7-7
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地面に倒れたケイの頭を抱え上げる沙紀ちゃん。
私は背中のスティックを抜き、はやる呼吸を強引に抑え込んだ。
「失敗した」
「なにっ」
「俺が狙ったのは大内だ。そいつは、何もしなければ避けられた物を」
サディスティックな笑い声を上げる、大柄な男。
右手には、ケイの脇腹を切り裂いた例のバトンが下がっている。
ケイの部屋に行ったんじゃなかったのか。
「俺を捕まえるより、早く医者に行ったらどうだ」
「ふざけるなっ」
「じゃあ、ここで勝負するか。言っておくが、この間のようなフェイクは通じないぞ」
上段に構え、すり足で距離が詰められる。
今なら、一撃で倒せられる。
しかし背後にいるケイの事が気に掛かり、足が前に出ない。
「警察に行っても無駄だ。それに俺を追うのも勝手だが、まずはそいつを気遣えよ」
「く、く……」
「もし生きていたら、伝えておいてくれ。俺が狙ったのは大内だったとな」
バトンを収縮させ腰に収めた男は、ケイに一瞥をくれ教棟の方へと走り出した。
「待てっ」
「そんな事してる余裕はないだろ。それとも、俺を人殺しにしたいか」
甲高い笑いが、遠くから届く。
そしてその背中も、すぐに見えなくなる。
……くっ。
悔しいが、ここはあいつの言う通りだ。
「沙紀ちゃんっ」
「血が、血が止まらない」
ケイと同じくらい蒼白い顔。
彼の頭を膝の上に置き、がたがたと震えている。
沙紀ちゃんに触れようとした、私の手もまた。
「……レーザー、みたい」
かすれた、小さな声。
ケイは苦しそうに頭を動かし、沙紀ちゃんと私を見上げた。
「そういう綺麗な、感じだった。本当は、刃物で、切られたのに……」
「黙ってっ」
「丹下、血が付くから。それに、おしっこも」
血塗れで、それなのに真っ青な顔。
私は訳も分からず悲しくなって、目頭が熱くなってきた。
いや、駄目だ。
とにかく今は、落ち着かないと。
そうしないと、ケイが……。
「優ちゃん、とにかく医療部へ連絡して。それと、遠野ちゃん達にも」
先程までの震えが無くなり、意外な程に力強い声を出す沙紀ちゃん。
その手はしっかりと、ケイの手を握りしめている。
「本当、二人とも、ごめん。俺のせいで……」
「いいから、黙ってて。……あ、医療部ですか。え?先生がいない?は、はい。はい……」
端末を切り、深呼吸して気持を整える。
「都市高速で事故があって、殆どの先生がそっちの手伝いに行ってるって」
「……分かった。私、医療部で応急セットくらい持ってくる」
凛とした表情を浮かべ、ケイの手を両手で握る沙紀ちゃん。
「少し待ってて。すぐ、戻ってくるわ」
「俺は、いいから。二人は、早く、この場を離れて……。さっきの、連中が……、まだ、いるかも」
ささやくような声で、私達を気遣ってくる。
だけどそれが私達には、どれほど辛いと分かっているんだろうか。
「いいよ。沙紀ちゃんはケイを見てて。私がもらってくる」
「お願い」
ぎこちなく頷き合う私達。
もう言葉が出てこない。
ただ苦しさだけが、胸に募ってくる。
どうして、こんな事に……。
するとケイが、力無く腕を伸ばした。
「ど、どうしたの」
口を開くのも辛いのか、指が差される。
「ショウ……」
すぐ側まで駆け寄ってきていたショウは、こちらの様子を見てさらにその足を速めた。
「どうしたっ」
「ケイが、ケイが脇を切られて。血が止まらないの……」
「ちっ」
1mほどある柵を軽く乗り越え、私達の元へやってくる。
そしてすぐに、ケイの脇へと手を差し入れた。
「血圧が低いな。太い血管がやられてるみたいだ」
「二人とも、浦田をお願い。やっぱり、私が行くわ」
「うん」
議論している場合ではない。
沙紀ちゃんはケイから離れ、シャツとスカートを脱ぎ捨てた。
血の付いたTシャツとスパッツ姿でケイを見下ろし、軽くその手に触れる。
「行ってくる」
「本当に、無理しなくていいから……」
さっきよりも、さらに弱い声。
沙紀ちゃんはもう表情を変えず、振り返りもせず走り出した。
「よし。俺達も行くぞ」
「背負っていくの?」
「ああ。揺らしたくないけど、出血が多過ぎる」
精悍な顔が苦く歪み、ケイを背負い直す。
「痛くなったら、すぐに言え」
微かに頷き、手が小さく動く。
ショウはそれを確認して、慎重に走り出した。
揺らさないようにしているのだろうけど、小さな振動はどうしても起きる。
その度にケイの顔がしかめられ、苦しげな息が洩れる。
「我慢出来ないの?ショウ、もう少しゆっくり」
「ああ」
急いだ方がいいのは、私もショウも分かっている。
でもこの辛そうな彼を見ていると、無理をさせられない。
大体、こうして動かす事自体大丈夫なのだろうか。
後ろを振り返れば血の跡が転々と残り、Tシャツは目を背けたくなる程血が滴っている。
「おい。寝るなよ。意識を保ってろ」
「無理、言うな……。これだけ血が出てたら、思考は薄れる……」
あくまでも冷静な応対。
でも顔色は、どんどん悪くなっていく。
Tシャツから血が止まる様子もない。
「……なんて言うのか、すごいだるい」
小さな、小さな声。
血の気の引いた顔が、ゆっくりとショウの肩に伏せられる。
「大丈夫?」
返事は返らず、微かに背中が上下するだけだ。
その間にも、血は地面に落ち続ける。
「ショウッ、止まってっ」
「ああ」
負担を掛けないよう少しずつ足を緩め、後ろを振り返るショウ。
そこには身動きを取らなくなったケイが、寄りかかっている。
「……降ろした方がいいな」
顔をしかめ、ゆっくりとしゃがみ込む。
私は抱えていたジャケットを地面に引き、ケイの頭を抑えた。
力無く倒れてくる体。
かすれるような息が、かろうじて聞こえてくる。
慎重にケイを地面へ横たえ、私達は脇腹へ目をやった。
見る見る間に血が地面に溜まり、それでもなお溢れてくる。
「これ以上揺らすと、多分こいつがもたない」
「ど、どうしよう」
「無理にでも運ぶか、血が止まるのを待つか」
どちらも望めないのは、私達も分かっている。
だけどこのままでは、ケイの体が……。
軽快な、それでいて力強い足音。
見惚れるほどのストライドと、それを生み出すシルエット。
「沙紀ちゃんっ」
垣根を飛び越え、私達の前に舞い降りてくる沙紀ちゃん。
そして背中のリュックを降ろし、素早く中身を取り出した。
「やっぱり先生は、もう少し掛かるって。取りあえず応急セットだけもらってきた」
「だけど、包帯を巻いたくらいじゃ……」
「切れてるのは、中の血管だ。どうしようもない」
辛そうに呟くショウ。
「塞げばいいのよ。その道具も、持ってきてある」
しかし沙紀ちゃんは表情を変えず、小さな箱を開けた。
中にはさまざまな応急セットと共に、ハサミのような物が入っている。
「吻合器。これで、血管を塞ぐわ」
「そ、そんな事無理よ」
「レクチャーは聞いてきた。それに、やらないとどうしようもない」
注射器を持つ手が震え、唇を固く噛みしめる。
見ているだけで、彼女の苦痛が理解出来る。
あまりにも危険な、賭とも言える行為。
だけど、やらなければ……。
「浦田っ、聞こえてるっ」
かろうじて手が動くが、それ以外の動きは何もない。
目を閉じて、弱い呼吸を繰り返す。
「多分血管が切れてるから、それを塞ぐわ。一応麻酔はするけど、我慢して」
わずかに指を振るケイ。
沙紀ちゃんは見慣れない端末を取り出し、モニターを付けた。
「……ここと、ここと、ここ」
「何が……?」
「いいから、大人しくしてて」
モニターを真剣に見つめ、Tシャツを裂いていく。
露わになる傷口。
胸元から背中に掛けて、真横に切り裂かれている。
……これ以上は、とても正視出来ない。
「ここと、ここと、ここ……。いい、麻酔打つわよ」
返事は返らず、もう手も上がらない。
「……まず一つ」
モニターに写る注射箇所を確認して、沙紀ちゃんが小さく頷く。
向こうには額の薄くなった男性がいて、どうやら打つ場所を教えてくれているようだ。
やがて麻酔が終わり、ケイの顔が少し和らいだ。
「感覚が無いでしょ」
「……そういう気もする」
「今度は体の中に、手を入れるわ」
「……初めてだから、優しくして」
ふざけた事を言い、せき込むケイ。
口元が、赤く染まる。
「ちっ、肺まで行ってるな。丹下さん、傷は俺が開くから」
「お願い。消毒と、手袋をして」
「分かった。ユウ、サトミを呼び出してヒカル達に連絡するように言ってくれ」
「う、うん」
私は見るに耐えなくて、顔を伏せ気味に連絡を取った。
向こうでは驚きの声が上がったけど、すぐに事態を飲み込んでくれた。
「ユウ、親には連絡しないでいいから」
「でも、ケイ」
「それだけ、頼む」
仕方ない。
私はその通りサトミに伝え、端末をしまった。
この期に及んで、どうしてそこまで意地を張るんだろう。
もう、何がなにだか……。
「玲阿君、お願い」
「ああ」
唸るような声を、ケイが上げる。
いくら麻酔したとはいえ、素人がやる事だ。
でも今は、沙紀ちゃんに頑張ってもらうしかない。
知識も勇気もない私には、何も出来ない。
ただ、祈る事しか。
「……う」
今度は沙紀ちゃんが、小さく声を漏らす。
無理もない。
私は本当に見ていられないくらいだ。
「丹下……、いいよ。後は……、医者に任せれば……」
「あなたは黙ってて。……これか」
再び唸るケイ。
それは長く続き、もがくような音も聞こえてきた。
「私、腕抑える」
「ごめんなさい。浦田、後少しだから」
「……舌噛みそうだな。何か噛ませてくれ」
私はハンカチを取り出し、丸めてケイの口に挟んだ。
「頑張って」
弱々しく頷くケイ。
もがく腕は、あまりにも力無い。
また彼自身が、力を抑え込んでいるせいもあるだろう。
それだけの体力が無いとも。
「……多分、ふさがったと思う。消毒するから、もっと痛むわよ」
スプレーの噴射音がしても、ケイの腕は思ったほど動かない。
顔はもう白くなってきて、せき込む事に口元から血が溢れてくる。
「おい、大丈夫か」
少しだけ手が動き、かろうじて意志が伝わってきた。
しかし、本当に大丈夫なのだろうか。
「……出来た。後はお願い」
「よし」
ガーゼと包帯を巻いたケイを、慎重に担ぐショウ。
白くなった顔が歪むけど、ここは我慢してもらうしかない。
血の滴りを引きずりながら、私達は再び走り出した……。
ケイを担いだまま医療部のドアをくぐる私達。
するとやや年配の看護婦さんが、ストレッチャーを押して駆け寄ってきた。
「ここに乗せてっ」
「は、はい」
「もうすぐ先生達も戻ってくるから。片岡先生っ」
「今行きます、木屋婦長っ」
ビニールの手袋を付けながら、まだ若い男性が奥の方からやってきた。
手術着だろうか、濃緑の服にはあちこち血の跡も見られる。
「取りあえず生食とアンセフを静注して。麻酔は?」
「緑先生の指示で、リドカインを若干使ってます」
「分かった」
手慣れた仕草で注射がされ、点滴用のチューブが腕に取り付けられる。
また様々なモニター機器が動作を開始し、不規則な電子音を繰り返し始めた。
医療用語は全然分からないけど、少しだけケイの顔に赤みが差してくる。
「君、名前は」
「浦田……、珪、です……」
「よし浦田君。アレルギーや病気は」
「特に……、無い、です。薬も、使ってません……」
途切れ途切れの返事。
片岡先生は彼の手を握りしめ、耳元に顔を近付けた。
「手術もあるかもしれないから、覚えておいて」
「はい……」
声を出すのも辛い様子。
変動するモニターの電子音が、妙に耳に響く。
「片岡君っ。2号病室へっ」
「あ、緑先生っ」
「状況は」
「名前は浦田珪、15才。IDからも確認。胸部から背面にかけて深さ4cmの裂傷。また全身に打撲が見られます。触診で骨折は判断出来ず。現在生食とアンセフを静注。全身麻酔の準備に入ってます」
「分かった」
額の薄くなった30くらいの男性が、隣にいる甘い顔をした男性に声を掛ける。
「ここは、僕が担当するけど。君も小児科としてサポートしてくれ」
「それは良いが、とにかく外科を呼ばないと始まらないぞ」
「ああ。片岡君、平田は」
「まだ複雑骨折の治療から戻ってません」
「とにかく、コールし続けて」
「はい」
病室へと入っていった先生達は全員血の付いた服を代え、新しい服と手袋を付け替えた。
「血液ガス、血算、生化学、胸部、腹部、頸部、頭部X線をオーダーして」
「血圧上80の50、酸素飽和度は75。ヘマトクリット34。グラスゴーコーマスケールは8。末梢循環の不全が見られます」
「エピとアトロピンを、モニター同調で投与準備。浦田君っ、聞こえるかっ」
「大丈夫、頷いてる」
「はい。僕の合図で移すよ。1、2、3っ」
ケイの体がストレッチャーからベッドへ移され、今度は室内のモニターが動き出す。
「出血はかなり止まってるね。誰が処置したんだ」
「あ。わ、私が」
部屋の隅で様子を窺っていた沙紀ちゃんが、遠慮気味に申し出る。
「いい腕だ。片岡よりもな」
「丈二先生、それはないでしょう。……右呼吸音微弱。やはり気胸の疑いがありますね」
「ああ。全身麻酔の準備。それと、彼の血液型は」
「Aです」
「誰か、血液室にA型をオーダーして。無ければ、O-(オー・マイナス)を」
緑先生の呼び掛けに、看護婦さんが首を振る。
「さっきの事故で、どちらも殆ど使ってしまいました。彼の血液から培養するには、しばらく時間が掛かります」
「そうだったな……。誰か、A型の人はいますか」
「私が」
素早く手を上げる沙紀ちゃん。
治療に当たっている先生達が、一斉に彼女へ注目する。
それとほぼ同時にドアが開かれ、若い女性が入ってきた。
「……おまたせっ。ん、どうしたの」
「スージー遅いよ」
「ごめん。で、彼女がどうかした」
首を振り、金髪の髪を後ろへなびかせる女性。
その視線もまた、沙紀ちゃんへと向けられる。
「輸血を申し出てくれたんだ」
「そう。だけど、あなたも怪我してるじゃない。そちらの治療を、まず優先しましょう」
しかし沙紀ちゃんは首を振り、血の付いたシャツの袖をまくった。
「私より、彼をお願いします」
「……分かった。誰か、隣で彼女の採血お願い。クロスマッチも急いで」
「あ、はい」
一人の看護婦が治療から抜け、沙紀ちゃんを伴ってドアの方へ向かう。
私達もここにいては邪魔なので、その後へ続く事にした。
ドアの外から様子を窺っていると、浅黒い顔をした男性が中に入っていった。
「平田、やっと来たか」
「悪い。で、状況は」
「右肺に、気胸の疑いがある。それと応急的に切れた血管を繋げてるが、君の方でもう一度頼む」
「分かった。まずは血を吸い出すぞ。それと一分間に3単位ずつ、ナノマシーンを投与」
「大丈夫か」
「若い体だ。問題ない」
そう言った途端、モニターがおかしな音を出し始めた。
ケイの手足が動かなくなり、口元から大量の血があふれ出す。
「ちっ。挿管するぞっ。3mmのゲージッ」
「は、はい」
「ライト、もっと当ててっ」
一気に緊迫する空気。
私はもう見ていられなくて、病室に背を向けた。
それでも何も分からないのは不安で、耳だけをそばだてる。
サトミが握ってくれる手だけが、唯一心を繋ぎ止めている。
「……よし、入った。吸引しろ」
「さすがです」
「いいから、肺に移るぞ。チェストチューブの用意」
「はいっ」
医師達の叫び声とモニターの電子音。
無為に、永遠とも思える時が過ぎていく。
世界が狭くなり、私一人だけになってしまうような感覚。
よそ事のような病室内の喧噪と、今日あった思い出したくもない出来事。
これが夢ならどれだけいいだろう。
目が醒めて、全てが元に戻っているなら。
だけど無機質な電子音は、現実から逃げ出す事を許してはくれない。
重い、苦い時が続いていく……。
どれだけの時が経ったのか。
病室内が静かになり、手袋を外しながら先生達が外へと出てきた。
「あ、あの」
「大丈夫。出血は多かったけど、命に別状はないよ」
「そ、そうですか」
安堵感と、それまでの緊張が途切れ一気に体の力が抜ける。
それはサトミも同じだったらしく、隣で大きなため息を付いている。
「肺まで傷が達してたから、完治まではしばらくかかるけど」
「それでも、せいぜい一ヶ月よ。良い休養だと思って、彼にも伝えておいて」
途中で加わった、金髪の女性が優しく話しかけてくれる。
「えーと、誰か身内の方は来てるかな」
「妹が、こちらへ向かっているところです」
「そう。あの傷なんだけど、日本刀ででも切られたの。それに、体中の傷も」
真剣な面持ちで尋ねてくる、片岡先生。
私は思い出したくもない事を頭に描き、簡単に説明をした。
「……なるほど。警察への連絡は」
「まだです。まずは彼を運ぼうと思いまして」
「その手続きは、こちらでやっておく。彼と君達にも、警備を付けるよう頼んでおくから」
「済みません」
頭を下げると、ベッドに乗せられたケイが病室から出てきた。
体中にチューブを付け、様々な機械がその周りを取り囲んでいる。
顔色は相変わらず蒼白くて、目も閉じられたまま。
「ケイ……」
「今は麻酔で眠っている。意識が戻るのは、まだしばらく掛かるよ」
「そうですか」
でも、よかった。
大丈夫だと言ってくれたし、これだけの施設ならこの後の心配もないだろう。
後は、早く彼が治るのを願うだけだ。
そう思っていないと、自分でも何を考えるか分からない。
「復讐しようなんて、考えてないか?」
甘い顔をした、丈二と呼ばれていた先生が目線を向けてくる。
「い、いえ」
「暴力は何も生み出さない。なあ、緑」
「まあね。……と、早速呼び出しだ。平田、外傷の2号室へ。片岡君は外来へ行って」
「こき使う病院だ」
「それじゃ」
足早に去っていく先生達。
すでにケイはエレベーターで、上にある病室へと運ばれている。
「あ、あの。彼に輸血をした女の子はどうなってます?」
「今来るわ」
私達に付き添ってくれていた金髪の女性が、ドアの開いた隣の病室を指さす。
「……こんな風にされちゃった」
顔に張られたガーゼを指差し、自分で笑う沙紀ちゃん。
まくられた腕にも、ガーゼが張られている。
「あなたも、今日は大人しくしてるのよ」
「あ、はい。それで、彼は」
「もう大丈夫。何の心配もいらないわ」
深く頭を下げる沙紀ちゃんの肩を、女性は優しく抱きとめた。
「後は私達に任せて、あなた達も少し休みなさい」
「は、はい」
「それじゃ、失礼します」
私達は彼女に深く一礼をして、廊下を静かに歩きだした。
胸に去来する思いを、抑え込みながら……。
ラウンジの窓から見える景色はすでに闇へ落ちている。
誰もが押し黙り、エアコンの音だけが微かに響く。
視線を落とす者、ただ壁を見つめる者。
時だけが、重い時だけが過ぎていく。
いつかも味わった、身を裂かれるような待たされる時間。
もう二度と、繰り返したくないと思っていたのに。
思わず拳に力が入る。
また何も出来なかった。
傷付いていく彼を目の前にして、ただ見ている事しか。
自分の無力さと、相手への怒りが胸の中に渦巻いていく。
いくらケイが助かったとはいえ、この感情は収まらない。
どうして私は。
そして、どうして彼は……。
足音に気付いて顔を上げると、舞地さん達がラウンジに入ってきていた。
どこかで落ち合ったのか、塩田さん達もいる。
「容態は」
「心配ないそうです。今は、麻酔で寝てます」
「そうか」
彼等の顔に安堵の色が浮かび、空気が和んでいく。
私はとても、そんな気持にはなれないが。
「……もう大丈夫なんだろ。それにしては、随分重いなお前ら」
訝しげに尋ねてくる名雲さん。
答える気もない私に代わって、壁にもたれていたショウが肩をすくめる。
「さっき警察が来て、あいつを斬った相手は捕まえないって」
「何だ、それ」
「犯人の特定が出来ないし、友人以外の証人がいないからって説明してた。一応捜査はするらしいけど」
「バックアップしていたディフェンスラインが絡んでたから、もみ消しに図ったのね」
自分自身へ語りかけるように呟く池上さん。
私はこみ上げてくる感情を抑え、血の付いた自分の服を見つめた。
彼が流した血を。
「それでも、いずれ警察は動くわよ。何と言っても殺人未遂なんだし。ディフェンスラインへの解散命令後にね」
「勧告止まりだと、私は思いますが。これほど使いやすく捨てやすい駒を、そう簡単には手放しませんよ」
さりげない副会長の説明も、全く耳に入ってこない
思考が止まり、もう何も考えられない。
「峰山……、前自警局長は」
「取りあえず、警察に拘留されてるそうです」
「浦田が助けた女。大内は」
「知りません。気付いたら、いなくなってました」
ショウが面倒げに答え、軽く首を廻す。
その意味は、私も分かっている。
「玲阿、どこへ行く気だ?」
「警察が動かないなら、こっちで動く」
「そうか……」
ため息交じりに彼へと近づく名雲さん。
止めるのかと思っていたら、その肩がそっと叩かれた。
「浦田の病室は、俺達がガードする」
「俺も、一応父さんに連絡はしてあるから」
「ボディーガードだったっけ。じゃあ、それが来るまでだな」
頷き合う二人。
私も席を立ち、血の付いたジャケットを脱ぎ捨てた。
「ユウ、感心しないわよ」
「分かってる。サトミをお願い」
「ええ」
元気なく背もたれへ寄りかかっているサトミに、そっと寄り添うモトちゃん。
復讐するというつもりではない。
勿論、そういう気分があるのは確かだけど。
それとは別に、彼等をこのまま放っておきたくない。
今回はケイがその対象となった。
その次を防ぐためにも、下らない取引を許さないためにも。
このままにはしておけない。
「……僕も行く」
拳を固め、床を見つめていた柳君が呟く。
小さく、低く。
思いの丈を封じ込めて。
「最初から、大内さんを放っておくのは反対だったんだ。浦田君がやられた責任は、僕にもある」
否定するのは簡単だ。
だけど今彼は、それを認める気にはなっていない。
私も、言葉を返す気分ではない。
「ところで。逃げた連中の居場所に、当てはあるの」
「例のディフェンスラインの事務所。あそこにはいなくても、居所くらいは知ってると思う」
「分かった」
まくっていたジャケットの袖を直し、ドアを出ていこうとする柳君。
私とショウも、その後へと続く。
「おい、待て」
その行く手に、塩田さんが立ちふさがった。
普段なら素直に言う事を聞くだろう。
今でなければ。
「どいてくれ」
「落ち着け、玲阿。大山、お前からも何か言え」
「そうですね。仮に彼等の身柄を抑えても、警察が動くかどうかは分かりませんよ」
それはきっと正しいのだろう。
さっき捕まえないと言った警察が、急に考えを変える訳がない。
「……知った事ではありませんか」
「済みません」
副会長へ頭を下げ、塩田さんの横を抜ける。
まだ止めるなら、こっちもそれ相応の対応をするだけだ。
「……仕方ない。俺も行く」
ドアを出た私達の後に付いてくる塩田さん。
「済まない。司を頼む」
「ああ。これから何が起きても、それは俺が責任を持つ」
ドアから顔を出している舞地さんにそう告げ、私達の前へと出た。
「お前達も、そのつもりでいろ」
誰も返事をしない。
彼も、それを待ってはいなかっただろう。
私達は照明の落ちた廊下を、無言のまま歩いていった。
車を降り、路地の手前にあるビルを見上げる私達。
階段脇には、「ディフェンスライン東海第10支部」との表示がある。
「警備か」
舌を鳴らす塩田さん。
エレベーター前のスペース。
例の赤いバンダナ、腰に警棒を装備した数名の男性。
入り口でも、それとない視線を送って来た連中がいた。
「僕が行く……」
無造作に彼等へと近づいていく柳君。
そう言えば、実戦での彼を見るのは初めてだ。
「何か、用事でも?」
取りあえずは丁寧に応対してくるディフェンスライン。
「僕の友達が、今日怪我をした。その事で来た」
「……おい」
一人の目線を受け端末を取り出す男。
しかしそれが、耳へ届く事は無かった。
閃光に似た速さで左足が跳ね上がり、男の腕を内側から絡め取る。
同時に柳君の体が翻りながら宙を舞い、その顔へ膝を飛ばす。
全ては瞬間で、何の予備動作もない動き。
普段なら感嘆の声をあげる場面。
だけど私もショウも、黙ってその様を見つめている。
そして柳君も、それを誇る様子はない。
彼にとっては当然の行為で、また勝ち誇る気分ではないはずだ。
「質問するよ。支部長の仲間は。特に、目付きの悪い男と大柄な男」
「い、今はいない」
「じゃあ、どこにいる」
「そ、それは」
言い淀む男。
すでに柳君の周りは、警棒を構えた男が取り囲んでいる。
「僕の友達は、脇を切り裂かれた。君は、どうされたい」
男の顔が一瞬にして青ざめ、体をがたがた震わせながら話し始めた。
「ち、近くのバーにいる。か、会員制だから、簡単には入れない」
「おい、喋るなっ」
仲間の制止も、柳君の迫力にはかなわない。
男は事細かな場所、そこにいる人数まで告げてきた。
「分かった」
周りを囲む連中を全く無視して、男から離れる柳君。
「ま、待て」
「こんな事をして、ただで済むと思ってるのか」
「事務所に来てもらうぞ」
あくまでも押しとどめようとするディフェンスライン。
再び柳君が足を浮かすが、それより前に塩田さんが呟いた。
「……力尽くでなら、相手になる」
あの時、屋神さんと同じ台詞。
それと同じ力強さと自信が込められた口調。
行く手を塞いでいたディフェンスラインが、飛び退くように左右へと別れる。
そしてあの時と同じように、私達は振り返る事無くその場を立ち去った。
ディフェンスラインの事務所からも程近い、小さな雑居ビル。
周りには飲食店が建ち並び、夜更けの今でもそれなりの活気を保っている。
あまり治安がいい雰囲気とは言えず、こちらを窺うような視線が時折向けられる。
「ここだな」
ビルの地下に続く薄暗い階段。
ディフェンスラインではないが、数名の若者がしゃがみ込んでアルコールの瓶を前にしている。
すでに酔っているらしく、かなりテンションが上がっているようだ。
「おまえらは、後から来い」
そう言って、階段を下りていく塩田さん。
当然のごとく、しゃがみ込んでいる若者達と対峙する事になる。
「何だ、お前」
「ここは、会員制だぜ」
警戒気味の視線。
警棒か、それともスタンガン付きのバトンか。
とにかく武器が出され、彼等が立ち上がる。
「ここに、用事がある」
「おい、俺の話を……」
伸びかけた男の手が止まり、代わって塩田さんの指がその首筋へと当てられる。
一瞬にして顔が青くなり、男は喉を押さえ始めた。
「用事があると言った。邪魔するな」
背後に人の立つ気配。
足音からして、数名いるようだ。
地面では、警棒のような影が動く。
その破片の影も。
破片の付いた足を払い、息を整えるショウ。
「まだ来るか」
しゃがみ込んで咳き込んでいる男が、涙目で首を振る。
「お前ら、今すぐここを離れろ。それが嫌なら、掛かってこい」
「し、しかし」
「1分待つ」
お互いの顔を見合わす男達。
私達への恐怖と、ここを守るようにいわれた命令。
そのどちらを取るかの判断だろう。
しかし一人が足早に駆け出すと、他の者もすぐそれに倣った。
どこかへ連絡を取っている者もいたが、それを気にしている場合ではない。
咳き込んでいた男もすぐにいなくなり、私達は階段を下りていった。
すでにドアは見えていて、誰かが隠れている様子はない。
その向こう側で待ち伏せている可能性は、十分あるにせよ。
「……音がしないな」
ドアに耳を当てていた塩田さんが、ID使用のキー部分へ手を伸ばす。
コンソールはロック状態を表示していて、カードキーが無い私達には開けようがない。
「俺が開ける」
前へ出たショウを、下がるよう促す塩田さん。
そしてポケットから出した無地のカードをスリットへ入れ、コンソールを何度か操作した。
その直後、音もなくスライドするドア。
「少し待ってろ」
スリットから戻ってきたカードを取り、慎重に中へ消えていった。
すでにその気配は、ここからは感じられない。
そんな隠行に感心する気分でもなく、周囲を警戒する。
「……入ってこい」
暗がりから聞こえた塩田さんの声に従い、店内へ入っていく私達。
極彩色で彩られた壁のペイントと、所々に貼られる派手なポスター。
間接照明だけなのか、内部はかなり薄暗い。
甘い鼻に残る匂いを堪えつつ、狭い廊下を歩いていく。
おそらくは、ダンスフロアへと出てきた。
やはり照明は暗く、人気も感じられない。
それでも徐々に目が慣れてきて、おぼろげながら室内が見えてくる。
壁際にはソファーとテーブルが幾つか並び、右隅の一角にはDJブースらしき部屋がある。
足元には瓶やゴミが散乱し、あまり綺麗とはいえない。
正面にはステージがあり、カクテルライトやマイクスタンドが何となく見える。
「……誰もいない」
棒立ちのまま周りを見渡す柳君。
たださっきの動きからして、今彼に仕掛けても徒労に終わるだけだ。
「そう言えば、塩田さんもいないな」
「どこ行ったんだろう」
周囲を見渡すショウ達。
私は彼を捜すでもなく、足元の瓶を靴先で蹴った。
小さな音がして、その瓶が転がっていく。
無意味な行為だ。
それは、ここへ来た私達の行為にも言えるのだけど。
所詮は怒りに身を任せた復讐に過ぎない。
仮に連中を捕まえても警察が相手にしなかったら、その先はどうするか想像も出来ない。
自分でも、それは分かっている。
だけど、このままでは……。
不意に照明が灯り、目が眩む。
身構えるより前に、ショウと柳君が私を囲んでくれた。
彼等に感謝しつつ、自分でも腰に下げていたスティックへ手を伸ばす。
「心配するな、俺だ」
聞き慣れた塩田さんの声。
その姿も、奥にあった通路から見えてきた。
「どこへ行ってたんです。それに、ここに連中がいたっていうのは嘘なんですか」
「いや、奴らは奥にいた」
駆け出そうとする私達を、手で制する塩田さん。
「どうしてですか」
「警察には、もう連絡してある。浦田の事以外で立件が出来るくらいの証拠も、この奥に色々あった」
よく分からないが、勝手に話が終わっているようだ。
空回りというか、肩すかしを喰らった気分である。
ただ今回の事に疑問を持ち始めていた私にとっては、安堵の気持が無くもないが。
「塩田さん一人でやったの」
まだ怒りが収まっていないのか、やや荒い口調で尋ねる柳君。
塩田さんは小さく首を振り、廊下の奥に手を振った。
すると一人の、見慣れない男性が出てきた。
やや長身で、目に掛かる程の前髪が目に付く。
そのために顔は見えないが、まるで風のような雰囲気を感じる男性だ。
「こいつが、IDを偽造して中に入り込んでたらしい。それで、連中を全員奥に拘束してある」
「誰なんです」
当然なショウの質問。
何故か答えない塩田さん。
しかし。
「……伊達さん」
私をかばうように立っていた柳君が、静かに声を掛ける。
伊達と呼ばれた男性は、ジャケットの襟を直しそれを挨拶へと代えた。
「どうして、ここに」
「去年沢がいなくなった後に、俺達がこいつを雇ったんだ。だから伊達も、峰山前自警局長達とはそれなりの縁がある」
代わって答える塩田さん。
「それは僕も知ってる。ただ、どうして伊達さんはここにいるの」
「仲間から、連絡を聞いたらしい。それに今言った通りこいつも、去年のごたごたには関わってるんだ」
苦い顔をする塩田さんと、黙ってそれを聞いている伊達さん。
柳君は拳を体に押し付け、苦しそうに顔を伏せた。
「あの時一人で草薙高校へ行ったのは、こういう悪い結果になるって分かってたから?それに、僕達を巻き込みたくないと思ったから?」
答えは返らず、二人の間で視線だけが交わされる。
だがそれを避けるようにして、伊達さんは私達がやってきた通路へと歩き出した。
無言のまま私達と、柳君の隣を通り過ぎていく。
「僕だけじゃなくて、名雲さんも心配してる。真理依さんはなにも言わないけど、やっぱり心配してる」
「済まない」
初めて返される、低い澄んだ声。
柳君は意を決した顔になり、彼の前へと回り込んだ。
足を止め、自分を見上げる視線を受け止める伊達さん。
前髪の隙間から、鋭い眼差しがわずかにのぞく。
「……池上さんには、会っていかないの」
「今さら会えた義理じゃない。代わりに、謝っておいてくれ」
「伊達さんっ」
柳君の叫び声がフロアに響く。
彼はその脇を、黙って通り過ぎた。
「伊達よ。俺達は今でも、お前に感謝してる。それだけ、覚えててくれ」
ステージ上から声を掛ける塩田さん。
しかしそれにも、彼が振り返る事は無かった。
そして私は、緊張の糸が切れたまま彼等の会話を聞き流していた。
ただ、ケイの事だけを考えながら……。
ICU(集中治療室)の前にある、小さな控え室。
開け放たれたドアから、廊下を歩いていく看護婦さん達の足音が聞こえてくる。
学内にある施設のため、重症患者を収容するこのICUにはケイしかいない。
そして控え室にもまた、私達しかいない。
重苦しい、水の中を歩いているような気分。
誰も一様に押し黙り、視線を伏せて動こうとしない。
喋る気がしないという方が、正確だろう。
「……冗談じゃないわよ」
私は席を立ち、俯いたまま呟いた。
今までの悩み、そしてここ最近の出来事。
怒り、悔しさ、苦しさ、悲しさ。
とにかく全ての感情が、ここへ来て一気に吹き出した。
「どうして。どうしてあの子が怪我しなきゃならないの」
机を両手で叩き、震える拳を握りしめる。
頭の中が真っ白になり、考えが追い付いていかない。
今はただ、感情をさらけ出す事しか出来ない。
「あの子は、何も悪い事してないのに。いつもみんなのためを思って、今度だって自分を犠牲にして……。どうして、ケイが……」
拳を何度も机にぶつけ、歯を食いしばる。
こうしていないと、自分がどうにかなってしまいそうだ。
守ってあげる事も出来ず、何の役にも立たず。
全てが終わった後に、怒るだけ。
私は今まで、何をしてきたんだ……。
「大体塩田さん達が私達を巻き込むから、ケイがこうなったんじゃないっ。私達は、何も関係ないのにっ」
「ユウ、やめろ」
「だって、そうでしょ。揉めたいなら、自分達だけで勝手に揉めてればいいのよっ」
ショウの制止を無視して、一人で怒鳴る。
拳が痺れてきたけど、それも無視して机を殴り続ける。
「理由も言わずに私達を勝手に巻き込んで。その結果が、これじゃない。サトミやショウだって、知らない間に下らない事させられて。私達に、どうしろって言うのよっ」
「……済まない」
いつになく頼りない塩田さんの声が、顔を伏せた私にも聞こえてきた。
だから何だと言うんだ。
謝ればそれで済むのか。
ショウがあの時受けた怪我は、サトミがあの時傷付けられた心は戻るのか。
私達以外の、関係なく巻き込まれている人達は。
そして、ケイの怪我は。
もう、どうでもいい。
やりたいなら、勝手に何でもやってればいい。
私は知らない。
こんな辛い思いをして、仲間を傷付けられて。
それでも何かを成し遂げられる程、私は強くない……。
先程とは違う静けさが、控え室を支配する。
私の震えは収まらず、こみ上げてくる怒りや悔しさが胸に渦巻き続けている。
こんな事なら、ガーディアンなんてやるんじゃなかった。
人を、仲間を守るために頑張ってきたのに。
何も出来ていない。
目の前で傷付いていく人すら、助けられなかった。
いつかそんな事を、誰かに言ったのを思い出す。
それが今、自分自身に向けられている。
もう、私はこれ以上……。
「浦田さんの、身内の方ですか」
聞き慣れない、抑え気味の小さい声。
誰かが、応対をしている。
私は浦田という言葉だけに反応して、ただ彼等の会話を耳に入れていた。
「意識が、戻ったんですか?」
「少しなら、お会いになって結構ですよ」
誰かが声を上げ、安堵の空気が流れ出す。
聞こえてくる足音。
よかった。
もしかして、このまま目を覚まさないんじゃないかと不安だった。
本当に、よかった……。
「ユウ、俺達も行こう」
肩に手が置かれる。
顔を上げると、ショウがドアを指差していた。
「そう、だね」
「今回は堪えた。俺も、さすがに馬鹿馬鹿しく思えてきてる」
苦笑して、私の拳を両手で握りしめてくれる。
赤くなった、小さな私の拳。
「ケイの怪我もそうだけど、自分も少しは気を付けろよ」
「だって」
「分かってる。とにかく、今はケイに会おう」
そっと背中が押され、固まっていた私の足が前に出た。
そうでもされない限り、動かせる気がしなかった。
ベッドに横たわる、身動き一つしない体。
体中からチューブが伸び、至る所に付けられている包帯やガーゼ。
モニターの数値は小刻みに変化し、片岡先生が難しい顔でそれをチェックしている。
「ユウ」
やつれた顔で立っているサトミを支えていたモトちゃんが、私を手招きする。
「ケイ君が、呼んでる」
「うん……」
若干の気まずさを感じつつ、みんなの前を歩いていく。
塩田さんや大山さんは顔を伏せていて、その表情は読み取れない。
それを考慮する余裕なんて、今の私には無いのだけど。
私はケイの枕元に立ち、彼の顔を覗き込んだ。
顔中のガーゼ、鼻に通っているチューブ、酸素吸入用のマスクもその横に転がっている。
弱い光を保つ彼の瞳が、ゆっくりと私を捉えた。
「……声が、……ここまで、……聞こえた」
かすれた、殆ど聞き取れない小さな声。
聞いているこっちが辛くなってきそうな、苦しげな表情。
私が何か言おうとする前に、彼の手が動く。
「俺が……、勝手にやった……、事だから」
「だけど」
「……一度、……やってみたかった。……マンガで、……よくあるだろ」
「馬鹿っ」
それまで一言も口をきかなかったサトミが、突然叫ぶ。
今まで我慢していた、彼女なりの思いがあふれ出たのだろう。
「……ごめん。……とにかく、……悪いのは俺、……だから」
「で、でも」
「寝る……」
一人で言うだけ言って、目を閉じるケイ。
モトちゃんがため息交じりに、酸素マスクを彼の口へ合わせる。
「本人がこう言うんじゃ仕方ないわ」
そして彼女はサトミを伴って、ICUを出ていった。
「今回の件は、私達にも原因がある。済まなかった」
急に頭を下げる舞地さん。
名雲さんと池上さんも、それにすぐ倣う。
「ごめん、雪野さん。それに、浦田君」
最後に柳君が、ケイのベッドへそっと触れた。
可愛らしいその横顔が、複雑な表情に揺れる。
何かを堪えるような、そんな佇まいで。
「私達は、一旦戻る。もう襲われる事はないだろうし」
「また明日来るわ。何かあったら、連絡して」
「先生、お願いします」
片岡先生に会釈して、舞地さん達もICUを出ていく。
後に残ったのは私とショウ、そして塩田さんと副会長。
切り出し辛い雰囲気の中、塩田さんが小声で告げた。
「確かに、俺達が勝手だった。今までも分かってはいたけど、それを思い知った」
「雪野さんの言う通り、これは私達の問題でした。やはり、あなた達を巻き込むべきではなかったんです」
「そうだな。俺達も、少し考え直す」
力無い表情でドアを出ていく二人。
その背中を追う気にもなれないでいると、沢さんが目の前に立った。
「これ以上一切関わりたくないのなら、よそへ転校してもいい。その手続きは僕がするし、それなりの便宜も図る」
「この学校を離れる気はありません。私に関係ない事で、どうして……」
「ユウ」
ショウが一応私を制してくるが、彼の顔にも不満は表れている。
「こう言うとまた怒るかも知れないが、君達がもう関係者になっているのは事実なんだ。この先僕達と関わらないにしろ、それだけは覚えておいてくれ」
「分かってます。自分の身くらいは、自分で守ります」
「……そうか」
何か言いたげな素振りを見せていたが、結局沢さんも私達に背を向けた。
勝手に、好きにやってればいい。
知らない内に拳が握りしめられていた。
手の平に食い込む爪の痛さに、ふと我に返る。
「よく分からないけど、大変そうだね」
モニターをチェックしながら、話しかけてくる片岡先生。
私はどう答えていいのか分からず、適当に返事をした。
「若さと言えば、それまでなんだろうけど」
「何が若さだって」
知らない間に、額の薄くなっている緑先生が脇に立っていた。
いつもならすぐに気付くところなのに、今日はやっぱりどうかしている。
「容態は」
「血圧、心拍共に問題ありません。痛みの方も、鎮痛剤で何とか」
「感染症も大丈夫だね。それで浦田君の事なんだけど、ここは緊急用の患者しか診ない施設なんだ」
緑先生の話によると、学内の施設なので長期入院用の設備が整っていないらしい。
希望すれば出来ない事はないが、それなら転院した方が予後もいいだろう。
体調がある程度回復したら、近くの病院に移してくれると説明してくれた。
「……去年も生徒同士の抗争が絶えなくて、怪我人が相当出たんだ。さっき彼に付き添っていた子達も、何度か来た事がある」
「そうなんですか」
刃物を使うような相手と揉めているんだ。
そのくらいは、当然あるだろう。
周り廻って今は、ケイがその犠牲になっているし。
「何にしろ、暴力では何も解決しない。ガーディアンをやってる君達には、よく分かっているだろうけど」
「そうですね」
曖昧に頷き、ケイの額に浮かぶ汗を拭く。
麻酔がまた効いてきたのか、呼吸はかなり楽になっているようだ。
「ここは完全看護だけど、付き添うようならベッドをもってくるよ」
「あ、僕が手配してきます」
「済まない」
軽く手を上げ、ICUを出ていく片岡先生。
「彼は2年目のレジデントでね。若いけど、なかなか優秀だ。浦田君がここを退院するまでは、彼に任せようと思ってる」
「お願いします」
「それで、後遺症とかは無いんですか」
ためらいがちに尋ねるショウ。
しかし緑先生は、笑顔で首を振った。
「傷は若干残るよ。せいぜい、それが時折痛むくらいだね」
安堵のため息が、私達から洩れる。
ケイは男の子だし、傷くらいなら大丈夫だ。
とにかく今日は、彼の側にいよう。
何も出来なかった分、せめてそのくらいは。
「俺、寮から適当に荷物持ってくる」
「お願い」
彼をICUの外まで見送り、もう一度ため息を付く。
「本当、自信無くした……」
「みんなそうさ。ケイもこうなったし、しばらくはゆっくりしよう」
「うん」
薄暗い廊下を歩いていく彼の背中に小さく手を振り、部屋へと戻る。
緑先生もどこかへ行ったらしく、「何かあったら、呼んで下さい」と表示されているナースコール用の端末がベッドの上にあった。
額に張り付く彼の前髪を横へ流し、その汗を拭く。
皮肉な笑みも、ふざけた言葉も返ってこない。
モニターの無機質な電子音と、周囲に置かれた機械の作動音。
点滴用のチューブがその光に照らされ、虚ろに輝いている。
「……ごめん」
頭によぎる、一つの考え。
私は彼に付き添う資格なんてあるのか。
何も出来ず、ただ見ていただけなのに。
彼には必要ない、そこにいるだけの存在。
それは今も変わらない。
チューブだらけの彼を見下ろしながら、私の心は闇へと深く溶けていった。




