エピソード EX3(クリスマスエピソード) ~1年編・玲阿家編~
紡がれる思い
30畳はあるリビング。
落ち着いた色合いの、高級感を漂わせるソファーや家具。
ローボードの上には細かい細工の施された装飾品が幾つも並び、足の長い絨毯が床に敷き詰められている。
「何だ、これ。薄いな」
音を立ててジョッキを置き、年代物と思われるワインを注ぎ足す壮年の男。
短く刈られた髪と、精悍な顔立ち。
陽気さと、ふと感じる鋭さ。
ジョッキでワインを飲むという感覚から、彼の性格は自ずと推測される。
「高いんだから、程々にしなさい」
「その前に、体を気遣ってくれ」
へらっと笑い、男は一気に半分程を飲み干した。
彼をたしなめた穏やかな顔の男性もそれを受け取り、全てを空にする。
大きくたわむソファー。
優しげな雰囲気を漂わせてはいるが、前に座る男同様時折鋭い気配を放っている。
「あんたの息子は」
「レストランで、ディナーだと聞いている。イブですからね」
「けっ。色気づきやがって」
「あなたの娘と一緒にですよ」
苦笑する月映。
彼の弟である瞬はもう一度鼻を鳴らし、皿に盛られているチキンスティックを手づかみで食べ出した。
「夫婦だし、仕方ないか。で、俺達は仕出しの料理を食べると。こういう時は、家族揃って手料理だろ。普通は」
「悪かったわね、普通じゃなくて」
長い足を組み変え、ワイングラスを手の中で転がす綺麗な女性。
赤いセーターに紺のタイトスカートという出で立ちで、凛とした表情が瞬を捉える。
「冗談ですよ、鈴香さん。さ、御一献」
「馬鹿」
そう言いつつも、まんざらでもない顔で酌を受ける鈴香。
瞬はボトルの残りを全て飲み干し、それで肩を叩いた。
「しかしイブだってのに、盛り上がりに欠けるな」
「もう少し飲まれますか?」
「いえ、このくらいで」
ニヒルに微笑む瞬。
丸みのある体型の女性はくすっと笑い、持ってきた熱燗をテーブルの上へと置いた。
「済みません、お義姉さん」
「いいのよ。私は動いてる方が好きだから」
「血が、そうさせる?薙刀の達人、師範としての」
「さあ、どうかしら」
グラスを重ね合わせる女性二人。
瞬と月絵は肩をすくめ、サラダをちびちびと食べ出した。
「四葉はどうした」
重みのある声。
オールバックの白い髪。
まっすぐに伸びた背筋と、厳格さを感じさせる顔立ち。
和服が似合いそうな雰囲気であるが、半袖のポロシャツにコットンパンツという服装である。
「彼女の家さ」
「ああ、雪野さん」
「いいね、若い奴は。あそこの家はアットホームな雰囲気だし、俺も行きたいよ」
「お前は、幾つなんだ」
呆れ気味に彼をたしなめる男性。
「息子の年くらい覚えろよな、親父」
「そういう意味ではない」
「あ、そう。どうせ破門になった、馬鹿息子だよ」
「私に言うな」
冷静に言い返す父。
瞬はため息を付き、首を後ろに向けて壁に掛かっている写真を仰ぎ見た。
「あのじじいのせいで」
「お前の祖父でもあります」
「勿論、兄貴にもな。ったく、人の破門を解かないで死にやがって」
遠い、懐かしむような視線。
切なさの漂うリビング。
静かに響くBGM。
「父さんには、父さんの考えがあった。それをお前は弁えずに、勝手に飛び出したんだ」
「いや、違うね。あのじいさんが勝手に破門を言い渡してきたんだ」
「不毛な会話は止めて下さい。もう、お祖父様はいないんですから」
静かにたしなめる月映。
二人も分かっているのかすぐに口を閉ざし、グラスを手に取った。
傾けられる事のない、満たされたグラスを。
「瞬さんが戻ってきたのも、イブでしたよね」
「え、そうでしたっけ」
「全く。あなたは、本当に駄目なんだから」
「悪かったな。そんな昔の話なんて、覚えてるはずがないだろ……」
住宅街の一角。
「レイアン・スピリッツ」
の大きな看板が玄関の上に掛かった、トレーニングセンター。
受付の女性に挨拶をして、中へと入っていく二人の少年。
お互いあどけない顔立ちで、一人は小学校低学年といった所か。
「何やるの」
壁に貼られた、プロリーグのポスターを見上げながら尋ねる端正な顔立ちの少年。
彼よりは年長の、中学生くらいの少年はその壁を拳で叩きにやりと笑った。
「寒稽古さ、寒稽古」
「それは、正月にやるんじゃないの」
「お前は真面目な奴だな。いいんだよ、いつだろうと夏だろうと」
相当にふざけた答え。
端整な顔立ちの少年は表情を曇らせ、歩みを緩めた。
「心配するなって。話はしてあるから」
「う、うん」
「お前も、ここはたまに来るんだろ。四葉」
「そうだけど。大抵は父さんとだから」
疑わしげに視線を上げる四葉。
彼の従兄弟である風成は鷹揚に笑い、彼の肩を抱いた。
「いいんだよ。さあ、着替えるぞ」
マットの敷かれた、広いトレーニングルーム。
鏡張りの壁と、サンドバックやパンチングマシーン。
今もジャージ姿の男女が、ストレッチやスパーリングを繰り広げている。
そこへやって来た二人の側に、細身の男性が歩み寄る。
穏やかで優しげな顔立ち。
ジャージの胸元には、インストラクターを示すIDが付けられている。
「おや。風成さん、四葉さんも。今日は、どうしたんですか」
「年納めに、軽くやろうと思って。いいですよね、水品さん」
あどけない、だからこその勝ち気な表情。
水品は穏やかな顔を緩め、静かに頷いた。
「私とやりますか」
「それもいいかな。四葉、どうする」
「俺は、その」
「無理矢理連れてこられたという顔ですね。家での手伝いはいいんですか」
言葉に詰まる四葉。
風成は彼を肘で軽く突き、体を解し始めた。
「どうしてお前は、そう真面目なんだ」
「風成さんが、自由過ぎるとも思いますけどね」
「水品さんまで。とにかく、家には内緒って事で」
不意に伸びる、風成の足。
顎を引き、難なくそれをかわす水品。
合図も警告も無しの一撃。
子供とはいえ、その鋭さはここにいる練習生のレベルを越えているだろう。
「危ないですね」
余裕で笑う水品。
その言葉と同時に、風成は床へと崩れた。
「なっ」
「実戦なら、死んでますよ」
「子供相手に、容赦無しだな」
「不意打ちを仕掛ける子供が、何を言ってるんです」
風成を助け起こし、水品はドアへ視線を向けた。
「仕事がありますので、少し待ってて下さい。他のインストラクターとやっても構いませんが、玲阿流ではなくここのルールでお願いしますよ」
「了解。大変だなー、管理職は」
「他人事みたいに言って。あなたは、将来の玲阿家師範ですからね」
しっかりと釘を刺し、飄々とした足取りでドアを出ていく。
それを見送った風成は、隣で体を解している四葉の耳元へ顔を寄せた。
「おい。気付いてるか」
「こっちを見ている子?」
「襲ってくるぞ。勿論、ご丁寧に声を掛けてな」
「やるの?」
咎めるような視線。
しかしストレッチは、さらに入念に続けられる。
ほんの子供。
物事のなんたるかを理解するには、まだ早い年齢。
それでもこれから起きうる事態を、彼は理解している。
育った環境。
それとも、血が。
「何だ、お前ら」
のっけからの、険悪な態度。
風成はのんきな顔で、後ろを振り返った。
「インストラクターの知り合いさ」
「練習生じゃないのに、でかい面するな」
「ガキが」
彼等を取り囲む、中高生風の男達。
「どうかしたのか」
遠くから声を掛けるインストラクター。
男達の一人が振り返り、笑顔で答える。
「スパーリングをやろうと思いまして。まだ準備があるんですよね。ここは、俺達だけで大丈夫ですから」
「ああ。すぐ戻る。君達、程々にね」
「分かってます」
怪訝な顔をする男。
インストラクター達が出ていったのを見届け、表情が一気に厳しくなる。
「程々って、何がだ」
「大体、あんな言葉遣いしたか?」
「知るか。それより」
四葉達へ向けられる視線。
険しい、敵意に満ちた。
「いいジャージ着やがって。誰の紹介だ、え」
「早く帰って、ママに甘えた方がいいぞ」
「その前に、金出せよ。こっちも年末で、大変でさ」
陰気な笑い声。
狭まる輪。
二人は平然とした顔で、その様を見つめている。
「お前ら、ここの人間じゃないだろ」
「どうして分かる」
「そういう馬鹿は、水品さんが許さない」
「ガキの割には、多少は頭が回るな。俺達は、見学者って奴さ。練習生にって誘われてるけど、弱いんだここの連中は」
再び上がる笑い声。
風成も、一緒になって笑っている。
「何がおかしい」
「お前らの馬鹿さ加減が。止めてくれるはずの、インストラクターまで帰して」
「ふざけるなよ。このガキ」
一気に膨らむ敵意。
ジャージのファスナーが開けられ、袖をまくる者もいる。
「……四葉、玲阿流の家訓は」
「引くなかれ」
「そういう訳だ」
「……これは」
穏やかな顔を微かにしかめる水品。
マットの上に崩れる、何名もの男達。
その中心には、息を整えている風成と四葉の姿がある。
「風成さん」
威圧感漂う、低く重い口調。
風成は小さく唸り、手を激しく動かした。
「そ、その。いきなり襲ってきたから、こちらも対抗上。な、四葉」
「引くなかれ」
「ば、馬鹿」
「二人とも。玲阿流の家訓もいいですが、この子達はまだ練習生にもなってないんですよ」
ため息を付き、ドアを入って来るなり目を丸くしたインストラクター達に手当をするように告げる。
「こうなると責任上、練習生にしないと問題ですね」
「え、でも」
「イブの夜を、警察で過ごしたくはないでしょう」
「は、はい」
がくがく頷く風成。
四葉の方は事態が飲み込めていないのか、固い顔で荒い息を整えている。
それは肉体的な物ではなく、精神的な高ぶりから来ているのだろう。
「多少素行に問題がありそうな連中でしたし」
「あ、知ってたんですか」
「勿論。だから軽くあしらって、お帰り願おうと思ったんですが」
「い、いいじゃないですか。練習生が増えれば、入会金も練習費も入ってくるんですから」
「治療費も掛かりますよ」
冷静に指摘し、意識のない男達へ活を入れていく。
「彼等には私から話しておきますから、早く帰りなさい」
「あ、はい。じゃ、そういう訳で」
「引くなかれ」
「馬鹿。もういいんだよ」
ぶつぶつ言う四葉の手を引き、慌てて出ていく風成。
優しい笑顔でそれを見送った水品は、腰を屈めて男達の一人に話し掛けた。
「君達は、今日からここの練習生です。いいですね」
「ど、どうして。お、俺は」
「今度は、私が相手になりましょうか」
目の前から消える拳。
次の瞬間、男の頬には水品の腕が当てられている。
拳はその頭を打ち抜いた、遥か彼方の位置へと。
真っ青な顔で、激しく頷く男。
他の者も、床から同じような顔でその様を眺めている。
「まいったな」
「先生、どうかしたんですか」
「あ、雪野さん」
苦笑して振り向く水品。
そのまま腰を落とし、幼い少女へと目線を合わす。
可愛らしい顔立ちの、小柄な女の子。
自身の全てを教えている、愛弟子とも呼べる存在へ。
高級マンションの地下駐車場へ入っていくバイク。
四葉は後ろから飛び降り、ステップを踏んで体勢を立て直した。
「あ」
小さく上がる、あどけない声。
バイクを駐車スペースに停めた風成は、ヘルメットを取って彼を振り向いた。
「どうした……。あ」
同じような声。
また、彼よりも低い姿勢。
「よう、人さらい」
鋭い眼差しを向け、あごを反らす男性。
スリムなダブルのスーツを着こなす、引き締まった体型。
襟のネクタイを緩めた男性は、その指先でバイクへと触れた。
「しかも、バイク泥棒か」
「ち、違うって」
「家の手伝いはどうした」
「そ、その。さぼった訳じゃなくて、体を鍛えに」
「水品から連絡があった。おぼっちゃま二人が、お暴れになってますと」
逃げる風成の襟首を掴み、浮いた足を刈って体を倒す。
手は襟首から顔へと動き、そのまま一気に床へと押し付ける。
「危ないな」
「少しは驚け」
「それはもう、信じてますから」
「お父さん、何してるの」
遠慮気味に、スーツの袖を引く四葉。
瞬はその頭を撫で、もう片方の手で風成を頭ごと引き上げた。
「風成、家に送ってやる。その前に、四葉は着替えろ」
「別に、汚れてないけど」
「正装って奴だ」
大きな木の門構えの中へと入っていく、一台の車。
駐車場に停まったそれから降りてくる家族連れ。
ダブルのスーツを着こなす瞬に、ブレザー姿の四葉。
赤いワンピースに同色のコートをまとった美少女と、黒いコートを羽織った彼女によく似た女性。
「何で俺だけ」
「お前は、ここの家の人間だろ」
「しかし、さ」
一人ジャージ姿の風成。
「いいの?」
不安そうに尋ねる美少女。
風成は鷹揚に頷き、道に沿って生えている大きな木の幹を拳で突いた。
「自分の家へ帰るのが、そんなにおかしいか」
「だってお父さん、破門なんでしょ。いつも、門はくぐらないじゃない」
「さらっと厳しいね、お前は。母親似だな」
睨み付けてくる女性の視線をかわし、次の木を突く。
揺らいだ枝が葉を散らし、彼等の上へと舞い降りる。
「でも、どうして急に」
「俺が知りたい。なあ、鈴香」
「さあ、どうしてかしら」
風が冷たいといった風情で、コートの肩を押さえる女性。
今度は彼女が、瞬の視線をかわす。
「あ、お帰りなさいませっ」
大声を張り上げ、深く頭を下げる大柄な男達。
「風成君、君は随分と大物だね」
「馬鹿ね。お父さんへに、決まってるでしょ」
「あ、そうなの?それは、ご丁寧にどうも」
一人一人の肩を叩いていく瞬。
男達は身を固めて、緊張しきった顔でさらに頭を下げる。
最後にもう一度挨拶をした男等は、最敬礼して瞬達を見送った。
「随分、大物でいらっしゃるのね」
皮肉っぽく笑う鈴香。
「知るか。しかし、よく俺の事なんて覚えてるな」
「まだ5年も経ってないのよ。あなたが、ここを出ていってから。私達を、置き去りにして」
「すぐ呼び寄せただろ。それに、じじいがお前らを手放さなかったから……」
「誰に対して、物を言っている」
錆を拭くんだ低い声。
オールバックの髪には白い物が混じっているが、眼光は鋭い以外の例えようがない。
決して長身ではない体から放たれる、強烈な威圧感。
しかし瞬は破顔して、陽気な調子で手を挙げた。
「よう、親父」
「少しは口の利き方を改めろ」
「破門になるような人間なんでね。兄貴とは、出来が違うんだよ」
「お前という男は。風成も、手伝いはどうした」
威厳その物といった声。
さすがに風成は身を小さくさせ、大人しく謝っている。
「説教はもういいよ。それより、誰が呼んだんだ」
「父さんだ」
「じいさんが?クリスマスプレゼントに破門を解くって柄でもないだろ」
「私も、よくは知らん。取りあえず、中へ入れ」
広いリビング。
上座の席に付く、老年の男性。
だがその威圧感は瞬の父をも凌ぐ迫力で、高そうな度数の洋酒をグラスごと飲み干している。
「アル中になるぞ」
「……瞬か」
リビングに入ってきた彼を睨め付ける、険しい眼光。
瞬は鼻先で笑い、男性に酌をしていた月映の隣へ座った。
テーブルに、白紙の巻かれた日本酒を置いて。
「この年で、病を気にしてどうする」
「違いない」
同じくグラスごとあおり、視線を合わす瞬。
「それで、俺に何の用だ」
「用などない。破門した男などに」
「じゃあ、帰らせてもらう。兄貴、またな」
「待ちなさい。お祖父様も」
立ち上がる彼の腕を押さえ、視線を父親へと向ける月映。
「何だ」
「今の当主はお父様なのですから、一言お願いします」
「お前という奴は。……老いては子に従えだそうです。父さん」
「勝手にしろ」
言葉とは逆に、上から下へと流れていく意志。
ややぎこちない空気ながら、他の者も席へと付く。
控えめなBGMと、軽い会話。
テーブルには豪華な食事と、高級な洋酒が幾つも並ぶ。
だが大人達の空気を感じ取ってか、子供達もそれ程箸は進まない。
「お前が出ていってから、何年になる」
「戦争が終わってすぐだから、4年、5年か?とにかく、そんなくらいさ」
「そうか」
静かにグラスを傾ける父。
瞬は肩をすくめ、大振りのロブスターを手づかみで食べ出した。
「女房子供はここにも来るんだし、問題もないだろ。さてと、少し酔い覚ましでもするかな」
広い邸宅内を歩いていく瞬。
スーツの上着はなく、ネクタイもかなり緩められている。
酔ったという言葉とは裏腹な、正確で規則正しい足運び。
やがて彼は、静まりかえった道場へと現れた。
照明はなく、高い位置にある窓からのわずかな光が青いマットを照らしている。
「多少は綺麗にしたのか」
床の感触を確かめつつ、周りを見渡していく。
先程までの醒めた表情は、そこにはない。
固く結ばれた口元、眉間に寄った皺。
拳は体に押し付けられ、床を踏みしめる一歩一歩に力がこもる。
苦悩、怒り、不安、悲しみ。
それだけではない。
喜び、嬉しさ、感動。
幾つもの感情の重なった、深い表情。
若い頃には思いもつかない、浮かびもしない。
時を経て、幾つもの経験を重ねた今だからこその。
「貴様も、そういう顔をするようになったか」
闇の奥から響く声。
瞬はスラックスに入れていた手を抜き、前髪へ触れた。
「いたのか、じいさん」
「わしが敵なら、死んでおったぞ」
「ここは戦場じゃない。それに俺は破門の身だ。玲阿流の道場だからって、襲われる義理もない」
静かな応え。
正座をしていた祖父はゆっくりと立ち上がり、彼の前へと歩み寄った。
「少しは、強くなったか」
「そんな事を聞くのは、あんたか親父くらいだ。俺はまだまだ、子供だって?」
「月映もな。貴様よりは、多少ましだが」
「世間の連中に聞かせてやりたいね」
鼻で笑う瞬。
祖父の方は、至って真面目な顔である。
「それで、どうして俺を呼んだ。今さら破門を解くって訳でもないだろ」
「わしは知らん」
「何だ、それは。ったく、ぼけじじいが」
跳ね上げた肘からの裏拳。
瞬はヘッドスリップでそれをかわし、懐へと飛び込む。
襟を掴み腰を落とすが、祖父の体はわずかにも動かない。
「石でも抱いてるのか?」
「その腕で、よく生きて帰って来れたな」
「白兵戦なんて、しょっちゅうあった訳じゃない」
拗ねたように答え、手を離す。
祖父はジャケットの襟を直し、静かに一歩踏み込んだ。
「っと」
「なるほど」
足の上に向けられた、瞬のかかと。
燃えるような視線をかわし合う二人。
お互いはどちらともなく距離を置き、張りつめていた空気を解いた。
「孫相手に不意打ちとはね」
「戦いを制する基本だ」
「武道とは、礼に始まり礼に終わるんだろ」
「世迷い言だな」
真顔で答える祖父。
一線を退いたとはいえ、古武道宗家の当主でもあった人間が。
「お父さーん。いないのー」
道場の入り口辺りから聞こえる、あどけない声。
「お父さん、どこ」
もう少し冷静な、しかし不安げな声。
四葉の姉である流衣は彼の手を引き、慎重に道場へと足を踏み入れた。
「お父さん……。大お祖父様」
丁寧に頭を下げる流衣。
それを見て、四葉もおずおずと頭を下げる。
「身内に頭を下げさせるなよな」
「わ、わしはその。流衣、礼などいいといつも言っておるだろうが」
「そうは参りません。年長者は敬われる物。まして自身の大お祖父様ともなれば、当然の振る舞いです」
流衣は真剣にそう語り、柔らかく笑った。
対して祖父は固い顔で、ぎこちなく頷いている。
「孫には弱いって話は聞くけど、ひ孫だともっと弱いのかね」
のんきに頷く瞬。
四葉は眠そうに目元を抑えている。
「お前は子供か……。って、子供だな。それで、何か用か」
「食事も片付けたから、遊んでないで戻ってきなさいって」
「人をガキ扱いしやがって。なあ」
「わしは、その。四葉、眠いのか」
先程までとはまるで違う、優しさを含んだ声。
苦笑気味な瞬の視線を気にしつつ、その頭を撫でる。
「眠いなら寝てろよ」
「わざわざ迎えに来てくれたのに、その言い方はなんだ」
「スパルタなんだ、俺の所は。先祖代々」
からかうような口調。
思わずといった具合に押し黙る祖父。
先程から、かなり押され気味である。
「こんな寒い所で、何してたの」
訝しそうに道場内を見つめる流衣。
瞬と祖父は何かを言いかけるが、ため息混じりに首を振った。
「お前に言っても分からん。なあ、四葉」
「え」
間を置いて返ってくる、くぐもった答え。
瞬は笑って、彼を担ぎ上げた。
「貴様こそ甘いじゃないか」
「親だからいいんだよ。流衣も、ほら」
「私を、幾つだと思ってるの」
「あ、そう」
寂しげな微笑み。
だが四葉の頬に顔を寄せ、すぐに表情が和らぐ。
「お姉ちゃんは、俺も嫌い。玲阿流も嫌いだって」
「お父さんを嫌いとは言ってないでしょ。玲阿流はともかく」
「流衣」
難しい顔でたしなめる祖父。
流衣は構わず、長い髪をかき上げた。
「歴史としては認めますけど、跡を継ぐという気はありませんので。そちらは、風成にお願いします」
「長子はあいつだから、そうなのだが。しかしな、流衣」
「大丈夫です、大お祖父様。この子がいますから」
父の胸で健やかな寝息を立てる四葉。
しかし祖父は即座に首を振り、瞬を指差した。
「気持はありそうだが、どうした訳か父の跡を継ぎたいらしい」
「お父さんの跡って、軍へ?」
「悪いかよ」
二人の視線を受け、子供のように言い返す瞬。
流衣はため息を付いて、柔らかそうな四葉の頬を突いた。
「馬鹿な子ね」
「お前、母親に似てきたな」
「お母さんの子供だもの。当然でしょ」
「じゃあ、こいつは俺に似る訳だ」
「似ないわよ」
厳しく返し、もう一度頬を突く。
「じいさん、あんたが吹き込んだじゃないだろうな。軍に行けって」
「わしは知らんぞ。確かにそういう家系ではあるが、時代が時代だ。そこまで、強制させる訳にはいかん」
「丸くなったね、随分。俺達には、絶対だとか言ってたのに。それとも、やっぱりひ孫には甘いのか」
下がってきた四葉を抱え直し、祖父を見やる四葉。
咎めるというよりは、からかうようにして。
「あんた、親父、兄貴と俺。で、こいつ。少なくとも、こいつは4代目か」
「その年になったらの話だ。子供は誰でも、そういう事を言う」
「こいつの事は、俺が一番知ってるよ。一度やると言ったら、何があってもやる男だって」
幼い、本当に子供の表情。
今も周りの会話にも気付かず、父の胸で眠りに付いている。
そんな彼を、男と呼ぶ父。
その二人を、遠い目で見つめる祖父。
「こいつが軍に入るとしても10年以上先の話だし、その頃には平和になってるさ」
「破門になったお前の子供だ。好きにしろ」
「するよ。お前は英雄なんて呼ばれなくてもいいからな。人の後ろに隠れて生き残るんだぞ」
「馬鹿が」
笑い合う二人。
それが聞こえたのか四葉が顔を上げるが、すぐに目を閉じて顔を胸へと寄せる。
「こんな所にいたら、風邪引くわよ」
呆れ気味に声を掛ける流衣。
開いた窓からは夜風が吹き込み、暖房など無い道場内は凍えそうな程に冷え切っている。
「仕方ない。じゃ、こいつを寝かせて帰るとするか」
「お父さん、泊まっていかないの」
「破門だからな」
「大お祖父様」
交互に向けられる、流衣の視線。
だがどちらも、口を開かない。
先程の張りつめた空気ではなく。
お互いの気持ちを理解し合う表情。
「馬鹿、もう。知らないから」
きつく睨み付け、足早に道場を出ていく流衣。
二人は苦笑気味に口元を緩め、彼女の後を追い始める。
「あいつは、本当に母親似だな」
「貴様がだらしないからだろう」
「悪い孫であり悪い息子であり、悪い父親って?そういう家系なんだろ」
軽く切り返し、胸元で眠る四葉を見下ろす。
笑い気味の、健やかな寝顔を。
「……こいつらの事を、頼む」
「セキュリティコンサルトなど止めたらどうだ。こうして家族まで危険に晒してまで、する必要があるのか」
「目の前で死んでく人間を、放って置く訳にもいかないだろ」
静かな、苦い口調。
視線に鋭さが増し、四葉を抱く腕に力がこもる。
「ここにいれば、確かにこの子達は安全だが」
「だろ。玲阿って名前が無い分、こっちは辛いけどな」
何か言いかける祖父に首を振る瞬。
「つまり、実力で勝負してるって訳さ。これがまた楽しいんだ」
「貴様」
「兄貴が望んでも出来なかった事。自分の望み通りに、家も許嫁も関係なく生きる事を俺はやってる。誰かが破門してくれたおかげで」
子供っぽい笑顔。
敬意と、思慕と、思いを寄せた。
「兄貴の場合は許嫁っていっても、知らずに付き合ってた馬鹿だけどな」
「馬鹿は貴様だ。先方を断るのに、どれだけ苦労したと思ってる」
「俺に言うな。大体親父だって、許嫁とは結婚しなかったって聞いたぜ」
「親子揃って、馬鹿が」
むくれる祖父。
しかし四葉が起きそうになったのを見て、すぐに声をひそめる。
長い渡り廊下。
道場とは違い暖房が入り、明るく照明が灯っている。
「ん」
その途中で、足を止める四葉。
全面がガラス張りとなっている両側の壁。
庭先の照明が、白いきらめきを映す。
夜空を染める、無数の雪を。
「ホワイトクリスマスか」
「玲阿家は、クリスチャンではない」
真顔で返す祖父。
瞬は肩をすくめ、四葉を軽く揺さぶった。
「ほら、雪だぞ、雪。……完全に寝てるな」
「寝かせてやれ。雪なら、いつでも見られる」
「あんたと一緒には、これが最後かも知れないだろ」
小さな、雪の空へと吸い込まれていくささやき。
四葉は眠そうな顔をゆっくりと上げ、微かに目を開けた。
「やっと起きたな。ほら、四葉」
「あ、雪」
嬉しそうに上がる、あどけない声。
冷たさも気にならないのか窓に手を当て、笑顔を浮かべている。
肩に舞い降りる雪。
瞬はそっと手を伸ばし、四葉の頭に積もった雪を払った。
そんな事にも気付かず、口を上げて空を見上げる四葉。
純粋な、輝くような笑顔で。
「子供はいいよ。雪を見ただけで楽しいんだから」
「お前はどうなんだ」
「いい事よりも、嫌な事を思い出す」
しかめられる、端正な顔。
祖父は鼻を鳴らし、同じような顔で体を押さえた。
「どうした」
「嫌な思い出があるのは、お前だけではないという事だ」
「元鬼曹長殿にも、嫌な思い出はありますか。だから、親父や俺達を士官学校に?」
「さあな」
素っ気ない答え。
瞬は気にもせず、シャツを脱いで祖父へと差し出した。
「おい」
「こっちは現役で、この程度でどうこうなる鍛え方はしてない」
「四葉に掛けてやれ」
「同じ事さ」
空を見上げる四葉の前に差し出されるシャツ。
彼はそれを受け取り、舞い落ちる雪を手で払った。
「はい」
素直な笑顔。
心をそのまま表した、あどけなく純粋な。
「お前は、父親似だな」
「え?」
「いや、何でもない」
四葉の頭を撫で、祖父は受け取ったシャツを肩へと掛けた。
彼には少し大きい、白いシャツを。
「おー、寒い。だけどな四葉、シベリアはもっと寒いぞ」
「しべりあ?」
「ああ。お父さんが、昔いた所だ。何でも凍るし、雪には埋まるし、狼は出るし。命令とは言え、よくあんな所へ行ったよ」
「ふーん」
あまり関心のない返事。
まだ幼い彼には想像が付かす、それよりも目の前に降ってくる雪の方が楽しいのだろう。
瞬もそれは分かっているのか、彼の頭を撫でて指先に息を吹きかけた。
「さて、そろそろ帰るかな」
「ああ」
「破門とはいえ、一応はあんたの孫だ。正月にでも、また来る」
「ああ」
短い答え。
瞬は子供のように笑い、暗い庭の奥へと駆けていった。
「お父さん、どこ行くの」
「俺の事は構うな。お前は自分と、家族を守れっ」
「う、うん。……どういう意味?」
すでに見えなくなった父にではなく、祖父を見上げる四葉。
幼さと素直な性格から、冗談が通じなかったらしい。
さすがに呆れたのか、祖父は口元で適当に呟いた。
「お父さーん」
「また来るから、心配するな。それより風邪を引くといけないから、早く戻ろう」
「あ、うん。でも、どうしてお父さんは泊まらないの?」
「あれは頑固だからな。誰かに似て」
小さな、暗い庭先へと消えていくささやき。
今はない、自分の孫を追うような視線。
だがそれはすぐになくなり、雪と戯れる四葉の肩へ触れる。
「さあ、戻ろうか」
「うん」
手をつなぎ、母屋へと向かう二人。
大切な夜。
雪の舞う、心に残る光景。
今は楽しさだけが。
それすらもいつかしか、薄れていく。
でも、無くなりはしない。
人の心は。
その思いは……。
「雪は、降らないか」
窓辺に立ち、薄く笑う瞬。
苦さを含ませて。
「何の話?」
彼にグラスを差し出す鈴香。
瞬は首を振り、それに口を付けた。
「……ん」
「どうしたの」
「これって、あの時持ってきた酒だろ」
「そうですか?」
振り返られた月映は、知らないという顔で妻を見る。
「さあ、私も」
「親父」
「父さんが持ってきたんじゃないのか」
冗談っぽく笑い、グラスを傾ける父。
「地獄から這い出てきたのかよ。琉球クーデターの英雄も、とうとうぼけたのか」
「怖い事言わないで。大体、どうして地獄なの」
「人殺しの家系だからな。少なくとも、天国にはいないさ」
「向こうで、家族揃って鬼退治ですか?」
どっと笑う男達。
女性二人はため息混じりに首を振る。
もう、呆れもしないという様子で。
少しして、廊下の方から足音がする。
「ただいま」
遠慮気味に入ってくる、革のジャケットを手に掛けた四葉。
すぐにその隣から、赤いコートを羽織った優も顔を出す。
「こんばんは。お邪魔してます」
明るい、嬉しそうな笑顔。
それはイブだから、というだけでもなさそうだ。
「家の方は、いいのかな」
静かに尋ねる父。
優はこくりと頷き、コートを空いていたソファーの背もたれへ掛けた。
「こっちのごちそうも気になりまして」
「はは、なるほど。取りあえず、少し飲みなさい」
「あ、どうも」
両手を合わせ、グラスを受け取る優。
半分程つがれた日本酒を口に付け、ショウへと渡す。
「……少し、甘いな」
「酒の味が分かる年になったのか、お前は」
「父さん、何か言った」
「いいえ。さてと、飲み直すとするか」
凍えるような夜風。
気温は氷点下近くまで下がり、冷えた空気が辺りの景色を引き締めて映し出す。
わずかな照明以外明かりのない、漆黒の闇。
空に輝く無数の星々が降ってくると錯覚する程の眺め。
「ホワイトクリスマスって訳には、いかないな」
「あ、何が」
怪訝そうに尋ねる四葉。
瞬は首を振り、流れていく白い息を目で追った。
「ほら」
「なんだよ」
「いいから」
肩に掛けられる、黒の革ジャン。
微かに顔をしかめ、それを受け入れる瞬。
「……お前は、昔から変わらないな」
「え?」
「いいんだよ。その気持ちさえあれば」
夜風に乗る、切ないささやき。
手に提げられた、日本酒の一升瓶。
いつか彼が、祖父に渡した。
今日まで開けられる事の無かった物。
「大お祖父さんの事を、覚えてるか」
「少しだけ」
戸惑い気味に答える四葉。
その鼻先に飛んでくる、肘打ちからの裏拳。
四葉はヘッドスリップでそれを交わし、瞬の襟を掴んで腰を落とした。
「……石でも抱いてるのか」
「さあな。っと」
足元へ向けられたかかとを見てにやりと笑い、瞬はすぐに距離を置く。
「血は争えないって訳か」
「さっきから、何言ってるんだ」
「いいんだよ、知らなくても。それよりも従兄弟を見習って、彼女とホテルでも行って来い」
「あ、ああ?」
寒空の中顔を赤くする息子。
父は大笑いして、彼の肩を抱く。
今は気付かない。
時を経て、人から人へと。
そうとは気付かなくても。
いつか分かる時が来る。
微かな記憶、忘れていた思い出。
心の奥にしまわれた、遠い過去。
振り返っても見える事はない。
だけど、消える事もない。
紡がれていく気持、人の思いは。
了
玲阿家を中心としたストーリーで、読んでもよく分からないかも。
つまりは、私の自己満足という話です。
この玲阿家だけで独立した話が書けるくらいなので、つい。
補足を少し。
作中通り、軍人の家系。
曾祖父は、曹長。月映(ショウの伯父)は、少佐。瞬(ショウの父)は、大尉。
父(ショウの祖父)は、将官(准将→退官時に少将?)。
琉球クーデターなる物にも、関わってるようです。
これは沖縄が自治政府へ移行するきっかけの話なんですが、書く余裕がないので。
ちなみにショウの従兄弟である風成は、軍へは進んでません。
また月映の妻(ショウの義理の伯母)は、彼の許嫁で薙刀の達人。
古武道という関係から知り合い、後でお互いが許嫁だと知りました。
ちなみに玲阿家は旧家(御土居下同心)ですが、それ程大金持ちという訳ではありません。
今はレイアンスピリッツの収入があるので、かなり裕福になってますけどね。
まだ色々ありますが、この辺で。




