44-7
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翌日。
朝から気持ちの良い秋晴れ。
ただ風は強く、道路を落ち葉が滑って行くのを見ると秋の終わりを感じてしまう。
だからという訳でもないが、一度家に戻ってマフラーを首に巻く。
「手袋は」
「ああ、そうか」
グローブはあるが、それは格闘用。
防寒には、いまいち不向きである。
「調子悪そうだけど、大丈夫なの」
額に手を添えてくるお母さん。
体調は、現段階では大丈夫だと思う。
精神的な不調が体調に及ぶ可能性は、充分にあるが。
「大丈夫。それともしかしたら、今日も早く帰ってくる。一応、連絡は入れる」
「受験勉強でもするの」
結構のんきな事を言ってくるな。
今から受験勉強を始めるなんて、あまりにもスロースタート。
私も、さすがにそこまで間は抜けていない。
「大学への内定は出てる。今から全部休んでも進学は出来るはずだよ」
「ガードマンだった?あれを止めたとか」
意外に鋭い。
いや。少し考えれば分かる事か。
私の帰りが遅いのは、ガーディアン。
今だと、自警局の仕事をしていたから。
つまり帰りが早くなるのは、その仕事がないからだ。
「まあ、そんな所。じゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
お母さんの見送りを受け、改めて学校へ向かう。
日差しは穏やかだが、空気はまだ冷えたまま。
歩くと関節がきしむ感じで、少し体がなまっているのかも知れない。
最近は何かと忙しく、トレーニングを多少さぼり気味。
一度、鍛え直した方が良さそうだ。
バスを降り、他の生徒の流れに乗って塀越しに歩く。
冷えた空気は相変わらず。
正門から響く、大声の挨拶も。
ただそれに構う気にもなれず、他の生徒に隠れてやり過ごす。
しかしやり過ごせると思ったのは、私だけ。
向こうはめざとく、私を見つけてきた。
他意があるのか、それとも無いのか。
どちらにしろ、あまり嬉しくはない。
「おはようございますっ」
「おはよう」
おざなりに返し、正門をくぐる。
くぐろうとするが、行く手を遮られる。
元気な頃であれば、ふさがれる前に通り過ぎていた。
今はその気力もなく、それにどうして私を止めるのかは興味がある。
御剣君の事が関係あるのか。
それとも自警局の活動停止。
単なるお節介。
あんてぼんやり考え事をしてている間に、すっかり周りを囲まれていた。
突破するのは簡単。
それ程の敵意は感じないが、友好的な態度でないのも確か。
一応ポケットの中へ手を入れ、スティックに触れる。
「何か用」
「自警局の活動を停止されているとか。今、お暇ですよね」
「それが」
「よろしければ、私達と一緒に活動をしませんか」
お節介の方だったか。
何というのか、自分達の正義。
正しさを信じて疑わないタイプ。
当然誰だって、自分が間違っていると考えて行動はしない。
正しいとは思っているだろう。
とはいえそれは、決して100%ではない。
ある程度は正しく、悪い面もあると思いつつ行動しているはず。
だが彼等は、自分達の考えが絶対。
それがこの世の真実であると疑わない。
理想に生きるのは良いし、そこまで否定はしない。
でも、それを押しつけられても困る。
「私は結構。他の子を誘って」
「そこを是非」
「断る」
気は滅入っているが、萎えた訳ではない。
あまりしつこくされれば、こちらも機嫌は悪くなる。
殴り倒すとは言わないけれど、黙って従うつもりはさらさら無い。
一歩前に出て牽制。
全員の輪が私に釣られたところで下がる。
そしてもう一度前。
それを数度繰り返し、輪が崩れた間から外へ出る。
軽く息を付いてスティックを抜き、腰を落とす。
スタンガンを作動させた方が、威嚇としては分かりやすいか。
「私は、一切用事はない。挨拶をしたいなら、自分達だけでやって」
「草薙高校をよりよくしようとしているだけですよ。僕達は」
「方法も理屈も聞いてない。それと私は、機嫌が悪い。用があるなら、今度にして」
「あまり強情を張ると、為になりませんよ」
皮肉っぽい笑顔。
化けの皮が剥がれたとでも言おうか。
御剣君の姿を探すが、周囲にはいない。
さすがに彼も、これに関わるほど暇ではないか。
代わりに見えたのは、金髪の頭。
これにこそ、悪寒が走る。
ただよく見ると、例の傭兵とは全く別人。
髪が金色というだけで。
いや。同じなのは、身にまとう雰囲気。
あそこまでの残忍さや陰湿さは無いが、本質的な部分は全く同一。
人を食い物にして、それに罪の呵責も感じないだろうタイプ。
ここまで来ては大人しくする必要もない。
それでも一応、この手の連中を呼んだ理由くらいは聞いておこう。
「これは何」
「傭兵くらいはご承知でしょう。予算で雇わせて頂きました」
「どういう事か分かってるの」
「外部委託。代行です。それぞれが自分の得意分野で力を発揮する。良い事だとは思いませんか」
勝ち誇ったように笑う男。
確かに得意分野も、この連中にはあるだろう。
新築の家に、シロアリの大群を招き入れるような行為だとは思うが。
傭兵側は、戦う気が十分。
いや。一方的に私を打ちのめす気か。
当然不意打ちくらいはしてくるだろうが、それに後れを取るつもりもない。
瞬さんではないが、たまにはこちらから仕掛けてみよう。
スティックで地面を突き、宙に舞い上がって棒高跳びの要領で傭兵の上を飛び越える。
跳んだ勢いのままスティックを回収。
着地様、それで足元を薙ぐ。
足をすくわれ、あっさり倒れる傭兵達。
偶然こちらむきに倒れた一人に向かって、スティックの先端を突きつける。
「戦うつもりなら、容赦しない」
警告でもなければ、脅しでもない。
事実をただ告げただけ。
不審な素振りが少しでもあれば、一切ためらわない。
本気の度合いが分かったのか、脂汗を流して後ずさる傭兵達。
そのまま距離を詰め、なおも警戒。
武器をそちらへ隠しているか、仲間の元へ移動しているとも限らない。
容赦しないと言った以上、甘い考えは排除する。
「ま、参った。俺達は、何もしない」
「だったら、普通に過ごしてくれればいい。ただしおかしな真似をするつもりなら、証拠も何も関係無い。私がそうと思った時点で、行動する」
「わ、分かった。絶対、もう、何も、しない。か、金で雇われただけだ。俺達はもう、関係無い」
悲鳴を上げて逃げていく傭兵。
契約の履行にはあまりこだわらない様子。
その意味においても、質は高くなさそうだ。
残ったのは、周りを取り囲む野次馬。
そして呆然と立ち尽くすグループ。
容赦しないと言った以上、それは当然彼等にも適用される。
「改めて言う。挨拶は好きにやってくれればいい。ただし、強制はしないで」
「え、あの、その」
「同じ事がまたあったら、その時は覚悟しておいて。私も、いつまでも甘い顔はしていない」
スティックを背中のアタッチメントに装着。
ポケットにしまわないのは、戦うという意思表示の現れでもある。
とにかく、朝から気分は最悪だ。
教室に着いても、怒りというか不快感は収まらない。
普段なら自己嫌悪をもっと強く感じるが、今日は別。
怒りが、外へと外へと向いていく。
「機嫌悪そうね」
私の首筋に手を添えるサトミ。
猫なら、多分その辺の毛も逆立っている所だろう。
「正門で、何人か青い顔をしてたわよ」
「宣言したからね。これ以上騒ぐなら、覚悟があるって」
「何かあったの」
「我慢するのを止めただけ」
首筋に添えられていた手が止まり、今度はサトミが一歩下がる。
腕時計を見ながら、自分の脈を確認。
次に私の脈を取り、額で体温を確認する。
「誰が、何を止めるって」
「私が、我慢するのを止める」
「今まで、我慢した事あった?我慢が持続した事はあった?」
そんな事を尋ねられても困る。
ただ記憶がないからには、多分無いんだと思う。
「無いかもね。無くても良いけどね」
「誰が、どういう理由で、何故良いの?」
しつこいな。
まさか深く考えてなかったとは言えず、もごもご言って筆記用具を並べる。
「こっちを見て」
「見ないって。授業の準備したら」
「そんな事はどうでも良いの。今は、ユウについて話をしてるの」
どうでも良くはないだろう。
サトミの追求をかわしている内に、モトちゃんがやってくる。
そして取っ組み合いそうな私達を見て、またかと言わんばかりに苦笑する。
「どうかしたの」
「いつもの事。私をいじめて楽しんでるだけ」
「いじめ。いじめ?いじめって何?」
声を裏返して睨んでくるサトミ。
それをいじめじゃなくて、なんて言うのよ。
「二人とも落ち着いて。それと正門に青い顔をした子がいたけど、あれは何」
「ユウが悪いの。全部ユウの責任よ。何もかもユウがやった結果なのよ」
その内、空が青いのも私のせいになりそうだな。
というか、私がいつも悪いって言い方だな。
「私は何も悪くない。あそこにいつも、大声で叫んでる連中いたでしょ。あれが、傭兵を雇い入れた」
「それで」
「明らかに柄が悪かったから、解散させた」
「だから、まだ立ってる」
冷静な口調で説明してくるモトちゃん。
私が正門をくぐってから、モトちゃんが正門へ付くまでは多少の時間差がある。
まさかとは思うけど、まだ立ってないだろうな。
そこへ、ショウと木之本君が到着。
二人とも、何故か私をじっと見る。
「正門に、変なのが立ってたぞ」
「それと私と関係あるの?」
「無いのか」
「あるけどさ」
やっぱりという顔の二人。
だけど、すぐに事件と私を結びつけるのも止めてくれないかな。
「あれは結局、なんなんだ」
「正門で叫んでた連中。柄の悪い傭兵を雇ってたから、解散させた」
「してないぞ」
だからなんなのよ。
なんて言ったら、袋叩きになるのは間違いない。
最後に、幽鬼のような足取りでケイが到着。
彼はいつも通り何も言わず、視線すら合わせようとせずに席へ座って机に伏せた。
今日ばかりは、こういう態度が非常に助かる
「起きなさい」
肩を揺すり、無理矢理叩き起こすサトミ。
どうしてこういう事には、むきになるのかな。
「……眠いんだ、俺は」
「正門に青い顔の生徒っていた?」
「ユウがとっちめた連中だろ。明日の朝までいるんじゃないのか」
そんな事、ある訳無い。
というか、あったら困る。
教室を出て行こうとしたところでチャイムが鳴り、村井先生と出くわした。
「どこ行くの」
「まだ予鈴」
「だから何」
「ちょっと用事」
話す時間も惜しく、彼女の脇を通り過ぎて廊下を走る。
後ろで何か叫んでるけど、声はどんどん遠ざかる。
階段を降りる時間ももったいなく、最後の手段に出る。
開いてる窓を探し、窓枠へ飛び乗ってワイヤーを連結。
そのまま一気に急降下。
地面へ激突する寸前で、ウインチを軟着陸にセット。
後は私の体重を関知して、程よい制動が掛かる。
だが止まりきるのも面倒で、ある程度速度が落ちたのを確認してワイヤーを外す。
高さはあるが、せいぜい自分の身長の倍くらい。
膝を使って衝撃を和らげ、ウインチでワイヤーを巻きながら通路を横切る。
正門を目指したつもりが、周りは背の高い木々ばかり。
たまに猫と出会ったりして、何故かこっちが怒られる。
「……え、もういない?……ああ、警備員さんに」
サトミからの通話にため息を付き、来た道を戻る。
どう来たかは自分で覚えていないので、サトミに尋ねながら戻っていく。
彼女は警備会社に連絡し、そこから正門の警備員さんに連絡。
当然生徒が残っていれば、彼等が何かの対処をする。
少なくとも、私が見に行く必要は一つもなかった。
森の中を彷徨う必要など、何一つ。
息が切れたところで、教室に到着。
チャイムもなって、遅刻を免れる。
「席に着きなさい」
壁へもたれ、顔を伏せたまま手だけを振る。
今は話すのも苦しいくらいで、とにかく喘ぐ以外には何も出来ない。
まだ怒られてる気もするが、聞こえないから気にならない。
「……一時間目は自習になるので、各自テスト勉強でもするように」
小さく沸くクラスメート。
私にそんな余裕はなく、この一時間はじっくり寝かせてもらうとしよう。
ケイ同様机に伏せ、目を閉じる。
だけど今の私は眠気ではなく、走った事による疲労。
むしろ目は冴えていて、体が熱くてたまらない。
「……駄目だ、眠れない」
「下らない事言わないで」
古びた専門書を読みながら指摘してくるサトミ。
確かに、今の台詞以上に下らない台詞もあまり無いだろうな。
取りあえず体を起こし、深呼吸。
気持ちを落ち着かせ、意識を整える。
「お茶無い?」
「ありません。勉強をしなさい、勉強を」
正門の追求が終わったと思ったら、これ。
自分こそと言いたいが、全教科100点を取るような人には無意味な反論。
ため息を付き、コーチ理論の本を取り出す。
テスト勉強ではないが、自習ならこれくらいは良いだろう。
……難しいな、これは。
理論もそうだけど、この実践が。
私が目指すのは、RASのインストラクター。
ただ強ければ良いのではなく、指導者としての資質が重要との事。
人に物を教えるのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
当然独りよがりではいかず、相手の個性を尊重するのが重要とある。
モトちゃんや木之本君は向いてそうだが、私はどうなんだろう。
ちょっと安直に考え過ぎてたかもしれないな。
とはいえ私が目指すのは、インストラクターでもあるが水品さん。
彼の人間性、指導方法が目標。
こういう理論に縛られる必要はないと思う、多分。
本は机に置き、ちょっと休憩。
ここに書かれている方法が駄目という事ではなく、少し私には難しいと思っただけ。
何より、出来ない事を無理にやろうとすれば破綻する。
「コーチング?」
めざとく見つけるサトミ。
彼女に本を渡し、私は彼女が読んでいた専門書を手に取る。
読もうと思ったが、英語どころかフランス語。
単語の欠片すら理解出来ない。
「コーチングは心理学的なテクニックも必要らしいけれど。来談者中心療法でも学んでみたら」
「カウンセリングとは違うって書いてあるよ」
「違うのは目的でしょ。教えるかコーチするかの」
そんな物なのか。
でもって、これ以上学ぶ事を増やしてどうするんだ。
サトミが出してきた、別な本。
小さな冊子に目を通す。
専門書でも学術書でもなく、心理学部の説明。
その端に、カウンセリングについて少しだけ書かれている。
カウンセリングの手法はいくつかあり、来談者中心療法もその一つ。
相手のあるがままを受け入れ、共感し、関心を示す。
……難しいな、それも。
共感を覚えれる相手ならそれも出来るが、覚えれない相手なら別。
例えば今日正門で会ったような生徒に共感しろと言われても無理。
考えただけで苛ついてくる。
「難しいね」
「実践しなくても、理論を知っておけば少しは役に立つでしょ」
「どうかな」
むしろ余計混乱するか、全く何も出来なくなるかのどちらかの気もする。
ただ、サトミが言っている事も分からなくはない。
知らないよりは知ってる方が役には立つ。
そうあろうと努力するのも必要だろう。
私に、そこまでの力量があるとはちょっと思えないが。
「ヒカルって、こういう事をやってるの?」
「一応は。あの子はカウンセリング向きでは無いけれど」
肩をすくめるサトミ。
今書いてあったポイントは、多分ヒカルは全て兼ね備えている。
共感する、相手を受け入れる、関心を持つ。
兼ね備えてはいるが、その先があの子の場合見えてこない。
相手を受け止めても、それ程積極的に関わるタイプではない。
カウンセラーというよりは、お坊さんや牧師さん。
縁側の日だまりが似合う人だから。
「コーチングも良いけど、心理学も大学で勉強してみたら」
「考えてはおく。とはいえ、あっちもこっちも手を出して何も身につかないって事にならないの」
「ならないように勉強するんでしょ」
なるほどね。
そう納得したところで、ようやく眠気が襲ってきた。
取りあえず、少し寝るとするか。
でもって勉強すらしないなら、身につかないどころの話ではないな。
体を休めて、少し気分は回復した。
昨日までの重い感覚も、ようやく薄れてきた感じ。
全くなくなりはしないが、あそこまで内向的な思考にはならないと思う。
「よしと。次は何」
「数学よ」
めまいがしてきたよ。
黒板に書かれる方程式に、頭を悩ませつつ数字を代入。
多分過去限りなく言われて来ただろうけど、これからの人生でこの方程式が役に立つ日は来るのかな。
理系に進まないなら、多分授業が終われば全く必要ない知識。
これは多分、身につけなくてもそれ程困らないと思う。
「分かる?」
「分かるように努力してる」
殊勝な答えを返してくるショウ。
それなら私もと思うが、やる気だけでどうにかなるなら苦労はしない。
「……これって、何かの役に立つ?」
「式を解くだけでは無意味でも、当然これを応用する分野はあるわよ。建築関係では特に。立体的な図形を書く場合とか」
「私が将来、立体的な図形を書くと思う?」
「未来の事なんて、誰にも分からないわよ」
何か良い事言ってきた。
私の聞きたい答えではなかったが。
かなり疲れ果てた所で、授業が終了。
宿題まで出されたが、それは深く考えないでおこう。
「あー、疲れた」
実際は殆ど何もしていないのに、体の芯から疲れた感じ。
これこそいかに無理をしていたか。
精神的な負担が、肉体へ強い影響を与えるかを知らしめる。
何をする気も起きず、ぼんやり机を眺める。
時たま脳裏を数式がよぎるけど、それが解ける事は絶対無い。
考え込んで解けないのに、気を抜いていて解ける訳がない。
などと、声高に叫んでみても仕方ないが。
「こんにちは」
顔を上げると渡瀬さんが立っていた。
教室まで訪ねてくるなんて、珍しいな。
「どうかした。御剣君が暴れ出した?」
「いえ。そちらは大丈夫なんですが、ジャージを忘れてしまって。よろしければ、貸してもらえますか」
「良いよ。ロッカーにあったかな」
教室の後ろへ向かい、自分のロッカーを開ける。
Tシャツが何枚かと、タオルが数枚。
その下に、ジャージも綺麗に畳んで置いてある。
「ただ、サイズがどうかな。最近、成長してるでしょ」
「多少」
制服の上からジャージを羽織る渡瀬さん。
幸い、着れないほど小さいという事は無い。
理由は簡単で、ジャージが元々大きいから。
私の体にフィットしたサイズは、それこそ小学生用でも買わないと手に入らない。
そして私も、さすがにそれを買うのは抵抗があった。
「放課後で良いからね、返すのは」
「助かりました」
ぺこりと頭を下げる渡瀬さん。
彼女は以前よりも落ち着いて、少し大人しくなったくらい。
元々人に迷惑を掛けたり、騒動を起こすタイプではなかったけれど。
多分普通はこうして、少しずつ大人になっていくんだろう。
むしろ、いつまでも無軌道に行動している方があり得ない。
「最近、大人しいよね」
「私がですか」
「違う?」
「さあ、自分ではあまり気付きませんけど」
たおやかに笑い、ジャージを抱えて去っていく渡瀬さん。
さらさらと揺れる黒髪を見送り、ふと自分の事を振り返る。
去年の今頃。
つまり今の渡瀬さんと同じ時、自分は何をしていたか。
今とあまり変わってない気がする。
さらに言うなら、その1年前も。
もう1年前も。
年齢は重ねたが、変化はしない。
精神的にも。
あまり考えたくは無いけれど、体型的にも。
「あー」
「どうかしたの」
自分のロッカーからブラシを取り出すモトちゃん。
この子も出会った頃からこんな感じ。
落ち着いていて、大人で、包容力があって。
それが良い感じで熟成され、今に至っている。
何より当時は、今ほどの身長差は無かったはず。
あの頃はサトミより背は低くなかったかな。
「何、といて欲しい?」
「ん、ああ。うん」
適当な席へ座り、ブラッシングを受ける。
その気持ちよさについ目を閉じ、背もたれに崩れ込んでしまう。
「犬か」
ふざけた男は、この際無視。
今は、この心地よさに身を委ねたい。
いや。違う。
「成長って何」
「それこそ、何の話」
怪訝そうに問い直してくるモトちゃん。
確かに飛躍しすぎたか。
ただこの人は昔から大人。
成長と言っても、それ程大きな振れ幅は無い。
「自分で思う?昔より成長したなって。体じゃなくて、気持ちが」
「多少はね。視野は広くなったし、物事を多面的に見るようになった。一方的な考えもしないようにはなってる」
「ふーん」
私は多分逆。
視野は狭いし、自分の見方しか知らない。
当然考えも自分側からの一方的な物。
成長していないどころの話ではない。
ただこれは、私に限った事ではない。
「サトミはどうかな」
「多少丸くなった程度でしょ。本質的には変わってない」
私の意見ではなく、モトちゃんの意見。
これはそれなりに重い。
実際私から見ても、成長したという程の変化は少ない。
モトちゃんが言うように多少人当たりが、前よりは良くなった程度。
今でも基本的に人との壁は作る方で、無いかそれが低いのは身内だけ。
いきなり誰とでも打ち解ける事は無い。
それは時間を置いても、あまり変わらない。
固執というのか、変に頑固でこだわる所も昔のまま。
ショウも多分、サトミと同じ。
あまり変わっていないという点で。
彼も少し丸くなったくらい。
ちょっとした挑発には動じなくなったのが、変化と言えば変化。
昔から堪え忍ぶタイプで、優しいところも同じ。
これは悪く無い事だと思う。
「何か」
私と目と合わせ、怪訝そうに尋ねてくるケイ。
この人は変わったとも言えるし、変わって無いとも言える。
結局掴み所が無く、何を考えてるかは今でも分からない時が多々ある。
ろくでもない人間なのは間違いないが。
昼休み。
カウンターの列に並び、少し悩む。
何を食べるかではなく、これからについて。
漫然と、ただ起きる事柄を対処していくだけで良いのかどうか。
自分から、積極的に打って出るべきか。
出るとしたら、具体的にどうするべきか。
考えはまとまらず、気付くと最前列に立っていた。
「洋食のセットを少なめで」
すぐに出てくるシチューとパン。
そろそろ、こういうのが嬉しい時期だな。
シチューの上に振りかけられる青のり。
かなり意味が不明で、ただこれが意外に合う。
青のり自体それ程味はなく、強いて上げるなら塩味。
それがシチューのクリーミーさを引き立てる感じ。
だとすれば、マカロニが入ってるのもご愛敬だ。
「誰が考えたんだ、これ」
マカロニをフォークで刺しながら呟くケイ。
確かに学校の食堂以外で、マカロニが入ったシチューを見た事は無い。
つまり誰かがそれを編み出し、伝えてきた。
少なくとも中等部の頃からシチューにはマカロニが入っていたし、青のりも振りかけていた。
最近考え出されたアイディアではなく、色々と奥は深そうだ。
「先輩からの伝統なのかな」
「マカロニシチューが?金とか金とか、金を残してくれよ」
身も蓋もないな。
とはいえ、マカロニシチューを伝えられても結構困るけどね。
シチューを食べ終え、デザートにプリンをオーダー。
これはいわゆる、プリンの域を出ない食べ物。
ただ味は、やはり中等部の頃と同じ。
これこそ、正統な伝統を受け継いできたはず。
戦後は食糧難だったらしいが、マカロニシチューはその辺がもしかして関係しているかもしれない。
放課後。
自警局へ行こうとして、ふと思い出す。
そういえば、今は活動停止。
となると、行く場所もなければやる事も無い。
「どうする」
振り返って尋ねてみるが、モトちゃんは肩をすくめるだけ。
確かに、どうしようもないか。
「帰る?」
「慌てるなよ、雪野さん」
にやにやと笑いながら近付いてくるケイ。
アダムとイブを誘った蛇って、こんな感じかな。
「ガーディアンがいない状況で、学内がどうなるか。連中がどうするつもりか。興味ない?」
「あるけどさ。どうする気」
「放課後に、トラブルが多発する場所は」
「人が集まるところでしょ。購買か、ラウンジか、そんな感じ」
私の言葉に合わせ、指を鳴らすケイ。
実際は音がしなくて、単に指がこすれただけだが。
「今まで、鳴らした事あるの?」
「一度やってみたかったんだ。ラウンジなら集まっていても問題ないし、連中の手の内も確認出来る。高みの見物と行こうか」
「いざとなったら、私達が行動するって事?」
「こっちは活動停止。見てれば良いんだよ、見てれば」
いつになく楽しそうな彼に従い、とあるラウンジへやってくる。
一つの教棟にラウンジは複数あり、また教棟も複数。
ラウンジでトラブルが起きやすいからといって、ここで起きるとは限らない。
また起きなければそれに越した事は無く、ジレンマというか自分が何をやっているのか分からなくなってくる。
「さて、宿題でもやるか」
そう言って筆記用具を取り出すケイ。
別に悪い事ではないし、時間があるなら先にやっておいた方が楽。
彼に釣られる形で、私も数学の宿題を始める。
全くもって難しいな、これは。
「トラブルって、いつ起きるの」
「揉め事を期待しないで」
文庫本を読みながら、ゆったりとたしなめてくるサトミ。
それは分かってるが、こうストレスが貯まると逃げ道を探したくなる。
別に、トラブル以外でも良いんだけどね。
「私達って、先輩から何を受け継いだのかな」
「宿題はどうしたの」
「ちょっと一休み。どう思う、それは」
「先輩って塩田さんや物部さんでしょ。受け継いだ事なんて、あるかしら?」
真顔で尋ね返してくるサトミ。
私は答えに詰まり、小首を傾げる。
クロスワードパズルを解いていたモトちゃんは、至って笑顔。
ただ何も答えないので、あまりこれといった回答は無いようだ。
「何のかな、やっぱり」
「自由は気質は受け継いでるでしょ」
「それ以外は」
「……おおらかな心とか」
少し間を置いて答えるモトちゃん。
でもそれって、どっちも同じじゃないの。
確かにその辺は受け継いでるとは思う。
私達を現る言葉を上げろと言われれば、やはりその辺りが出てくると思う。
逆にそれ以外は、出て来ない。
これは塩田さん達というか、多分その以前からの連合の伝統。
屋神さんや、もしかするとその前にまで遡るのかも知れない。
「サトミのお兄さんやショウのお姉さんから引き継いできてるのかな」
「兄さん?まあ、自由と言えば自由だけど。どちらかと言えば、ルーズなタイプよ」
苦い顔で答えるサトミ。
この場合のルーズとは、おそらく女性関係。
それは私も頷く以外に無い。
大してショウのお姉さん。
流衣さんは、自由というタイプではない。
どちらかと言えば真面目なお嬢様。
ただ世間知らずな分、伸び伸びしているとは思う。
「風成かもな」
苦笑気味に答えるショウ。
ショウの従兄弟、か。
確かにあの人は、自由が服を着てその辺をふらついているような人。
彼より自由なのは瞬さんくらい。
空に浮かぶ雲でも、もう少し制約はあると思う。
「大体分かった」
良かった、良かった。
後は少し眠って、体を休めるとしよう。
「もう終わった気になってないでしょうね」
「まさか、冗談ばっかり」
サトミの言葉に飛び起き、数式と向き合う。
宿題なんて、全くもって忘れてた。
でもってこっちの謎は、一生解けそうにないな。




