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学内を周り、食堂でお昼を食べ、自警局で後輩の話を聞いたり片付けをする。
そんな日々が続く内に、卒業式が迫ってくる。
学校に通うのは。
いや。通えるのは、今週と来週だけ。
来週の金曜に卒業式が行われ、もう学校に来る事も無い。
無論来る事自体は可能で、敷地に入る事も出来はする。
ただそれは、卒業生として。
草薙高校の生徒としての、義務。権利が無い立場での、単なる訪問だ。
玲阿家の縁側に腰掛け、隣で眠りこけるコーシュカの背中を撫でながら庭を眺める。
空気はまだ冷たいけれど、前に比べて日差しはかなり柔らかくなった感じ。
少しずつ景色は緑に色付き始め、やがてそれは空の青と対比をなす程になるだろう。
「なー」
突然起き上がり、庭に転がった段ボールへ入って行くコーシュカ。
でもって、そのまま中で丸くなった。
「おい。入るな」
段ボールを抱えていたショウが注意するが返事無し。
されても困るけどね。
「一緒に連れて行けば」
「生ものだから、ちょっと難しい」
そう言って笑うショウ。
私も笑い、段ボールを取り上げようとしたところで端末に着信。
相手は真田さん。
ため息を付いて通話に出て、少し話をする。
話というか一方的な台詞に対して相づちを打つ。
「分かった。それで良いと思うよ。……ええ、また今度」
「なんだって」
「私はこうしたいんですけど、雪野さんはどう思いますかって。昨日も聞いた気がするんだけどね」
もう少し自立してると思ったんだけど、神代さん同様少しナーバスになっている様子。
何しろ、この私を頼るくらいだから。
「それだけユウが信頼されてるんだろ」
「愚痴を聞かせる良い相手と思ってるかも知れないよ」
「それも含めてじゃないのか」
どれを含めてなのか、全然意味が分からない。
猫入り段ボールは放っておき、リビングに戻って温かいお茶を飲む。
いくら春が近付いて来たとはいえ、まだ冬と言った方が正確な時期。
とはいえ私も、のんびりしてる場合でも無い。
リビングを出て、荷物が何も無い部屋へと到着。
以前はショウの部屋で、正確に言えば今もそう。
ただ私物を殆ど片付けてしまったため、あるのは家具だけ。
あの子、士官学校へ行く間はどうするつもりなのかな。
自宅はマンションで自室もそちらにあるが、こちらで過ごす事も多いはず。
ここまで何も無いと、さすがに困ると思う。
「まあ、良いか。良くないけど」
そう呟きつつ、室内を軽く見渡す。
広さとしては20畳程。
家具も最小限しか置いてないため、かなり広く感じられる。
床はフローリングで、壁は少し古くなっている。
「壁紙を貼り替えて、ローテーブルかちゃぶ台を持って来て。後は冷蔵庫か」
引っ越し兼リフォーム。
私一人が使う訳では無いが、レイアウトくらいは考えても良いと思う。
「いる物があるなら、他の部屋から持ってくるぞ」
段ボールを抱えて部屋に入ってくるショウ。
これは運び込む分ではなく、運び出す分か。
「ローテーブルかちゃぶ台。後は小さい冷蔵庫かな。それと、壁紙を貼り替えたい」
「家具は多分、他の部屋に余ってる。壁紙は、さすがにちょっと時間がないな」
自分で貼るつもりだったのか。
さすがにそこまでは甘えられないし、望むべきでもないだろう。
「良いよ。自分でどうにかするから。それより準備は良いの?」
「荷物は全部送った。これは余った」
部屋に置かれる段ボール。
中は空で、何故かそれに切ない視線を向けるショウ。
「どうかしたの?」
「こうして段ボールを使うのも最後かなと思って」
彼らしい感慨の感じ方。
とはいえ段ボールとは6年あまりの付き合い。
私達とは違う、何か特別な縁を感じているのかも知れない。
「……それより、話があるんだけど」
「何?」
「座ってくれ」
床を指さすショウ。
言われるままにぺたりと座ると、ショウも私の前に腰を下ろした。
「その、さ。覚えてるかな、この前した話。えと、あれ。……婚約の」
「え?まあ、それはさすがに」
忘れる訳は無いし、忘れようもない話。
これにはさすがに、私も正座に改める。
「それで、なんて言うのかな。……指輪買ってきた」
「え」
思わずのけぞり、すぐに戻って彼を見つめる。
つまりは婚約指輪。
何か、一気に汗が噴き出てきたな。
ただショウは、至って真剣。
私も気持ちは同じ。
真摯に彼の話を聞き、込み上げる喜びと感動を感じている。
「いや。嬉しいんだけど、どうして急に?」
「深い意味は無いけど、長い間離れる訳だし……。その、ユウを拘束するって意味ではなくて。なんて言うのかな。なんて言うのかな」
どうして二回言ったのかは分からないが、彼の真剣さは痛い程に伝わって来る。
彼が何を言いたいのかは分かるようで、私も良く分かっていないにしろ。
少しの沈黙。
気まずさよりも気恥ずかしさ。
でもってお互い突然と笑い出し、しかしそれもすぐに収まる。
色々と耐え難いな、この空気は。
「どうなんだろう。ユウの両親に挨拶すべきかな」
「挨拶?それこそ、どうなんだろう」
お母さんは別に問題無いはず。
ただお父さんは、最近情緒不安定。
この話題に関しては、特に。
とはいえ二人に話をせずに、自分達だけで勝手に決める事でも無い。
婚約するのは私達だとしても、誰に報告するかと言えばやはりお互いの両親に対してだろう。
「どうするの?昆布とかスルメとか用意するの?」
「い、いや。そういう本格的なのはちょっと」
「そうだよね」
私もそこまで堅苦しくなるのは避けたく、また話が大きくなりすぎる。
イメージとしてはお互いの両親と揃っての食事会。
それ以上の何かをするのは、金銭的にも辛いと思う。
「指輪って、高いんじゃないの。勿論、色々あるだろうけどさ」
「それなり物は買ったけど、金額を気にする物でも無いだろ」
これは喜びというより、意外な驚き。
先日までの困窮振りが嘘のような羽振りの良さだな。
「それとも、一緒に買いに行った方が良かったか?」
「全然。指に入ればそれで良いよ」
おもちゃの指輪でも満足とは言わないが、彼が贈ってくれるのならそれが一番の宝物。
私としては、そのくらいのつもりではいる。
そうなると後は、どうお互いの両親に切り出すか。
玲阿の方は、ごく普通に済みそう。
普段からフランクだし、多分私を受け入れてくれていると思いたい。
雪野家も、お母さんは問題なし。
となるとネックは、お父さんかな。
「それと、仲人は?でも、結婚式じゃないから関係無いのか」
「もし必要だとしたら、水品さんかな」
「ああ、なるほどね」
玲阿家との縁が深く、私に取ってはRASでの先生。
確かに一番ふさわしい人だと思う。
ただ先日からの言動を見ていると、この人も難がありそうだが。
「いつがいいのかな。卒業後?」
「ばたばたしそうだし、早い方がいい気もする」
「明日とか言わないよね。別に良いけどさ」
それはそれで嬉しいと言うか、変に舞い上がってくる。
指輪と食事だけなら、特に用意する事も無いだろうし。
取りあえず端末でカレンダーを確認。
特に予定は入れておらず、またこれといった用事もない。
ただショウが士官学校へ行くまでという期限があるため、それ程余裕がある訳でも無い。
「明日はさすがに急でしょ」
「いや。俺は何も言ってないぞ」
「明日、明日、明日。……大安か」
結婚式ではないが、良い日取り。
というか、今日は仏滅じゃない。
いや。当たり前なんだけどさ。
「天気も晴れだね」
「おい」
「何か問題?」
「問題は無い。俺の気持ち以外は」
突っ張りしすぎだと言いたげな顔。
それは自分でも分かっているが、結局こういうのは勢いだと思う。
「明日はともかく、先に報告するのは良いんじゃないの」
「まあ、ユウが良いなら」
「私は何も問題無いよ」
問題は何一つ無く、明日は晴天で大安。
だったら明日を逃せば次は一週間後で、その時はこうして悠長にしている余裕はないだろう。
「まずは、ショウの両親に挨拶をしよう」
「本気か?」
「私はいつでも真剣に生きてる」
「なら良いんだ」
だったら、ため息を付かないでよね。
リビングのソファーに並んで座り、ショウの両親と向かい合う。
「その、婚約する事にした」
「意味が分からん」
怪訝そうな顔して、グラスを手に取る瞬さん。
高校生の息子からそんな事を言われたら、私でも似たような反応をすると思う。
「ユウと、結婚の約束をする事にした」
真っ直ぐ真下に落ちるグラス。
しかし、そこはさすがに玲阿流直系。
もう片手で即座に受け止め、しかも水はわずかにもこぼれていない。
「落ち着け。それと、もう一度言え」
「婚約する事にした、ユウと」
「意味が分からん」
堂々巡りだな、これは。
薄々勘付いてはいたが。
「あなたは少し黙ってて。……優ちゃんも、当然それは承知してるのよね」
「はい」
素直に頷き、ショウの顔を見上げて頷く。
彼も私を見て、しっかりと頷いてくれる。
人の心を本当に理解する事は出来ないけれど、同じ気持ちを抱く事は出来る。
例えばこうして、私と彼のように。
「……二人が良いなら、私達が反対する理由は無いけれど。優ちゃんのご両親には?」
「今から挨拶に行こうと思ってる」
「随分急ね。……子供が出来たとか言わないわよね」
鋭くなる瞳の奥。
それに私もショウも、慌てて首をする。
「全然、そういう事は無いですから」
「だったら良いけれど。もしそんな事になってたなら、士官学校どころの話じゃなかったわよ。ねぇ」
「意味が分からん」
それはもういいんだって。
ショウの運転で雪野家に到着。
途中立ち寄った洋菓子屋さんで買ったケーキを携えて。
「どうしたの」
「いや。ちょっと汗が」
大きく深呼吸する、制服姿のショウ。
スーツも考えたが、私も彼も高校生。
だったらと制服だろうという結論。
私も寮で制服に着替え済みである。
「大丈夫?」
「当たって砕けろだ」
砕けちゃ駄目だって。
「ただいま」
いつも通りの調子で家の中に入り、そのまま並んでリビングへと入る。
お父さんとお母さんは、テレビを観ていた所。
そして私達の雰囲気に普段と違う物を感じたのか、何となく身構えられる。
「その、お話があるんですが」
畏まって告げるショウ。
顔を見合わせる二人。
ちょっと汗が噴き出てきた。
「取りあえず、座ったら」
ソファーを指さすお母さん。
言われるままにそこへ座る、私とショウ。
さすがに私も緊張が高まってきた。
ショウの家では平気だっただけに、これは自分でも意外だな。
静まり返るリビング内。
いつの間にかテレビも消され、張り詰めた空気の中私達とお父さん達が向かい合う。
「よろしいですか」
ショウの言葉に頷く二人。
私とショウも視線を交わし、お互いに頷き合う。
「婚約をしようと思ってます」
「へぇ」
私達の雰囲気からすでに悟っていたのか、にこやかに相づちを打つお母さん。
反対をする素振りは無く、どうやら一安心である。
「ショウ君のご両親にには?」
「先程、報告を済ませました」
「私は良いと思うわよ。今すぐ結婚するって訳でも無いんでしょ」
「ええ。自分が士官学校を卒業するか、ユウ……さんが大学を卒業するか。その辺りを一応考えてます」
「へぇ」
これには私が思わず声を漏らしてしまう。
そんな所まで考えていたのか、この人は。
で、ユウさんって誰よ。
突然立ち上がるお父さん。
そしてそのままリビングを出て行き、キッチンへと消えた。
何がと思ったのもつかの間、すぐに戻ってくるお父さん。
「ああ、そういう事」
「え、何が」
テーブルに置かれるグラス。
そして日本酒の瓶。
てっきり、包丁でも持ってくるかと思ったよ。
「おめでたい話だからね」
そう言って笑うお父さん。
こちらとしては赤面するより他なく、返す言葉が見つからない。
「優はどうする?」
「お茶で良い。大丈夫だとは思うけどね」
問題は無いと思うが、今となっては願掛けみたいな物。
ただここで飲まないと、ハードルを上げる一方の気もするが。
雪野家への報告も無事終了。
ショウは車の中でネクタイを緩め、大きく息を付いた。
「大丈夫?」
「全然駄目だ」
駄目って言わないでよ。
私も緊張したけどさ。
「お酒飲んでるから、私が運転するね。というか、飲まないでよ」
「いや。おめでたい話だから」
視線を逸らしつつ放すショウ。
この人、運転の事を忘れてたな。
「後は、雪野家と白木家への報告だね」
「ああ、ユウの」
背もたれを倒し、車の天井を見上げながら呟くショウ。
今日一日で、半年分くらい消耗した顔になってるな。
車はすぐに雪野家へ到着。
ここでも同じように、婚約の報告をする。
「あはは」
笑われた。
笑われるような事は言ってないつもりだが、人によっては笑い事にしかならないようだ。
「ちょっと聞いた?お祖父さん」
「隣にいるんだ。聞こえない訳が無い」
肩を震わせながら話すお祖父さん。
こうなると、どっちもどっちだな。
「おめでたい話だけど、結納はどうするの?」
「そういうのは考えて無くて。取りあえず、約束だけでもと」
「その方が良いかも知れないわね。昆布だスルメだって言われても、ちょっと困るから」
そう言って、もう一度笑うお祖母さん。
困りはしないけど、あまり堅苦しいのも正直苦手。
またお金の事を考えたら、さらに無理がある。
「流行ってるのか、高校生で婚約するのが」
至って真面目な顔で尋ねてくるお祖父さん。
流行ってるとは私も聞いた事が無いな。
「それは無いと思うよ」
「沙耶が大学の時に同じ事を言い出したから、低年齢化が進んでると思ってた。なるほどな」
何がなるほどかは全然不明。
とはいえ私達の婚約を認めて、また喜んでくれているのは嬉しい限りだ。
今度は白木家で報告。
こちらは笑う事もなく、逆に頭を下げられた。
「優の事を、よろしく頼む」
「お願いしますね」
「は、はい。必ず」
それこそ土下座しそうな勢いで頭を下げるショウ。
こういうところを見ると、雪野家とは血筋が違うんだなとしみじみ思う。
「優もしっかりとするんだぞ」
「分かってる。でもみんな、反対しないんだね。若すぎるとか、早すぎるとか」
「早いも遅いも無いだろう、こういう事に」
随分理解のある台詞を告げるお祖父さん。
自分達も高校生の時に婚約しましたとか言わないだろうな。
「私達は、社会人になった後で結婚したんだけれどね。お互いの気持ちがあるならという意味よ」
優しくフォローするお祖母さん。
こういう気遣いの出来る関係は、見ているだけでも羨ましい。
笑いあえる関係も良いけれどね。
暗くなる前に車を玲阿家へ戻し、地下鉄で家に戻る。
急展開過ぎて少し疲れたけど、一生に一度くらいはこういう事があっても良いと思う。
二度三度あっても困るけどね。
「ただいま」
「あら、戻って来たの」
お玉片手に声を掛けてくるお母さん。
戻って来るも何も、ここは私の家。
それに結婚をした訳でも無い。
「結納は?」
「やらないよ。面倒そうだし、お金も掛かるし」
「その方が良いかもね」
あっさりと納得するお母さん。
形式も時には大事だが、結納に憧れる気持ちはあまりない。
結局、駄洒落だしね。
「食事会でもする?」
「そのくらいが無難かな。尹さんのお店は……、まずいか」
尹さんに知られると、水品さんにも知られてしまう。
そうなると、後が色々面倒になる
「後、聡美ちゃん達に教えなくて良いの」
「しばらくは黙っておく」
隠したい訳では無いが、しばらくは伏せておきたい。
サトミには、特に
告げたら最後、三日くらいは張り付かれて質問のし通し。
ショウ共々、軟禁されるのは間違いない。
幸い明日まで、モトちゃんと旅行中。
最優秀生徒と最優秀評価生徒のご褒美で、今は長野の温泉にいるはずだ。
私も誘われたけど、寒そうだったからパスをした。
逆に今行っていれば、こういう状況にはなってなかったかも知れない。
「だったら家で何か作る?」
「面倒でしょ」
「出前にすればいいじゃない。ここでやるかショウ君の家でやるかは別にして」
「それで良いなら、私は構わないけど」
レストランでの会食も、妙に改まりすぎて肩が懲りそう。
とはいえ自分で料理を作ると、そっちが主眼になってしまう気もする。
「後で、ショウ君のご両親にも連絡しておくわね。優は、花嫁修業でもしてなさい」
「一応、家事全般はこなせるよ」
「あなたの場合、おしとやかになる事が大切なのよ」
なるほどね。
確かに、それとは最も縁遠い所に立ってるだろうな。
翌日。
お父さんの運転で、玲阿家の本宅へとやってくる。
色々な都合を考えればここがベスト。
ただお父さんは家の中に入るより、庭に植わっている白樺やドングリが気になるようだ。
「寒くないの」
「もうすぐ春だよ」
遠い目で庭の奥にある木々へ視線を向けるお父さん。
どうも、大丈夫では無さそうだ。
「早く、入ろう」
「春は遠いね」
今、もうすぐって言ったばかりじゃない。
いつものリビングへ案内をされ、まずは途中で買ってきたお土産をショウのお母さんへ渡す。
「この度は何と言いますか。急な事で、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。本当に、優でいいのかなんて思っちゃいまして」
なにやら盛り上がり始めるお母さん同士。
対してお父さんは、遠い目で愛想笑いを浮かべたまま。
魂ここにあらずと言った感じである。
「四葉、皆さんいらっしゃったわよ」
「え、ああ」
何故か段ボールを抱えながら現れるショウ。
とはいえ白いシャツに、紺のネクタイ。
下も紺のスラックスで、半袖ジーンズといういつものような服装ではさすがに無い。
私も紺のスーツに茶のコート。
堅苦しいなとは思ったが、ラフな恰好をする場面でもないので。
「いらっしゃいませ」
「引っ越しの準備?」
「ええ、まあ。部屋の片付けも兼ねてですけど」
段ボールを抱えたまま話すショウ。
最後の最後まで段ボールだな、この人は。
さすがに段ボールは何処かへ置かれ、両家の全員がリビングへ揃う。
雪野家からは、私と両親。
玲阿家は、ショウと両親が。
「月映さん達はいないんですか」
「今日は出かけてます。両家の顔合わせですが、今日は両家族だけという事で」
ティーカップに紅茶を注ぎながら微笑む鈴音さん。
それは知らなかったし、なんだか気を遣わせてしまった感じ。
少し緊張してきたな。
「いらっしゃい」
いつも通りよりは固い調子で現れる瞬さん。
彼も今日はワイシャツにネクタイ。
襟も緩んでおらず、肩にボトルを担いでもいない。
「何と言いますか。この息子で良いのかとも思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「いえ。そんな事は」
返事はするが、何処か固いお父さん。
いっそ、お酒でも飲んだ方が良いのかな。
テーブルの上にはすでに料理も置かれていて、見た感じケータリングサービスを頼んだ様子。
洋風の料理が幾つも並び、北米のホームドラマをイメージする。
「前置きはさておき、取りあえず乾杯と言う事で」
グラスを掲げる瞬さん。
私達もそれぞれグラスを持ち、それを軽く重ね合わせる。
「初め聞いた時は、意味が分かりませんでしたよ。今も、良く分かってませんけど」
そう言ってグラスをあおる瞬さん。
私も少々慌てすぎたなとは思ってる。
思い立ってこの状況に至るまでが、ほぼ一日。
誰でも似たような事は言いたくなるだろう。
「大体、いつから決めてたの」
詰問ではないが、少し固い口調で尋ねてくる鈴音さん。
昨日とはさすがに言えず、先月くらいとショウが先に答えてくれた。
そういう話が出たのは、確かに先月くらいから。
それでも急だとは思うが。
足元にさわさわとした感触。
確認するより先に、大きく体を伸ばしてテーブルに手を付けるコーシュカ。
お祝いに駆けつけた訳では無さそうで、食べられそうな物が無いが物色してるようだ。
「魚食べる?」
「なー」
白身のフライを解して差し出すが、鼻だけ近付けてすぐに顔を逸らされた。
嫌な猫だな。
「問題はこのどら猫だ。四葉がいなくなると、何をするか分からん」
「そうですか?」
「優ちゃんには懐いてるけどね」
敵を見るような目でコーシュカを睨み付ける瞬さん。
そこまでひどくはないと思うんだけどな。
「婚約もした事だし、そいつの世話を頼むよ」
「はぁ」
婚約したら、猫のご用係を仰せつかった。
良いけどね、別に。
「ばうばう」
今度は窓の向こうに大きな犬が現れる。
瞬さんは思い出したと言わんばかりに手を叩き、そのまま羽未を指さした。
「あの犬も頼むよ」
「はぁ」
「あー、これで肩の荷が下りた」
そういう問題なのか、これは。
私達を肴に盛り上がる。なんて事もなく、平穏な内に食事会は終了。
盛り上がっていたのはお母さん同士。
瞬さんはお酒を飲み、私とショウは大人しくしていただけ。
お父さんは例により、遠い目でテーブルを見つめていたが。
「大丈夫?」
「お酒は飲んでないからね」
そう言って庭を歩くお父さん。
例の白樺とドングリを見つけたいらしいが、私もどこに植えたかは正直忘れている。
「名札を付けたはずだけどね」
そのため木の1本1本に近付けば、どれが白樺なのかは分かるはず。
全然違う木と間違えて、感動する事はせずに済む。
林のようになっている木々の奥には無いはずで、植えたのはその外周部分。
大体この辺だと思っている木を一つずつ確かめていく。
「これからは、たまに見に来れば良いじゃない。私も、コーシュカ達の世話があるし」
「まあ、そうなんだけどね」
複雑そうな顔で木を撫でていくお父さん。
どうにも情緒不安定だな。
「もしかして、婚約に反対してる?いやそこまで行かなくても、まだ早いとか」
「そうじゃないよ。良い事だし、喜んでるよ。本当に」
何とも儚い笑顔。
言ってる事は本当かも知れないが、この表情を見ると少々心苦しい。
「ただ正直言うと、優が何才であろうと結婚するのは寂しいね。男親としては」
「そんな物?」
「一生雪野家に居続けるのは問題かも知れないけど、僕個人としてはそれでも良いくらいだから」
それはお父さんの愛情が、真っ直ぐ私に注がれている事の証し。
無条件で、純粋な。
私への思いだけが込められた。
思わず目元に手を添え、泣いていないか確認をしてしまう。
どうやら涙は出ておらず、ただ心の中ではかなり危ないところだった。
お父さんが突然声を上げなければ、頬を伝っていたかも知れない。
「どうかしたの?」
「あった」
感慨のこもった声を出すお父さん。
何がと思ったら、足元にドングリが落ちていた。
木は何十本とあるので落ちている事自体は珍しくない。
ただその木に、「雪野家寄贈」と書いてあれば話は別だ。
「あったよ、ここに」
眼を細め、しみじみとした表情で木の幹を撫で出すお父さん。
良いんだけど、あまり木に愛着を持たれても困る。
生き別れの娘に出会ったような気持ちでも抱いてるのかな。
「なー」
その裏で、変な声を上げながらドングリの木に爪を立てているコーシュカ。
お父さんは木を撫でたまま。
何だろうか、この光景は一体。
それでもどうにか食事会は終了。
ショウとも殆ど話さない内に、家へと戻ってくる。
さすがに今日は疲れたというか、自分でも何をやってるのか良く分からなかった。
とにかく服を着替えて、お風呂に入るとしよう。
湯船に浸かって湯気に煙る浴室を見ていると、曇りガラスの向こうに人影が見えた。
良く分からないが、雰囲気的にサトミの気がする。
今はまだ夕方で、普段の私ならお風呂には入らない時間。
その事に何か突っ込みたいのかも知れない。
バスタオルを体に巻き、頭を拭きながら浴室を出る。
予想通り、脱衣所にいたのはサトミ。
そして私を頭の先からつま先まで眺め、そのまま視線を同じように上まで上げた。
「どうかしたの」
「ちょっと疲れたから、リラックスしようと思って」
「どうして疲れたの」
「色々とね」
婚約して食事会に行って来ました。
なんて答えたら、何がどうなるか想像もしたくない。
彼女への報告は卒業後。
大学入学までの余裕がある時に済ませたい。
パジャマに着替えても、ひたひたと後を付いてくるサトミ。
言っても厄介だけど、言わなくても面倒だな。
「何があったの」
「その内話す。それより旅行は」
「露天風呂付きの個室だったわよ。ユウも来れば良かったのに」
「遠出するのも疲れると思ってね。片付けとかもあったし」
多少逸れる話題。
私が本当に嫌がっていればさすがにサトミも突っ込んでは来ない。
今回は嫌がってる訳ではなく機会を窺っているのだけど、状況としては大差無い。
夕食のテーブルに置かれる猪の肉。
私はこういう、獣っぽいのは苦手なんだけどな。
「そばじゃないの、長野って」
「猪も有名なのよ。これはイノブタではなくて、野生の猪。美味しいらしいわよ」
らしいって何よ、らしいって。
でもってその隣に置かれたのは、やっぱりお肉。
「これは馬肉」
まあ、良いんだけどね。
ただそれ程馴染みのある食べ物ではないし、是が非でも食べたい食材でもない。
美味しいには美味しいだろうけど、素直に喜べるお土産でもない。
「ショウか御剣君にあげてよ。あの二人なら、大はしゃぎして食べるから」
「だったらこれは」
追加される大きな木箱。
出てきたのは巨大なおまんじゅう。
ではないか。
「おやきか。これなら、嬉しいかな」
中身は基本的に野菜や山菜。
これこそ好みは分かれるが、私としてはこちらの方が合っている。
という訳でまずは電子レンジで加熱。
その後オーブン機能にして、表面を軽く炙る。
「頂きます」
ぱりぱりした皮の食感と、味噌の風味が付いた野菜のうまみ。
あっさりしてて、何とも食べやすい。
というか、これ一つで今日の夕食はもう十分だ。
「馬刺しもたまに食べると美味しいわね」
私とは好みが違うのか、もしゃもしゃと馬肉を食べていくお母さん。
目の前で食べられるとつい箸が伸び、結局口に運んでしまう。
ユッケとはまた違う、淡泊で少し食べ慣れない味。
とはいえ美味しいには美味しく、自然と頷きたくなってくる。
お昼を結構食べたので、結局おやき一つでお腹一杯。
やはりサトミのお土産である干しリンゴをかじりつつ、のんびりテレビを眺める。
「準備はもう済んだの」
「何が」
冷や汗をかきつつ、テレビを見ながら返事。
私の隣に座っていたサトミは端末の画面を、私の鼻先に突きつけてきた。
「謝恩会よ」
「ああ、そうか。尹さんのお店を借りるから、料理と場所は問題無い。持ち込みも良いって」
「後は……。特に何も無いわね」
無い事が問題だ、みたいな表情。
つくづく、常に疑問と問題を抱えていないと気が済まないんだろうな。
「後は無事に卒業するだけだよ」
「ユウが大人しくしていれば大丈夫」
「最近はゆとりが出てきたから、心配しなくて良いよ」
「ふーん」
気のない返事。
とはいえ実際、このところ頭に血が上った記憶は殆ど無い。
スティックを振り回した記憶はもっと無い。
現場に出てないのもそうだし、今更暴れ回る生徒がいないのが最大の理由。
今問題を起こせば、それこそ卒業が危うくなる。
私も去年の二の舞はご免で、後は頭を低くして平穏無事にやり過ごすだけだ。
まだ早い時間だが、眠くなったので部屋に戻って布団に潜る。
蘇ってくる昨日と今日の様々な記憶。
ただ赤面するというよりは、慌ただしさが先に立つ。
それもまた私らしく、実感するのはもっと先になってからだろう。
とにかく今はただ眠く、意識は緩やかに薄れていく。
夜中。
かどうかは知らないが、飛び起きて手を触る。
指輪を無くす夢を見た。
いや。夢ではなくて、実際指輪が存在しない。
「……ああ、そうか」
記憶を辿れば分かるが、そもそも指輪をもらってない。
勘違いも良い所。
とはいえ、真夜中に暗闇で笑ってる場合でも無いな。
端末を手に取りショウに連絡しようと思ったが、すぐに思いとどまる。
単純に忘れてるかも知れないし、何か意図があるのかも知れない。
何より、催促する事柄でもないだろう。
「あーあ」
疲れたというか、張り詰めていた空気が途切れた感じ。
それもまた、私らしいと言える。
時計を確認すると、日付をまたいで少し経った頃。
とはいえ気持ちとしては、まだ半分夢の中。
昨日からの出来事も夢のような気がするくらい。
楽しく、幸せで、それこそ夢みたいな話。
自然と浮かぶ笑み、口元から漏れる笑い声。
そんな気持ちのまま、再び夢の中へと溶けていく。




