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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第9話
79/596

9-3






     9-3



 青地に黒いラインが入った、上下のトレーナー。

 スパイクもやはり、青地に黒。

 額のヘアバンドを上げ、前髪を軽く左右へ分ける。

 整備されたグラウンド、私の身の丈を越えるバー、石灰で引かれたラインが遠くでコーナーを描いている。

「……知ってる人も多いでしょうが、一応自己紹介を」

 黒のジャージを着たセミロングの綺麗な女の子が、私を目線で促す。

 前に居並ぶ、ジャージやTシャツ姿の大勢の人達。

「あの。1年の、雪野優です。ご迷惑を掛けるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 頭を下げると、暖かな拍手と励ましの声が掛けられた。

「これであなたも、陸上部員よ。私からも、よろしく。雪野さん」

 差し出された女子陸上部部長の手を、私はしっかりと握り返した。



 色々考えた結果、結局ここへ落ち着いた。

 格闘技系のクラブからも誘いはあったけど、今はそういう気分ではない。

 元々陸上競技は好きだし、知り合いが多いという理由もある。

 また試合に出る気はないので、後はみんなの迷惑にならないよう大人しくしていればいい。

「よろしく、雪野さん」

「何よそれ」

「だって、雪野さんでしょ」

 短めのショートヘアをかき上げる、綺麗に日焼けした女の子。

 あどけなさを残す、でも精悍さも感じさせる顔立ち。

 体格としては私より一回り大きいくらい。

 またTシャツやショートパンツから伸びる手足は、走るために作られたとしか言いようのない美しさを誇っている。

 ニャンこと、猫木明日佳ねこぎ あすかさんは。

「それで、ユウユウは何やるの」

「短距離かな。フィールドは無理っぽいし、走るの好きだから」

「じゃあ、タイム測ろう。誰かー」

 彼女が手を振ると、数名の男女がやってきた。

 以前から陸上部には顔を出していたけど、初めて見る顔ばかりだ。


「この子、さっきの雪野優。100m測るから、誰か一緒に走って」

「一人でいいんだけど」

「駆けっこじゃないんだから。誰か、走りたい人」

 すると勝ち気そうな顔をした、ロングヘアの綺麗な顔立ちの女の子が手を上げた。

 素人が、という視線も感じる。 

 それは当然なので、私は取りあえず会釈した。

「さあ、楽しみ」

「何が、猫木さん」

「彼女を舐めてると怖いわよ。勿論、あなたも速いけどね」

 ニャンと視線を合わせた女の子は、その鋭い目付きをもう一度私へぶつけてきた。

 こっちはあくまでも新入部員なので、また頭を下げる。

「そう、ペコペコしない。黒沢くろさわさんも、この間入ったばかりなんだから。同期よ、同期」

「ええ。だから、どちらが速いのかは決めておかないと」

「だって。さあ、測ろう」

 高らかに宣言するニャンの手が、ずっしりと肩にのしかかってきた……。


 400mトラックの、ホームストレート。

 つまり100m。

 他の部員は私達のために、前を開けていてくれる。

 また計測という事を聞きつけてか、陸上部以外のギャラリーも集まり始めている。

「恥ずかしいな」

「大丈夫。試合の緊張感を思い出して」

「中3の体育祭くらいよ、試合なんて」

「それで十分。黒沢さん、準備は」

 入念なストレッチとスタートの練習をしていた彼女が、こくりと頷く。

「ユウユウ、行くわよ」

「あ、うん」

 私もスターティングブロックの位置を直し、汗を袖で拭う。

 それにしても、こうして走るのは前期の100m測定以来だ。

 緊張の反面、嬉しさもある。

 走る事への楽しみと緊張感が、そうさせているみたい。

 ゴール地点へ、端末で連絡するニャン。

 遠くで手が振られる。

 私が辿り着く場所で。



「On your mark.」 

 地面に両手を付き、足をスターティングブロックへ合わせる。

 横目に映る、黒沢さんの姿。

 その長身と長い手足は、短距離には打ってつけの体格だ。

 それが先程までの強気な態度にも表れているし、彼女自身も分かっているのだろう。

 こんな小さい私に、負けるはずがないと。

「Get set.」

 腰を上げ、体重を前へ移動させる。

 周囲の音は何も聞こえず、視界に映る地面と自分の手だけが理解出来る。 

 それ以外の意識は、次の号令のためだけに。   

「Go!」



 スターティングブロックを蹴りつけ、低い姿勢での飛び出し。

 同時に腕を大きく振り、上体を少しずつ起こしていく。

 束縛から解き放たれた小鳥の心境。

 一気に開けた視界へ向かい、ストライドを伸ばす。

 頬に当たる風、後ろへ流れていく景色。

 踏みしめた足から伝わる、確かな土の感触と着地の感覚。

 体勢が整ってきたところで腕の振りを修正し、まっすぐに近い小さな形へと変える。

 ストライドが安定し、徐々にゴールの辺りがはっきりと見え出す。

 貯えていた残りの力を、そこでさらに手足へと伝える。

 さらに加速する周りの風景。

 まるで向こうから飛び込んでくると錯覚してしまうくらいの、胸の空く爽快感。

 自分の体を構成する一つ一つが、はっきりと分かる。

 どの部分がどう動き、どうなっているのか。

 強く自分を意識し、同時に周りの事が普段以上にはっきりと理解出来る。

 風には色がある、地面がささやいている、空は私を見守っている……。


 気付けばゴールを駆け抜けていた。

 ほぼ無呼吸で走っていたので、さすがに息が切れた。

 しかし急に動きを止めると却って体に悪いため、歩きながら計測していた男の子の傍へと歩いていく。

「タ、タイムどうだった」

「え、あ。タイムね」

 しどろもどろで、はっきりしない。 

 何だろうと思って、同じく辺りを歩いている黒沢さんへ視線を向ける。

「疲れたね」

「当たり前じゃない」

 何言ってるのという険しい顔。 

 確かにそうだ。

 改めて、口にする程の事ではない。

 そう思っていたら、彼女の口元が微かに揺るんだ。

 本人は我慢しているようだけど、どう見ても無理だ。

「あ、あなたが変な事言うから」

 怒りながら笑う黒沢さん。 

 それには私もおかしくなって、つい声を上げて笑ってしまった。

「何が、「疲れたね」よ」

「だ、だってそうじゃない」

「ご飯食べて。「お腹一杯ね」と同じレベルよ、それは」

「うるさいな」

 笑いながら二人で睨み合っていると、いつの間にかニャンがやってきていた。


「タイムは、どうだった」

「え、えと。11秒35と、11秒64です」

「どっちがどっち」

「嫌みな事言わないで、猫木さん。負けたのは私って、分かってるでしょ」

 拗ねたように顔を逸らした黒沢さんに、ニャンは手にしていたタオルを放った。

「あなたも速いけど、この子も相当なのよ。陸上のではないけど、トレーニングも毎日してるし」

「全く。勧誘されて入ったのに、これじゃ意味無いわね」

「努力努力。黒沢さんが本気でやれば、ユウユウの記録なんて軽く抜けるから」

 タオルを口元に当てていた黒沢さんは、顔を伏せて地面を蹴った。

 悔しさや自分自身への苛立ち。   

 それは私にも理解出来る。 

 また、指摘したニャンはそれ以上に。

「……頑張れば、いいって事ね」

「勿論」

「分かった」

 顔を上げた彼女の顔は、さっきまでと同じ勝ち気な表情。

 微かに赤い目元も、また彼女らしい。


「おっ」

 突然黒沢さんが投げてきたタオルを受け止め、目線で尋ねる。

「みっともないから、顔くらい拭いたら」

「普通の顔よ」

「汗の事を言ってるの、私は。見た目は、あなた可愛いわよ」

 思わずタオルで拭く手が止まる。 

 同時に、ニャンの派手な笑い声も聞こえてきた。

「ユウユウが可愛いって。はは、それいい」

「おかしいかしら、猫木さん」

「いえ、その通り。笑う事じゃ無かったわね」 

 でも私を見るニャンの目は、おかしくてたまらないといった様子だ。

「私なんかより、ニャンの方が可愛いんじゃない?」

「猫木さんのは精悍ってイメージよ」

「ふーん」 

 なるほどと思い、つり目が印象的な黒沢さんの横顔を眺める。 

 サトミよりもやや大人びた、でも綺麗な顔立ち。

 そしてサトミよりも、通った鼻筋。

 例えるなら、お嬢様っていうイメージだね。

「という訳で、これからも頑張ろう」

「うんっ」

 素直に頷く私と、照れ気味に頷く黒沢さん。

 初冬の風は冷たくて。

 でもそれは、瑞々しさと清々しさをもはらんでいた。

 まるで今の、私達の気持ちのように……。



 陸上部に通い出して数日。

 他の人達とも打ち解け始め、仲のいい人達と一緒にいる機会が多くなっていた。

 ニャンは勿論、黒沢さんは時折きつい事も言うけど親切に色々教えてくれる。

 それ以外にも何人かの男女が集まって、今日は学校近くのファーストフード店へとやってきていた。

 全員ジャージと大きなバッグを抱え、何となく一体感が感じられる。

 話題も自然と陸上の事が多くなり、それが楽しくて仕方ない。

 今までとはまた違う世界というには大袈裟だけど、新鮮な気持ちでいられるのは間違いがない。

 寮に帰ってからの食事を考え女の子は飲み物だけ、男の子もポテトが追加されている程度。

 それでも仲間と共通の話題で話していれば、雰囲気は自然と盛り上がっていく。


「雪野さんは、中距離の方がいいんじゃないかな」

「俺も、そう思う。今までのトレーニングがそっち方面だから。今でも勿論早いけど、短距離のトレーニングとはまた別だし」

「私は、そこまで本格的にやる気はないわよ」

 くすくす笑い、ストローへ口を付ける。

 冷たい紅茶が、高揚した今の気分に心地良い。

「ちょっと、ごめん。トイレ」

「ユウユウ。口にしないで」

「そういう子なのよ」

 呆れて首を振る黒沢さんに一睨みして、トコトコとみんなの元を離れる。

 みんなこっちを見て笑ってるけど、周りの話し声で聞こえないから気にしないでおこう。

 どうせ私は、どこででも笑い者なのよ……。


 清々しい気分でトイレから出てくると、壁際に男の子が立っていた。

「あ、トイレ?」

「い、いや」

 戸惑い気味に首を振る男の子。

 彼も短距離をやっているため、私の指導をよくしてくれる。

 ちょっと突っ張った感じだけど、話してみれば普通の子だ。

「少し、いいかな」

「ん、なに」

 それとなく、私を店内からの死角へ誘う彼。

 何かされると警戒する場面ではないので、すぐに付いていく。


 店員の控え室や食材の倉庫らしき辺りの前。

 その店員も、また客の姿もまるでない。

 男の子、岩見君は綺麗にセットされた前髪に触れ、壁を指先で叩いている。

「あ、あのさ。雪野さんって」

「なに」

「好きな男とか、いるの」

「ええ?」

 大声になりそうなのを抑え込み、まじまじと彼を見上げる。

 向こうは壁を向いたままで、私と目を合わせようとはしない。

「ど、どうなのかな」

「どうって。大体、それ聞いてどうするの」

「そう言われると、俺も困るんだけど」

 壁を叩く速度が速くなり、顔はますます下がっていく。

 私もどう答えたらいいのか分からず、やはり顔を俯ける。

 気まずい沈黙が、私達の間に流れ出す。


「おーい。ユウユウーッ」

 後ろの方で、ニャンの呼び掛けが聞こえてきた。

 いつまで経っても戻ってこないので、心配したのだろう。

「わ、私行くね」

「あ、ああ。そ、それでさっきの質問。後でいいから、ちゃんと聞かせて」

「う、うん」

 適当に頷き、急ぎ足でその場を立ち去る。

 通路のコーナーを曲がると、こちらを覗き込もうとしていたニャンと目が合った。

「いい年して、かくれんぼ?」

「そうじゃない。そうじゃないって」

「まあ、いいけど。そろそろ、帰るわよ」  

 私の手を引き、強引に引っ張るニャン。 

 そしてみんなの前に私を引き出し、頭を撫でてきた。

「迷子発見」

「ああ。後は、岩見が」

「あそこにいるじゃない」 

 すでにバッグを担いでいる岩見君は、店の外で一人立っている。

「よく分かんないな。取りあえず、帰ろうか」 

 私達もバッグを担ぎ、すぐに彼と合流する。

 そして寮への帰り道、彼が話しかけてくる事はなかった。



 食事とお風呂を済ませ、ベッドの上で横たわる。

 今までとは違うトレーニング方法なので、疲労する筋肉もまた微妙に異なっている。 

 ただ疲労とは言っても、むしろ心地良いくらい。

 運動をしたという実感が、強く感じられるから。

 何となく陸上部に染まりつつある。

 そう思っていると、インターフォンが来客を告げた。

 モニターには、お酒の瓶を抱えた女の子が映っている。

 見知った顔なので、すぐにセキュリティを解除する。

 部屋に入るや、人の肩を抱いてくるニャン。

「岩見君と、何があったのよ」

「え?」

「分かってるんだから」

 私を解放した彼女は勝手にグラスを持ってきて、ビールを注ぎ出した。 

 それは普段と変わらないのでいいんだけど。

「さあ」

 差し出されたグラスを一気にあおり、ため息と共に首を振る。

「私は、何もしてないわよ。ただ向こうが、好きな子がいるのかって聞いてきただけだから」

「へえ。遠回しな告白じゃない。やるわね、優さん」

 一緒に来ていた黒沢さんは、笑い顔でグラスに口を付けている。

 つまりは、人を肴に飲みに来たという訳か。

 どうしようもないな、もう。

「でも、羨ましいですね。ドラマみたいで」

 グラスを両手で持っていた青木あおきさんが、可愛らしい声でささやく。

 ハイジャンプをやっている、華奢な体型の優しい子だ。


「で、どうなの」

 ぐいと人の顔を覗き込んでくるニャン。 

 残りの二人も、グラスを片手にじっと見つめてくる。

 私は適当にグラスをあおり、息を付いた。

「どうでも、いいじゃない」

「付き合わないの?だったら、他に好きな子がいるとか」

「へえ。そうなんですか」 

 ニャンに代わって、詰め寄ってくる二人。

 私はグラスを抱えたまま、後ろへと下がった。

「ユウユウはね、ちゃんと素敵な彼氏がいるのよ」

「ニャンッ」

「そうじゃない。あなたは自分で言わないけど、みんなショウ君と付き合ってると思ってるわよ」

「しょうくん?」

 顔を見合わせる、黒沢さんと青木さん。

「二人は知らないかな。玲阿四葉君。実家が古武道やってて、お父さんが北陸防衛戦の英雄」

「え、あの玲阿君っ?そうなのっ?」

「すごい格好良い男の子ですよね。背が高くて、女の子に人気がある」

 それ以外の玲阿君は私も知らないので、取りあえずは頷く。

 キラキラ輝く瞳に、話すのも惜しいと言った表情の二人。

「だから、別にそういう訳でも無いともあるとも」

「はっきりしないわね。明日佳さん、どうなってるの」

「微妙なところなのよ。時間の問題だと、私は思ってるけど」

「へぇ。両思い、なんですか?」

 青木さんの質問に、グラスを傾ける手が止まる。


 私の気持ちは、自分でも分かっている。

 でも、彼はどうなのか。

 少なくとも好意は抱いているだろうけど、それがどの程度のものなのか。

 仲の良い女友達。

 それとももっと特別な、たった一人の女の子。

「どうかしました、雪野さん」

「え?い、いや別に。私の事なんて、どうでもいいじゃない。はは」

「余裕ね、彼氏がいると」 

 怖い目で睨んでくる黒沢さん。 

「あなたこそ、もてそうなのに」

「それと、振り向いてもらうのとはまた別なのよ」

「わ、格好良い」

 小さく拍手する青木さんに、黒沢さんは叩く振りをしてため息を付いた。

「何も格好良くないわよ。どこかに、いい男でもいないのかしら」

「怖い事言うわね。それは、私も同感だけど」

 虚しく微笑み、グラスを合わせる黒沢さんとニャン。

 青木さんはちびちびと、ウーロン茶を舐めている。

 今までとは違う、新しい仲間。

 私を分かってくれる、そして私自身も理解出来る人達。

 新鮮な気持ちと彼女達の笑顔が、胸のつかえを薄めてくれる。

 自分の居場所を追われ、でもそんな私を受け入れてくれた人達。

 私は一人グラスを掲げ、そんな彼女達に心の中で感謝を告げた……。




 翌日。

 授業が終わり、やはり陸上部へとやって来る。

 着替えを済ませグランドに出てくると、男の子が傍に近づいてきた。

 昨日声を掛けてきた、岩見君だ。

 英語のロゴが入ったTシャツに、濃紺のショートパンツ。

 短距離選手なので細身ではあるけど、瞬発力が生まれるようないい体付きである。

「やあ」

 何となくぎこちない挨拶。 

 私も軽く手を上げ、それに応える。

「あ、あのさ。昨日はごめん」

「謝る様な事じゃないと思うけど」

「そ、そうんだけど。一応、俺の気持ちとして一言言いたかったんだ」

 それだけの言葉を、つっかえつっかえ話してくれる岩見君。

 彼の人柄というか、その気持が伝わってくる。

「ユウユウー。ストレッチやるわよー」

「あ、うん。岩見君、またね」

「え、ああ。……俺も、一緒にやるよ」

 頬を赤くして、同意を求める視線を送ってきた。 

 断る理由もないので、私もすぐ頷く。


 私はニャンと、岩見君は先輩の男の子とストレッチを始めた。

 運動前に十分酸素を取り込み、怪我や体への負担を出来るだけ防ぐ。

 これだけで一汗かくくらいで、気持ちがいい。

「まだ?」

「大丈夫」

「柔らかいわね、あなたは」

 足を180度近く開き、その間に体を伏せさせる。

 その後ろから、ニャンが力を入れて背中を押してくれている。

 地面にほぼ顔が付くくらいで、それでも特に苦しい事はない。

 格闘技をやる人間なら、この程度はやれないと逆に困る。

「あそこ、人が集まってる。ほら」

 ニャンの声が、背中越しに聞こえる。   

 だけど見えるのは、影の落ちた地面だけ。

「どうしたのかな」

「見えないし、何にも分からない」

「ああ、ごめん」

 ようやく背中の手を離すニャン。

 そのまま起きるのもなんなので、開いていた足を後ろへ持っていく。 

 今度は腕を軽く曲げ、それに一瞬力を込める。

「わっ」

 ニャンの叫び声を後ろで聞き、逆立ちからの前転で立ち上がってみた。


「あ、足が、鼻のここをっ」

「見てたって」

「鼻のここをっ」

 自分の顔を指差し、ぐいぐい近づいてくる猫木さん。

 しつこいな。

「分かったわよ。ケーキ一つ」

「モンブランね」

「何でもいいと思うんだけど」

「いいから。それより、私達も行こう」

 ころっと話題を切り替え、私を促す。

 この辺りはネコだよなと思いつつ、彼女の後に付いていく。

 正確には人が集まっている訳ではなく、注目が集まっていた。

 その人の行く手に注がれる、熱い視線。

 どちらかといえば、女の子のが多い。

 その理由は、すぐに分かった。

「あらら」

 私の肩を揉み、一人納得するニャン。

「おーい」

 そして恥ずかしげもなく、手を振り出した。

 向こうもそれに気付き、こちらへと歩いてくる

 今まで彼に向けられていた注目は、自然と私達にも向くようになる。

「もう、恥ずかしい」

「いいから、いいから。こんにちは、何しに来たの」

「ちょっと、ユウの様子を見ようかと思って」 

 ショウはそう言って、私に軽く手を振った。


 茶の革ジャントに、シルバーのネックレス。

 下は黒の革パンで、やはり皮のトレッキングシューズを履いている。 

 顔も体型もいいから、何着ても似合うねこの人は。

「練習、邪魔だった?」

 辺りの様子を、申し訳無さそうに窺うショウ。

 それに対してニャンは、けらけらと笑い彼の肩を何度も叩いた。

「気にしない、気にしない。ユウユウは正式な部員じゃないし、練習はお遊びみたいなものよ。それに私達も、練習しっぱなしって訳じゃないから」

「そうか。でもそういう格好見てると、俺も走りたくなるな」

 ちらりと私を見つめ、はにかむ彼。

 ノースリーブの淡いブルーのシャツに、やはりブルーのショートパンツ。

 そこからは、私の短い手足がのぞいている。

「子供の運動会よ、どうせ」

「そうかな。似合ってるぞ、それ」

「え、そう?」

 現金にへへっと笑い、意味もなく走ってみたりする。

 こういうのが、子供なんだよね……。

「ヘアバンド、してるんだ」

「あ、うん。走る時、前髪がちょっと掛かるから」

 額のヘアバンドを直し、上目遣いで彼を見つめる。

 ショウは何も言わず、ただ親指だけを立ててくれた。

「さあ、ニャンッ。走ろうかっ」

 急にやる気が出てきた私は、大きく手を振り回した。

 今なら日本海まで走っていける気がする。

 列島縦断だね。

 勿論走れないし、走らないけど。


「へぇ」

「なるほど」

 突然後ろから聞こえる、感嘆とも取れる声。

「あなた、玲阿君よね」

「え、ああ」

「私は、黒沢。彼女は青木さん。優さんとは同期みたいなものね」 

 礼儀正しく頭を下げる青木さん。

 黒沢さんは腕を組んだまま、品定めでもするかのようにショウに見入っている。

「こんな子がいたら、仕方ないわね」

「岩見君に、目が行かないのも分かります」

 冷静に分析し出す二人。

 あ、あのね。

「ちょっと、そんな事はどうでもいいの」

「誰、その岩見って」

「どうでもいいって……」

 ショウに吠えようとしたら、当の岩見君がじっとこちらを見ていた。

 見ている比率は、私よりもショウの方が多い感じ。

 やや鋭いというか、敵意みいたものも感じられる。

「ライバル」

 人の耳元で、ぽつりとささやくニャン。

 聞き返しも、否定もしない。

 そんな余裕もなく、手にかいた汗をショートパンツで拭く。


「玲阿君、だよね」

「ああ。そうだけど」

「俺は、岩見。見ての通り、陸上部の部員だ」

 体格ではショウに劣るが、それに気圧されまいとしている様子。

 こうした行動を取る理由は、あまり考えたくない。

「見学にでも、来たのか」

「まあね。ユウ、雪野さんを見に来たついでに」

「親しいんだな、名前で呼ぶなんて」

 そう指摘され、つい顔を見合わせる私達。

 ショウ。

 ユウ。

 いつからだろう、そう呼び合うようになったのは。

 少なくとも中2頃までは、玲阿君だったはずだ。

「付き合いが長いから」

 さらりと言うショウ。

 私のように、昔へ思いを馳せていたのかどうかは分からない。

 彼が今、何を考えているのかも。


「……まあいい。それより、少し走らないか」

「走るって、ここを?」

「ああ。スパイクは貸すから、競争しようぜ」

 厳しくショウを睨む岩見君。 

 彼の意図するところは、私でなくても理解出来ただろう。

 一触即発とも言うべき自体に、周りの空気も変化し始める。

 心配をしているのはごく少数で、大半は期待と好奇心に満ちた表情。

 それは彼等だけでなく、私へも当然向けられている。

「分かった。着替えて来るから、ちょっと待っててくれ」

「ああ。100mでやるからな」

 歩み去っていくショウに、鋭い視線を送る岩見君。

「ちょっと、何やるつもり」

「な、何って、走るだけさ。いいだろ、それくらい」

「そうだけど。……もういい」

 何か言いたそうな岩見君から離れ、ニャンに寄り添う。

「心配ない、心配ない」

 脳天気な答えと、朗らかな笑み。

 それには少しだけ心が安まった。

 ただこれから何が起きるかを考えると、あまりいい気分ではない。

 今までにない感覚と出来事に戸惑いと不安を覚えつつ、私はニャンの手を握り続けていた。


 ややあって、Tシャツとスパッツに着替えたショウが戻って来る。

 スパイクだけは借り物なので、やや収まりが悪いようだ。

「体、解れてるな」

「ああ」

「誰か、スターターやってくれ」

 岩見君の呼び掛けに、数名の男の子が前に出てきた。 

 ゴール地点へ行こうかとも思ったけど、それは避けた方がいいだろう。

 いかにも待ちかまえている感じで、私自身楽しくない。


 スタートラインに付き、構えを取る二人。

 静寂と張りつめた空気の中、スタートの合図がされる。 

 鋭い飛び出しを見せる岩見君。

 やや遅れたショウが、その後に続く。

 一気に小さくなる二人の背中。

 後ろから見ている限りでは、岩見君が終始リードしているようだ。

 正直見ていられない心境の中、彼等はゴールへと辿り着いた。

「何、暗い顔してるのよ」

「だって」

「あなたがショウ君から距離を置けば、これからは幾らでもある事よ」

 諭すように、語りかけてくるニャン。

 今まで意識していなかった、気にしてもいなかった。

 こんな事、私には関係ないと思っていた。

 でも今こうして、目の前で繰り広げられている出来事は……。

 人をからかっていた時はあんなに楽しかったのに、今は何となく気が重い。  

「とにかく、行こう」

「うん」


 ニャン達に連れて行かれる格好で、ゴールへやってくる。

 どちらが勝ったかは、その顔を見てみればすぐに分かる。

 笑顔を隠せない岩見君。

 そしてゴール地点にいた人達も、彼の周りに集まっている。

「負けたの、ショウ君」

「まあね」

 額の汗を袖で拭い、ショウは大きなため息を付いた。

 ただ表情は硬いものの、落ち込んでいる雰囲気はない。 

 それが、せめてもの救いだ。  

 また彼はそれ程短距離向きではないので、この結果は私自身予想済みでもある。

「何も、競争しなくてもよかったのに」

「それは、その。俺も、挑まれたからにはさ」

「分かんない」 

 彼から顔を逸らし、まだみんなに囲まれている岩見君に目をやる。

 向こうもこちらの様子が気になったらしく、ふと目が合った。

「さて。どうなる事やら」

「冗談じゃないわよ、ニャン。私はね」

「いいから」

 人垣を掻き分け、こちらへとやってくる岩見君。 

「君も、早かったよ」

「それはどうも」

「ただ俺も、短距離やってるからな。素人には負けないさ」

 一応はショウの健闘を称えている。

 やや勝ち誇った表情をするのと、私に同意を求める視線を送ってくるのは仕方ないだろう。 

 彼が勝ったのは、間違いもない事実なんだから。


「練習だよ、何事も。毎日毎日、休まず走って。とにかく、体を鍛えるんだ」

「はあ」

「いい体してるのに、もったいないな。何かやってるのか」

 上機嫌で尋ねる岩見君。

 ショウは答えに詰まって、私に困った顔を向ける。

 だけど私も言う気にはなれず、さらに顔を背ける。

「よかったら……。なんだ?」

 まだ何か言おうとしていた岩見君の足元に、砲丸が転がってきた。

 どうも、フィールドの練習エリアまで来てしまっていたらしい。

「悪いー。それ、取ってくれー」

 少し離れた所にいるいい体格をした男の子が、こちらへ向かって手を振っている。

 しかし取ってくれといっても。

「むんっ」

 両手で砲丸を持ち上げ、数歩歩く。

 というか、数歩しか歩けなかった。

「重い」 

「7.5kgでしょ」

「私には重いの」

 足を開き、その間に砲丸を投下する。 

 地面が少しめり込んで、ちょっとおかしい。

「はは」

「笑い事じゃないわよ、優さん。早く、持っていってあげたら」

 腕を組み、顎をしゃくる黒沢さん。

 手伝ってあげるわよ、という言葉は聞かれそうにない。

「青木さーん」

「あ。私も、非力ですから」

「よく跳ぶじゃない」

「腕力は無いんです」

 薄く微笑む青木さん。

 ハイジャンプの性質上、跳ぶ以外の余計な筋力を付けないのは基本だ。

 でも、手伝ってくれてもいいと思う。


「俺が……」

「ユウ、貸して」

 岩見君よりやや早く、ショウが私の足元へ屈んだ。

 憮然とする彼の視線をよそに、砲丸を親指と人差し指だけで掴み上げるショウ。

「う、嘘だろ」

「え、何が」

 彼の疑問は当然だ。

 ニャンが言った通り、砲丸は7.5kg。

 加えて、その大きさ。

 私は両手で持つのがやっとだった。

「あの子に返せばいいんだろ」

「多分ね」

「よし」

 頷くや、腕が後ろへ持って行かれる。

 何をするのかと思っていたら、そのまま振りかぶって砲丸を放り投げた。

 風を切り、直線で飛んでいく砲丸。

 呆気に取られるみんなをよそに、砲丸は手を振っていた男の子の前に辿り着いた。

 正確には、埋まった。

「危ないじゃない」

「コントロールは正確なんだ」

 肩を押さえ、腕を振り回すショウ。 

 ちゃんと返せたし、まあいいか。

「肩、抜けていないの?」

「別に」

「無茶苦茶ね」 

 言葉もないという顔のニャン。

 黒沢さんと青木さんは、本当に一言も発しない。

 夢、それともこの世にはあり得ない現象を見たかのように。

「高校生記録なんて、25mくらいだろ」

「あんな投げ方はしないの。野球じゃないんだから」

「俺、陸上部じゃないから」

 下らない言い訳をする男の子。 

 私にとっては見慣れている出来事なので、特に何とも思わない。


「……何だ、今の」

 目を丸くした岩見君は、力無く砲丸を拾い上げている男の子をじっと見つめている。 

「どうなってるんだよ、一体」

 その顔のままショウに振り向き、彼を上から下へと食い入るようにチェックし出す。

「それは」

「パワーリストと、アンクル。5kgでしょ」

 ショウに代わって答えるニャン。

「全部で?」

「一つが、よ」

「そんなにないって。3kg」

「大差ないじゃない」

 何とも表現しがたい空気が辺りに漂い始める。

 冷たさをまとったサトミを見るのとはまた違う、畏怖とも言うべき雰囲気が。

 それだけの重しを付けて100m走って、さらに砲丸をボールのように放り投げる。

 そして当の本人は、特に自慢する素振りもない。

 もしこの人が本気を出したらどうなるのか。

 好奇心と恐れの入り交じった視線が、ショウへと集中し始める。


「す、すごいのね。玲阿君」 

 かろうじて、そう声を掛ける黒沢さん。

 するとそれまで呆然としていた岩見君が、さらにその目を見開いた。

「……玲阿って、実家が古武道やってるっていう。あの玲阿?」

「一応」 

 照れくさそうにするショウに、岩見君は慌てて頭を下げ出した。

「ご、ごめん。俺、何にも知らなくて。わ、悪かった」

「いや、別に謝ってもらわなくても。何もしてないし」

「そ、そうだけど。と、とにかくごめん」

 必死に頭を下げる男の子と、それを押しとどめる男の子。

 これもまた、見慣れた光景だ。 

 ショウを知らないでちょっかいを掛けると、大抵はこうなる。

 今回は悪意があった訳ではないし、事情が事情なので私も少々複雑だけど。

「……そう、か。だからあんな事も出来るんだ」

「気にしない気にしない。ショウ君は格闘技が得意で、岩見君は走るのが得意。ただ、それだけの事でしょ」

「ネコさんの言う通りだよ」

 優しく笑うショウ。 

 でも、ニャンをネコさんって呼ぶのはどうかと思う。

「そうすると、雪野さんも強いのかな」 

 恐る恐るお伺いを立ててくる岩見君。

 私は曖昧に首を振って、その場をごまかした。

 別に隠す事ではないけど、せっかく知り合えた人達に誤解されたくない。


「危ないっ」

「え?」 

 声よりも早く、体が反応した。

 瞬間に身を翻し、飛んできていた何かをかかとで叩き落とす。

 誰だか知らないけど、声を掛けてくれて助かった。

「フリスビーか。面白いよね、これ」

「そんな事考えてる場合じゃないと、私は思うわよ」

「何が」 

 地面に叩き付けたフリスビーを拾い上げつつ、顔を上げる。

 そこには硬い顔で、私を直視している陸上部の面々。

 その向こうには、同じグランド内で練習をしているフリスビー部の人達も。  

 勿論彼等の表情も、同じ様なものだ。

「あ、あの。今のはちょっとしたお遊びというか。ストレッチの成果が、ここに来て出てきたみたい……」

 と言い訳するも虚し。

 私の肩に手を置く黒沢さんと、真顔で見つめてくる青木さん。

 やり過ぎたかな、ちょっと。

 もしかして、愛想を尽かされてしまったのかもしれない。

 やや落ち込み気味に彼女達の顔を覗き込むと、きつい眼差しで睨まれた。

「ここは、陸上部よ。そういうのは、よそでやりなさい」

「よければ済む事ですから」

「あ、はい」

 なんか肩すかしを食らった気分。

 怖がられるどころか、怒られてしまった。

 でもそれは、ちょっと嬉しくもあった。



 そしてこうも思った。

 やっぱりこの人達は、私を分かってくれてるんだなと。  











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