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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第44話
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44-10





     44-10




 何もなければそれで良い。

 平穏な毎日が一番。

 普通に学校へ来て、授業を受け、お昼を食べて、家へ帰る。

 当たり前の、普通の高校生としての生活。


 憧れではないが、それも一つの道。

 張り切りすぎず、たまには息を抜く事も必要。

 そう思い、今日も早く帰ろうとリュックを背負う。

「ひゃーっ」

 あまり聞き慣れない種類の悲鳴。

 何かと思う間もなく、真っ青な顔をした男の子が教室へ飛び込んでくる。


 彼は慌ててドアを閉めると、そのまま床に倒れて喘ぎだした。

「誰かに襲われたの?」

「い、犬。馬鹿でかいのが、10頭くらい」

「冗談でしょ」

「がぉーっ。がぉーっ」 

 彼が犬になった訳ではない。

 多分、犬が吠える真似をしてるんだろう。

 真似をする理由は、何一つ理解出来ないが。



 その間にサトミが自警局と学校へ確認。

 犬が学内を走り回ってるのは間違いないらしい。

「野犬なんていないでしょ、この辺は」

「ペットショップのトラックが事故をして、逃げ込んできたんですって」

「ふーん」

 それは犬も不憫。

 大目に見てやらないと。 

 とは言ってられない状況。


 人間の飼育下にあったなら、狂犬病は大丈夫だと思う。

 ただパニック状態にある動物は、かなり危険。

 小さい犬でも、決して甘く見る事は出来ない。

「……七尾君?ええ、プロテクターを着用して」

「ガーディアンに、手荒な事はさせないでね」

「……手荒な真似はしないでって、ユウが。……ええ、分かった」 

 苦笑気味に通話を終えるモトちゃん。

 私が、犬寄りの発言をしたのがおかしかったようだ。


 何か言おうとする前に、放送が入る。

「学内にいる全校生徒にお知らせします。ただいま学内を、複数の大型犬が徘徊しています。危険ですので教室内に入り、外へ出ないようお願いします」

 繰り返される放送。

 これでは家に帰るどころか、教室に缶詰。

 困ったどころの話ではない。

「大人しいのね」

 椅子に座ったまま動かない私に話しかけてくるサトミ。

 以前の私なら、迷わず教室を飛び出していたはず。

 でも今はそういう精神状況ではないし、犬も人を襲って回るとは思えない。

 あくまでも一時の騒ぎ。 

 時間が経てば犬も落ち着き、私も家に帰る事が出来る。



 サトミが外部からの情報を収集しているが、幸い誰かが怪我をしたという話は入ってこない。

 犬も順調に捕まり、残りはそう多くないとの事。

「ばうばう」

 聞き馴染みのある声。

 ただ、ここで声が聞こえるはずもない。

 そう思いつつ、わずかに開けてあるドアの隙間から廊下の様子を確認する。


「わっ」

 ドアの隙間から出てくる細長い顔。

 その湿った鼻が私の鼻に当たり、ひやっとした感覚が全身を貫いた。

「ぬ、濡れた」

「人の事言えないでしょ」

 ティッシュを差し出しながら呟くサトミ。

 私は鼻が出ないっていうの、それ程は。

「どうしたの、羽未」

「ばう」

「ばうじゃ、私もちょっと分からないかな」

「ばうー」

 細長く吠える羽未。

 玲阿邸を脱走してきたとは思えず、ドアの隙間から外を覗くと体がスリムになっている。

「ああ。毛を切ったのか」

「ばうばうばうばう」

 どうやら正解。

 ドアを開け、羽未を教室の中へ招き入れる。


 その途端の悲鳴と怒号。

 私が血迷ったと、クラスメートは勘違いしたようだ。

「大丈夫。この子は、ショウの飼ってる犬だから」

「ばうばう」

「ど、どうして答えるの」

「頭が良いんだよね」

「ばう」

 照れ気味に頷く羽未。

 本当、素直で可愛い子だな。


 ただこのままでは不安に感じる子も多いので、リード代わりにワイヤーを首輪に装着。

 これさえあれば、好き勝手に動く事は無い。

「綺麗になったね」

「ばうばう」

「でも、そろそろ冬毛かな」

「ばうばう」

 何となく感じる周囲からの冷ややかな視線。

 犬と話すのは、あまり世間からは理解されないようだ。




 仕方ないので教室の隅へ行き、羽未の背中を撫でる。

 少し固いけど、気持ちの落ち着く手触り。

 胸のもやもやや苛立ちが、少しずつ薄れて空に舞い上がっていく気分。

 でもって、何となく眠くなってくる。



 揺すられる肩。

 顔に当たる毛布は、少し固め。

 でもって、妙に柔らかいときた。

「起きたかしら」

「誰が」

「まずは背中を拭きなさい」

 突きつけられるティッシュ。

 背中は別に濡れてないと言いたかったが、見ると羽未の背中は濡れていた。

 完全に寝てたな。

「ごめん、ごめん」

「ばうばう」

「気にするなって言ってる」

「ばうー」

 何となくかすれる羽未の声。

 今は、悲しい顔はしないで欲しい。

「もう帰れる?」

「帰れないから起こしたの。犬、探してきて」

 ……聞き間違いかな。

 顔をティッシュで拭いて、軽く深呼吸。

 少し伸びをして、もう一度尋ねる。

「もう、帰れる?」

「犬を探してきなさい」

 命令形に変わったよ。


 これには私も反論したいが、話を聞くつもりはない様子。

 問答無用でインカムと、捕まっていない犬のリストが渡される。

「ある程度誘導はするけど、犬がどこにいるかまでは分からないの」

「私だって知る訳無い。第一、犬の知り合いなんて」

「ばうーっ」

 突然遠吠えし出す羽未。

 いたな、すぐ側に。

「一緒に探してきて」

「警察犬じゃないんだからさ。訓練せずに、探せるとは思えないんだけどね」

「これが、それぞれの犬の持ち物」

 話を聞かないな、この人も。



 取りあえずレースの付いたハンカチを、羽未の鼻へと近づけてみる。

 この辺は意識以前の事なのか、すぐに匂いを嗅ぎ始めた。

「分かる?」

「ばうばう」

「分かんない?」

「ばうばう」

 全然話が通じないな、当たり前だけど。

「この匂いがするところへ言ってみて」

「ばうっ」

 大きく吠えて、一目散にドアへと向かう羽未。

 その勢い事ワイヤーが引っ張られ、床の上を滑って行く。


 とはいえ転びながらではなく、ちゃんと両足を床へ付いたまま。

 その辺のバランスを取るくらいの自信はある。

 焦げ臭いというか、靴の底はすり減った気もするが。

「は、走るなら走るって。引っ張れると、面倒だな」

 ドアは閉めてあるので、羽未はそこで足止め。

 それでも大きく伸び上がり、しきりに手でドアをひっかいている。

「ちょっと落ち着いて」

 軽くワイヤーを引き、羽未を床へと戻す。

 力の勝負では勝ち目はないが、そこは引き方とタイミングだ。


 羽未が床へ寝そべったところで背中をまたぎ、上へ乗る。

「良いよ、起きて」

 のそっと起き上がる体。

 少し高くなる視線。

 彼女の身長というか起きた位置は、私の座高より高いようだ。

「……それ、何」

 冷ややかな声で尋ねてくる、髪全体にウェーブのかかったお嬢様風の女の子。

 確かに、犬の上に乗るのは一般的ではないか。

「というか、雪野さんだってそんなに軽くはないでしょ」

 地味に失礼な、清楚な顔立ちの眼鏡っ娘。 

 ただそれもそうで、私の体重も空気のように軽い訳ではない。

 多少の負担は羽未には掛かっているだろうが、それを上回る体力が彼女にはあるようだ。

「転げ落ちたりしないでね」

 笑い気味に答える前髪にウェーブを掛けた優しげな顔立ちの子。

 そんな事、考えてもみなかったな。

「大丈夫。ドア開けるからね」

 スティックでドアのセキュリティボタンを押し、通れるだけの幅だけ開ける。


「よし、行って」

「ばう」

 柔らかな加速をする羽未。

 幸いドアにぶつかって転げ落ちるという真似はせずに済み、廊下へ出たところでその加速が強まっていく。

「行き先、分かってる?」

「ばうばう」

 すぐに答える羽未。

 その走りに迷いはなく、目的地へ向かって一目散に駆けていく。

 ただこのルート、なんか覚えがあるな。



 予想通りというべきか。

 到着したのは食堂。

 でもって厨房へ忍び込むと、ポリバケツをひっかいて横倒しにした。

 そこから転げてきた馬鹿でかい豚骨にかじり付き、それを抱えて唸り出す。

「ちょっと、食べてる場合じゃないって」

「うー」

 すでに私の言葉は耳に入らない状況。

 やっぱり、犬に頼るのは無理があったか。


 背後で小さな物音。

 羽未の背中から降り、スティックを抜いて腰を落とす。

 だが目が合ったのは、小さなポメラニアン。

 こっちも、ご飯に釣られてきた口か。

「おいで」

 人には慣れているのか、それ程警戒はせず屈んだ私の懐に飛び込んでくるポメラニアン。

 ふわふわした感触と、何とも麗しい瞳。

 思わずぎゅっと抱きしめてしまいそうで、こういう犬を飼う人の心境がよく分かる。

「もしかして、ここにいるって分かってた?」

「うー」

 全然分かってないだろうな、これは。




 それでも一頭見つけたのは確か。

 厨房の後片付けを済ませた所で、羽未に骨の欠片をくわえさせて正門へと向かう。

 そこには大きなトラックが数台止まっていて、業者らしい人が何人か深刻そうな顔で固まっている。

 てっきり事故でも起こしたのかと思ったけど、そうでもないようだ。

「一頭。じゃなくて二頭か。とにかく、見つけてきました」

「あ、ありがとうございますっ」

 まずはポメラニアン。

 次は羽未。

 もう少し何かして欲しかったが、今は骨の事しか考えてないようなので役に立ってくれそうにない。

「まだいます?」

「え、ええ。あと少し。申し訳ありません」

「人は襲わないみたいだから、良いんですけどね。どうして逃げたんですか」

「キーを閉め忘れてて。それを閉めようと車を止めた途端、ドアが開いて逃げ出しました。止めた震動が良くなかったみたいです」

 そんな事もあるのか。

 まあ、故意じゃないだけ良いのかな。


 羽未の頭を撫でつつ、端末でサトミと連絡。

 一頭だけ捕まえたと報告をする。

「……私の仕事はもう終わりでしょ。……だから、犬の匂いしかしないって」

 あの子、私にハンカチ頼りに探させる気か。



 羽未とポメラニアンに別れを告げ、校内へと戻る。

 いや。待てよ。

 もしかして、このまま帰れば良かったのかな。

 引き返そうとも思ったが、正門からはかなり離れた所。 

 進むも戻るも変わらない位の距離まで来ている。

「なー」

 足元をのんきに歩いていくシャム猫。

 犬が学内を走り回っている割には、意外にのんびり。

 いざとなればその辺の木に登ればいいし、多分私よりは安全なんだろう。

「犬がいるけど、大丈夫?」

 答えもせずに、さっさと立ち去るシャム。

 本当、猫は愛想がないな。

 答えられても困るけどさ。



 シャムを追いかけようとしたが、雑木林に入ったところで逃げられた。

 これ以上行くと迷子になりそうだし、暗いところは苦手。

 暗闇で光る瞳を睨みつつ、正門からの並木道へと戻る。

「……シャムならいたけど」

 サトミの通話にそう答え、その3倍くらい説明を求められる。

 こういう冗談は、本当に通じないな。

「……え、何が。……意味が分からないんだけど。……とにかく、戻る」

 また訳の分からない事を言い出してきた。

 大体あの子って、人に命令した事を自分でやった事はあるんだろうか。



「遅いわよ」

 腕時計を指さすサトミ。

 遅いも何も、時間は関係無いでしょうが。

 などと言っても通用しないので、そこは軽く受け流す。

「それで、屋上がどうしたの」

「手すりの向こう側に犬がいるから、それを捕まえるわよ

「そういう事は、業者に頼んで」

「学内の治安を維持するのはガーディアンの役目じゃない」

「資格停止中だし、犬は治安を乱してないよ」

「犬がいる事自体問題なの。高校に犬が通ってくる?こないでしょ。そういう事」

 どういう事よ。

 全然分かんないよ。




 それでも屋上へ連れてこられ、強い風に吹かれる。

 日も暮れ始めて、風もかなり冷たくなってきた。

 確かにこんな場所にいたら、犬も可哀想……。

「何かの冗談?」

「冗談って、どういう意味」

「あれをどうしろって?」

 手すりの奥。

 よく分からない機材の奥にいるのは、黒いハスキー犬。

 何しろ、吹雪の中でも平気で寝るような犬種。

 むしろ今が暑いと思っているかも知れない。


 でもってサイズが桁外れ。

 ボルゾイとはまた違う大きさで、全体的に筋肉質。

 多分体重は私より多く、抱えて持ち上げられるとはとても思えない。

「体にワイヤーでもロープでも付けてくれれば良いから。後はこっちへ引っ張るか、そのまま地面まで降ろす」

「暴れないの?」

「人の言う事は聞くみたい」

 だったらハスキー犬が、自分で付けてくれれば良いのにな。

 まず、無理だろうな。


 ハーネスと、ウインチの付いたロープ。

 ショウがそれを身に付け、試しに手すりの向こう側に立つ。

「怖くないの」

 手すりから離れて尋ねるサトミ。

 この辺は感覚の違いで、私達はハーネスや補助器具無しでもそれ程不安は感じない。

「下にはネットも敷いてあるだろ」

「そんな都合良い場所に落ちるかな」

 手すりから下を覗き込むが、ここから見るとネットは指先でつまめるくらいのサイズ。

 その上に落ちるのは、色んな意味で幸運だと思う。



「がうがうーっ」

 突然吠えだしたと思ったら、狭いスペースの上ではしゃぎ出すハスキー犬。

 見ているこっちが怖いくらいで、良く平気だな。

「麻酔銃とかで撃てないの?」

「気絶して落ちたら困るでしょ」

「まあ、そうだけどさ」

「がうがうー」

 もういいんだって、それは。



 ただ相手があのサイズだと、私一人では無理がある。

 ハーネスの装着は良いにしろ、引っ張ったりサポートしてくれる人間が必要だ。

「やっぱりもう数人いないと」

 手すりの向こう側にいるショウを、まずは確認。

 すでに体を解し始めていて、彼については問題ない。

「七尾君は」

「猫を追いかけてる」

「意味が分かんないな」

「だから、猫を追いかけてるのよ」

 何がだからか知らないし、猫って何よ。

 大体猫なんて、犬以上に捕まらないだろう。

「もういい。御剣君呼んで」

「良いの?」

「非常事態だから、あれこれ言っても仕方ない」

「分かったわ」


 端末で連絡を取り出すサトミ。

 ただその表情がすぐに曇り、頭から角が出てきた。

 いや。本当に出てきた訳ではないけれど、雰囲気的に。

「……取りあえず、来るだけは来なさい。……喜んでくるって」

 目をつり上げながら告げるサトミ。

 根本的に、日本語が間違ってないか?




 大して待つ事もなく、御剣君が到着。

 来たのは彼だけではなく、他の2年生も一緒。

 明らかに態度が悪いのは御剣君。

 渡瀬さんはお昼同様、至って気楽な調子。 

 手すりの向こうではしゃいでいるハスキー犬を見て笑っている。

「ショウが向こう側へ渡るから、御剣君はサポートして」

「ああ」

 ショウは素直に返事をするが、御剣君は頷きもしない。

 まあ、仕方ないだろう。


 そう思ったのは私だけなのか、どうなのか。

「その態度、何」

 さらに目をつり上げて詰問するサトミ。

 これには御剣君も一瞬たじろぎ、しかし顔を背けてどうにかごまかした。

「今は個人的な感情で動いてる場合ではないのよ。その事、分かってる?」

 低くなるサトミの声。

 誰の感情がどうなってるか、一度教えてあげたいな。

「聞いてるの」

「聞いてるよ」

「……もう一度言ってみて」

 研ぎ澄まされた氷の刃を突きつけられたら、こんな気分になるだろうか。

 体の内側から、強烈な冷気で寸断される心境。

 のんきに吠えるハスキー犬の鳴き声が痛々しい。


 そこは人の良さを発揮してか、二人の間にショウが割って入る。

「サトミ、落ち着けよ。武士も、そういう言い方は良くないぞ」

「あなた、どっちの味方なの」

「どっちでもない。とにかく今は、犬の事だけを考えてろ」

 なんか、すごいまとめ方をするショウ。

 ただ大筋では間違ってもいなく、サトミも御剣君も不満げではあるがお互いに距離を置く。

「不憫な奴だ」

 ぽつりと呟くケイ。

 それは御剣君の事なのかな、それともショウの事なのかな。



 サトミが遠ざかったので、改めて犬の救出に取りかかる。

 ちなみにハスキー犬がいるのは、人一人が立てるような狭い場所。

 屋上の丁度角に位置して、4方向の内2方向は遮る物が何もない。

 またアンテナなのかよく分からないが細長い棒が上の方を通っていて、そこまで辿り着くのも結構厄介。

 というか、この犬はどうやって向こう側に渡ったんだ。

「もう一度言う。ショウが手すりの向こう側まで行くから、御剣君はサポートして。ショウはワイヤーがあるから、犬の方を気に掛けてくれればいい」

 大げさに吹き出すケイ。

 そこまで変な事は言ってないつもりだが、犬中心に物事を語るのがおかしいらしい。


  サトミがうるさいので私もハーネスを付け、ロープを手すりに固定。

 さらにワイヤーもフック。

 これでどちらかが外れても、落ちていく事は無い。

 仮に両方外れても、建物を利用して最悪の事態を免れる自信はあるが。 

 まずは軽く、シミュレーションをしてみよう。


「きついな、これは」

 ハスキー犬の前で立ち止まるショウ。

 手すりから伸びている障害物がかなり邪魔で、彼の体型ではすり抜けられない様子。

 回り込めば可能だが、それは外を歩く事となる。

「良いよ、私がやるから。ショウは戻って来て」

「本気?」

 不安そうな顔で私を見てくるサトミ。

 私も積極的にやりたい訳では無いが、初めから薄々は勘付いていた。

 この狭い場所で動けるのは、私か犬くらいだなと。

 それを認めたくなかっただけなのよ。



 手順としてはまず手すりを越え、向こう側へ渡る。

 次に上の棒を屈んで通り抜け、機材類をまたぐ。

 そこでようやく、ハスキー犬と対面。

 ただスペースがないので、仕切り板の上からの作業になるかも知れない。

「……よし、行ける」

「本当かよ」

 小声で呟くケイ。

 言いたい事は分かるが、この辺は思い込みも大切。

 駄目だと一度考えてしまっては、本当に駄目になってしまう。


「二人とも、準備は良い?」

「いつでも」

 ショウは素直に返事。

 御剣君は反応無し。

 サトミではないが、黙られても結構困る。

「準備は良い?」

「いつでも」

 ショウを軽く睨んで黙ってもらい、御剣君を真下から見上げる。

 しかし目を合わせようとはせず、顔を背けたまま。

 確かに、良い態度だな。

「個人的な感情で動くなって、聞かなかった?」

「聞いたよ。な」

「ショウは黙ってって」

「はい」

 小さく返事をして後ろに下がるショウ。

 御剣君は少し体を揺らし、それでも顔は背けたまま。

 まずは深呼吸をするか。



 気持ちを落ち着かせ、改めて彼と向き合う。

 と言っても真っ直ぐ前を向くと、見えるのは彼の胸元。

 向き合うも何もないが。

「仲良くしようとか、今までの事を水に流すとか。そういう話じゃないの。今だけは協力してと言いたいだけ」

「するよ」

 小声で、素っ気なく返す御剣君。

 もう一度深呼吸。

 大丈夫だろう、多分。

「……後は、お願い」



 手すりに手を掛け、まずは慎重にそれを飛び越える。

 越えた先は、断崖絶壁。

 ただここはまだ、人が普通に歩ける幅がある。

 高い所が苦手でなければ、走る事も出来ると思う。

 問題はこの先。 

 床には機材と、上を走るアンテナらしき細長い棒。

 その間にわずかな隙間が出来ていて、ここを通るとハスキー犬の所へ辿り着く。

 狭いし機材類も邪魔で、ショウ達では通り抜けは無理。

 逆にハスキー犬は、良くこの間を通り受けたな。

「大人しくしててよ」

「がーっ」

 私が近付いて来た事に興奮したのか、前足で機材を叩き出すハスキー犬。

 その震動が周りの機材にも伝わり、上に乗っていた私もバランスを崩しそうになる。

「ユウッ」

 緊張気味の声を出すショウ。

 軽く手を挙げて、大丈夫だと彼に伝える。

 全くない訳ではないが、最悪落ちてもワイヤーがある。



 箱っぽい頑丈そうな機材の上に乗り、ハスキー犬側へ降りられないか確認。

 しかし犬がいる場所は、本当に狭くて足を乗せる場所も無いくらい。

 無理して降りられなくもないが、そうすると犬が落ちる可能性もある。

「仕方ないな」

 それでも無理矢理降りたって、まずはハスキー犬に抱きつく。

 でもって立ち位置を変化。

 自分が角に立つ。

 つまり、背後が何もない場所へと。

 この場所さえ確保しておけば、犬が落ちる事は無い。

 私が落ちる可能性は、この際考えないでおこう。


 足はかかとが少し外に出ていて、体力的にもそう長くはいられない。

「ショウ、ハーネス」

 ショウも手すりは越えていて、機材と棒の隙間からハーネスが渡される。

 まずは犬の背中にそれを当て、お腹を巻く。

 前足と後ろ足にも細い部分を通し、お腹の部分で連結。

 最後に軽く引っ張り、外れないか確認。

「え」


 突然の突風。

 冷たい北風。

 木枯らし一番かと思ったのも一瞬。

 ハスキー犬の体がよろめき、前足が外に出る。

「ショウ、引っ張ってっ」

「おうっ」

 すかさずロープを引っ張るショウ。

 ハスキー犬は上半身を完全に宙へ浮かせ、そこで前足を必死にもがき始めた。

 動かれると厄介だが、今は生きるか死ぬか。

 何かをしたい気持ちはよく分かる。


 ただあまりもがくと、私も危険。

 動くたびに私も足が、少しずつ外へ出て行く。

「ハーネス、外れないよね」

「大丈夫だろう。いっそ、このまま下へ降ろすか」

「この間、通せない?」

「ユウが押してくれるなら」

 以前上半身を外へ出したまま、前足を動かすハスキー犬。

 体格は私と同じくらいで、隙間はぎりぎり。

 自分の意志がなければ、多分通るのは不可能だと思う。

「ゆっくり降ろして」

「分かった」


 降ろすのは決まったが、今外に出ているのは上半身だけ。 

 全身が出ない事には降ろせない。

「ごめんね」

「がおーっ」

 さっきとは違う、結構必死な鳴き方。

 もしかして北極や南極を走った事はあるかもしれないが、空を走った経験はないだろう。

「押すよ」

 軽くハスキー犬の背中を押し、全身を外へ出す。

 こうなるとさすがに鳴き声も出ないのか、手足が虚しく動くだけだ。

「全身が出た」

「よし。少しずつ降ろす」

 徐々に降下していくハスキー犬。

 途中で諦めたのか手足がだらりと下へ伸び、かなり動きは落ち着いた。

 すでに半分くらい降りたし、もう大丈夫だろう。


 ショウの手を借りて仕切り板を乗り越え、反対側へ降り立つ。

 そして手すりも越えて、屋上へ戻る。

 少しして下から、犬が到着したとの連絡。

 疲れただけの甲斐はあったか。

「お疲れ様」

 ホットコーヒーのペットボトルを差しだしてくれるサトミ。

 それを受け取り、まずは一口。

 ようやく人心地付いた気分。

 後は早く帰って、ゆっくり休むとしよう。




 そんな私の足元を通り過ぎてくシャム猫。

 そういえば、さっき正門の前でも出会ったな。

「あれは捕まえなくて良いの。猫も逃げてるんでしょ」

「リストには……、あるわね」

「さっき、関係無いって言ってなかった?」

「状況は刻々と変わってるのよ。過去にこだわっていても仕方ないでしょ」

 この人が言うと、説得力の欠片もないな。


 捕まえようと思った時には、すでにシャム猫は遠い彼方。

 犬とは違い、動きは機敏。

 でもって小さいので、捕まえるのは難しいと思う。

「ネットを発射する奴あったでしょ。あれを使えば」

「あるよ」

 息も絶え絶えに現れる七尾君。

 手にはその、ネットを発射する銃を持って。

「残り、2匹……。後、1匹、どこかに」

「分かった。七尾君は休んでて。ショウ、御剣君捕まえて」

「ああ」

 やはり、返事をするのはショウだけ。

 御剣君は、こちらを見ようともしない。

「こっち見て、話を聞いて」

「聞いてる」

 さっきまでと変わらない返事。

 まあ、聞いているなら良いか。


 そう自分へ言い聞かせ、猫を捕まえるよう改めて告げる。

 しかし反応は薄く、探そうとする素振りもない。

「聞こえたなら、ちゃんと探して」

「どうして」

 反論か。

 無理もないが、こう露骨にされると面白くはない。

「みんな困ってるし、猫だって困ってるでしょ」

「俺は困ってない」



 まずはロー。

 足を上げて避けた所で、軸足にスライディング。

 体を浮かせ、顎に肘。

 ブロックをさせて、その腕に貫手。

 痺れさせてガードをこじ開け、改めて肘。

 覆い被さってくる体を避け、脇腹に膝。

 それもブロックされるが、構わず力を込める。

 ガードは下がらないが、体は倒れていくだけ。

 腕の動きが止まった所で、がら空きの背中に振り下ろしのストレート。


 その腕を押さえながら仰向けになったところで、スティックを抜く。

「あなたが困ってるかどうかは、一つも聞いてない。みんなが困ってるなら、それを助ける。分かった?」

「あ、ああ」

「何?」

「は、はい。分かりました」

 慌てて上半身を起こし、正座をする御剣君。

 初めからそう言えば良いんだ、初めから。




 気を取り直してと言いたいが、周囲の空気はどうにも冷ややか。

 吹き抜ける風よりも冷たいと来た。

「空気を読まない奴め」

 ぽつりと呟くケイ。

 つまりは私の行動の事か。


 良くも悪くも自分の道を歩き出していた御剣君。 

 そして芽生え掛けていた自信。

 トランプで組み立てたピラミッドをみんなで見守っていたら、私がやってきてあっさり吹き飛ばしたようなもの。

 確かに、空気を読まないどころの騒ぎではない。

「良いから、もう1匹の猫を探して。猫を」

「そもそも、屋上に来てるの?」

 当然の疑問を呈するモトちゃん。

 全員の視線が七尾君に流れ、彼は喘ぎながら立ち上がって階下へ続くドアを指さした。

「もう一頭の黒猫も、階段に追い詰めたところまでは見た。上はここしかないから、ここにしかいない」

「猫は小さいから、難しいでしょ」

「猪よりは良いよ」

 言ってる意味が分かんないよ。




 日は傾き、風が冷たくなってきた。

 何より日差しが弱まり、屋上も薄暗くなり始めてる。

 日が沈めば、猫を見つけるのは多分不可能。

 何か持ってくれば良かったな。

「マタタビとかないの?」

「この広さだと匂いが届かないでしょ」

 屋上全体に視線を向けるサトミ。

 それもそうかと思いつつ、床へしゃがむ。

 上から見ては分からなくても、それこそ視点を変えれば分かる事もある。


 適当にやったつもりだが、意外に正解。

 機材の下に潜んでいたシャムと目が合った。

「いたいた。ショウ、あそこの変な箱」

「百葉箱だろ」

「何でも良いから、あの下にいる」

「絶対逃げられる気がする」

 そう言いつつ、大回りして百葉箱に近付くショウ。

 私はその反対側から。

 七尾君は正面から近付き、シャムの注意を引きつける。



 七尾君の振る猫じゃらしが聞いたのか、こちらに気付かないシャム。

 もう少しと思ったところで、耳がこちらを向いた。

 こうなれば、もう終わり。

 というか、耳だけ動くってどういう事よ。

「ちっ」

 足音を気にせず走り出すショウ。

 しかしシャムの方が一歩早く、箱の下から飛び出ていく。


 ドアへ向かうのかと思ったが、一目散に手すりの方へと。

 何を考えてるのか、何も考えてないのか。 

 とにかく止めない事には一大事。

 地面を踏み切り、一気に加速。

 風を全身に浴びながら、シャムの体に手を伸ばす。


 だがシャムは素早く手すりをくぐり抜け、そこから大きく身を乗り出した。

 遠近感はあると思うが、多分パニック状態。

 でもって体を乗り出せば、後は下へ落ちるだけだ。

「待ったっ」

 叫んで落ちていく体が止まる訳でも無いが、気持ち的に。

 同時に手すりを飛び越え、腕を伸ばしてシャムの体をどうにか掴む。


「ユウッ」

 悲鳴にも似た、サトミとモトちゃんの声。

 大丈夫、ワイヤーが。

 ああ、当然外してあるか。


 姿勢としては、さっきのシャムと同じ。

 体が傾き、頭を下にして落ちていく。

 真下はコンクリート。

 このまま落下すれば、結果は言わずもがな。

 ただ建物の壁を利用すれば、ある程度の減速は可能。

 せいぜい単純骨折で済ます自信はある。


 肩に走る痛み。

 浮遊感は長く続かず、顔を上げるとショウが私の腕を掴んでいた。

「大丈夫っ?」

「それは俺の台詞、でもないか」

 片手で私の腕を掴み、もう片手は変な黒猫を掴んでいる。

 私達がどたばたしているのに釣られて、飛び出てきたんだろうか。


 支えは、手すりに掛けた彼の足だけ。

 しかしどう見てもそれは限界。

 筋力は問題ないと思うが、手すりに掛かっている靴が脱げかけている。

 ずるずると落ちてくるショウ。

 このままでは共倒れ。

 どこかのタイミングでお互いが離れないと大けがをする。

 もしくは、もっとひどい状況になる。

 思い切って飛び降りるのも、選択肢の……。


「本気ですか」

 ショウの足を掴み、苦笑する御剣君。

 滑り落ちていたショウの体が止まり、その隙にシャムを放り投げる。

 悲鳴が聞こえたが、ネットが上空に舞い上がってシャムをキャッチ。

 ショウもすぐに黒猫を投げ、それもキャッチ。

 これで心配事はなくなった。

「ユウ、俺の体を伝って登れ。少しは負担が減る」

「伝うって。そんな筋力ないんだけど」

「だったらユウも放り投げるか」

「冗談でしょ」

 少し笑い合う私達。

 屋上で宙づりになっている時の会話ではないな。


「二人とも、喋らないで。舌を噛む」

「え」

「なにが」

「いいから」


 真上に上がっていくショウの体。

 同時に私の体も持ち上がり、開いていた彼の片手が私のお腹を抱え込む。

 どうやら御剣君が、私達を引っ張り上げた様子。

 人間二人の重さは相当な物で、それも手すりから片手でショウの足を掴んでいるだけ。

 底知れないとはまさにこの事。

 感心する間もなくショウは私の腕を掴んでいた手を離し、それで手すりを掴む。

 そして二人が力を合わせて、私達は屋上へと帰還した。



 さすがに疲れたというか、少し焦った。

 今度からは、もう少し冷静に行動しよう。

「ありがとう、御剣君」

「俺は全然。やっぱり、雪野さん達には敵いません」

「いや。あれはやりすぎた。ごめん」

「俺が悪いんです。一生雪野さんには勝てません」

 殊勝な面持ちで語る御剣君。

 でもって深々と頭を下げて、頼りなく微笑んだ。

 本当、申し訳ないというかいたたまれないというか。

 我ながら、最低だったな。



 ただ屋上の空気は一変。

 風は冷たくても、みんなの表情は穏やか。

 笑顔と笑い声と、固い絆が感じられる。

 前と変わらない、私達の関係。

 これで良かったとは言えないけれど。

 御剣君達も色々経験をして、多分今までとは違う彼等になったはず。

 そしてもう、私があれこれと口を挟む必要はないのかも知れない。


 それでも彼は私達を慕ってくれる。

 だとすれば、私達はその期待に応えなければならない。

 応えたいという願望も込めて、空を見上げる。

 紺色に染まり出した日暮れの空を。

 今日という一日の終わりを告げる、切ない色。

 そして瞬く小さな星。

 私達の思いを写すかのような。





                   第44話 終わり













     第44話 あとがき




第44話は、御剣君編。

また3年生編自体、彼がある意味メイン。

その成長ストーリーでもあります。


元々各能力値は高く、学内においてもトップクラス。

ショウの縁戚とあって、外見も良いという設定。

彼にはないワイルドさが全面に押し出されているタイプで、女子生徒からの人気も上々。

本来なら彼が学内におけるヒーローでもおかしくはありませんでした。


ただ先輩諸兄が、それを上回るヒーローヒロイン。

特にショウは物心ついた頃から共にいるため、「敵わない」と勝手に思い込んでいます。

ちなみに設定上の能力値は、ほぼ拮抗。

差という程の差は付いていません。

それ故、精神的な部分がより影響しているんでしょうね。


結局反抗は上手くいかず、敢えなく頓挫。

相手が悪かったとしか言いようがありません。

彼が本当にヒーローとなるのは、今の3年生達が卒業した後。

逆に彼らがいなかった前期は、かなり活躍をしていたんでしょう。

そういう意味では、割を食っている立場。

とはいえ元は、ブレーキの効かない性格。

ユウ達がいたからこそ、押さえ込んでいる部分もあります。

なんにしろ、彼は彼で苦労しているようですね。




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