エピソード(外伝) 8-1 ~ケイ視点~
自分らしく
8-1
ロビーには外来の患者や見舞客、看護婦や医師達がせわしなく動き回っている。
そして自分はパジャマ姿で、腕には「浦田珪」と書かれたタグ。
紛れもない入院患者だし、病室を出る許可が出たのはつい最近。
リハビリを兼ねての散歩だが、すでに息が切れてきた。
病室へ戻る階段の踊り場で、つい足を止める。
たかが4階。
それを一気に上れない、今の自分。
脇腹を斬られて、ベッドに釘付けになっていたのはほんの一週間程度。
しかしそれが、元々無かった体力すら奪い去った。
体重も10kg程減り、鏡で見ても痩せたと分かる程だった。
勿論病院内にはエレベーターがあり、それを使えば何の苦労もない。
それでも体力を回復させるには、この方がいいだろう。
とにかく、きつい……。
病室に入るや、直ぐさまベッドへと倒れ込む。
ただそれは気分的な物で、体の傷を刺激しないようゆっくりと身を横たえた。
健康の大切さを噛みしめつつ。
手術直後、体に付いていたチューブは4本。
心拍をモニターする装置と酸素マスクを加えれば、6本になる。
自分で自分の姿は見えないが、怪奇管男と言ってもいい姿だっただろう。
手術から二日くらいの記憶は殆ど無く、かろうじて誰が来たかを覚えている程度。
だから自分で言った事や、向こうから言われた事は殆ど覚えていない。
それからも傷は痛み、何度と無く鎮痛剤の世話になった。
また体に付いているチューブのため、身動きの取れないという事もあった。
そんな状態でベッドに寝ていると、その周りで歩いている人達に憧憬の眼差しを送ってしまう。
普段なら気付かない、健康の大切さ。
彼等はただ歩いているだけだが、俺には絶対に出来ない事。
これからは体に気を付けようと、強く思った。
脇腹に付いていたチューブを抜いたのが一週間前。
つまり今の俺は、歩いていられる。
これがどれほど貴重なのか。
「苦労は買ってでもしろ」、という言葉が身に染みて分かった。
体に刺さっているチューブを抜く時は麻酔をしろ、という教訓と共に。
これこそ映画のワンシーンで、体に刺さったナイフを抜く心境がよく分かった……。
俺の病室があるフロアのラウンジに行くと、小学生高学年くらいの女の子がソファーに腰掛けていた。
長い黒髪を左右に分けて束ねていて、あどけなさが残る可愛らしい顔立ち。
赤いパジャマというのも、病院ならではだろう。
俺だって、パステルグリーンのパジャマを着ているくらいだから。
「こんにちは」
「あ、こんにちは。浦田さん」
朗らかな笑みで会釈をしてくれる彼女。
吉家さんとはリハビリ室で知り合い、顔をあわせれば会話をするくらいの間柄。
彼女は階段から足を踏み外し、どこかの腱を痛めたらしい。
まだしばらくは治療が必要で、俺と同じ外科の病棟に入院している。
「よかったら、どうぞ」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、俺が渡したカードを受け取る吉家さん。
病院内の自販機や売店で使用出来る物で、なかなか重宝させていただいている。
ミルクティのペットボトルをソファーへ置き、カードを渡してくる彼女。
「頂きます」
「どうぞ」
子供らしい素直な態度と、可愛らしい笑顔。
ジュース一つでこれだけ喜んでくれるのは、俺も素直に嬉しい。
「浦田さんは飲まないんですか」
「下のロビーで、ブドウ炭酸を飲んで来たから」
「炭酸好きなんですね。骨、溶けますよ」
どこから仕入れたのか分からない事を、真顔で語られた。
それならビールを飲みまくっている俺の知り合いは、みんな骨無し人間だ。
「今後、気を付け……」
ペットボトルが当たって床へ落ちた彼女のポシェットを拾い、埃を払ってソファーへ戻す。
「あ、済みません」
恐縮せずに、明るく会釈する吉家さん。
礼を言われる程の事はしていないので、俺も頭を下げる。
「それじゃ、私検査がありますから」
「ああ。また、リハビリ室ででも」
「はい。失礼します」
杖を付いて、廊下を歩いていく吉家さん。
その歩行を手助けするのは簡単だけど、それは彼女のためにならないし本人もよく分かっている。
俺に出来る事といえば、せいぜいその背中を見守るくらいだ。
「たまには優しいのね」
「いつも、と言って欲しい」
振り向かないまま、無愛想に答える。
「それは失礼しました」
耳元をかき上げ、爽やかに笑う丹下。
窓から射し込む秋の日差しが、その黒髪を輝かせていた。
個室になっている病室に入り、取りあえずベッドの脇に腰掛ける。
「これ、差し入れ」
はにかんだ表情と共に差し出されるランチボックス。
それを両手で受け取り、傍にあったワゴンへ置く。
「ありがとう」
「いいの。でもよかったわね、元気になって」
「おかげさまで」
俺は紛れもない真摯な思いを込め、そう答えた。
「……真面目な顔もするんだ」
「あのさ」
「冗談よ」
朗らかな笑顔を見せ、ワゴンを自分の前へ持ってくる丹下。
彼女は毎日午前中から来ては、何かと世話を焼いてくれる。
俺が入院して2週間程になるが、その間ずっと。
「果物でも、食べる?」
「面倒でないなら」
「分かった」
器用な手つきで、梨の皮を剥いていく丹下。
カットされて小皿に乗せられたそれが、ワゴンへと乗せられる。
「どうぞ」
俺が取るより前に、フォークごと差し出された。
こうやって気を遣われるのは慣れていないので、結構困る。
何が困るのかは、俺自身分からない。
「あ、はい。頂きます」
妙に他人行儀な挨拶をして、梨を頬張る。
程良い水気とさくさくとした食感が、口の中に広がっていく。
暖かな視線を感じるが、気にしないようにして新聞を広げる。
正直、こういう雰囲気には慣れていないので。
「……コンビニでエビ天丼400円を窃盗し」
コンビニの外観と並んで掲載されている、エビ天丼。
かろうじて吹き出すのを堪え、ペットボトルのお茶で流し込む。
駄目だ、TV見よう。
ちょうどニュースがやっていて、若い男性アナが真顔で原稿を読んでいる。
どこかで観光バスの、交通事故があったらしい。
「ニコちゃん観光バスの、レッツ青春ツアー・歩け木曽路……」
止めてくれ。
「大丈夫?顔色悪いわよ」
「な、何でもない」
脇腹を押さえ、深呼吸を繰り返す。
やっと交通事故のニュースが終わり、動物の危機管理問題を扱う特集コーナーが始まった。
「脱走したライオンを捕まえるため、警察と職員が共同で……」
ライオンのぬいぐるみを来た職員が、明らかにおもちゃの銃で撃たれている。
そして倒れたライオンに、目の粗い網を覆い被せた。
いい加減にしてくれ。
と思っていたら。
「……豚舎が燃え、中にいた豚100頭が焼死しました。不審火の疑いもあるため、消防と警察が共同で捜査に当たっています……。どう思います、これ」
「可哀想な話ですね」
話を振られた若い女子アナが、真面目な顔でそう言った。
もう、駄目だ。
「ちょ、ちょっと」
「だ、大丈夫」
この傷のせいで、少し笑っただけでこれだ。
迂闊にニュースも観れないな。
「そんなに、おかしかった?」
「傷が開くかと思った」
「あなたの価値観は理解出来ないわ」
あっさり言い放つ女の子。
「豚が可哀想と思わない?」
「後でチャーシューになるか、今丸焼けになるか。その違いだけだろ」
「もっと、労りや思いやりの気持ちを持ったら」
怒られた。
しかしむきになって反論するような事でもないので、枕元にあった書類を適当に取る。
「目は通した?」
「一応。授業はレポートを出して、保険とかの申請書を書けばいいんだろ」
「まあね。その内生徒会から、誰か説明に来るって聞いてるわ」
そんな事よりも、金を持ってきて欲しい。
今俺のカードには、殆ど金が入っていないから。
元々金が無かった所へ、この入院。
身の回りの物を揃えてもらったら、数字が二桁になっていた。
入院費の支払いもあるし、一番の問題はこの個室。
大部屋との差額を考えると、多分保険でも足が出るだろう。
勿論個室の方が気楽なので、部屋を移る気はないが。
今はそんな事を気にせず、自分の体だけを気遣おう。
そうでも思わないとやっていられない。
つくづく、金には縁がないな。
丹下はほぼ毎日来てくれるが、一日中俺と一緒にいる訳ではない。
この病院には広い中庭があり、そこで草木を見て過ごしたりしているそうだ。
また小児病棟へ行き、子供達と遊ぶ事もあるんだとか。
俺はそういうキャラじゃないので、小児病棟へ行ったりはしない。
大体、向こうがなついてこないだろう。
ふと時計に目をやると、午後10時。
面会時間は終わり、丹下もとっくに帰っている。
さらに言えば消灯時間も過ぎ、個室でなければ明かりを消されている。
それでもインターフォンは、来客を告げていた。
「開いてます」
リモコンでキーを解除させ、病人らしく布団を被る。
「夜遅くに、済まない」
言葉の割には、平然とした態度で入ってくる男。
その後ろには、俯き加減の女の子が従っている。
「俺に、何か」
「ああ。少し、話がしたくて」
悪びれもせず、前自警局長はそう言った。
「あなた、警察に拘留されてるんじゃ」
「告訴が取り下げられたんでな」
「なるほど」
「取り下げたのは、君だろう」
鼻で笑い、大きな長い箱をベッドの上に置く自警局長。
形状から見て、おそらくは洋酒だろう。
「見舞いの品だ」
「俺病人だし、それ以前に飲めないんですが」
「そんな事は知らない」
じゃあどうして持ってきたと心の中で突っ込み、取りあえず礼を言う。
「それで、話したいって何をです。また斬りますか」
「俺は命令も指示もしていない。君、正確には大内を狙ったのはあいつの独断だ」
「分かってますよ」
お互いに、動揺も慌てもしない。
ただ事実だけを述べているこの感覚。
たまには、悪くない。
「丹下と戦わせて、派手に水を掛けて。最後に俺が吐き出させやすいよう誘って。それであなたが捕まったから、共犯者の意見としてあの馬鹿連中を告発は出来たんだけど」
「あいつらと会う事も、もうなくなる。あんな連中とは」
「学校があなた達に付けた、監視役。もしあなた達が去年の抗争に勝って、その際学校のコントロールを無視した場合。あいつらが暴走して、あなた達の立場を悪化させる。違いますか」
分かってるなら聞くなという顔。
話が早くて助かる。
「前期にあのサディストを使ったのも、ああすればあの馬鹿を退学に持ち込めると思ったからでしょう。結果学校側の目論見は失敗に終わって、あなたの思い通りになった」
「俺はそのせいで、退学になったぞ。君達のせい、でもあるが」
「元々、そのつもりだったんじゃないですか。最初は塩田さんとあなたの確執が原因だと思ってたけど、その確執はもっと違う意味がある。ようはお互い、退学したがってたんですよね」
「塩田は、屋神さんの出来事をまだ気にしてるからな」
ほぼ俺の言葉を肯定する返答。
うっすらと見えていた風景が、間近に迫ってくる感覚。
それは、思っていた通りの景色でもある。
「去年のトラブルで屋神さんは学校に付き、塩田さんは取り残された。そして抗争後、学校側に付いたはずのあなたは自警局長の要職に収まった。上手く立ち回ったとも取れるし、もう一つ裏があるようにも思える。その辺の事情は、全く知らないんですけどね」
「下らない人間関係があったとだけ、言っておく。その内、塩田や大山が話すだろう」
「待ちくたびれてますよ」
苦笑して、軽く脇腹を押さえる。
しかし「大丈夫か」、とも言ってこない。
鼻で笑っているくらいだ。
俺は、それにも苦笑した。
「そんな事があって退学したあなたが、またここへ戻ってきた。確かに学校から渡される謝礼を受け取るという理由もあった。でももう一つは、ディフェンスラインに例の馬鹿連中が入ってたから」
これには答えない前自警局長。
俺は構わず、話を進めた。
「学外とはいえ、同じ街にいる。しかも自警組織として。学校がどんな名目を付けて、あいつらを学校に送り込んで来るとも限らない。それを防ぐための、支部長就任。そして今回の事件だったんじゃ無いんですか」
「この間もそのくらい喋れば、殴られずに済んだものを」
「失礼しました。あなたが、話に来たんですよね」
とはいえ大部分は、今俺が話してしまったのだろう。
前自警局長は、これといって切り出してこない。
「まだ、色々疑問点があるんですけど」
「昔の事は、塩田達に聞け。あいつはもう、退学する意志を無くしているだろうから」
「するとあなたは、自分の意志もあって退学したと認めるんですね。それと去年のトラブルは、どうして一般生徒に知られてないんです」
「初めの抗争は、夏休み中の出来事だった。二度目、つまり前の抗争で勝った人達が退学した時は、冬休みからテスト期間辺りの出来事だ」
聞けば聞くほど面白い。
変な駆け引きも楽しいが、すぐに話してくれるのも楽でいい。
「例の馬鹿連中は、結局どうなったんです」
「刑事処分を受けて、10年は出てこられない。君を斬った事以外にも、色々やっていたようだ」
「では、ディフェンスラインの連中は」
「活動はしている。今回の反省を踏まえ組織改革をする雰囲気もあるが、そう簡単にはいかないだろう。一歩一歩進むしかない」
さすが前支部長、よく知っている。
「馬鹿連中を捕まえ、ディフェンスラインの危険な芽を摘み。さて、次はどうします」
「大学にでも行くさ。その程度の資格は持っている」
「さすが。で、彼女は。わざわざ連れてきて、どういう事なんです」
前自警局長の後ろで立ち尽くしていた女の子が、尖った眼差しを向けてくる。
綺麗な顔立ちと、やや派手な服装。
「君が斬られた事で、今回は許す。後は好きにしてもらえばいい」
鼻を鳴らし、露骨に顔を逸らす女の子。
綺麗だが、可愛げは無い。
「結構人が良いんですね。変な事とか、しないんですか」
「君と一緒にするな」
「ああ。男にしか、興味がないんでしたっけ」
冗談で言ったつもりだが、前自警局長は真顔で頷いた。
気を付けよう、色々と。
「それに去年のトラブルで、多少はこいつとも縁がある」
「塩田さんの話では、渡り鳥以外の転校生が何人かいたようですね」
「学校が導入した、特別編入生だ。まともな奴も、いたにはいたが」
「前期にフォースが他校の生徒を一時的に編入させたのは、それを倣ったと」
軽く頷く前自警局長。
何せ当事者なので、話が早い。
「あの事件も、今考えれば底が浅いんですよね。もしかして学校の企みを、二人で潰そうとしたんじゃないですか。そしてあそこまで事件を大きくした責任も考えて、退学という結論を出したとか」
「もう、忘れた」
「あ、そうですか」
肝心な部分は話さないな。
事件の本質ではなくて、自分の心の内を。
ただそれは、別に聞かなくてもいい。
興味がないのではなく、無理に聞く事ではないのだから。
「しかし、何で彼女は斬られそうになったんです。例の報酬で連中に多少の分け前が行くとはいえ、そこまでしますか?」
「そういう連中なのよ、あいつらは」
小馬鹿にした口調で、俺を責める大内さん。
なるほど。
「舞地さん達みたいにふ抜けた連中ばかりだと思わない事ね。この学校で平和ボケしてるから、そういう言葉が出てくるのよ」
同じ全国を渡り歩くアシスタントスタッフでも、両者には違いがある。
舞地さん達は「渡り鳥」と呼ばれ、自らが決めた誓約に基づいて動く。
そして大内さん達はそんな誓約など無く、報酬のためだけに動くのだろう。
状況によっては大内さん達の方が正当化され、より力を振るえるかも知れない。
どちらが本当に良いのかどうかは分からないが。
「それに舞地さん達は、一部の連中にとって目の敵よ」
「嫌な人間と知り合いになっちゃったな」
「せいぜい、気を付けるのね」
いつも通りの、きつい口調。
表情も、相変わらず。
どうも相性が悪いようだ。
「それで、例のカードは。結局、君が場所を変えたんだろ」
「いざという時の切り札と思って」
露骨に顔をしかめる大内さんを気にしないようにして、カードのありかを告げる。
俺が持っていても仕方ないので、本来の持ち主に渡すのは当然だろう。
「これで、用は済んだ。消灯時間も過ぎているし、早く寝たらどうだ」
「お気遣いどうも。それより、俺も金が無いんですが」
「分かった。少ないが受け取ってくれ」
一枚の100円玉が、布団の上に投げられた。
「あ、あんた。あのカードの口座には、幾ら入ってると思ってるんです」
「確かにその怪我には、多少の責任を感じている。だから今のは、俺からの気持ちと思ってくれ」
「ご親切に、どうも……」
面白くないな。
「じゃあ、安静にしていろ。それと他の連中に見つかったらまずいから、俺はもうここへはこない」
「はいはい。寝るから、早く帰って下さい」
「愛想のない奴だ」
お互い様な捨てぜりふを残し、部屋を出ていく自警局長。
気を抜こうとしたら、すぐにドアが開いて戻ってきた。
「丹下さんはいないのか」
「面会時間を過ぎてますからね……。ああ、あなたは北地区だから先輩後輩か」
「古い話だ。向こうは俺の事なんて、どうとも思ってないだろう」
「彼女も、すぐにあなたの考えを読み取りましたよ」
曖昧な頷き方。
感じられるのは、丹下に対する気持。
成長した後輩を見守る。
いや、彼はこれ以上見守れない。
そして、会おうともしない。
「昼に来れば、会えますよ。後は、誰が北地区だったかな」
「余計な事は考えるな。それに北地区は、負け組だ」
「負けって、何が」
「詳しくは言わないが、去年の抗争で。……話し過ぎたか」
きびすを返し、病室を出て行く前自警局長。
今度は戻ってくる事もなく、部屋には静寂が訪れる。
しかし、少しくらい金を置いていっても……。
「情けない男ね。せっかく自分で隠したカードを、あっさり手放すなんて。しかも、はした金なんて請求しないでもらえる」
「俺がどうだろうといいだろ」
舌を鳴らし、100円玉をしっかりと回収する。
いくらだろうと、無いよりはましだ。
「最悪」
「だから、俺がどうでもいいでしょうが」
「ええ、どうでもいいわ」
小馬鹿にした顔で、俺を見下ろす大内さん。
見た目は綺麗だけど、ちょっと苦手なタイプだ。
というか、早く帰って欲しい。
「私を助けた理由は聞かない」
まっすぐに俺を見つめながら、そんな言葉が掛けられる。
初めて見る、真剣な表情で。
「……それでも、一応借りには思っておくわ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「何それ、馬鹿じゃない」
見下したような視線を残し、大内さんも病室を後にした。
その結果手元にあるのは、飲めない酒と100円玉。
元々大した事をやった訳ではないんだから、これで十分か。
とにかく今日は、よく眠れそうだ。
朝は早い。
俺がどれだけ眠かろうと、看護婦が朝から問診に来るから。
また普段は食べない朝食が持ってこられ、必然的にそれへ手を付ける。
カロリーと栄養バランスを考えて作られた食事。
それなりには規則正しい生活。
嫌でも健康になってくる。
「まだ寝ていたら」
「昼寝すると、夜が眠れなくて」
「1日中寝てるんだものね」
納得という顔で頷く丹下。
俺が言うのもなんだけど、彼女は綺麗でスタイルも申し分ない。
気が利き、気さくで、言う事ははっきりと言う。
そんな子が傍にいれば、それは嬉しい。
ただ、どうして俺の傍にいるのかがよく分からない。
いや考えようとしていないだけか。
「温泉行くんですって」
「ああ。今度の旅行」
「あなたの怪我は、その頃には治ってるのかな」
優しい、暖かな笑顔。
正直、俺には眩し過ぎる程の。
「別に、俺は寮で寝ててもいいから。みんなに迷惑かけてもなんだし」
「またそういう事言って」
微笑んでいた丹下の顔に、やや困った表情が混ざる。
大抵この後には「誰も迷惑だなんて思ってないわ」と続く。
そうかもしれないが、他人に気を遣われるのは苦手なのでつい口に出てしまう。
「普段は自分気を遣ってるんだから、少しくらいみんなの世話になってもいいでしょ」
「分かってる」
「そういう顔には見えないけど」
たしなめるような、やや鋭い視線。
適当に言ってごまかす事が出来る相手ではない。
とはいえ俺も、考え方を変える気はない。
人は人、自分は自分。
そんなひねくれた性格だから、こんな所で寝る羽目になったとも言えるが。
「……そういえば、今日生徒会の人が来るって。昨日言ってた、説明をしてくれるらしいわ」
小さくため息を付き、話題を変える丹下。
彼女もああいう話を俺にしても、無駄だと分かっているのだろう。
それでもあえて口にする理由は、やはり考えないでおこう。
「誰が来るって」
「さあ。それより、愛想良くしてなさいよ。あなた、生徒会では評判悪いんだから」
「ああ」
それは俺も重々分かっているので、素直に頷く。
しかし、生徒会か。
ちなみに俺は、二回も生徒会をクビになっている。
一つは光のIDが絡んだ、この間の一件。
そしてもう一つが、中1の最後。
元々好きで入った訳ではないので、別に気にはしていない。
向こうが俺を恨んでいるのはともかくとして。
「どうかした?」
「ん、ちょっと」
かゆいので、背中を壁に押し付けていた。
傷のために右腕は殆ど上げられないし、左腕もそれ程変わらない。
熊の心境がよく分かる。
「ちょっと待ってて。背中拭いてあげるから」
「ええ?」
とんでもない事を言い出す子だな。
「それはその。別に、なんて言うのか」
「いつも、看護婦さんにはしてもらってるんでしょ」
「いや、まあ、そうだけど。でも、大抵は自分で……」
「少し、待ってて」
俺の動揺など気にも止めず、彼女は部屋を出ていった。
はっきり言えば、看護婦に拭いてもらうのさえ気疲れする。
ましてそれを、丹下がするだなんて。
とはいえ、逃げるのも変だろう。
しかし、どうするよ……。
一人唸っていると、いつもの爽やかな表情で丹下が戻ってきた。
その手には洗面器と、小さなクーラーボックス。
「さあ」
クーラーから湯気の立つタオルを取り出し、壁を指差す。
後ろを向けという意味だろう。
参ったな。
しかしここまでされて断るのは、さすがに気が引ける。
「……失礼します」
ボタンを外し、脱いだパジャマをベッドの上に置く。
右の胸元から背中に掛けて、大きく張られているガーゼ。
それ以外にもあざや切り傷、小さなガーゼが幾つかある。
何せ蹴られるはスティックで殴られるは、骨がやられなかっただけまだよかった。
前自警局長が、やり過ぎないよう奴らを抑えていたお陰だろう。
ただあいつらを捕まえるために俺を利用したとも言え、一概に感謝は出来ない。
人の事は言えないが、あの男にも困ったものだ。
「ガーゼ剥がすわよ。後で看護婦さんが、また貼ってくれるって」
「ああ」
俺も、自分の手が届く部分のガーゼを剥がしていく。
小さい部分はまだいい。
問題はこの、脇腹だ。
血はもう出ていないが、多少はガーゼと肌がひっついている。
決して楽しい行為ではない。
「痛い?」
「なんとなくは」
それよりも、傷口に触れる感触がぞっとしない。
「……取れた」
満足げな声が、背中で聞こえる。
と同時に、小さく息を飲む音も。
「いいよ。後は自分でやるから」
「だ、大丈夫。ちょっと、驚いただけ。ふ、拭くわね」
肩の辺りに感じる、暖かな感触。
自分の手が届かない所に与えられる、心地よい刺激。
正直抵抗があったけど、実際にやってもらうと気持いい。
「あー」
「変な声出さないで」
「え、俺?」
「自覚症状無しね」
おかしそうな笑い声。
その間にも暖かな感触は、背中を降りていく。
そして傷口の上に、そっとタオルが押し当てられた。
「このくらいなら、大丈夫?」
「なんとか」
ぞっとしない感触は、暖かさに掻き消される。
伏せた視線の先に見える白い手。
それは先程までの心苦しさをも、薄れさせていくかのようで。
らしくないなと思いつつ、俺はその心地よさに身を任せていた。
体を拭いてもらったせいか、気分もいい。
せっかくだし、中庭にでも行って少し体を動かそう。
そう思った矢先に、インターフォンが音を鳴らした。
今日、誰か来るって言ってたかな。
「はい、開いてます」
昨日の今日なので、やはり布団を被る。
入院した理由を考えれば、警戒してし過ぎる事はない。
「失礼します」
そんな俺の考えをあざ笑うように、小太り男の子が入ってきた。
人の良さそうな顔で、草薙高校の制服を着ている。
しかし小デブちゃんだからといって、油断は禁物だ。
取りあえず布団を被ったまま、向こうの出方を待つ。
「ご療養中のところ、申し訳ありません。浦田さん、ですよね」
「ええ」
「失礼しました。僕は生徒会・自警局総務課から派遣されました、大石進と申します」
どこかで聞いた名前だな。
……ああ。
丹下を夢の中で助けたっていう、あれ。
こんな小デブちゃんだったのか。初めて見た。
いや、その呼び方は失礼だ。
年齢別の平均身長をやや下回り、かつ年齢別の平均体重をやや上回るとでもしておこう。
「こちらがお配りした書類には、目を通されましたか」
「一応」
こくりと頷き、年齢別の平均……。
面倒だ、やっぱり小デブちゃんでいい。
「それでですね。今回の治療費に関しては、全面的に学校が負担するそうです」
「差額ベッド代も?」
「ええ。学内で起きた事件ですし、傷害保険とは別に学校が負担します」
いい話を聞いた。
これなら、もっと余計な物でも頼むか。
「また一時見舞金と簡易補償制度により、来週には若干の金額が口座に振り込まれます。正式な補償は生徒会が学校との交渉後になりますので、もうしばらくお待ち下さい」
運気が向いてきたな。
ただ、俺は今すぐ金が欲しいんだが。
「色々物入りなんで、もう少し早くなりませんか。カードの残金が、殆ど無いんですよ」
「申し訳ありません。手続きがやや遅れていまして」
「いえ、こちらこそ」
慌てる事はないか。
病院にいる間なら、例のカードだけで事は足りる。
ショウからもらった物だけど、本当にあれは助かる。
唯一の命綱とも言っていいくらいに。
やがて保険や補償費の話が終わり、授業の事へと話題が変わった。
「出席に関しては、入院されている間とそれから一ヶ月程度を免除します。オンラインで受講された分は、考査点を追加するとの事です」
「年明けにはテストですよね。それはどうなります」
「もし間に合わない場合は、レポートの提出でその代わりとします。また追試になった場合でも事情を加味するとの事で、進級に関しては問題ないと思って下さい」
「どの教科も?」
「ええ」
怪我様々だ。
これで数学の悪夢からは開放された。
赤点?0点?追試?
そんな言葉は、もう怖くない。
「お茶、飲みます?」
「いえ。浦田さんは、ゆっくり休んでいてください」
「そうですか」
今までの悩みが、一気になくなった。
大内さんもどうやら大丈夫みたいだし、前自警局長から事情も聞けた。
後は小デブちゃんの言う通り、体を休めるとしよう。
いや、その前に一つ聞くか。
「大石さんって、中等部でも自警局に所属してました?」
「ええ。事務部門ですけど。浦田さんも、一時期所属していたと聞いてますよ」
「俺はクビになる程度の人間でして」
愛想良く笑い、核心をつく。
「……だったら、丹下沙紀という子知ってますか?以前直属班の隊長で、今はI棟Dブロックの隊長をやってる」
「ええ」
ごく自然に頷く小デブちゃん。
俺ははやる気持を抑えつつ、さらに言葉をつないだ。
「会った事とか、あります?」
「確か中等部の頃、一度だけ会いました。人違いだとか言って、謝ってましたよ」
「人違い」
「誰かが僕の名前を使って、彼女を助けたみたいです。詳しくは知らないんですが」
なるほどね。
夢の男へ会いに行ったら、この小デブちゃんが出てきた訳か。
その時の丹下の心境も、ちょっと聞いてみたい。
「丹下さんが、何か」
「いえ。彼女から以前、あなたの名前を聞いた気がしたので。どういう事情かなと思いまして」
「ああ。浦田さんは同じブロックですし、先日は補佐もやってましたね」
人の良さそうな丸顔をほころばせる小デブちゃん。
見た目はともかく、出来はいいようだ。
「俺は、迷惑かけてばかりですが。補佐してた時も、結局生徒会をクビになりましたし」
「不正の摘発で、一部の人の反感を買いましたからね」
よく知ってるな、そんな事まで。
何か企んでる……、訳無いか。
「確かに怒ってる人もいますけど、良くやったと思っている人も多いですよ」
「だといいんですが」
「特に運営企画局では、結構評判いいって知ってました?」
相変わらずの、人のいい笑顔。
ただ運営企画局といえば、俺が横領した金で差し入れをしたところ。
その事を、暗に皮肉ってる訳でもないようだが。
「それで、これを預かってきました」
小デブちゃんが、ワゴンの上に大きめな紙袋を置いた。
俺が聞くより前に、中身が取り出される。
「インスタントのラザニアや、焼きプリンとかがあります。よろしかったら、どうぞ」
「請求書、なんてないですよね」
「え?」
「いえ、こっちの話です」
明らかに知らないという顔だった。
しかし、こういう形で返して来たか。
退院したら矢田君の金をちょろまかして、別な物も差し入れるようにしてもらおう。
「それでは、僕はそろそろ」
「何のおかまいも出来なくて済みませんでした」
「いえ。あ、そのままで結構です」
ベッドを降りようとした俺を制して、ポテポテと歩いていく小デブちゃん。
そして前転しそうな感じで頭を下げ、部屋を出ていった。
大石進、か。
夢や勘違いではなくて、本当にいたんだな。
なかなかに、貴重な体験をさせてもらった。
「どうしたの。一人で笑って」
「ちょっと、マンガを思い出してた」
「そう」
呆れもせず、花瓶の水を入れ替えている丹下。
サトミが持ってきた綺麗な花が生けてあり、無機質な病室に彩りを添えている。
ただ俺は花を愛でるような性格ではないので、殺風景なままでも気にならない。
それに受け取るのは花ではなく、その気持ちだろう。
「……このコニャック、どうしたの」
窓辺に花瓶を置いていた丹下が、目ざとく例の箱を見つける。
下戸の俺に対する見舞い品にしては、確かに不自然だ。
「さあ。昨日誰かが置いていったんだろ。変わり者もいるもんだ」
「あなたをよく知らない人よね。お酒を持ってくるくらいだから」
「どうでもいいよ。丹下、持って帰れば」
中身が酒なのは、すでに確認してある。
何せ持ってきた相手が相手なので、危険はないにせよ用心は必要だ。
「ふた、開いてるわね」
「飲み差し持ってきたんだろ。ますます、ろくな人間じゃない」
「そう。とにかく、ここに置いておきましょ。何かの時に、飲むかも知れないから」
丹下探偵の推理はひとまず終わった。
ただ、何かの時ってなんだ。
ここで、宴会でもやる気か?
「コニャック……」
そう呟き、深刻な顔をする丹下。
何かを思い出しているようにも見える。
「どうかした?」
「ううん、気のせいだた。私もそろそろ、帰ろうかな」
「ああ。気を付けて」
ベッドを降りようとした俺を、笑って制する丹下。
「いつも言ってるけど、ここでいいわよ。それと、ランチボックスは一応洗っておいてね」
「分かってる」
「それじゃ、また明日」
元気良く手を振り、爽やかな笑顔と共に部屋を出ていった。
俺も弱々しく振っていた左手を降ろし、ワゴンへ目を移す。
その上に鎮座ましますランチボックス。
丹下がわざわざ作ってきてくれた食事が入っている。
その中身はと言えば。
「……やっぱり」
ゆで卵のしょう油煮、ニンジンのきんぴら、鮭の皮の和え物。
よく作れるなと思う総菜の中に、一つある。
レバー料理が。
これだけは、差し入れが始まってから毎日入っている。
炒め物、ペースト、揚げ物、刺身。
調理法は様々で、味も申し分ない。
レバーの栄養価は、何といっても鉄分。
大出血した俺には、最適の食材。
ただ、毎日食べるとなると話は別だ。
とはいえ残したり捨てるなんて出来る訳もなく、俺は毎日感謝を込めて食べている。
本当に美味しいんだよ、丹下さん。
でも、朝昼晩とレバーは食べたくないんだ。




