45-6
45-6
心静かにといっても、座禅を組んだり滝に打たれる訳ではない。
少し落ち着いて考えるだけ。
何にしろ、無理は禁物。
今までより少し冷静になるだけ。
一歩とは言わない。
半歩下がって考えよう。
自警局へと戻り、明日の準備。
私は何も準備する事は無いが、サトミやケイはある様子。
私やショウは、何か起きた時のための人間。
彼等は通常の業務に関わる人間。
言ってみれば毎日同じ事の繰り返しが基本。
多少の波はあるだろうけど、今日は何もしなくていいなんて事にはならない。
ソファーに寝転がっていてもあれなので、局長執務室を訪ねてみる。
モトちゃんとサトミだけかと思ったら、沙紀ちゃんもいた。
彼女はいてもいい。
笑ってもくれる。
そして北川さんも私を見て、笑ってくれた。
「どうかしたの」
「いや、別に。忙しいなら、何か手伝おうかなと思って」
「手伝う」
何も、そんな平坦な言い方をしなくても良いじゃないよ。
「まだ活動再開したばかりでみんなぎこちないから、その事を話し合ってたの。週明け、月曜日にガーディアンを全員集めるから、ユウも何か話す?」
「私が?何を」
「それは自分で考えて。短く、訓辞みたいな物で良いから」
簡単に言ってくれるモトちゃん。
この人達は常日頃から大勢の人前で話す事に慣れてるから、引き出しも多い。
考えるより先に、場に応じた言葉が出てくるのだろう。
私はそういう事に慣れてないので、スピーチ参考集でも読みたくなるが。
「優ちゃん、難しく考えなくて良いわよ。みんな、頑張って下さい。だけでもいいから」
にこやかにアドバイスをしてくれる沙紀ちゃん。
こういう一言が助かるな。
「それだけでは済まないでしょう。仮にも局長直属のガーディアンが、それだけでは」
あまりにこやかではない表情で言ってくれる北川さん。
こういう一言が困るんだよな。
「だったら話す事なんて無いよ。大体それは、七尾君の仕事じゃないの」
「彼も話す、御剣君も話す。元野さんも話す。雪野さんも話すの」
「聞く側は面倒だと思ってない?そんな大勢が話すなんて」
「規律を守るためよ」
まずは私の規律を糺すと言い出しそうな北川さん。
今からもう疲れてきたな。
少し早めに自警局を後にして、図書センターへとやってくる。
本屋さんも良いが、捜し物がある時はこちらの方が便利。
司書の人に聞くか、詳しい人がいたらの話だが。
「訓辞か、スピーチの参考集ってありますか」
受付の男性に声を掛け、図書センター内の見取り図を見せてもらう。
建物自体は一般教棟並に大きいが、開架スペースは驚くほど広い訳でも無い。
これなら私でも迷う事無く辿り着ける。
「お借りになるのでしたら、こちらまでお願いします」
「分かりました」
見取り図のコピーをもらい、それを頼りに歩いていく。
地図さえあれば迷わない。
逆に地図がなければ、多分このまま引き返す。
すぐにスピーチの参考集や文例集が集められたコーナーへ辿り着く。
しかし数が多すぎて、どれを読んで良いのか分からないな。
「部下の完全掌握術。飴と鞭はこう使え」
……なんか、嫌なタイトルだな。
「言葉のマジシャン。舌先三寸で、会社の頂点へ上り詰めろ」
実力で上り詰めてよ。
「檄、檄、檄。声の大きい者が勝つ」
そんな訳あるか。
極端なタイトルの本は避け、無難そうな本を一冊手に取る。
文章は、いかにもといった定型文。
どこかで聞いた事のありそうな文章が並ぶ。
「……難しい言葉を並べる必要はありません。自分の語る文章の意味を、まずは自分自身で理解する。その事から始めましょう」
良い事言うな。
確かに自分でも分かってないのに、出来もしない理想ばかり語っても仕方ない。
これはちょっと参考になった。
閲覧席へ本を持っていき、それっぽい文章をいくつか書き出す。
短めで良いと沙紀ちゃん達は言っていたし、凝った文章を私が言い出すのも結構変。
この辺を自分の口調で語ればいいだろう。
「……いくらで売れる?」
「売れば分かるさ」
側の席から聞こえてくる会話。
何気なく視線を向けると、分厚い専門書をリュックの中へしまい込んでいた。
ここの本は借りられるので、持って帰る事は出来る。
それにはさっき受付で言われたように、手続きを済ませた後で。
勝手に持ち帰るなんて事はあり得ない。
周りの目を気にしながら移動し始める男達。
いきなり付いて行くのもかなり不自然。
少し間を置いて立ち上がり、受付の男性に視線を向ける。
こういう事は慣れているのか、すぐに頷く男性。
細かい事は彼に任せ、私は男達を追う。
開架スペースの外に出ても、警報音は鳴り響かない。
本自体に細工をしたのか、バッグが特殊なのか。
そこは私が考える事でも無く、廊下を早足で歩く男達の後を追う。
階段を駆け下り、図書センターの外へ出ようとする男達。
開架スペースを出た時点でアウトだが、ここを出れば決定的。
そしてどう見ても、思いとどまる様子はない。
「失礼」
ドアの前に立ちふさがる数名の男女。
図書センターの警備員らしく、男達は無理矢理彼等を突破しようと試みる。
「逃がすかよ」
素早くバッグへ手を伸ばす警備員。
結果引っ張り合いとなるが、そこは鍛えた人間とそうでない人間。
あっさり勝負が決まり、警備員はバッグを。
男は勢い余って、床に転がる。
「……辞書、ね。警察に連絡。親も来てもらえ」
「分かりました」
「そ、それだけは」
「一生後悔しろ」
すごい事を言う人だな。
私も普段から、このくらいのインパクトがある事を言えばいいのだろうか。
多分、止めた方が良いだろうな。
手際よく男達を拘束し、図書センターの前へ放り出す警備員。
いや。よく見ると警官か。
「警察官の方ですか」
「ええ、まあ。ここは窃盗が多いですから、警官みたいな役割もしてるんですが」
「へぇ」
「雪野さんですよね、お噂はかねがね」
どうして分かったのかとは尋ねない。
小柄で背中に長い棒。
でもって丸く見える顔。
丸い訳ではない、多分。
つまり、容姿的には他人からすると目立つらしい。
「警察に連れて行くんですか」
「生徒の自治とはいっても、この図書センター自体は独立した組織に近いですからね。逆にここの治安は守るけど、学内にはノータッチ。兼ね合いが、色々難しいですよ。去年のトラブルについてもですが」
「はぁ」
「あー、俺も暴れたかったなー」
こういうタイプか。
あの時に出会わなくて助かった。
ばたばたしたため何も借りず、そのまま家へと戻る。
モトちゃん達も私に過剰な期待はしないだろうし、多少はメモも取ってきた。
その辺を話せば大丈夫だろう。
「ただいま。ドングリは」
「拾ってあるわよ。また植える気?」
あまり楽しそうではない顔をするお母さん。
どうやら、私が庭に植えると思ってるようだ。
「植えるのは学校。庭の木は、ショウの家に運ぶ」
「何年前から、そう言ってる?」
おととしくらいかな。
最近とにかく成長してきて、少し圧倒されるくらい。
いい加減、運び出す時期が来てるのは間違いない。
「それはお父さんと、改めて相談する。ショウが士官学校へ行く前に何とかした方がいいしね」
「あの子、本当に入隊するの?」
「だって、士官学校はもう受かってる」
「困った話ね」
難しい顔をしてキッチンへ消えるお母さん。
そう言われると、私の方が困ってしまう。
とはいえ止めてくれと言う立場ではないし、言って止めるような人だったらもっと困る。
本当、難しいな。
ただ、それはそれ。
今はドングリの方が大事。
いや。大事という程ではないが、こっちはこっちで考えないと行けない。
まずは大きめのグラスに水を注ぎ、そこへドングリを放り込む。
浮かんでくる物は、この時点で除外。
沈んでいく物だけを候補にする。
昔は何も考えず、ただ庭へ埋めただけ。
その中の一つが芽を出して、今の大きさまで成長をした。
偶然なのか、幸運なのか。
そういうのも悪くはないが、今回は出来るだけ確実さを求めたい。
「二三日置いておいて。その後で学校へ持って行く」
「どんぐりなんて、どうするの」
「コナラなんだって、これの名前」
「ドングリはドングリでしょ。何言ってるの」
まあ、これが普通の反応。
大人の反応かどうかは、ともかくとして。
後は、これ以外の花を考えるとしよう。
庭へ降り、暗がりの中何が植えてあるかを眺めてみる。
暗いのと冬が近いせいか、花は見当たらない。
見えるのは、暗闇に光る猫の目くらいだ。
「寒くない?」
当たり前だが、返事なし。
あっても困るけど。
「花、何植えようか」
暗闇に消える光。
どうやら、私の相談には乗ってくれそうに無いようだ。
「……猫、いなかった?」
それこそ、猫みたいな悪い目付きで現れるお母さん。
その割にはここって、猫の出没率が高いよな。
「いないよ。それより、花も植えたいんだけど」
「そんな趣味あったの」
怪訝そうに尋ね来るお母さん。
私は庭の花壇にも無関心。
花が嫌いではないが、自分で育てようと思った事はない。
そういう根気が無いとも言える。
「趣味はないけど、記念に何か残そうと思って」
「記念、ね。ああ、もう卒業」
今気付いたのか、この人。
ただ私も、意識しだしたのは最近の事。
人の事はあれこれ言える立場ではない。
「花とかドングリとか、手入れが大変でしょ。却って迷惑じゃないの」
「園芸部の敷地に植えて良いって了解を得てる」
「ふーん。ひまわりとかで良いんじゃない。放っておいても育ちそうだから」
そんなアバウトとは思えないし、あそこの花壇はもっと可憐な花が揃っていた。
そこに巨大なひまわりが育ってきたら、あまりにも場違い過ぎてしまう。
「もう少し、無難な花」
「だったら、朝顔。あれこそ簡単よ」
参考になるような、ならないような。
とはいえ、奇をてらったり手間が掛かるのは確かに論外。
定番の花で手を打った方が良さそうだ。
「今、種とか苗は残ってないの?」
「春に植えるような種はあるけど。……あら、お帰りなさい」
「ただいま。どうかした?」
庭に立っている私達を怪訝そうに覗き込むお父さん。
暗がりの中妻と娘がこんな所にいれば、嫌でも尋ねたくなるだろう。
「ドングリ、今度ショウの家へ持って行くから」
「そう」
妙に寂しげな表情をするお父さん。
この人こそ、ドングリに愛情を注いでるな。
「すぐそこだから、いつでも見に行けるって。それにこの庭には、大きすぎるでしょ。台風が来た時、危ないよ」
「そうだけどね。白樺も?」
「一緒の方が都合良いでしょ。……ああ、そうだ。一つ質問」
名前でもないし、校花でもない。
それ以外に思い付くアイディアもない。
「雪野家の家紋って何?それに、花って入ってない?」
「家紋……。お母さん、知ってる?」
「さあ。私、白木家だから」
軽く逃げるお母さん。
ただ、白木家の家紋を知ってるかは疑問だな。
「僕も覚えてないけど、花ではなかった気もする」
「何か、雪野家にゆかりのある花は?草薙高校でも良いけど」
「朝顔かな。理科の実験で作った。それか、ひまわり」
夫婦だな、やっぱり。
ただ二人がこう言うなら、それもあり。
ひまわりはともかく、朝顔は悪く無いと思う。
育てるのはそれ程手間ではないし、周りを圧倒するような威圧感もない。
「種、ある?」
「夏にとって置いた分なら」
「それ、学校へ持って行く」
「ドングリとか、朝顔とか。あなたって、意外と地味なのね」
地味なのかな。
というか、何が意外なんだろうな。
雪野家産の種を小さな紙袋へ入れ、そこに一応名前も書く。
後は園芸部の彼女に託せば、その後は何とかしてくれるだろう。
他の花に混じって目立たないかも知れないが、それはそれで構わない。
仮に来年育てるのを忘れても、その内誰かがその辺に撒いてくれるかも知れない。
朝顔を育てる事より、何かをしたいという気持ちの方が今は強い。
そして今は、すでに半分くらいやり遂げた心境。
我ながら、先走るにも程がある。
翌朝。
まずはドングリの様子を確認。
昨日沈んでいた物が、今朝はいくつか浮いている。
これらも種としては向いておらず、ボールから取り除く。
「意外に、いないんだな」
いないという言い方は的確ではないが、そう考えると殆ど手も掛けずに庭のドングリがあそこまで育ったのはかなりの幸運。
今となっては、育ちすぎた気がしないでもないけれど。
少し早く起きたので、ジャージに着替えて外に出る。
体が小さくなってしまいそうな、凝縮された寒さ。
もう朝晩は、冬とあまり変わりない。
白い息を吐きながら体を解し、朝日に輝きだした町並みを眺める。
昔から変わらない、見慣れた光景。
それに心を和ませ、まずは一歩を大きく踏み出す。
足に響くアスファルトの感覚。
出来れば土のグラウンドを走りたいが、私が走るのは単に体力増強のためではない。
大げさな言い方をすれば、屋外での戦闘を想定した行動。
今はともかく、学校では襲ってくる相手は時と場所をそれ程は選んでは来ない。
だとすれば変化のある場所になれ、それを想定しながら走るのも訓練の一つ。
ショウ達は市街地での戦闘行為を想定していて、私はその小規模版といったところ。
ただそんな事を考えられているのは初めの内。
息が弾み出す頃には、走るだけでやっと。
最後には意識も白くなり、喘ぎながら先を急ぐだけ。
そうなると、さすがに想定もなにもない。
家に戻ってシャワーを浴び、全てをやり終えた気分になる。
このまま明日の朝まで寝ていたい所だが、そうも行かず制服に着替えてキッチンへ入る。
「お茶か、ミルクかコーヒー」
黙って冷蔵庫を指さすお母さん。
もう片手はフライパンと格闘中。
そこまでは甘えられないか。
「私も自立しないとね」
フライパンの動きが止まり、お母さんがゆっくりこちらを振り返る。
「まだ、寝てるの?」
結構失礼だな、自分の娘に向かって。
「いつまでも、お母さんを頼っていられないでしょ」
「それはそうだけど。突然、何」
「私ももうすぐ大学生だからね。色々考えてるの」
「ふーん」
また始まったのかと言いたげな顔をして、フライパンへと戻るお母さん。
信用もないと来たか。
牛乳を電子レンジで温め、一口。
目が覚める訳ではないが、動いた分のカロリーは補給したい。
また砂糖を入れた分、優しい味になっている。
「ドングリ、どうなった?」
「浮いてきたのはいくつかあったけど、それでもまだ結構沈んでる。沈んでるのは芽が生える方だから、間違えて捨てないでね」
「分かった。ただドングリを寄贈するって、その辺はどうなの?」
嫌な部分に突っ込んでくるな。
私も、薄々は感づいてたのに。
「大丈夫」
「何が」
「何もかもが。ご飯ちょうだい」
テーブルに置かれるスクランブルエッグ。
それに醤油とマヨネーズを掛けて、おかずにする。
パンも良いけど、こういう食べ方ならご飯でも良い。
何より美味しいご飯を食べられる事に、朝から幸せを感じる。
そんな幸福感に浸っている所へ、お父さんもやってきた。
「おはよう」
「ああ、おはよう。ドングリの調子はどう?」
調子と来たか。
さすが、ドングリ愛好家は言う事が違うな。
「いくつかは使えそう。お父さんは、あれがコナラって知ってた?」
「知ってたよ。シイとかカシの場合もあるけどね、ドングリは」
「ドングリはドングリじゃないの」
まだ言ってるのか。
とはいえずっとそうだと思い込んでいた物が、実は違う名前だと言われてもすぐには納得出来はしない。
今食べている卵だって、正確には鶏の卵。
「卵」という概念でひとくくりには出来るが、その辺はドングリとコナラの関係と近い。
だからといってどうもせず、どうして朝からドングリ談義で盛り上がるのかも分からないが。
ドングリはもう一晩水に浸しておき、朝顔の種だけ持って学校へ向かう。
園芸部にも種はあったが、これは雪野家の朝顔。
色々言われるとは思うけど、私にはこの辺が身の丈に合っている。
実際、小さいしね。
バス停を降り正門へ近付いていくと、声が聞こえてきた。
例の挨拶とはまた違う、ただ最近聞き慣れた声が。
「朝の挨拶は、一日の第一歩。何も声を張り上げろとはもうしません。まずは軽い会釈から。そして小さな微笑みから。大きな一歩よりも小さな一歩。そもそも我々日本人は」
弁士でもいるのかな。
多分、違うだろうな。
予想通り、正門前に立っていたのは長官。
とにかく落ち着きがないというか、じっとしていない。
フットワークの軽さとも言えるが、教育庁長官としてはどうなんだろう。
ただあまり朝から関わりたくはなく、人混みに紛れて小さくなってやる過ごす。
幸い声は掛けられず、そのまま正門を通過。
それでも訳の分からない演説が、どこまでも付いてくる。
教室へ逃げ込み、ようやく一息。
正式な訪問も何もないな、あの人には。
「おはよう。正門で見た?」
「ええ。奇特な人よね」
ばっさりと切り捨てるサトミ。
とはいえそれ以外に言い様はなく、言い得て妙とも思う。
「全校集会で、長官が来てますって発表するんじゃないの」
「普通なら」
「普通じゃないって事?」
「定義は人それぞれね」
曖昧に答えるサトミ。
確かにそれぞれだろうけど、普遍的な部分もある。
頼まれてもしないのに朝から演説する人を、普通とは多分言わないだろう。
「あ、モトちゃん。正門で見た?」
「何を?誰もいなかったわよ」
「だったら、止めたのかな」
「どうかしら」
小さく首を振るサトミ。
私達の会話にモトちゃんは小首を傾げ、「ああ」と声を出した。
「廊下に人が集まってる場所があった。私はそこを迂回してきたけど、もしかしたらいたのかも」
「いた」
「ええ。長官がいたのかも」
改めて言い直すモトちゃん。
まさかと思うけど、少しずつ近付いてきてるんだろうか。
様子を窺いに廊下へ出ると、ショウと木之本君が歩いてきた。
幸い長官の姿は無く、演説の声も聞こえない。
「長官、見てないよね」
「それっぽい集団はいた。行動の方へ歩いていったぞ、生徒を引き連れて」
「何、それ」
「大道芸人って、あんな雰囲気だよな」
軽く失礼な事を言い出すショウ。
ただそれ程間違った例えでもないが。
「とにかく、こっちには戻ってこないよね」
「雪野さんって、長官の事気にしてるの?」
「騒がしいし、突拍子もないし、思いつきで行動するでしょ。厄介じゃない?」
「まあね」
寂しげに微笑み席へ着く木之本君。
意味ありげでちょっと嫌だな。
でもってサトミは、どうして手鏡を渡してきたんだろうか。
最後にケイが到着。
いつも通り顔を伏せ、無言で席についてそのまま机に倒れ込んだ。
「長官、いなかった?」
尋ねてみるが、返事も無し。
余程の事があれば自分から何か言うだろうし、どうやらこちらに来る事はなさそうだ。
「朝だよ、朝。元気な挨拶から一日は始まるんだよ」
「朝なんて、一生来なければ良いんだ」
何を言ってるんだか。
ケイをからかう暇もなく、村井先生が到着。
ただ予鈴はまだ鳴っておらず、HR以外の予定があるようだ。
「全員、講堂へ移動するように」
「まだ早いじゃない」
「誰か、何か言った?」
私だけを見ながら尋ねる村井先生。
対抗上、こちらも彼女を睨み返す。
「睨まないで。それと、移動して」
「長官が来るから媚びろって言うんですか」
「言ってるのよ。良いから行きなさい」
びしっとドアを指さす村井先生。
そこまで言われてはだだをこね続ける訳にも行かず、席を立ってドアへと向かう。
歓待するのは良いけど、体裁だけ取り繕うのはどうなんだろうか。
廊下はいつも以上に掃除がされ、壁や窓は磨き込まれた状態。
ゴミは一つも落ちてなく、落ちていてもすぐに教師か職員が拾い集める。
「だったら、いつもこのくらいやれば良いんじゃないの」
「そうすると、堅苦しい学校にあるわよ。管理案みたいな」
「そうかな」
いまいち納得出来無いが、サトミがそういうのならそうなるんだろうか。
ただ偉い人が来たから掃除をして、来なければ手を抜いて良い理由にはならない。
「そもそも掃除なんて、自分達のためにしてる訳でしょ」
「あなた、何を熱くなってるの」
「熱くはなってない。疑問を述べてるだけ」
「それが熱いのよ。何かあった?」
尋ねられて答えるような事は何もない。
昨日と同じ今日という一日を生きているだけだ。
当たり前だけどさ。
私を観察するようなサトミの視線から逃れ、出来るだけ彼女とは遠い席へと座る。
自分としてはそのつもりだったが、すぐに隣へ座られた。
講堂内はすでに半分以上席が埋まっているが、話し声は殆ど無い。
それよりも重苦しさ、緊張感が漂っている。
再三長官が来る事をアナウンスされ、静粛にするよう注意を受ける。
また静まりかえっている理由は、それだけではない。
講堂内のあちこちに立っている、制服警官の姿。
これが一番大きいだろう。
いくら自治と言っても、教育庁長官が来るならこのくらいの警備は当たり前。
何よりここは春に争乱の起きた学校。
警戒されるのは必然と言える。
「空気悪いな」
そう呟いた途端、警官が鋭い視線を向けてきた。
睨まれる覚えはないので、こちらもすぐに睨み返す。
すると向こうは同僚の耳打ちを受け、血相を変えて逃げ出した。
「何、あれ」
「おい、お前。誰を睨んだと思ってるんだ。あれが雪野優。県警でもマークしてる監視対象の生徒だぞ。ほら、春先に大暴動を起こした首謀者だ。死にたいのか」
私の後ろで、ぼそぼそ喋るケイ。
つまりは、そういう事を耳打ちされたと言いたいのだろう。
「そんな事言ってる訳ないでしょ」
「言ったんだよ、俺には聞こえるんだよ。心の声が」
何を言ってるんだか。
私達はともかく、周りの生徒は皆静か。
まだ壇上に誰もいなくても、話し声は全く聞こえない。
というか、私達が浮いていると言うべきか。
「もしかして、黙った方が良い?」
「草薙高校の校是は、生徒の自治だ。教育庁長官だろうが、関係あるか」
随分過激な意見を述べるケイ。
畏まるとか敬うって言葉を、この人は知ってるんだろうか。
「偉いんでしょ」
「偉いのは長官という立場であって、本人が偉いかどうかは分からない。お釈迦様やキリスト様じゃないんだから」
「そうだけどね」
実際この数日長官の側にいて、偉いという印象はあまり受けなかった。
気さくで人当たりが良いとは思ったが。
また教育庁長官だからといって、無闇に騒いだり敵視する理由は無い。
ケイが何を考えてるかは知らないし、この人もさすがに直接的に何かをする気は無いだろう。
やがて壇上に教職員が並び、生徒集会の開催を告げた。
そして予定通りに、長官が紹介される。
一応は割れんばかりの拍手。
それを合図とするかのように、長官が手を振りながら愛想良く現れる。
「ご紹介にあずかりました、教育庁長官吉岡と申します。数日間当校に滞在して皆さんの学校生活を見学していきます。どうぞよろしくお願いします」
軽く頭を下げる長官。
改めて拍手が起きた所で、長官は会釈を返して話を続けた。
「学校生活とは何か。つまらない授業、下らない義務、先輩からの命令。面白い事ばかりではないと思います」
いつもとは違う、落ち着いた口調。
これが政治家としての、より本質的な部分だろうか。
「勉強はいくつになっても出来る。実際大人でも、仕事が終われば後は自由時間。1時間や2時間はどんなに忙しい人でも余裕があると思います。ではその時間に勉強をするか?まずしません。自分の仕事に関する勉強すら、満足にはしないでしょう」
少し間を置く長官。
生徒達が意識を集中させたところで、改めて話が続く。
「その点皆さんは、勉強する事を義務づけられています。義務教育とは子供に教育を受けさせる義務という意味ですが。実際の所、皆さんにとっても勉強する事は義務になってると思って差し支えないでしょう。強制、という言い方も出来ますが」
それはその通り。
私達側からすれば「教育を受ける権利」だとしても、学校へ通う以上勉強をする義務はあると思う。
「一日、とにかく勉強をさせられる。嫌でも苦手でも何でも、勉強をする環境が与えられる。例えば数学。二次関数なんて全部忘れましたし、大人になって一度も使った事はありません。ではその時間が全く無駄だったかと言えば、そうでもありません。論理的な思考、難題に取り組む姿勢、教師の話を聞く努力。これらは社会に出ても役立つ事であり、そうして取り組んだ時間が無駄とは誰も思わないでしょう。また私は政治家なので関係ありませんが、将来どんな知識が必要になるかは誰も分かりません。大人になってから勉強をしても、身につくのはごくわずか。皆さんくらいの時期が、一番勉強に適していると言えます」
ここでもう一度の間。
講堂全体を見渡し、マイクに顔を近づける。
「俺は勉強なんて関係無い。自分の才覚だけで生きていく。それも良いでしょう、悪い考えではありません。ただ残念ながら今の日本は、学歴社会。また殆どの人間が、高校までは通っています。些末な事から言えば、就職する際にテストを課せられたらどうします。己の腕だけで生きていくとはいっても、それは自分の都合。あなたを受け入れてくれる側の都合ではありません。高校卒業程度の学力がなければ、自分の才覚を生かす事すら難しいのが現実です。また」
軽く叩かれるマイク。
再び集まる注目。
長官は満足げに微笑み、話を続けた。
「大人になって誰かと話す時。学校の話題は当然出るでしょう。「いやー、全然勉強してなくて」、「自分もそうですよー」良くある会話です。その際、語る思い出がいくつあるでしょう。勉強もせず、生徒活動もせず、ただ漫然と学校生活を過ごした場合には。華々しい思い出を作れとは言いません。私も平凡な学校生活を過ごしてきました。でもささやかでも良い。誰にでも胸を張って話せる思い出が一つはあっても良いでしょう。みなさんにはありますか、そんな思い出が。皆さんはそんな努力をしていますか、そんな思い出が作れる日々を。まだ遅くはありません。明日には忘れても構いません。でもせめて今日一日くらいは、何か思い出になる事をやってみてはいかがでしょうか」
生徒集会は滞りなく終了し、生徒達は順次講堂から退出する。
かなりの興奮と高揚感を保ちながら。
理由はやはり、長官の演説。
あれに感銘を受けた人が相当いたようだ。
私もなるほどとは思ったし、最近見てきた彼とは異なる発言に見直しもした。
さすが、教育庁長官になるまでの人は違うといったところか。
ただ私達の中で誰か興奮しているかと言えば、そういう人はいない。
サトミやケイは、元々こういう事には反応をしないタイプ。
むしろその裏を考える方。
モトちゃんや木之本君は逆に、こういう演説をする側。
参考になったとは思ってるかも知れないが、感銘とはまた違うと思う。
「良い話だったわね」
にこりと笑いながら、退出する順番を待っていた私達の所へ現れる北川さん。
この人が好みそうな発言ではあったな。
「まあね」
軽く流すモトちゃん。
北川さんは私達を見渡し、瞳をきらめかせて言い放った。
「私達も何かをやりましょう」
やりましょうか、ではない。
やりましょう。
どうやら強制らしい。
「やるのは良いけど、何をやるの?手間になるような事は無理よ」
やんわりと制約を掛けるモトちゃん。
北川さんは思案の表情を浮かべ、改めて私達を見渡した。
「……自警局も、基本的にはガーディアン。一度、全体訓練をしてみたら」
「良いわよ。木之本君、手配して」
「分かった」
「一致団結。心を一つに、気合いを入れて」
なにやら呟きながら、人の流れの中に消える北川さん。
訓練くらいなら、私も異論は無い。
もっと突拍子もない事を言うと思っていたので一安心といった所だ。
私達も講堂を出たところで、沙紀ちゃんが駆け寄ってきた。
「今日、全体訓練をやるって本当?」
「本当。北川さんの発案で。長官の話に触発されたみたい」
「そういう予定はしてないんだけど、大丈夫?」
「準備はこっちでどうにかする。丹下さんは、スピーチでも考えておいて」
軽く笑うモトちゃん。
対して沙紀ちゃんは、若干不満顔。
ガーディアンを統括するのは彼女。
全体訓練となれば、その責任者も彼女になる。
文句の一つくらいは言っても、罰は当たらないだろう。
「北川さんって、ああいうタイプだったの?」
「たまにね。真面目な分、感化されやすいのよ」
肩をすくめる沙紀ちゃん。
逆を言うとあまり感化されない私達は、少しすれているのかも知れないな。
「全体訓練、楽しみだね」
半笑いで現れる七尾君。
彼はガーディアンのトップである立場。
その訓練に対しては、沙紀ちゃん同様責任を持つべき存在。
あまり気楽に笑っていられないと思うが。
「いいの?」
「思い出だよ、思い出。明日の朝は起きられないくらいの訓練が良いね。一生の思い出になる」
悪夢じゃないのか、それは。
しかもそれを本当にやりそうで怖いな、この人は。
「私は、倒れるまで訓練はしないよ。モトちゃんやサトミも参加するんだしさ」
「え」
同時に声を上げる二人。
この人達、自分には関係無いと思ってたのか。
「全体訓練って言うくらいだし、当然二人も参加するんでしょ。だよね、七尾君」
「まあ、理屈としては」
逃げたそうな顔をする七尾君。
これは丁度良い機会。
北川さんに感謝だな。
この二人が参加するなら、他の人間が参加しない理由にはならない。
そう。全員参加。
日頃訓練をサボってる人達も集めよう。
「木之本君、メニューは数通り考えてね。サトミ達は、軽めで」
「分かった」
苦笑しつつ端末で連絡を取る木之本君。
私も軽めのメニューに参加して、サトミ達の監視をするか。
「今日、例の会合があるのよ。それはどうするの」
上手い良い訳を思い付いたと言いたげなサトミ。
そのくらい、私だって予想済みだ。
「まずは会合に出席。その後訓練。木之本君、スケジュール的にそれで間に合うよね」
「大丈夫だと思う。少し参加の時間は遅れるけど」
「そっちは七尾君と沙紀ちゃんがいるから大丈夫」
「あー」
突然声を張り上げるサトミ。
大丈夫かな、この人。
楽しみが出来ると時間が過ぎるのも早い。
気付けばお昼。
ご飯も良いが、今日は予定が詰まっているので仕事を先に片付ける。
やってきたのは園芸部。
事務所の前の花壇には、昨日と同じ女性がいて花に水をやっていた。
結構急いで来たつもりだけど、この人一日ここにいるのかな。
「早いですね」
「教室が近いんですよ」
うふふと笑いそうな女性。
この人の側にいるだけで癒されそうな気分。
サトミみたいな張り詰めた要素がまるでない。
大体サトミのうふふは、ナイフと同義語だからな。
「それで、種持ってきました」
「拝見させて頂きますね……。朝顔、ですか」
「定番過ぎるというか、ありふれてるとは思いますが」
「いえ。これで十分ですよ。綺麗な花が咲くと良いですね」
いい人は笑顔も綺麗。
全体訓練よりも、サトミはここで一週間くらい研修を受けた方がいいんじゃないのかな。
種は大切に保管してもらい、時間が空いたので私は持ってきたパンを食べる。
花を眺めながら食べる食事は、またひと味違う。
外で食べるのが良いのかも知れないな。
「なー」
のそのそとやってきて、私を見上げる薄黒い猫。
私が食べているのはフィッシュバーガー。
匂いがそれ程するとは思えないが、この辺の感覚はまた別なんだろう。
「あら、可愛いお客さんですね」
にこりと笑い、猫の頭を撫でる女の子。
猫は逃げ出そうとせず、その身を彼女に預けでごろごろ言い出した。
「猫、良いんですか?私のお母さんは、庭に猫が来ると嫌がるけど」
「粗相をされると困りますけど、猫は猫で一所懸命生きてますから」
笑顔がきらめくな、この人。
でもって世の中にはいるんだな、こういう人が。
この人とモトちゃんと、名古屋港水族館の友達と。
後はヒカルと木之本君。
世の中が彼女達みたいな人間ばかりなら、どれだけ幸せだろうかと思う。
実際、そんな都合の良い世界がある訳もないが。
「食べる?」
「なー」
人の靴をひっかき出す猫。
態度が全然違うんじゃないの。
衣を外し、白身の部分だけを差し出してみる。
猫はがつがつと魚を食べて、満足をしたのか顔を洗い出した。
「明日は雨ですね」
猫を見て、うふふと笑う女の子。
本当柔らかいな、この人は。
「雪野さんは、お時間よろしいんですか」
「よろしいと思うんですが……。どうして名前を」
「雪野さんを知らない人はあまりいないと思いますよ。私は特に覚えてます」
覚えてる。
これは単に、私が暴れ回ってるから知っているという意味ではない。
何か彼女と関わった事がある。
そういう意味だろう。
ただこっちは、人の顔を覚えるのが苦手。
それ以外の事を覚えるのも苦手だけどさ。
「春、私を助けてくれたの覚えてます?」
「助けた?」
思い出すのは、屋上へ迷い込んだ犬。
でもあれは、つい先日の話。
第一、犬だ。
「目の調子はいかがですか」
ヒントか。
目、助けた、春。
「ああ、思い出した。地面に倒れてた」
「正解です」
にこりと笑う女の子。
生徒同士が衝突して大混乱になった時、地面に倒れて襲われそうになっていた女の子がいた。
それを私が助けた事がある。
あの時は色々あって顔もはっきりとは覚えてなかったが、そう言われてみればそう。
そうだったのか。
「今度は私が恩返しをさせて頂きます」
「いや。そこまで大した事はしてないので」
「ご謙遜を。先輩の朝顔とドングリは、私にお任せ下さい」
そっと胸に手を置く女の子。
私もその手に自分の手を重ね、微かに頷く。
私が残していく物はささやかで、誰もそれに気付かないかも知れない。
でも私の記憶は残っていく様子。
私がした事を大切に思ってくれながら。
それは結局個人的な事ではあるけれど、多分一番嬉しい事。
そんな思いがつながり、重なり合っていって欲しい。
今こうして重なっている手のように。
ぬくもりに包まれるようにして。




