エピソード(外伝) 8-2 ~ケイ視点~
自分らしく
8-2
毎日朝食を摂っているせいか、朝から気分がいい。
早く寝ているため寝不足も無く、今までいかに不摂生だったかが分かる。
という訳でもないが、俺は屋上で空を仰いでいた。
秋の高く青い空と、程良く澄んだ空気。
普段なら見過ごしがちな日常。
それをこうして、感じていられる。
視線の彼方には熱田神宮の森、霞んではいるが名駅のクワード(quad)タワーもおぼろげに姿を見せる。
薄雲の向こうには瀬戸や多度山系も望め、子供じみた感慨を抱かせてくれたりもする。
いつにない穏やかな気持で手すりに持たれていると、視界の隅に人影が映った。
シーツを干しに来た看護婦ではないようだ。
俺と同じように、息抜きへ来た患者だろうか。
向こうも一人の方が気楽だろうと思い、階段のあるドアの方へ歩いていく。
するとその人影が、手すりの向こうへ消えた。
景色を、より良く見ようとしたので無いのは明らかだ。
「何してるんです」
刺激しないよう、距離を置いて声を掛ける。
振り向いたのは、俺よりやや年上っぽい男性。
甘い顔立ちと、品のいい高そうな服装。
近くの床に杖が落ちているのを見ると、外来の患者らしい。
「う、うるさいっ。あ、あっちに行け」
「そう言われても」
「事情も知らないくせに、分かったような顔するな」
それはそうだ。
「お、俺に構うな。あっちに行け」
「しかし。飛び降りられたら、後で俺も困りますし」
「そんな事知るかっ。行けって言ってるだろ」
必死になって叫ぶ男。
仕方ない。
寒くなってきたし、帰るとするか。
「お、おい。どこ行くんだ」
「帰る。自分で言ったでしょ」
「だ、誰かを呼んでくるんだろ。駄目だ、屋上から出るなっ。俺の見える場所にいろっ」
なるほどね。
ただこのまま突っ立ているのは寒いので、風の来ない壁際に腰を下ろした。
日に干してある枕もあり、ちょうどいい感じだ。
「に、逃げるなよ」
「あ、はいはい」
適当に返事をして、壁に立て掛けた枕へ背を持たれる。
程良い日差しが降り注ぎ、暖かいというかぬくい。
今寝ると夜目が冴えるんだが、この心地よさには変えられない。
そういえば丹下、今日は実家に行くから来られないって言ってたな。
毎日来るのは大変だろうし、しばらく家で休んでいればいいんだ。
俺も、少し……。
「ん?」
頬の辺りに、微かな痛みを感じた。
虫でもいるんだろうか。
せっかくいい気持なんだから、後にしてくれ。
そう思っていると、今度は胸元へ何かが落ちてきた。
さすがに虫ではないだろうから、ため息混じりに目を開ける。
寝起きでぼんやりした視界の先。
例の男が、手すりの向こう側で動いている。
「……何か」
「お、俺は。し、知らないぞ」
手にしていた小石を捨て、前へ身を乗り出す男。
何がやりたいんだか。
仕方ないので壁際から立ち上がり、男の傍へと歩み寄る。
「く、来るなっ。あっちに行けっ」
一切無視して、その前へと立つ。
すると男は片手を離し、何もない空間へとその身を乗り出した。
「それ以上来ると、飛び降りるぞっ」
「勝手にしろ」
鼻を鳴らし、男の杖を拾い上げる。
怪訝な顔をするそいつを無視して、俺は杖を振りかぶった。
「後片付けが大変だけど、ここは病院だ。レジデントの手助けと思って、解剖してもらえ」
「な、なにを」
手すりを掴んでいる男の手を目掛け、杖を一気に振り下ろす。
上がる悲鳴と、鈍い衝撃。
その結果は。
「な、何するんだっ」
真っ青な顔で、俺を睨み付ける男。
手を素早く持ち替え、杖から逃れたのだ。
しかも今では屋上側に体が向けられ、両手で手すりを掴んでいる。
「死にたいんだろ。ほら、手離せ」
「さ、殺人だぞ、お前のしてる事は」
「自殺幇助だ。いいから、落ちろ」
縦に叩いても駄目なので、杖を横になぐ。
こうすれば嫌でも、手すりから手が放れる。
「わ、わっ」
機敏な動きで沈み込み、杖をかわす男。
俺は手すりの下を掴んでしゃがみ込んでいる男を、杖で押し始めた。
「臓器は、全て提供って事にしてやる」
「や、やめろっ。ひ、人殺しっ」
「だから、自殺幇助だ」
傷が痛くて、腕に力が入らない。
こうなったら、押す場所を変えよう。
例えば。
「わ、わっ」
男の左目に杖を突き付け、腰をためる。
眼球は神経が最も集中する場所で、軽い一突きでもその痛みには耐えられない。
また反射的に、手は目を押さえてしまう。
「や、止めて下さいっ。お、俺は、死に、死に……」
「黙ってろ。今すぐ、落としてやるから」
鼻で笑い、杖を持つ手に力を込める。
そしてそのまま、杖を前へと押し出した。
「ど、どうしたんですっ」
血相を変えて、ドアから駆け付けてくる看護婦達。
これだけ騒いでいれば、その内気付くだろうとは思っていた。
「景色見てて、向こう側に落ちたみたいです。助けようとして、杖を出したんですけど」
遥か真下の、渡り廊下へと落ちていった杖。
何とも乾いた音が、遠くから聞こえてくる。
「と、とにかく、こっちへ」
力仕事はお手の物の看護婦が、すっかり力の抜けた男を屋上側へと引き込んだ。
そうされても男は呆然としたままで、声も出ない様子だ。
「……惜しかったな」
男の耳元にそうささやき、看護婦達の間を抜けていく。
死ぬ度胸もないくせに、みんなの同情でも引く気だったのだろう。
どうでもいいし、勝手にしろと言いたい。
俺はもう男の事など気にも止めず、騒ぎの大きくなり始めた屋上を後にした。
「上の方で、何かあったの?みんな騒いでるみたいだけど」
「さあ」
適当に答え、軽くあくびをする。
さっきの眠気が、まだ残っているようだ。
そんな俺に、いつもの可愛らしい笑顔を見せてくる柳君。
「はい。今日のお土産」
「お見舞いとか、差し入れって言うんじゃ」
「いいから、ほら」
好意は好意なので、彼から品物をありがたく受け取る。
鉢に植えられた、葉っぱばかりの植物を。
「普通鉢植えは、入院している人へもってこないだろ。病院に根付くとかいって」
「大地に根を張るような男になれっ、て言う意味じゃないの」
「何だそれ」
柳君の指先が、雑誌を読み耽っている名雲さんへと向けられた。
「センス、いいですね」
「だろ。お前なら、分かってくれると思ってた」
確かに面白い。
俺以外の人間には、あまり通じないだろうが。
「名雲君も柳君もふざけないの。はい、これは私と真理依から」
「済みません」
ベッドの上に、白いウサギの小さな人形を置く池上さん。
縫製の具合からいって、手作りだろうか。
「嬉しいんですけど、俺にはちょっと」
「だから止めればよかったんだ。猫だろう、普通は」
真顔で指摘する舞地さん。
この人も、よく分からない。
「だったら、誰か知り合いにでもあげなさい」
「知り合いって、ここ病院ですよ」
まあいいか。
せっかくの好意を受け取らないのも失礼だ。
取りあえず、枕元にでも。
「なんだそれ。とことん似合わないな、お前」
名雲さんが、ウサギと俺を指差して大笑いしている。
分かってるよ、俺だって。
「可愛くていいと思うけど、僕は」
「優しいな、柳君は」
「え?可愛いのはウサギだけだよ」
何とも楽しげに笑う柳君。
この連中は、俺をからかいに来たのか。
「それで、退院はいつになるの?」
「またしばらく掛かります。脇腹以外も怪我してますし。出血が多かった分、体調がどうも」
「人を助ける暇があったら、逃げれば良かったのよ」
困ったものだという池上さんの視線。
他のみんなも、同様な眼差しで俺を見つめている。
「彼女を突き飛ばして、軽くかわそうと思ったんです。ただ、そこまで器用に体が動いてくれなくて」
「雪野達に心配を掛けてまでする必要があったと思っている?」
その視線に、色々な思いを重ね合わせる舞地さん。
俺は瞳を逸らす事無く、はっきりと頷いた。
「今雪野達が落ち込み気味なのは、お前だけが原因ではない。それでも、原因の一つなのは確かなんだ」
「まあ、それは分かってます」
「反省するだけではなく、行動で示す事。あの子達に心配掛けたのは、間違いないんだから」
訥々と俺を説く舞地さん。
普段の冷静な素振りは陰を潜め、ユウ達を気遣う優しさがにじみ出ている。
それには、ただ神妙に頷くしかなかった。
「分かった?」
さらにきつい、上目遣いの視線。
「あ、はい」
俺は深く頭を下げ、素直に自分の気持ちを示した。
「それならいい」
凛々しい顔を、優しく微笑ませる舞地さん。
普段が普段なので、時折見せるこういう表情は印象的である。
本人がそれを自覚していない分、余計に。
「どうした?」
「いえ」
まさか本当の事は言えないので、痛くもない脇腹を押さえる。
「可愛いだなんて、思ってたんじゃない?ねえ、浦田君」
「ウサギが、ですか?」
適当に答え、池上さんの突っ込みをかわす。
話題になっているはずの舞地さんは、相変わらずの素っ気ない様子だ。
愛想がいい舞地さんというのも、想像は出来ないが。
「しかし、お前これからどうするんだ」
「何を」
「雪野達は、もう大人しくしてるらしいぞ。自分達の事だけしか、関わらないそうだ」
苦笑する名雲さんと、肩をすくめる池上さん。
色々あったので、ユウ達も弱気になっているのだろう。
俺はそれで構わないし、今までと変わらない。
「気楽でいいですね。脇腹斬られる事もなくなるし、一安心ですよ」
「本当に、そう出来るのか。何があっても、大人しくしていられるのか」
「俺は、今まで通りにするだけです」
「お前らしいよ、そういうの」
おかしそうに笑う名雲さん。
池上さんと舞地さんも、何となく笑い気味に見える。
柳君は、いつもと同じように可愛らしく笑っている。
「君は、どちらかといえば私達寄りだものね」
「よりって?」
「陽の当たる、まっすぐな道を歩くタイプじゃないって事。聡美ちゃん達とは、違って」
さらりと言ってのける池上さん。
とはいえ否定する内容でもないので、申し訳程度に鼻を鳴らした。
「女の子は殴る、横領はする、生徒会は除名になる。それに、拷問まで受ける。すごいよ、浦田君」
「何が」
「その、面白さが」
他人事だと思ってか、柳君が大笑いする。
俺は面白くないんだけど、端から見ているとそうなのかもしれない。
確かに、まともな人間のする事ではない。
「良くみんなが、お前を受け入れてる」
「あのね、舞地さん。俺だって、そう悪さばかりしてる訳じゃないですよ」
「そう、自分で思い込んでるだけだろ」
言いにくい事を、また平気で言う人だな。
俺だって、多少は自覚してるというのに。
「それより、沙紀は」
「今日は来ません。実家に行くとか言ってました」
「それなら、来るんじゃなかった」
冗談を言ってる顔でもないし、何しに来たんだ。
「僕は、浦田君に会いに来たよ」
「優しいのね、柳君は」
「でしょ」
なんだ、それは。
褒められるために、来てるんじゃないのか。
「私は真理依に付いてきただけだし」
「俺?俺は勿論、浦田の見舞いだよ。はは」
だったらビデオを回すな、ビデオを。
結局は、からかいに来てるんだろ。
それでも日を置かずに来てくれるし、色々気を遣ってもくれる。
正直人と接するのはそう得意ではないが、彼等とは気楽に付き合える。
池上さんが言っていたように、俺の本質はやはり舞地さん達と近いんだろう。
口にこそ出さないが、それを嬉しくも誇りに思う俺であった。
人の見舞い品を持っていった連中が帰り、俺も病室から外へと出ていた。
それはあくまでも病院内に限られ、今いるのはリハビリ室。
理学療法室ともいうのだろうか、とにかく様々な運動に励む人達があちこちにいる。
ただ俺は彼等と違い、自分の意志でここに来ている。
なまった体を少しでも回復させるため、トレーニング機器で多少の筋トレを行っているのだ。
場所が場所なので設備は充実していて、ちょっとしたトレーニングセンター並である。
「ふぅ」
持ち上げていたダンベルを降ろし、軽く右肩を回す。
何せ脇腹の傷で、どうしても右側をかばう格好になる。
また以前は難なくこなしていた重さや回数が、その半分で息切れしてしまう。
もしかして、このままおじいちゃんになるのではないだろうか。
といった不安を抱かせるくらいに、弱り切っている。
「よかったら、どうぞ」
「あ、はい」
俺が差し出した、使っていないタオルを受け取る吉家さん。
彼女もたまたまここへ来ていて、バーを伝って歩く練習をしていたのだ。
相当の負担や痛みがあるのか、子供ながら整った顔には珠のような汗が浮かんでいる。
「頑張るね」
「早く、自分の足だけで歩きたいですから。辛い分、それが早まると思って」
「なるほど」
言葉だけでなく、気持でも素直に感心する。
どう見てもまだ子供だけど、しっかりしたものだ。
ユウ辺りに見習わせたいな。
「今日はもう終わり?」
「後、数回やろうと思ってます。やり過ぎかもしれませんけど、今気持が乗ってるんです」
輝くような、はち切れんばかりの笑顔。
多分俺には絶対浮かばない、そして浮かんでも似合わない表情。
こういう子ばかりだと、世の中もう少し明るいんだろうに。
「あっ」
そんな彼女の体が、不意に床へと崩れる。
踏ん張ろうとした足は痛めた方で、体が完全に傾いた。
「よっ」
落ちていくその体を抱きすくめ、彼女以上に顔を驚かせる。
脇腹に、鋭い痛みが走ったのだ。
「おおっ」
自分でもよく分からない声を出し、そのまま固い床へ倒れ込む。
患者の身になって、マットくらい敷いてくれ。
「だ、大丈夫ですか」
「ああ。女の子に抱きつけて、嬉しいくらい」
「ええ?」
困惑と戸惑いの表情。
俺の上に乗っていた彼女は変な物でも見たかのように顔を背け、壁伝いに立ち上がった。
「済みません、冗談です」
ぺこりと頭を下げ、もう一度謝る。
本当、何言ってるんだ俺は。
「分かってます」
やや拗ねたようにそう言って、俺のパジャマに付いた埃を払ってくれる彼女。
「あ、済みません」
「だから、いいですって。お陰で、私は大丈夫でしたから。それより、浦田さんは」
「問題ない。大体今さら擦り傷や打ち身が増えても、同じなんで」
「そうでしたね」
ようやく明るい笑みが浮かぶが、視線が前へ向けられた事で再びその表情が曇る。
つまりは俺の肩越し、壁伝いにあるバー。
よろめき気味に、バーを伝っていく若い男。
甘い顔立ちと、身なりのいい服装。
看護婦に付き添われ、懸命に前へと進んでいる。
「あの野郎」
「知り合いですか?」
「いや。ただ、人を突き飛ばして挨拶無しって言うのがちょっと」
「いいですよ。私は、気にしてませんから」
本人がそう言うんでは仕方ない。
俺は鼻を鳴らし、男の背中を睨み付けるだけにした。
下らない自殺騒ぎを起こした男を。
どうにかバーを渡りきった男は、付き添っている看護婦や理学療法士達に褒めそやされている。
さっきまでは、吉家さんがされていた事でもある。
他人の注目を浴びないと気の済まない人間がいるが、その典型らしい。
そんなに目立ちたいなら、全国ニュースのトップを飾らせてやろうか。
一生マスコミに追われるようにしてやってもいい。
「色んな奴がいるわい」
「浦田さんみたいな人もいますからね」
「そうですね……」
鋭い即答に何一つ返す事が出来ず、俺は痛くないはずの脇腹に手をやっていた……。
その翌日、中庭にやってきた。
柳君からもらった鉢植えを抱えて。
これの面倒を見る自信がないので、植え替るために。
勿論柳君や発案者の名雲さん、そして病院の許可は得てある。
陽が当たり、水回りも栄養もいい場所。
そんな都合のいいところがあればいいのだが。
「この辺かな」
病棟の裏手、外壁と面した狭い空間。
ただ多少南からの日が射し込み、掃除用か水場もある。
栄養はよく分からないが、植えるにはちょうど良さそうだ。
痛みを堪えてしゃがみ込み、持ってきた割り箸で地面を掘る。
水場が近いせいか土は軟らかく、簡単に穴が開いた。
これで割り箸を立てたら、ペットの墓みたいだ。
どうでもいいか、そんな事は。
「何してるの」
「穴を掘ってる」
「どうして穴を掘ってるか、聞いてるんだけど」
俺は無言のまま、鉢植えを指差した。
「こんな寂しい所へ植えないで。可哀想じゃない」
「植物に、感情ってあるの」
「そうじゃなくて、私の主観としてよ」
たしなめるような口調が、しゃがみ込んで地面と向き合っている俺の背中に掛かる。
場所は病院の裏手、ややじめっとした人気のない所。
そこで、背中を丸めて穴を掘るパジャマ姿の男。
知らない人間が見たら、かなり怪しいだろう。
「これは、私が責任を持って植えます」
「だから、ここに」
「浦田君、私の言葉が聞こえた?」
「あ、はい。聞こえました、丹下さん」
せっかく掘った穴を埋め、ため息を付く。
「どうして、俺の居場所が分かった」
上を指差す丹下。
位置的には確か、俺の病室がすぐ傍の廊下になる。
最初から見られたのか。
それも知らずに、こんな所で穴を掘って。
何やってるんだ、俺は。
「ほら、そこの辺りを掘って」
「どこでもいいと思うんだけどね」
「文句言わない」
それでも隣にしゃがんだ丹下も、一緒になって掘ってくれる。
俺みたいに割り箸なんて使わずに、ちゃんとスコップを借りてきて。
「せっかくもらっても、あなたには意味無いわね」
「風雅を愛でる程、人間が出来てないんで」
「もしかして、これの名前も知らないとか」
何だ、名前って。
「植物なんて、食べられるかどうかじゃないの」
「だからあなたの知識は偏ってるっていうのよ」
「はあ」
「これは、アイビー」
鉢から取り出した、そのアイビーを丹下は丁寧に地面の穴へと収めた。
よく分からないが、埋めるか。
「葉っぱじゃん」
と俺がつい洩らした通り、クローバーの親戚のような格好。
やや大きめの三つ葉で、縁がややクリーム掛かった白。
それが群生というか、ツタ状の茎に幾つも連なっている。
時折見かけるようにも思えるが。
気にも止めないし、まして名前なんて。
「……これの花言葉は、友情」
丹下のささやきが、風に乗って俺の耳元を過ぎていく。
周りの花の脇に添えられたアイビーは、申し訳なさそうに秋の日差しを浴びている。
目立たない、見過ごしてしまうような外観。
その花言葉が、友情。
「誰が持ってきたの」
すぐには言葉が出ず、何となく口ごもる。
丹下はそんな俺を気にせず、しゃがみ込んだままアイビーを眺めている。
誰が持ってたのか分かっているといった横顔。
それはきっと、俺の独りよがりではないだろう。
「困ったもんだ」
「誰が?」
「俺が」
屈託無い笑い声は、秋の空へと吸い込まれていく。
俺の小さな感謝の気持ちを乗せて……。
手を洗って病室へ戻ると、ちょうど昼食の時間になっていた。
看護婦が持ってきてくれた食事をワゴンに乗せ、軽く見渡してみる。
野菜の煮物と、魚の塩焼き。後は漬け物と、みそ汁。
デザートにブドウ。
味はいいし、栄養バランスも取れている。
ただ、もう少し脂っぽい物が出てもいいと思う。
口に出来るなら何でもいい方ではあるが、そう続けて食べたいものではない。
「暖める?」
「いや、このままでいいよ」
丹下の作ってきてくれた、ネギとニラとささみの炒め物を口にする。
この差し入れがあるため、何とか食べていける様なものだ。
「煮物も食べればいいのに」
「ああ」
申し訳程度にニンジンを口に運び、ご飯を少し食べる。
まずくはないけど、おかずにならないな。
「でも良かったわね。食欲が出てきて」
くすっと笑い、お茶の入ったマグカップを手に取る丹下。
確かに手術直後は全く食欲が無く、お粥すら喉を通らなかった。
体力が回復する事に食欲も増し、今では食事が待ち遠しいくらいになっている。
ただ、これだけはどうにも。
とはいえ、食べない訳にも行かない。
「そんなに、慌てて食べなくても」
「いや、美味しいんで」
「また」
朗らかに笑う丹下に、俺も微笑みかける。
本当、美味しいんだ。
ただ、毎日毎食食べるものじゃない。
今日は、レバーソーセージか。
これは手作りじゃなくて、どこかで買ってきたんだろう。
「ノリもあるわよ」
「ああ」
レバーに続く、俺の目に付く食材。
佃煮であったり、おにぎりであったり、ふりかけであったり。
食べ飽きないので、困りはしない。
毎食でなければ……。
「はい」
「あ、どうも」
差し出された牛乳を、一気に飲み干す。
これも毎食だが、味が殆ど無いので気にはならない。
「貧血にもいいんだって。毎食後、飲んでみたら」
と爽やかに笑われたため、病室内の冷蔵庫には1Lの瓶が常に何本かある。
ただ健康になる前に、腹をこわすような気もする。
食器を戻しに配膳室へと歩いていく。
看護婦が取りに来てくれるとはいえ、このくらいは自分でやれば済む事だ。
彼女達は他に優先してやるべき仕事が幾つもあるはずで、その手を煩わす必要はない。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
にこやかに挨拶を交わす、丹下と吉家さん。
俺に付き添っている時間が長いため、二人とも多少は顔見知りになっている。
それに無愛想な俺よりも、丹下の方が親しみやすいのだろう。
「少し、残してるわね」
「ちょっと、量が多いんです」
「病院にいたら、そうなのかな」
納得したように頷く丹下。
吉家さんのトレイを見ると、残っているのはご飯だけ。
彼女は俺以上に子供なので、このおかずで食べるのは辛いのかもしれない。
「もったいないから、食べたら」
「おかずが無いだろ」
すると丹下は薄く微笑んで、俺の食器を指差した。
そこには彼女が実家から持ってきた、オイキムチの切れっ端がある。
「おかず」
「はいはい。嫌じゃなかったら、俺食べるよ」
「それはいいんですけど」
「じゃ、頂きます」
俺ももったいないと思っていたので、吉家さんの茶碗を持ちオイキムチを乗せる。
そして、一気に掻き込む。
何せオイキムチは小さいため、ご飯の味しかしない。
「ごちそうさまでした」
「良かった良かった」
一人納得する丹下。
何一つ良くないぞ。
「あ、あの」
「ん、どうかした」
「今から、ちょっといいですか」
やや深刻気な表情と、細かい手の動き。
俺はモトのように他人の心を共感する事は出来ないが、今の彼女がどんな気持くらいかは分かったつもりだ。
「丹下は結構頼れるから、彼女に相談したらいいよ。俺は、席外すから」
「い、いえ。浦田さんも、出来れば一緒に聞いて下さい」
さらに真剣な眼差しで、俺達を見つめてくる吉家さん。
丹下は彼女の手をそっと握りしめ、廊下の突き当たりを指差した。
「向こうに静かな場所があるから、あっちに行こうか」
やってきたのは、何の事はない俺の病室。
ただ個室なので、そういう話をするには向いている。
吉家さんは丹下と一緒にベッド脇に腰を掛け、俯き加減で足をぶらつかせている。
俺はそれを見るとは無しに、窓際で外を眺めていた。
風が強いのか、窓が時折音を立てて揺れる。
小さな雲が途切れ途切れに浮かぶ、寒そうな秋の空。
そろそろ、冬か。
どうでもいいけど。
「突然済みません。私、勝手な事言って」
頭を下げようとする吉家さんに、丹下は優しい表情で首を振った。
「いいのよ。それより、話って何かな」
気さくな態度で、切り出しにくそうな彼女を促す。
奇をてらったものではなく、あくまでも自然で受け入れやすい方法。
人の上に立つ人間は、そつがない。
それでもまだ表情の硬い彼女。
「怪我が辛いとか、リハビリの事?」
「い、いえ。それは治りかけてますから、別に」
「じゃあ、学校かな。勉強が遅れるとか」
「それも、オンラインの授業を受けてますから大丈夫です。友達も、よく来てくれますし」
さりげなく焦点を縮めていく丹下。
こうなっていくと、話す内容も自ずと限られてくる。
「だったら、その友達と何かあった?」
「い、いえ。そうでもないんです」
何となくさんの答えが変わってくる。
要は、核心に近付いたのだ。
「友達じゃないとすると、この病院で何かあるの」
「え?そ、その。あるというか」
ほぼ当たり。
丹下も彼女が考えている事は分かっているようだが、それを口にはしない。
相談しに来たのは吉家さんであり、丹下はそれを受ける立場でしかないのだから。
そして吉家さんの表情が瞬間にして変わり、まっすぐに顔を上げる。
「……あの、先月の事なんですけど」
「うん」
素直に頷く丹下。
「足の手術が終わって、私リハビリ室で歩く練習してたんです。でも痛いし怖くて、なかなか歩けなくて」
丹下は小さな相づちだけを打ち、言葉を挟まない。
あくまで、彼女が話す事だけを聞いている。
「その時、私を励ましてくれる人がいたんです。それから会う度に、その人は私を励ましてくれて」
「どんな人かな」
「多分私と同じくらいの年齢で、普段着だったから外来の人だと思います。優しい顔立ちの、男の子でした」
ふと表情が和み、やや視線が伏せられる。
「でもしばらくしたら、その人とは会えなくなっちゃって。リハビリが終わりみたいな事は、聞いていたんですけど」
「そうなの」
「勿論、また会えれば嬉しいです。でも私は、その人の事を誰かに聞いてもらいたくて」
遠い、その時を懐かしむかのような視線。
誰かに聞いて欲しいとは言ったが丹下や、まして俺などは見えていないのかもしれない。
それは自分の気持ちを改めて確認するための、きっかけに過ぎなくて。
「済みません、変な話を聞かせてしまって」
「全然。その彼と、またどこかで会えるといいわね」
「ええ」
輝くような微笑みをそっと浮かばせ、吉家さんは静かに頷いた。
友達が来るとの事で彼女は、自分の病室へと戻っていった。
「どう思う」
さっき彼女へ向けられていたのとは違う、からかうような視線。
「淡い恋というより、友情だと思うよ。俺は」
「それは、子供同士だから?」
「いや。人の結び付きに年齢は関係ない。あるのは気持と……」
知らない内に、熱く語りそうになっていた。
俺は軽く脇をさすり、ペットボトルに口を付けた。
「とにかく、その男の子と会えればいいんだろうけど」
「捜してあげたらいいじゃない」
「それは簡単だよ。でも、ちょっと違う気がする」
俺自身何が違うのかは、上手く説明出来ない。
ただ人の出会いを、そこまで恣意的にすべきでないとは思っている。
何らかの必然性があれば、また別だが。
「それにしても、世の中優しい子もいるのね。困ってる人を、さりげなく助けてくれるなんて」
「何か、企んでるんじゃないの」
鼻で笑い、池上さんからもらった白いウサギを手に取る。
可愛いけど、やっぱり俺には似合わない。
「子供が、そんな事する訳無いわよ。浦田じゃあるまいし」
「それは失礼しました。なあ、ウサ」
「え?」
「変?」
思いっきり、はっきり、力強く頷かれた。
名前くらい付けてもいいだろ。
ウサギだから、ウサ。
問題ない。
「恋愛云々はともかくとして、彼女の気持ちは大事にしてあげたいわね」
「なんだ、それ」
「もしその男の子とまた出会えても、実際は彼女が幻滅するような子だったら可哀想じゃない」
なるほどね。
ただ俺は、そういう現実も認識した方がいいと思う。
いい面ばかり見て生きていくなんて、都合が良すぎるしいつかは無理が生じる。
辛い事もあるから、現実なんだ。
「でも良かった」
「なにが」
「私、浦田さんが好きなんです。なんて言い出さなくて」
そう言って、自分が笑う丹下。
余程おかしいのか、目元にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
なんだ、それは。
「俺なんて、相手にする訳無いだろ」
「そうかな。一緒にいるって事は、多少なりとも好意を抱いているからでしょ」
「カードだよ、カード。ジュースをくれる、変な奴だと思ってるんだって」
そんな答えにも、丹下は頷こうとしない。
涙を流していた目元を拭き、息を切らしてベッドサイドへと腰掛けた。
つまりは、俺の隣へと。
「あなたって自分を冷静に見ているけど、その評価は低いのね」
「実際そうだから。多少の企画力と、先を見る事が出来るくらいさ」
「多少、か」
上目遣いの大きな瞳が、俺の顔を覗き込む。
間近に迫る彼女の端正な顔。
一瞬勘違いしてしまいそうなシチュエーション。
強い木枯らしの窓を打つ音が、俺の鼓動と重なっていく。
ただそれが、決して早くないとは分かっている。
少なくとも、動揺や焦りは覚えていない。
俺はそういう人間だし、そうだから俺だとも言える。
どうして鼓動が気になったかは、ともかくとして。
「前も言ったけど、いつも一歩下がるのね。決して前には出ないで。それが出来るはずなのに」
「出来るのと、実際にするのとは違う。俺はユウやモトみたいに、人を引っ張る素質がない」
「そう思い込んでるだけでしょ。それとも、ただ面倒がってるだけで。私も、前はそうだったから」
今では100人近いガーディアンを従え、そんな彼等からの信頼も厚い丹下。
その彼女が洩らした、意外とも言える告白。
詳しい事情は知らないが、人は変われるという事だろう。
そして俺は、変わる気がない。
出来る出来ないではなく。
自分のすべき事を、俺はするだけだから。
こればかりは、例え何があろうと譲れない。
その結果として生徒会をクビになろうが脇腹を切り裂かれようが、何一つ気にならない。
意固地と言われも、偏屈と言われても。
俺は自分のしたいようにするだけだ。
「別に、説得という訳じゃないのよ。ただ、私はあなたの能力が惜しいと思って」
申し訳なさそうな表情を見せる丹下。
そういう顔をされると、こっちが困る。
「ごめん。もう、この話は止めるわね」
「俺こそ、悪い。変に気を遣わせちゃって」
丹下が俺を想って、あえて言ってくれているのに。
それを、結果として断る形になる。
本当に、俺はどうしようもない。
「頭下げないで」
「え?」
「自分でそうしたいから、人前に出ようとしないんでしょ」
「まあ、一応は」
「だったら、謝る必要ないじゃない」
優しげな笑顔と共に、肩へ手が置かれる。
俺の気持ちなど、分かってると言わんばかりに。
正直こういう雰囲気は苦手で、どうしていいのか分からない。
視線を合わせる事も、その手を重ねる事も出来そうにない。
また俺は、そういう事をしたいと思っている訳でもない。
今はただ、この雰囲気に浸っていたいだけなのだから。




