51-1
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「ふぅ」
電車に揺られる事数時間、ようやく男鹿駅に到着。
名古屋駅から秋田まではリニアで移動。
その先は在来線に乗り換え、お昼前にどうにか辿り付いた。
事前に調べた住所を確認する限り、サトミの実家は駅からそれ程遠くは無いようだ。
「大丈夫?」
「ナビがあるからな」
駅前で借りたレンタカーのナビに住所を転送し、ルートを確認するショウ。
前もって地図も確認していた事もあり、彼はすぐにルートを理解したらしい。
「1時間もあれば着くだろ」
「入道崎だった?男鹿半島の先なんだね」
「真冬じゃなくて助かった」
時期としてはもうすぐ春だが、車内は暖房が効いた状態。
外にいると、正直足元から凍えてくるくらい。
北に来たんだと、しみじみ実感する。
海沿いに沿って車を走らせるショウ。
半島の中央を走る道路もあるが、こちらの方が気分は良いと思う。
観光ではないので、心底楽しむとまでは行かないにしろ。
「なんだか寂しい眺めだね」
これもまた私の気持ちが反映しているのかも知れない。
つまり単なる旅行であれば、風光明媚などと表現している所だろう。
少し重い海の色。
空も灰色の雲が立ちこめ、雪こそ降らないが清々しい眺めとは程遠い。
「サトミの両親は、ちゃんと家にいるかな」
「いないと困る」
苦笑気味に答えるショウ。
事前にサトミのお兄さん。秀邦さんに連絡を取ってもらってはいるが、向こうに会う気がないならそれまで。
どこかに出かけられていては、こちらは探す術がない。
気付けば道幅が狭まり、左右に住宅が建ち並ぶ。
そしてナビが、到着間近だと告げ始めた。
道は若干の登り。
岬に近付いているようだ。
「ちょっと緊張してきた」
「大丈夫か」
「多分」
バックミラーで、身だしなみを確認。
髪型を整え、ブラウスの襟を直す。
「後は、お土産と」
足元の紙袋を膝の上に置き、ういろうを手に取る。
定番中の定番だが、奇をてらう場面でもないので。
「お茶飲もう、お茶を」
「落ち着け」
「大丈夫だって」
「本当か。……見えてきたな」
思わずお茶を吹き出しそうになり、慌てて口元をハンカチで拭う。
つまりは、吹き出したんだけどさ。
ショウが車を止めたのは、どこにでもありそうな一軒家の前。
サトミ本人から何も聞いていないので、何の実感も感慨も無いが。
「車庫があるな。空いてるなら、ここに置かせてもらうか」
「取りあえず、連絡してみる」
車を降り、まずは深呼吸。
サイドミラーで改めて身だしなみを確認し、もう一度深呼吸。
そしておもむろにインターフォンを押す。
「はい」
落ち着いた。思い込みかも知れないがサトミを連想させる声。
もう一度息を整え、インターフォンに顔を近づける。
「昨日お電話した、雪野と申します」
「こんにちは。今開けますので」
意外と躊躇の無い反応。
これは予想外で、こちらの方が焦ってしまう。
「大丈夫かな」
「なるようになるだろ」
私の隣で肩を回しているショウ。
意外に図太いというか、肝が据わってるな。
すぐに玄関のドアが開き、落ち着いた雰囲気の女性が現れた。
私の記憶にもある、サトミのお母さんが。
「こんにちは。雪野と申します」
もう一度挨拶をして、ショウ共々頭を下げる。
お母さんは軽く会釈をして、玄関前の鉄柵を開けた。
「遠い所を、わざわざ済みません。どうぞ、お入り下さい」
「はい。失礼します」
「車庫のシャッターも、今開けますので」
こちらが話す前にシャッターを開けるお母さん。
それには血筋というか、サトミとの近さを自然と感じる。
家の中も非常に落ち着いた雰囲気。
間違っても散らかった様子はなく、人となりがそのまま現れたと言って良いだろう。
廊下を通ってリビングに通されると、そこには年配の男性。
サトミのお父さんが待っていてくれた。
「お待ちしていました。どうぞ、お座り下さい」
言われるままにソファーへ座る私とショウ。
まずはお土産を渡し、何となく室内を見渡す。
目に付くのは壁際に並ぶ本棚。
どれも見た事のないタイトルや、難解なアルファベットの羅列。
改めてサトミの家系。
彼女が二人の血を濃く継いでいるのだと知らされる。
「ご用件は、卒業式への出席でしたか」
「はい。サトミ……さんに会わなくても、せめて式にだけは出席して下さい」
「私達は構いませんが、聡美本人はどうでしょうか」
お茶を運んできたお母さんへ視線を向けるお父さん。
サトミと両親の確執は今に始まった話ではなく、もしかすると小等部の頃から。
お互い、相手との距離感を計りかねている。
ただサトミも以前ほど両親への敵意。反発を示しはせず、とはいえ無関心という訳でも無い様子。
何よりせっかくの卒業式。
両親がいるのに出席しないのは、あまりにも寂しすぎる。
「サトミさん本人には、場合によっては私達が説得します。ご両親が出席されても、彼女も受け入れてくれると思います」
「頑なな子ですよ」
それは私も良く分かっている。
同時に、彼女が優しくて素直な子なのも。
少しの間。
何か言葉を繋ごうとしたところで、お父さんが微かに視線を下げて呟いた。
「分かりました。本人に知らせないのであれば、出席させて頂きます。聡美がお世話になった方へ、ご挨拶もしないといけませんし」
「あ、ありがとうございます」
「改めて申しますが、本人には伝えないようお願いします。雪野さんは大丈夫と仰ってますが、彼女が私達をどこまで許しているかは疑問なので」
「……分かりました」
これは私からも何とも言いようが無く、まさにサトミと両親の問題。
そこまで私も踏み込めはしない。
ただ了承が得られたのは確か。
その事には少し安心をする。
「私達は、これで失礼します。卒業式で、またお会いしたいと思います」
「わざわざありがとうございました。……聡美の事、よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる両親。
サトミが何を言おうと、この二人は彼女のお父さんでありお母さん。
彼女の幸せを願う気持ちは、常に抱き続けている。
それが私の勝手な思い込みだとしても、私はそれを信じ続けていたい。
玄関先で二人の見送りを受けながら、車は来た道を戻っていく。
「ふぅ」
ブラウスの襟元に指を差し入れ、思わず息を付く。
緊張で、何を言ったのか半分くらいは覚えていない。
ただ了承は得られたので、間違った事は言ってないと思う。
「取りあえず、どうにかなったね」
「ああ。ここまで来た甲斐はあったな」
気付くと行く手には何も無く、果てしなく海と空が広がる光景。
その手前にはなだらかな丘があり、ぽつりぽつりと観光客の姿が見える。
「ここが入道崎、らしい」
「ふーん」
駐車場に止めた車から降り、周りを見渡す。
正面と左右は海。
後ろ側にはお土産物屋さんが建ち並び、さらにその後ろは住宅街。
サトミの実家もそこにあると思う。
「あの子も昔は、ここに来てたのかな」
「近いし、そういう事もあるだろ」
灰色の雲と重い色の海。
丘を越えた先は断崖で、大きな岩が波に洗われている。
気持ちが少し軽くなった今でも、やはり寂しげに見える景色。
これは心証だけの問題ではないようだ。
「こんな所にいると、サトミみたいな性格になるのかな」
「元々だろ」
案外ばっさりと切り捨てるショウ。
とはいえ、それは彼の言う通り。
私がここで育ったからといって、サトミのような性格になるとも思えない。
「いつか、サトミとも一緒に来たいね」
「無理に連れてくれば良かったんじゃないのか」
「そんな勇気ある?」
「俺はない」
何だそれ。
夕方を過ぎた頃に名古屋駅に到着。
泊まりも覚悟していたので、慌ただしくはあったが気分は軽い。
駅内のコンコースは、とにかく人また人。
途切れるどころか、人の流れに乗るので精一杯。
まごついていたら、見当違いの場所へ流されていくと思う。
とはいえ私のは、これが当たり前の光景。
常に名古屋駅を利用する訳では無いにしろ、馴染んだ感覚ではある。
「ご飯、どうする?」
「今日は食事会なんだ」
「ふーん」
あまり雪野家では聞き慣れない単語。
ただ玲阿家は名家というか、旧家。
比較的そういう集まりも多いと思う。
「私は買い物して帰るから。今日はありがとう」
「ああ、お疲れ様。気を付けて帰れよ」
「ここなら迷わないって」
「ふーん」
嫌な視線を残して去っていくショウ。
追いかけようと思ったが、すでにその背中は人混みの中。
無理をすれば、それこそ迷子になるだろうな。
デパ地下で総菜を少し買い、家へと帰宅。
リビングからは笑い声が聞こえてきて、どうやらサトミが来ているようだ。
「ただいま」
「お帰りなさい」
慣れた様子で挨拶をしてくるサトミ。
本当にここは、私の実家なんだろうか。
「どこ行って来たの」
「名駅をうろうろしてた」
秋田に行ってましたとは言えず、適当な事を行ってお土産をテーブルに置く。
それに朝早くから出て、移動の連続。
緊張が解けた事もあって、さすがにだるい。
「寝るの?」
「まさか」
小さく欠伸をして、下がっていた顔を上げる。
眠いのは間違いなく、ただお腹も空いている。
それでも眠気が上回るのだから、睡眠欲の方が人間にとっては強いらしい。
どうでも良いけどさ。
半分寝ながら食事を済ませ、お風呂に入って部屋へ戻る。
サトミが何か聞いていた気もするがそれも覚えておらず、またリニア内で揺られてるような感覚。
ベッドに伏せていた顔を上げ、ここが自分の部屋であると確認をする。
それでもショウが言ったように、無理をした甲斐はあったはず。
私の独りよがりだとしても、何もしないよりは良かったと思いたい。
明けて日曜。
朝から寮に出かけ、荷物の片付け。
まだ眠いけど、漁に出かけるよりは良いだろう。
などと、下らない事を思ったりもする。
「特に、何も無いか」
家具は備え付けの物だけ。
後はクローゼット内に着替えが少しと、缶詰が少し。
リュックとバッグに詰めていったら、すぐに全部が収まった。
去年退寮した時は、まさに引っ越し。
トラックで移動した記憶があるので、それを思うと色々感慨深い。
今年はこの部屋で過ごした記憶はあまりなく、それでも中等部の頃からお世話になった場所。
その意味においても感慨は深い。
お礼の意味も込めて掃除をしていると、サトミが玄関から顔を覗かせた。
「暇かしら」
掃除してるよ。
とは言わず、何がと尋ね返す。
「荷物が片付かないの。少し手伝って」
「良いけどね」
掃除も殆ど終わってるし、私の片付けも終わり。
サトミを手伝う事に問題は無い。
賞状、メダル、感謝状。
スポーツで貰える物とばかり思っていたけど、頭が良くてももらえるらしい。
それだけで段ボールが3つ積み上がり、今更ながらこの子の優秀さに感心する。
「すごいね、これ」
「もらっただけでしょ」
さらりと答えるサトミ。
貰える人からすればそう答えるかも知れないが、貰えない私からすれば圧巻の一言。
ただこんなのを貰っていた事も知らなかったので、これも今更ながらこの子の別な一面を見た気もする。
「半年しかいなかったのに、結構荷物があるね」
「去年退寮手続きを差し止めて、全部置いていったのよ」
やはりさらりと答えるサトミ。
この辺はコメントしたくないな。もう。
廊下に段ボールが積み上がり、またそれは別な部屋も同様。
卒業するのは私達だけでなく、3年生全員。
これもまた、卒業間近の光景か。
「モトちゃんは大丈夫かな」
「ユウと同じで、最近は実家からも通ってたから荷物が少ないみたい」
「それでこれは、誰が運ぶの?」
「プロがいるでしょ」
誰がと言うより早く現れるショウ。
分かってたけどね、その辺は。
「私の名前が書いてある物は、全て玄関前まで運んで」
「任せろ」
例により、段ボールを3つ抱えて廊下を歩いていった。
私の場合一つでも視界がふさがるので、そういう無理はしたくない。
「自分の寮は良いの?」
「元々荷物が少ない。ユウはどうなんだ」
「私はもう片付いた。後はリュックとバッグだけ。最近は家から通ってたしね」
「ああ、そうか。で、玄関に運んだ後はどうするんだ」
それはちょっと聞いてなかったな。
部屋へ戻り、丁寧に食器を新聞紙で包んでいるサトミに話しかけてみる。
「聞きたいんだけどさ」
「今、大切なところなの」
確かに割れないように包むのは大切な事。
ただ運ぶ時点でない限り、細心の注意を必要とはしないと思う。
「それはどうでも良いんだって」
「なんですって」
刺すような目付きで睨み上げるサトミ。
番長更屋敷って、こんな感じかな。
「あの荷物。最終的にはどこへ運ぶの」
「大学の側にマンションを借りるから、そこに運ぶわよ」
「マンション?お金は?」
「その辺りは、どうにでもなるわ」
なる物なのか。
サトミはなるかも知れないが、私には絶対無理だと思う。
というか、私じゃなくても無理だろう。
「それで荷物のある程度は、ユウの家に運びたいんだけれど」
「そうなんだ」
正直言えば、これを聞きたかったというか確かめたかった。
秋田に行った後なので、その感慨もひとしおである。
「はは」
「痛いわよ」
「気にしない、気にしない。あー、春はまだ来ないかな」
サトミの不興を買って、部屋を追い出された。
私の気持ちを全然分かってくれないな、あの子は。
あの状態で分かる方が難しいかも知れないけどさ。
「調子、どう?」
「もう終わったわよ」
空っぽの部屋で、ペットボトルのお茶を飲んでいるモトちゃん。
荷物は小さなバッグが一つあるだけで、掃除も済んでいるようだ。
「早いね、随分」
「みんなが手伝ってくれたから」
何と言っても自警局局長。
そしてこの人柄。
頼まなくても人は集まってくるだろうな。
サトミも人柄が悪い訳では無いが、誰しも壁を意識はする。
彼女に好意を抱いていても、気さくに話しかけるのは抵抗があると思う。
「ユウはどうなの?」
「私は殆ど荷物がないから。サトミの部屋も片付きつつある」
「それにしても、こんな日が本当に来るとは思っても見なかった」
遠い目で、何も無くなった部屋を見つめるモトちゃん。
中等部の頃から数えると、約6年。
モトちゃんも退寮を勧告されたが、あの騒ぎで荷物は結局置いて行ったままだった。
寮への思い入れは、もしかすると私より強いのかも知れない。
「モトちゃんは、どこに住むの?」
「実家からも通うけど、サトミのマンションを間借りしようかと思って」
「……ちょっと待って。間借りするほど部屋があるって事?」
「5LDKだか6LDKって言ってたわね。一軒家を提供されたらしいけど、管理が面倒で断ったんですって」
提供される物なのか、一軒家って。
「それに奨学金の上限が無くなったから、お金は嫌でも入ってくるでしょ」
「嫌でも?」
「そう。嫌でも。サトミは卒業後も大学に残るつもりだろうけれど、名前だけでも貸して欲しいって企業はいくらでもあるらしいから」
ここまで来ると、もう想像すら出来ないな。
荷物を持ってモトちゃんと一緒に玄関へ向かうと、肩を回しているショウとすれ違った。
「まだまだ残ってる?」
「いや、殆ど運んだ。後はサトミ本人くらいだろ」
「早いね。というか、あの子は何してるの?」
「段ボールに出来る隙間が気にくわないらしい」
もぞもぞと、何かを詰める真似をするショウ。
隙間があるのは確かに困るが、それは新聞紙なり緩衝材を入れればいいだけ。
だけどあの子は、部屋にある物で綺麗に隙間を埋めようと思ってるんだろうな。
「その内戻って来て、段ボールを開けてって……」
「ショウ。最後から3番目に運んだ段ボールを一度開けて。そこに小さなケースがあるから」
「それを抜いたら、こっちに隙間が出来るだろ」
「だから最初から5番目に運んだ段ボールを開けて」
何当たり前の事を指摘するのと言いたそうなサトミ。
でもってその5番目の隙間はどうするのよ。
「もう終わり。ショウ君、部屋に行って残りを持って来て」
「おう」
「誰が許可したの、それを」
「私が許可した。いつまでも段ボールと戦っていても仕方ないでしょ」
ぺたりとサトミの頭に手を置くモトちゃん。
サトミも彼女には逆らえないらしく、口元では何か言いつつそれでもショウを見送った。
「あれ、何してるの?」
パジャマ姿で現れる沙紀ちゃん。
それは私も言いたいところだな。
「部屋を片付けてる。沙紀ちゃんは良いの?」
「まだ早くない?卒業式後でも良いのよ、退寮は」
彼女がそう答える間に、目の前を通り過ぎる幾つもの段ボール。
このまま放っておくと、最後の卒業生は沙紀ちゃんになりそうな気もする。
「……片付けた方が良いのかしら」
「今なら手伝えるよ。ショウも空いてるし」
「お願い。……引っ越し業者に連絡した方が良い?」
「大丈夫。全部ショウがやる」
頭に何かが当たる感覚。
多分誰かが、段ボールを押し当ててるんだろうな。
それが誰かは、この際は確認しないでおこう。
取りあえず荷物を片っ端から段ボールへ詰めていく。
サトミがそれは違うと言いたそうにしているが、後でまた開けるのだから同じ事。
とにかく、詰めて詰めてまた詰める。
「あれ?何してるんですか?」
やはりパジャマ姿で現れる渡瀬さん。
先輩後輩とは、良く言ったものだ。
「沙紀ちゃんがのんきにしてたから、みんなで片付けてるの」
「退寮するのは、卒業後でも良いんですよね」
そう言っている彼女の後ろを通り過ぎる段ボール。
結構悠長だな、この子達。
「まあ、いいか。私も手伝いますよ」
「何か用事はないの?」
「沙紀先輩を手伝う事に勝る用事はないですからね」
そう言って爽やかに笑う渡瀬さん。
本当良い後輩だな、渡瀬さんは。
みんなでわいわい騒ぎながら荷物を詰めていると、誰かに話でも聞いたのか真田さんがドアから顔だけをこちらに見せてきた。
「手伝ってよ」
「どうしてですか」
これが北地区と南地区の違いという奴か。
私達は、つくづく後輩の指導を間違えた。
「どうしても。今すぐ神代さんと緒方さんを呼んできて。今すぐに」
「本当、雪野さんって横暴ですよね」
捨て台詞まで残された。
今の台詞は、我ながらひどかったとは思うが。
それでも今すぐと言っただけあり、二人はすぐに到着。
人数が増えたので、仕事も一気に進み出す。
「私、まだここに住むつもりだったんだけど」
ぽつりと呟く沙紀ちゃん。
しかし荷物は8割方片付けた後。
今更後戻りは出来そうにない。
「最低限の着替えさえあれば構わないでしょ。布団も借りられるし」
例により、段ボールへの荷物の詰め方を検討しながら話すサトミ。
そこまで真剣になる要素が、この段ボールのどこにあるのかな。
沙紀ちゃんの荷物も全て玄関前まで運び終え、後はショウのトラック待ち。
引っ越し業者のトラックがロータリーを何台も通り過ぎ、そのたびに荷物が運び込まれていく。
卒業式前の、定番の風景。
去年はともかく、それ以前はこの光景を何度も見送ってきた。
今、自分が見送られる立場になるとは思いもせずに。
「回るルート順に荷物を積めた方が良いわね。モトの家が最後だから、一番初めに詰めて。次が丹下ちゃん。私のは一番手前に。時間が押しているから、手早くね」
もう、何もかもが意味不明だな。
そういう訳で、まずは雪野家へ到着。
トラックから荷物を次々と運び出す。
本などの重い物はショウに任せ、私は軽めの服を狙う。
物理的に、重い物は運べないしね。
「来たわね」
苦笑気味に現れるお母さん。
でもってその前を通り過ぎる段ボールの列。
苦笑以外、する事はないだろうな。
「どうでもいいけど、床が抜ける事は無いでしょうね」
「寮でも大丈夫だったんだから、この家も大丈夫でしょ」
「寮ほど頑丈だと思う?この家が?」
そう言われると困るというか、普段住んでいる者からすれば頑丈じゃないと困るでしょ。
「優の荷物は?」
「ああ、あれ」
ショウが運ぶ段ボールの上に乗るリュックとバッグ。
中は着替えと缶詰しか入ってない。
「最近は寮を使ってなかったから、荷物自体が殆ど無かった」
「意外と慎ましいのね」
何が意外かは知らないが、ある意味身の丈に合っているとは思う。
サトミの荷物を運び終え、次は沙紀ちゃんの家。
今度はサトミの時程重くはなく、私も段ボールを軽々と運んでいける。
「力持ちですね」
可愛らしく笑う沙紀ちゃんの妹。愛希ちゃん。
しかしこの子、中学生のはずなのに私と身長が大差無いな。
というか、この子の方が大きくないか。
「どうかしました?」
「いや、別に。頑張って生きていこうかなと思って」
「はい?」
非常に怪訝な顔をされた。
言った本人が分かってないんだから、彼女が分かるはずもない。
どうにか全部運び込んだ所で、沙紀ちゃんのお母さんがイチゴを出してくれた。
さすがに荷物を運び込んだ部屋ではなく、リビングで。
「寝ないでよ」
フォーク片手に話しかけてくるサトミ。
さすがに私も、ここでは寝ないって。
多分。
「弟さんは?」
練乳の掛かったイチゴを頬張りながら尋ねるモトちゃん。
そういえば、今日は見かけないな。
でもって沙紀ちゃんの表情が、途端に曇りだした。
「鶴木さんっているじゃない」
いるね。
あまり思い出したくないけどね。
「あそこの道場に通ってるの。実戦系剣術だった?」
それでは彼女が表情を曇らせるのも致し方ない。
何しろ木刀で殴り合う、相当過激な流派。
禁じ手はあってないようなもので、常識ある人間なら見る事すらためらわれると思う。
加えて鶴木さんの実家。
つまりは、彼女がそこにいる。
毒をもって毒を制すどころか、火事にガソリンを振りまくような物だ。
「大丈夫だと思う?」
真顔で尋ねられても困る。
という訳で、親戚でもあるショウに視線を向ける。
「大丈夫だろ。真由さんが教えてなければ。右動さん達は常識人だぞ」
だったら、鶴木さんはどうなのよ。
なんて突っ込みたくなるな。
「鶴木さんが教えてたらどうなるの?」
「そろそろ時間じゃないのか。早く、モトの家に行かないと」
イチゴを残して立ち上がるショウ。
食べ物を放っておいてまで逃げ出すなんて、余程この話題は避けたかったんだろうな。
田園地帯を快走するトラック。
ただ車内の空気はどうにも重く、沙紀ちゃんが時折ショウへ思い詰めたような質問をぶつける。
「私も鶴木さんが悪いとは思わないわよ。中等部の頃はお世話になったし。ただ、それでもどうなの?」
彼女の気持ちは、多分ショウが一番分かってると思う。
何しろ付き合いは、彼が生まれて以来。
理不尽な仕打ちを受けたのも、一度や二度ではないだろうから。
私も自分の弟が鶴木さんの道場に通っていると聞いたら、しばらく軟禁したくなる。
「そんなにひどいかしら」
外の景色を眺めながら尋ねるモトちゃん。
彼女は鶴木さんの接点があまりなく、また遠目に見る限りは綺麗な女性。
包容力もあり、頼りがいのある先輩とも言える。
近付けば近付くほど、別な面。
もしくは、本性が見えてくるが。
モトちゃんの家に到着し、荷物はみんなに任せて私は畑へ向かう。
そろそろ春。
何を植えるか考える時期だろう。
「こんにちは。ここって、果物でも育ちます?」
「土壌をチェックする限り、品種は限られるわね。ただスイカみたいな物なら、出来ると思うわよ」
指先でつまみ取った砂を、液体の入ったビーカーへ入れるモトちゃんのお母さん。
何を調べているのかは分からないが、彼女には満足のいく結果だったようだ。
「でもヘビが出たら、ちょっと困るんですけど」
「毒蛇は出ないから大丈夫よ」
当たり前だし、出たら困るどころの話じゃない。
でもって、ヘビが出る事は前提か。
簡単に育てられそうな果物を幾つか教えてもらい、家に戻ってメモを取る。
種や具体的な育て方は、園芸部の子に相談しよう。
「本気?」
眉をしかめながら私を見てくるモトちゃん。
本気も何も、そんなおかしな事をするつもりはないんだけどな。
「ヘビは嫌だけど、年中出会う訳じゃないでしょ」
「そうだと良いわね」
寂しげに笑うモトちゃん。
そんな事を言われると、こっちも考え直しそうになる。
「サトミ、サトミ。ヘビ、ヘビ」
「助詞や述語はどこにあるの。それと、私は付き合わないわよ」
本当、難しい性格だな。
大体意味が分かってるのなら、それで良いじゃないよ。
本来ならここでショウの出番だが、彼は4月から九州で寄宿舎住まい。
当然、スイカの面倒を見に名古屋までは来られない。
それはスイカに限った話でも無いが。
これこそが現実。
時が流れ、移ろった結果。
とはいえそれが留まったとしても、幸せだとは思えない。
少し切なくなり、足元の土をつま先で掘り返してみたりする。
「止めた方が良いわよ」
遠巻きに制止してくるモトちゃん。
何がと思い、すぐに言いたい事を理解。
動きを止めて、慎重に後ずさる。
いきなりカエルにでも出会ったら、感慨も何もあった物では無い。
今の時点で、もう無いんだけどね。
「疲れたな、もう」
「泊まっていけば」
その言葉だけなら善意。
ただ、違う意味も多分に含まれているような気もする。
とはいえ断る理由もそれ程無く、家に連絡を入れて泊まる事に決定。
着替えに関しては、モトちゃんのを借りるとしよう。
「でも静かだし空気も美味しいし、住むには良い場所だよね」
「そうかしら」
寮から運んできた荷物を手際よく片付けていくモトちゃん。
沙紀ちゃんは家に戻り、ショウは彼女を送っていった。
残ったサトミは部屋の隅で、黙々と本を読んでいる。
この子の場合は、本を読むスペースさえあればどこでも気にしないんだろうな。
「夕ご飯、どうする?」
「まだ寒いし、鍋が良いな。サトミは?」
返事もしないと来た。
生徒名簿に、良くそこまで集中出来るものだ。
田園風景の中をひた走る車。
運転するのはモトちゃん。
初めは冷や汗を掻いていたけど、意外と安定した走りである。
「練習したの?」
「サトミがどうしてっていうから、一緒に教習所へ通った。参ったわよ、もう」
しみじみ呟くモトちゃん。
それは今での私の台詞だと思う。
ただこれで、サトミの運転が上手くなったのも納得。
やっぱり練習したんじゃないよ。
「サトミに聞いたら、全然答えなくてさ。元々運転は上手かった、なんて言うから」
「下手ではないわよ、私は」
平然と言ってのけるモトちゃん。
昔の動画とか無いのかな。
近所の大型スーパーに到着。
と言っても自宅での感覚では、結構な距離。
この辺りだと歩いていける場所にはコンビニがあるくらいで、そういう点では住むのには向いてない。
「魚介かな」
カートを押しながら呟くモトちゃん。
料理に関しては私よりも上手なので、後はお任せ。
これがサトミやショウなら、一品ごとに立ち止まる。
「鍋以外はどうする?」
「牛乳プリン」
「それはデザートでしょ」
「私は鍋だけで十分だよ」
というか鍋だけでもうお腹が一杯。
それ以外の物を食べる余地がない。
「ユウとサトミだけだと、楽で良いわね」
「ショウを基準に考えるから、おかしくなるんだよ。あの子一人だけで、鍋を一つ占有するでしょ」
「でもユウはユウで、食べなさすぎじゃないの」
私のお腹を撫でてくるモトちゃん。
それは体型の問題上仕方のない話。
ただその逆で、食べないからこの体型だったらちょっと怖いけど。
牛乳プリンをしっかり確保し、モトちゃんの家へと戻る。
サトミはリビングへ場所を移動し、今度は新聞の株価欄を読んでいた。
株を保有しているとは聞いてないが、彼女はそこから日本経済でも読み取っているんだろう。
いや。全然知らないけどさ。
「海鮮鍋だけど、良いよね」
「外食系は、ちょっと買い控えた方が良いわね」
聞いてるようで、全然聞いてないな。
調理と言っても、野菜と魚を切るだけで終わり。
後は鍋に入れれば、放っておいても完成する。
「ただいま。……やあ、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
帰って来たモトちゃんのお父さんに挨拶。
サトミも会釈だけして、すぐに株価へ視線を戻す。
「……株でも始めたのか?」
「日本経済の将来を憂いてるみたい」
適当な事を良い、鍋のあくをすくうモトちゃん。
私達にも分からないんだから、モトちゃんのお父さんはもっと分からないと思う。
本人ですら、どの程度分かっているのか疑問だが。
すぐに鍋が完成し、みんなでそれを囲み食事を取る。
あっさりした醤油だしで、それに良い感じで魚や野菜に染みこんでいる。
濃い味もいいが、私はこのくらいの方が丁度いいな。
「もう卒業だね」
「おかげさまで」
お祝いに、何かくれるのかな。
それとも、また変な木の実でも渡してくるのかな。
「出席日数は大丈夫?」
最後までこれにこだわるか。
「今から全部休んでも問題無いくらいですよ。大学の内定ももらってますしね」
「それなら良いんだ。私も色々、心配してね」
「色々?」
「ああ、色々」
しみじみ呟き、ため息を付くモトちゃんのお父さん。
よく考えてみると、去年の今頃は大騒ぎ。
結局モトちゃんは停学。
私達に至っては退学で、卒業とは違う形で学校を出て行った。
確かに、色々あったとしか言いようがない。
それが今ではこうして鍋を囲み、のんきに卒業の話が出来ている。
モトちゃんのお父さんでなくても、ため息の一つは出るだろう。
「もう大丈夫だよね」
「ええ。そうだよね、サトミ」
「私は何も間違えてませんから。あれは学校の対応が過敏だっただけです」
この子は、良くも悪くも変わらないな。
いや。全然良くはないか。
それでは、モトちゃんのお父さんも改めてため息を付く訳だ。
食事を済ませ、お風呂に入ると後は寝るだけ。
いや。寝なくても良いんだけれど、やる事が無い。
「さてと」
一足早くベッドに潜り込み、場所を確保。
端で寝ると、押し出されそうな気がするので。
「ユウは床で寝たら」
冷ややかな事を言ってくる遠野さん。
親友だと思ってたけど、気のせいかな。
「どうしてよ」
「よだれ垂らすでしょ」
「誰が」
「雪野優が」
はっきりと、名字まで言われてしまった。
そういう時もあるけど、いつもじゃないって言うの。
多分。
「大丈夫。それに良いじゃない、よだれくらい」
「何が」
同時に反応するサトミとモトちゃん。
本当、人の事になると厳しいな。
ぐだぐだしている間に夜も更け、全員ベッドに潜り込む。
サトミが妙に私を押してくるが、それに構わずお腹に抱きつく。
「ちょっと」
「大丈夫」
「何が。それと、よだれは垂らさないで」
それには答えず目を閉じる。
すぐに訪れる睡魔。
サトミの声も適度な圧迫感も、眠さを誘う一つの材料。
何もかもが遠ざかり、意識は薄く溶けていく。
「きゃーっ」
突然の悲鳴。
何事かと思って飛び起きると、サトミがベッドの上で立ち尽くしていた。
別に怪我はしていないし、お化けが出た訳でも無い様子。
私に見えないだけ、なんてオチは嫌だけど。
「……まだ日も出てないよ」
新聞屋さんがどうにか動き出すような時間。
起きるにはさすがに早い。
それでもサトミは無言で自分の足を指さし、私を見下ろした。
まさかと思うけど、足がないなんて言わないだろうな。
幸い足が透けていたりする事もなく、普通に足は付いている。
当たり前だけどさ。
「何よ」
「ひやっとしたの」
「寒いから冷えたんじゃないの」
「濡れたのよ、明らかに」
咄嗟に口元を拭き、証拠を隠滅。
ではなく、身だしなみを整える。
「でもどうやって、足に」
そんな疑問はすぐに解ける。
この騒ぎで、ようやく起き出すモトちゃん。
頭を、私達が寝ていた方とは反対側にして。
「モトちゃんじゃないの」
「私がどうかしたの」
「よだれ垂らしたの」
「意味が分からない」
即座に顔をシーツに押しつけるモトちゃん。
素早い状況判断だなとでも言えば良いんだろうか。
とにかく私の無実は証明された。
今までのも案外、私以外の人間じゃないのかな。
つまりこの6年あまり、無実の罪を着せられてた事になる。
二人きりで寝た時は知らないけどさ。




