エピソード EX1(クリスマスエピソード) ~ユウ・幼少期編~
北からの贈り物
その日は、朝から冷え込んでいた。
天気予報は路面の凍結に注意するよう促し、早めに帰宅するようにと締めくくった。
遅い朝食が終わり、テーブルの上が片付けられていく。
「いいのよ。あなたは休んでて」
「でも」
薄い茶色の髪をショートカットにした若い女性は、快活な笑みを浮かべ腰を屈めた。
「お父さんに、駄目だって言ってあげて」
「駄目だよ、お父さん」
女性とよく似た、愛らしい顔立ち。
やや下がり気味の瞳に、少し低い鼻。
赤みを帯びた頬が、その可愛らしさを引き立たせる。
髪型も同じ薄茶のショートカット。
はきはきとした、それでも子供らしい柔らかな声。
少女は立ち上がり掛けていた男性の腰にしがみつき、そのまま椅子へと押し戻した。
「やー」
可愛らしい声を上げ、そのまま男性の膝に乗る少女。
「ほら、優も言ってるでしょ」
「君が言わせたんだろ」
男性は苦笑して、愛くるしい笑みで自分を見上げている少女の頭を撫でる。
ショートカットの女性と同じくらいの年格好で、穏やかな雰囲気と顔立ちである。
「戦争から戻ってきて、まだ何年も経ってないのに。休みの日くらいは、体も心もゆっくり休めないと」
「頭では分かってるんだけどね。落ち着かないんだよ」
「また調子が悪いの?」
「いや。僕は戦場で誰も殺してないし、ひどい目にあった訳でもない。ただ、こんな寒い日は思い出すんだ。色んな事を」
少女を前向きに座らせ、その頭を撫で続ける。
「でも、こうしてると気持が楽になるんだよ。優や君と一緒にいると。君の隣で、お皿を洗っていたりすると」
「あら、新婚みたいな事言うのね」
「はは。少し恥ずかしかったかな」
「何が」
明るい声が、二人の会話に割って入る。
「お父さんが、お母さんを好きだって事がよ。それとも愛してる、かな」
「さ、紗弥さん」
「そういうのは、恥ずかしい事なの?」
難しい顔で、父を振り返る優。
父は彼女を座り直させ、その髪を梳る様に撫でた。
「表現が悪かったね。恥ずかしいというのは、それだけ僕がお母さんを愛してるって意味なんだけど」
「分かんない」
「子供は分からなくていいの。あなたには、まだ10年早いわよ」
「私、子供じゃないもん」
むくれて、父の膝から降りる。
すると寂しげな顔の父と目が合い、すぐに膝の上に戻ってしまった。
「ほら、子供じゃない。大人は、そんな事しないのよ」
「いいもん。私は、お父さんの子供なんだから」
「そうそう」
相好を崩し、優を抱きしめる父。
すると母は背を丸め、ため息を付きながら洗い物を始めた。
「寂しいわね、年を取るっていうのは。妻は、やっぱり娘には勝てないのよ……」
「紗弥さーん」
「お母さーん」
父のはその発言を否定する意味が。
優のは、ただそれを真似ただけだ。
「いいんです。私は一人寂しく、クリスマス・イブを祝いますから」
「困ったな。優、何か言ってあげて」
「……お母さん、いい年して拗ねないでよ」
「ゆ、優」
すでに優の姿はキッチンになく、包丁を手にした母が振り返る。
「誰の子かしらね、あの子は」
「き、君と僕の子だよ」
「そう。あなたの子よ……」
「紗弥さーん」
「怒ったお母さんはー、鬼より強いー。怒ったお母さんはー、鬼より強いー」
訳の分からない事を、節を付けて言い続ける優。
咄嗟に掴んできたダッフルコートを羽織り、寒空の下を元気良く駆ける。
下は犬の絵がプリントされたトレーナーに、チェックのキュロット。
赤のスニーカーは、軽快にそして高く上がる。
「鬼よりー。あ、こんにちはー」
ドアをくぐり、受付の女性に挨拶をする優。
「こんにちは。今日は、休みの日じゃなかった」
「ちょっと、遊びに来たの」
「そう。惜しかったわね。ついさっきまで、本家の人達が来てたのに」
それを聞いて、優は首を傾げる。
「ほんけ?」
「ここは独立した団体だけど、その母体となる流派あるのよ。古武術の一つで、玲阿流って言うの。本家というのか、宗家というのか……。あ、ごめん。優ちゃんに話しても分からないか」
「うん。分からない」
素直に頷き、トコトコと中へ入っていく。
「わっ」
思わず声を上げ、一歩下がる優。
トレーニングルームのあちこちに倒れる人の姿。
どこを見ても、まともに立っている人間は一人もいない。
「まいったな」
「先生。どうかしたんですか」
「あ、雪野さん」
背の高い痩せ気味の青年が、苦笑して優の目線に合わせる。
「本家の人が来たから、みんなで稽古を付けてもらったんだ。それで張り切ったのはいいんだけど、これだよ」
まるで道場破りにでもあったかのような光景を指差す青年。
ただ彼には傷一つなく、どこか怪我をしている様子もない。
「しかも、相手はまだ子供なんだ。一人は、雪野さんと同い年なんだよね」
「小学生が?」
「本家は名前だけじゃないんだ。師範や師範代は勿論、まだ破門は解かれてないけど瞬さんなんて……。あ、雪野さんに話しても分からないか」
「ええ、分かりません」
はっきりと頷く優。
「とにかく、とんだクリスマスプレゼントだよ」
「サンタさんなんですか。その、ほんけって」
「はは。サンタか」
笑う青年に、拗ねたような顔が向けられる。
「私だって、サンタがいない事くらい知ってます」
「本当にいないと思う?」
「そ、それは。もしかしたら、その。一応、靴下は置いておきますけど」
照れ気味に、小さな声で答える優。
青年はその頭を、そっと撫でた。
「とにかく今日はこれだから、練習は出来ないよ。済まないね」
「いえ。じゃ、また来ます」
「ああ。お父さん達によろしく」
「はーい」
元気良く手を振り、ドアを出ていく優。
「本家、か」
青年は、手当を受けている者達を眺めつつ呟いた。
「風成さんもすごかったけど、あの子もとんでもないな。さすがは、瞬さんの息子か」
感慨めいた表情を浮かべ、青年も彼等の手当へと取りかかり始めた。
「ほんけのサンタは小学生ー。ほんけのサンタは小学生ー」
歌詞は変わったが、節は同じだ。
そして足取りは軽い。
「あれ?」
足が止まり、公園へと顔が向けられる。
ベンチに腰掛ける父が目に入ったのだ。
「お父さーん」
両手を振り大声で呼び掛ける。
俯きじっと地面を見つめていた父は、我に返ったような顔を優へと向けた。
「やあ」
疲れたような、元気のない笑み。
駆け寄ってきた優は、かまわず父の腕を取る。
「お母さんは?」
「ケーキを作るって言ってたよ。僕は少し……」
その後はこう続いただろう。
「一人になりたくて」と。
しかし何の疑いも持たない笑顔が、それを止めさせたのだろうか。
そして優も父の異変に気付いたのか、腕を離して近くのブランコへと走った。
「うわー」
それ程大きくスイングしていないが、小学生低学年の彼女にとっては相当な迫力なのだろう。
ブランコが高く上がるたびに、その「うわー」を繰り返す。
ベンチに腰掛ける父の視線は、優へと向けられている。
だがその視線の先に何が映っているのかは、定かではない。
「ひゃっ」
小さく叫び、ブランコを踏み切る。
本人にとっては思い切った、でも実際はかなり小さな放物線が描かれる。
「やっ」
見事な着地とポーズ。
両手を横へ伸ばし、足はふらつかない。
顔が父へと向くが、視線が合わない。
優は気にした様子もなく、再びブランコをこぎ出した。
今度もそれ程高くは上がらず、下の方でゆらゆらとしている。
「やっ」
再び跳ぶ優。
2度目という事で勇気が出てきたのか、さっきより遠くに着地する。
少しバランスを崩し、手を広げながら前に数歩歩いてしまう。
照れ気味に、父を振り返る。
しかし父は地面を見つめたまま、身じろぎ一つしない。
慎重な足取りで、その後ろへと回り込む優。
そして父の後ろに付いた優は、不意に前へ飛び出した。
「お父さんっ」
やや大きめの声で呼び掛ける。
だが、父が顔を上げる気配はない。
ただじっと、地面を見つめ続ける。
「ねえ、どうしたの?」
返事はなく、冷たい風がショートカットを揺らす。
「具合悪いの?ねえ」
小声で、遠慮気味に尋ねる。
日は翳り、二人の姿は暗い。
「お父さん……」
かすれた、弱々しい声。
優は顔を押さえ、その場にしゃがみ込んでしまった。
「あ……」
そこで初めて視界に入ったのだろう。
父が立ち上がる。
「優、どうしたの?」
「だって、だって。お父さん、返事してくれないんだもん」
「あ……」
後悔の色が顔に表れ、額を押さえる。
「お父さん、私の事忘れちゃったんだ。私の事なんて、もう嫌いになったんだ」
懸命に涙を堪えているのが分かる。
必死で感情を抑えようとしている。
幼く、小さな体で。
「だって、だって。ずっと動かなくて、私すごい心配して。でもお父さん返事しなくて、全然見てくれなくて。私どうしていいのか分からなくて。私、私……」
その体が、抱きすくめられる。
優しく、限りなく優しく。
誰にでもない、父によって。
「ごめん、優。僕が悪かった」
「お父さん……」
「ごめん」
言い訳はしない。
抱きしめ、心から幼い娘に謝る。
優の手が父の背に周り、強く抱きしめる。
自分にとって精一杯の力で。
父を抱きしめる。
自分を忘れるはずがない、嫌いになるはずがない。
そんな思いを込めるかのように……。
二人はベンチに座り直し、風に揺られるブランコを眺めていた。
「……昔の事を思い出していたんだ」
「昔って?」
「僕が戦争に行って、向こうで捕まったのは知ってるだろ」
「うん」
「捕まったと言っても、向こうの人は親切でね。僕らを友達のように扱ってくれた。気付けば季節が巡り、冬になっていた」
優は黙って話を聞いている。
「雪が降るんだよ。いつまでも、いつまでも。積もるっていうんじゃないんだね。全てが雪に埋まるんだ。朝起きたら、窓の外が雪しか見えなかったんだから」
「へぇ」
「そんなある日、雪が止んで僕達は外へ出た。周りは見渡す限りの雪。みんなお日様を浴びて、楽しそうだった」
父の顔に寂しさが宿る。
「子供達も元気に遊んでいた。その子等が、何かを作っているのかも見えた」
「何作ってたの」
「雪だるまだよ」
どう反応して良いのか分からないのか、曖昧な表情を見せる優。
父は微笑み、厚い雲が立ちこめる空を見上げた。
「……幾つもの雪だるま作られていた。そしてそれには、字が書いてあった」
聞き慣れない発音がその口から漏れる。
「向こうの国の言葉で、「お父さん」って」
「どうして?」
「話を聞いてみたら、その子達はお父さんが戦争に行っていたんだ」
風に乗ってきたのか、小さな白いかけらが二人の前を過ぎる。
「自分のお父さんが無事に帰ってこれるように、早く帰ってこれるようにって。そういう思いを込めて、子供達は雪だるまを作ったんだ」
父が差し伸べた手の平に乗った雪は、淡く溶けていく。
「僕はそれを見ていて、急に日本へ帰りたくなった。向こうの人達は親切にしてくれて、生活も楽じゃないけど辛くはなかった。でも、それでも僕は家へ帰りたくなったんだ」
揺れながら、幾つもの雪が降ってくる。
優が差し伸べた小さな手にも、雪は舞い降りた。
「紗弥さんに会いたい、自分のお母さんやお父さんに会いたい。そして優に会いたいって、強く想った」
「お父さん……」
「今日みたいな寒い日は、そんな事を思い出すよ」
立ち上がり、降り始めた雪を見上げる。
髪に、ジャケットに雪が降る。
この辺りでは珍しい、湿った雪が。
北の大地で降るような、大きな雪。
風に乗り、ここまで流れてきたのだろうか。
「寒くなってきたね。優、そろそろ帰ろう」
「うん」
ベンチから降り、父の隣を歩く。
「お母さん、怒ってなかった?」
首をすくめ、不安げな表情で尋ねる。
「大丈夫。優の分も、お父さんが怒られたから」
「へへ」
悪戯っぽく笑い、駆け出す。
「お父さん、早く早く」
「元気だね」
「いいから、ほら」
舞い散る雪の向こうで、優が手を振る。
笑顔が白く彩られ、雪が彼女の周りを包み込む。
車のヘッドライトに、儚くも眩しく輝くその姿。
雪と共に舞い降りた、北の国の妖精のように。
「……その笑顔を向けられる男の子が、いつか現れるんだろうね」
「え、何か言った」
父は笑って首を振り、優の元へと駆け出した。
そして、すぐに抜き去ってしまう。
「優、早く早く」
「あー」
慌てて後を追う優。
勿論父の速度はそれ程速くなく、優はすぐに隣へ並ぶ。
「サンタさん、来るかな」
「いい子の所へは来ると思うよ」
「じゃあ、私は」
間を置かず父が答える。
「優の所へは、一番に来るさ」
「はは」
弾けるような笑みで駆けていく優。
父も懐かしむような顔で、雪をまとう娘を見つめる。
雪は、降り続く……。
「まだあるわよ」
「もう食べられない」
首を振り、フォークを置く優。
母はくすっと笑い、切り取ったケーキを自分の皿に置いた。
「私に似たのかしら。あなたって、あまり食べないわね」
「お母さん、優はまだ子供だよ」
「それでも、もう少し食べてもいいと思うわ。もしかして、私みたいに大きくなれないのかな」
「食べよう……」
睨む母の前にあるケーキを少し切り取る優。
しかしそれは、口の手前で止まってしまう。
さっき自分で言ったように、もう食べられないのだ。
「はい、あーん」
「どっちが子供なのよ。あーん」
母は差し出されたフォークごとケーキを頬張り、ジュースに口を付けた。
「私も、もう食べられないわ。数年前なんて、食べる物にも困ったのに」
「豊かになるのはいい事だよ。食べ残すのはもったいないけど、無いよりはましだから」
「本当、戦争が終わって良かったわ」
テレビでは、復興景気に沸く繁華街の様子を流している。
日本では国土への被害より、経済的な損害の方が前大戦では問題とされていた。
それもこの1、2年で、戦前のレベルを回復しつつある。
「……今日は午前中から雪が降り始めました。都市部でも、未明には積もる所が……」
「未明って何?」
テレビを見ていた優が、何気ない感じで尋ねる。
「朝方っていう意味よ」
「何時くらいなの?」
「分かる、お父さん?」
「さあ、僕もちょっと。でも今なら、大体4時とか5時じゃないかな」
「ふーん」
何度も頷き、テレビからテーブルへ体の向きを戻す。
「もったいないね、これ」
半分程残ったケーキを指差す優。
「明日も食べられるわよ」
「じゃあ、明日食べる」
何とも嬉しそうに、ケーキを眺めている。
それこそ、この世の幸せを独り占めという顔で。
「量は食べられないのに、食べるのは好きなのね」
「君に似たんだよ」
「はいはい。優は私の子です。ねー」
「ねー」
顔を見合わせ、微笑む母娘。
父はそれを見守り、グラスを傾ける。
彼等の肩越しに見える、小さなクリスマスツリー。
サンタや赤い長靴、ステッキなどが飾り付けられている。
3人で飾り付けた、小さなツリー。
一つ一つ思いを込めて、幸せを願って。
それが叶ったのかどうか。
楽しげな笑い声が、明かりと共に窓の外へと漏れる。
痺れるように冷えた空気の中を、過ぎていく。
大きな湿った雪が、全てを覆うように降る。
笑い声に重なって……。
甲高い電子音。
暗闇の中、布団が跳ね上がる。
「んー」
手をパタパタと動かし、ようやく目覚ましに触れた。
「んー」
何度も叩いたところで、電子音が止まる。
「もうっ」
怒りつつ、布団を被り直す。
「あっ」
布団はすぐに跳ね退けられ、ベッドから飛び降りる。
パジャマの上からジャージを履き、セーターを着込む。
さらに椅子に掛けてあったウインドブレーカーを羽織り、一緒にあった手袋を手に取った。
「寒いー、眠いー」
それにしては楽しそうな顔をしながら、優は部屋を飛び出ていった。
「んー」
軽く伸びをして、体を起こす。
「……おはおう」
隣のベッドで枕に埋まっていた妻は、気だるげに顔を向けた。
「おはよう。早いのね」
「もう7時だよ」
「今日も休みじゃない。早い早い」
そう言って、大きく手を伸ばす。
「……あれ」
「どうかした?」
「サンタさんのプレゼントがあるわ」
「ええ?」
目の前に差し出される、小さな靴下。
「君はいい子なんだね」
「どうかしら。自分も見てみたら」
少しして、同じ柄の靴下が枕元から出てきた。
「随分軽いけど、何が入ってるんだろう?」
「さあ」
妻は小さな靴下に手を差し入れる。
そこから取り出されたのは、細長いドングリである。
「……それって、優が大事にしていた物じゃなかった?」
「ええ。秋のキャンプで拾って来たの。リスさんからもらったって、あの子すごい喜んでた。私の宝物なんだって言って」
毛布の上に並べられる、3つのドングリ。
細長い2つと、少し小さな物が一つ。
それらを囲むように手を置く妻。
大切に、慈しむように。
「不覚ね。娘の心遣いに感動しちゃったわ」
「サンタじゃないの」
「ふふ。で、あなたへのプレゼントは」
「僕のは……」
夫が取り出したのは、可愛らしい犬がプリントされたメモ用紙。
「……玄関に置いてあります。大きな物でもくれたのかな」
「さあ。それはサンタさんに聞いてみないと」
「まだ寝てるだろ」
「多分ね」
そう言った妻の顔が、ふと和む。
「大変よ」
「どうかした?」
「子供が出来ちゃった」
「ええ?」
思わず腰を浮かしかける夫。
妻は自分の布団を持ち上げ、足元を彼に見せた。
するとそこには、丸めたベンチウォーマーを枕にしてすやすやと眠る愛娘の姿が。
「プレゼントを置いたのはいいけど、力尽きちゃったのね」
毛布と布団をかけ直し、優の髪をそっと撫でる妻。
「でも、どうして君の所で寝てるんだろう」
「親子だもの」
「僕だって、優の父親だよ。どうも納得いかないな」
「いいじゃない。ほら、玄関に行ってみましょ。サンタさんのプレゼントを見に行かないと」
「んー」
ベッドから降りた二人は、対照的な面持ちで寝室を出ていった。
玄関のドアを開けた途端、そこは白い光が射す世界へと変わる。
目も眩むような白さと眩しさ。
向かいの家も、道路も、庭も、全てが白である。
「積もったわね。こんなの久し振りよ」
「この辺りは、雪自体あまり降らないから。戦争中にいた、あの村が懐かしいな」
「寒い所だったんでしょ」
「ああ。とにかく、冬は堪えたね……」
小さな庭を横目に通り過ぎた父の足が、道路へ出たところで止まる。
「どうかした?」
しかし返事はない。
母は雪に足を取られながら、怪訝そうな面持ちでその隣へと向かう。
「一体、何が……」
家を囲う塀の前。
道路は、足首まで埋まる程雪が積もっている。
それは、おそらく二人の腰当たりくらいだろう。
一つ、二つ、三つ。
小さく、傾き加減である。
「参ったな」
腰を屈め、その一つに手を伸ばす。
小さな、小さな雪だるまに。
首には画用紙がぶら下がっていて「お父さん」と書かれている。
もう一つには、「お母さん」
それらの間にある、一際小さな雪だるまだけは何も書かれていない。
「まさか、日本で見る事になるとは思わなかったよ」
感慨深げに呟き、綺麗な曲線を描いている雪だるまの頬を撫でる。
細められた遠い眼差しは、雪だるまとその遙か彼方を見つめていた。
「あなたが昔見たっていう、その雪だるまさん達なのかしら」
「僕はそう思う」
「思いっきり日本語じゃない。しかも、優の字よ」
くすっと微笑み、大きく「お母さん」と書かれた画用紙を手にする。
「それでもこれは、昔見た雪だるまなんだ。少なくとも、僕にとっては」
手が赤くなるのも気にせず、父は何度となく雪だるまを撫でる。
懐かしむように、労るように。
「どうかした?」
もう片方の手がお腹に当てられているのを、母が目に止める。
「いや。手術の傷が痛んだけだよ」
「良かったわね。戦争中の傷が、撃たれた物じゃなくて手術で切られた物で」
「本当、臆病者で助かった」
「私も、そう思うわ……」
そっと寄り添う母の肩を、父は優しく抱き寄せた。
「さあ。優を起こしに行こうか」
「でも溶けちゃうわね、この雪だるまさん達」
「思い出は形だけじゃない。ここにも居続けてくれるさ」
雪で赤らんだ手を、自分の胸に当てる父。
遠い、遠い眼差しで。
「あなたのそんな優しさが、優に伝わってるんだと私は思うわ」
「君の優しさもね。あの子は、僕達の娘なんだから」
「ええ」
並ぶ雪だるまに、重なった二人の影がよぎる。
雪に覆われた道路が、朝日を浴びてきらめいていく。
どこかで、子供のはしゃぐ声がする。
いつの時代も、どの場所でも変わらぬ光景。
雪だるまの口代わりに付けられた色紙が、冷たい風にはためいた。
まるで、微笑んでいるかのように……。
了
エピソードx1 あとがき
小等部低学年、1年か2年生くらいの話と考えて下さい。
ユウよりは、お父さんお母さんがメインでしょうか。
環境だけが人を育てる訳ではありませんが、彼等がいたからこそ今のユウがあるのだと私は思っています。
二人とも素敵ですから。
ちなみに外見は、ユウとお母さんは非常に似ています。
お母さんの方が、少し目元が上がり気味な程度でしょうか。
私は絵が描けないので、その違いを表現しきれないのですが。
お父さんは中肉中背で、細い目の優しい顔立ち。
二人とも、誰よりもユウとお互いを愛しています。
もちろん、ユウも。




