エピソード EX2(クリスマスエピソード) ~1年編・サトミとヒカル・クリスマス編~
結局寝不足
「眠そうだね」
「え?」
沈み込んでいた顔を上げた光は、細い目を瞬きさせて手を振った。
「寝てませんよ」
「眠そうだね、と言ったんだ。大丈夫か」
「ええ。3時間は寝ました」
真顔で答える光。
それを尋ねた端整な顔立ちの男性は、長い髪を後ろへかき上げ彼の肩に手を置いた。
「修士論文を頑張るのも結構だけど、体を壊したら元も子もない。少し、休みなさい」
「そうします」
卓上端末の画面が消され、モニターが折り畳まれる。
研究室か、狭い室内にあるのは本棚といくつかの端末。
それ以外で目に付くのは、コーヒーメーカーとマグカップくらいだ。
「自分こそ、研究はいいんですか」
「もう、冬休みだよ」
「なるほど。エリートは違いますね」
「嫌みを言うな」
苦笑して、光の肩を揉む男。
端整な顔立ちは知性的な表情と暖かさを兼ね備え、薄いシャツの着こなしも様になっている。
「君が卒業して、早く俺の研究室に来てくれると助かるんだが」
「まだ先の話ですよ。それに僕より、聡美を誘って下さい」
「あいつは、もう予約済みだ。何と言っても、俺を越える天才少女なんだから」
「妹、とも言いますけどね」
光の言葉に、その顔が緩む。
遠野秀邦は机の上に腰を下ろし、その髪を再びかき上げた。
「それで、今日はどうするんだ」
「寝ますよ」
「聡美と、約束とかしてるだろ」
訝しげに尋ねる秀邦。
光は、不思議そうに彼の顔を見上げる。
「……光君。今日が何日か知ってるか」
「修士論文の提出まで、一ヶ月を切っている事は」
「今日は12月24日だ」
「もう幾つ寝ると、お正月ですね」
何の淀みもない答え。
秀邦は唇を噛みしめて、壁に掛かっているカレンダーを指差した。
「クリスマス・イブとも言う」
「え、そんなに経ちました?月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり」
「それを言うなら、光陰矢のごとしだ。大丈夫か?」
「何がです」
相変わらず表情はまともである。
受け答えは、ともかくとして。
「……そういえば、買い物行くとか言ってました」
「時間は」
「連絡をくれるそうです。僕はそれまで、一寝入りします」
「それがいい。せっかくのイブなんだ。少しは聡美に、いい思いさせてあげろよ」
優しい笑顔を浮かべ、光の肩に触れる秀邦。
しかしそれに対する応えは。
「秀邦さんは、誰と過ごすんです」
「え?」
「彼女とですか?」
それとなく顔が逸らされる。
「何か、変な事聞きましたか?」
「いや、別に。さて、俺もそろそろ帰ろうかな」
足早にドアへ向かう秀邦。
しかしその前に、ドアの方が開く。
「ここに、いらしたんですね」
理知的な面差しの、スーツ姿の女性。
胸元のIDは、大学の職員となっている。
「やあ、久し振り」
「せっかく母校へ来たのに、挨拶も無しですか」
「彼の顔を見に来ただけだから」
女性は無言で一気に距離を詰めた。
それこそ、鼻先が触れ合いそうな程に。
「今日、イブって知ってました?」
「え、そうかな」
さっきとは逆な事を言う優男。
それでも女性はあきらめない。
「私、予定が無いんです」
「彼氏がいただろ。ほら、助教授の」
「それはそれ、これはこれ。秀邦さんさえよければ、私……」
ドアが再び開き、冬だというのに胸元を大胆に開けたシャツを着た女性が入ってきた。
「秀邦君、来てたのね」
「やあ」
「私、今日暇なの。せっかくのイブだし、どこか行かない?」
先の女性とは違う、ストレートなアプローチ。
彼女は秀邦の腕を取り、はち切れそうな胸をしきりに押し付けている。
そして気付けば、開け放たれたドアの向こうに数名の女性が見えている。
「大変ですね」
「いいから、ちょっと助けてくれないかな」
「どういう事よ、秀邦君。私の誘いを断るって言うの」
「それは、その。光君」
端正な顔に動揺の色が浮かぶ。
すると光は眠そうな顔のまま席を立ち、備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。
「この間、薬学部の人に面白い薬もらったんです。日本での認可は下りてないんですけど、使ってみます?」
「何だい、それ」
光の手の中にある小さなビンを見入る一同。
「大気中、1立法メートルに1ナノグラム散布するだけで、作用があります。海外の売春宿では有名らしく、これを薄めた物が撒かれているとか」
「媚薬?」
「成分的には近いそうです。三日三晩は効き目があり、服も着ていられないって言ってました。使い道がないからどうしようかと思ってたんですけど、丁度いいですね」
ビンを振りかぶる光。
それを見て、一斉に逃げ出す女性達。
怒号と悲鳴、激しい靴音。
そして室内に、静けさが戻ってくる。
「本当の中身は」
乱れたシャツや髪を直しながら、おもむろに尋ねる秀邦。
光は一口飲んで、その穏やかな顔をしかめた。
「知り合いにもらった、滋養強壮剤です。中身は僕も知りません」
「教務監査官の、天崎さんか。あの人も、相変わらずだな」
「その気持ちは、ありがたいんですけどね。珪の入れ知恵も、たまには役に立ちます」
ラベルに下手な字で、「劇薬指定・持ち出し厳禁」と書かれている。
それを冷蔵庫にしまった光は、ため息と共にペットボトルのお茶を流し込んだ。
「とにかく助かった。俺は今の内に帰るから、聡美によろしく」
「ええ、良いお年を」
「まだ、早いよ」
苦笑気味に答え、部屋を出ていく秀邦。
その後もしばらく手を振っていた光は、大きなあくびをして机に倒れ込んだ。
そしてすぐに、微かな寝息が聞こえてくる。
「起きて」
「はい?」
「風邪引くわよ」
「大丈夫だって。その計算方法が間違ってるんで、データは間違ってないんだから。母分散からの標準偏差を見れば……」
顔を上げ、指を差す光。
その先には、壁がある。
「どうしたの?」
「小島君が、違うって言うんだ。でも結果は予想通りだし、データは何度も確認してる。計算の方法が、違ってるんだよ」
「何の話をしてるの」
赤のコートを腕に掛け、彼を見下ろす聡美。
表情は、逆光で読みとりづらい。
「……夢の話、かな」
「大丈夫?」
「ああ。今からすき焼きが食べられるくらい」
訳の分からない例えをして、大きく伸びをする。
「それで、僕に何か用事?高校も冬休みかな」
「さっき連絡したでしょ。買い物行くって」
机の上にある端末が突きつけられ、聡美からの着信履歴が表示される。
「ほら、早く支度して」
「寒いのに、買い物か。気が進まない」
ジャケットを羽織る光に、今度は指が突きつけられる。
「今日が何日か知ってるの」
「……デジャブみたいだ」
「え?」
「いや、何でもない。クリスマス・イブだよ」
分かってるじゃないという顔で微笑む聡美。
光も安堵のため息と共に、エアコンを消した。
「クリスチャンじゃないんだけどね、僕は」
「私もよ。でも、お祭りと思えば楽しいわ」
「なるほど。元々キリスト様の誕生日とも違うんだし、それもいいかな」
よく分からない結論を得る男の子。
震えるくらいに美しい少女はため息も付かず、ドアを出ていった。
「早く」
「分かってる。でもジングルベルって、どんなベルだろう」
「そりの鈴。いいから、ほら」
即答に頷き、光もドアを出る。
窓の外は、ホワイトクリスマスとは遠い澄み切った青空だった。
とはいえ街並みはクリスマス一色で、道路沿いの街路樹はどこまでもイルミネーションが付けられている。
あちこちには飾り付けられたもみの木もあり、七夕よろしく願い事を書いた短冊が下がっている物もある。
昼下がりとあって明かりは灯っていないが、夜に訪れてみたいと思わせる光景。
その中を、腕を組み歩く二人。
自然と聡美へ周りの目は向けられるが、彼女がそれを気にした様子はない。
また、彼女の傍らにいる光も。
「寒いけれど、いい気分ね」
「僕は眠い」
「ケイみたいな事言わないで」
苦笑する聡美に、光はあくびで応えた。
足取りはおぼつかず、視線もいまいち定まらない。
「少し、休みましょうか」
「お願いします」
道沿いの喫茶店に入り、コーヒーを頼む二人。
窓からは、クリスマスの街並みを楽しむカップルや家族連れの姿が眺められる。
「これを見ているだけで、私は十分だわ」
「そう?」
「仲のいい家族を見ていると、特に」
端正な顔立ちに、微かな翳りがよぎる。
しかし光は慰めや励ましの言葉を掛ける事無く、テーブルにあった砂糖をスプーンですくっては落としている。
「お客様、申し訳ありませんが……」
「あ、済みません」
店員にたしなめられ、慌てて頭を下げる。
思わず周りから笑い声が起き、聡美も一緒になって笑う。
「先に言ってよ」
「楽しそうだったから、ついね」
「面白いから、やったんだ。ほら……」
店員に睨まれ、スプーンから手を離す光。
おおよそ、飛び級で大学院に行った人間とは思えない。
「あなたは、変わらないわね」
「ユウも、そんな事前言ってた。でも変わる必要もないし、特に困ってもいないから」
「らしいわよ、そういうの。弟も含めて」
硬い表情が和らぎ、コーヒーカップが傾けられる。
耳元をかき上げそれを置いた聡美は、指を組んで光を見つめた。
「光もケイも、お父さんとは仲が悪いわよね」
「悪いというか、僕らが愛想を尽かしたというか。口先だけで、何もしない人なんだ」
「口にするだけ、まだましよ。私の親と比べたら」
表情に翳りは帯びないが、口調は厳しい。
それでも光は、その態度を変えようとはしない。
「どうすれば、いいと思う?」
「さっきも言ったように、僕は変わらない。向こうがどうなろうと、あの人とは一生会わない」
「そう。でも、私は……」
微かに首を振り、カップを手の中に収める聡美。
「聡美は、優しいからね。口や気持でそう思っていても、最後には信じたくなる。でも、その方がいいと思うよ」
「ありがとう。珍しく語るのね」
「珪の受け入りさ」
はにかみ気味に微笑む光の顔は、どこか彼の弟に似ていた。
そして聡美も、微かに口元を緩める。
「僕なんかより、珪と付き合えば良かったのに。自分で言うのも変だけど」
「私はあの子に、恋愛感情を抱けないわ。向こうも、きっとそう。考えは理解出来るし、共感する事も多い。だけど、あの子と私は重なり過ぎてる。みんなは全然違うって言うかもしれないけれど、お兄さんの光以上に私はケイと同じなの」
消え入りそうに小さな声。
BGMに掻き消され、正面に座っている光にすら聞き取りにくい程に。
「自分の鏡とは付き合えないって?でもその論理だと、僕は珪と付き合ってる事になるよ」
「そうね」
一転して朗らかに笑い出す聡美。
光は複雑な顔で、その笑顔を見つめている。
その口元からは「珪と同じ」の言葉が、何度も漏れ聞こえていた……。
「ちょっと」
聡美に揺すられ、伏せていた机から起き上がる光。
「……キツネが、僕の饅頭を食べるんだ」
「はい?」
「キツネ。コダヌキがせっかく持ってきてくれたのに」
顔付きは至って普通で、冗談を言っている様子はない。
それを聞いている聡美も。
「狸が何?」
「違う、コダヌキ」
「……仔狸がどうしたって」
拳を握りしめ、それでも尋ね返す。
「コダヌキが、饅頭を持ってきてくれたんだ。僕とキツネに、食べてくれって。月も出てたし、ススキの中で食べ出したんだよ」
「月とススキ、ね」
「順番に食べていって、最後に二つ残ったんだ。でも持ってきたのはコダヌキだから、彼が一つ。それで残りの一つを、キツネが勝手に食べようとして」
腕を組み、「大人げないよ」と唸る光。
聡美は額を抑え、長いため息を付いた。
「仔狸だか豆狸だか知らないけど、化かされたの?」
「誰が」
「あなたがよ。ここは喫茶店で、月もススキもないの」
「饅頭は」
彼の前にあるのはコーヒーカップだけで、皮が張り餡の詰まった和菓子は見られない。
「おかしいな」
「本当に」
もはや、言葉も無いらしい。
光はその間にも、メニューの裏やテーブルの下を覗き込んでいる。
「見つからない」
「そう」
「聡美、食べた?」
正拳が、彼の鼻先で止まる。
その風圧で舞い上がる前髪。
「もう一度、寝てみる?」
薄い凍るような微笑み。
光はぎこちなく首を振り、冷えたコーヒーを一気に飲み干した。
「そ、そろそろ、買い物に行こうか」
「そうね」
コートを抱え立ち上がる聡美。
その次いでにレシートを取り、よろよろ立ち上がった光を促す。
「お金、払っておくわよ」
「ああ。ここ、院の研究室じゃないんだ」
「言うと思ってた」
屈託のない笑顔を浮かべ、レジへ向かう。
それに続く光も、また。
外は相変わらず寒風が吹きすさび、日が傾くに従って気温は下がる一方である。
コートやジャケットの前を押さえ、足早に先を急ぐ人の群。
仲むつまじいカップル達でさえ、その例外ではない。
ようやく灯り始めたイルミネーションやショーウインドウのディスプレイも、彼等の足を止めるには至らないようだ。
「寒いわね」
「冬だから」
「そのままじゃない」
重ねた手を口元へ持っていく聡美。
白い息が、彼女を包み込むように薄闇へと広がっていく。
「買い物って、まだ何かいるの」
「服は私の分。後は、お酒でも買おうと思って。ほら、パーティのお土産に」
「ホームパーティ、か。何か、日本人には似合わない気がするね」
どういう意味なのか、あくびをしながら語る光。
聡美は小さく笑って、手に提げていた袋を持ち替えた。
「言い方の問題でしょ。仲間が集まって楽しむのを、向こうではホームパーティって表現するだけで」
「なるほど。お酒って、どぶろく?」
「……いくらパーティが表現といっても、それはないでしょ。ユウのお父さん達ワイン好きだから、いい物を探してみるわ」
さらに言葉をつなごうとした聡美であったが、その視線が辺りを彷徨う。
隣にいたはずの光がいないのだ。
言い争う声の方向へ、気だるげに振り向く聡美。
そこには、柄の悪そうな若者に取り囲まれる光の姿がある。
彼女が血相を変えて駆け付ける、という様子はない。
表情にも、焦りや不安は感じられない。
聡美は手袋を外し、その髪をかき上げて彼等の元へと歩いていった。
「お前、目開いてるのか」
「おい、こっち向けよ」
男達にこづかれ、下がっていた顔を上げる光。
細い目がゆっくりと開き、紙袋を下げたまま手を動かし出す。
「聞いてるのかよ」
「あんまりふざけてると、やるぞ」
雰囲気が悪くなり、剣呑な顔で光を睨む男達。
「僕がぶつかった。そうですよね」
それに対して、のんきに答える光。
「何言ってるんだ、おい」
「ドラッグでもやってんのか」
腰を低くして、男達が距離を詰め出す。
それでも光に変化はない。
「僕がこっちから歩いてきて、あなた達がそっちから来た。人の流れを見るとそこの街路樹で流れが変わるから、正確な場所はそこですね」
身構える彼等の間を抜け、指差した街路樹の前に立つ光。
歩道の中央にやや寄り気味で、そこを避ける形で通行人は歩いている。
「ただ建物との距離は目算で、5m近く。また人は身体距離があるから、他人同士が極端な接近はしにくい。つまり、他の要因があるという事ですよ」
「お、おい」
「その買い物袋から見て、あなた達はその建物からこちらへ来た。つまり、街路樹の裏側」
強引に一人の手を引き、街路樹の裏へと回らせる。
自分はすぐに戻り、他の連中も下がるよう手を振った。
「僕がこっちから来る。あなた達も、そちらから来る。条件を同一にするため、会話も再現して下さい」
「ええ?」
「覚えている範囲で結構です。視線や姿勢、立ち位置も出来るだけ同じにして下さい」
いつにない真剣な表情で彼等を見据える光。
しかし男達は、困惑しきった顔でお互いに見つめ合っている。
「周りは気にしないで結構です。そこまで、条件は整えられませんから。聡美、ビデオ廻して」
「はいはい」
戸惑いも見せず小型のカメラが取り出される。
光は端末を手に取り、周囲の情景を口頭で記録し始めた。
「……やや視界不良。通行量は、毎分50名前後。被験者は二十歳前後の男性5名及び、15才の男性。対向する場面を、記憶に基づき再現。なお試験の回数は定めない」
「もう、撮ってるわよ」
「ああ。済みません、歩いてきて下さい」
「歩いてって言われても」
ぎこちなく動き出す男達。
一応、台詞もその時通りに再現しているようだ。
「……そして、おそらく衝突場面がここ。僕は記憶がないけど、間違いないですね」
「あ、ああ」
「見知らぬ他者同士との身体距離は、通常3~5mはあります。ただこれだけの混雑だと、1mを切るでしょう。それを加味しても、かなり近い。僕は、視認出来てました?」
「しにん?」
何となく見つめ合う両者。
男達はすでに、やる気も何もかも失われている。
目の前にいる男から、早く逃れたいという雰囲気の他は。
「視認していても、意識の方でフィルターが掛かっていたかも知れません。次は条件を変えて、僕が来るの意識して歩いて下さい。済みません、もう一度街路樹の向こうへ」
「お、おい。もう行こうぜ」
「あ、ああ」
いきなり走り出す男達。
それを見て、追いすがろうとする光。
「あ、待って。そっちじゃなくて、街路樹の裏へ……」
「放っておいたら。向こうも、それほど暇じゃないわ」
「身体距離の意識を調べる、いい状況だったのに」
腕を組み、しきりに残念がる。
聡美は彼の腕を取り、くすっと笑った。
「絡む相手があなたじゃ、やりがいもないわね」
「実験者として、向いてないのかな。一応これでも、臨床系なんだけど」
ある意味当たっていて、実際は的はずれな返答。
それでも聡美の表情は明るい。
「さあ、早く買い物へ行きましょ。パーティに遅れるわ」
二人が優の家へ着いたのは、それからすぐの事。
ただそこに彼女の姿はなく、両親が代わって出迎えた。
「みんな、珪君を探しに行ってるの」
「ケイを?あの子、またかしたとか」
「さあ。僕達も、詳しくは聞いてないんだ」
リビングに入り、その暖かさに頬を緩ませる二人。
だが視線の先にある、小さな影に表情を変える。
「あれは」
「彼女に振られたんだって」
一応は小声で話す優の母。
父はワインの瓶を抱え、苦笑している。
「そういう事も、あります」
一人で勝手に納得した光は、ジャケットを脱いでソファーへ崩れ込んだ。
「……浦田君」
ゆっくりと振り向き、弱々しく微笑む木之本。
かなりアルコールを摂ったのか、その穏やかな顔は赤みを帯びている。
「聞いたよ。大変だね」
全然そうとは思わせない口調。
しかし木之本は怒った様子も見せず、空のグラスにスパークリングワインを注いだ。
「僕が駄目なんだ。彼女に気を遣って、楽しんでもらおうと思ってた。でもそれが、却って良くなかったみたい」
「ふーん。気を遣ってくれた方が、嬉しいと思うけど」
「自由が利き過ぎる、らしいよ。もう少し、強引でもよかったんだって」
暗い窓の外へ視線を向ける木之本。
グラスがあおられ、やるせないため息が漏れる。
「月並みだけど、女の子は星の数ほどいるんだし。また、いい巡り合わせがあるって」
「ありがとう……」
「いやいや」
はにかむ木之本と、大仰に頷く光。
お互い善人なだけに、この程度で納得出来るようだ。
「ただ僕も、本当に彼女が好きだったのかと言われると。確かにいい子だったし、一緒にいて楽しかった」
「うん」
「でもそれが、好きなのかどうかは分からないんだ。仲のいい友達と、どう違うのかって」
「うん」
頷く光に、木之本は訥々と思いを語っていく。
「……分かれたのは辛い。ただ、それでもう一度自分を見つめ直そうかとも思ってる。僕に何が欠けていたのか、何が良くて何が悪かったのかって」
「うん」
「間違ってるかな、僕の考え方」
「うん」
思わぬ所で相づちが打たれる。
ずっと俯き気味に語っていた木之本は、恐る恐る顔を上げ光を見つめた。
「あ、あの。浦田君?」
「うん」
「……寝てるの」
「うん」
寝言なのか何なのか、器用に頷く。
木之本は「あー」と唸って、その場に崩れ込んだ。
そして彼の口元からも、微かな寝息が聞かれる。
「何してるのよ、二人とも」
苦笑して、彼等にタオルケットを掛ける聡美。
優の両親も、遠くでそれを見守っている。
「青春だね。羨ましいな、僕は」
「私は恥ずかしいわよ」
そっと父に寄り添い、肩に頬を寄せて微笑む母。
父はその肩を抱き、やはり優しく微笑んだ。
「困った物ですね。光も、木之本君も」
「ああいう物だよ、高校生の時は」
「勿論、聡美ちゃんも」
「まさか」
はにかんで顔を背ける聡美の手を、母がそっと握りしめる。
「優達も遅いし、しばらくは親子水入らずで楽しみましょ」
「悪くないですね、それ」
「優が聞いたら、また怒るよ」
声を揃えて笑う彼等。
リビングの明かりが消され、その足音が遠ざかっていく。
聞こえるのは小さなクリスマスソングと、エアコンの音。
窓の外に雪は無く、部屋の中は暖かさにあふれている。
それは室温だけではなく、人の心の中にも言える事。
薄闇のリビングで輝く、小さなツリーのように……。
目覚め
ふと顔を上げ、辺りを見渡す光。
ソファーから転げ落ちたらしく、隣には木之本が丸まっている。
「ここは……」
一瞬にして表情を引き締め、彼はリビングを飛び出した。
「起きたの」
チキンのもも肉をかじっていた聡美が、それを振って彼に応える。
「メリー・クリスマス」
第一声が、それ。
聡美のみならず、優の父と母も目を丸くする。
「今日、クリスマス・イブだよね」
「え、ええ。でも日本で、「メリー・クリスマス」とはあまり口にしないわ」
「そういう気分だったんだ」
頭を下げ、キッチンのテーブルに付く光
料理の大半はリビングに運ばれいて、ここにあるのは端切れや残り物が中心になっている。
「ワイン、もう飲みました?」
「ああ、美味しかったよ」
「高かったんじゃなくて」
微笑む優の母達に、光は軽く手を振った。
「いつも、聡美がお世話になってますから。そのお礼も兼ねて、です」
「人の親みたいに。私だって、お金出してるわ」
「まあまあ。そんな遠野さんには、僕からのクリスマスプレゼント」
そう言って光が取り出したのは、和紙に包まれた小さな丸い物体。
和菓子のように見受けられる。
「どうしたの、これ」
「コダヌキからもらった」
「え?」
真顔で光を見つめる優の母。
父は心配そうに、和菓子の方を見つめている。
「大丈夫」
「そう?」
恐る恐る和紙を取る聡美。
するとそこからは、茶色い皮の小さな饅頭が出てきた。
「狐が食べたんじゃないの」
「ええ?」
今度は聡美に視線が向けられる。
「二人とも、さっきから何言ってるの?」
「本当に、大丈夫かい?」
心配する彼等に、聡美と光は笑顔で手を振った。
そしてお互いに、苦笑して見つめ合う。
「……あ、美味しい」
「秀邦さんのお土産なんだ。他のは院の人達で食べて、最後の一つがそれ」
「兄さんの。私には、変な漬け物持ってきたのに」
口元に付いた餡を舐め取った聡美は、いつにない優しい表情で和紙を手に取った。
それはたおやかな仕草で、丁寧に畳まれる。
「捨てないの」
「しばらくは、ね」
大切そうに、財布の中へとしまわれる和紙。
優の両親は、にこやかにそれを見守るだけだ。
「クリスマスプレゼントが、人からもらった饅頭だなんて。あなたは、気が利かないわね」
「ごめん。今日がイブって事も、忘れてて」
「いいのよ。気が利く光なんて、私も想像出来ないもの……」
顔を寄せ、彼の頬に自分の頬を重ねる聡美。
そして恥ずかしそうに、優の両親を上目遣いで見つめる。
「い、いつもこんな事してる訳じゃ無いですからね」
「ふーん。とにかく、優には見せられないわ。あの子、まだ子供だから」
「お母さん、言い過ぎだよ。でも僕の目の前で、優がそんな事やったらショックだな。勿論、聡美さんでも……」
さっきの木之本並に落ち込み出す父。
彼にしてみれば、聡美を我が娘とばかりに思っているのだろう。
「じゃあ、私がしてあげようか」
「お、お母さん」
父は顔を赤くして、それでも母の行為を受け入れた。
「ふ、二人とも。優には内緒だよ」
「いいじゃない。夫婦なんだもの。ねえ、聡美ちゃん。光君」
「はい」
声を合わせ、笑顔で頷く二人。
父と母も、それに笑顔で応える。
暖かな、クリスマスイブにふさわしい光景。
全てが優しさと温もりで包まれている、そんな感覚に浸れるような。
心が一つとなり、みんなの幸せを願いたくなる。
例えクリスチャンでなくても、神様を信じていなくても。
それがクリスマス・イブ。
「……幸せそうで、いいですね」
薄暗いリビングの、小さなささやきはともかくとして。
メリー・クリスマス。
了
エピソードx2 あとがき
普段サトミとヒカルはどんな雰囲気なのかを中心に書こうと思ったのですが、こうなりました。
ちなみにタイトルの「結局寝不足」は宇多田ヒカルさんの歌詞にあったのを、そのまま流用しました。
それ程大げさな話でもありませんが。
後は、この人の説明を少し。
遠野秀邦
端正な顔立ちで、やや長い髪。
長身の細身、気鋭の学者らしさを漂わせる優男のイメージ。
サトミの兄で、現在は草薙大学の大学院に所属。
彼女との年齢差は、5才程度?
専門は心理学だが、学問の知識はオールマイティ。
サトミ同様幼い頃からその才能を見いだされ、調査の対象となっていた。
非常に女性から好意を持たれるタイプ。
性格は意外と強気で、何より妹思い。
第46話であるように、草薙高校における生徒会制度を導入した一人でもあります。




