エピソード(外伝) 8-4 ~ケイ視点~
8-4
適当に理由を付け、光と永理を帰らせた。
あの二人を巻き込む気はないし、特に光には話しても仕方ない。
頭は良いんだけどな、あいつ。
「恨みを買ったって?」
「自殺志願者を手伝っただけさ」
「しないって、分かってたくせに」
モトも本人を見ているので、どんな人物かは分かっているようだ。
俺は推測で他人を判断のに対して、モトはその優れた精神感応力で相手を理解する。
超能力なんて大袈裟な物ではなく、他人へのシンパシーを取れるという事だ。
心を読むとユウ辺りは最初勘違いしていたが、そんな能力があれば誰も苦労しない。
また仮にそうだとしても、彼女はそんな事をしない女の子である。
「知らないわよ、何かされても」
「そんな度胸も、能力もない。俺に仕掛けてくる分には、放っておく」
「丹下さんやその女の子に何かあったら、って事でしょ」
俺の考えなどお見通しか。
「それも、大丈夫だとは思う。俺を監視してるのも、殴ったのをリークしないか心配なんだろ」
「逆にコントロールしてるって言いたいの?呆れたわ」
「いいんだよ、そういうの好きなんだから」
「丹下さんは、嫌いだと思う」
はっきりと言い切るモト。
そして俺の答えを待たず、次の言葉を繋げてくる。
「分かってるでしょ、それくらい」
「性格でね。変えられないし、変える気もない」
「自分が犠牲になっても?」
「そういう考え方はしてない。俺にとっては、これが普通だから」
小さく、そして淀みなく答える。
誰かのために、なんて発想でもない。
俺は、俺のために生きている。
もし何かしたとしても、それは結局俺自身のため。
言い換えれば、下らない自己満足。
そして俺は、それを貫き続ける。
例え、何があっても。
「考え方は変えないって顔ね」
「前からこんな顔です」
「あ、そう」
素っ気ない言葉。
彼女自身説得しようと思っていた訳ではなく、頭には入れておけという事か。
「あなたが何をやろうと、私は気にしないんだけど」
「そうですか」
「そうよ」
「サトミやユウのため」というニュアンスを含んだ台詞。
それは全くの本気ではないが、冗談という訳でもない。
俺の事で彼女達が心配しないよう、軽く釘を差しに来たのだろう。
「とにかく、大人しくしてなさい」
「俺は、いつでも大人しいんだけどね」
「ふーん」
愛想無く立ち上がるモト。
「それじゃ、私も帰る。ちゃんと、丹下さんの言う事聞くのよ」
「ああ」
「気のない返事ね。それじゃ」
軽く手を振り、モトは颯爽とドアを出ていった。
相変わらず、気の回る子だ。
サトミ達が慕う気持も、よく分かる。
俺も彼女には敬意を抱いているし、頭が上がらない部分も多い。
とはいえ、今の話を全て受け入れるつもりもない。
誰からどう言われようと、こんな俺にだって譲れない事はあるのだから。
次の日。
俺なりに考え事をしつつ、1Fのロビーへとやってきた。
そっちへ頭が行っていて、人の多さや喧噪も余り気にならない。
取りあえずブドウ炭酸を買い、患者や看護婦達をすり抜けていく。
ロビーを抜けた、非常階段前のソファー。
患者や見舞客もそうは来ない、静かなスペース。
そこへ腰を下ろし、酸味と炭酸の喉越しを味わう。
「……こちらの、患者さんですか」
目を見張るような美人が、俺の顔を覗き込むように屈み込んでいた。
澄んだ二重の瞳と、輝くような黒髪が真っ先に目に付く。
スタイルも抜群で、それこそ息を息を飲みたくなる程だ。
ただ俺は肉体が弱っているため、何の感慨も沸き上がってこないが。
「ええ」
「失礼します」
爽やかな笑みを浮かべ、俺の隣に座る女性。
スーツ姿だが、スタイルにあって無いらしくややきつめの感じ。
どうでもいい事だ。
「悩みがあるっていう顔ですね」
「そうかな」
悩み、ね。
病院で悩みのない人間がいたら、お目に掛かってみたい。
「学校の事でしょうか」
「まあ多少」
どう見ても、俺は学生。
入院していたら学校へ行けるはずもないので、悩むに決まっている。
「大変ですね」
「ええ」
「何か、今困ってる事とかありますか?」
綺麗な顔の下から、わずかにその素顔が覗く。
勿論わずかであって、それはすぐ元へと戻る。
「傷口が痛いとか、お金が無いって事かな」
「そんなあなたを、助けてくれる人とかはいらっしゃいますか?」
それとなく距離を詰めてくる女性。
避ける理由もないので、そのままにする。
「身の回りの世話をしてくれる人はいますよ」
「その方は、親身になってくれます?あなたの気持を理解しようとしてくれますか?」
「さあ。そこまで突っ込んで考えた事はないんで」
彼女の澄んだ目がきらりと光り、やや厚い唇が大きく緩む。
沼地に足を取られた獲物を見つけた、肉食獣のように。
「誰かを信頼し、信頼される。そんな素敵な事はないと思いますよ」
「そうですね。現実に、そう上手く行くかはともかく」
「私も、以前はそう思ってました。でも、今は違うんです」
床にあったバッグから、小冊子とパンフレットを取り出す女性。
それを受け取った俺は、一言呟いた。
「医療施設での勧誘は、宗教倫理法で制限されてるんじゃ」
しかし女性はうっすらと微笑んで、たおやかに手を振った。
奇妙な形をした指輪が、目の前を通り過ぎていく。
「宗教じゃないんです。人と人とのつながりをサポートするサークルとでも言うんでしょうか。みんなで食事したり、旅行へ行ったり。とっても面白いですよ」
「はぁ」
「ほら。こうして入院していると、何かと気弱になるじゃないですか。ですからそんな方々のお手伝いをしたくて、時折声を掛けさせてもらってるんです」
弱気につけ込む、という気もするが。
当人がそう言うなら、そうなのだろう。
信じる者は救われるとも言うくらいだから。
そして人の命の尊さと、聖なる者の偉大さをし始めた。
色々突っ込みたかったが、話を腰を折るのも何なので適当に相づちを打つ。
オーバーアクションと、ハイテンションな口調。
人によっては、これだけで元気になった気になるかもしれない。
ただ俺としては、辟易という日頃口にしない言葉を使いたくなる。
ジェメイザ様だろうが、意志無き旅人か知らないけど。
聖霊界の第8層に誰がいたっていいだろ。
どうせ俺は、地獄行き超特急へ乗る運命にあるんだし。
下らない事を考えている内に、ようやく来光臨拝のありがたいお話が終わった。
「どう思われますか?」
キラキラと目を輝かす女性。
「うさんくさいと思いました」とは言えないので、適当に頷く。
ただ、女性を勧誘員にしている点は面白い。
逆に対象者が女性の場合は、おそらく勧誘員は男性になるんだろう。
しかも、彼女みたいにある程度の容姿が必須で。
人間、綺麗な人に声を掛けられて悪い気はしない。
その後に何が待つかは、あまり考えたくないが。
「人はまず、心を解き放たなければならない。我々も、常にその実践に心がけています。恥ずかしいとか照れるという事を気にせず、ありのままの自分を表現するんですよ」
「はあ」
「現状でもあなたは素晴らしいかもしれない。ですけど、あなたを取り巻く世界は無限に広がっている訳です。そのためにも、自分の殻を打ち破るべきなんです」
熱く力強い口調。
彼女との距離も非常に近く、香水の香りが鼻をくすぐる。
勘違いする奴もいるんだろうな、多分。
俺も見た目には楽しいので、聞いている素振りをする。
歩合制なのかとか、ノルマはどうなんだろうという感じで。
組織内でのランクは、やはり勧誘者の人数かな。
それとも、お布施の金額。
ただ俺は地位も名誉も金もない学生なので、勧誘してもポイントは低いだろう。
だからここをとっかかりにして、他の学生を引き込もうという考えか。
芋づるのつるだな、俺は。
でもってサトミ達が、芋だ。
彼女が想像している以上の芋が俺からは取れるんだが、「冴えないガキ」くらいにしか考えてないだろう。
勿論それは、当たらずとも遠からずである。
「……顔に傷があって、それが痛むんですよ」
「大変ですね。大丈夫ですか」
「ええ、ここんですけど」
自分の頬当たりを指刺す俺。
一応、覗き込んでくる女性。
少し顔を寄せれば、頬が触れ合うくらい。
しかし自分で仕掛けておいて、自分で耐えられなくなった。
あまりもの下らなさというか、俺には似合わない事に。
正直笑いがこみ上げ、脇が痛い。
「どうかしました?」
「いえ、別に」
彼女との距離を置き、息を整える。
痛いのは痛いが、面白いのも確かだ。
滅多にない事なので、もう少し楽しませてもらおう。
「いいですよね、自分が解放されたら」
「そうですよ。その通りです」
俺が話に乗ったと思ったのか、喜々とした表情で再び距離を詰めてくる女性。
今すぐにでも契約書くらい取り出しそうな勢いで、その熱意には頭が下がる。
「でも自分を解放するって、どこまですれば良いんですか?」
「限度はありませんよ。あなたが自分で思っている以上に、世界は広がっています。ですから、思いの限りをさらけ出せばいいんです」
「なるほど」
俺はゆっくりと頷き、わずかに口元を緩めた。
それを見て、女性の顔が微かに強ばる。
何か、見てはならない物を見てしまったかとでも言うかのように。
「あ、あの」
「じゃあ、早速さらけ出してもらいましょうか。まずは、あなたから」
「い、言っている意味が、分からないんですけど」
後ずさる女性。
俺もすかさず距離を詰め、その上へ覆い被さるように立ち上がる。
「さあ、ありのままの自分になって下さいよ」
「そ、そういう事は、支部の研修室でやってますから。そ、それに先師の許可がないと、勝手には……」
「場所とか許可とか、形式に問われては駄目でしょう。一切のしがらみを捨てる、まずはそこから始まるんじゃないんですか」
醒めきった眼差しを落としたまま、口元だけを緩める。
顔を引きつらせる女性にかまわず、パジャマのボタンを外す。
「俺も自分をさらけ出しますから、あなたもお願いします」
「ふ、服を脱ぐのと、自分を解放するのと何の関係が」
「そんな既成概念に捉えられている、あなた自身を解放するためです。さあ、早く……」
「ひっ」叫ぶ女性へ、じりじりと手を伸ばす。
その手をはね除ける力は弱く、今起きている事がまるで信じられないといった様子。
だがこれは紛れもない現実で、これから起きる事もまた然りだ。
「心配しなくても、大丈夫。これであなたも俺も、今までの自分とは違う新しい世界へと……」
「な、何してるんですかっ」
戸惑いと、焦りの入り交じった問い掛け。
俺はパジャマのボタンをはめながら振り返った。
見慣れない男性の職員が、バインダーを抱えこちらを怪訝そうにうかがっている。
「彼女が気分悪いって言うから、ちょっと」
「そうなんですか?」
疑念を含んだ視線をかわし、女性の耳元へ口を寄せる。
「続き、やります?」
「い、いえ。もう、もうここへは来ません」
「じゃあ、俺が出向きますよ。あなたを指名して」
「そ、それも結構です」
カバンを掴み、乱れた服装もそのままに駆け出す女性。
一瞬俺を振り返ったその視線に怒りはなく、その代わって恐怖にも似た意志が感じられた。
冗談だっていうのに。
「本当に、何があったんです」
「勧誘ですよ、宗教の。それを断っていただけです」
「そうには、見えませんでしたが」
それはそうだろう。
あまり突っ込まれても困るので、こっちからも少し言うか。
「随分、都合良く出てきましたね」
「わ、私の仕事場はここの階段を使わないと行けないですから」
「ここって非常階段で、使う人なんていないはずですよ」
何かを言い繕おうとする男性へ手を振り、軽く頷く。
「法律で勧誘が禁止されてるとはいえ、実際にそれを防ぐのは不可能。中にはその宗教を拠り所に、入院生活を送る人もいるでしょうし」
「た、確かに、穏健な宗派に関しては当病院でも黙認をしてます」
「こういった場所や患者情報の提供、なんてのもありそうですよね」
男の顔が一気に青ざめ、バインダーがカタカタと揺れる。
「今見た内容を誰に話そうと結構ですけど、その時は俺も色々と話しますので」
「お、脅してるのか。わ、私は協力なんてしていない」
自分で言っては世話がない。
そういう人間だからこそ、簡単につけ込まれるとも言えるが。
「分かってます。それより俺は、彼女が福祉局の内部監査官だと言っても信じますけどね」
「なっ」
「それじゃ」
とうとうバインダーを落とした男へ手を振り、よろよろと非常階段を上っていく。
まさかそんな訳はないんだけど、暇つぶしになったし感謝しておくか。
本当、一番悪いのは誰何だか……。
「機嫌いいわね」
「そうかな」
自分で顔を撫で、鼻で笑う。
さっきの出来事を、知らない内に思い出していたようだ。
「また何かしたの」
ため息混じりに尋ねてくる丹下。
俺は首を振り、軽く背筋を伸ばした。
冬間近にあって、中庭に咲き誇るたくさんの花。
弱々しい日差しの中、懸命に咲いている。
誰かに見せるという訳でもなく、ただ生きるために。
植物だからそんな感覚はない。
大体色鮮やかなのは、昆虫を引きつけるためだ。
あまりにも冷静で無機質な感想なので、自分で笑う。
「たまには、こうして外へ出るのも良いでしょ」
風に吹かれる前髪を流し、優しく微笑む丹下。
俺は曖昧に頷き、小さく息を付いた。
この子は、どうしてここにいるんだろうと思いながら。
それにも、理由はないのだろうか。
どうでもいい事だ、といつものように流していいのかどうか。
「……あなたって、辛いとか苦しいとかあまり言わないわね」
「え、ああ」
不意な質問に、頭を切り換える。
辛い、か。
口に出して楽になるなら、幾らでも出す。
ただそんな訳はないので、言わないだけだ。
それを聞かされる方も、楽しくはないだろうし。
「弱みを見せないっていうか、自分を強く律してるっていうか」
「感情に乏しいんだよ」
「表現するのが苦手なんでしょ。した事がないから、下手なのよ」
くすりと笑い枯れた木々を見上げる丹下。
憂うような眼差しではなく、その寂しさを受け止められるだけの強い光を湛えた瞳。
彼女は俺と違い、あるがままの自分を表現する。
ユウの無邪気さとも異なる、はっきりとした自己主張。
内心を曖昧にはせず、自分はこうであると明確な意志を示す。
だから俺が自分を語らない事に、いい感情を抱いていないのかもしれない。
ただ彼女はモトのように、それを直せとはあまり言わない。
言っても仕方ないと思っているのか、それでいいと思っているのか。
それを考えてどうなるのか、という気もするが。
「ずっと病院にいて、退屈じゃない?」
「いや。マンガとゲームがあれば、俺はそれで十分」
「もう少し、他の趣味も持ったら」
屈託無く笑う彼女の表情に、俺へ対する不満や苛立ちは感じられない。
先程までの会話を引きずる様子も。
気にし過ぎてるな、ちょっと。
「丹下は、学校大丈夫なの」
「ええ。オンラインでは出てるし、レポートも提出してあるから。でなければ、安心してここへ来られないわよ」
「ああ、そう」
そうだろうとは思っていたが、聞いて安心した。
俺なんかにかまけて追試にでもなったら、それこそどうしていいのか分からない。
「それよりも、自分はどうなの?」
「この間自警局の人間が来て、テスト結果がどうでも進級はさせてくれるらしい」
「へぇ。でも、レポートは出さないと駄目なんでしょ」
「追試を受けるよりはましさ」
調子も良くなってきたし、そろそろレポートも書き始めるか。
多少面倒ではあるが、数学のテストを考えれば何でもない。
「代筆でもしようか?」
「腕は動くよ」
「怪我して無くても、あの字じゃね」
大袈裟に首を振る丹下。
何も、そこまでひどくはないだろう。
「いいんだよ。俺には読めるんだから」
「読むのは先生よ」
「まあね」
それを言われては、こっちとしても返す言葉がない。
というか俺自身の事を言われたら、大抵は言い返せない。
そういう人間なのだから、仕方ない。
どうしようもない、とも言える。
「代筆はともかく。せっかく時間があるんだし、ゆっくり書いたら」
「考えとく」
素っ気なく答えたら、顔を指差された。
「また。「分かった、丹下さん。僕、頑張るよ」くらい言えないの」
「言って欲しい?」
「嫌だけど」
「じゃあ、言うなよ」
今度は俺が、彼女の顔を指差す。
楽しそうに笑った彼女を見ていて、ふと思い出した。
だけど、口に出す事でもない。
「それで、誰が来たの?」
「え」
「だから、生徒会からの説明には誰が来たの?私の知ってる人?」
向こうから聞いてきた。
いい加減に答えても、すぐに分かる事だ。
だから、言うしかない。
「大石進と名乗ってた」
「へぇ……」
ぎこちなく頷く丹下。
まさか、そんな名前を聞かされるとは思ってもいなかったのだろう。
俺だって、口にするとは思っていなかった。
「何か、言ってた?」
「昔、丹下が会いに来たって。それ以外は、別に」
「そ、そう」
はにかみとも焦りとも付かない表情で、落ちつきなく体を触れ回る丹下。
彼女が思い出しているのは夢の人物で、まさかあの小デブちゃんでは無いだろうが。
「丸くて、でもそれなりには出来る人だった」
「どうでもいいわよ。その名前は、私が聞き間違えたか思い違いしてるだけなんだから。彼とは、何の関係もないもの」
口調はやや荒いが、この話題を避けたがっている様子ではない。
俺が避けたいという事は、この際ともかく。
「夢の中で私を助けた、本当の「大石進」君はどこにいるんだろう」
「夢だから、丹下の中にしかないだろ」
「ええ。夢、なら」
表情が緩み、儚げな笑みを浮かべる丹下。
秋の弱い日差しすら、透き通ってしまいそうな程の。
「あの時どうしようもなかった私だけど、今はここまでになりました。そう彼に伝えたいと、ずっと思ってたのに」
「心の中で想ってれば、届くんじゃない。現実に、そんな人はいないんだから」
「そうね。私の、夢の中での出来事だものね」
頼りない口調と共に、その口元が緩む。
それは彼女自身、何度も考えてきたのだろう。
でも、夢であっても出会いたい。
そんな気持を込めながら。
俺には、理解出来ても持ち得ない気持。
そして、それを解決する方法もまた。
「そうやって、夢を見ている方がいいんじゃないかな」
「え」
「この前丹下が言ってただろ。吉家さんを励ましてた彼が、仮にまた会えても幻滅するような子だったら困るって。それと同じっていう意味」
「そんなはずは……」
勿論言い切れる訳はなく、不満気味に俺を見てくる。
「丹下の見たのは夢じゃなくて、その男も現実にいたとして。でも実際に会ったら、今までのいい思い出が消えるって事もある」
「それは、分かるけど」
「思い出は思い出。頭の中だけで思い返してた方が、幸せだと思うよ」
「随分、夢のない話ね」
だが俺が言った意味は、自分でも分かっているのだろう。
反論めいた言葉は返ってこない。
確かに、夢はないかもしれない。
でも、その方がいい。
思い出は、思い出として取っておいた方が。
現実は、何かと辛過ぎるのだから。
病室へ戻っても特にする事がないので、ベンチに座る。
丹下は俺の隣で、料理雑誌を読んでいる。
会話がある訳でも、何かをする訳でもない。
ただ座っているだけだ。
俺に至っては、全く何もしていない。
せいぜい、空に浮かぶ雲を眺めているくらいで。
いつも何かを考えている癖があるせいか、少し変な気分だ。
無心ではなく、心が静かになっていく。
隣には可愛い女の子がいて、自分のために作ってくれる食事を考えている。
暖かな秋の日差しと、目を楽しませる色とりどりの花。
時がゆったりと流れ、心を占めている様々な事が薄らいでいく気持。
それに、しばし身を任せていたい。
そう思わせるだけの、穏やかな瞬間。
らしくないなと思ってしまう俺は、多分心にゆとりがないんだろう。
全てを、この状況に浸りきる事が出来ない。
気を緩め、体を楽にしていても。
どこかで、別な俺がそれを見つめている。
気を休めている自分。
それを把握し、頭を巡らす自分。
だからこそ俺は、冷静な判断や推測を出来ると思っている。
自分を客観視する、別な俺。
今こうして落ち着いている俺を、らしくないなと苦笑する俺。
そして落ち着いている俺も結局は、分かっていると答えてしまう。
この感覚がある限り、俺は自分を変えられない。
変える気がない、という大前提もまた。
気付けば、消灯時間を過ぎていた。
ただ俺の病室は個室なので、何かの制限を受ける訳ではない。
学校へ提出する書類にめどを付け、今は授業のレポートを始めたところ。
楽な作業ではないが、授業へ出るよりはましだ。
しかし、物理も苦手だな。
亀の子というか、この化学式がどうも。
元素配列なんて、学者以外覚えても仕方ないと思うんだが。
と愚痴っても、やはり仕方ない。
新元素が宇宙にあるという説を何かで読んだけど、せめてそれが発見される前に卒業にしたい。
元素式に唸っていると、インターフォンが音を鳴らした。
セキュリティ設備がぬるいので、相手が誰かは分からない。
「はい」
例により布団を被り、キーを解除する。
「済みません……」
遠慮気味な声と共に、おずおずと入ってくる少女。
よく見る赤いパジャマと、幼さの残る可愛らしい顔立ち。
「吉家さん。どうしたの、こんな時間に」
ベッドから降り、無言の彼女へ歩み寄る。
顔を伏せ、ドアの前に立ち尽くしたまま動こうとしない。
俺は彼女の背中へ手を回し、その歩みを促した。
差し出したペットボトルに手を付けようともせず、俯いたままの吉家さん。
俺も壁際に持たれたまま、カーテンを降ろした窓辺を眺める。
消灯時間を過ぎ、まして子供の彼女が歩き回る時間ではない。
それでも俺は、何も尋ねはしなかった。
丹下のように、促すの事は出来なくもない。
だからといって、それをするつもりもない。
彼女が自分でここへ来た以上、話し始めるのは彼女の方だ。
例えそれが、冷たいと思われてもかまわない。
大事なのは俺への評価ではなく、彼女自身が何をするべきか。
それだけだ。
「……ごめんなさい、こんな時間に」
震える声に、ますます下がる肩。
ただ、一言は発せられた。
そして何でもないその言葉が、彼女にとってどれだけの勇気が必要だっただろう。
「いいよ。俺、夜は遅いから」
「済みません……」
殆ど俺の話など聞こえていない顔付き。
吉家さんは、顔を伏せたまま謝り続ける。
「今日友達を見送りに、IFのロビーへ行ったんです」
「ああ」
「そこで私、見たんです。私を励ましてくれた、あの男の子を……」
もう一度相づちを打ち、彼女の言葉を待つ。
予想の付いている言葉を。
「でも、声を掛けられなくて。すぐそこにいて、声を掛ければ振り向く距離だったのに。
私、何も出来なかったんです」
「そう」
「結局彼は、そのまま病院を出ていってしまって。そして私は、何も出来ないままで……」
シーツが強く握りしめられ、肩が振るえる。
涙は流れず、嗚咽の声も聞かれない。
それを我慢しているのか、そんな事すら通り過ぎているのか。
丹下にはああ言ったが、こういう現実が待っていたとは。
彼女の勇気を責めるのは簡単だけど、果たして同じ場面で声を掛けれる人はどれだけいるだろうか。
とはいえ済んでしまった事だ。
彼女はもう彼に会えなく、彼はそれを知る事もない。
そんな結末で。
「少し、寝たら」
「え?」
「俺ジュース買ってくるよ」
何か言いかけた彼女に手を振り、俺は病室を後にした。
人気のないラウンジに、一人腰掛ける。
よく病院にはお化けが出るなどと言うが、こういう光景を見てるとそれも頷ける。
真っ白な壁と、非常灯だけの薄暗い照明。
同じようなドアがどこまでも並び、人の気配はまるでない。
まして病院とはその性質上、死者が出る場所でもある。
色々な噂の一つや二つ、あって当然だ。
ただ仮にお化けなり幽霊がいたにしても、俺など相手にしないだろう。
相手にされても困るが。
さて、結構時間も過ぎたしそろそろいいかな。
病室へ戻り、ゆっくりとドアを開ける。
そして照明を落す。
ベッドに横たわる、赤いパジャマ。
そのまま寝入ってしまったようだ。
これで、少しは気が楽になるだろう。
忘れるのがいいかどうかはともかく、悩み続けるよりはましだ。
そうなると、今度は俺に悩みが持ち上がってくる。
まさか一緒に寝る訳にも行かないし、どうしよう。
ラウンジやロビーは看護婦が見回るし、トイレで寝る気もない。
空いている病室は鍵が掛かっていて、その他の部屋も同様。
病院の外へは出ていけないから、それ以外の場所といえば限られてくる。
俺は思い浮かんだ場所へ行くべく、余っていたタオルケットを肩に掛けた。
そして多少の準備をした後、彼女を起こさないようそっとドアをくぐった。
暖房が切れ、寒くなり始めた廊下へと……。
しかしそれがどれ程暖かかったのか、即座に思い知る。
真っ暗な景色、吹き付ける夜風。
見上げた空に月はなく、星明かりだけが俺を照らしている。
晩秋とはいえ、夜の屋上は寒い。
大体この病院は高台にあり、ただでさえ気温が低い場所だ。
少なくとも、病人が夜を過ごす環境ではない。
「あー」
風を避けられる壁際へ張り付き、ベンチウォーマーの上からタオルケットを被る。
当たり前だが、まだ寒い。
取りあえず、暖を取ろう。
病室から持ってきた、普段持ち歩いているライターを取り出す。
煙草は吸わないのに、これだけは手放せない。
しかしここでたき火をしてはまずいので、ライターの火だけを付ける。
微かに、本当に微かに暖かくなった。
弱々しい赤い炎が、妙に物悲しい。
それでも暖かくなるのだから、ここは……。
「あちっ」
ライター自体が熱せられて、持っていられなくなった。
やっぱり、無理があったな。
仕方ない。
使いたくはなかったが、これの世話になろう。
「くっ」
ペットボトルに口を付け、一口含む。
その途端、激しくむせかえしてしまった。
「飲めるかっ、こんなの」
暗闇の中、小声で一人怒る。
コニャックを入れたペットボトルは何も答えず、その闇に溶け込むだけだ。
それでも怒りとアルコールのためか、少し暖まってきた。
ただこれ以上はとても飲めないので、ふたを閉める。
そして見たくもないため、その辺へと転がした。
ほろ酔いでいい気分になれる訳もなく、痺れるような感覚がやってくる。
ただ寒さは多少薄れ、何となく眠気もやってきた。
一応、これを持ってきた前自警局長にも感謝するか。
それと、持って帰らなかった丹下にも。
とにかく、急にだるくなってきた。
馬鹿は風邪引かないというし、早いところ寝てしまおう。
このまま凍死するのも、また楽しだ……。
朝日で目が醒めた。
しかし爽快な朝を喜ぶ気分ではなく、体中がみしみし音を立てている。
寒さのため、相当身を縮こまらせていたのだ。
結局眠れていたのは2、3時間もない。
いつも朝は眠いのだが、今日はその比ではない。
こっそり病室へ戻ると、吉家さんの姿はなかった。
看護婦の問診時間前にタイマーをセットしておいたので、自分の病室へ戻ったのだろう。
とにかく、少し寝よう。
ベットがこんなに柔らかいなんて、初めて知った。
建物の中が、こんなに暖かいのも。
どうでもいい事に感動をしつつ、俺は目を閉じた。
これまでにない幸せな気分の中で……。
と思ったら、体が揺すられた。
「あ?」
「あ、じゃないわよ。いつまで寝てるの」
開かない目を開け、相手を見上げる。
……丹下か。
「まだ朝だろ。どうして、こんな時間に」
「お昼よ、もう」
「あ?」
まさかと思いつつ、枕元の時計へ目をやる。
「壊れてるとか、時空に歪みがあったとか」
「寝ぼけてるの?」
「冗談だよ」
「調子悪いなら、まだ寝てる?」
首を振り、ベッドサイドへと腰掛ける。
やられたな。
一人時差ぼけだ。
「えーと」
「お昼よ。ご飯は」
「少しだけ、食べます」
寝起きで食欲がない。
それでも丹下が持ってきてくれた料理だけは、どうにか平らげる。
あっさりした味付けと、食べやすい調理法。
食欲の無いのも忘れ、自然と箸が進む。
気付けばランチボックスは、空になっていた。
「無理して食べなくてもいいのに」
「そうでもない」
煮込んだレバーをお茶で流し込み、これだけは無理してるなと思う。
美味しいんだけどね。
食事を終え、また眠くなってきた。
体もあちこち痛いし、なんか訳が分からないな。
「まだ眠いの?」
「え、ああ」
「少し寝たら」
壁に持たれ、腕を組んだままそう呟く丹下。
窓へ背を向けているため、その表情は逆光へと消える。
「……何をしてたとか、何があったとか。いちいち聞かれるのは嫌だろうけど」
「別に、嫌じゃないよ」
「コニャックが減ってるとか、ライターがないとか、タオルケットが汚れてるとか。聞いてもいいの」
丹下の言う通り、言葉に詰まる。
他人からの気遣いを、俺はそれ程望んではいない。
むしろ、避けている。
彼女もそれを分かってくれているから、最小限の事しかしてこない。
つまり、そうして気を遣わせている。
自分は自分で、他人は他人。
今までそう思って、距離を保ってきた。
ユウ達のような例外はあるが、それでも近付き過ぎる事はない。
彼等が何といおうと、俺はその距離を変えてこなかった。
それでいいと思っていた。
これからも、そうなのだと。
「……ごめん、変な事言って」
小声で謝る丹下。
その表情は、やはり逆光の中に消えたままだ。
「少し、外へ行こうか」
「ああ」
痛みを堪え、中庭を歩く。
元々弱っていたところへ、昨日外で寝たのが堪えた。
脇以外の傷も、きりきりと痛んでくる。
「大丈夫?」
軽く手を振り、額の汗を袖で拭う。
晩秋の午後。
暑いはずはないのに、全身に汗をかいている。
幸い風邪を引いた訳ではなく、傷の発熱と急に運動したせいだろう。
どっちにしろ、きついのに変わりはない。
「座ったら」
「あ、ああ」
ほんの少し前にあるベンチへどうにか近付き、崩れるようにしゃがみ込む。
弱り過ぎだ。
馬鹿な事をし過ぎとも言える。
「……でも、頑張るわよね」
「何が」
「浦田がよ」
表情を和らげ、俺の顔を指差す丹下。
言っている意味が分からないので、その指をじっと見つめる。
「とにかく自分の力でやろうとするし、最後にはそれを成し遂げる。弱音も文句も言わずに、誰のせいにもしないで」
「自分勝手なんだよ、俺は」
「自律心が強いって言うの。でも……、もう少し人を頼ってもいいと思う」
間を置いて、静かに語る丹下。
それは俺の答えを促すためというよりは、彼女の考えを伝えるようだった。
「前も言ったけど、あなたは大抵の事を自分だけで出来る。それに、人を頼るのが好きじゃないのも分かってる」
「そうかな」
「それは立派で、強い生き方だと思う。だけど、もっと弱くてもいいと思う。そこまで自分を律しなくても」
花壇を見つめたまま、淡々と語る丹下。
俺は枯れた木々を、見るとは無しに視界へ収めていた。
「冷静で、醒めているのもあなただけど。それとは違うあなただっている訳でしょ。……ごめん、今の話忘れて」
強引に話を打ち切り、丹下はベンチから立ち上がった。
秋の日差しが彼女を照らし、その陰が俺に落ちる。
光の中にある丹下と、闇に溶けている俺。
心象風景と言ってしまえば、それまでだが。
そのくらいの違いがあると、思わずにはいられない。
気に掛けてくれるのは嬉しい。
けれど。
俺の傍にいても、彼女があるというんだろう。
俺なんかの世話を焼くより、自分の事をしていて欲しい。
こんな所で無駄な時間を過ごして良い人では無いんだから。
俺とは違う、もっと彼女にとってふさわしいところがあるはずだ。
それは少なくとも、俺と一緒にいては得られない。
だから、もうここへは……。
「どうかした。怖い顔して」
「え。ちょっと、風が」
「薄着だものね。そろそろ、戻ろうか」
彼女が手を差し伸べるより早く俺は立ち上がり、足早に歩き始めた。
鈍い痛みを感じながら。




