49-2
49-2
冬休みも終わり、今日は始業式。
授業は明日からだけど、始まりはやはり今日。
気持ちは自然と高まっていく。
いつもより少し早めに出て、近所のバス停から神宮駅前行きに乗る。
この時間はどうしても混雑する車内。
馴染んだ感覚が戻ってきたとも言える。
幸い中学校で外に降ろされる事は無く、草薙高校前へ到着。
当然今度は私もバスを降りて、生徒の流れに乗り正門へと向かう。
正門前に見える、例の姿。
つまりは挨拶の励行を呼びかける集団。
当然これには懐かしさも何も無く、黙って素通りするだけだ。
また向こうも私は関わらない方が良いと思っているのか、近付いたり声を張り上げては来ない。
それなら私も言う事は無く、気持ちが乱される事も無い。
特にハプニングもなく、教室へ到着。
今日は筆記用具を出す必要もなく、席についてぼんやりとするだけ。
なんなら寝ても良いくらいだ。
「おはよう」
「おはよう」
静かに挨拶をして、私の後ろへ座るサトミ。
私より家を出るのは早かったが、その後寮に立ち寄った様子。
その時間差がこれなんだろう。
「今日は、自警局に行かなくて良いんだよね」
「行っても良いのよ」
その辺は、遠慮させてもらいたい。
「おはおう」
木之本君と一緒に登校してくるショウ。
今日は珍しく厚着で、ダウンジャケットに手袋。
冬場でもTシャツ一枚で来る人だから、少し気になるな。
「風邪でも引いたの?」
「風邪を引いたら困ると思って。残り2ヶ月だろ」
どこかで聞いたような台詞。
彼もさすがに、残りの学校生活を大切に思ってるようだ。
「あはは」
「痛いよ」
確かに、叩く事でも無かったか。
少し眠そうにモトちゃんも到着。
家から学校は少し遠いので、それに疲れたのかも知れない。
「調子どう?」
「冬はきついわね。雪が降ってた」
彼女の実家は郊外。
ただ今日からは寮住まいのようなので、寒さに震える機会も減るだろう。
それ以外の出会いに関しても。
「……寮って、いつまでいられるの?」
「卒業しても、少しは猶予はあると思う。どうして?」
「多少は荷物を置いてあるから。あれは今の内に片付けないと、忘れそうな気がする」
大した物は置いていなく、あるのは着替えと缶詰程度。
持ち帰る大変さより、記憶しておく方が大変。
そのため、忘れない内に大きな物はどうにかしたい。
「気が早い話ね。私達なんて、荷物が満載よ」
そう言って笑う、モトちゃんとサトミ。
それはショウと木之本君も同様で、着替えどころか家具もある。
とはいえ今から引っ越しの準備をするのは、あまりにも気が早い。
私が少し、先走りすぎたのかも知れない。
私も笑っていると、ゆったりとした足取りでケイがやってきた。
「寮の部屋、いつまで使えるか知ってる?」
返事もしなければ、こちらを見ようともしない。
そのまま黙って椅子に座って顔を伏せたので、机を叩きながら同じ事を言う。
「寮、寮の部屋。一生住み続ける事は出来ないんだよ」
「まだ先の話だ。荷物を全部置いていけば、後は業者が捨ててくれる」
「頭良いの、それって?」
「いらない物を置いていくテクニックもある」
本当、悪い事には長けてるな。
でもって、少し覚えておこう。
やがて予鈴が鳴り、村井先生が到着。
簡単な挨拶があり、講堂への移動を告げられる。
終業式みたいに教室でやってもらえると助かるが、それは私の都合。
学校的には、生徒全体を集めたいんだろう。
いまいち遅い足取りで廊下を歩く生徒達。
冬休み明けの初日。
元気溌剌とは、なかなか行かないようだ。
「……混んでるね」
取りあえず第一講堂にやってきたが、中は生徒で一杯。
一杯いないと当然困る物の、自分達の座る場所も見つかりそうにない。
「武道館が近いでしょ」
そう言って、すたすた歩いていくサトミ。
この子は、完全に自分のリズムを取り戻した様子。
だるそうに歩く周りの生徒とは、その表情からして違う。
私も、その点だけは見習った方が良いのかな。
「どうかした」
鋭い目付きで振り返るサトミ。
勘にも磨きが掛かってきたな。
武道館内も生徒の姿は多いが、空席もそれなりに目立つ。
ここも駄目となったら、一日学内の施設を歩き回るような気もしていたので少し助かる。
「あーあ」
空いている近くの席に座り、目を閉じて背もたれに身を任せる。
家を出た時は気が張っていたが、時間と共に眠気の方が勝ってきた。
後は気を抜いて過ごし、今日一日を乗り切ろう。
ざわめきが収まり、突然周りが立ち上がる。
口元を押さえて私もそれに倣い、何事かと周りを見渡す。
「式が始まったのよ」
小声で告げて来るサトミ。
多分、それ以外で立ち上がる理由は無いだろうな。
欠伸を噛み殺し、壇上に注目。
ただ式が行われているのは第一講堂で、ここではその中継映像が見えているだけ。
その映像も私にははっきり見えず、眼鏡を掛ける事にする。
丁度校長先生が挨拶をしている所。
おそらくこういう時には定番の内容で、過去50年くらいは繰り返された台詞だと思う。
とはいえあまり突飛な事を言われても困るので、定番の内容に問題は無い。
挨拶も終わり、簡単な行事も終了。
冬の大会で優秀な成績を収めたクラブが幾つか表彰され、少し雰囲気が盛り上がる。
これからというムードになったところで、式も終了。
肩透かしされた気分だが、同時に開放感もやってくる。
「終わった、終わった」
後は教室に戻り、挨拶を済ませて帰るだけ。
今日はゆっくり休んで、明日に備えて英気を養うとしよう。
教室で宿題と課題を幾つか提出。
個別の授業で提出する分は、その授業が始まるまで猶予がある。
私は一応、全部終わらせてるけどね。
「今日はこれで終わります。明日から授業が始まるので、冬休み気分をいつまでも引きずらないように。それと雪野さん達は、これを運ぶように。では、さようなら」
「さようなら」
綺麗に唱和して、教室を出ていくクラスメート達。
でもって雪野さんって、一体誰よ。
さすがに文句の一言も言おうと、教室の前まで行って宿題の山を見る。
誰かが運ばなければならないのは分かるが、私が運ぶ理由はどの程度あるんだろうか。
「手分けして、職員室までお願い。落とさないでね」
「どうして私達なんですか」
「理由なんて無いわよ」
なるほどね。
だったら仕方ない。
なんて言えば良いのかな。
とはいえ、私が運べる量など知れた物。
軽めの紙袋を二つ抱え、サトミ達の後を付いて歩いていく。
「これは教師の横暴じゃないの」
「あなたって、そういうの好きね」
肩をすくめ、首を振るサトミ。
好きと言われるのは困るが、今は陰謀説でも採りたい気分だ。
「モトちゃんも、何か言ってよ」
「誰かが運ばないと行けないんだし、私達は村井先生にはお世話になってるんだから。彼女は顧問なのよ」
「そうだけどさ。なんか納得いかないな」
「本当、あの人と相性が悪いわね」
そう言ってくすくす笑うモトちゃん。
それは私がというより、向こうからの一方的な仕打ちによるところが大きい。
ただ彼女は彼女で、似たような事を思っているのかも知れないが。
職員室に到着し、宿題の山を村井先生の机に積み上げる。
周りでは似たような光景が繰り広げられていて、そもそもこの宿題の山はどうするのかと考えたくもなる。
「終わった、終わった」
手を払って開放感を満喫していると、チェック用の用紙にチェックを入れていた村井先生が顔を上げた。
「全員分あるか、確認して」
「誰が」
「あなた達が」
「どうして」
「理由は無いと言ったでしょ」
今なら叫んでも、多分許してもらえると思う。
私に割り当てられた小論文の提出状況を確認。
出席番号順に並べ直し、順番にチェックを入れていく。
「……全員揃ってる」
意外とみんな真面目というか、やる事はやっているようだ。
「ケイの、どれかな」
「見るな」
「良いじゃない」
「何が良いんだ。原稿用紙2枚にまとめてみろ」
小論文と掛けた突っ込みかな。
でもって、果てしなくどうでも良い会話だったな。
提出物の確認も終了。
欠席している人以外のは全て揃っていて、ここまで来ると優秀と言っても良いと思う。
「ご苦労様。これで、何か食べてきて」
モトちゃんに渡される、馴染みの食券。
初めからこういう事を言ってくれれば、私ももう少しやる気を出したのに。
やる気を出してどうにかなる物でも無いけどさ。
という訳で、少し早いがファミレスへとやってくる。
時間的には、まだモーニングも頼めるくらい。
ただそれでは面白く無いので、キャンペーンのメニューを開いてみる。
「スプリングフェア、か」
こちらも少し早い気もするが、旧暦で言えば1月は春。
意味合い的には間違ってはいない。
「春の彩りランチセット。これにしよう」
お腹はそれ程空いていなく、パフェだけでも良いくらい。
どっちにしろ、食べるんだけど。
注文した料理が届く間、ランチのメニューを開いて一つ一つ眺めていく。
頼まなくても、こういうのは見ているだけで心が浮き立ってくる。
たまにはステーキくらい食べた方が良いのかな。
ただ残すのは目に見えているので、一人では食べない方がいい気もする。
「今日は安定してるわね」
人を不安定なエンジンみたいに言ってくるモトちゃん。
さっきもそれ程感情的にはならなかったし、安定しているのは確か。
後は持続性の問題か。
「やっぱり相手によると思う。まだあの先生ならね」
相性は悪いが、悪意は感じない。
逆に言うと、悪意を感じればどうなるかという話。
その先は、私も保証は出来そうにない。
やがて料理が到着。
ショウはステーキとハンバーグセットという、めまいがしそうなオーダー。
大丈夫かな、本当に。
「少し控えたら?」
「このくらいは良いだろ」
「良いのかな」
「さあ」
関心を払う気も無いと言いたげなサトミ。
彼女はサラダパスタで、ある意味ショウとは対極。
がつがつステーキを頬張るサトミも、想像は出来ないが。
やがて私の料理。春の彩りセットもやってくる。
筍ご飯に、菜の花の和え物。サワラの焼き物と、さくらんぼのムース。
確かに春っぽいメニューではある。
「筍、もうあるんだ」
「お金を払えば、大抵の物は手に入るわよ。筍にしろ、土壌と温度管理の問題でしょ」
「世の中、結局お金なんだね」
「それは知らないけれど、あって困りはしないわね」
いまいち夢のない会話を交わす私達。
ただ、それはそれ。
今は春の味覚を堪能するとしよう。
サトミからすればお金に物を言わせた料理のようだが、味としてはごく平凡。
驚くほど美味しい物では無く、旬の時期に食べる物よりは少し落ちる感じ。
確かにお金があれば何でも出来るが、満足感まで得られるとは限らない。
などと、ランチの料金くらいで語る事でも無いか。
半分程食べたところで満腹になり、残りはショウへと譲る。
後はさくらんぼのムースをもそもそと食べ、少し早い春を満喫する。
「こんにちは」
爽やかな笑顔を向けてくる渡瀬さん。
後ろにいるのは、私の知らない子達。
ガーディアンではなくクラスメートかな。
「こんにちは。渡瀬さんもご飯?」
「ええ。さくらんぼですか?私もそれにしようかな」
「春の彩りセットだって」
「分かりました」
もう一度にこりと笑い、一礼して去っていく渡瀬さん。
後ろの子達も私達に挨拶をして、きゃきゃっと声を上げながら彼女の後に付いていく。
「誰、あれ」
「私が、学内の生徒全員を覚えてるとでも思ってるの?」
「思ってないけど、渡瀬さんの知り合い?」
「北地区からの同級生じゃない」
知ってるなら、初めからそう言えば良いじゃない。
当たり前だが彼女には彼女の友達がいて、自警局だけが彼女の生活基盤ではない。
それは私も同様で、ニャン達も自警局とは違うグループ。
そんな事に、今更ながら気付かされた。
気付いたところで、どうという事でも無いが。
「でも渡瀬さんって、最近落ち着いてきたよね」
「4月には3年生。落ち着かない方が、どうかしてる」
すっぱりと言い切るモトちゃん。
ちなみに私は、4月から大学生。
その辺はどうなのか、あまり考えたくは無い。
ご飯は食べ終えたが、まだお昼前。
特に予定も無いので、全員で玲阿邸へとやってくる。
「ばうばう」
玄関先まで私達を出迎えてくれる羽未。
彼女も当たり前だが、裸足で裸。
とはいえ寒そうな素振りは全くなく、むしろ元気が有り余ってくるくらい。
ハスキー犬ほどではないにしろ、少し寒い方が合っているのかも知れない。
「元気いいね」
「ばうばう」
「でも、裸足で辛くない?」
「ばうばう」
全然分かんないな、当たり前だけど。
私は犬ではないため、靴下と靴を履いていても冬は寒い。
という訳ですぐに屋内へ逃げ込み、暖房の効いた部屋で暖まる。
「……寝てるの?」
テーブルの真ん中で丸くなるコーシュカ。
お母さんが見たら卒倒しそうな光景で、また大抵の家庭では怒られるだろう光景だと思う。
「良いの、これ?」
「良くはないな」
そう言う割には、どかそうとしないショウ。
何せ相手はヤマネコ。
迂闊に刺激すると、何がどうなるか分からない。
とはいえテーブルの真ん中で寝る物でも無いだろう。
「起きて」
体を揺するが、反応無し。
ただ耳がこちらを向いているので、意識は十分にあるようだ。
「お昼だよ、もう」
「猫に、朝も昼もあるか」
陰気な突っ込みを無視して、もう一度肩を揺する。
いや。背中かも知れないけど、その辺はどっちでも良い。
「邪魔だって」
少し強く押した途端、素早く起き上がり大きく伸びをするコーシュカ。
でもって私を一瞥すると、鼻を鳴らしてどこかへ消えた。
よく分からないけど、とてつもなく虚しいな。
「しつけがなってないんじゃないの」
「猫だから仕方ない」
そう言って、テーブルの抜け毛を掃除するショウ。
悟ってないか、この人。
私も一緒に片付けていると、瞬さんが木刀を担いで現れた。
普通の家だと違和感しか感じないけど、この家ではごく普通。
その感性に慣れている自分が少し怖いとも思う。
「何してるんだ」
「猫が、テーブルの上で寝てました」
「あれは、いい加減捨ててこないと駄目だな。良い事をした試しがない」
しみじみと語る瞬さん。
犬は人のために尽くすイメージというか、そういう事に使われがち。
対して猫が人のために尽くした話は、まず聞いた事が無い。
瞬さんがそう語るのも当然と言えば当然か。
「テーブルの上に乗っても、怒らないんですか」
「手を出そうとしたら、牙を剥いて来やがった。あれは敵だ、敵」
自宅にいる野獣か。
何もかもが意味不明としか言いようがない。
「でも、瞬さんがもらったんですよね」
「もらったというか、勝手に贈ってきた。何も金を持ってこいとは言わないけど、猫を贈ってきても困る」
「昔からああですか?」
「本当に子供の頃だけだろ、可愛かったのは。半年もすれば、やりたい放題し放題。あれは家で飼う物では無いな」
確かに、ヤマネコを家で飼ってる人はあまりいないと思う。
そもそも飼って良いのかな。
暇なのか、床に座って木刀を磨き出す瞬さん。
玲阿流は素手の流派だが、武器を使わない訳では無い。
また鶴木流の流れを組んでいるので、技術体系としては武器の習得も必須と言える。
「鶴木さんが、瞬さん達の中で一番年上ですか?」
「ああ。鶴木さん、兄貴、俺、御剣、水品かな。尹は俺と同い年」
「鶴木さんが先輩になるんですね」
「学校なら」
そう言って笑う瞬さん。
彼等は親戚なので、先輩という表現はおかしかったか。
「理不尽な事は言いませんよね、鶴木さんは」
「大人なんだよ、あの人は。良くも悪くも。醒めているというか、冷静なんだ」
「御剣さん達も、大人しいというか物静かですよね」
「まあ、変な事はしないよな。水品も」
鶴木さんは大人で、瞬さんのお兄さんである月映さんも大人。
水品さんと御剣さんは落ち着いている。
尹さんも、それは同様。
だとすれば、落ち着いていないのはこの人だけか。
「そういう話題になりません?」
「なるね。お前はいつまで落ち着きがないんだって」
声を上げて笑う瞬さん。
しかし私は、笑うどころの話ではない。
私自身、今でも同じような事を言われ続けている。
それも、小学生の頃から。
多分瞬さんも、昔からそう言われ続けているはず。
だけど彼はこの年になっても、まだ言われている状態。
だとすれば、私は一体どうなるのか。
考えた方が良いというか、あまり考えたくないな。
「反省とかしません?」
「今更直らんよ」
「え」
「誰かが困る訳でも無いんだし。別に良いだろ」
言い切ったよ、この人は。
でもって自覚もないと来た。
これ以上、私にとっての反面教師にふさわしい人はいないな。
ショウに頼み、古いアルバムを持って来てもらう。
映っているのは、当然玲阿家の面々。
後は鶴木さんや御剣さん達。
遡れば当然写真は古くなり、彼等は若くなっていく。
精悍さが増すというか、鋭さが増す一方でもある。
特に水品さんは、今の穏和な雰囲気とはまるで違う。
写真からも威圧感が溢れていて、寄らば切ると言った風情。
どう見ても同じ人物には思えないが、顔立ちからすればまさに水品さん。
彼本人なのは間違いない。
「怖い顔してますね。特に、水品さん」
「前も言ったけど、元々あいつは打倒玲阿流でここに来てる」
「それが、どうして?」
「人間は良くも悪くも変わる。あいつも、何か心境の変化があったんだろ」
そう言って自分も別なアルバムをめくる瞬さん。
答えにはなっていないが、具体的な何かよりも時の経過が大きかったのかも知れない。
「ケンカした事、あります?」
「無くも無いよ。ただ、本気ではやらないけどね。冗談抜きで、死人が出る」
これはまさに、冗談ではない話。
彼等が習得しているのは武道であり、その目的は人を倒す事。
さらに言ってしまえば、殺す事。
つまり本気になるとは、相手を殺す事に他ならない。
また彼等は親戚や仲間であると同時に、上下関係でも成り立っている感じ。
瞬さんが言ったような年齢順で。
「やっぱり、鶴木さんが一番偉いんですか」
「偉いという表現はともかく、年長者だからね。一応は立ててるよ」
「そうなんですか」
「何かあったの?」
「いえ。特に、そういう訳でも」
尋ねたのは話の流れというより、単純な疑問。
それ程深い意味は無い。
瞬さんもそれに納得したのか、軽く頷きソファーから立ち上がった。
「さてと、たまには仕事でもしようかな」
「仕事、ですか」
「一応はあるんだよ、俺にも」
虚しく微笑み、部屋を出て行く瞬さん。
よく考えれば、今は平日の昼間。
絶対とは言わないが、会社勤めの場合なら自宅にはいないだろう。
ただそれは、彼の話。
私は学生で、今日は始業式。
やる事は何も無く、こうしてのんびり過ごすのが仕事。
取りあえずは、そういう事にしてもらいたい。
「何を尋ねてるの」
アルバムをめくりながら尋ねてくるサトミ。
やはりこの人は、なおも食いついてくるか。
「さっきも言ったように、深い意味は無いよ。先輩後輩っていうのが、よく分からないから聞いただけで」
「たまにそれを言うわね、あなた」
「サトミは分かる?」
「概念としては」
意識としては、多分私と同じ。
私達が先輩と呼べるのは、塩田さんや物部さん達くらい。
高校生になってからは天満さんも思い浮かぶけれど、それまでは殆ど無縁の概念。
嫌な上級生は、これでもかという程出会ってきたが。
またそれは後輩についても同様。
御剣君や1年生の二人もそうだけど、思い付くのはやはりその二人。
後は天満さん同様、高校生になってから。
正直言えば接し方がよく分からず、その辺の上下関係が私の中では整理しきれていない。
「あまりぱっとしないね、私達は」
「ぱっとしなくても困らないでしょ。年上なら敬う。後輩なら導く。それで良いんじゃなくて」
「出来てる?」
「努力はしてる」
そう答えるだろうとは思ってた。
またそれは、私もサトミと同じ。
理屈としては分かっているが、特に後輩へ対しての接し方や振る舞い方が分かってない。
基本的には、友達の延長。
どうも厳し接するのが苦手で、つい流されてしまいがちになる。
「モトちゃんはどう?」
この人は私達とは違い、大所帯のオフィスで過ごしてきた。
当然先輩後輩に囲まれて。
私達よりは数段世慣れていて、あまりにも初歩過ぎる質問と思ってるかも知れない。
「サトミが言ったように、敬意と思いやりを持って行動すれば良いだけよ。実際ユウ達は、良い先輩だと思う」
「そうかな」
「渡瀬さん達にも慕われてるでしょ」
渡瀬さん、か。
彼女は後輩というより、意識としてはやはり友達。
また思考や行動概念が私と近く、付き合い方もあまり気にはならない。
他の子は、ともかくとして。
「本当に慕われてるのかな」
「はは」
突然笑い声を上げるケイ。
私を笑ったのではなく、テレビのニュースに対して。
動物園で虎が逃げ出したという演習のトピック。
虎の露骨な着ぐるみが、ネットに絡まってもがいている。
いや。待てよ。
そう言えばこの人、意外と後輩の受けが良い。
先日の局長代理もそうだし、昨年度の運営企画局もそう。
ここは一つ、意見を聞いてみるか。
「ちょっと話があるんだけど。後輩と、どう接してる?」
「気にした事も無い」
ごく自然に答えるケイ。
おそらくそれは、彼の本心。
またこう見えて、内面は結構緻密。
人が何をどう考えているかを考える性格で、人を動かすのが比較的得意。
後輩への態度や接し方も、無意識に出来ているのかも知れない。
「私は、今のままで良いのかな」
「今更何を。ユウが力で押さえつけてる間は、問題ないだろ」
「そんな事はしてないよ」
「それはユウの主観。後輩の意見じゃない」
怖い事を言ってくるな。
多少は、思い当たるような事を。
渡瀬さんはともかく、例えば御剣君は私を異常なまでに警戒。
何気ない一言で、大げさに怯える時がある。
「でもそれこそ、みんなの主観じゃないの」
「だから、気にしすぎても始まらない。突然ユウが優しく笑いかけても、警戒されるだけだろ」
「面白く無いな」
「木之本君でも見習ったら」
その見習うべき木之本君は、ちまちまとリモコンの設定中。
前に出すぎず、しかし言うべき事ははっきりと主張。
人の気持ちを汲んで、時には厳しく接し、だけどフォローも忘れない。
理想の先輩像とは、この人の事かも知れない。
「多分、私には無理だと思う」
「だったら、暴君のままで良いんじゃないの」
この人、根本的に私を誤解してるな。
もしくは、私が自分自身を理解してないな。
どうも納得いかないが、彼の分析はおそらく間違っていない。
つまり私は、あまり良い先輩ではないんだろう。
モトちゃんはああ言っていたが、それは表の部分。
裏の部分では無い。
「あーあ」
ソファーに横たわり、大きく伸びて丸くなる。
嫌な時は寝るに限る。
気持ち良い時も、寝るけどね。
「風邪引くぞ」
肩に掛けられるタオルケット。
それにお礼を言い、もう一段階丸くなる。
「アルマジロだな」
そこまで丸くはなってない。
時間の経過は定かでないが、意識が覚醒。
再び伸びをして、ソファーに座り直す。
「……来てたの」
「ええ」
一瞬固い笑顔を浮かべる御剣君。
どうしてこの子は、私に対して無闇に怯えるのかな。
「そんなに私って、威圧的?」
「いや。面と向かって言われても困るんですが」
それもそうか。
ただこの子を見ていると、私が常に脅かしているような気になってしまう。
大体こんな大男が、どうして私に怯えるのか理解不能。
体格も何もかも、彼の方が圧倒的。
私が勝っているのは、年齢だけだ。
「御剣君が、神経質すぎるんじゃないの」
お茶をむせ返すケイ。
失礼どころの話じゃないな。
彼はティッシュで鼻を押さえ、私と御剣君を交互に指さした。
「誰が、どうして、なんで」
そんなに興奮するような事を言ったかな。
多分、言ったんだろうな。
「私に過剰反応するから」
「本当に自覚のない女だな」
「私が一方的に悪い訳でも無いでしょ」
「はは」
声を揃えて笑う、ケイと御剣君。
スティックって、どこにしまったかな。
「ただ、気にしすぎなのは確かね。御剣君も、もっとどっしり構えたら」
文庫本を読みながら、静かに指摘するサトミ。
威圧感で言えば、この人の方が数段上。
今の一言自体、巨大な岩石くらいのプレッシャーだと思う。
何となく重くなる空気。
もしかして御剣君は、針のむしろに座っている心境かも知れない。
「僕は今のままで良いと思うよ。良くやってるしね、御剣君」
非常に人の良い事を言い出す木之本君。
そういえば私が、こういう台詞を口にした試しは無いな。
そもそも、あまり思い付かないな。
「褒めるの上手だね」
「本当の事だから」
ごく自然に答えられた。
これでは御剣君も、彼に懐く訳だ。
御剣君の良いところ、か。
渡瀬さんやエリちゃんならすぐに思い付くが、これは結構難しい。
強さはともかく、性格は難あり。
中等部の頃は、彼が発端となり幾つものトラブルに巻き込まれた。
私が彼にきついと思われるのは、その頃の印象が残っているのかも知れない。
それはお互いに。
「良い所?」
「最近、恰好良いって評判よ」
「それは聞いた事ある」
「高校生には、結構重要じゃなくて」
ページをめくりながら答えるサトミ。
彼女にとっては、あまり重要では無さそうだな。
何しろ自分は頂点にいるから、気にする理由も無いだろう。
「最近、恰好良いって」
「聞こえてましたけど、別に昔と変わってませんよ」
それは私もそう思う。
とはさすがに言わず、アルバムを確認する。
すぐに現れる御剣君の写真。
今よりも体型が小柄で、あどけなさが残る顔立ち。
瞬さん達のような、張り詰めた雰囲気は感じられない。
実際昔もがさつな面はあったが、緊張感を漂わせるタイプでは無かった。
「……特に変わらないな、やっぱり」
少なくとも外見的な変化は、あまりない。
また、元々整った顔立ちなのは確か。
すぐ近くにショウがいるので、その辺があまり目立たなかっただけで。
「ユウ達がいなかった分、自立したんでしょ」
アルバムを覗き込みながら話すモトちゃん。
たまに聞くな、この手の話は。
また、聞けば聞くほど信憑性が増してくる。
なんだかんだと言って彼が問題を起こせば私達が世話を焼くし、彼に原因が無い出来事でも手伝ってしまう。
おそらくは、彼の意思とは関係無しに。
彼の成長を促すにはおおよそ程遠い話で、過保護と呼ばれてもやむを得ない。
「今はどうなの?」
「多少安定してないけど、結構普通よ」
「ふーん」
「4月には3年生なんだし、安定しないと困るものね」
それもそうだ。
ちなみに私は4月から大学生。
彼以上に安定しないと困る。
私達の話は飽きたのか、部屋の隅でショウとじゃれている御剣君。
後輩と言われて私が真っ先に思い付くのは、やはり彼。
手は掛かるしあれこれ問題の多かった子だが、彼を気にしているのも確か。
その彼が成長しているというのは、素直に嬉しい。
「案外自立し過ぎて、俺達から離れていくんじゃないのか」
半笑いで呟くケイ。
離れる、か。
それだけ聞くと悪い事のようにも思えるが、お互いの距離を取るのは必ずしも否定される事では無い。
むしろ今までが近すぎた。過保護すぎたとも言える。
「その時はその時じゃないの。卒業すれば、嫌でも離れるんだし」
「まあ、そうだ」
鼻で笑い、アルバムをめくるケイ。
この態度からして、何かを知ってるのかも知れないな。
「最近、御剣君から何か相談された?」
「全然」
「何か頼まれた?」
「全然」
昔よりも手が掛からなくなり、後始末をする機会も減った。
それは非常に助かると言って良い。
「という具合に、距離が出来てる」
「そうかな」
「良いか悪いかは分からん。ただ、この辺の人間は極端に走るからな」
そう言って私達を見渡すケイ。
全員、何を言っているんだという顔。
つくづく、自分の事は棚に上げる傾向がある。
「何かあったの?」
少し声のトーンを落とすモトちゃん。
ケイは肩をすくめ手首を振る。
「特に、何も。何も無いから、むしろ困る。案外自分達だけで、色々やってるんじゃないの」
「むしろ助かるじゃない。何なら、局長を引退したいくらいだわ」
「そういう画策をしてたら」
「頼もしい限りね」
かなり本気の顔で答えるモトちゃん。
とはいえそれは、彼女が人格者だから。
私のような人間には、あまり通用しない。
「どういう意味、それ」
「……先輩達も3月には卒業。俺達がその代わりを務める時期も近い。だとすれば、今からそうしても良いだろう。いや、そうするべきだ。いっそ、全ての業務に関しても」
「私達を追い出す気?」
「悪意はないかも知れない。ただそういう兆候は、無くも無い」
私はその手の事に疎いタイプ。
また自警局内でも命令系統からは外れているので、何がどうなっているかを知る機会が少ない。
しかし彼がそう言うんだから、何かそう思うだけの理由もあるんだろう。
「聞かないぞ、御剣君には」
「あ、そう」
ソファーから立ち上がった所で指摘され、すぐに座り直す。
どうやらその行動は、短慮すぎるらしい。
「……自立は良いんだけれど、私達の頭越しに何かをする気?」
仮想敵を見るような目付きになるサトミ。
こういう人がいるから、後輩達もやりにくいんだろうな。
「悪意はないかもと言った」
「私達の気持ちをないがしろにして?相談の一言も無く?」
「先輩の負担を減らそうとして、かも知れない」
「仮定の話ばかりね。そもそも、その話が本当ならゆゆしき事態よ」
嫌な方へ流れ出すサトミ。
私達が良い先輩で無いのは、改めて認識出来た。
沸々と、何かが沸き始めるサトミ。
自分が知らない所でとか、今言ったように頭越しにという事をとにかく嫌うタイプ。
それは良い面もあるけど、今は多分悪い面ばかりが出てきそう。
つくづく面倒な性格だな。
「私が何?」
「全然。後輩達が自分達でやれると思ってるなら、それで良いじゃない。前もあったでしょ、そういう事」
「あれは私達から権限を委譲したのであって、独走を許した覚えはないわ」
「仮定の話なんだし、もっとどっしり構えたら」
「随分優しいのね」
至って冷ややかな口調で告げるサトミ。
彼女の言いたい事も分かるし、面白く無い部分があるのも理解出来る。
一言断って然るべきだ、くらいには。
とはいえ頼もしいのも、また事実。
私達の顔色を窺って小さくなっているよりは100倍増し。
応援したい心境があるのも、確かである。
何より現段階では、ケイの推測。
もしくは、憶測の段階。
また3月には私達は卒業。
嫌でも後輩達には働いてもらうしか無く、むしろ丁度いい時期。
自警局の事は後輩に任せ、私は生徒会規則の件に当たりたいくらい。
そう考えると、都合が良い話かも知れない。
「誰も困ってないんだし、良いんじゃないの」
「良いのかしら」
「一歩引いて見守るって意味。モトちゃんも前言ってたじゃない」
「まあ、そういう考えもあるわね」
あまり納得はしていないようだが、取りあえずは角を引っ込めるサトミ。
私達に面と向かって歯向かってきているならともかく、自分達の力を試そうとしているのならそれは好ましい話。
サトミもそれは分かっているだろうし、こういう言葉も寂しさの裏返しかも知れない。
今まで自分達を頼ってきた後輩達が、自分の力だけで歩き出す事への。




