてそうなのに。よりにもよって、峰山とはね」

「いいじゃないですか、別に」

 頬が色付き、拗ねた顔つきになる。

 彼自身、多少は自分の性格や雰囲気を気にしているのだろう。


「お前らが何しようと勝手だけど、学校との事で何かあったら俺に言いにこいよ」

「俺達は、敵じゃないんですか」

「その前に、後輩だ」

 はっきりと、力を込められた言葉。

 峰山は佇まいを直し、軽く頭を下げた。

「でも、その言葉だけで十分です。自分の事くらいは自分で面倒見れますから」

「確かに、お前は心配されるような人間じゃないけどな。小泉の事もある。一応、覚えておいてくれ」

「ええ。ありがとうございます」

 もう一度頭を下げる峰山。

 屋神は微かに頷き、その肩を叩く。

 そして彼が立ち上がると、隣の部屋から物音が聞こえてきた。

「峰山さん、今何時……」

 淡いブルーのパジャマ姿で出てきた小泉は、顔を真っ赤にして動きを止めた。

「や、屋神さんっ」

「今帰るところだ。お前は寝てろ」

「ね、寝て……。あ、あの誤解しないでもらえると。い、いえ。誤解じゃないですけど。その、そういうのじゃなくて。だ、だから、その……」

 完全にパニックへ陥る小泉。 

 それにはさすがに、峰山も恥ずかしそうに顔を背けている。

「小泉。落ち着け」

「は、はい」

「屋神さん。そういう事なんで、その」

「また来る。小泉、たまには自分の部屋にも帰れよ」

 何か叫ぶ小泉と、それを困惑気味になだめている峰山。

 そんな二人の声を背中に受けながら、苦笑気味の屋神は部屋を後にした。




 その日の昼下がり。

 昨日同様男子寮の一室に集まる2年の面々。

 顔を伏せ、なにやら呟いている笹島の姿も当然ある。

「どうかしたのか」

「足が痛いのよ……」

 理由は言わず、状況だけが告げられる。

 河合は笑っているが、やはり何も言わない。

「まあいい。それで取りあえず、今の案で採決するけど。いいよな」

「俺達はかまわない。峰山、どうだ」

「問題ないと思います。俺は採決に加わらないので、責任までは負えませんが」

「気にすんなって。何があろうと問題ない。前進あるのみだ」

「猪……」

 自分で蹴ったのに、人のせいにする女性が一人。

 魔女だけあり、恨みは深いらしい。

「よし、決定するぞ」

「ああ」

 テーブル越しに固く手を握り合う、屋神と河合。

 拍手こそ起きないが、全員満足げな表情である。

 杉下と峰山を除いては。


「緊急採決の動議を願い出て、今の妥協案……。改正案を提示。委員会のメンバー全員閲覧の後、採決という手順ね」

 涼代がメモ書きを読み、それとなく全員を見て回る。

「これ、本当に上手くいくのかしら」

「大丈夫よ、水葉ちゃん。あなたも、心配性ね」

「あなたはお気楽な人だからいいでしょうけど」

「悪かったわね」

 お互いの顔を指さし合った二人は、書類やDDを片付けて席を立った。

 そして今のやりとりが無かったかのように、発議の手順を細かく詰めている。

「杉下。どうかしたのか」

「いや。俺も涼代さんと同じで、上手くいくかどうか心配になっただけさ」

 薄い翳りのある笑み。

 沈み込み、力無く揺れる肩。

「何とかなるって」

 その肩が激しく揺れる。

 河合の大きな手が、ぐいぐいと揺すっているのだ。

 おそらく彼は励ましているつもりだろうが、杉下は頭をがくがくさせている。

「ちょ、ちょっと」

「さあ、行くぞ。笹島さん、他の連中に連絡を。屋神も、お前達の仲間に」

「ああ。程々にしろよ」

「何が」

 やはり全く分かってない河合は、ふらつく杉下を支えながら部屋を後にした。

 その背中に頼りさえすれば、何の心配もいらない。

 そう思わせる、豪快な笑い声と共に。



 相変わらずの、全てを焦がすような強い日差し。

 特別教棟へと続く道には陽炎が立ち、遠くの景色を歪めて映し出している。

 息をするのも苦しい程の、熱気を含んだ風。 

 しかしそこを歩いている者達の表情は、意気揚々としていた。

 管理案反対派の全員と、賛成派の河合と笹島。

 そして峰山と小泉。

 これから起きる事への期待と意気込み。

 自分達の手で何かを成し遂げる。

 人は何のために生きているかと問われ、しかしたやすく答えは見つからない。

 だが彼等は紛れもなく、その答えに近付いている気分なのだろう。

「……どう思う」

 突然小声で漏らす沢。

 隣にした塩田が、怪訝な顔で彼を見つめる。

「何が」

「杉下さんは、どうして一人離れている」

「孤独を愛する人なんだろ。徹夜で眠いだけだって」

「君は気楽でいいよ」

 怒る塩田から離れ、今度は中川へ顔を向ける。


「何か聞いてるかい」

「それはフリーガーディアンとしての尋問?」

「いや。仲間としての質問だ」 

「……強い人の側にいろとは言われてる」

 夏の日差しに目を伏せる中川。

 沢の涼しげな視線からも。

「なるほど。監視されてるとは思ってたけど」

「そんなの、いつもの事だろ。気にし過ぎだって」

「本当、君は気楽でいい」

 やはり軽くあしらわれる塩田。

「大山君」

「さあ、私にも分かりません。とにかく、何か起きない限りは」

「そうだね。取りあえず、天満さんを頼むよ」

「ケンカは弱いんですが」

 それでも大山は、天満を集団の中へとそれとなく引き込んだ。

 立ち位置や歩く方向性を変えただけなので、彼女自身は気付いていない。

 少なくとも、その素振りはない。

「疑ってるんですか」

「杉下さんがそうであるように、僕もあらゆる可能性を考える癖が付いている。任務を終えた後、帰りの道で銃が撃ち込まれる事もあったしね」

「人は信じられない。悲しいのか、現実なのか」

「悠長な事を言ってる場合じゃないよ」

 と言いつつ、大山同様苦笑する沢。

 塩田は脳天気に、大きく伸びをしている。

 後ろで一人歩く杉下を気にする、重苦しい顔をした中川とは対照的に。


「どうかしたの?」

 そんな塩田以上に陽気な天満が、隣へやってきた大山へ顔を向ける。。

 余程暑いのかスカーフは取られ、シャツのボタンが一つ外れている。

 微かに覗く、胸元のライン。 

「いえ。天満さんの眺めがいいなと思いまして」

「はは。でも、笹島さん程じゃないから」

「あの人は、人をたぶらかす魔女ですから 

 突然振り向く笹島。

 彼女は先頭にいて、またそれぞれの会話があるため聞こえるはずはない距離。

 しかし彼女が鋭い眼差しを大山に向けたのは、間違いない。

「いい耳してるのかな」

「カクテルパーティ効果ですよ。多分……」

 大山は急に額へ浮かんだ汗をハンカチで拭い、長いため息を付いた。


「おい、河合」

「ああ。女の子を中へ入れるか」

「分かった。俺が前に出る。河合は右、三島は左。1年は、沢と塩田に任せる」

 屋神と河合の会話に、うっそりと頷く三島。

 その言葉通り屋神が先頭に立ち、左右に河合と三島。

 後方では塩田と沢が最後尾に付けている。

「数は、どのくらいだと思う」

「さてな。それよりも、あいつはいいのか。一人後ろにいるけど」

「杉下……」

 舌を鳴らす屋神。

 その視線は杉下から外れ、顔を伏せている中川へとも突き刺さる。

「あいつは、沢達に任す」

「何か、知ってるのか。内通してるって、俺達は言ってるぜ」

「分かってる。だがあいつがこの案をまとめたのも、また事実だ」

「しかし屋神。その案が入っているDDは、杉下が持ってる」 

 重い口調で語る三島。

 一瞬にして表情を変える屋神と河合。

「DDが奪われたら、どうする」

「俺は、あいつを信じる。いや、信じたい」

「人がいいな、随分」

「気にくわないなら帰ってもいいんだぞ。妥協案とはいえ、お前達にはメリットの薄い話だ。裏切りにあってまで、付き合う必要もない」

 屋神の口から漏れる、その言葉。

 三島は何も言わず、すぐ側にいた新妻も無言のまま。


「気にすんな。俺は猪だからな。何があっても、突き進むだけだ」

 力強い、全てを勇気に変える言葉。

 そして豪快な笑い声は、心の奥から力を沸き出させる。

「悪い。さて、この感じから行くと結構な数が来そうだが」

「銃で撃たれる訳じゃない。平気平気」

 あくまでも陽気な河合。 

 だがその足元に、金属製の矢が突き刺さった。

「ボウガンは、持ってるようだな。沢が、一度狙われたらしい」

「……先に言えよ。音もしないし、こっちの方が性質悪だぜ」

 地面に突き刺さった矢をかかとで踏みつけ、めり込ませる。

 下はコンクリート性の非常に固い素材で、その表面が一気にひび割れた。

「学校を破壊するな」

「矢を打ったのは、学校が雇った人間だ。お互い様だろう」

「下らない言い訳しやがって」

 鼻を鳴らす屋神。

 その行方に、数名の男性が現れた。 

 夏のさなかにジャージ姿で、全員フードを被っている。

 彼等以外の人間も、周りから一人また一人と出てきている。

「俺達を襲って、いくらもらうんだ。入院費に足りるのか」

 人を食ったような屋神の台詞。

 しかし笑い声も、怒りの声も上がらない。

 ジャージ姿の人間は、じりじりと距離を詰め来る。

 後ろにいる涼代達を意識しつつ、逆に前へ出る屋神達。

 彼女達は全員が警棒を構え、催涙スプレーを手にしている。


「きゃっ」

 誰かの叫び声が上がる。   

「三島っ、頼むっ」

 敵に背を向け、後ろに駆け出す屋神。

 代わって三島が、彼のポジションと入れ替わる。

「どうしたっ」

「だ、大丈夫。多分鏡か何かで、少し目が眩んだだけ」

 目元を抑えつつ、どうにか首を振る涼代。

 笹島と新妻も、彼女程ではないが辛そうに目を抑えている。

「私達を動けなくして、さらに足手まといにするつもりでしょ」

 笹島はハンカチを取り出し、ぼろぼろと泣いている涼代の目元をそっと拭った。

「……見えてるわね」

「ええ。さっきよりは、だいぶ良くなった」

「失明はないと思う。少し目を閉じていれば、すぐに治るわ」

「分かった」

 しかし涼代は歩くのもままならない様子で、笹島の体にずっとすがっている。

「屋神君」

「何だ」

 苛立ちを含んだ答えにも、新妻の澄んだ表情は変わらない。

 赤らんだ瞳を、浮き足出している仲間達へと向けていく。

 動けない2年の女子と、恐怖のせいで動いていない1年の女子。

 三島と河合はそれが気になるらしく、大きく前には出れていない。

 また塩田と沢も同じで、動かない中川と天満を半ば力尽くで後ろに下げている。

 彼等を囲む連中は襲ってはこないが、そのプレッシャーはすでに全体の雰囲気を悪化させている。

 怒りと不安と焦り。

 隠れるような場所も少なく、動きの取れない集団。

 逃げようにも周りは完全に包囲されている。

 男だけなら強引に突破出来るかも知れないが、涼代が自身で述べた通り視界を奪われた彼女達が足手まといとなっている。

 屋神の舌が鳴り、腰の辺りで握り締められた拳が白くなっていく。


「あなたが落ち着かないと」

「ああ?」

「河合君や間君には悪いけれど、みんなが一番信頼してるのはあなたなの。だから……」

 透明なその佇まいが、一瞬の凝縮を見せる。

 言葉ではない、強い思い。

 赤い目元を抑える事もなく、その何かを伝えるために顔を上げる。

「……お前の言う通りだ」

 無造作に放られる無地の青いハンカチ。

 それを新妻が受け取るのを見届けもせず、屋神は声を張り上げた。

「三島っ、河合っ。とにかく、突っ込めっ。こっちは、俺が何とかするっ」

 低く上がる同意の声。

 そして幾つかの呻き声が、即座に聞こえてくる。

「塩田っ、沢っ。お前らは、無理するなっ。女達を守る事だけに、専念しろっ。峰山達も、一緒に下がれっ」

 再び聞こえる同意の声。

「天満は、新妻。中川は涼代を、教棟の壁際に下げろ。俺が今指さしたところなら、建物からの攻撃も防げる」

「ええ」

「笹島、動けるか」

「私は大丈夫」

「よし。間、彼女を頼む」

「ああ」

 大きく頷き、全体へ視線を移す屋神。

 三島と河合は、すでに殆どの相手を床に倒している。

 塩田と沢も、同様だ。


「後は……」

 視線が一気に遠くへと向けられる。

 手提げの小さなスチールバッグを抱え、木の陰に隠れている杉下。

 その周りに集まる、ジャージ姿の男達。

 しかし屋神は動かない。

 自分や女子達を囲もうとする男達を、目線で制している。

 だがそれなら、こちらへと向かっている三島や河合で対処出来るだろう。



「どうなってる」

「殴られた」

「助けに行かないのか」

 息を整えつつ尋ねる河合に、屋神は軽く首を振った。

 頬の返り血を拭っている三島は、相変わらずの無言だ。 

「仲間なんだろう。え、あいつも」

 語気を強める河合。

 しかし屋神は、動こうとしない。 

「三島、お前はどうなんだよ」

「さあな」

「何だ、それ。お前達が行かないなら、俺が……」

 走り掛けた河合であったが、その前に沢が杉下へと駆け寄っていった。

 すでにジャージ姿の男達は離れていて、彼の手を借りながらもどうにか立ち上がっている。

「人数の割には、大した事無かったな。動揺しなかったら、本当に何でも無かったんだが」

「ああ」

 小さく頷く三島。

 河合はまだ納得しかねるという顔だ。

「怒ってるのか」

「だから。仲間だろ、あいつは」

「そうだ。でも杉下は、何か隠している。それも含めて、あいつは俺達の仲間なんだ」

「んだよ、それ。訳分かんねーよ」

 一人怒る河合。

「お前だって、さっき杉下の事疑ってただろ」

「だけど、仲間ってのはな。おい、聞いてるか」

「聞いてない」

 面倒に手を振り、屋神はその場を離れる。

 代わりに、三島が愚痴を聞かされる羽目になったが。



「怪我は」

「大した事無い」

 赤らんだ頬を抑え、それ以上に赤い唾を吐く杉下。

 屋神は鼻を鳴らし、彼の足元にあったスチール製のバッグを拾い上げた。

「一人で離れてるから、そうなるんだ」

「俺も、考えたい事があって」

 バッグを受け取り、微かに顔をしかめる。

 腕を痛めたようである。

「委員会に出られるのか」

「採決の時、一人足りなくて負けたら困るだろ」

「俺達6人と河合達6人で、過半数は超える。仮に造反者が出ても、河合と笹島以外に一人味方に付けばいいだけだ」

「そうだね」

 重い小さな応え。

 屋神は彼の腕を取り、ゆっくりと歩き出した。

「……お前が何を考えてるのかは、俺には分からない」

 蝉時雨と強い日差し。

 火照った二人の顔が、しばし向き合う。

「だけど俺は、お前を信じる。何があっても」

「そんな事は、言わない方がいい。俺なんか信じても、ろくな目に遭わないよ」

「俺が勝手に決めた事だ。お前には関係ない」

 精悍さを増し、射殺すように杉下を見つめる屋神。 

 杉下は醒めた視線を返し、やるせなさそうにため息を付いた。

「だったら、勝手にすればいい。後でどうなろうと、俺は知らないから」

「そのために、1年がいる。俺が駄目になったら、あいつらが跡を継ぐ」

「全員退学にでもなったら」

「その時は、次の奴が出てくる」 

 はっきりと言い切る屋神。 

 しかし杉下の、無気力な態度は変わらない。

「そこまで人を信じてどうする。今だって、誰かが一人裏切れば改正案は駄目になる。そう考えはしないのか」

「そういう事は、お前に任せる。俺がやるのはお前らを守る事だけだ」

「馬鹿らしい」

 鼻を鳴らし、顔を伏せる杉下。

 微かに漏れる笑い声。

 それはどちらの口からなのか。

 寄り添った二人を、太陽は容赦なく照りつけている。

 そして二人は木陰に逃げる事無く、ゆっくりと歩いていった……。




 いつも通りの、議案を話し合う会議室。

 集まっているメンバーも変わらない。

 違うのは、その緊張感。

 自ずと息の上がる屋神達。

 河合と笹島も同様だ。

 ある程度の情報を受けているのか、中立派の生徒も。

 しかし最も緊迫した雰囲気を漂わせているのは、正面に位置する理事や職員達だろう。

「第21回、規則変更に関する委員会を開催します」

「委員長」

 挙手をして席を立つ涼代。

 全員の視線が、一気に彼女へと集まる。

「何か」

 うわずった声を出す理事。

 涼代は微かに会釈をして、背筋を伸ばした。

「採決の動議を発議します」

「……分かりました。ただし動議が可決されれば、その後は採決だけとなります。どういう結果になろうと、それ以降の審議は行われませんが」

「承知しています」

 静かな応え。

 理事も席を立ち、軽く咳払いをする。

「それでは。今ありました採決への動議に賛成の方は、挙手をお願いします」

 屋神達の手が全員、河合達の手も全員。

 それを見て、中立派の生徒達も全員手を挙げる。

「全会一致で、動議は可決されました。続きまして、規則変更に関する採決を……」

「待って下さい」

「まだ、なにか」

「対案を用意しましたので、これを提出したいのですが」

 微かに理事の顔色が変わるが、これといった反応は見せない。

 事前に情報は仕入れていたのだろう。

「私達の提出する対案と、学校の案。そのどちらへ賛成するかの採決にしたいのですが」

「これも動議、ですか」

「ええ。お願いします」

 再び挙手が行われ、やはり全員の手が挙がる。

「では対案を提出して下さい」

「はい。杉下君」

 涼代の視線を受け、スチール製のバッグを開ける杉下。

 だが彼の顔が一気に強ばる。


「……DDが無い」

「何?」

 一斉に立ち上がる屋神達。

 対して理事は、笑顔こそ見せないがすっかり落ち着きを取り戻している。

「対案の提出に関しては、書類もしくはDDの提出を必要とする規則です。それがないのでは、提出は不可能ですね」

「待って下さい」

「涼代さん、無い物は待てません。規則は規則ですから。それでは採決案を再度変更。当初の予定通り、改正案に賛成に反対かで挙手を願います」

 舌を鳴らす屋神と、視線を伏せる河合と笹島。

 対案がなければ、当然河合達は学校案に賛成する。

 元々がそういうスタンスであり、そういう関係であったのだから。

 学校の示した管理案に賛成する河合達、そして反対する屋神達。

 今朝まで話し合っていたのも、開いた両者の意見を詰める作業に他ならない。 

 対案となる改正案がなければ、河合達は敵となる。

 つまり、屋神達の負けへとつながる。


「待って下さい」

「何を待つんですか。待っていても仕方ないでしょう」

 余裕を持って涼代を見つめる理事。

 嘲り、それとも侮蔑。

 力無い者への、力ある者の蔑んだ視線。

「話を聞けって言ってるのよっ」

 激しく叩かれる机。 

 その振動でマグカップが幾つか倒れ、何人かが声を上げる。

「対案は、確かに存在するの。規則、書類、形式。それが大事なのは私だって分かってる。でも今から決める事は、その不備が原因で左右されていいの?」

「だから、規則では……」

「分かってるって言ってるでしょっ」

 再び机が揺れ、残っていたマグカップも横倒しになる。

「採決するなら、それでもいいわ。対案を規則通り提出出来なかったのは、私達のミスなんだから。でもどういう案だったかとか、私達が何を考えていたとか聞くつもりはないの?自分達の意見だけが正しくて、私達の考えるのは子供じみてるとでも言いたいの?」

「そういう訳でも」

「規則変更に最も影響されるのは、私達生徒なのよ。その意見を聞き流して、自分達の考えを押しつけて。私達は今まででも、さんざんここで議論をしてきた。あなたはそれを、ただの時間潰しにしか思ってなかったのっ?私達全員の、気持ちを……」

 力無く叩かれる机。

 その場に崩れる涼代。

 理事は顔を伏せ、誰一人声を発しない。

 静まりかえった会議室に、床を叩く音だけが響く。


 しかし理事はどうにか顔を上げ、小声ながらも口を開いた。

「とにかく、採決は行います。話を聞こうとどうしようと、それは採決と関係がありません」

「勝手にすればいい……」

 机の下で、一人呟く涼代。

 赤くなった拳を手で包み、唇を噛みしめて。    

 理事とのやりとりではなく、自分の無力さを責める表情で。

「書類を提出すれば、よろしいんですね」

 澄み切った、小川のせせらぎのような声。

「え、ええ。ただし私の手元に、正式な書類はありませんので」

「こちらで用意しています。若干時間は掛かりますが、その程度はよろしいですか」

「あ、ええ、まあ」

 ぎこちない返事。

 机と椅子の隙間からのぞく、新妻の横顔。

 微笑みを浮かべ、床へ手を差し伸べて。

「だけど、メモも何も無いのに」

「全部、ここに入ってるわ」

 冗談っぽく、頭を指で触れる仕草をする新妻。

 それは涼代を励ますだけではない、紛れもない自信と気合いの込められた言葉。


「さすがだな」

「さあね」

 屋神の言葉に、素っ気なく返す杉下。

 頬が痛むのか、顔をしかめて手を当てている。

「お前がDDを盗られなければ、こうはならなかった」

「それは悪かったと思ってる」

「責めてるんじゃない。お前が何を考えてるか、俺も興味がある。この先、どうなるかも含めて」

「期待に添えるよう、頑張らせてもらうよ」

 あくまでも感情を表さない杉下。

 屋神もそれ以上は何も言わない。 

「何の話、三島君」

「知らない」

「そ、そう」

 ぎこちない笑顔を浮かべて、意味もなく彼の肩を叩く間。

 よく分からないが、間なりには意味があるらしい。

「さてこれからどうなるのか。俺も、興味があるよ」 

 間はアトラクションを期待する子供のような笑顔を浮かべ、そう呟いた。

 彼が集めたキャストが繰り広げている光景を、前にして。

 自分が何もしなくても、事態は動いていく。

 そう言わんばかりに。












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