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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第9話
84/596

9-8






     9-8




 テストも終わり、再び授業が開始される。

 とはいえ春休みはすぐそこまで来ていて、ここからは成績表を待つだけの日々。

 学校へ来る人は半数以下になり、いるのは真面目な生徒か考査点を求める日頃不真面目な生徒。

 それと委員会や、生徒会関係者の一部。

 後は、クラブに所属する生徒達だ。

 授業が終わると私は、いつものように陸上部の部室へ行く。

 意識しなくても、自然とそちらへ足が向く。

 そう。

 年を越しても、私はガーディアンの資格を停止されたままだった。


 練習を休憩して、ペットボトル片手に日溜まりで話し込む。

 たわいもない、でも何にも代え難い楽しい一時。

 新しく知り合った仲間との会話と、その笑顔。

 自分の居場所が、もしかしてここではないかと思えるくらい。

 もう、ガーディアンなんてやらなくていいと考えてしまう。

 そのくらいに、ここは居心地がいい。

 私にとって、それがいいのかどうかは知らない。

 でも今は、ここにしかいられないのだから……。


「ハードルの方が向いてるよね」

 私のタイムスコアをチェックして、頷いているニャン。

 年が明けてからはずっとハードル一本で、これがなかなか調子いい。

 単純に走るのはもうニャンに敵わないけれど、ハードルならほぼ互角。

 却って黒沢さんの方が早いくらいだ。

 以前言っていた、向き不向きの問題だろう。

 ニャンは速く走るようトレーニングをしているけれど、跳ぶ事はやっていない。

 対して私は元々総合的な運動をしていたし、黒沢さんはその体型の良さもある。

 何にしろ、面白い。

「すごいですね」

 壁に背を持たれ、2Lのペットボトルからそのままお茶を飲んでいる青木さん。

 あなたの方がすごい。

「うちでハードルやってる子は少ないから、本格的にやれば」

「まあ優さん程度では、私にはかなわないだろうけど」

 口元に手を当て、大仰に笑う黒沢さん。

 私も負けずに、へへっと笑う。

「あら、勝つ気でいるの?」

「さあ、どうだろうね。へへ」

「可愛くない子」

 人の顎をしゃくってきた。

 くすぐったいし、情けない。

 こっちも対抗上、がら空きになった脇をくすぐる。

「ひゃっ」

「はは。黒沢さん、面白いです」

「わ、笑い事じゃないわよっ」

 とばっちりを受けそうになった青木さんは、素早い動きで横へ飛び退いた。

 ハイジャンプをやっているだけに、身は軽い。

「へえ。青木さん跳ぶ跳ぶ」

「まあ、一応」

 照れ気味ながら、少し誇らしげな青木さん。

 黒沢さんも真似しているけど、あそこまで軽くはない。

 体格や、筋肉の付き方のせいもあるだろう。

「悔しいわね、何だか」

「私筋肉が付いてない分、身軽なんです」

「どうせ、私は重いわよ……」

 がっくりと肩を落とす彼女。

 いいじゃない、その分胸があるから。

「垂直飛びだったら、どっちが上?」

「青木さんでしょ……。測った方が早いわね」

 そういうや、クラブハウスへ掛けていく黒沢さん。

 案外、せっかちだな。



 という訳で、第1回垂直跳び選手権。

 与えられるのは名誉のみ。

「じゃあ、私から」

 腰に測定器を付けたニャンが、曲げていた膝を伸ばして一気に飛び上がる。

 しかし猫木という名前の割には、躍動感無し。

 もがいているムササビ、と表現した方が似合ってる。

「54cm?壊れてる、これ」

「言い訳はいいから。次は、私」

 睨むニャンから測定器を取り、黒沢さんが飛び上がる。

 長い手足がすらりと伸び、それなりに様になっている。

「62cm……。故障ね」

「そうですか?」

 くすっと笑い、今度は青木さんが測定器を腰につける。

 曲げられた膝がしなやかに伸び上がり、その体が宙へ舞い上がる。

 反らされた顎は日差しを捉え、重力に惹かれる黒髪が彼女に追いすがる。

 空に向かって伸ばされた手は、まるで青空を捉えるかのようで。

 そのまま彼女の姿が、空へ消えていくのかと思えるくらい。

「83cm。まあまあでした」

 珍しく満面の笑みで報告する青木さん。

 あっさり負けた二人は、おざなりな拍手でそれに応える。

「雪野さんもどうです?元々体を鍛えているし、私よりは跳べますよね」

「さあ。どうだろう」

「優さんなんて、10mくらいよ」

 負けたのが余程悔しかったのか、黒沢さんが無茶苦茶な事を言ってくる。

 それだけ跳ぶのはいいけど、下りる時どうするの。

「やってみれば分かるから。ユウユウ、ほら」

「ん」

 ニャンが腰に装置を付けてきた。

 笑顔の青木さん。

 やれという顔の黒沢さん。

 半笑いのニャン。

 仕方ない。


「よっ」  

 体を沈み込ませたと同時に一気に伸び上がり、全身の筋力を上へ持っていくイメージを作る。

 突然変わる視界と、ふいに感じる重力。

 でもそれはほんの一瞬で、気付けば私は地面に降り立っていた。

 空を飛ぶなんて、結局人間には出来ない事だから。

 ただ、その雰囲気くらいは味わえたと思う。

「102cm。さすが、ユウユウ」

「へ、へえ」

 ニャンの読み上げた数値に、ぎこちなく笑う青木さん。

 そして黒沢さんも、呆然と見つめてくる。

 装置を外してくれたニャンは、また違って。

「ノミみたい」

「あ?」

「独り言よ」

 ああ、ノミで結構。

 その内、猫の血でも吸ってやる。

 でもニャンは人間だから、それだと吸血鬼かな。   

「普段、何食べてるんですか」

 驚きや好奇心というより、参考にしたいんだろう。

 いつにない真剣な顔で詰め寄ってくる青木さん。

「食堂のフリーランチとか、オーダーメニューとか。これといって、特別な物は食べてないわよ」

「プロテイン飲んでるって、前言ってたじゃない」

「ショウに付き合って、少しだけね」

「私も、飲もうかしら」

 青木さんは、あくまでも真顔だ。

 飲むのはいいけど、苦情は受け付けないからそのつもりでいて欲しい。


「本当。小さいのに、すごいわ」

「小さいは、余計よ」

「ああ、ごめんなさい。背が低いのに、すごいわ」

 何だそれ。

 しかし黒沢さんは未だ夢醒めやらずという雰囲気で、気の抜けた顔をしている。

「あのくらい、バレーやバスケやってる子なら普通だと思うけど」

「男子とかならね。あなたの体では、あそこまで跳べないわ」

「そうかな」

 何せ普段ショウのすごさを見ているので、このくらいは本当に普通だと思っている。

「今のだったら、人間くらい飛び越せるんじゃない?」

「ええ。青木さんも170cmは跳ぶんだから、やれるんじゃなくて」

「無理ですよ。仮に跳べても、足が引っ掛かりますから」

 ハイジャンプで、バーに足が掛かる事を言っているのだろう。

 確かにバーならいいけど、人の顔を蹴った日には。

 でも、面白い話ではある。


「……ニャン」

「え?」

 こちらを振り向いた彼女へ、少しだけ走る。 

 そして軽く地面を踏み切り、体を前に倒し込む。

 一気に宙へ浮き上がる体。

 迫るニャンの顔。

 彼女の肩に手を置き、軽く突き放す。

 そのまま足を振り上げ、前転の要領で頭上を越える。

 景色は地面から空へと変わり、今度はそれと逆の順序を辿る。

 胸の空く浮遊感を楽しみつつ、膝を曲げ着地の衝撃に備える。

「よっ」

 両手を上げてバランスを取り、やや足を前後に開く。

 着地成功。

 9.5くらいはもらってもいい。

「跳べた」

 笑顔で振り向くと、唖然とした顔が3つあった。

「あ、あれ。やり過ぎた?」

「サーカス、紹介しようか」

 無愛想な声を出すニャン。

 余程怖かったらしい。

「冗談じゃない。冗談。どこも、当たらなかったでしょ」

「どこの世界に、人の頭を飛び越える人がいるの」

「話の流れで、ちょっと」

 ははと笑い、後の二人に手を振る。

「体操部は、体育館でやってますよ」

「チアリーディングもやってるわ」

 真顔の青木さんと黒沢さん。

 付き合いの悪い子達だな。

 「よくやったね」とか、「私もやってみたい」とか言えばいいのに。

 私なら、言わないけど……。



 その後もニャン達と騒いでいると、見慣れない男性がこちらへやってきた。 

 胸元にあるIDは、学校の職員だと告げている。

「雪野というのは」

「私だけど、何か用」

 呼び捨てにされたからでもないけど、こちらも敬語を使わない。

 横柄な態度が気にくわないので。

 男性の顔が険しくなったが、それはお互い様だ。 

「理事がお呼びだ。すぐ着替えて、A教棟へ来るように」

「理由は」

「来いと言ったら、来ればいいんだ。いちいち説明を求めるな」

「じゃあ、行かない」

 鼻を鳴らして、男に背を向ける。

 どうせこの前の、理事親子だろう。

 行けば怒れるのは分かってるし、元々行く気がない。

「お前、逆らう気か」

「自分こそ、理由も告げずに一方的過ぎない?職員だか何だか知らないけど、あなたに命令される筋合いはないの」

「た、たかが生徒の分際で、学校の指示に背く気か。そういう反抗的な態度を取るとどうなるか……」

 男の言葉はそこで止まり、微かな叫び声が上がる。


「どうなるの。教えてよ」

 棒高跳びのポールを振りかぶり、男の頭上にかざすニャン。

「停学にでもする?」

「お、お前も逆らう気か」

「説明してと言ってるだけ。今この子は陸上部なんだから、一応私の管轄下にあるのよ。クラブ活動を妨げる権限は、学校職員にあった?」

 グラスファイバーのポールを地面に突き立て、ニャンが男を睨み上げる。

 逃げだそうとした男の左右には、ハイジャンプのポールを持った黒沢さんと青木さんが。

「筋を通せと、私達は言ってるの」

「生徒の自治を否定するつもりなら、覚悟しておいて下さい」

 ポールが空を裂き、乾いた音がグランドを駆けていく。

 男はとうとう地面に腰を落とし、小声でなにやら謝っている。

 さすがにこうなったら、私も行くしかないだろう。

 多分、サトミ達も同じ事になっているだろうし。

「それじゃ、私行ってくる。それと、みんな無茶し過ぎ」

「ユウユウ程じゃないって」 

 ニャンの台詞に、黒沢さんと青木さんの陽気な笑い声が重なっていく。

 きっとケンカをした事すら無いだろう人達の、私を守ろうとしてくれたその心。

 私は彼女達に軽く手を振り、感謝の意を告げた。 

 それだけで分かってくれると思ったから。

 そして彼女達も、笑顔で手を振ってくれる。

 私の、仲間達は……。



 一応制服に着替え、端末に送られてきた部屋の場所へと向かう。

 教職員や自治体、企業関係者が勤務する特別教棟のA棟。

 ここへ来るのは、この間サトミに会いに来た時以来。

 普段足を踏み入れる場所ではないし、生徒の姿はあまり見られない。

 それでもどうにか迷う事無く、「第3小会議室」とプレートの下がった部屋の前へとやってきた。

「やっぱり、いた」

「この教棟にいるんだもの。あなたよりは早く着くわ」

 黒髪をなびかせ、面倒げに壁へもたれるサトミ。

 それでもその凛々しさや美しさは失われない。

 むしろ儚さが加わり、より心を揺さぶられるようだ。

「ショウも、早いね」

「走って来たからな。いいトレーニングさ」

 私やサトミと違い、ジャージ姿のショウ。 

 今日の私服は確か、革ジャンと擦り切れたジーンズだった。

 それに比べれば、まだましか。

「ケイは」

「さあ。逃げたんじゃなくて」

「あいつがいなくても、関係ないだろ。どうせ悪いのは、俺なんだから」

「あなたは警棒を落としただけよ。裁判ではないけど、それは必ず主張しないと」

 気だるげな表情の割には、厳しく言い放つサトミ。

 こうして呼び出された事自体、彼女にとっては腹立たしいのだろう。

 それは私も同じで、ドアを叩き壊したくなるくらいだ。

「皆さん、早いですな」

 のんきな事を言いつつ、ブルゾンとジーンズ姿でやってくるケイ。

 呼び出された緊迫感や怒りは、微塵も感じられない。

 心の中で何を考えているかはともかく。 

「全く、こっちは徹夜明けだっていうのに……。集まったぞー。開けろー」

 そのケイが、いきなりドアを蹴り出した。

 そして、直ぐさま逃げ出す。

「ば、馬鹿っ」

 当然私達も、その後を追う。

 何やってるんだ、もう……。



 という事もあり、会議室に通された私達。

 監視カメラやそれに準ずるセキュリティが無かったらしく、向こうは誰が叩いたか掴めなかったようだ。 

 勿論、私達がやったと思われているだろうけど。       

 いつかやった査問会同様、私達と理事が対峙して座るスタイル。

 ただあの時より、両者の距離は開いている。

 物理的にも、心情的にも。

 職員から、今回私達を呼んだ目的が簡単に説明される。

 それは私達が思っていた通り、この間ショウが警棒を叩き落とした一件についてだ。

 一応他の生徒から事情聴取をしたらしく、彼が一方的な暴力を振るってはいないと認められている。

 そのため話の論点は、警棒を叩き落とした行為が過剰防衛ではないかという事になっていた。

 そんな訳無いと一言で済む問題なんだけど、向こうは相当やる気のようだ。

 しかし、例の女性の姿はない。

 説明では所用のため欠席となっていて、その理由は分からない。

 恥ずかしくて出てこられないのかな。 


「本来勉強をするべき場所である学校での暴力行為を見過ごす訳には行きません。やはりここは、厳罰を持って処すべきでしょう」

 真顔で主張する、初老の男性。

 他の理事達も、真剣な顔で頷いている。

 茶番だね、どうでもいいけど。

「そんな権限、あるのか」

「何だ、その口の聞き方は。我々は理事であり、なおかつお前達より年長者なんだぞ。最低限の礼儀くらい、弁えたらどうだ」

「敬意を払うべき相手なら、俺もそうする。でも、あんた達では。理事といっても、平だし」

 鼻を鳴らし、眠たそうに背もたれへ崩れるケイ。

 後は相手を小馬鹿にしているというより、傷が痛むのだろう。

 まだ通院しているくらいだから。


「学校の設立は中部庁、出資金は企業、経営や教育は草薙グループ。それで、あんた達はなんだって」

「理事だっ」

「学校法人として許認可を得るため、最低限必要な理事を揃えるための頭数。違うかな」

 薄く微笑むケイに、返ってきた返事は唸り声だけ。

「最近、この学校にいつ来た。経営状況の監査を、何度やった。教職員の勤務状況を、いつチェックした。理事会で、どんな発言をした。直近の、この学校での行事は。生徒数は。カリキュラムの問題点、中部庁と係争中の案件。さて、答えられる人は」

 もう唸り声も返ってこない。 

 そして、誰一人ケイと目を合わせない。

「理事としての報酬を受け取って、大人しくしてばいいんだよ。どうせ、教育関係者か地方の名士っていう事だけでなったんだから。人間、分相応とも言うし」

「お、お前は、私達の何を知ってるというんだ」

 さすがに腹に据えかねたのか、額の薄くなった中年の男性が立ち上がった。

「知るか。そんな、データベースを調べれば分かるような事」

「私達がどれだけこの地方に貢献したかも知らないで、偉そうな口を聞くな」

「知りたくもない。でも、どうしてもって言うなら」

 視線を向けられたサトミは、テーブルの上に指を組んで右端の女性を切れ長の瞳で捉えた。


「東京在住の教育評論家。大学院中に発表した教育理論が評価され、マスコミに登場。著作は多数で、中高年に支持層が多い。数年前教授職を退官したのは部下であった講師との盗作問題が原因で、現在も裁判中。次は、旧中部銀行副頭取。主に学校法人への融資と投資運用を担当。投資法違反で起訴猶予。一時八戸支店に左遷も……」

 一人一人の経歴を、淡々と述べていくサトミ。

 その度に彼らの顔色が、見る見る青ざめていく。

 どうしてそんな事を知ってる、とでも思っているのだろう。

 勿論サトミだって、最初から知っていた訳じゃない。

 ここへ来ると聞かされた時から、全員の簡単な履歴を暗記したのだ。

 彼女にとっては何でもない事でもある。


「より個人的な履歴を希望なら、続けますが」

 澄んだサトミの声が、静まりかえった室内に響く。

 全員返す言葉もない、といった顔だ。

「大体個々の理事に、生徒を処分する権限はない。査問でも聴聞でも結構だけど、俺達を吊るし上げてる暇があったら学内でも見学してきたら」

「理事個人が生徒の処分が行えるとしたら、理事長と学校長などの委任を受けた場合のみです。今回の会合は私的な物で、委任を受けているとは思えませんが」

「誰かの差し金かただの暇つぶしか知らないけど、この件に関して俺達に非はない」

「という訳です。まだお話があるなら、承りますが」

 やはり応えはなく、視線すら向けられない。 

 サトミとケイの一方的な話だけだったけど、終わったと言っていい。

 これで私達に余計敵意を抱くならそれまでで、その時はその時だ。

「帰りましょう」

「失礼します」

 最後は礼儀正しく挨拶する二人。

 殆ど発言しなかった私とショウも、一応頭を下げて彼らの後に続いた。



 ドアを出て、伸びを軽く伸びをする。

 二人と違い、私は多少の緊張をしていた。

 それとも、気持ちが高ぶっていたのかもしれない。

 理不尽さと、怒り、馬鹿馬鹿しさ。

 とにかく、それも終わった。 

 ここにいる理由もなくなったし、すぐに帰って……。

「玲阿君、だったな」

 さっき会議室にいた壮年の男性が、不意に呼び止めてきた。

 胸元のIDを見ると、理事ではなく学校の職員になっている。

「俺に、何か」

 普段通りの自然体で受け答えるショウ。

 すると、その隣にいた痩せ気味の男性が鼻で笑った。

「お父さんは、元気かな」

「ええ」

「北陸防衛戦での英雄。実際は追撃隊の生き残り」

「つまりは、命惜しさに逃げ出したんだろ」

 前に出掛けた私を、ショウは手で制してきた。

 サトミとケイは、黙って二人を見つめている。

「わざわざ、そんな事を言いに来たんですか」

 あくまでも冷静な受け答え。 

 以前ならお父さんを悪く言われた途端、相手は床へ倒れていたのに。

「俺達も、シベリアからカスピ海まで転戦したん。君のお父さんのように、勲章も報奨金ももらえなかったがな」

「逃げ出した奴は褒められて、まともに戦った俺達はなけなしの恩給。どう思う」

 あまりに下らない質問。

 ショウに帰るよう促そうとしたけど、彼は男達をまっすぐ見据えている。

 背を向けて、この場を立ち去るつもりはないようだ。


「俺に聞かれても、答えようがありません」

 真摯に答えるショウ。  

 しかし男達は、舌を鳴らして彼に詰め寄った。

「要は、お前の親父は臆病者だって言いたいんだ。仲間を見捨てて、自分だけ助かりやがって」

「何が、英雄だ。ふざけるなっ」

 激しい罵倒。

 それでもショウは、顔色一つ変えない。 

 この場をやり過ごすために、頭を下げる事もしない。

 ただ彼らと、真正面から向き合っている。

「俺はその場にいなかったので、何も言えません。父の事も、あなた達の事も。父に対して不快な感情を抱くのは、多少なりとも理解はしていますが」

「じゃあ、お前が代わりに謝れ。逃げて、済みませんでしたって」

「土下座しろよ」


 聞いている私の方が、頭に来た。

 ショウのお父さんがその時本当はどう振る舞ったかは、以前聞かされた。

 臆病者のそしりを受けるような事は一切無い。

 誇らしい、そして悲しい出来事以外は。

「申し訳ありませんが、父の事で謝る必要は無いと思ってます。突撃隊の遺族の方に関しては、また別ですが」

「お前、ふざけるなよ」

「謝れと言ったら、謝れっ」

 男達の手が、ショウの肩へと伸びる。

 でもそれは、すぐ後ろへと引かれた。 

 ショウはそれを払うどころか、威嚇すらしていない。

 私達も。

 しかし男達は、手を引いた。

「……こんなガキ、相手にしても仕方ない。行こうぜ」

「ああ。親父に言っておけ。英雄面するなって」

 陳腐な捨てぜりふを残し、ぞんざいな態度で去っていく男達。

 その背中に一言言ってやろうかと思ったけど、それではショウが我慢した意味がない。

 彼らの事情は知らないけれど、下らない逆恨みなんて冗談じゃない。


「……よく、我慢したね」

「え、ああ」

 長いため息を付き、握りしめていた拳を開くショウ。 

 そこには、半分に折れた硬貨があった。

 私なら道具を使っても、曲げる事すら難しいだろう。

「殴るよりはましだろ」

 照れ気味の、小さな声。

 私は彼の肩にそっと触れ、その笑顔に応えた。

 お父さんを目標にするショウにとって、その侮辱は最大の屈辱と言える。

 今までそれで、何人が床に崩れただろう。

 それを、やや強引とはいえ我慢しきった。

 相手の挑発にも乗らず、落ち着いた受け答えもして。

 この人は、本当に成長している。

 自分自身の力と、努力で。

 その間、私は何をしていたんだろうか。

 足踏み、それとも後退しているのかもしれない。

 その結果は、今こうして現れている。

 大人になったショウと、まだ悩み続ける自分。

 私はいつまで、このままなのだろうか……。




 雨が降っていて、陸上部は休み。

 体育館でトレーニングをしている子達もいるけれど、私はそれを断って窓の外を眺めていた。

 ラウンジには友達と楽しそうな時を過ごす生徒達が大勢いて、彼らの笑い声が耳を打つ。

 前はどうして寮や家に帰らないんだろうと思っていた。

 でもガーディアンの資格を失い暇をもてあましている今は、その気持ちが分かる気がする。

 例え一人でも、ここには大勢の人がいる。

 寮で、本当に一人となるのとは違う。

 こちらの方に孤独感を感じる場合もあるだろうけど、私にはこの騒がしさが心地よかった。

 霧雨に霞む景色。

 窓を隔てた向こうには、冷たい雨が降っている。

 そしてここには、温もりがある。

 どちらが自然なのか。 

 それとも、どちらを私は望んでいるのか。

 無意味だと思いつつ、そんな事を考えてしまう。

 まだ、色々と引きずっているみたいだ。


「何、黄昏てるの」

「外見てただけ」

 サトミから渡された紙カップを受け取り、ホットのレモネードを一口含む。

 心の中まで暖まるような、それでいて胸のすく爽やかな味。

「中部庁の仕事は」

「給料も安いんだから、少しは休むわよ」

 公務員とはいえバイト扱いなので、時給らしい。

 それでもこうして、お茶を楽しむくらいはもらっている。

「傘持ってきた?」

「朝から降ってたでしょ」

 当たり前な事を聞くなという顔。

 確かにそうだけど、朝は小降りだったので私は走ってきた。

 天気予報でも、ここまで降るとは言っていなかったのに。

 自分が悪いんだけど、何だか騙された気持ちだ。

「私と一緒に帰ればいいだけじゃない」

「まあね。でも、悔しい」

「よく分からないわ、あなたの考え方は」

 人をケイみたいに言って。

「男の子二人はどこへ行ったの」

「さあ」

 今日はあの二人も実家や運営企画局には行かず、私達に付き合っている。

 放課後以外でも顔は合わせているけれど、たまにはこういう時があってもいい。

「あ、来たわ」

 サトミが、私の肩越しに指を差す。

 振り返ると、紙袋を持った二人の姿がこちらへ歩いてきていた。


「何、それ」

「三方五湖名物の梅干し」

「みかたごこ?」

 余計、訳が分からない。

 ショウから袋を受け取り、その梅干しを取り出してみる。

 しその綺麗な色が付いた、大振りの梅。 

 眺めているだけで、口の中が酸っぱくなってきそうだ。

「旧福井、敦賀の西にある湖よ。海と繋がっていて、汽水湖になっていたと思う」

「さすが天才美少女。無駄な事を知ってる」

「あなたに言われたくないわ」

「それは失礼」

 ケイが差し出した袋からは、変な木の棒が出てきた。

「何、これ」

「棒だよ、棒。木地師の」

 もう、聞くのは止めよう。 

 でも、どこでこんなの手に入れたんだろう。

 まさか数分で、日本海まで行って来た訳でも無いし。

「そこのフリースペースで、どこかの業者が物産展やってた。珍しいから、つい」

「ふーん。どうせなら、もっと美味しそうな物買ってくればいいのに。カニとか、ウニとか、松茸とか」

「そんなの売ってないし、金がない」

 と仰る、玲阿家の御曹司。

 実家がお金持ちの割には、案外慎ましい生活してるんだよね。


「ヒノキかしら。いい香り」

 短い棒を鼻へ持っていき、目を閉じて香りを楽しむサトミ。

「それはいいけど、どうやって使うの」

「精神注入棒だろ。気合いを入れるんだ、気合いを」

 馬鹿な男の子を放っておいて、もう一本を手に取る。 

 長さはせいぜいすりこぎ程度しかなく、これで気合いを入れるのも無理があると思う。

 サトミがしているように、香りを楽しむのがせいぜいだ。

 何でこんな、無駄な物を買ったんだか。

「どうするの、これ」

「さあ、俺に聞かれても」

「自分で買ったんでしょ」

「だって、これだけ売れ残ってたからさ。つい」

 少し寂しげに笑うケイ。

 それはいいけど、木の棒に情を移してどうするんだろう。

 人に情を移しなさいよ。

「それで、この梅干しは」

「美味しいだろ」

「あなた、実家に帰れば幾らでもあるでしょ」

「そういえば……」

 サトミの指摘に、動きを固くするショウ。

 この人も、何やってるんだ。

「おおよそ、買い物には行って欲しくない人達ね」

「サトミさん。それは言い過ぎでしょう」

「あなたは、棒の使い道を見つけてから発言して」

「そうします……」

 返す刀でケイもへこませ、梅干しをかじっている。

 肩こりを解すためか、肩に例の棒を押し付けて。 

 一番恩恵を受けてるのに、この態度。 

 困った子だ。



 梅干しを食べたせいか、喉が乾いてきた。

 レモネードはもう無いし、お茶を持ってこよう。

 大体、甘い物と梅干しは無かった。

「サトミ、お駄賃」

「お駄賃は、仕事の報酬としてもらうの」 

 そう言いつつも、お金をくれるサトミ。

 お釣りもついでにもらっておこう。

「私にも、お茶ね」

「俺も」

「どうして、ケイに」

「ほら、お駄賃」

 木の棒を差し出された。

 それを掴み、軽く上げる。

 彼の手首を曲げ、変な声も上げさせる。

「な、何すんだっ」

「大声出さないで。周りの人に迷惑よ」

 さらりと言ってのけるサトミ。 

 ケイが立ち上がろうが木の棒を握りしめようが、全く相手にしない。

 怒る方が馬鹿、とでも言わんばかりに。

「みんなして、怪我人をいじめやがって」

「お前、もう治ったんだろ」

「知るか」

 八つ当たり気味にショウを叩こうとしたけど、軽くかわされて後ろから首を絞められた。

 狼に、ネズミが突っかかるような物だから。

 勿論ショウも、本気で絞めている訳じゃないけど。

「じゃれてないで、あなたもユウに付いていったら。一人では持ってこられないでしょ」

「ああ。それじゃな、ケイ」

「死ね。お前など、死ね……」

 自分こそ死にそうな男の子を置き去りにして、私とショウは自販機コーナーへと向かった。



 しかしいざ自販機の前に来ると、迷ってしまう。

 お茶のコーナーを通り過ぎ、ミルクセーキとかホットミルクとかが目に入ってくる。

 自分から見ている、とも言える。

 ホットのイチゴオレ?

 猛烈にまずそうだな。

「お茶買うんだろ」

「え?ああ、うん。そうそう」

 炭酸ジュースの自販機に爪を立て、隣のお茶が売っている自販機を睨む。

 麦茶、ウーロン茶、プーアル茶、緑茶。

 あ、チャイがある。

 低温殺菌の生乳と、セイロン直輸入のファーストリーフを使用。

「私、これ。誰が何と言ってもこれ」

「誰も、何も言わない。それに食事前は、甘いの摂らないんだろ」

「これは別。砂糖控えめ。低脂肪バター」

「分かった、分かったよ」

 多分呆れたショウは、お金を入れて煎茶のボタンを押した。

 渋いのを好むね。 

 ケイは出涸らしの番茶、なんて無いから抹茶でいいや。

 あの子、苦いの嫌いだし。

 ついでに、濃いのボタンも押してあげる。

「サトミは、緑茶と」

「どれでもいいよ」

「よくないの。これだから、おぼっちゃまは」

 文句を言っているみたいだけど、お茶が注がれるのを見るのに忙しくて聞いてない。

 紙コップにお茶が落ちてくるという光景だけではない。

 その上にあるディスプレイには、急須が浮いて湯飲みにお湯を注いでいる絵が映っている。

 毎回それは違い、今は湯飲みが「熱いっ」といって怒り出した。

 あまりの下らなさに、分かっていつつも笑ってしまう。

「そんなに面白いか」

「このために、もう一つ買ってもいいくらい」

「よく分からん」

 一言で片付けられた。

 それでも笑う。

 だって急須から、急須から細長い猫が出てきた……。



 お茶を運んでいる最中も、笑いがこみ上げてくる。 

 最後には湯飲みが一杯になって、仔猫が溢れてきたんだもの。

 その無意味さが、もう何とも言えない。

「大丈夫か」

「あんまり。ウニャーだもん、ウニャー」

「分かったよ」

 くすりともしないショウ。

 あれの面白さが分からないなんて、この人は人生の半分は損してるね。

「少し、うるさいな」

「済みませんね、子供で」

「違う、あっち」

「え?」

 紙コップを持ったまま、右後ろを振り返る。

 数人の男の子が、何やら揉めているようだ。

 殴り合いまでには行ってないけれど、椅子が倒れお茶やお菓子が床に散乱している。


「ガーディアンがいるでしょ」

「あいつらが、そのガーディアンっぽい」

 そう言われて、彼らの袖口を見てみる。

 するとそこには生徒会ガーディアンズ、SGのロゴをデザインしたIDが付いていた。

 またガーディアン連合、GUのロゴも何人かいる。

 生徒会ガーディアンズ対ガーディアン連合か。

 それ程仲は良くないけど、ケンカはやり過ぎだ。

 現場での指揮権を巡ってやり合っている訳でもなさそうだし。

「止める?」

「他のガーディアンが、すぐ来るさ。それに俺達には関係ない。止める責任も権限もない」

「まあ、ね……」

 彼に言われ、改めて感じる。

 自分達には、関係ない。

 確かにそうだ。

 例え何があろうと、今の私が関わる理由はない。

 まして相手は、ガーディアン。

 彼らへの反抗は、処罰の対象となる。

 いつも自分が、向かってくる相手にそうしていたように。

 ここで止めに入っても、処罰されるのがオチだ。

「行こう」

「うん」

 歩き始めたショウの背中を見つめつつ、その後に続く。

 彼は何も言わない。

 私も、尋ねない。 

 どうしようとも、どうすればいいとも。

 人に求めるのも、悪くはない。

 それが必要な時もある。

 そして……。



「いい加減にしたら」

 注目が集まるのも気にせず、彼らの間に割って入る。

 訝しげな視線は、すぐ敵意に満ちたそれへと変わった。

「何だ、お前。関係ない奴は、出てくるな」

「暴れるなら、グラウンドでやってよ。みんな、迷惑してる」

「うるさいな。ガーディアンに逆らう気か」

「自分達が何をやってるか考えてから、そう言って」

 周りの空気が一気に張りつめる。

 数名が警棒を構え、それとなく私を囲み出す。

 こちらはスティックも何もない。

 ガーディアンという資格すら。

「出しゃばりやがって。何様だ、お前」

「それこそ、関係ないでしょ。みんなに迷惑かけないでって、言ってるだけじゃない」

「ふざけるな。ガーディアンに逆らったらどうなるか、教えてやる」

 警棒を構えた男は、しかし私に掛かってくる事無く床にひれ伏した。

 微かな呻き声と共に。


「俺にも教えてくれ」

 目の前に立つ大きな背中。

 後ろ手に振られる見慣れた手。

 私はその肩にそっと触れ、彼の隣へ並んだ。

「拘束でも何でもしてみなさいよ。ガーディアンだからって、何してもいいと思ってたら大間違いなんだからね」

「こ、この野郎」

「お、おい。応援呼べ」

 揉めていた事も忘れ、連携して仲間を呼び出す彼ら。

 騒ぎは見る見る大きくなり、私達の周りにはラウンジ中の人が集まってきている。

 こうなっては向こうも手を出しにくいのか、ただ私達を睨み付けてるだけだ。

 そしてこれからどうなるのか。

 私は知らないし、どうだっていい。

 今の状況を許せなかった。

 それだけのために、私は動いた。

 後悔なら、後で幾らでもする。

 でも、黙って見過ごすなんて真似は出来ない。

 それだけは、絶対に……。



 しばらくすると、人垣が割れてガーディアンが押し寄せてきた。

 ロゴはSGとGU、Fというフォースの人達もいる。

「彼らが、何か」

 キャップの鍔に触れ、連中に顔を向けるGジャン姿の舞地さん。

 言い知れぬ威圧感に押され、後ずさる男達。

「そ、その。いきなり文句を付けてきて、こいつを殴り倒したので」

「腕を取られただけとの報告を、一般生徒から受けているが」

 鍔の奥で光る、鋭い眼差し。

「その程度で、いちいち呼ばないで欲しい。報告書に書く程でもない事だ」

「し、しかし」

「これだけガーディアンを集めて、たった二人を捕まえろとでも。しかも彼女達は、何もしていないのに」 

 厳しく詰問する舞地さんに、これといった応えは返らない。

 視線すら合わせられないという様子だ。

「だ、だけど。ガーディアンへの反抗は、処罰の対象だ。とにかく、こいつらは拘束する」

「好きにすればいい」

 素っ気なく呟き、後ろへ下がる舞地さん。

 それを合図とするかのように、数名の男が突っかけてきた。


「待て」

 彼らの前に、手をかざすショウ。

 不意に出たその手に、頼りない突進が止まった。

「お、大人しく拘束される気にあったか」

「……やるなら本気で来い」

 抑えたトーンで語られる、短い言葉。

 でも男達の顔は、一気に青ざめる。

 その言葉に隠された意味と、ショウの決意に。

 そして、結末に。

「ショウ」

「心配するな。責任は、俺が持つ」

「だけど」

 さらに小さな声で語るショウ。

 多分それは、私にしか聞こえないくらいの声。

「俺は他に何も出来ないけど、守る事だけは出来る。だからユウは、自分の事だけ考えててくれ」

「ショウ……」

 思わず胸に熱い物がこみ上げてくる。

 恥ずかしさや照れくささは少しも感じなくて、ただ彼の言葉だけが心の中で透き通っていく。

 その言葉の、持つ意味と共に。

 彼の、気持ちと共に……。


「そいつの名前を知ってるか」

 不意に尋ねる舞地さん。

 男達は、訝しげに彼女を睨み付けた。

「知らないなら、教えてやる。男は玲阿。女は雪野。ガーディアン連合所属の、現在は資格失効中のガーディアンだ」

「れ、玲阿?」

「ゆ、雪野?」

 一斉にどよめき出す男達。 

 顔は知らなくても、名前はというところか。

「骨折で済ませてもらうんだな。保険も、交渉次第では下りるだろう」

「そ、そんな」

「お、俺は、あ、あの……」

 じりじりと下がり出す彼らを、冷たい眼差しで捉える舞地さん。

 その手が、軽くショウへと向けられる。

「ここは抑えろ」

「別にいいけど、処罰っていうのは」

「そうする理由がない。それと、お前達は帰れ」

 舞地さんの視線を再び受け、飛ぶように逃げ出す男達。

 集まっていた他のガーディアン達も、それを見て白けたように散っていく。



 一時はどうなるかと思ったけど、取りあえずは事なきを得たようだ。 

 短気は損気。 

 とにかく、気を長く持たないと。

 そう考えれば、以前よりは私も大人になったのかな。

 突っかかっていったにしても、少しは思いとどまれたから。

 行く前に、考える時間を持てた。

 頭に来たから動くのではなく、一歩踏み出す前に考える。

 落ち込んだり、気弱になったり、迷ったり。 

 それは辛い事で、決して楽しくもない。

 だけど、何も知らないでいるよりはいいと思う。


「ガーディアンでも無いのに、何してる」    

「いいじゃない」

「元気になったのはいいけど、周りを見る目を養え」

 鼻で笑い、キャップを被り直す舞地さん。

 相変わらずだな、この人は。

 でも彼女の顔にも、この間アパートで見せた寂しげな表情はない。

 そして私も、少しは吹っ切れたのかもしれない。

 まだまだ悩みや重い気持はあるけれど、顔は上げていられる気分だ。

「でも、どうして舞地さんが来たの」

「後先考えない子供達がいるって、連絡があった」

「誰から」

「私から」

 肩が後ろから掴まれ、サトミの顔が横からのぞく。

 ちょっと怖い顔が。

「舞地さんが来なかったら、あなた達本当に拘束されてたのよ。ちゃんと、お礼言いなさい」

「あ、うん。どうも、ありがとう」

「ありがとう」

 それこそ子供のように頭を下げる私とショウ。 

「気にしなくていい。遠野も、あまりいじめない」

「はい。でも、本当にありがとうございました」

 サトミにまでお礼を言われ、どことなくはにかみ気味の舞地さん。

「浦田は、どこにいる」

 そう尋ねられ、ふと思い出す。

 確かに、ここにはいない。

 辺りを見渡すと、いた。


 さっきの騒ぎで、私達の周囲からは人がいなくなっている。

 そしてこちらを遠巻きに窺っている生徒達に紛れ、のんきにお茶を飲んでいる猫背の男の子。

 向こうも視線に気付いたらしく、舞地さんの手招きに応じる。

「何してる」

「お茶飲んでます。冷めるといけないんで」

 悪びれる様子もなく答えるケイ。

 もうなんか、さっきまでのいい気持ちなんてどこかへ行ってしまった。

 無気力というか、馬鹿馬鹿しいというか。

「みんな頑張ってるのに、それでいいのか」

「脇腹が痛いんですよ。こないだ蹴られた脇腹が」

 陰険な眼差しを向けてくる男の子に、舞地さんは素早く手を伸ばした。

 その手はまるで吸い付くかのように、ケイの右脇腹へと突き付けられる。

「どこが痛いって」

「……冗談ですよ、舞地さん。一生付いていきます」      

「迷惑だから、付いてこなくていい」

 珍しく、声を上げて笑う舞地さん。

 ケイも苦笑気味に口元を緩める。

 そして私達も、笑顔が浮かぶ。




 彼女の優しさ、暖かさに。

 もしこの人と出会わなかったら、私は今でも暗い闇に閉ざされていたのかもしれない。

 彼女が私の頬を打たなかったら。

 痛い、でも心に残る思い出。

 シスター・クリス、クリスチナさんにも抱いた気持ち。

 絶対に忘れない、胸の奥にしまわれる思い。

 彼女に何かあったなら、今度は私が手を差し伸べる番だ。 

 私の助けなんて、何の役にも立たないだろうけど。

 それでも、舞地さんのために頑張りたい。

 このちょっと素っ気ない、だけど優しくて素敵な先輩のために。












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