46-1
自治制度。
塩田さん。
さらにその先輩である河合さんや屋神さん達も、それを守るために戦ってきた。
ただ彼等もすでにある自治制度を守ってきた立場。
その物を作り上げた訳ではない。
今聞いた話からして、それを作り上げたのはもっと先の先輩達。
それも意外と身近にいる。
「自治?なんだ、それ」
玲阿邸の庭。
木刀を振り回していた風成さんは怪訝そうな顔で振り返り、私をじっと見据えた。
「高校での自治制度です。草薙高校の」
「自治、制度。知らんな、俺は」
話が終わった。
もしくは、聞く相手を間違えた。
この人が関わってるのは確かだが、頼りにならないのも確か。
他を当たるとしよう。
母屋へ戻り、流衣さんを探す。
彼女も自治制度の確立に関わったと聞いているし、話も聞いていくれるはず。
まずは、彼女がどこにいるか。
そして、ここがどこかだ。
「お姉さんの部屋は?」
「右に曲がって左に行けばある。ただ、そこに行けばいるとは限らない」
もっともな事を教えてくれるショウ。
一度、居場所を確認した方が良さそうだ。
「……済みません、雪野ですけど。……いえ、ちょっと聞きたい事が。……そうじゃなくて」
誰も、お菓子の置き場所は聞いてない。
それはそれで、確認するが。
部屋にいる事が分かり、ショウの案内で簡単に辿り着く。
「どうかしたの?」
綺麗なドレスを当てながら、姿見でチェックしている流衣さん。
その辺のファッションモデルが荷物をまとめて逃げ出すような容姿なので、そういう人が着飾ると言葉も出て来ない。
とはいえずっと見入っていても仕方なく、風成さんの時と同じ質問をする。
「自治制度。沖縄自治政府の話ではないわよね」
「草薙高校の自治制度についてです」
「関わったと言えば、確かに関わったんだけど。風成は、何か言っていた?」
「知らんと、一言。意味が通じなかったようです」
その答えに首を振る流衣さん。
ただ彼女も、自治と聞いてすぐには結びつかないくらい。
彼女達の側から話をされた事は無いし、特に守れと言われた記憶も無い。
私達は自治制度に付いて何が何でもという意識を持っているが、それを確立した本人はこんな感じ。
その辺は、多少の違和感を感じなくもない。
「私はその時学校にいただけで、何かした訳でも無い。聡美ちゃんのお兄さんが主導というか、黒幕だと思うけれど」
「風成さんは?」
「実働部隊ね。当然敵は多かったから」
この辺の構図は、今も同じか。
「流衣さんって、私達に自治制度を守れとか言いませんよね」
「制度として定着したし、負担を掛けたくなかったから。優ちゃんも、先輩から何か言われた事は無いでしょ」
「ええ、まあ」
結果的には自治制度の維持に参加はしたが、強制ではなく自分の意志。
全く塩田さん達の意思がないとは言わないが、私達の意思に反して参加した訳でも無い。
「押しつけられる物でも無いし、言ってみればそこまで大切な物かどうかも分からない。それよりもまずは勉強をして、楽しい学校生活を送る方が先だと私は思うのよね」
天崎さんや長官。
理事長達のような台詞。
大人になれば、私も考えがこう変わっていくのだろうか。
「聡美ちゃんのお兄さんに聞く方が一番早いし分かりやすいわよ。当時の出来事は全部覚えてるから」
「飛び級で高校に来たんですよね、秀邦さんって。どうやって知り合ったんですか」
「変わり者同士、波長があったんでしょ」
苦笑気味に語る流衣さん。
それは秀邦さんと風成さん。
もしかして、自分自身についても含まれているのかも知れない。
黎明編
46-1
ざわめく教室内。
声の大きさは控え気味。
ただそのトーンは、普段より1オクターブ高め。
瞳の輝きはその倍といったところか。
「入りなさい」
上ずり気味の声を出す女性教師。
それに促され教室に入ってくる男子生徒。
涼しげな目元と通った鼻筋。
女性的でありながら凛々しさをも併せ持つ端整な顔立ち。
ほっそり下あごのラインが特徴的で、ただこの手の容姿の人間に良くある嫌な笑みが無い。
「簡単に自己紹介を」
「……遠野秀邦と申します」
黒板に、チョークで達筆な文字を書いていく秀邦。
彼が正面へ向き直る時に前髪がそよぎ、綺麗になびく。
その動きを、声も出さず注視する女子生徒達。
異様な緊張感が、教室内を包み込む。
「遠野君は飛び級で、この学校へやってきました。年齢は、皆さんより3つ年下ですね」
ここでようやくの反応。
地鳴りのような低い響き。
美形で年下。
しかも飛び級で入学してくるような秀才。
今のところ、彼を否定する要素は一切無い。
そんな彼をぼんやりと眺める美少女。
容姿としては秀邦に勝るとも劣らず、それに気品を加わえた感じ。
彼を見て教室内が恐慌に至らなかったのも、彼女で耐性が出来ていたのかも知れない。
「何者、彼は」
「飛び級の秀才だろ」
気のない返事をする大男。
意外に整った顔立ちだが、それを軽さと巨体が押し隠す。
ただ人に威圧感を与える雰囲気は醸し出しておらず、気の良い男といったタイプ。
大人しく椅子に座ってる所を見る限りは。
「……玲阿君の隣が空いてるので、そこへ座るように」
「冗談だろ」
鼻を鳴らす風成。
秀邦は教師に頭を下げ、優雅な足取りで机の間を通り抜けていく。
「よろしく」
如才ない、柔らかい微笑み。
それに笑顔で応じる流衣。
席としては、彼女の斜め後ろになる。
「何者だ、お前」
流衣の質問を、ストレートに伝える風成。
ここまで真っ直ぐな質問は想定していなかったのか、秀邦もさすがに一瞬言葉に詰まる。
「というか、本当に男か?」
「見たままだよ」
「髪を長くすれば、女でも通用するだろ」
「ご希望とあれば、明日はカツラを持ってこよう」
軽く切り返す秀邦。
風成は肩をすくめ、そこで興味を失ったのか教科書をめくり出した。
先程以上の緊張感をはらんで始まる、1時限目の授業。
担任以上に上ずった声で授業を始める数学の教師。
視線は時折秀邦へ向けられ、それはすぐにそらされる。
静かに教科書をめくる秀邦。
それに反応し、今度は露骨に視線が注がれる。
「ど、どうかしましたか」
「いえ。分かりやすい授業だなと思いまして」
「そ、そうですか」
安堵。
脱力とも言って良いくらいのため息。
教師の緊張感と生徒達の違和感をない交ぜにしたまま、授業自体は淡々と進んでいった。
定時より、やや早めに終わる授業。
これ幸いとばかりに、女子生徒は秀邦の回りへと集まってくる。
「大学院に席があるって本当?」
「アメリカの大学から、教授になるよう誘われてるって本当?」
「モデルの経験があるって本当?」
矢継ぎ早の質問。
というよりは、事実の確認。
秀邦は曖昧に笑ってごまかすが、それは基本的に事実。
ただ恐るべきは彼の資質よりも、彼女達の情報収集能力かも知れない。
「風成君、どいて」
「邪魔」
「向こう行ってよ」
対照的に、邪険に扱われる風成。
穏やかな顔付きではあるが、体格は熊と見まごうほど。
それでも女子生徒達は彼を軽くあしらい、席からどかす。
このクラスにおいて、彼は恐怖の対象ではないようだ。
ただそのすぐ前に座っている流衣をどかそうとする物は誰もいない。
気品溢れる容姿と、優雅な物腰。
触れられない一線があると、クラスメートも無意識の内にそれは悟っている。
「あーあ。可愛い女子高生でも転校してこないかな」
下らない事を言い、女子生徒から罵倒されながら教室を出ていく風成。
しかしそれも一瞬の事。
彼女達はすぐに秀邦へと向き直り、その関心を少しでも買おうとする。
定時前に終わっているため、廊下を歩く生徒は皆無。
風成が一人きりで歩いている、はず。
だが実際には、彼の行く手から数名の生徒が歩いてくる。
木刀を担ぎ、柄の悪い派手な服装で身を固めた生徒達が。
「変なのもいるな」
普通ならそれとなく逃げ出すか、教室に戻りたくなる相手。
しかし風成は、道端に生える雑草を目にしたくらいの態度。
視界には入ったが、気にするまでもないといった。
それでも若干左側を歩く風成。
元々広い廊下。
これで両者がぶつかり合う事は防げる。
「ん」
廊下の幅一杯に広がって歩いてくる不良達。
どうやっても避けようが無く、衝突を回避するには後ろへ下がるしか道はない。
そしれ玲阿家の家訓は、「引く無かれ」
こういう場面で下がるような教えは受けていない。
彼の場合は、性格上からも。
問答無用の前蹴り。
勢いは弱く、相手を後ろに押す感じの。
それでも彼の正面を歩いていた金髪の男は、弾かれたように後ろへ吹き飛んだ。
廊下に倒れた男をまたぎ、何事も無かったように歩いていく風成。
呆然と立ち尽くしていた男達はようやく我に返り、ばたばたと彼を追いかけだした。
「ま、待て」
「ケンカがしたいのか。だったら掛かってこい」
シャツの袖をまくり、軽く拳を前に出す風成。
相手の気を削ぐどころではなく、むしろ彼から襲いかかりそうなくらい。
かなり遅いが、状況を読める人間ならここで引く。
ただここで引くような人間であれば、そもそも彼に仕掛けはしない。
廊下に響く怒号。
それはすぐに、悲鳴で塗り潰される。
休憩時間が終わる前に、教室へと戻ってくる風成。
立ち振る舞いは、出て行った時と全く同じ。
廊下で起きた乱闘を悟らせるような兆候は何一つ無い。
彼にとってあの程度の出来事は、そのくらいの意味合い。
尋ねられれば、「そんな事もあった」と答えるくらいの。
秀邦を取り囲んでいた女子生徒達も戻ってきた彼を押し返す事は無く、そのまま席へと着いた。
「で、この色男は何者なんだ」
「草薙高校始まって以来の天才ですって」
素っ気なく答える流衣。
秀邦は爽やかに笑い、彼女へと微笑みかけた。
「……愛想がないね」
「そうかしら」
自覚がないと言った態度。
ただ愛想を振りまくタイプでないのも確か。
雰囲気も周りの女子生徒からは若干浮いていて、ある意味秀邦以上の場違いさを醸し出している。
緊張感に包まれた授業と、高揚感の支配する休憩時間。
それが4回繰り返され、昼休みを迎える。
「食堂はあるのかな」
「食べたいなら行くか」
「悪いね」
「礼を言われる事でも無い」
軽く笑い、のそりと立ち上がる風成。
秀邦はその隣へ並び、自分との身長差を比べながら歩き出した。
混み合う食堂。
喧噪と雑多な香り。
それでいて一定の秩序が保たれ、高校生達の食事は行われていく。
「すごいな」
「食堂はなかったのか、前の学校に」
「学校へ通うのは初めてでね」
「ふーん」
軽く流す風成。
結構重要な告白だったのだが、彼にとっては大した意味をもたなかったようだ。
「何が食べたい」
「普通の物なら、特にこだわらない」
「その辺で座ってろ。持ってきてやる」
彼の肩に触れ、厨房のカウンターへと歩いていく風成。
秀邦はその背中を見送って、タイミング良く空いた目の前の席へ腰を下ろした。
「意外と人が良いんだね、彼」
「見た目よりは普通よ」
素っ気なく返す流衣。
見た目は大柄で、つまりは粗暴かがさつタイプに取られやすい。
それでも流衣が言うように、体格以外では回りの高校生とあまり変わらない。
あくまでも普通の高校生でしかない。
「君達は従兄弟」
「……どうして分かるの」
「玲阿家は、RASのオーナーだろ、玲阿家は。前大戦の英雄である玲阿兄弟は子供がいると聞いている。でも双子ではなかったはずだから」
「天才、ね」
これにはさすがに苦笑する流衣。
調べれば分かる事。
クラスメートの女子生徒達と基本的には同じ。
違うのは、彼の場合根拠を示している点。
実証の積み重ねからの推測。
伝聞からの憶測とは一線を画する。
「ラーメンライスで良いか……。なんだ」
「別に。彼女の分は良いの?」
「サラダだけで良いんだと。意味が分からんよ、俺は」
「朝食べ過ぎたから、少し調整してるの」
そう答え、やはり風成が運んできたサラダを受け取る流衣。
対照的に風成は、ラーメンにチャーハンに鶏の唐揚げ。
それが全て大盛りになっている。
「カロリーは……。いや、君の場合、基礎代謝で十分消費されるのか」
「食べ過ぎじゃないの?」
「エネルギー効率を考えれば、炭水化物が多くても良いと思うよ。まだ成長してるのなら、タンパク質も必要だしね」
「そうなの」
あっさり信じる流衣。
意外と騙されやすいとも言える。
食事の量はともかく、ごく普通に食事を終える風成達。
食器もすぐにカウンターへと返され、風成が秀邦を促す。
「暇なら、少し学内を歩くか」
「助かるよ」
「どこか、行きたい所は」
「任せる。何もかもが新鮮でね、僕にとっては」
爽やかな微笑み。
彼に視線を注いでいた女子生徒が、手にしたトレイを次々落としてしまう程の。
罪。
まさにそんな言葉の似合う男である。
彼の希望通り、場所を特定せずに校内を歩いていく風成。
秀邦はその説明を聞きながら、興味深げに窓からグラウンドを眺めている。
「この学校は、普通の高校と同じかな」
「他校に行った事はあるが、それ程変わらん。規則も厳しくないし、良い学校だとは思う」
「高校は不良がつきものと聞いているけど」
「探せばいるだろ」
先程の休みの事を、少しも漏らさない風成。
彼にとっては、その程度の関心事。
聞かれれば思い出すくらいの。
「君は、この学校を誇りに持ってる?」
「誇り?何が」
「いや。なんでもないよ」
苦笑して話を打ち切る秀邦。
風成も肩をすくめ、自分達が歩いてきた廊下を振り返った。
「そろそろ昼休みも終わる。教室へ戻るか」
午後の授業も滞り無く終わり、秀邦の回りに女子生徒が殺到する。
しかし彼はしなやかに身を翻し、リュックを背負って歩き出した。
「悪いけど、用事があるんだ。また明日」
「えー」
「いや。明日は駄目か。とにかく、さよなら」
「えー」
甘いブーイングを受けながら教室を出ていく秀邦。
何人かの女子生徒はその後を追い、残りは呆然と立ち尽くす。
中には食い入るような目で、彼の座っていた席に視線を向ける者もいる。
「変な奴だ。さて、俺も帰るか」
「何が変なの」
「雰囲気が。まあ、どうでも良い」
あくまでも無関心。
少し綺麗な転校生程度にしか思っていない様子である。
「でも、敵は多そうね」
「どうして」
「男の子の敵が。もてそうだから」
「羨ましい話だ」
鼻で笑い、教室を出ていく風成。
そんな彼を、早足で追いかける流衣。
これだけの美少女と一緒に帰る事で敵を作っている事実に、本人はいまいち気付いていないようだ。
名古屋市営地下鉄、東回り循環線。
神宮駅から八事へと向かう路線である。
学生の帰宅時間帯とあって、車内はそれなりの混雑ぶり。
無秩序とまでは行かないが、騒々しさはどうしても付きまとう。
「面白い事でもないかな」
「ケンカ?」
眉をひそめる流衣。
風成は曖昧に笑い、軽く伸びをした。
その拍子に指先が、地下鉄の天井へと触れる。
「まだ、背が伸びてるの?」
「高2だぞ。別におかしい事でもない」
確かに高校生は成長期の時期。
おかしい話ではない。
彼の場合、規格外のサイズではあるが。
「お前こそどうなんだ」
「少しきついかしら」
軽く胸元を押さえる流衣。
身長はすでに止まり気味。
ただプロポーションについては、未だ発達途上のようだ。
ざわめく車内。
慌ただしく移動をし出す乗客達。
風成は席に座っていた流衣を立たせ、移動するよう促した。
「余計な事をする気?」
「地下鉄に鉄道保安員が乗ってるなんて、聞いた事ないだろ」
「武装してたらどうするの」
「マシンガンなら逃げるまでだ」
前大戦の終戦より数年経過。
国内の混乱は終息しつつあり、経済も戦前のレベルに戻っている。
ただあくまでも、しつつあるという話。
銃をしようした犯罪は未だ絶えず、入手自体も比較的容易。
彼の言葉は冗談ではあっても、一笑に付す事も出来はしない。
幸い銃撃戦などは起きておらず、隣の車両で学ラン姿の高校生が暴れているだけ。
風成はシャツの袖をまくり、流衣が後部車両。
最後尾に移動したのを確認した。
「何がしたいんだか」
そう呟き、高校生の暴れている車両へ入る風成。
酔っているのか、全員赤ら顔。
窓ガラスを割るまでには至らないが、椅子の上に土足で上がったり棚によじ登ったりとやりたい放題。
端的に言えば、目に余る。
「ガキ共、落ち着け」
後ろから突き刺さる視線。
同年齢でしょと言いたげなそれが。
風成は流衣の視線を振り払い、一歩前に出た。
草薙大学物理学部。
彼等より一本前の地下鉄に乗り、下車駅も同じ八事。
大学は駅を降りて坂を登った場所。
玲阿邸は、下った場所にある。
「高校じゃなかったの」
白衣を翻しながら振り向く、ブロンドヘアの若い女性。
秀邦は曖昧に笑い、化学式の羅列されているモニターに視線を向けた。
「難しい事してますね」
「あなたには負けるわ。教授が、ニュートリノの観測データを早くまとめてくれですって」
「それは、俺の仕事なんですか」
「嫌なら、10個目のクォークを見つけろって言ってたわよ」
「ありませんよ、そんなもの」
苦笑して、卓上端末の前に座る秀邦。
表示されたのは化学式や数式ではなく、プールのような施設。
薄暗い闇の中に、点々と光が輝いて見える。
「一度見てみたいな、本物を」
「スーパーカミオカンデ?岐阜だから、思ってる程遠くないわよ。交通の便が良い場所でもないけど。観光ついでに行ってみれば」
「考えておきます」
モニターの右端に表示されるいくつかの数値。
それをメモ用紙に書き取り、秀邦は小さく首を振った。
「難しいな」
「操作が?」
「10桁のかけ算が」
「ふーん」
女性は冗談だと思ったつもり。
秀邦もにこりと笑い、メモ用紙を丸めて捨てた。
10桁のかけ算を解いた、正答の書かれたメモ用紙を。
自分の存在を消すかのようにして。
同時刻。
八事、玲阿邸。
リビングで、紅茶をたしなみながらくつろぐ流衣。
その足元を、ほっそりとした猫が通りすぎていく。
「四葉。猫は外に出さないで」
「逃げ出したんだ」
「危ないでしょ。猫と言っても、山猫なんだから」
「猫だろ」
真顔で返す幼い美少年。
年齢は小学校高学年といった所。
あどけなさを残しつつも、凛々しさを漂わせた顔立ち。
叱責した流衣によく似た顔立ちでもある。
「お前のお姉さんは怖いな。でも、その猫はしまっとけ」
足をさすりながら諭す風成。
四葉はだらしなく床に寝そべっていた山猫を抱え上げ、リビングから出て行った。
彼がいなくなったのを確認し、流衣は風成へと視線を向ける。
「あれで良かったかしら」
「あれ以外無いだろ。その辺を歩いてる猫とは訳が違うんだ」
「でも四葉、すごい可愛がってるから」
「あいつには懐いてるみたいだな。あいつには」
それこそ、憎しみのこもった口調。
ジーンズの裾をめくれば、山猫の口と同じサイズの歯形が見て取れる。
「駄目ね、私は。弟の面倒一つ見られない」
「十分見てるじゃないか。大体あいつは、素直で問題も起こさない」
「そうなんだけど。お父さんがいない分、私がしっかりしないと」
彼女の父は、当然存命。
ただセキュリティコンサルタントの仕事で家を開ける事が多く、母親もRASの経営で多忙。
結果として、流衣が四葉の面倒を見る事になる。
そのため未だに玲阿家本邸に泊まり込む事が多く、結果として彼の世話をするのは風成の両親。
伯父夫妻になってくる。
「伯父様達にも申し訳ないし」
「気にしてないだろ、あの二人は。熊みたいな弟子が何人住み込みでいると思ってる」
「でも」
伯父夫妻もその息子である風成も、彼女達を迷惑とは考えていない。
むしろ肉親として、暖かく迎え入れている。
ただそれは、彼等の主観。
庇護を受けている流衣の主観ではない。
「やっぱり、マンションに住んだ方が良いのかしら」
「四葉の食事はどうする。それだけで一日潰れるぞ」
「大げさね。それにあの子、変に大人しいというか。友達も連れてこないし」
「敵が多いんだろ。男の敵が。あの色男と同じで」
おかしそうに笑う風成。
またこれは、ある程度は事実。
四葉が学校で孤立しているのは、父をそしられて暴れたのが原因。
ただ彼が言うように、嫉妬やねたみも非常に強い。
その代わり女子生徒からの支持は、影ながら熱烈な物がある。
「難しいわね、生きていくのって」
「大げさだな。……猫は連れてくるなと言っただろ」
「だって、お腹空いてそうだったから」
庭からじっと彼等を見上げる四葉。
その足元にいるのは、数頭の猫。
山猫ではなく、普通のイエネコ。
ただお腹が空いてるかどうかは、猫の顔を見ても判断のしようがない。
「台所で、魚でも何でももらってこい。いっそ、家も用意しろ」
「分かった」
素直に頷き、猫を引き連れて歩いていく四葉。
風成は首を振り、ソファーへ座って背もたれへと崩れた。
「人を育てるのって、大変でしょ」
「確かにな。というかあいつは、あんなので生きていけるのか」
「どうかしら。私は、自分の面倒を見るだけで精一杯よ」
「まあ、猫の人生にまでは関わってられん」
翌日。
散歩がてらか、広い庭を小走りで駆けていく風成。
その行く手に車庫が現れ、彼の視線は何気なくそちらへと向けられる。
「う」
車庫の奥に光る、いくつもの輝き。
その下に見える綺麗な毛布。
彼は来た道を引き返し、全速力で駆け出した。
キッチンで黙々とパンをかじる四葉。
何も付けず、食パンを黙々と。
余人には分からないが、それが彼の食べ方。
初めは出来るだけ、プレーンな状態で食べたいようだ。
「おい、あの猫なんだ」
「家を作れって言っただろ。あの駐車場なら、それ程車の出入りもないし」
「下に敷いてあった毛布は」
「寒いかなと思って」
普通に答える四葉。
ちなみに毛布は、怒鳴り込んできた風成の物ではない。
まして、流衣や伯父夫妻の物でも。
毛布はあくまでも、四葉の物。
無論玲阿家に毛布はいくらでもあるが、わざわざ自分のを使う理由は無い。
「猫だぞ、猫。お前の友達じゃないんだぞ」
「友達でも何でも、寒いなら良いだろ」
「良いのか?良いのかな?」
「さあ」
付き合ってられないとばかりに、ティーカップを口元へ運ぶ流衣。
笑いを隠すためのようにも見える。
「父さん、何とか言ってくれ」
「そういうところは、四葉君の良い所ですよ。でも、昨日は少し冷えたでしょう。自分はどうしたんです」
「上着を重ね着した」
「……毛布は余ってるので、それを持って行くように」
さすがに困惑気味に諭す伯父の月映。
四葉はやはり素直に頷き、次のパンに手を伸ばした。
全員から向けられる、複雑な視線。
彼の行く末を案じる、少し不安げな。
名古屋市営地下鉄、西回り循環線。
通勤通学時間帯とあって、車内はかなりの混雑具合。
自然に人と人が触れ合い、ぶつかり合い、押し合う状況。
ただ、それから逃れられる人間もいる。
「今日は、来るかしら。あの人」
「ああ、色男。どうかな」
闇の続く車窓を眺める風成。
彼にかばわれる恰好で窓際に立っていた流衣は、その車窓に視線を向けて軽く髪を整えた。
「高校に来て楽しいのかしら、あの人は」
「何もかも新鮮だとは言ってたが。天才が何を考えてるかはよく分からん。それとも、惚れたか」
「ああいうタイプは苦手なの」
では、どんなタイプが好みなのか。
周囲にいた男子生徒や若いサラリーマンが、一斉に聞き耳を立てる。
「大学院に籍があって、モデル並みに美形で、物腰も柔らかくて。何が不満なんだ」
風成の指摘に討ち死にしていく乗客達。
そこまでの条件を全て兼ね備えている者は、どうやらこの車内にはいなかったようだ。
「自分より綺麗な人なんて、困るじゃない」
「美人は言う事が違うな。俺も一生に一度くらい、そのくらい贅沢な悩みを抱えてみたいよ」
至って軽い調子で答える風成。
あくまでも自然体、気負いのない態度で。
流衣はくすりと笑い、その背中をそっと彼の胸へと預けた。
二人が教室に付くと、女子生徒達が落胆のため息で彼等を出迎えた。
「なんだ、それは」
「遠野君が来ないから」
「昨日いじめたんじゃなくて」
「来ないって言ってただろ、あいつ。大体、いない奴の事なんて知るか」
刺すような視線をはねつけ、席へ着く風成。
流衣も彼女達に謝りつつ、その前へと座る。
「一日来て、もう二度と来ない可能性もありそうね。元々、天才の気まぐれなんでしょ」
「ああいう奴は、男の敵だ。美形なんて、この学校には必要無いんだ」
草薙大学大学院、心理学部教棟。
その一室に招き入れられ、書類の束を渡される秀邦。
「是非とも君の力が必要なんだ」
強い調子で語りかける年配の男性。
秀邦は書類を一枚めくり、相手の男性をじっと見つめた。
「道祖神と書いてありますが」
「土着信仰におけるコミュニティ論を調べて欲しいと依頼があってね」
「それは民俗学か、社会学の分野でしょう」
「向こうは向こうで、社会心理学の分野だと押しつけてきてね。宗教学の教授も、是非君にと言っていた」
詳細は不明だが、たらい回しされた案件が彼の手元へやってきたという事。
依頼主は不明で、理由も不明。
得体の知れない以来だけが残される。
「まあ、良いですけどね。俺は高校があるので、かかりきりにはなれませんよ」
「今更高校って、どういう事かな。君はもう、大学院にも籍があるんだよ。頼りにしてるんだよ」
それこそ、泣いてすがりそうな男性。
秀邦はそれとなく相手から距離を置き、自分の胸元を指さした。
「年齢としては、まだ中学生です」
「理屈は聞いてないんだよ、私は」
だったら今までの話はなんだったのか。
とにかく彼が必要とされているのは間違いなく、それも最高の待遇と条件で迎えられているらしい。
それについての、彼自身の感情は一切読み取れないが。
ノックとともに開くドア。
入ってきたのはショートカットの綺麗な女性。
彼女は抱えていた書類を床へ落とし、まっすぐ秀邦へと歩み寄った。
「誰」
「遠野秀邦君。飛び級で大学と大学院に籍を置く事になった。君より、1つ年下だよ」
「へぇ、はぁ、ふーん」
いたく感心する女性。
ただその年齢差を考えると、彼女も中学生になる。
「いかにも出来そうって顔ね」
「どんな顔かは分からないんだけど」
「人類の敵って意味よ」
男の敵だけではなく、女にとっても敵。
確かに人を惑わすには十分な容姿。
彼のために人生を踏み外し、またそれを良しと思う者も多いだろう。
彼女は秀邦が手にしていた資料へ目を落とし、年配の男性に食ってかかった。
「先生、これは引き受けないって言ったじゃないですか」
「学長からの命令なんだよ。学長は、教育庁から命令されてるんだよ。私には断りようがないよ」
「でもこれは、心理学の領域ではないですよね。というか、お地蔵様って何」
「私も分からない。ただ、遠野君がいてくれて助かった。本当に助かった」
どうやら丸投げするつもり。
気弱なようでいて、意外と押しは強い。
「これは貸しですからね。10単位分くらいもらいますよ」
「卒業分の単位を認めるよ。とにかく、頼むよ」
「これが大学というものよ、遠野君」
「俺は一応、高校生でもあるんですけどね」
その言葉に反応する女性。
そして端正な顔を、ぐっと彼へと近づける。
「草薙高校?」
「ええ」
「奇遇ね。私も籍はあるの、高校に。……行ってみるか、久し振りに」
それこそ、敵の城へ乗り込むような高揚ぶり。
秀邦は付いていけないと言いたげに、彼女から離れて資料を読み始めた。
「準備しなさい。行くわよ」
「俺は忙しいんだけど」
「それはあなたの都合でしょ。私の都合じゃないわ」
「先生」
「頼むよ、本当に」
頼みたいのは、秀邦の方だろう。
草薙高校正門。
すでに授業が始まり、警備員が暇そうに立っている状況。
そんな彼等に挨拶をして、女性は敷地内へと入っていく。
「変わってないわね、全然」
「久し振り?」
「先週来た」
理解がしがたい台詞。
飛び級で進学するくらいなので、優秀なのは確か。
ただそれに比例して、正確や行動もかなりずれているようだ。
「おはようっ」
授業が行われている教室へ、元気良く飛び込んでいく女性。
秀邦はその後ろから、優雅な足取りで従っていく。
「……静かにして下さい。それと、何の用ですか」
ため息混じりに尋ねる若い男性教師。
女性は朗らかに笑い、自分の服。
ブレザーを指さした。
「勉強をしに来ました。高校生ですからね」
「それなら、1時間目から来るように。……君は」
「昨日転校してきた者です」
「ああ、飛び級の。君も、来るなら1時間目から来るように」
飛んだとばっちり。
それでも秀邦は怒りを表現する事無く、愛想良く微笑み自分の席へと着いた。
そんな彼を、真上から覗き込む風成。
覗き込むというのは言い過ぎだが、身長差がどうしてもそうさせる。
「休みじゃなかったのか、今日は」
「彼女に連れてこられてね。何者かな」
「お前と同じ飛び級で来た。宇宙は、自分を中心に回ってると言ってたな」
相当に痛い台詞。
どう考えても、飛び級で進学した者の台詞ではない。
「ケンカしたと言っていたが」
「そういう性格だ。敵は多い」
そう呟いた途端飛んでくる消しゴム。
風成は前を向いたままそれを受け止め、即座に投げ返した。
「先生、暴力を振るう男子がいます」
「……良いと言うまで、廊下で立っているように」
休憩時間。
ペットボトルを振り回し、怒号を上げる女性。
出てくるのは、先程の教師への恨み節。
廊下へ立たされたのが、余程気にくわなかったようだ。
「あれは私が悪いの?どう?どう思う?」
「興味ない」
ばっさりと切り捨てる流衣。
女性は血相を変え、今度は彼女に食ってかかった。
「何、それ。どういう態度、それ」
「ケンカしてたんでしょ、私達」
「それとこれとは話は別よ。誰か、この女をどうにかして」
「出来るかっ」
クラス中からの怒号と野次。
それに秀邦が、敏感に反応をする。
「彼女、何かあるの」
「そっちの大男と同じなのよ。無茶苦茶強いのよ。人としてあり得ないくらい強いのよ」
「見た感じ細いけど」
「常識が通じないのよ。非常識きわまりないのよ」
それは自分だろという、再びの突っ込み。
秀邦はもはやそちらへは関心を示さず、流衣へと視線を向けた。
「止めた方が良いわよ。私、手加減出来ないから」
「それって、どのくらい危ない?」
「正面と後ろから、ダンプカーが猛スピードで突進してくるくらい。左右には背よりも高い壁があって、ダンプカーの車高はかなり低い。そしてあなたは、手足を縛られて棒立ちになってる」
「詳細な説明、ありがとう」
そこまで言われて挑む者も、まずいない。
また彼は好奇心旺盛ではあるが、慎重なタイプ。
危険の回避には長けている。
「男なら、叩きのめしてよ」
「女性に手を上げるなんて出来なくてね」
「下らない。フェミニズムなんて、1000年前に滅びればいい」
「お前、もう帰れよ」
しみじみと呟く風成。
どっと沸く教室内。
楽しく、賑やかで、暖かい。
どこにもありそうな高校生としての一時。




