46-9
46-9
改めて配付される資料。
風成と流衣の表情が曇ったのを見て、秀邦は首を振る。
「そうじゃない。もっと簡潔な資料だ」
「だったら、初めからこっちを配れよ」
「物事には順序があるんだ。それで、君達が処分を受けた理由。そして誰がそれを画策したか。自分なりに推察してみた」
今回は結論のみの資料。
箇条書きで数行、文章が並んでいるだけである。
「スケープゴートか。真山もそんな事言ってたな」
「連中の考えは、多分こんな所だろう。君を突っ走らせて、とにかく上まで持ち上げて。徹底的に目立つようにする。それこそ学校の代表と思えるくらいにね」
「それで」
「実は生徒会の乗っ取りを企む大悪党でした。という理由を付け、ある事無い事を君に押しつける。生徒会が行ってきた悪事も何もかも、君が引き受けて処分される。寄代と考えた方が分かりやすいかな」
彼が言う寄代とは、さまざまな穢れを一身に背負わされ捨てられる人形や型紙。
そちらの方が、確かに近いとも言える。
「どうして俺なんだ」
「分かりやすい人間を使わないと、処分した時の効果が薄い。君は元々知名度も高かったし、利用しやすかったんだろ」
「喜んで良いのか、それは」
「少なくとも悪い理由では選ばれてないよ。結果は悪いとしか言いようがないけど」
大してフォローもしない秀邦。
そして資料が軽く手の甲で叩かれる。
箇条書きには続きがある。
誰が、彼を陥れたのかが。
「生徒会長は分かる。ただ、こっちの議長ってなんだ」
「ガーディアン連合の議長。頼まれてもいないのに、自警団を行ってるような連中だ。草薙高校への思い入れは、人一倍強い」
「強いのと、俺を騙すのとどう関係がある」
「思い入れが強いというのは、彼等の中に明確な草薙高校のビジョン。あり方がイメージされているからだ。草薙高校は、こうであるべしと言う」
テーブルの上で裏返される資料。
そこに秀邦は草薙高校と、綺麗な字で走り書きする。
「そして生徒による自治。それはつまり、生徒が学校を運営するという意味。生徒の自治と草薙高校への明確なビジョンがあったら、どうなると思う」
「どうなるんだ」
「自分達の望む学校へ、自分達が学校を作り上げる。それも確かに生徒の自治だ。悪くはないよ。ただ行き着く先は、手段の目的化。自治のためなら、何をやっても構わない。その結果が、君達の処分さ」
テーブルに放られるペン。
それは風成の前まで転がり、惰性でテーブルの下へと落ちた。
ペンを掴み、テーブルへ戻す風成。
表情は硬く、いつもの陽気さは影を潜める。
怒りよりも無気力、虚しさが見て取れる。
「……独善的だからといって悪い方向に行くとは限らないだろ」
「確かに独裁者が、民衆にとって悪い存在とは限らない。ただ君達は処分され、彼等は今後も学校を取り仕切る。都合の悪い自体が起きれば、誰かに責任を押しつけて切り捨てる。それはすでに、君達が証明している」
「言い切れるのか」
「信じる信じないは自由だ。ただ彼等はガーディアン連合と、自警局のガーディアンを抑えてる。それがどれだけの圧力を生徒に与えるかは、それも君達が嫌と言う程証明した。彼等の善意を信じるのも良いとは思うよ。その気持ち自体は大切だろう」
そこで言葉を切る秀邦。
後の判断は、彼等に任せると言いたげに。
指先でペンを転がす風成。
黙ったままの流衣。
沈黙だけの時が無為に過ぎる。
「……あいつらは悪者って事なのか」
「本人達はそう思ってないだろ。学校のため、生徒のためという大義名分がある。実際彼等の方が正しくて、生徒の支持が集まる可能性だってある。善悪は結局の所、主観に過ぎないよ」
「敵なら、戦うのに迷う理由もないか」
素っ気なく呟き、ペンを二つに折る風成。
秀邦は咎めるような視線を彼へ向け、しかし言葉にはしなかった。
「遠慮をする理由も元々無い。今回の件は俺達にも非があったとは言えなくもないから、不問にする。ただ、次に何かあればその時は迷わず行動をする。一切の躊躇無く」
「すぐに行動するって意味に取って良いかな」
「ああ」
低い声を出して頷く風成。
秀邦もそれに応え、流衣へ視線を向けた。
「ここからは、君の行動が重要になる」
「私が?どうして」
「それはおいおい説明するよ。俺が文章を書くから、それを読んでくれればいい」
テーブルの上に追加される資料。
書くからではなく、すでにスピーチ原稿も書いてあるようだ。
資料を手に取り、流し読みする流衣。
そして秀邦へ上目遣いで視線を向ける。
「こんな事で良いの?」
「大切なのは、君という存在。立場さえ表明してくれれば、後は大して関係無いよ」
「よく分からんが、さっき言ったように色仕掛けは無理だぞ」
やはり肘。
今度もそれは、手の平で受け止められる。
「その必要は無い。この学校の生徒達は、彼女をどう見てると思う」
「愛想のない女、くらいに思われてるんでしょ」
気のない調子で答える流衣。
秀邦は珍しく朗らかな表情を浮かべ、人差し指を横へ振った。
「素っ気なく見えるのはどうしてか」
「そういう性格だからでしょ」
「違うね。容姿端麗、頭脳明晰。実家は裕福。父親と伯父は前大戦の英雄。従兄弟は学校最強で、いつも君に付き添っている。それで、何か不満とか要求とかある?」
「特には」
やはり気のない返事。
秀邦の笑顔は、より深まる。
「何もかもが満たされて、不満も何一つ無い。だから敢えて回りに関心を示す必要が無い。全部持ってるからね、もう。何もかも」
「そうかしら」
「もう一度聞くよ。何か欲しい欲しい物はある?」
「特には」
「そういう事だよ」
話をまとめる秀邦。
流衣は若干厳しい表情。
今のこの話に関しては、不満があるようだ。
「そんな彼女が、君を支持する」
「一緒に処分されるんだぞ」
「処分されるのは君のせいだと、周りは見てる」
また実際、状況としてはその通り。
暴れ回っていたのは風成で、流衣は彼の行動を撮影しレポートを書いていただけ。
彼女自身が手を出した事は殆ど無く、手を出した際も自分の身を守る時くらい。
風成の振るまいに巻き込まれたと見る者は多い。
スピーチに目を通す流衣。
彼女はそれに視線を落としたまま、秀邦に問いかける。
「風成をスケープゴートにするのは良いんだけど、彼等は自治制度を目指してるのではなくて」
「目指してるよ、今でも」
「こういう卑劣な行動は、自治制度の元では許されるのかしら」
「原理主義者だろうね、おそらくは。一昔前の中国なら、造反有理。目的のためなら、どんな手段を取ろうと正当化される。それが本当に正しいのかどうか、支持されるかはともかく」
彼が語っているのは、文化大革命当時の中国。
造反有理の元、当時の中国政府が反対勢力を徹底的に弾圧。
その名目により無関係な者までもが処罰を受け、国内は内戦とも呼べるような状態にまで発展。
中国近代史の汚点であり、共産党政権下ではタブーの一つであった出来事。
その後の民主化。共産党政権打倒の流れには、文化大革命や天安門事件で弾圧された者達が強く関与している。
弾圧した時は、確かに政府へ有利に働いた。
だがその後政権は打倒され、国家は分裂。
かろうじて連邦制を守っているに過ぎない。
目的のために手段を正当化するのは一見有効だが、最終的に何を引き起こすかまでは保証出来ない。
それでも現状において、その原理主義者たる生徒会長達が学校を支配しているのもまた事実。
短期的な視点から見れば、これを活用しない理由は無い。
「それともう一つ。本当に私に、そこまでの価値があるの?」
「陳腐な言い方をすれば、君は自分の価値に気付いてないだけだよ。一度、彼から離れて街中を歩くと良い。家へ帰るまでに、最低20人は声を掛けられる」
「何かを売りつけるの?」
「……君に交際を申し込むために。どこのお嬢様だ、一体」
困惑気味に頭を押さえる秀邦。
ただ実際、彼女はそのお嬢様。
だからこそ流衣を利用すると決めたのも彼。
逆にお嬢様でないと効果はなく、ここは我慢のしどころである。
お茶を一口含み、体制を整える秀邦。
流衣は手鏡を取り出し、それで自分の顔を眺めだした。
「至って普通なんだけれど」
「君の家族は美形揃いだろ。多分」
「そうかしら?」
「まあ、そうだ。父親はそこそこ良い男で、母親はラテン系の血が混じってる。弟は、モデルみたいな顔をしてやがる」
やがると指摘する風成。
つまりそういう人間の中にいれば、彼女の尺度。
基準も自然と高くなる。
「試しに、一度学内へ戻ってみると良い。風成君は帰った事にすれば、必ず言い寄ってくる生徒が出てくる」
「本当かしら」
「本当だよ。良いから、一度行って来て」
半ば追い出されるようにして学校へ戻る流衣。
その途端、彼女の後ろを数名の生徒が付いてくる。
おそらくは秀邦が情報を流したのだろう。
風成が先に帰った。
もしくはもっと露骨に、二人が仲違いしたとでも。
当てもなく教棟内の廊下をさまよい歩く流衣。
いつもの気のない表情。
滑るような優雅な足取り。
さらさらと流れる黒髪。
窓には同じ姿が、彼女に付き従って歩いていく。
「あ、あの」
顔を真っ赤にして、彼の前に飛び込んでくる男子生徒。
薄い茶髪、甘い顔。
少し背は低く、一年生の様子。
彼は手を激しく振るわせながら、淡いピンクの封筒を差し出した。
「こ、これ。読んで下さい」
「何かの広告?」
後ろの方で、悲鳴と倒れるような音。
誰がどう考えてもラブレター。
ずれているにも程がある。
それでも男子生徒はめげず、彼女へ封筒を押しつけた。
「で、では失礼します」
「はぁ」
何がなにやらという顔の流衣。
告白第一号は、ほぼ間違いなく玉砕。
そもそも、告白とすら認識されていない。
ワイルド、凛々しい、財閥子弟。
美少女や影では職員まで言い寄ってくるが、流衣の反応は薄いまま。
ただ荷物は少しずつ増えていて、それに困ったようには見える。
「よろしかったら、運びましょうか」
「いえ、結構です」
あっさり断られる、初めに声を掛けた少年。
あわよくばと思っていたらしいが、全くもって通用しない。
荷物を抱え、一人廊下を歩く流衣。
その後ろをぞろぞろと付いてくる生徒達。
彼女が立ち止まると彼等も止まり、振り向くとわざとらしく顔を背ける。
不審以外の何者でもなく、流衣は端末を手に取った。
「……付けられてるんだけど。……それはない。……さあ、全然分からない」
相手は風成。
最後の台詞は、「お前が好きなんだろ」
それに対しての返事がこれ。
ここまで来ると、あっぱれとしか言いようがない。
荷物を抱え、マンションへ戻ってくる流衣。
秀邦は薄く笑い、自分の言った通りだろという顔をする。
「あれって、罰ゲーム?」
あくまでも見当違いの事を言う流衣。
ただ彼女もふざけている訳では無く、その言葉は本心から。
自分に自信がない訳でも無いし、人より極端に劣っているとも思ってはいない。
ただそこまでの好意を持たれる人間でもないと、彼女は自分を考えている。
それは秀邦が指摘したように、風成という防波堤がいたから。
彼が側にいる限り言い寄る事は不可能。
また従兄弟とは言え、二人はそれ以上の雰囲気で常に寄り添っている。
学校最強との呼び声も高く、従兄弟で、いつも側にいる。
その人間を差し置いて割って入れる者は、世の中にそうそういないだろう。
「君は少し独り立ちしたようが良いね。明日からは、彼と離れて登校するように」
「私は高校生よ。そこまでひどくはないと思うけれど」
「今日の帰りからでも良い。玲阿君も基本的には手を貸さず、距離を置いて帰る事」
「ああ」
少し不安げ。
不満げに頷く風成。
距離を置きたくないのは、むしろ彼の方かも知れない。
それには、幼い頃の出来事が絡んでいる。
流衣の父である瞬は、前大戦の英雄。
ただターニングポイントと呼ばれる北陸防衛戦で、彼は追撃隊に所属。
囮となった突撃隊の評価が当時は高く、彼等追撃隊は臆病者。卑怯者のそしりを戦後受けてきた。
非難は家族へも向けられ、幼くも物心がつき始めていた流衣は周囲の敵意を受けやすい立場にあった。
風成が彼女へ寄り添うようになったのは、その頃から。
彼女を守るために。
それを彼は、自分の使命だと信じて行動した。
今はその使命感も薄れ、側にいるのが当たり前。
考える余地もない行動。
だからこそ、流衣と離れるのは彼の方がむしろ辛い。
ただそれは、風成の話。
秀邦の考えとは異なる。
「むしろ君の方が、独り立ちするべきかな」
「あ?」
「あ、じゃないよ。あ、じゃ。それと学校からの処分は、おそらく厳重注意。停学まで行くと、おそらく一般生徒の反発を招く。いかに彼等の支持を取り付けるかがポイントだね」
「嫌な話になってきたな」
小さくため息を付く風成。
単純に力を振るって終わり。
そうはならないのが、今の状況。
なにより力を振るうだけで解決するのならば、彼等は処分を受けていない。
秀邦のマンションを後にする二人。
路地を少し歩いた所で、流衣が後ろを振り返る。
「帰らないの?」
「距離を置いてみる」
「ふーん」
例により、気のない返事。
そんな事言わないで、一緒に帰りましょう。
という言葉は出て来ない。
後ろを振り返る事無く、すたすたと歩いていく流衣。
かなり距離を置いて、彼女の様子を窺う風成。
大通りに彼女が出た途端、ブランド物を身にまとった男が言い寄ってくる。
流衣は男を一瞥もせずに、その脇を通過。
ただ敗れ去るよりもむごい結果となる。
その後も次々と男が声を掛けていくが、流衣は相手にする事無く先を急ぐ。
「ちっ。あの女、ちょっと顔が良いからって、調子に……。いて……。この野郎何を……」
「どうした」
男の前に立ちふさがり、腕を組んで真上から見下ろす風成。
その姿は、さながら仁王像。
袖のまくられた丸太のような腕には血管が浮きまくり、とてつもない熱を発している。
「な、何でもありません。失礼しました」
「ごめんなさいと言いながら、家まで帰れ。途中で止めたら、殺す」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい……」
風を切るようにして走り去る男。
憤然とした顔でその背中を見送った風成も、血相を変えて走り出す。
彼の視線の先にあるのは、一台のバス。
歩道側の座席に座っている、流衣の横顔が見える。
「お、おい。いつも、地下鉄で……。これって、本当に八事へ行くのか?……というか、追いつくのか?」
バスに向かって声を上げながら走る風成。
さすがに彼の脚力を持ってしても追いつきはしないが、相手は路線バス。
また早朝と違って優先道路帯も無いため、混雑に巻き込まれてすぐに速度を落とす。
そうする内に、次のバス停へ到着。
しかしここでバスに乗り込めば、当然流衣に気付かれる。
「おい、ずっとこの調子か」
肩を上下させながら喘ぐ風成。
走っては休んで走っては休んでのインターバル走。
何より巨体の高校生が歩道を全速力で走っていれば、嫌でも目を引く。
やがてバスは、終点に到着。
風成が様子を窺っていると、流衣は運転手に促されて顔を上げた。
どうやら寝入ってしまっていたようだ。
「冗談だろ」
恐縮しつつバスを降りる流衣。
すかさず路地へ逃げ込む風成。
バスが止まっているのは、市バスの車庫。
ターミナル駅とは違い、駐車場のような敷地に数台バスが止まっているだけの簡素な物。
流衣はバスを洗っていた運転手へ声を掛け、礼を告げてそれに乗り込んだ。
でもってすぐに降りてきて、違うバスを指さされる。
「……こいつ、本当に一人で生きていけるのか?」
風成が思わず呟くのも致し方ない行動の連続。
ただその原因の一端は、風成にある。
彼女を世間の冷たい風から守るため、彼は常に盾となってきた。
その必要が無くなった時期を過ぎても、なお。
結果は今彼が見てきた通りである。
結局、草薙高校前のバス停まで戻ってくる流衣。
先程の車庫は、小幡。
名古屋の北東に位置する街であり、その路線を途中下車すれば彼女の実家がある八事に到着出来る。
ただ彼女は風成が叫んだ通り、普段は地下鉄での通学。
どのバス停で降りればいいかも分かっておらず、おそらくはどうやれば降りられるかもよく分かっていないのだろう。
今度は熱田神宮の方へ歩いていく流衣。
そちらには地下鉄の神宮西駅があり、環状線に乗れば八事まで乗り継ぐことなく向かう事が出来る。
地下鉄の駅へ続く階段を降りていく流衣。
風成もすぐに追尾。
その間にも男が彼女に言い寄り、玉砕し、彼にすごまれる。
ホームで地下鉄を待つ流衣。
風成は非常に困った顔で彼女を見つめるが、声を掛けるのはタブー。
そうする内に黄色の地下鉄が、ホームへ滑り込んでくる。
乗客が降りるのを待ち、車両へ乗り込む流衣。
舌を鳴らし、隣の車両へ乗り込む風成。
ドアが閉まり、地下鉄は緩やかに加速する。
「この電車は、西回り循環線。金山、上前津、栄、大曽根、八事を経由して当駅に戻って参ります」
淡々と響く車内アナウンス。
ここで「あ」と小さく声を上げる流衣。
本来彼女が乗るべきなのは、東回り循環線。
そうすれば、八事、大曽根、栄、上前津、金山の順で経由する。
つまりは逆。
彼女は、遠回りのルートを選んだ事になる。
「わざとやってないだろうな、こいつ」
今頃路線図を確認する流衣へ視線を向ける風成。
しかし当の本人は、感心したようにただ頷くだけ。
そして、もう一度「あ」と声を出す。
路線図を見ると分かるが、八事には二路線が乗り入れている。
一つは今彼女達が乗っている、循環線。
もう一路線は、上前津から南西へ伸びる鶴舞線。
上前津で乗り換えれば、このまま乗り続けるより早く八事へは到着する。
乗り換える事が出来たならの話だが。
流衣がマンションの玄関へ入っていくのを確かめ、肩を落として路地を引き返す風成。
今度も再び逆方向へ乗り間違え、伏見で下車。
ただここは東山線も乗り入れている駅。
そこで名駅まで出てしまい、何故か駅の外へ出る流衣。
彼女は名古屋駅の喫茶店で、紅茶を所望。
ファッション雑誌を読み耽りながら、優雅な時を過ごす。
自暴自棄になった訳では無く、こういう事もあるだろうと達観したようだ。
名駅ではインフォメーションで八事までの行き方をプリントしてもらい、それを頼りに再度地下鉄へ乗車。
今度はさすがに迷わず、八事へ到着する事が出来た。
風成が肩を落として自宅へ引き返していた頃。
着替えを済ませた流衣は、リビングのテーブルについて両親と向き合っていた。
上気した頬と荒い息づかい。
これには両親も、顔を見合わせる。
「……どうかしたのか」
「バスに乗ったの」
「あ?」
「私、一人でバスに乗ったのよ」
すごいでしょと言わんばかりの表情。
彼女が小学生低学年なら、両親は手放しで褒めただろう。
しかし彼女は、高校生。
むしろ、一人で乗ってもらわないと困るくらいである。
「どうかした?」
瞳を輝かせ、小首を傾げる流衣。
投げたボールを拾ってきて、飼い主の前にやってきた犬のような顔。
瞬はぎこちない笑顔を浮かべ、流衣の頭を軽く撫でた。
「お前は偉いよ」
「そんな、大した事無いわ」
うふふと笑い、席を立ってリビングから出て行く流衣。
両親は深くため息を付き、がっくりとうなだれた。
次に彼女がやってきたのは、四葉の部屋。
彼は壁に向かい、黙々とシャドーボクシング中。
室内にはトレーニング機器が転がり、軍関係と格闘技関係の雑誌が転がるだけの殺風景さ。
ただ彼がその場にいるだけで、それらを補ってあまりあるだけの華はあるのだが。
「四葉。あなた、バスに乗った事はあるかしら」
妙に高い声で話しかける流衣。
そこに異変を感じ取ったのか、四葉はシャドーを止めて頷いた。
「あるよ」
「良い?誰かと一緒にではなくて、一人でという意味よ」
「あるよ」
間を置かず、普通に答える四葉。
流衣はおかしいなと言いたそうに首を傾げ、彼の頭に手を添えた。
「あなた、まだ子供じゃない」
「バスくらい、子供でも乗れるよ」
硬直する流衣の表情。
四葉は怪訝そうに、手を震わせている流衣を見上げる。
「バスが、どうかしたの」
「どうもしないよ」
「ならいいけど」
明らかに地雷を踏んだが、回避方法が分からない。
今の四葉はそんな状況。
でもってその地雷は爆発する事無く、彼の前で震えていると来た。
「当たり前じゃない。一人で乗る物よ、バスなんて」
「そうかな」
思わず小声で呟く四葉。
しかし流衣に睨まれ、すぐに視線をそらす。
嫌な間。
それを先に破ったのは流衣の方。
さすがに四葉に罪はないと悟ったようだ。
「とにかくあなたも、一人で生きていけるようにしなさい」
「どうかしたの」
「どうもしないの」
充分にどうかした顔で部屋を出て行く流衣。
四葉はその背中を見送り、すぐにドアへ鍵を掛けてため息を付いた。
ここは彼の家。
そして自分の部屋。
本来ならば、最もくつろげる場所。
そこですら彼にとっては、安住の地ではない。
翌朝。
待てど暮らせど迎えに来ない風成。
流衣は珍しく苛立った表情で席を立ち、髪を整えながら玄関へ歩いていった。
「まだ早いわよ」
「大人は、余裕を持って行動するの」
そう言って家を出て行く流衣。
母は小首を傾げ、ソファーに寝転がっている瞬へ視線を向けた。
「あの子、どうかしたのかしら。風成君も迎えに来ないし」
「自立したんだろ」
「そういうタイプ?」
「気の迷いって奴だ」
全く信用のない台詞。
ただそれはもしかして、あながち間違ってはいないのかも知れない。
昨日とは違い、取りあえずは草薙高校までスムーズに到着する流衣。
単純にホームさえ間違えなければ、それこそ子供でも出来る事ではあるが。
駅を出れば、後は人の流れに従って歩くだけ。
むしろ、違う方向へ行く方が難しい。
教室に付くや、席に座って顔を伏せる流衣。
表情は優れず、漏れるのはため息ばかり。
ただその視線は、机に置かれた市バスの路線図から離れない。
「おはよう。元気ないね」
妙に調子よく声を掛ける秀邦。
流衣は刺すような視線を彼へ向け、しかしすぐに顔を伏せた。
「一人で帰ってみて、どうだった」
「どうもしないわ」
「それは良かった。もし道に迷ったらどうしようかと、少し心配だったんだ」
朗らかに笑う秀邦。
流衣の顔はさらに低くなり、路線図を握っていた指先に力がこもる。
「おはよう」
いつも通り、元気良く挨拶をする笹原。
流衣は顔だけ上げて、小声で挨拶。
秀邦の方は、微かに会釈だけをする。
笹原と秀邦の間に流れる微妙な空気。
ただどちらも牽制気味に視線を交わすだけで、言葉は一切出て来ない。
「おはよう。気持ちの良い朝だね」
「そうか?」
秀邦の台詞へ、陰気に答える風成。
彼は流衣の隣へ腰を下ろし、ため息を付いて顔を伏せた。
姿勢も態度も全く同一。
この世の苦悩を一身に背負ったようにも見える。
単にバスや地下鉄を乗り間違えただけ。
その後をずっと付けて、心労が重なっただけだが。
さらに重くなる空気。
性格的に我慢出来ないのか、笹原は机を小刻みに叩いて全員の注意を喚起した。
「廊下でずっと謝ってる人がいたけど、あれなに」
「さあ」
全く関心を示さない流衣。
秀邦は返事すらしない。
「一人や二人じゃないわよ。ずっと、ごめんなさい、ごめんなさいって。念仏みたいに呟いてた。そういう宗教でも流行ってるの?」
「世の中、色んな奴がいるからな」
かなり適当な事を言ってごまかす風成。
彼等が謝っているのは、誰でもない彼の脅しに対して。
流衣へ声を掛けてきた男を手当たり次第に脅して回った結果がこれ。
その中には草薙高校の生徒が意外と多く、家へ帰るまでどころか彼の姿を見た途端謝罪の連呼がぶり返したようだ。
いまいち盛り上がらないまま、解散する彼等。
午前中の授業が終わり、昼休みになっても状況は同じ。
食堂で同じテーブルには付くが、空気は重いまま。
秀邦と流衣は、完全に沈黙。
風成は気のない表情。
笹原が時折上滑ったように話し出すが、それも適当な相づちを打たれて尻つぼみで終わる。
静かに置かれるトレイ。
会釈して席に付く真山。
彼女も場を盛り上げるでもなく、黙って親子丼を食べ進める。
笑顔を浮かべ、笑い声を上げ、たわいもない話でも盛り上がる。
当たり前の、気にも留めないような出来事。
彼等にも、そんな時を共有した時があった。
あくまでも、過去形として。
今こそ分かるだろう。
その当たり前の時が、どれだけ貴重だったかと。
彼等の隣のテーブルで食事を始める生徒の集団。
食堂内のざわめきに、風成達もそちらへと目を向ける。
「なるほどな」
皮肉っぽく呟く風成。
隣のテーブルにいたのは、生徒会長とその側近。
テーブルは他にも空いており、敢えて彼等の隣を使う必要は無い。
何らかのアピール。
示威行動と、風成は取ったかも知れない。
そして風成達を挟んだ反対側に、今度は議長達が席に付く。
空気はより一層重さを増し、緊迫感をもはらみ出す。
いち早く食事を食べ終えた風成はトレイを片付け、至って平然とした顔でテーブルへと戻って来た。
敢えて席を外したのは、全体の状況把握。
敵が目に見える位置だけにいるとは限らず、またその左右のテーブルに同意打った構成の生徒が座っているかの確認も必要。
彼の行動は、戦う事前提。
また今は、そういう状況に彼等は置かれている。
流衣がお茶を飲み干したところで全員の食事が終了。
まずは流衣が席を立って、トレイを返却。
次いで秀邦。
最後に風成が悠然と席を立つ。
しかし、真山と笹原は席を立とうとはしない。
二人も食事は終えている。
それでも彼女達は、テーブルに留まったまま。
流衣達の後を追う事は無い。
それは即ち、彼女達の立場をも如実に表す。
自分達は風成達側ではなく、生徒会長側。
体制側なのだと。
ただそれも道理。
真山は体育会代表。
笹原も、総務局兼情報局局長。
彼女達は生徒会組織の大幹部。
むしろ、風成達に同調する理由が無い。
無言で歩く流衣と秀邦。
二人が並んでいると、さながら映画のワンシーン。
その沈黙ですら、彼等の美麗さを装飾する事となる。
そう思うのは、彼等を見ている生徒だけだが。
沈黙のまま教室へ到着する二人。
しかし風成の姿は見当たらない。
「……彼は」
「いないわね」
特に気にもしない流衣。
今はそれより、路線図を見る方が大切らしい。
「単独行動を好む方?」
「自立してるわよ、私よりは」
自嘲気味な呟き。
彼女を守る行動を常に取ってはいるが、それは即ち自分自身に余裕がある事の現れ。
自分の面倒が見られるからこそ、人に気を配る事が出来る。
おそらくは、そういう事を言いたかったんだろう。
それに頷きつつ、教科書を用意する秀邦。
彼はページをめくりつつ、再度流衣に話しかけた。
「暴走するタイプかな」
「冷静よ、私よりは」
今回も付けられる、「私よりは」という注釈。
昨日の件が、余程堪えているようだ。
「短慮には走らないと」
「この前のトランプやサイコロを覚えてるでしょ。人は信用するかも知れないけど、策謀を巡らすのは得意なの」
「悪い男だな」
「あなたに言われたくはないでしょうね」
ひどい指摘を秀邦が受けている頃。
風成がいたのは購買の前。
手にしているのはハンバーガー。
どうやら、食堂の食事だけでは物足りなかった様子。
秀邦が暗に心配していたような、生徒会へ殴り込みを掛けるといった行動は取っていない。
ただこの世の中は、善意だけでは成り立っていない。
今の草薙高校は、特に。
「……こいつだろ、調子に乗ってた馬鹿」
「たまにいるんだよな、ちょっと強いからって目立ちたがりたい奴」
「本当、使えないな」
生徒でごった返す購買前。
その中から漏れ聞こえる彼への罵倒。
ただあまりにも人数が多いため、特定は困難。
さすがに面と向かって言う勇気はないようだ。
風成はそれに反応を見せず、包装紙をゴミ箱へ捨てて購買から立ち去る。
こういった事は今に始まった話ではなく、彼にとっては日常茶飯事。
一つ一つを相手にしていてはきりがない。
それを見越した上での陰口とも言えるのだが。
そこで終われば、良くある話。
仮にいびつでも、形としては収まった。
だが抑制のきかない者は、この世の中にはいくらでもいる。
陰からでも、彼を罵倒している時点でそれは明白なのだが。
「はは、逃げるぞ」
「根性無いな」
「びびってるんだろ」
どっと沸く、姿無き影。
風成は笑顔で振り返り、生徒でごった返す購買前に戻っていく。
潮が引くように静まりかえる生徒達。
自分ではないと首を振り、愛想笑いを浮かべ、身を固める。
風成は購買全体を見渡し、再び背を向けて歩き出した。
脅し。
そう思ったのか、もしくは何も考えていないのか。
「馬鹿が、格好付けるな。逃げるなよ」
静まりかえった購買に響く罵倒。
その分今度は、位置の特定が容易。
風成は改めて振り返り、声のした方向へと歩き出した。
軽やかに宙を舞う巨体。
彼は女子生徒をまとめて飛び越えると、背を向けて逃げ出していた男の首筋にかかとを真上から振り下ろした。
悲鳴すら上げず床へ押しつぶされる男。
仲間とおぼしき連中も逃げ出すが、それは自分の居場所を知らしめるだけ。
周りにいた生徒達は、当然だが彼の突進を避けるために道を空ける。
脇腹を後ろから左右同時に突き、血を吐いて卒倒する男。
その間に右足が跳ね上がり、逃げ出そうとしていた男の膝を真横から蹴り上げる。
こちらは膝があり得ない角度に曲がり、やはり卒倒。
風成はブレザーの襟を軽く整え、顎をそらして購買にいる生徒達を見渡した。
「一応言っておく。俺は今、気が立ってる。情けとか容赦とか、そういう事が通用すると思うな」
そう言い捨て、きびすを返して購買を後にする風成。
生徒達は一様に顔を伏せ、彼が立ち去るのをじっと待つ。
ただ彼等も、風成の姿が消えれば元のまま。
怪我した生徒を購買の外へと放り出し、誰かが医療部へ連絡。
後は先程までのように、いつも通りの喧噪が戻ってくる。
風成がそうであるように。
彼等もまた、草薙高校の生徒。
戦争の色濃い時代を生き抜いてきた者達である。
教室へ戻り、席について教科書の用意をする風成。
流衣は未だに路線図を見たまま。
それに視線を向けた風成は、流衣の頭を軽くはたく。
はたくと言っても、撫でる程度だが。
「……何するの」
「それ、一昨年のだぞ」
「だから何よ。路線図には変わりないでしょ」
「……誰か説明してやってくれ」
頭を押さえ、椅子に崩れる風成。
秀邦は路線図の、発行日の部分を指さした。
「都市部のバスは、ダイヤ改正時に路線を統廃合する事が多い。名古屋の改正は?」
「年二回だろ」
「年二回で、2年前。つまり4回はダイヤが改正され、おそらくは路線も変更してる」
「……だから、昨日の路線が乗ってないのね」
感心したように頷く流衣。
風成は一層沈み込み、秀邦は肩をすくめる。
楽しい、友との時。
かつては当たり前のようにあった、意識もしなかった。
ほのかに温かく、だからこそ棘のように心へ突き刺さる。
そこにいない顔を思い出すたびに。




