8-2
8-2
「またコーヒー?」
ショウが差し出したマグカップを受け取り、一口含む。
前よりはましになってる。
でも、なんか風味が足りないような気がする。
「美味しく入れるまでは、修行させるのよ」
と、のたまうサトミ。
結局は、この子がむきになってるだけか。
「お茶請けは」
「面白いな、お前」
ショウが机の上にあった果物ナイフを握りしめたのを見ても、ヒカルは笑っている。
「刺さないと思ってるのか」
「うん」
「なるほどね」
にやりと笑った男の子は、身を乗り出してヒカルの手を取った。
「動かすなよ」
「え?」
「いいから」
その手を机に押し付け、ナイフを構えるショウ。
「あ、あの」
「気が散る。黙ってろ」
低い声でそういうや、光の筋が突き刺さる。
ヒカルの指の間をすり抜けていく、神速のナイフ。
机を打つ軽快な音と、光の乱舞。
その技の冴えとためらいの無さに、思わず見入ってしまった私だったが。
「止めなさいっ」
机を叩いて一喝するサトミ。
それにはショウも、慌ててナイフを引く。
そして、机に体を横たえるヒカル。
脳天気な彼も、さすがに参ったらしい。
「傷が付くでしょ、机に」
「あ、あの。僕を気遣ってくれたんじゃ……」
「ショウが失敗するなんて、私は思ってもないの」
良く言えば、「だからあなたは、心配ない」
悪く言えば、「あなたはともかく、机に代わりはないのよ」
後者なら面白い。
「この机は備品なんだから、大切に扱ってちょうだい」
「あの、僕と机。どっちが大事なんでしょうか」
寂しく尋ねるヒカル。
「そんなの、比べられる訳無いでしょ」
微笑みはしたが、答えはしないサトミ。
二つの乾いた笑い声が、オフィス内に広がっていく。
本当に、見ていて飽きない二人だ。
お互いの信頼があるからこそ、こういう会話も成り立つ訳で。
結構憧れたりもする。
そんな事をやっていると、ドアがノックされた。
何でみんな、インターフォンを使わないの。
というか、何で勝手に入ってくるの。
「ははっ。まだいるわね」
入って来るや大笑いする池上さん。
黒のタートルネックセーターに、ウールっぽいミニスカート。
すらりと伸びた足には濃茶のブーツで、髪はダブルポニー。
可愛いというか、悩ましげというか。
「映未、失礼だ」
笑いを堪えている舞地さんは、いつも通りジーンズにジージャン。
また、黒のキャップと後ろで結ばれた髪も。
「こんにちは」
律儀に頭を下げる柳君。
彼は寒がりなのか、厚手のジャケットに何故か手袋まで持っている。
着ていると言うより、着られているといった感じ。
それがまた、可愛いとも言えるけど。
「本当、似てるな」
ワイルドに笑った名雲さんが、風の吹き込んでくるドアを閉めてくれた。
彼はシャツとスラックスだけで、上着のブルゾンは腕に掛かっている。
池上さんが言うには「馬鹿は風邪を引かない」らしい。
「ああ、こんにちは。また珪の見舞いに行って下さったそうで。どうもありがとうございます」
丁寧に頭を下げるヒカルを、舞地さんが手で制した。
特に語らないけど、気にするなという意味だろう。
「しかしかたや院生、かたやしがない高校生。本当に、双子か?」
「あなた達顔は似てるけど、性格は全然違うものね」
名雲さんと池上さんの突っ込みに、「よく言われます」と答えるヒカル。
それこそ数え切れない程聞かれているのだろうけど、嫌な顔一つしない。
本当に、弟とは大違いだ。
「でも珪は、僕には無い物を幾つも持ってますから。僕はただ、学歴が先に行っているだけです」
「いい事言うよね、お兄さんは」
ヒカルを、「お兄さん」と呼ぶ柳君。
合ってるけど、変な感じもする。
まあいいか、可愛いから。
「それで、退院はいつに」
「来週か、遅くても再来週には。その時は、改めてお礼をさせていただきます」
「気にするな。私達が、勝手にやった事だ」
素っ気ない舞地さんに、明るく笑いかけるヒカル。
あくまでも対照的な二人である。
「あいつがいないと、お前達苦労するだろ」
「まさか。ヒカルがいるだけで十分さ」
「そういう事に、しておいてやるよ」
「よく言う」
楽しげに笑い合う男の子二人。
確かに、ケイがいないと大変な面はある。
ヒカルはいい人だけど、お世辞にも気が利くタイプじゃない。
まとめ役としては優れた能力を持っていても、それはケイが担っていた役割とは重ならない部分である。
事務手続き、スケジュール管理、他ガーディアンとの交渉など。
勿論こなせない訳ではないが、若干の無理があるのは否めない。
本当にいればいるで、いなければいないで困る子だ。
ショウと柳君は例により、格闘系のクラブへ出稽古に行った。
今回は、名雲さんも一緒に。
あの3人も、仲が良いよね。
池上さんが言うには、「格闘馬鹿トリオ」らしいけど。
馬鹿は言い過ぎ……、でもないかな。
「今度の旅行、どこへ行くか決めた?」
「ええ、温泉にしようと思ってます。ケイの退院が間に合えばですけど」
「おじいさんの療養も兼ねてるのよ」
ははっと笑ったら、池上さんも笑い返してきた。
彼女にしては、やや固い表情で。
「……良かったら、柳君も連れて行ってくれない?」
「それは構いませんけど。彼なら女の子から、引く手あまたでしょう」
旅行というのは学校が補助金を出してくれて、好きな場所へ行ける学外活動の一つ。
海外へ行く人も珍しくなく、ニャン達や木之本君もその例に当てはまる。
ただ私達の場合はケイの怪我があるので、近場の温泉に行く事に決めている。
それはそれで、また楽しそうだから。
「確かにあの子はもてるから、女の子達も誘ってくる。でも私達としては、あなた達と一緒に行って欲しいの」
「明るいように見えて、あれでも落ち込む時がある。悪いけれど、お願い」
キャップを取り、頭を下げようとする舞地さん。
私とサトミは、慌てて彼女の肩を押しとどめた。
「そんな事しなくても。ねえ、サトミ」
「ええ。私達でよろしければ、柳君と一緒に行かせて頂きます」
優しげに微笑むサトミに、二人の表情も和らいでいく。
「ありがとう。ただ司が暴れると行けないから、一応気を付けておいて」
「ああ見えても、カッときたら手が付けられないわよ」
私はケイの一件でその一面を見ているため、身に染みる言葉だ。
あの時はそれでも自制が効いていたようだけど、さて。
「力尽くでなら、玲阿と雪野がいれば何とかなる。それに、滅多に暴れる子じゃない」
「まあね。とにかく、気を付けておいて」
「あ、はい」
私とサトミは曖昧に頷いて、お互いに顔を見合わせた。
大丈夫だろうけど、気に止めておいた方が良さそうだ。
暴れるのは、他人事じゃないし。
とにかく、大人しくしていよう。
そんな会話で、ふとモトちゃんの話を思い出した。
舞地さん達が、何かを隠しているという事を。
私自身そう感じてはいたけど、深くは考えてはいなかった。
避けていたとも言える。
「どうした」
私の視線を受けて、素っ気なく尋ねてくる舞地さん。
まさか「疑ってます」とは言えないので、適当に首を振る。
「……惚れたんじゃない」
ぽそりと呟くヒカル。
「面白いな」
言葉とは裏腹に、鼻でくくったような口調。
おかしいというより、呆れているのだろう。
「ば、馬鹿っ」
顔を赤らめ、サトミはヒカルの頭を軽くはたいた。
「ごめんなさい、舞地さん。この人、本当に馬鹿で」
「いや」
「ほら、あなたも謝って」
「あ、済みません。ユウの視線が、あまりにも熱かったので」
今度は私が、ヒカルの頭をはたく。
もう、勘弁してよ。
「二人とも、もういいから。さすがに、浦田の兄だけはある」
「兄弟揃って馬鹿なんです」
「自分で言わないで……」
頭を抱え、机に伏せるサトミ。
全く、駄目兄弟は。
頭は良いけど、やる事は結局こうなんだから。
まともなのは、妹のエリちゃんだけだな。
「聡美ちゃんも大変ね。変わった彼氏を持って。……なんなら、始末しましょうか」
きらりと瞳を輝かせる池上さん。
意外と本気そうで怖い。
「それは、また今度にしておきます。取りあえず、ケイの代わりがいないと困るので」
「執行猶予、か。君、覚えておきなさい」
「は、はあ」
綺麗な指先を突き付けられ、ヒカルは気圧されたようにこくこくと頷いた。
脳天気な人には、このくらい脅した方がいいのかも知れない。
「僕は、そんなに駄目ですか?」
「良い悪いじゃないの。聡美ちゃんを悲しませるような人は、許さないって事」
「そういうつもりはですけど」
「あなたと付き合ってる事自体、悲しいのかも知れないけどね」
「ええ?」
「冗談よ」
ふっと微笑んだ池上さんは、机に伏せているサトミに何やらささやいて部屋を出ていった。
「あ、あの」
「気にするな。駄目な男と付き合うのが好きな子もいる。それを幸せと勘違いする子も」
「ええ?」
「冗談だ」
鼻で笑い、やはりサトミに何かささやいて出ていく舞地さん。
でもって残されたヒカルは、呆然とした顔で彼女達が出ていったドアを見つめている。
たまには良い薬だ。
この子は何も悪くないけど、たしなめる箇所はたくさんあるから。
「怒られてしまいました」
「反省してれば」
「そうします」
部屋の隅へ椅子を持っていき、窓辺に腰掛けるヒカル。
腕を組み、窓の外をじっと見つめている。
穏やかなその顔に、静けさを湛えて。
「何考えてるんだろう」
机に伏せていたサトミが、ゆっくりと顔を上げる。
「今日の晩ご飯だったら、ちょっと困るわね」
「まさか」
二人して笑うが、ヒカルは窓の外を見つめたまま。
こちらに来る事も、笑う事もない。
怒っている訳ではなく、本当に考え込んでいる様子だ。
付き合いが長いので、そのくらいは分かる。
「……サトミ?」
「え?」
今目が覚めたとでもいう顔をして、切れ長の瞳を大きく見開くサトミ。
彼女こそ、深い思考に耽っていたようだ。
「あ、ごめん」
「まだ眠いの」
「そんなところ」
髪を大きくかき上げ、視線が流れていく。
私から。
ヒカルへと。
おそらくは、彼女を物思いに耽らせた原因へと。
その訳は分からないけれど、私の胸には一抹の不安が募る。
どこか悲しげなサトミの横顔を見ていると、余計に……。
ワインに氷は入れない。
風味や味が変化するから。
ウイスキーには、氷を入れる。
何故か。
分からないけど、私はグラスに氷を入れた。
澄んだ音がして、琥珀色が透き通っていく。
私はグラスをテーブルに戻し、指で弾いた。
薄まっていく琥珀色。
溶けていく氷が、形を変え小さくなっていく。
みんなで騒ぎながら飲むのも好きだけど、こうして一人も悪くない。
一人の時は飲むと言うより、たしなむ程度。
気分が少し良くなったくらいで、もう満足してしまう。
ただし今は、一口も飲んでいない。
溶けていく氷を、眺めているだけだ。
TVでは、今日一日のニュースが流れている。
世界、また国内でも色々な事がある。
私には直接関係ない、事件や事故。
でも当事者にとっては、言葉に表せないくらいの出来事。
ケイの一件は完全なオフレコになっていて、学内で知っているのは本当にごく一部の人間だけ。
以前サトミやショウが仕掛けられた事も、それと同じ。
結果はともかく、周りに騒がれないだけましとも言える。
被害者意識ではないけれど、そっとしておいて欲しい気分だから。
訳知り顔で何か言われたり、上辺だけで慰められたらたまらない。
自分達を分かってくれる人だけ知ってくれればいい。
気を休めるためにも。
余計なトラブルや、混乱を招かないためにも。
自分勝手と言われようと、放っておいて欲しい。
もう騒ぎには、巻き込まれたくない。
氷が全て溶け、琥珀色も消えかかっている。
まるで、今の私だ。
それまでの自信が無くなり、自分が自分で無くなったかのよう。
むしろ、元々こうだったのかも知れない。
今までが、思い上がり過ぎていただけだ。
その結果がショウやサトミ、そしてケイの一件へとつながった。
全て自分に責任があると考える事こそ思い上がりだと指摘されたけど、そう思わずにはいられない。
彼等が味わった苦しみや辛さを考えたら。
自分を責める事くらいしか、私には出来ない。
「駄目だよね」
グラスを傾け、一口含む。
薄さの中に感じる、わずかな苦みを味わいながら……。
ベンチウォーマーを羽織り、外に出た。
空に浮かぶ半月と、冷たい夜風。
寮の前に並ぶ街路樹は半数程が葉を落とし、枯れ葉が物悲しげな音を立てて滑っている。
物悲しいと感じるのは、私の心境からだろうけど。
小さく響く足音。
時折人とすれ違うが、向こうもこちらもお互いを気にする事はない。
コンビニに買い出しへ行くとでも思っているのだろう。
外に出た理由を語る必要も、聞くはずもない。
……どうも、意味のない事まで考えてしまっている。
やはり自分らしくないなと思いつつ、足を進める。
特に当てはなく、ただ夜風に吹かれているだけだ。
考えどころか、行動すら意味がない。
誰かを必要としているのに、会う気が起こらない。
サトミやモトちゃん達ですら。
こうして夜道をさまよう事で、自分をごまかしている。
私は、本当に何をしてるんだろうか……。
気付けば私は、壁にもたれていた。
可愛らしいアンティークと、パステル調の色合いで統一された内装。
本棚には、スポーツ生理学の理論書や解説書が並べられている。
「元気、ないね」
「ん、そうかな」
笑顔を作ろうとして、私は止めた。
そんな事をしても、無意味だから。
誰よりも、私を知っている彼女には。
「いきなり来て、ずっと壁際にもたれて黙ってたら。誰だって、そう思うって」
「ごめん、ニャン」
「私には謝らないでよ、ユウユウ」
普段通りの爽やかな笑み。
今日もトレーニングで疲れているはずなのに、そんな事は一言も言わずに。
日焼けした彼女のあどけない顔が、今の私には正直眩しかった。
「陸上部は、どう?」
「地区予選は突破したって、この前話したでしょ。だから今は、中部ブロック決勝に向けて調整中」
「そう……」
自分で聞いておきながら、気のない返事を返す。
ニャンもそれを怒る事はなく、私のマグカップにチャイを注いだ。
「飲みたくないなら、香りだけでもね」
「うん」
私はカップを両手で持ち、漂う湯気を眺めていた。
ゆらゆらと、舞い上がっていく。
芳しい香りと共に。
「……ニャンは辛くない?練習や、試合の緊張が」
「勿論、辛いわよ。でも、好きでやってる事だから。私は走るしか能がないし」
テーブルに身を乗り出すニャン。
私はカップに視線を落とし、消えていく泡を眺めていた。
「ユウユウの気持は分かるよ。ガーディアンでない私が、口を挟めないのもね」
「そんな事……」
「私がガーディアンと関係ないから、ここへ逃げ込んできたんでしょ」
チャイの表面が揺れる。
そこに落ちるのは、ニャンを正面から見つめ返せない私の視線。
「そうやって頼ってくれるのは私も嬉しいし、慰めて上げたい。誰もユウユウを責める事なんて、出来ないんだから」
「でも」
「嫌な思いを我慢して、駄目になる人だっているのよ。だから逃げるのも、正しい行動だと私は思う。少なくとも私は、ユウユウが逃げても賛成する。言葉だけじゃなくて、心からね」
その言葉に嘘はない。
本心から言ってくれている。
逃げている私を受け入れてくれる。
「ガーディアンが辛いなら、辞めて私と一緒に陸上部へ入る?それかしばらくは何もしないで、のんびりしてもいいのかな」
「そうね……」
「耐えたり我慢するのが、必ずしも偉いとは限らないんだよ。変に意地を張って辛そうにするユウユウを、私は見たくない」
はっきりと言い切るニャン。
顔を伏せている私にも、感じられる。
私を守ろうとしてくれる、優しくも強い彼女の存在を。
「すぐに結論を出せとは言わない。ゆっくりと、ユウユウが自分で良いと思った事をやればいいんだから。私に気を遣って、ガーディアンを辞めるとか言わなくてもね」
「うん……」
生返事を返し、チャイに口を付ける。
冷えて、甘ったるさだけが残る味。
香しさも、温もりもない。
「甘過ぎた?」
「え。そ、そんな事無い」
ニャンの言った意味がすぐには分からず、慌てて否定する。
チャイの甘さ、彼女の申し出。
それとも、私自身。
「……これはまずいんだけど、やっぱり言うわ」
「何を」
快活さが消え、それとなく視線を逸らすニャン。
それでも彼女は、小さくため息を付いて私に向き直った。
「夕食頃にサトミちゃんが来て、あなたが来るかもしれないからよろしくって」
「サトミが」
「気を悪くしないでよ。彼女は説得とかじゃなくて、ユウユウのしたいようにさせてあげてって言ってただけ」
なおも曇るニャンの顔。
私の視線を感じてか、言いにくそうに話し始めた。
「あの子も、あまり元気とは言えなかった。ユウユウ程じゃないけど、悩んでる感じで」
「そう……」
「口止めされてたんだけど、どうも気になって」
気まずそうに頬を撫でるニャン。
私はカップをテーブルに置き、ドアへと歩いていた。
「帰るの?」
「うん。今日はありがとう。その内、お礼するから」
「期待しないで待ってる。今度、試合見に来てよ」
「分かった」
ニャンの見送りを待たず、私はドアを飛び出した。
「こんな時間に、どうかした」
「ちょっと、顔が見たくて」
「そう。よく分からないけど、上がって」
キーが解除されたのを確認して、私はドアをくぐった。
部屋の中には、床に置いた雑誌を読んでいるサトミがいる。
「……言わないでおこうかと私も思ったけど、やっぱり言う」
「ユウ?」
「サトミが元気がないのも、私は分かってた。でも自分の事に精一杯で、何も出来なかった。サトミは、私のために色々……」
言葉は最後まで続かず、その前に私の体が抱きすくめられた。
暖かく、優しく。
柔らかな胸に顔を埋めていると、心が落ち着いてくる。
私は言葉にならない思いを込めて、彼女に抱き付いた。
「ユウ。一人で悩まなくても、私がいるから。それを、思い出して」
「うん」
「私も人の事は言えないけど、これは自分で解決したい事だから」
強く私を抱きしめるサトミ。
目を閉じて、心地よい圧迫感と柔らかな感触に身を任せる。
後少しだけ、こうさせてもらおう。
サトミには、そんな私を見せられるから。
そして彼女も、それを受け入れてくれるから。
ニャンの「逃げてもいい」という言葉に、私は素直に従った。
彼女達の優しさに、甘えていた……。
休日の朝。
いつもより早く目を覚ました私は、パジャマからジャージに着替え外に出た。
指先がかじかむような冷気。
吐く息は、微かに白く色付いている。
十分にストレッチをこなし、体を暖める。
息を整え、左足を踏み出す。
動き出す周りの風景。
頬を打つ風と、足に返ってくるアスファルトの感触。
朝もやと、それ輝かせる白い日差し。
後ろへと流れていく並木道。
景色はやがて街並みへと変わり、人の姿が現れ始める。
私と同じようなジョギングをしている人、スーツ姿の男性、トラックから荷物を降ろす若い女性。
彼等を視界に収めつつ、住宅街を駆け抜けていく。
行く手に見えていた公園に入る。
街路樹の木陰が、火照った体に心地良い。
足から返ってくるのは、柔らかな土の感触。
忘れていた何かが蘇ってくるような気分。
頬を打つのは、微かに潮の香りを含む湿った風。
木漏れ日の向こう側できらめく、水の流れ。
私は足を止め、膝に手を付いた。
息を整えながら、ゆっくりと足を踏み出す。
木立の間から吹き抜ける、冷たい風。
水辺から吹き付ける湿った風とは違う、澄んだ香り。
周りにはベンチが幾つかあるだけで、公園というよりは小さな広場といった感じ。
道路と公園を遮るように木々が生い茂り、視界に緑と水の光景を作り出している。
都心部に近いとは思えない、不思議な場所。
公園内に人気はなく、時折小鳥のさえずりが聞こえる程度。
私はベンチに腰を下ろし、Tシャツの袖で顔を拭った。
トレーニングは毎日しているけど、久し振りに体を動かした気がする。
少し遠い場所に来て、新鮮な気分になっているのだろうか。
しばらく休んでいると、少し寒くなってきた。
濡れていたTシャツも乾き始め、指先も白くなってきている。
ベンチから立ち上がり、軽く体を解す。
心地いい場所だけれど、いつまでもいられない。
私は公園内の景色を振り返り、再び走り出した。
そしてもう、振り返りはしなかった……。
シャワーを浴び、それでも早めの朝食を取る。
朝から動いたせいか、眠気は無い。
澄んだ、いつもより落ち着いた心の動き。
食事の後片付けを終え、少し休む。
ベッドの脇に背をもたれ、手にしている端末のディスプレイを見てみた。
ジョグシャトルを操作し、アドレス帳を表示させる。
見慣れた名前が消えていき、学校やよく行く店のアドレスに変わっていく。
やがて画面は元に戻り、再び見慣れた名前が映し出される。
そんな事を何度か繰り返し、あるアドレスで表示を止めた。
「……寝てた?……うん、ちょっと今からいい?……ごめん。……うん、分かった」
通話を終わらせ、クローゼットから取り出したベストとカーティガンを着込む。
下もスパッツからチェックのミニスカートに着替え、端末をポケットにしまった。
振り返った窓の外は、少し曇り空だった。
スクーターを降り、手袋を外す。
グリップヒーターのお陰で、それ程指は冷たくなっていない。
小さなアパートの階段を上がっていき、ある部屋の前でインターフォンを鳴らす。
「……今、開ける」
キーの開く音がして、ドアがわずかに開く。
オートロックが解除されたドアをくぐり、私は部屋の中に入った。
とにかく至る所に本や書類が溢れている。
整頓はされているし、散らかっている訳ではない。
しかし壁際には本棚が並び、透明なラックには書類の束が見て取れる。
「ごめん。今、手が離せなくて」
机の前に座ったまま、声を掛けてくるヒカル。
起動されている幾つもの端末、机に広げられる数多くの書類や本。
メモ書きや途中で止めたらしい文章も、正面の壁に貼られている。
「いいの。忙しいのに、私こそ邪魔しちゃって」
「大丈夫。ちょっとここから動けないから、飲み物が冷蔵庫に……」
言っているそばから、書類が机から落ちていく。
ただ弟程は不器用じゃないので、床へ落ちきる寸前でそれを拾い上げた。
ここは大学近くにある、ヒカルのアパート。
大学は高校から少し距離があり、スクーターでも10分は掛かる。
寮もあるんだけど、彼は奨学金を結構貰っているので気楽なアパート暮らしをしている。
ここを借りているのは、溢れる程の蔵書を収納するためでもある。
隣の部屋にも、読み終えた本や論文が山となっているので。
ただそれの半分は、ケイのマンガだ。
「論文はいいの?」
「一休み」
私が入れたコーヒーを飲み、息を付くヒカル。
それでも左手には、数字の羅列された書類が握られている。
「数字ばかり見て、面白い?」
「これから、あれこれ考えるのは面白いよ。数字自体は、ただの数字だから」
「同じだと思うけど」
「違うんだな、これが」
冗談っぽく言ったヒカルは、別な論文を見て微笑んでいる。
この人は、こういう時が一番楽しそうだ。
だから話を切り出すのは、少し辛い。
「……最近、サトミどどう?」
「抽象的な質問だね」
笑いを含んだ口調。
論文に目を落としたままなので、私の表情には気付いていない。
「概略的な答えでいいなら、今までと変わらないよ。僕は、そう思ってる」
「あの子は、何か言ってない?」
「特に聞いてない。というか、僕に悩みを相談してはこない」
軽い口調は変わらない。
論文から目を逸らさないのも。
そして、私を見ないのも。
「そういうのに僕が向いてないって、聡美は知ってるからね。ケイみたいに気が回らないし、モトみたいに相手を思いやる事も出来ないから」
「ヒカル」
「別に拗ねてる訳じゃない。自分でも駄目だなとは思うけど、出来ないから仕方ない」
あくまでも明るい態度。
ようやく論文がテーブルへと置かれ、優しく穏やかな視線が私へと向けられる。
「それで、聡美がどうかした?」
「ん、別に。食べ過ぎで、少し太ったって」
「だったら、有酸素運動しないと。昔は、リンゴだけ食べるダイエットがあったんだって」
私のごまかしに、よく分からない解答をしてくれるヒカル。
「お腹空かない?」
「食べたばかりだよ」
「あ、そう」
私も、さっき食べたばかりだ。
自分で言って、それに釣られてしまった。
「ユウも来たし、今日はお休み」
「いいよ、私もう帰るから」
「修士論文をするために、僕は大学院を休んでる訳じゃないから。この前も言ったけど、マスター(修士)になるのは10年先でもいいんだよ」
「ドクター(博士)まで、進むんでしょ」
「予定としては」
さらりと言ってのけ、論文や本をしまうヒカル。
端末も電源を落とし、そのまま床へと寝転がった。
「徹夜してんたんじゃないでしょうね」
「まさか。4時には寝た」
「大差ないと思うけど」
今は9時少し前。
私がここへ来た時間からいって、4時間も寝てないだろう。
本当に、よく頑張る人だ。
「中等部の頃から、全然変わってないね」
「そう?成長してないだけじゃない」
「いい意味でよ」
くすっと笑い、私は壁に背をもたれた。
「確かに気が利くとはいわないけど、あなたがいたから私達もどうにかやっていけたんだと思う。そういう気楽な所とか、楽観的な所とか」
「脳天気とも言う」
「そうね。だけどヒカルは、そのままでいいと思う」
「変えられないし、僕自身変わる気もないけど」
いつになく低い声。
うつ伏せで表情は見えないけれど、彼が何を考えているかは分かる。
確かに脳天気で、何も考えていないように見えるヒカル。
だけど彼もまた、強い信念を持っている。
揺らぐ事のない、確固たる自分自身を。
「……誰か、来てる」
「聡美だ。開いてるよ」
ヒカルは端末でオートロックを解除して、ゆっくりと体を起こした。
「お早う」
ワンピースにカーティガン姿のサトミが、やや遠慮気味に入ってくる。
私は壁にもたれたまま、彼女へ軽く手を振った。
「ユウも来てたの。ちょっと、話があるんだけど」
「席、外そうか」
「いい。ユウもいて」
手で私を制し、あぐらをかいているヒカルの前に座るサトミ。
切れ長の綺麗な瞳が、まっすぐと彼を捉える。
「あなたが修士論文を中断してまで来てくれて、私達はとても助かってる。感謝の言葉もないくらいよ」
「そうかな」
「いいから聞いて。私も光と一緒にいられるのは嬉しいし、とても気持が楽になる。いつまでもこうならいいって、思うくらいに」
一瞬揺らぐサトミの表情。
でもそれは、すぐに決意に満ちた凛々しい物へと変わる。
彼女の強い意志を込めた瞳が、悲しいくらいの鋭さを帯びる。
「……でもあなたは、大学院に戻るべきよ」
「聡美」
「聞いて。私だって、こんな事言いたくない。だけどあなたの居場所はもう、私達の所じゃないの。ガーディアンなんてやっててはいけないのよ」
ガーディアンに限りない自信と誇りを感じているサトミの口から出た、意外とも思える言葉。
ヒカルは戸惑う様子もなく、彼女の眼差しを受け止め続ける。
「私達を想って、一緒にやってくれるのは嬉しい。感謝しても、しきれないくらいよ。だけどあなたには、あなたにしか出来ない事をすべきなの」
「僕にしか出来ない事?」
「普通に過ごしていては得られない知識を学ぶために、飛び級で大学に進んだんでしょ。それと同じくらいに楽しみにしていた、高校生活を捨ててまで」
今度はヒカルの表情が揺れる。
サトミを通り抜ける、遠い眼差し。
中等部2年の冬。
高等部には行かないと言い切ったあの時の顔で。
「私も一緒に大学へ行こうと考えた。でも私には、高校でみんなと過ごす方を選んだ。それが、私にとってすべき事だと思ったから。他人と触れ合ってこなかった私には」
「聡美……」
「でもあなたは違う。お父さんと多少の確執はあっても、普通の生活を送ってきた。確かに大学へ進むには早過ぎたかも知れないけれど、それでも、勉強をしたいという自分の気持ちに従って正解だったのよ」
思いの猛を迸らせるように、間を置かず話し続けるサトミ。
その視線は、ヒカルから動く事はない。
そして彼も、避けはしない。
「私の言ってる事が、勝手なのは分かってる。私にそれを止める権利はないし、あなたが従う義務もない。でも、言わずにはいられないの。あなたは勉強する機会を与えられているのだから。私には、どれだけしたくても出来ない事を」
「そう、だね……」
「本当に、勝手な事ばかり言ってごめんなさい。私だって、あなたと一緒にいたい。だけど、そんな事で貴重なあなたの時間を無駄にするのは。耐えられないのよ……」
語尾が震え、顔が伏せられる。
膝の上で強く握りしめられるサトミの拳。
ヒカルはその手をそっと取り、頭を下げた。
「謝るのは、僕の方だよ。逃げてきたとは言わないけど、結果的にそうなってしまったんだから」
「光、ごめんなさい」
「いや。心配掛けて、それに気づかなかった僕が馬鹿なんだ。ありがとう、聡美」
暖かな、心の奥まで届く微笑み。
この笑顔を見られないのは、誰でも辛い。
サトミとっては、誰よりも辛い。
でも彼女は、あえて決別を選んだ。
そしてヒカルも、それを受け入れた。
優しい、包み込むような微笑み。
これを毎日見られないのは、寂しいけれど。
サトミの言いたい事が、私には痛い程理解出来た。
自分のすべき事。
それを果たしているかどうか。
諫められるかどうか。
私はそればかりを考えていた……。
勿論ヒカルは、まだ高校にいる。
サトミが言いたかったのは、彼の本来すべき事を指摘しただけだ。
何も追い出すとか、邪魔者扱いした訳ではない。
それでもケイが戻ってくるのを待たず、彼は大学院へと帰っていく。
私もそれに賛成だ。
彼がいれば助かるし、負担も減る。
だけどここでガーディアンとして頑張るのは、私達がすべき事だから。
ヒカルはあくまでも、その一時的な手助けに過ぎない。
彼は彼の本来すべき事へ戻り、私もまた自分のなすべき事をこなしていく。
私のすべき事が、ガーディアンの仕事かどうかは分からない。
サトミの言葉が胸に染みたとはいえ、以前程の熱意や気合いは戻ってこない。
ただ、ガーディアンを辞める気もない。
ニャンの優しさに触れ、サトミの熱意に刺激され。
そういう結論は、取りあえず出せた。
そこまでは。
でも塩田さん達の考える、対学校用のシンボルに仕立て上げられる気は無い。
昔なら流されるまま、そうしていたのかも知れないけれど。
そう出来ると信じてもいたし。
だけど今は、やる気も自信も無い。
なにより、成し遂げる力が無い。
弱気で言っている訳ではなく、冷静に考えてそう思う。
まだまだ、立ち直るには時間が掛かりそうだ。
元々、こうだったのかも知れないけれど。
それともこれまでの出来事で、メッキが剥がれたに過ぎないのかも。
とにかくしばらくは、自分達の事だけに専念しよう。
そして、よく考えよう。




