8-3
8-3
「押すな」
「気のせいだよ」
「だからっ」
牙を剥き振り返るショウ。
ヒカルは素早く身を引き、素知らぬ顔で椅子に座った。
「お前、院に戻るんじゃなかったのか」
「もうすぐ」
「いつもそれだな」
「まあまあ」
窓の後ろを拭いているショウの肩を叩き、にこやかに微笑むヒカル。
さっきの悪ふざけも、彼を突き落とそうとしていたらしい。
落ちても大丈夫だし、それ以前に落とさないけどね。
「光、ショウの邪魔をしないで」
「ほら、彼女が怒ってるぞ」
「ショウは手を止めないで」
ちらりとサトミに睨まれ、慌てて身を乗り出すショウ。
一応例のワイヤーを付けてはいるけど、足先しか窓枠に掛かっていない。
端で見ているだけでも、こっちが怖くなるくらいだ。
「こんな所まで拭けって言われても……」
「私は手が届かないのよ。それとも、ユウにやらせる?」
「それは無理だろ」
即座に断言するショウ。
私の身を気遣ってくれるのか、小さいという意味か。
深く考えない事にしよう。
「ヒカル、替えのタオル」
「ほら」
下から放られたタオルを、ショウは片手で掴んだ。
もう片手もタオルを掴んでいるので、今は両手を離している状態。
足先を窓枠に引っかけているバランスだけで、その体勢を保っているのだ。
私だってやれなくもないけど、一生やらないだろう。
馬鹿と煙は高い所へ行きたがると言うし、ショウも案外馬鹿かも知れない。
煙よりはいいけどね。
「指が、冷たいんだよな」
「タオル濡らすのは、お湯使ってるだろ」
「ここで拭いてれば、すぐ冷める。大体俺は、外にいるのと同じなんだぞ」
「じゃあ、お湯掛けようか」
にこやかにバケツを構えるヒカル。
やらないとは思うけど、やりかねない人でもある。
ケイとは違う意味で、考えが読めないんだ。
「光。邪魔してないで、論文をやりなさいよ」
「はいはい。ショウ、後は頑張って」
「お前が言うな」
片足を浮かせ、蹴る真似をするショウ。
風が吹き彼の体が大きく揺れるけど、焦る様子はない。
そしてバランスも、全く崩れない。
私もこういう事には自信がある方だが、やはりこの人にはかなわない。
「寒くない?」
「大丈夫。気持いいくらいだ」
風を受けてなびく、彼の前髪。
シスター・クリスことクリスチナさんの一件で燃えた髪も、少しだけど伸びてきた。
このまま伸ばして、以前のような長髪にするのかな。
「伸びてきたね」
「薄くもなってきたな」
「え、何が?」
「何って」
上と下で、顔を見合わせる私とショウ。
「髪よ、髪」
「ああ。影かと思ってた」
窓辺から射し込む日差しが、室内に影を作り出す。
夕暮れ時期。
夏場に比べると、頼りない影。
時の移ろいを感じる一時。
制服は半袖から長袖へと戻り、朝にはコートを着てくるようになった。
そして色々な事があった。
「ユウ」
「……え」
「戻るから」
「ああ、ごめん」
窓辺から下がり、降りられる場所を作る。
「よっ」
小さく声を上げ、私の隣に降り立つ。
同時に腰のワイヤーが外れ、不用意なフックが防がれる。
「あー、冷たい」
「はい」
「ありがとう」
サトミが放った、お湯で濡らしたタオルを受け取るショウ。
かじかんではいないようだけど、表情が和らいでいく。
「ユウ、暖めてあげれば」
「何を」
ショウを指さすヒカル。
「体を。こう、抱きしめて」
「馬鹿」
「その前に、手が回らないか」
彼が座っている椅子の足を蹴り、体を傾かせる。
でもって、こちらへ向いた鼻先に膝を突き付ける。
「危ないんですけど」
「いいのよ、痛くしても」
「僕、危ないの好きなんだ」
さっきの反動で、戻っていくヒカルの顔。
私も膝を引き、軽く息を整える。
もう、馬鹿なんだから。
「相変わらず、怒りっぽいね」
「自分で怒らせてるんだろ。ユウは、元々優しいぞ」
ちょっと恥ずかしい事を言ってくれるショウ。
私は照れくさくなって、サトミの後ろへ隠れた。
慌てると余計恥ずかしいので、あくまでも平静を装って。
「何、顔を赤くしてるの」
「そ、そうかな」
「あなたも、窓の外へ出た方がいいんじゃなくて」
くすっと笑い、立ち上がるサトミ。
その手には、ラベルの貼られたDDがある。
「報告書出してくるわ」
「私が行ってくる。サトミは、これお願い」
隠し持っていた書類を渡し、代わりにDDを受け取る。
「ちょと、これ何」
「いいから、それじゃ」
叫ぶサトミを無視して、一気にドアを飛び出る。
置いてけ堀だね、まるで。
廊下で一息付いていると、ショウとヒカルがやってきた。
「どうしたの」
「サトミが、付いていけって。さっきの書類で、怒ってたぞ」
「あれは、その。今日中に提出するはずだった、備品の使用状況書。先週貰ったのに、忘れてて」
ぽそぽそ白状して、すぐに後ろを振り返る。
私と眼があった茶髪の女の子が、びくっとした顔で動きを止めた。
「あ、なんでもないです」
「そ、そうですか」
ははと笑いながら、頭を下げ合う私達。
逃げるように去っていく女の子に何度も頭を下げ、安堵のため息を付く。
「ユウ、関係ない人を脅しちゃ駄目だよ」
「私は、サトミが追ってきたかと思ったの」
「怖いからね、あの子は」
切実な感慨を込めて洩らすヒカル。
彼氏が言うだけ合って、聞くべきだけの重みも持っている。
ショウとヒカルに前後を挟まれて、A-1ブロックの生徒会ガーディアンズオフィスへとやってきた私。
だって、怖いから。
「報告書持ってきました」
「あ、ご苦労様」
何となくぎこちない笑顔で出迎えてくれる受付の男の子。 未だに、警戒感を解かないな。
私はD-3ブロックなので、普通はDブロックを管轄する沙紀ちゃんの所へ持っていけばいい。
ただ物によってはI棟全体を管轄する、A-1の生徒会ガーディアンズへ提出しなければならない。
ネットワーク上で転送すればもっと楽なのに、 こんな形式にこだわってるんだから。
そのお陰で、今みたいにびくつかれるし。
「……あ、あの。備品の使用状況書がありませんが」
「済みません。後で届けます」
「そ、そうですか。わ、分かりました」
男の子は私以上に恐縮して、カウンターの上にあった書類やDDを散らかし始めた。
脅してるかと思われるから、止めてほしいんだけど。
「怖い人がいる」
「あ?」
牙を剥き、後ろを振り向く。
「だから、どうしてそういう顔をするの」
「生まれつきよ。モトちゃんみたいに、優しい顔にはならないの」
「はいはい」
穏やかに微笑み、やはりDDを提出するモトちゃん。
男の子も安堵の表情を浮かべ、それを受け取っている。
何よ、それ。
とはいえここで怒ってもなんなので、どうにか自制する。
「男の子を二人も侍らして。いいご身分ね」
「羨ましい?」
「そうでもない」
素っ気ない調子で返してくるモトちゃん。
彼女らしい答えではある。
「大体ヒカル君。あなた、大学院はいつ戻るの」
「みんな、そればかり言うね」
「勉強に専念するって、サトミと約束したんでしょ」
「あ、はい」
さっきの男の子みたいに恐縮するヒカル。
誰もがそうだけど、モトちゃんには弱い。
唯一ケイが、対抗出来るくらいかな。
あの子は、人の意見を聞かないから。
良い意味でも、悪い意味でも。
「息抜きも大事だけれど、本分を弁えないと」
「以後気を付けます」
「気を付けるのは以後じゃなくて、今でしょ」
「そうですね……」
小声でささやくヒカル。
モトちゃんも怒っている訳ではないので
「ええ?聞こえない」
という嫌みは言わない。
「説教は終わったか?」
「ショウ君、私はね」
「いいから、戻ろう。俺、喉乾いた」
そう言うや、受付の子に会釈してショウはドアを出ていった。
私達もする事は終えたので、当然後を追う。
「男の子同士の友情?」
「まさか」
モトちゃんに尋ねられたショウは、苦笑して紙コップを傾けた。
自販機で緑茶を買っているヒカルには、聞こえていないだろう。
「どうせ私は、いつでも悪者よ」
「ケイの代わりに、だろ」
「まあね」
今度はモトちゃんが苦笑して、レモンソーダのストローに口を付ける。
「あの子は、いつ退院するの?」
「まだ少し掛かるみたいだ。脇腹以外にも、あちこちやられたから」
「格好付けるからよ。ユウ達を守るだけじゃなくて、自分を狙ってた子まで守るためだなんて」
そうモトちゃんは言ったが、ケイはあくまでも否定している。
「ホモで、マゾ」なんだって。
だったら、今度ショウに殴ってもらおうかな。
「普段何もしないのに、変な時にああなんだから。ねえ、ユウ」
それがケイの、良い所なのよ。
と、心の中だけで褒める。
「優しいとも、言えるけれど」
「珍しく褒めたわね」
「たまには良いんじゃない」
顔を見合わせ笑う私達。
彼に聞かれないからこそ、こういう事が言える。
自分達の本心が。
「珪がどうかした」
「馬鹿な事したなって話。ケイ君が馬鹿じゃなくて、報われないという意味で」
「なるほど」
何度と無く頷き、彼女の前に座るヒカル。
「ただ珪は、そういう観点で動いてないから。あくまでも、自分の考えに基づいて行動しただけさ」
「聞いたの?」
「いや、兄としての推測」
「なるほどね」
今度はモトちゃんがそう言って、紙コップを傾ける。
「あら、どうしたの」
「ちょっと」
不意に席を立つヒカル。
今の話に問題があった訳ではなく、ラウンジの奥に集まっている人達が気になったようだ。
飄々と歩いていく彼の後に、私達も付いていく。
集まっている生徒は男女半々で、30名はいる。
声からして、誰かを責めているようだ。
いじめとは、また違うみたいだけど。
「こんな所で、何揉めてるんだか」
モトちゃんは飲み干したコップをゴミ箱へ投げ、ストローだけをくわえた。
ふざけているように見えるが、視線は油断無く周囲へと向けられている。
それは私が危険を警戒するのとはまた違う、鋭い観察の眼差し。
彼女にはすでに、今の状況が飲み込めているのだろう。
「ヒカル、どうした」
「……僕が止めるから、ショウは右。ユウは左に回って」
「ああ」
「分かった」
よく分からないけれど、群れている人達の左へと回る。
ショウはすでに、右手へと取り付いている。
冷静に後ろから見ていて、私にも状況が飲み込めてきた。
輪の中心にいるのは、一人の女の子。
放課後の時間を利用して、手作りのクッキーを販売しているようだ。
それ自体は許可を得れば問題なく、見慣れた光景でもある。
ただそんな彼女に、周りの人間が血相を変えて詰め寄っている。
なんでもクッキーの数に対し、それを買いたい人が多過ぎるのだ。
最初は生徒同士での言い争いだったのが、いつしか彼女へ矛先が向けられたらしい。
売れるのが分かっているのに、どうして量を用意しないのか。
予約券を配れ、売りに来る時間が遅い、受け渡しに手間が掛かりすぎる……。
聞いているだけで、頭に血が上りそうな事ばかりだ。
しかし女の子は泣きそうな顔で謝るだけで、言い返そうともしない。
気が弱いのか、それとも申し訳ないと思っているのか。
とにかく、このままでは……。
ガラスの割れる派手な音が響き渡り、悲鳴がそれに覆い被さる。
女の子を責めていた生徒達もそれを止め、一斉に音がした方を振り返った。
警棒を片手に、飛び散った窓ガラスを全身に浴びているヒカルを。
静かな、落ち着いた足取り。
逃げかける生徒達を、私とショウが左右から押しとどめる。
「どいて」
低い、小さな言葉。
人垣が瞬く間に割れ、壁際に追いつめられた女の子が姿を現す。
「怪我は無い?」
打って変わった、優しい口調。
女の子はぎこちなく頷き、恐る恐るヒカルへ会釈をした。
しかし周りの生徒が気になってか、足はなかなか前へと進まない。
「大丈夫よ」
そんな彼女へ、そっと寄り添うモトちゃん。
女の子もようやく安堵の表情を浮かべ、ゆっくりと歩き出す。
モトちゃんに付き添われ、生徒達から離れた所で休む女の子。
私とショウは、左右から彼等を挟んだままだ。
「全員、IDを提出。チェックじゃなくて、提出してもらう」
「そ、それは」
「もう一度言う。全員、IDを提出」
怒りも苛立ちもない表情。
体格も決して大きくなく、警棒を出している訳でもない。
だけど生徒達は、慌ててIDをヒカルに渡し始めた。
身を切るよう気迫を、肌で受けた者達が。
人数とIDの数を確認して、それを近くのテーブルに置くヒカル。
普段は穏やかさを湛えるその瞳が、一人ずつ生徒達を捉えていく。
「理由は聞かないし、聞く気もない」
醒めた、いつもの彼とは思えない程の口調。
「今回はIDの提出で済ませるけれど、今度同じ事をしたら。……許さない」
最後の言葉に込められる、強烈な意志。
数名の生徒が喉を鳴らし、女の子では泣きそうな顔をしている子もいる。
「IDは、生徒会へ提出後返却する。生徒会から連絡があるまで、各自生徒会規則に基づいた行動を取るように。それでは、解散」
一方的に説明を告げ、彼等に背を向けるヒカル。
私達も、すぐそれへと倣う。
勿論、振り返るなんて真似はしない。
する気もない。
落ち着きを取り戻した女の子が帰ったのを見届け、改めてヒカルを見つめる。
ジャケットやコットンパンツに付く、ガラスの破片。
尖った割れ方をしない構造にはなっているけれど、割る物でもない。
「掃除しないと」
「清掃サービスに連絡したわ。事情は、適当に告げてね」
事もなく言ってのけるモトちゃん。
ヒカルは彼女に会釈して、私達にも頭を下げた。
「謝るならやるな」
「そうだね……」
「もう。弟の事言えないんだから」
「済みません……」
小さくなるヒカルと、つい笑ってしまう私達。
彼の行動と、その結果に。
普段は本当に大人しいのに、いざ事が起きればあの通りだ。
結局この人が、一番無茶だと私は思っている。
そして、やっぱりケイに似てるなとも。
「今回のも、またフェイクだったら?」
「ケイが騙されたようにか。モトはどう思ってるんだ」
「大丈夫よ。あの子は、そういうタイプじゃないもの」
彼女の人を見る目は、何よりも確かな物だ。
その彼女が断言するのだから、心配はない。
「それよりも、大変なのはヒカル君よ」
「僕?」
「いきなりガラス割って、生徒を脅して。ID提出は、訓告に匹敵する処置よ。後で、狙われないようにするのね」
「それは、珪に押し付けると言う事で」
他人事のように笑うヒカル。
勿論私達も、一緒になって笑い出す。
何となく戻ってきた、あの感覚。
仲間を信頼して、笑って、自分のすべき事を果たして。
でもそれは、中等部の自分に戻っただけかも知れない。
高等部に入ってからの私とは違う、何も知らなかった頃の私に。
ただ笑っていればよかった、遠い過去。
楽しかった、だけど物事を深く考えていなかった時に。
それでいいのか。
今の私には、分からない。
だから、笑っていよう。
深刻ぶるのはいつでも出来る。
だけど笑う事は、いつだって出来る訳じゃないから……。
という訳で、その翌日にヒカルは大学院へと戻っていった。
逃げた、とも言える。
矢田局長の秘書であり事情通の新井さんに聞くと、ラウンジでの出来事はケイがやった事になっていた。
彼の入院を知っている人は殆どいないし、顔は同じなので間違えやすい。
また、あの子ならやりかねないという雰囲気がある。
普段目立たないのに、評判は悪いな。
「昔に戻ったと思ったら、また減っちゃったね」
「仕方ないわよ。光には、やる事がたくさんあるんだから」
切なげな、朴杖を付くサトミの横顔。
ショウに掃除する場所を指示する口調も、どこか頼りない。
机の上には、臨時に交付されたガーディアンのIDがある。
GUのロゴが入った、ワッペン状のID。
持ち主はもういなくて、それに寂しげな視線を落とす女の子がいるだけだ。
「追いかけたら」
「そうやって、ショウと二人っきりになるつもり?」
「なっ」
耳元でささやかれ、即座に口が抑えらえた。
「変に色気付いちゃって。駄目よ、子供がそんな事を考えてたら」
言いたい放題かつ、からかうような視線。
口が塞がれているので、私は何も反論出来ない。
訳でもない。
「ひゃっ」
変な声を上げ、私から飛び退くサトミ。
舌を出して、彼女の手の平を舐めたのだ。
「美味しいわね。乙女の柔肌は」
下らない事を言って、舌なめずりする。
そうしたらサトミは私に背を向けて、キッチンへと向かった。
後を追って見ていると、手を洗い出した。
入念に。何度も、何度も。
石けんまで付けて。
「失礼な子ね」
「じゃあ、舐めないで」
「噛めばよかった」
舌打ちして、自分の指を軽く噛んでみる。
……なんか、甘い。
食べられそうな気もする。
「ユウ。タコじゃないんだから、自分の手を食べないで」
「だって、甘いもん」
「ドーナツ食べて、そのまま手を洗ってないでしょ」
「ああ」
なんだ。
いや、食べる気は元々無いんだけど。
道理で、生クリームっぽい味だと思った。
「雪野優、生クリーム仕立て・生かじり」
あまり美味しそうじゃないな。
「……何よ」
「い、いや。別に」
醤油の小瓶を置き、首を振る。
「遠野聡美、醤油焼き・レア」
だったら、食べられそうなのに。
「食べるなら、ショウにしなさい。あの子は、肉が締まってそうだから」
「霜降りの方が、好きなんだけど」
「煮込めばいいのよ、柔らかくなるまで。グツグツとね」
ククッと笑い、水の入った鍋を火に掛けるサトミ。
コンロの火を受けたサトミの端正な顔に陰影が浮かび、怖いまでの美しさを作り出す。
前髪が微かに目元を覆い、緩んだ口元が横へ大きく裂ける。
魔女、なんて存在は信じない。
けれどもしいるとしたら、それは私の目の前に……。
「ちょ、ちょっと。煮ないわよ」
「当たり前じゃない。私は、これを剥がすの」
呆れた顔で、警棒を鍋の上へかざすサトミ。
すると警棒が湯気を受け、そこに張られてあったシール状の物がふやけてきた。
「何、それ」
「間違えて、リップの値札シール張っちゃって。放っていたら、取れなくなったの」
「あ、そう。さっきの話だけど、サトミならグラム1万円かな」
「ありがとう。ユウは、一山300円ね」
人が褒めてるのに、失礼な事を言ってきた。
大体一山って、他に私がいるっていうの。
嫌だな、群れてる私達っていうのも。
せめて背の高い私とか、プロポーションのいい私とか。
……やめよう、下らない妄想は。
「取れた」
「リップなんてするから」
「ユウだってしてるじゃない」
「乾燥してる時はね。高校生が色気付いても、仕方ないの」
似合わないの、という自分内の突っ込みは気にしない。
子供が化粧してもね……。
誰かが側にいると、気持が落ち着く。
でも一人だと、何となく考え込んでしまう。
ケイは気にするなと言ってくれる。
彼自身が斬られた事だけでなく、それまでの経緯を含めて。
理性で考えればそうなのだろう。
ただ私は感情が先走る方なので、どうしても気にしてしまう。
あの時受けた衝撃、その後で感じた怒りや悲しみ。
自分のしてきた事の無意味さと、思い上がり。
それでも少しは、冷静に振り返られるようになった。
頭の中が真っ白になり、考えが止まってしまう事はもうない。
全てを捨てて、逃げ出したくなるような気持も。
結局、それだけの度胸がないのかも知れないけれど。
ぼんやりと授業を聞きながら、そんな事を考えていた。
メモを取る気が起きないので、自動記録のモードに端末をセットする。
教師によっては禁止する人もいるけれど、止めようがないので実際は生徒の自主性に任されている。
ボードに書かれていく文字が、補正されて画面に映し出される。
教師の説明に続いて、それに対応した参考書やデータベースも次々と注意書きされていく。
高校生なのに、勉強もしないでよそ事を考えてるなんて。
しかももう一つのやるべき事、ガーディアンの仕事にもいまいち身が入らない。
駄目だなと思いつつ、机にうつ伏せとなる。
前ほどの無気力感ではないにしろ、気が乗らない。
ヒカルは大学院へ戻ってしまったし、ケイはまだ帰ってこない。
サトミとショウは自警局の仕事があるらしく、授業に出ていない。
一人でぽつんと佇んでいると、子供っぽいかも知れないけれど寂しくなってくる。
慣れない、と言ってもいい。
考えてみれば、いつも周りに誰かがいる。
その人達に、助けてもらっている。
だけど私は、彼等に何をしてきたのか。
一方的に助けられるだけで、その期待に応えて来たのだろうか。
もし聞けば、「そんな事は望んでいない」と答えるだろう。
だったらみんなは、私に何を望んでいるんだろうか。
たわいもない明るさ、子供っぽいマスコットみたいな外見。
自分の存在意義、なんて言うつもりはない。
私はそんな、特別な存在ではないから。
私にしか出来ない事がある、とも思わない。
だけど、私にだって出来る事があるはずだ。
そしてみんなが、私に求めている事があるはずだ。
それが何なのか。
何をすればいいのか。
今まで、深く考えもしなかった事。
そうして流されていた自分に、改めて気付く。
私がここにいる理由。
みんなと一緒にいる理由。
チャイムが鳴ったのにも気付かず、私はその答えを探し続けていた……。
「もう寝る?」
「うん」
端末を操作して、照明を落とすサトミ。
私は布団を胸まで掛け、うつ伏せになって枕に抱き付いた。
隣のサトミは髪を束ねていたリボンを外し、広がった髪を前でもう一度束ねている。
別に理由はないけれど、彼女の部屋に泊まりに来た。
昨日は私の部屋にサトミが泊まったので、強いて理由を挙げるならそれだ。
「……前よりは、元気になったわよね」
「え、私が?」
「そう。ケイが入院した頃は、この世の終わりみたいな雰囲気だったもの」
髪を抑えながら、サトミもその身を横たえる。
私は枕を抱えたまま、彼女の方へ顔を向けた。
「色々あったから、仕方ないわよね」
「うん……。悩みというか、自分が今まで何してきたのかなと思って」
「思春期っぽい事言うのね」
暗がりの中、おかしそうに笑うサトミ。
鈴の音のような笑い声が、真っ暗な天井へと吸い込まれていく。
「ユウだけじゃなくて、誰だってそう思うわ。私だって、あの光だって」
「だけど、私は結論が出ないのよ。これからどうしていいのか、何をしたらいいのか」
「結論が出るような悩みなら、誰も苦労しないわ。なんて言ったらいいのかしら。そうやって思い悩んで、苦しむものじゃないの」
訥々と語るサトミ。
暗闇の中、楚々とした彼女の口元が小さく動く。
「え?」
「な、何でもない」
慌てた素振りを見せ、サトミは枕へ顔を埋めた。
「ねえ、なんて」
「もう、寝る。ほら、ユウも寝なさい」
「サトミー」
彼女の背中に手を当てて、何度となく押してみる。
気持いいのか、抵抗しないサトミ。
それに手応えが、段々と柔らかくなってきた。
「眠ったの?」
「ええ、寝たわ」
「だったら、答えないでよ」
うつ伏せた枕から洩れる、サトミの笑い声。
少ししてその顔が上がり、仰向けになって天井を見上げる。
薄闇に浮かぶ清楚な、そして見飽きない端正な横顔。
こうしているだけで、私は満ち足りた気持になれる。
何もなくていい、何もしなくていい。
ただサトミが、側にいるだけで。
「……そういう事なのかな」
「え?」
何気なく聞き返してくるサトミ。
私は首を振って、布団の中で両手足を思いっきり広げた。
当然隣に寝ている彼女にも、片手と片足が乗っかる。
「ちょっと、邪魔。それと、どういう意味」
「教えない」
「ユウ」
足をくすぐってきたけど、でも答えない。
「せ、青春なんていう台詞を口にする人には、何も言わないのっ」
「き、聞こえてたんじゃない」
ますます足をくすぐられ、さすがに耐えきれなくなった。
すぐに横へ転がり、サトミとの距離を保つ。
と同時に、奇妙な浮遊感が感じられる。
どうしてか。
ベッドから、落ちたから……。
「いい加減にしなさいよ」
「だ、だって。くすぐるんだもん」
「足を乗せてくるからでしょ」
サトミの手を借りて、ベッドへと這い上がる。
怪我はないけど、ちょっと怖かった。
1mもないのに、不意を付かれたのが利いたね。
「人の顔を見て、幸せを感じてるからよ」
「し、知ってたの」
「ユウのする事くらい、全部お見通しなの」
からかいと、限りない愛情のこもった言葉。
綺麗な顔が月明かりに照らされ、あどけない笑みを宿す。
そして私も。
「まだ、高校生だもの。何でも完璧には出来ないわ」
「……ずっと前、ケイにそんな事言った気がする」
「それなら。自分から自分への言葉として、覚えておいたら」
優しく髪を撫で、私の頬へ頬を寄せるサトミ。
いい香りと、柔らかな感触。
私もそれと同じ事を、反対側の頬へと交わした。
少し恥ずかしい、だけどサトミになら出来る事。
私の気持ちを、誰よりも分かってくれる彼女になら。
「女の子同士っていうのが、少し切ないけど」
「なんなら、付き合う?」
「それ、悪くない」
楽しげな笑い声が、蒼い光と重なっていく。
何かを溶かしていく。
だけど、全ては消え去らない。
それはもう、私として存在しているのだから。
辛い過去も、苦しかった事も、悲しかった思い出も。
いつかそれを、笑って話せる日がくればいい。
そしてその日は、決して遠くはない。
暗がりの中、おぼろげに見えるカレンダー。
赤く印が打たれた日付が、そこにはあるだろう。
その下には、綺麗な字でこう書いてある。
「浦田珪 退院予定日」と……。
楽しい一時。
それは色々あるけれど、お菓子を選んでる時がその一つ。
私はエビせんべいの前で、しばし立ち尽くしていた。
隣にはげんこつあられがあり、しょう油のいい照りを見せている。
「んー、悩む」
「両方買えよ」
「お菓子は、300円まででしょ」
何言ってるんだという顔で見つめてくるショウ。
お父さんから聞いた冗談だけど、彼には通じなかったようだ。
戦前の、遠足の話だからね。
いいや、買っちゃえ。
「しかし、どれだけ食べるんだ」
「いいの。お菓子が入る所は別だから」
適当な事を言って、カートにえびせんとあられを乗せる。
今いるのは、学校近くのスーパー。
前期にショウのトレーニングをした時、彼のために作った食事の食材を買いに来たお店。
食べ物関係の品揃えがいいので、私は今でもよく利用している。
「旅行といっても、向こうに店くらいあるだろ」
「あってもいいの。こうして、お菓子を選ぶのがまた楽しいんじゃない」
「よく分からん」
と言いつつ、ショウはおまけ付きのキャラメルをカートに入れた。
私はそれの、女の子版を。
「それに旅行へ行くのって、来週だぞ」
「うだうだうるさいわね。ほら、そこのガムも入れて」
ぐいぐい彼を押し、高い所にあるレモンガムを取らせる。
ため息を付き、軽々と取るショウ。
私だって、背伸びすれば取れない事はない。
「これって、ケイが好きなガムじゃないの」
「そうよ。病み上がりだし、少しくらいはね」
「退院祝いが、ガムか。なるほど」
妙に納得されてしまった。
いや、そうじゃないんだけど。
「それより、車どうする?」
「風成のランクルを借りる。山はもう雪が降ってるから、4駆の方がいいだろ」
「電車も楽しそうだけどね」
「おじいさんがいるから、今回は車だな。何かと都合がいいし」
確かにケイの事を考えると、自由の利く車の方がいいだろう。
ゴトゴト揺られながら駅弁を食べるというのも、ちょと憧れたりはするが。
冷凍ミカンとか、釜飯とか。
……食べ物ばかりだな。
「予約は取ってあるし、学校にも申請してあるし。後はケイの退院だけ」
「まだ入院してた方が、いいらしいって聞いたけど」
「旅行の事を話したら、分かってくれたみたいよ。薬を飲んで、健康管理をするという約束でね」
結局一ヶ月近く、彼は入院していた事になる。
その間は何もなく、嫌な思いや危ない目には私達も合わなかった。
ある意味久し振りの、穏やかな時。
勿論これからも、それに変わりはないと思う。
私はもう、余計な事に関わるのを止めたから。
後は自分達の仲間だけを気にして、過ごしていくつもりだ。
それが間違った考えで、どう非難されようとかまわない。
私が出した結論は、そうなのだから。
一通り買い物を終えた私達は、可愛らしい喫茶店で一休みをしていた。
手作りケーキと紅茶の種類が豊富な、味も確かなお店である。
とはいえ今は夕食前なので、レモンティだけで我慢。
ご飯前には、余計な物を口にしない主義なので。
少なくとも、その気持だけは持っている……。
「温泉、か」
「楽しみだね。山菜とか、猪とか」
へへと笑い、泊まる予定になっている民宿のパンフレットに目を通す。
大きなテーブルに、所狭しと並べられた山の幸。
普通の一人前でも残すくらいの私だけど、これを見たら心が騒ぐ。
民宿の人に頼んで、冷凍パックで持って帰らせてもらおう。
「そんなに楽しい?」
「うん。もしかして、食べてる時よりも幸せかも知れない」
「いい性格してるよ」
ショウは苦笑して、窓の外を眺めた。
日暮れの時間は早く、街並みはすでにネオンと街灯に照らされている。
「俺、平湯は行った事がないんだ」
「私も。でもナビの言う通り行けば、その内着くでしょ」
「ああ。冬に山籠もりするのは九頭竜の方だから、ちょっと反対だな」
彼はお父さん達と一緒に、鍛錬のためその山籠もりを毎年やっている。
限界という言葉を知らないのではと、時々思ったりもする。
彼の強さだけでなく、その向上心や頑張りに。
「雪、どのくらい降ってるかな」
「少しは積もってるかも知れない。何と言っても、山奥の山奥だから」
「雪を見ながらの温泉、か」
お盆を浮かせての雪見酒。
のぼせそうな気がしないでもないけど、やってみたい。
こ、混浴だったらどうしよう。
「顔、赤いけど」
「そ、そう?暖房が効いてるから。あー、暑い」
ははと笑い、シャツの袖をまくる。
まだ暑いよ。
大体今から脱いでも、ねえ……。
カーコンポが、軽めのクラッシックを奏でている。
全方位スピーカーとリモートアンプのお陰で、その音響は生演奏とも遜色が無いくらい。
私達はすぐ寮へは帰らず、車を名古屋港の方へ走らせていた。
特に理由はないけれど、そんな気分だったので。
対向車のライトはフロントガラスが遮り、光の珠が走り抜けていくように見える。
「悪い連中でも、出そうだな」
港の倉庫街を眺めながら、ぽつりと洩らすショウ。
昼はともかく、彼の言う通り夜更けの治安はあまり良くないらしい。
警察がこまめにパトロールをする物の、その網をかいくぐり暴走行為を繰り返すんだとか。
道は広いし車も少ないので、そういう事はしやすいのだろう。
またドラッグの取引や武器の密売なども、密かに行われているという。
勿論それは港でも別な場所での話で、私達が走っている所は一種のデートスポットになっている。
パトカーがあちこちに配置されているし、例のディフェンスラインも常駐しているとか。
それはそれで、楽しくないが。
車を倉庫の駐車場に止め、岸壁を歩く私達。
周りにはカップルが数組いて、沖合に見える海上高速の名港トリトンを仲むつまじげに眺めている。
またライトアップされ闇に浮かび上がるそれは、人の心を幻想的な気分にさせてくれる。
今の私には、正直そこまでの気持にはなれなかったが。
「ちょっと、場違いかな」
苦笑気味に、カップルから目を逸らすショウ。
他人から見れば私達もそう見えているのだろうけど、お互いそれを口にはしない。
少なくとも私は、そういう心境ではない。
「冷たそうな水だね」
「ん、ああ」
私の意図が分からないのだろう、気のない相づちが打たれる。
「落ちたら、冷たいよね」
「まあな」
「自分でここに落ちるのって、どんな気持だろう」
足元にあった石を拾い上げ、ライトアップの光に輝く水面へと投げ込む。
小さな音と共に波紋が起き、それは波に掻き消されていく。
「……ケイは、危ないと分かってて大内さんを助けた」
「冷たいと分かっていて、ここに飛び込むのが同じ気分かって言いたいのか」
「違う?」
「飛び込むだけの理由があれば、もしかすると同じかも知れない。ただあいつの気持は、結局分からない。聞いても言わないし、話す気も無さそうだ……」
静かな、夜風に掻き消されそうな声。
私は彼を振り返らず、もう一度石を投げ込んだ。
波紋はやはり、波に消えていく。
今まで私がしてきた事のように。
たやすく、大きな物へ流されていく。
当たり前で、仕方ないのかもしれない。
無力感とも違う、やるせなさ。
「理屈は後から考えればいいと、俺は思うけどね」
「私も、そう思ってきた。だけど、その結果がこれだもん。みんなが大変な目にあっただけで、ただそれだけ」
「ああ」
短い応え。
彼自身の苦悩を込めたような、低い声。
「ごめん、変な話して。風邪引くといけないし、もう帰ろう」
「そうだな」
強い風が吹き、コートの襟元をはためかせる。
でもそれは、すぐに止んだ。
風が止まったのではない。
私の前に、ショウが立ったから。
冷たさに晒されずに済んだ。
私はそっと手を伸ばし、彼に悟られないようジャケットの裾を掴んだ。
いい知れない自分の思いに突き動かされて。
今の私には、この程度の勇気しかない。
でも、それで十分だと思いながら。




