エピソード EX4-2 ~セルフパロディ・ケイ渡り鳥編~
一つの……
後編
「これがどうしたの」
俯いたまま、ため息混じりに呟く元野。
机に置かれたのは、大きめの封筒と書類。
猫を従えた女性から受け取った、例の書類である。
「読んでよ」
「どうして、私が」
「いいから、ほら」
「予算、規則、か」
書類を適当にめくり、元野はもう一度ため息を付いた。
「要は校則を厳しくする代わりに、予算を増やせって揉めてる訳。馬鹿馬鹿しい話ね」
「そうだとしても、サトミがさらわれてるのは馬鹿馬鹿しくないの」
机に手を付き、厳しい表情を浮かべるユウ。
しかし元野は特に取り合おうとはせず、もう一度書類をめくった。
「こうなると、どっちが悪いのか分からないわね。規則をごり押ししてくる学校か、予算を要求する生徒会か」
「どっちもよ」
一言で切って捨てるユウ。
彼女の視野には、サトミの事しか見えていないのだろう。
「それで、あなたはどうする気」
「学校にも生徒会にも文句を言う」
「解決しなかったら」
返ってこない返事。
その先までは考えてなかったのか。
もしくは、考えても思いつかなかったらしい。
「仕方ないわね。それよりこの書類は、どこから手に入れてきたの」
「猫女」
「……ああ、中庭にいつもいる。彼女にだって、名前くらいあるでしょ」
そういう割には、自分から名前を言わない元野。
名前より、その存在が有名な少女らしい。
「学校や生徒会と交渉するにしても、証拠がないと」
「そんな、悠長な」
「知らないと言わればそれまでなの。猫女でも女狐でもいいから、情報を仕入れてきなさい」
ベッドに寝転び、長い素足を床へ垂らすサトミ。
柳は若干気恥ずかしそうに、そこから顔をそむけている。
「浦田君」
「どうかした」
「あれ」
遠慮気味に指差す柳。
雑誌を読み、寝返りを打つサトミを。
薄手のトレーナーに、ホットパンツ。
暖房が効いているので、風邪を引く事はない。
「あの本がどうかした」
「本じゃなくて、格好だよ」
「露出狂なんだろ」
鋭い勢いで飛んでくる雑誌。
浦田は頭で受け止め、投げ代えそうとしたのを柳に止められた。
「危ないよ」
「危ないって、俺の頭に当たったのを見てなかったのか」
「いいじゃない。本くらい」
「俺は良くて、この女は駄目なのか」
怒りに満ちた顔で、雑誌を丸める浦田。
しかし柳をそれで殴る訳ではなく、「あー」と叫びながら壁を叩き出した。
「うるさいわね。本が傷付くから、変な事しないで」
「誰のせいで」
「あなたが、私をさらうからでしょ。夕食は、お寿司お願い。わさびは少なめで」
「この野郎。その内、毒まんじゅう仕込んでやるからな」
舌を鳴らして部屋を出る浦田。
サトミは気にせず、柳に言って床へ捨てられた雑誌を取ってもらっている。
「寿司屋に出前だ。サビ少なめで」
「寿司、ね」
人数分を注文する、人の良さそうな少年。
彼はマグカップにお茶を注ぎ、浦田へと差し出した。
「どうぞ」
「あの女、むかつくな」
「他の人をさらう事は、考えなかったの」
苦笑気味に指摘する少年。
私服ではなく、草薙高校の制服。
学校が派遣したという生徒らしい。
「馬鹿をさらっても仕方ない。例えば、あんたの所の生徒会長とか」
「遠野さんはファンも多いから、気付かれたら問題が大きくなるよ」
「そうならないよう、内密に進めてる。心配しなくても、外部に漏らす真似はしない」
「当然だよ。大体、僕は好きで協力してる訳じゃない」
毅然とした態度で返す少年。
浦田はさして関心を示さず、学校と生徒会で行われている協議のレポートを手に取った。
「まだがたがたやってるのか。こっちは人質を取って有利なんだから、一気に押し切れよ」
「君としては、長引いた方が色々と助かるんじゃないの」
「金銭的にはそうさ。ただ、旅館の予約はもう取ってあるんだよ」
どこまで本当か分かりにくい答え。
少年はため息を付き、カレンダーへ目をやった。
「何か、予定でも?」
「僕は別に。でも、遠野さんはどうかなと思って」
「情に流されると、後で辛いぞ」
「僕は傭兵じゃなくて、ここの生徒だから。情に流されて当然なんだよ」
「あ、そう。とにかく貧乏くじを引いたと思って、諦めてくれ。生徒会に動きが合ったら、すぐ連絡を」
そう言い残し、玄関へ向かう浦田。
やがてドアの閉まる音がして、わずかな冷風がリビングに訪れる。
その間も少年は、浦田の指示通りに学校関係者へ幾つもの連絡を送る。
同じ学校に通う生徒がさらわれ。
その誘拐犯からの指示に従う状況。
だが自分という存在が、彼女にどれだけの安堵感を与えているかは彼も気付いているだろう。
だからこそ逃げられないし、おかしな真似をしようがない。
それを見越しての人選。
人の善意を逆手に取った。
また、あの男ならやりかねない……。
「証拠って何よ」
「学校が、遠野さんをさらったっていう証拠かな。それか、あの男を雇ってるっていう」
「どうやって調べるの、そんな事」
当然の結論に辿り着くユウ。
玲阿は肩をすくめ、もたれていた壁から窓へ視線を向けた。
「まだいるかな、あの人」
「猫女?お金がもったいないよ」
「知ってれば、あるだけ払うさ」
「玲阿君」
苦笑とも感動とも付かない表情を浮かべるユウ。
一方の四葉は、切なげに財布の中を覗き込んでいる。
「いいって。そうそう、あの女に頼ってても仕方ないし」
「それはそうだけど、手段がどうこうって言ってる場合でもないだろ」
「まあね。ただ、もう少し自分達でやった方がいいとも思う。あまり他に協力を求めると、それだけ大勢の人に知られるから」
「ああ」
職員室の隣にある、教員用のトイレ。
そこに、ジャージを着た横柄な感じの男が入ってくる。
鼻歌交じりで、竹刀を担ぎなら。
窓が開き、冷たい風が吹き込んでくる。
黒い影と共に。
声にならない声。
剣道3段、柔道4段。
全ては単なる、肩書きとして片付けられる。
洋式トイレを覗き込む格好で腕を取られる男。
ドアには鍵が掛けられ、喉が圧迫されているため声も上げられない。
「傭兵を雇ってるのは、お前か」
くぐもった声。
返ってこない返事。
「ハイなら一度、イイエなら二度指を振れ」
一度だけ振られる指。
質問が再度繰り返され、指が一度振られる。
「雇ったという証拠になる物は。領収書か、契約書か、銀行の口座か」
二度振られる指。
すぐに体が震え、顔がトイレへと近付けられる。
「よく考えろ。証拠になる物は持ってるか」
二度振られる指。
同時に男は開放され、悲鳴も上げず床へ崩れ去った。
「駄目か」
口元を覆っていたハンカチを取り、舌を鳴らす玲阿。
その視線は、即座に上へと上げられる。
「お前……」
「荒い手口だな。大体、聞き方が悪いんだよ」
隣のトイレから壁越しに顔を覗かせ、低く笑う浦田。
どうも、この学校の制服を着てるらしい。
「まさかと思ったら、本当にやるとは。正直というか、考えがないというか」
「何だと」
「ここで暴れると、まずいのはお前の方だぞ。足元に転がってるそれはどうする」
笑いながらの指摘。
確かに目的はともかく、結果として暴行と傷害になっている。
「さてと」
おぼつかない動きで壁を乗り越えてくる浦田。
彼は床に転がっている男をボディチェックして、財布らしい物を取り出した。
「どうする気だ」
「正規の報酬だけじゃ、心許なくて」
「泥棒だろ、それは」
「今さら、何を」
紙幣とクレジットカードだけを抜き取り、免許証や何かの会員カードが燃やされていく。
「おい」
「何だよ、免許証が欲しかったのか。足が付くから、使いにくいのに」
「そうじゃなくて」
「細かいな。とにかく、ここを出るぞ」
廊下を歩く玲阿。
自然と集まってくる女生徒からの視線。
かなり、熱に浮かされたような。
「お前、こんな所にいてもいいのか」
「情報収集も必要なんだよ。俺は目立たないから、丁度いい」
皮肉っぽい笑い方。
確かに視線を浴びているのは玲阿だけで、浦田に注目するものは殆どいない。
元々地味な顔立ちなのもあるし、眩く輝く宝石の隣りにチリが落ちていても気に留める者がいないのと同じだ。
見えていても、気には留めない。
「あの、可愛い顔をした奴は」
「目立つから、連れてきてない」
「色々考えてるんだな」
「お前が、考えて無さ過ぎなんだ」
一言で切って捨てる浦田。
彼は薄い笑顔を浮かべ、人気のない廊下の方へと歩みを変えた。
「おい」
「色々忙しいんだよ。変に首を突っ込むと、退学になるぞ」
「だからって、放っておっていうのか」
「知るか。じゃ、またな」
学校から程近いファミレス。
床に置かれるバッグを交換する男女。
「サトミは?」
「元気だよ。浦田君を、使いっ走りにしてる」
「何、それ」
苦笑するユウ。
そういう事もあるだろうという顔で。
「あなたが、柳君」
「ええ。こんにちは」
明るく、きらめくような笑顔。
元野もはにかみ気味に微笑み返し、テーブルの上で指を組んだ。
「遠野さんを開放出来ないの」
「浦田君がいいといえば」
「あなたの意思で」
「無理だね」
短い、だが明確な拒否。
そこには、わずかな揺らぎもない。
「自分で考えようとは思わないの」
静かな、詰問にも似た問い掛け。
柳は気にした様子もなく、首を振った。
「浦田君が何をやっても、僕は付いていく」
「どうして」
「友達だから」
たった一言。
全ての正論も理屈をも従わせる。
「どうして友達って聞くのは、愚問かな」
「遠野さんを助けようと思うその気持と同じだよ。危ないと分かっていても、やってしまうそれと」
「私は、彼女の友達じゃないの」
「そうかな」
すぐに、「そうよ」と言い返す元野。
柳は優しく笑い、チョコムースを頬張った。
「素直じゃないの、この子」
「だ、誰が」
「照れないでよね、もう」
「人のケーキを食べないで」
気にしないとばかりに笑い、バナナクリームのコーティングされたケーキを口に運ぶユウ。
元野はため息を付き、ホットコーヒーをスプーンでかき混ぜた。
「大体さ。あの男は何者なの」
「見たままだよ。高校2年で、大学卒業資格を持ってるくらいかな」
「いつも、ああいう事をするの?」
「場合によるね。でも遠野さんには何もしてないし、味方には優しいよ」
疑わしそうな顔になる二人。
また考えなくても分かるが、サトミは味方ではない。
「敵に対しては?」
「すぐに言う事を聞けば、何の問題もない。聞かなかったら、ゆっくり後悔すればいい」
「そういうのを、何度も見てきた?」
可愛らしい、だからこそ迫力のある笑顔。
柳はフォークに付いたクリームを舐め、ケーキを切った。
さながら固い物を切るナイフのように、スポンジの形を崩さないまま。
「ただ、僕達みたいな人間を求める人がいるのも事実だから。現に、今のように」
「辞める気は無いの」
「そういう事を思わなくはない。でも、受け入れてくれる所がないから」
薄い、どこか寂しげな笑顔。
ユウは思い詰めた顔をして、少し身を乗り出した。
「だったら、この学校に転校してきたら」
「雪野さん?」
困惑気味な声を出す元野。
柳は明らかに困った顔をして、彼女を見つめる。
「サトミの事がどうって訳じゃなくて。いつまでも、ふらふらとしてる訳にもいかないでしょ」
「そうだけど。簡単に決められる事でもないよ」
「どうして」
「どうしてって」
言葉に詰まる柳。
自分でも、理由が思いつかないという顔で。
「とにかく、考えておいて」
「え」
「じゃ、またね。元野さん、行こう」
「レシートも持っていってよね。あの子も、悪気はないの。というか、何も考えてないのよ」
マンションのリビング。
ぼんやりとTVを眺める柳。
TVの前に、ただ座っているだけにも見えるが。
「どうした」
「ん、別に」
変わるチャンネル。
それでも、柳の雰囲気は変わらない。
心ここにあらずといった風情は。
「連中に、情が移ったとか」
「鋭いね」
「それが分からないようなら、こういう仕事はやってない」
責めるでもなく、暇そうに欠伸をする浦田。
一方の柳も言い訳めいた事は言わず、TVを眺めている。
「分からなくもないよ。あの連中なら」
「転校しろって言われた」
「そうすればいい。無理して渡り鳥を続ける理由もないし」
「浦田君は」
今度が浦田が口を閉ざす。
無言の答えとして。
「渡り鳥を続ける理由はないんでしょ」
「辞める理由もない」
「今度のがきっかけとは思わない?」
「別に」
淡々とした、何の感情も表さない口調。
怒りも苛立ちもない。
物静かで、思慮深い表情の他は何も。
「僕がいなくて、困らない」
「困ると言えば困る。でも、柳君の自由を妨げる気も無い」
「……いいよ。僕は浦田君と一緒にいるのが好きなんだから」
「誤解しそうだな」
鼻で笑う浦田。
彼にしては珍しく、はにかみ気味に。
柳も嬉しそうに、そんな彼を見つめている。
「……何してるの」
至極冷静に声を掛けるサトミ。
浦田はそれ以上に真面目な顔で、柳の肩を抱いた。
「友情を確認してただけさ」
「愛情、じゃなくて?」
「そうかもね」
可愛らしい笑顔で答える柳。
人を疑わない、思わず微笑み返してしまいたくなるような。
「悪魔に騙されてるかもよ」
「いいよ。浦田君なら騙されても」
「重症ね」
肩をすくめるサトミ。
二人は構わず、肩を組んだまま歌まで歌い出す。
「うるさいわね。近所迷惑よ」
「大丈夫、ここは防音だから」
「お酒も飲まないで、何をやってるんだか」
「飲めないんだよ、僕達は」
何故か拳を突き上げる二人。
意味は分からないが、気分が高揚してきたらしい。
「分かったから、いい加減私を開放してくれない」
「3食昼寝付きで、何が不満なんだ」
「たまには外にも出たいのよ」
「善処はする。とはいえ、生徒会の出方次第さ。向こうは案外、おたくがいない方が気楽なのかも」
「それは生徒会の事情でしょ。私には関係ないわ」
辛辣な指摘に動揺した素振りも見せず、耐熱グラスに牛乳を注いで電子レンジに入れた。
「インドア派なんだし、別にいいだろ」
「私に自由はないの」
「あるか、人質に」
鼻を鳴らす浦田。
サトミは暖まったグラスに口を付け、それを彼へ差し出した。
「いらん」
「あら。私の飲み差しは嫌?」
薄い、だからこそ映える端正な笑み。
しかし浦田はわずかに心を動かされた様子もなく、邪険に手を振った。
「そんなに暇なら、明日学校に連れて行ってやるよ」
「何する気」
「顔見せさ」
土曜日。
校舎内に人影はなく、グラウンドや体育館の付近にジャージやユニフォーム姿の生徒がいる程度。
そんな中、気楽な表情で校舎へと入っていく浦田。
その前を歩くサトミは、前髪をかなり垂らし顔を見せにくくしている。
服装は厚手のブルゾンにジーンズ、それに茶のキャップ。
ボディラインも分かりにくく、知り合いでないと誰かを判別するのは難しいだろう。
「あなたこそ、こんな所に出入りしてたら捕まるんじゃなくて」
「そのための人質だって言ってるだろ。えーと、ここか」
生徒会室とプレートの掛かったドアをノックする浦田。
少しの間があり、神経質そうな顔立ちの男性が出迎えた。
「どちら様ですか」
「学校に雇われてる傭兵だ」
「え」
「心配しなくても、危害を加えるつもりはない」
軽く肩を付き、バランスを崩させてその隙に中へと入り込む。
ドアはすぐに柳が閉め、そこを背にして姿勢を正す。
「こっちも、そう暇じゃないんだ。早く交渉を終わらせてくれないかな」
「そう簡単に学校の要求は呑めません。これは僕の一存で決める事でもないし、第一一般生徒が」
「普通の生徒は、リベートを受け取らないし接待も受けないだろ」
息を呑む男性。
サトミはキャップの鍔越しに、眉をひそめている。
「君個人への報酬を、いくらか上乗せするよう学校には伝えておく。ただしこれ以上時間稼ぎをするようなら、こっちにも考えがある」
「ど、どうするつもりです。ぼ、暴力に訴えるとでも」
「交渉さえまとまれば、君の口座に金が降り込まれるだけだ。その事だけ考えてろ」
男性のメガネを横からつつき、鼻で笑い部屋を出ていく浦田。
サトミはすぐ後に続き、柳は男性を見る事もなくドアを閉める。
残されたのは男性と。
重く、永遠に続くと思えるような沈黙のみであった……。
「脅迫じゃないの」
「こっちは、営利誘拐をしてるんだ。後は人を殺さない限り、何をやっても同じさ」
「そう。とにかく、私も交渉を早く終わらせるのは賛成ね。あなたと顔を付き合わせてても、何一つ面白くないから」
「そうだよね」
しみじみと呟く柳。
浦田は舌を鳴らし、彼へと視線を向けた。
「っと」
「どうかした?」
「ごつい連中がぞろぞろ来た。練習なら、外でやれよな」
少しして聞こえてくる、幾つもの足音。
彼等を通り過ぎる、道着姿の男達。
その後方にいた、ジャージ姿の横柄そうな男が振り返る。
手にした竹刀を、浦田へと向けて。
「お前、ここの生徒か」
「ええ、まあ」
曖昧な返事。
何かを感じ取ったのか、男は目を細めて浦田とその後ろにいる二人へ視線を注いだ。
「休みなのに、何の用だ。大体、制服はどうした」
「正門を通り掛かった時、進路指導の事で先生に声を掛けられたので。まさか、そこから着替えに帰るのもなんですし」
あった事のように話す浦田。
しかし辻褄は合う説明に、男は陰険な顔をして頷いた。
「これからは、制服で来い」
「分かりました」
「それとお前も、帽子くらい取れ」
サトミへと向けられる視線。
浦田へのそれとは違う、狡猾で下品な感じの。
またその意図を表すかのように、男の手がサトミへと伸びる。
「……なんだ、お前は」
彼と、サトミの間に立ちはだかる影。
華奢で、しかし焼けた鋼を思わせる強烈な威圧感。
思わず、男が後ずさりする程の。
「教師に、逆らう気か」
「うるさい野郎だな」
「何だと」
「お前がだ」
顎をしゃくる浦田。
振りかぶられる竹刀。
その首筋に振り下ろされるかかと。
「馬鹿が」
浦田は鼻を鳴らし、男のジャージをずり下げて膝の部分で固く結んだ。
おおよそ、どうやってもほどけないくらいに。
当然、下着も下ろされている。
「どっちが馬鹿なのよ。後で、警察に通報されても知らないわよ」
「女の子にちょっかい出したら、下着を脱がされたんですって?」
ポケットから財布を抜き取り、やはり紙幣だけを抜き取り残りを燃やす。
「後は、キャバクラの割引券か。はは、こんなのもある」
声を出して笑う浦田。
もう少し過激なサービスの風俗店の割引券を見つけたらしい。
「携帯は……。はは、女子中学生だって。騙されてないか、こいつ」
「いいじゃない。本人が楽しいなら」
「それもそうだ」
妙に納得して、そのメールを表示したまま廊下の真ん中へ置いた。
「そんなに面白い?」
「そうでもない」
普通の表情で、そう返す浦田。
ただし好きでなければ、ここまではやらないだろう。
「さてと、やばい連中に会わないうちに帰るかな」
「ックシュ」
くしゃみをするユウ。
噂をすればという訳ではなく、暖かい建物から外へ出たためだろう。
「寒いな」
苛立ち気味の声。
怒る事柄ではないが、精神的にそういう気分らしい。
「大体、じっとしてるって言うのが」
「暴れても仕方ないだろ」
やや抑え気味に返す玲阿。
ユウは低く唸り、肉まんにかじりついた。
すぐに緩む表情。
分かりやすい性格ではある。
「サトミは、ちゃんとご飯食べてるのかな」
「昨日は、焼き肉でも食べてるんじゃないのか」
まなじりを上げるユウ。
玲阿はびくりとして、身を強ばらせた。
「何よ、それ」
「言った物を食べられるって聞いてないのか」
「食べ物の話なんてしないもん。あの女」
誰に怒っているのかという話。
焼き肉の話を聞きながら、肉まんをかじっていれば致しかた無い面もあるが。
「あっ」
「どうした」
「サトミがいた」
「どこに」
彼等の目の前を過ぎていく、黒のワゴン。
助手席に見えるのは、キャップを深く被った前髪の長い女性。
その姿は、すぐに二人の前から消えて無くなる。
「……止まった」
「信号待ちか」
「くっ」
いきなり駆け出すユウ。
その姿も、玲阿の前から掻き消える。
「早いな……って。感心してる場合でもないか」
交差する信号が青から黄へ。
そして赤へと変わる。
行く手の信号は、当然青へと。
「どうする」
「渡った先で止めて。聞こえたか」
ドアを開け、声を掛ける浦田。
行く手に立ちはだかっていた玲阿は、小さく頷き車と並んで走り出した。
「車と勝負して、勝てると思ってるのか」
「フロントガラスくらいは割れる」
「そのくらいの知恵は働くんだ。それとも、そういう事に慣れてるとか」
「いいから、遠野さんを降ろせ」
窓越しに手を伸ばす玲阿。
浦田はパワーウィンドウを上げ、その腕を挟み込んだ。
「落ち着けよ。柳君、止めて」
「了解」
「さてと」
ドアを開け、腕を挟んだままの玲阿に笑いかける浦田。
無理に抜けない事もないだろうが、その隙を突かれるのを警戒してか彼を牽制したまま腕を押さえる。
「相棒はどうした」
「後ろを見ろよ」
「フェイクって訳でも無さそうだな」
上げられる手。
首筋に当てられる、小さな拳。
だがその危険性は、十分理解しているらしい。
「サトミを返して」
「交渉が済めば、のしを付けて返す」
「ふざけてる場合じゃないのよ」
「それは俺の台詞だ。ここで車を走らせたら、どうなると思う。ガードレールと並行して」
腕を挟まれたままの玲阿。
格闘技の熟練者といえど、車と争う事は想定していない。
強引に腕を引き抜く事が出来たとしても、その間に別な意味で腕が抜けかねない。
「で、何か用かな」
「このっ」
「柳君」
すっと前に出る車。
それと並んで走る玲阿。
今度は車がバックして、玲阿も後ずさる。
速度は遅いので十分付いて行っているが、加速されればそれまでだ。
「はは」
笑う浦田。
それも、心底楽しそうに。
車の動きに合わせて動いていた玲阿が、足を踏み切り車の屋根に飛び乗ったのだ。
これで少なくとも、車に押し潰されたり引きずり回される事はなくなった。
「猫みたいな男だな。柳君、窓を開けてやって。車が壊されたら事だ」
開くパワーウィンドウ。
玲阿は素早く腕を引き抜き、車から飛び降りた。
その隙に柳は車を加速させ、次の角まで走り去った。
「という訳さ。俺よりも、生徒会にプレッシャーを掛けてろよ。そうすれば、彼女もすぐに返す」
「あなたの言いなりになれとでも?」
「手段を選んでる場合でもないだろ。それに、生徒会へ義理がある訳でもあるまいし」
鋭く、的確な指摘。
唇を噛みしめるユウから距離を置いた浦田は、腰を押さえて車へ向かって手招きした。
「骨が折れたかと思った」
めくられるシャツ。
腰の部分についている、赤いあざ。
ちょうど、ジャケットの下にあった警棒を抑える格好での。
「よく、隠してあるって分かったな」
「うるさい」
「あ、そう。じゃ、さっきの事は頼む」
後ろを警戒する様子もなく、ゆっくりと助手席に乗り込む浦田。
車も急加速をする事もなく、滑るような動きで走り去っていく。
「どうして、高校生が車を運転してるのよ」
「どうして車を持ってるかって話でもあるな」
「あんなのを相手に、どうしたらいいの」
「どうにかするしかないだろ」
低く、頼りなげな口調。
ユウはそれも聞こえないのか、拳を固めたまま車道に立ち尽くす。
車の走り去った彼方を見つめながら……。
「挑発したの」
「まさか。あんな所にいるなんて知らないし、車に追いつけるなんて想像もしてない」
苦笑した浦田は、スプレーを手にして腰に吹きかけた。
痛いのか冷えたのか、顔がさらにしかめられる。
「……と、来た。交渉の終結が近いだって」
「学校からのメール?」
「そろそろ、帰る準備をした方がいい。俺も、荷物をまとめようかな」
リビングから消える猫背。
サトミはその背中に険しい眼差しを送ながら、茶のキャップを脱いだ。
「浦田君が、どうかした」
「何でもない」
素っ気ない返事。
微かに顔を曇らせる柳。
気まずそうに顔をそむけるサトミ。
人質と犯人。
それ以外の関係ではない。
少なくとも、建前は。
「私も、そろそろ帰れそうだし」
「交渉がまとまったの?」
「らしいわ。あなたとも、これでお別れね」
優しい笑顔。
さらに顔を曇らせる柳。
言葉は何も出てこない。
でもそれ以上に語られる感情。
心の内。
「僕は」
「あまり思い詰めない方がいいわよ」
「そうだね」
薄く笑う柳。
寂しく、切なげに。
サトミは黙って、床に視線を落とす。
静かに過ぎていく時。
沈黙と、人の思いを乗せて……。
「交渉がまとまったそうよ」
淡々と語る元野。
ユウは視線を上げ、くわえていたたい焼きを彼女に突き付けた。
「じゃあ、サトミは開放されるの」
「あの男が、約束を守るタイプなら」
はかばかしくない返事。
ユウは首を傾げ、分からないと呟いた。
「でも、柳君なら」
「彼は、あの男の言いなりじゃなくて?」
「そうとも言い切れない。……そう思いたい」
携帯を手に取るユウ。
通話相手はサトミらしく、今元野から聞いた話を簡単に説明している。
「柳君いる?……うん、代わって。……あ、私。……そう、そうなの。……そう、だからサトミを出来るだけ早く。……分かった。……いいよ、うん。……そうだね。……うん、じゃまた後で」
「どうだって」
「相棒に話してみるって。出来れば、今日中に開放してくれるとは言ってた」
「信用出来る相手?」
静かな問い掛け。
わずかな時間。
しかし、重く長く感じられる瞬間。
「出来る」
小さく、はっきりと言い切るユウ。
元野は何か言いたそうに彼女を見上げ、やや大袈裟に肩をすくめた。
「知らないわよ、何があっても」
「でも、彼を信用する以外方法はないから」
「あなたの言いたい事は分かるけど。難しい話ね」
「簡単よ。彼を信じればいいだけなんだから」
同じ台詞を繰り返すユウ。
さながら、自分へ言い聞かせるように。
「……掛かってきた。……うん、私。……そう。……分かった。……うん、いいよ。……うん、また」
「今度は?」
「5時に、駅前でサトミを引き渡すって」
「案外あっさりしてるのね」
当然とも言える反応を示す元野。
ユウも喜びと不安の入り交じった顔で、携帯を握り締めている。
壁に掛かった時計は、午後4時過ぎを指し示す。
彼女達に策を考える時はない。
また、それを見越しての時間指定か。
そして彼女達に、選択肢はない……。
帰宅時間とあって、それなりの賑わいがある神宮駅前。
とはいえ南側にある寂れきった商店街へ向かう者は少なく、大抵の者はそれ以外の方向へと歩いていく。
シャッターの降りた店が幾つも並び、活気も人気もない。
大通りに面し、その正面は熱田神宮。
しかしこの寂寥感は、いかんともし難い。
「寂しい所だな」
鼻で笑う浦田。
彼と向かい合っているユウ達はくすりともせず、険しい顔をするだけだ。
「名古屋って、どこもこうなのか」
「そんな事は、どうでもいいでしょ。早く、サトミを」
「事情が変わってね。また生徒会がごねだしてさ。それが片付くまで、彼女は預かる」
一転して厳しい声を出す浦田。
咄嗟に身構える玲阿を見て、彼はブルゾンのポケットに手を入れた。
その隣には、無表情のサトミがいる。
「動くなよ。銃じゃないけど、人一人くらいは軽く倒せる」
「このっ」
「だから、動くなって」
ポケットの中で動く手。
ナイフ、スタンガン、薬品。
どちらにしろ浦田はサトミに寄り添うくらいの位置に立っている。
一方の玲阿は、商店一軒分近くの距離がある。
ここで動けばどうなるか、深く考えなくても分かるだろう。
「という訳だ。何かあったら連絡する」
ガードレールをまたぎ、停めてあった車のドアを開ける浦田。
彼に促され、相変わらず無表情のままサトミもガードレールをまたぐ。
「それじゃ、また」
前のめりに倒れる体。
小さく聞こえる呻き声。
素早くガードレールを越えるサトミ。
ユウが彼女に手を貸し、玲阿がガードレールを飛び越える。
「……どういう事」
サトミの肩にコートを掛け、不安そうに尋ねるユウ。
玲阿は構えを解き、ため息混じりに浦田を見下ろした。
「いつまでも、こんな事をしてても仕方ないから」
冷たい北風が声を流す。
切なく、淡い呟きを。
柳は弱々しく微笑み、固めていた拳を開いた。
浦田の鳩尾にめり込ませた、その拳を。
「早く行って。浦田君が、目を覚まさない内に」
「あなたは、それでいいの」
短く、心を込めて尋ねるサトミ。
柳はやはり、薄く微笑むだけだ。
「柳君」
「僕の居場所は、どこにもないよ。もう」
「全くだ」
意外というくらい、俊敏な動きで起き上がる浦田。
左手にはスタンガン、右手は腰に添えて。
前の開いたブルゾンの隙間から見える、クリーム色の服。
簡素なプロテクターのようだ。
「まさか、こういう事になるとは」
自嘲気味な呟き。
しかしやけになった様子はなく、表情は普段通りの怜悧さを宿している。
「浦田君、もういいよ。もう」
「何が」
「何もかもが」
声を荒げ気味に返す柳。
浦田は視線を落とした彼をじっと見つめ、鼻を鳴らした。
「分かった。じゃあ、好きにしてくれ」
「好きって、何が」
「何もかもがさ」
しまわれるスタンガン。
薄い、消え入りそうな微笑み。
優しく、人を見守るような。
「僕に、ここへ残れって」
「さあね」
「初めからそれを分かってて、今日ここに」
背を向け、車道を強引に横切っていく浦田。
振り返る事もなく、何かを言い残す事もなく。
「柳君」
返事はない。
俯き、肩を震わせ、ただその場に立ち尽くす。
「柳君」
「……ごめん」
駆け出す柳。
走ってきた車の列を機敏にかわし、ユウ達に手を振りながら。
彼の姿は中央分離帯を過ぎ、反対車線へと消えていく。
「……どういう事」
「こういう事よ」
手の平を、上に向けるサトミ。
夕闇。
微かに西へ赤みが残り、空は紺から漆黒へと色を変えていく。
街に灯る、無数の輝き。
それに照らされながら、舞い降りてくる粉雪。
空は晴れ渡っている。
おそらくは、風に乗ってやってきたのだろう。
「ホワイト・クリスマスね」
「ああ、今日はイブ」
小さく頷くユウ。
サトミは彼女の肩を抱き、反対車線へ視線を向けた。
「どうかしたのか」
「ううん、別に。可愛い子だったなと思っただけ」
「惚れたとか」
「馬鹿じゃない」
容赦なく拳を叩き込むサトミ。
不意を突かれたらしく、玲阿は小さく呻いて鳩尾を押さえた。
「さてと、早く帰ろうかな」
「え。ご飯くらい、食べに行こうよ」
「また、今度ね」
「またって、今やっと会えた……」
ユウの言葉を振り切り、駅の方へ駆けていくサトミ。
その後ろ姿はやがて、雑踏の中に消えて無くなる。
「何よ、あの女。人の苦労も知らないで」
「とはいえ。俺達が何かやった訳でもないし」
「そうだけどさ」
文句を言いつつ、ゆっくりと駅の方へ歩き出す二人。
雪を肩に積もらせ、少し寄り添って。
温かで、優しい笑顔をお互いに向けながら。
「どうした」
「友達だから」
「不意打ちを食らわす友達、ね」
「予想してプロテクターをしてたんだし、同じだと思うけど」
屈託無く笑う柳。
浦田は鼻を鳴らし、柳の頭に積もった雪を払った。
優しく、慈しむように。
「仕方ない。せっかくのイブだけど、男二人で寂しく過ごすか」
「僕は、それでも楽しいよ」
「俺も、楽しいけどね」
狭い路地に響く笑い声。
白い雪の舞う、特別な一日。
全ての人に、幸せが訪れる。
了
出演
雪野 ユウ 雪野 優 (ユウ)
玲阿 玲阿 四葉
遠野 サトミ 遠野 聡美
柳 柳 司
元野 元野 智美
手伝いの少年 木之本 敦
生徒会関係者 矢田 誠也
情報通の少女 舞地 真理依
浦田 浦田 珪 (ケイ)
エピソードx4 あとがき
クリスマスのストーリー。
今回は、アナザーストーリーとして書いてみました。
ユウ達が普通の高校生だったら。
ケイが傭兵だったら。
急ごしらえなので内容は浅いですが、私的には満足しています。
メインはケイと柳君とサトミ。
特にどうという話でもなく、舞地さんが笑えるくらいでしょうか。
他のキャラも出そうと思いましたが、そうなると収拾がつかなくなるので。
サトミとモトちゃんがあまり仲良くないのは、理由があります。
それはそれで一つ話が書けるくらいなので、本編などでその内。




