42-2
42-2
アラームが鳴る前に起床。
カーテンを開け、薄暗い空を見上げる。
それでも雲は殆ど無く、今日の晴天は間違いない。
着替えを済ませ、階段を降りてキッチンに入る。
「おはよう」
「早いのね」
欠伸をしながら振り返るお母さん。
まだパジャマ姿で、今起きてきた様子。
早朝と言っても良いような時間。
お母さんが言うように、私が早すぎる。
夜の内に下ごしらえしてあった分を調理。
具材を入れた出し汁に味噌を溶き、卵を焼く。
炊きあがったご飯を茶碗によそい、ふっと匂いの立った味噌汁を注ぐ。
その間に卵が焼き上がり、小皿に盛って漬け物を添える。
「頂きます」
手を合わせ、少しずつ、ゆっくりと食べていく。
元々量が少なく、すぐに全てを食べ終える。
後はヨーグルトとバナナを半分。
これもゆっくり食べて、すぐ完食。
歯を磨き、もう一度顔を洗ってキッチンへ戻る。
後はお茶を飲み、テレビを見ながら時間を過ごす。
「もう食べたの?」
やはり欠伸をしながらキッチンへ入ってくるお母さん。
普段の私なら、今起きたくらいか布団の中にいる時間。
走りに出る時もあるが、今日ばかりはそうも行かない。
「遠足でも行く気?」
「体育祭だって」
「ああ、そんな事言ってたわね。時間もあるし、見に行こうかしら」
鍋のふたを取り、みそ汁の具を見ながら呟くお母さん。
軽いな、随分。
というか、私が重いだけなのか。
新聞片手にお父さんもやってきて、二人は朝食。
私はテレビを見ながらお茶を飲み、気持ちを落ち着ける。
「ゆっくりしてるね」
「まずは平常心から」
お父さんにそう答え、時間を確認。
少し早いが、余裕を持って出かけよう。
「テストでもあるの?」
「体育祭ですって。パン食い競争にでも出るんじゃないの」
子の心親知らずって言うのかな、こういうのは。
玄関を出て、軽く足踏み。
特に違和感はなく、体も軽い。
変な事をしてリズムを崩したくないので、出来るだけ普段通りに学校へ向かう。
ただ早く出たのは、空いているバスに乗りたかったから。
もみくちゃにされる所までは、普段通りにならなくてもいい。
大通りに出て、バス停で待機。
流れていく車を眺め、もう一度時間を確認。
この時間は大して待つ事もなく、次々とバスが到着。
一本二本乗り過ごしても問題ない。
それでも時刻表を見て、今の時間を再度確認。
そろそろかと思っている間に、右手からバスがやってくる。
停車したバスに乗り込み、出口側の席へ座る。
少しの揺れと共に走り出すバス。
景色が流れ、心地良い振動が伝わってくる。
微かに感じる眠気。
寝過ごして終点まで行っても大丈夫な時間だが、そこまで余裕を見せる必要もない。
頭の中でスタートラインに立ち、スターティングブロックをセット。
腰を下ろし、地面に手を付き、構えを取る。
号砲と同時にスタート。
一番緊張をする瞬間。
それに慣れすぎても駄目だが、過剰に気合いを入れすぎるのも良くはない。
どちらとも付かない所まで自分を持って行き、それを維持。
そう簡単に出来たら苦労はしないにしろ、無策で望むつもりもない。
この一ヶ月くらいの成果は出たのか、それ程の緊張は無し。
とはいえ、変に落ち着きすぎる事もない。
後は体を温める事に、気持ちを一緒に高めるだけ。
最後は自分を信じるだけだ。
草薙高校の停留所でバスを降り、目の前にある正門をくぐる。
今日は朝の挨拶も無し。
代わりに体育祭の開催を告げる看板が私を出迎える。
それと来客者を誘導する関係者が。
「……早くない?」
珍しくジャージ姿の村井先生。
何と言っても校長の妹で、経営者一族。
こういう時は、本人の意志とは関係なく狩り出されるんだろう。
「万全を期したいんです」
「パン食い競争でも出る気?よく分からないけど、怪我しないでよ」
みんな、私を何だと思ってるのかな。
もしくは、普段の私は何をしてるのかな。
自宅からジャージで登校したため、着替えは必要なし。
ただ準備があるため、選手用に割り当てられた更衣室へと向かう。
場所はグラウンド脇にある、他校との試合の際に使われる更衣室。
今日ここを利用するのは、草薙高校の生徒達。
陸上競技に出場する者だけが許されるスペース。
パン食い競争を否定する訳ではないが、真剣さの度合いはさすがに違う。
その証拠に、更衣室にはすでに何人もの生徒が集まっていた。
一様に張り詰めた空気。
たかが体育祭という意見がある一方、されど体育祭という意見もある。
昨日のショウのように、この瞬間に全てを賭けている人もいるはずだ。
言うまでもなく、私もその中の一人。
ニャンは小等部以来の親友。
だからこそ、彼女に勝つために全力を尽くす。
手は抜かない。
下がらない。
その前に立ち続ける。
彼女がオリンピック強化指定選手でも関係ない。
ニャンは私の親友であり、ライバル。
だとすれば、私は彼女に勝つためにいる。
それだけの事だ。
控え室ともなっている更衣室を使っているのは限られた人数。
出場する選手は多いが、それ以上に空いている部屋が多いから。
室内が過密になって気を乱す事はないし、今の私はそこまで他人に関心を払えない。
他の選手も同じなのか、会話は殆ど無し。
たまに知り合いが来るのか、短い挨拶が交わされる程度で。
私の元を訪れる人は誰もいない。
サトミ達には初めから来ないように告げている。
それ以外の人には、彼女達から話が行っているはず。
来て迷惑という訳ではないが、まともな応対が出来る状況ではない。
今の意識は、いかに早く走れるか。
自分はどうあるべきか。
どうすればニャンに勝てるか。
思考は全てそこに集約されていく。
誰かが声を掛けても、1割も話を理解出来ないと思う。
時折運営委員が訪れ、競技のスケジュール時間と選手の名前を告げていく。
私の出場は午前の最後。
時間的にはまだ余裕がある。
少し気持ちが張り詰めすぎているので、散歩にでも出た方が良さそうだ。
ペットボトルとタオルを持って、更衣室の回りをゆっくり歩く。
これもまた私と同じ心境か、思い詰めた顔の生徒がちらほらと見える。
とはいえお互い声を掛ける訳でもなく、せいぜい相手を邪魔しないように距離を取るだけ。
個人種目に出場する選手は、あくまでも自分の事を。
団体競技であっても、チームメイトの事を考えるだけ。
少なくとも私に、それ以外の事を考える余裕はない。
グラウンドの拍手や歓声はどこか遠く、さながら別世界のよう。
澄み切った青空を眺めても、心が晴れやかになる事はない。
気温と湿度を端末でチェックし、良い条件だと思うくらいで。
我ながら情緒の欠片もないが、今考えるのは自分の事。
リズムを崩さずに、一定のペースで更衣室前を歩いていく。
更衣室に戻ると、背の高い女子生徒とすれ違う。
彼女が出て行き、残ったのは私一人だけ。
思ったよりも長い間、外を歩いていたようだ。
その分体は温まり、コンディションはむしろ良いくらい。
もう一度時計で時間を確認。
頭の中でシミュレーション。
最後に、私が先頭でゴールテープを切ったところでイメージが終わる。
ノックと共に開くドア。
現れたのは、運営委員の腕章をしたジャージ姿の女子生徒。
「雪野さん、ですよね。そろそろ時間です」
「分かりました」
ベンチから起き上がり、リュックを背負ってドアを出る。
空は変わらない快晴。
風は穏やか。
悪条件は何もない。
純粋に、自分の力だけが試される環境。
だからこそ、心はより燃え上がる。
まずは入場門前で待機。
女子の100m走決勝は、全部で4組行われる。
それぞれに、陸上部の短距離走者がシードされている恰好。
私の組には、言うまでもなくニャン。
この組み合わせを黒沢さんがしたのかケイがしたのかは知らないが、今はそれに感謝する。
私が公式戦に出ない以上、彼女と戦う機会は今くらいしかない。
例えそれが体育祭であろうとも、私はこれに全てを賭ける。
やがて聞こえてくる、女子100走の開始を告げるアナウンス。
運営委員の先導で歩き出す私達。
入場ゲートをくぐったところで、観客席からは割れんばかりの拍手と歓声。
理由は言うまでもなく、ニャンの存在。
オリンピック指定強化選手であり、国内はおろかアジアでも敵無しの存在。
メダルを嘱望される、すでに世界的な選手。
観客達が望むのは彼女の勝利ではない。
それはあらかじめ約束されたも物。
望むのは彼女の走りを間近に見る事と、そのタイム。
さっきのケイではないが、私達は添え物に過ぎない。
ただ私は、添え物で終わるつもりは一切無い。
ニャンはメインとあって、最終組。
という訳で、私も最終組。
消化される他の組のレースを横目で見つつ、ジャージを脱いでアップを始める。
依然コンディションは悪くない。
絶好調とまでは行かないが、ほぼ自分が期待するレベルには達している。
誕生日にニャンから贈られたスパイクに履き替え、スタートの練習。
彼女はライバルでもあるし、親友でもある。
だとすればこれを履くには、最もふさわしい舞台。
私のサイズに合わせただけあり、走り心地は抜群。
先日これを履いて計ったタイムでは、自己記録を更新している。
非常に良い物であるのは間違いなく、これに関してはニャンに感謝する。
「猫木先輩、そのスパイクで良いんですか」
タオルを持って控えていた、陸上部の後輩らしい女の子がニャンに声を掛ける。
ニャンが履いているのは、私のとはまた違うデザイン。
敢えて聞くくらいなので、こういう場面で履く物ではないんだろう。
「それって、世界選手権用って言ってませんでした?」
そういう場面用か。
ニャンは構わないと告げ、アップに集中。
私も静かにスタートの練習を繰り返す。
彼女は本気。
体育祭だからといって、手を抜くつもりは一切無い。
思わず漏れる笑み。
そして武者震い。
条件は全て整った。
後は私がニャンに勝つ。
最後に、そのパーツを埋めるだけだ。
そして遂に、最終組の順番が回ってくる。
「猫木さんは第3コース、雪野さんは第4コース」
走るコースを指定していく競技委員。
言われたコースに立って、繰り返したシミュレーション通りの行動を取る。
まずはスターティングブロックのセッティング。
軽くスタートの練習。
体を解し、再度アップ。
呼吸を整え、ジャージを脱いでスパイクの調子を確認。
問題は特になし。
意識の集中度も悪くない。
後はそれを途切れさせず、試合に挑むだけ。
盛り上がる観客達の声も、今の私には届かない。
感じられるのは自分の存在。
そしてニャンの存在だけだから。
「On your mark.」
小さく息を吐き、腰を下ろしてスターティングブロックに足を掛ける。
早まる鼓動。
一瞬揺らぐ視界。
シミュレーションでは感じなかった強度な緊張。
その分アドレナリンが吹き出て、より良いタイムが期待出来る。
今は、そう前向きな思考に変える。
「Redy」
腰を上げ、スタートまでの時間を心の中でカウント。
約3秒。
数えるまでもない一瞬の間。
世界が急速に閉じ、自分の回りが閉塞していく感覚。
私という存在だけがあり、すでにニャンも意識から薄れ出す。
近くされるのは自分と、その自分が走る目の前のコース。
そして。
「Go!」
スタートの号砲と合図。
意識のレベルとは別な部分で体が反応。
気付けばスターティングブロックを蹴って、コースへ飛び出していた。
感覚は今と逆。
急速に周囲の景色が見え始め、微かに左右の選手が意識される。
だが今は、まずは自分が走る事を優先。
前のめりになっている体を蹴り足で引き起こし、腕を振って軸を修正。
視界に写る横の選手。
つまりはニャンを追う。
スタートで及ばないのは初めから承知。
だが予想程は離されておらず、並んでいると言っても良いくらい。
気持ち彼女が前に出て、背中と肩が視界に写るくらいで。
足を振り上げ、足首を返し、指先に力を込め。
自分のリズムを保って走る。
100mの間に出来る事は限られていて、言ってみれば詰め将棋のようなもの。
手順を間違えれば、結果は自ずと知れる。
ただそれは、タイムだけを見た時。
相手がいるとなれば、その要素はより複雑。
自分の思い描いた通りに走ろうとしても、つい相手を意識してしまう。
それが動揺につながるのか、発奮する材料になるのか。
今はそこまで考える余裕もない。
揺れる視界の先に写る、ゴール付近の景色。
それをたぐり寄せるような感覚で前へと進む。
足元から伝わる心地良い感触。
宙を舞い、風に乗って滑空している感覚。
徐々に見えるニャンの背中。
即ち、私が彼女に遅れだしている事の現れ。
彼女は、後半により伸びるタイプ。
いつもならこのまま後退。
その背中を見つめながらのゴール。
でも、今日は違う。
彼女と戦うと決めて以来、後半のスパートに私も磨きを掛けてきた。
すでに息は苦しく、体は悲鳴を上げつつある。
限界という言葉が頭の中をちらつき、走った勢いのまま地面に転げて倒れそうになる。
だがそれも、私がこの場にいるから。
ニャンがそこにいるから。
この苦しさを、今は喜びへと代える。
すでにトップギアでの加速状態。
そこにブースターを点火する心境。
体が悲鳴を上げ出すが、ゴールはすぐそこ。
ニャンの背中はもう見えず、それは肩に代わりつつある。
届く。
もう少しで届く。
届きたい。
意識が願望に変わったところで、ニャンがゴールテープを切る。
私もすぐにそこを通過。
他の選手も、殆ど間を置かずゴールを駆け抜ける。
終わってみれば一瞬。
あっけない、予想された通りの結果。
ニャンは優勝。
私は結局その前に出る事もなく試合に負けた。
悔しさと疲労で動く事もままならず、トラックの上に座り込んで息を整える。
差し出された酸素スプレーを口に当て、まずはそれを吸引。
即座に回復する訳ではないが、気休め程度にはなる。
回りで何かを言っているが、今はその半分も聞こえない。
それ程切羽詰まってはないので、危険はないんだと思う。
そう思いたい。
ようやく意識が回復。
体は重いままだが、回りで何が起きているか理解出来るようにはなってきた。
「大丈夫?」
笑い気味に私の顔を覗き込んでくるニャン。
それに私も笑顔で答え、差し出された手を掴んで起き上がる。
「さすがに冷や汗が出た。視界にユウユウが見えた時は」
「結局、前にも出れなかったけどね」
「そんな事になったら、私は今頃泣いてるわよ」
私の頭を撫でて笑うニャン。
彼女は陸上選手。
いわばそれに全てを捧げている。
そこでの敗北は屈辱でしかなく、例え私が親友だろうとそれは同じ事なんだと思う。
私も格闘技の試合にニャンが出てきて、いきなり私を倒したらやはりそれ程楽しい思いはしないだろう。
「私って、結構迷惑?」
「今更何言ってるのよ。気付くのが、10年くらい遅いんじゃなくて」
「そこまで付き合いは長くないでしょ」
「とにかく、ユウユウは私に勝てなかった。これはもう決定ね」
高らかに宣言し、私の肩に触れて去っていくニャン。
彼女は勝者、私は敗者。
それを否定する術も根拠も何一つ無い。
今は親友である以前にライバル。
だからこそ、私はこの悔しさを噛み締める。
この先、彼女と公式な場で戦う機会はもう無い。
大学に体育祭があるとは聞いておらず、私も陸上の公式戦に出るつもりはないし繰り返される予選を突破する自信はない。
彼女は私より早い。
そんな何年も前から分かっていた当たり前の事実を、本当に認めるしかない。
それを覆す事は、もう出来ないから。
振り返ればきっと甘い。
だけど今は少し苦く切ない出来事。
抜けるような空の青さが、今の心に染みていく。
全力を使い果たし、歩く事もままならない状態。
結局医療部へ運ばれ、ベッドに寝かされる。
点滴は丁重に断り、ビタミン剤の錠剤だけ口にする。
あくまでも気休めで、ただ薬っぽい物を飲めば回復につながるような気にはなる。
「……今、何時」
少し痛む体を押さえつつ、ベッドの上で手を動かす。
その指先に端末の手応えを感じ、手に取って時間を確認。
昼休みはすでに終わり、午後の競技が始まっている頃。
思ったほどは寝ていなかったようだ。
「起きた?」
ベッドの脇ある椅子へ腰掛け、私を見つめるサトミ。
看病ではないが、ずっと見守ってくれていたらしい。
「ちょっとだるいけど、大丈夫。明日は筋肉痛で休むけどね」
「決定なの、それは」
「決定。少しマッサージだけするか」
多少でもやっておけば、わずかな抵抗にはなる。
なにより、お母さんにオリーブオイルを塗り込まれるよりはましだ。
ベッドの上でもぞもぞしていると、ショウとモトちゃんもやってきた。
「意外に元気そうね」
「意識は元に戻ったから。体はともかく」
「良いのがある」
にこりと笑い、変な細い木の枝を見せてくるモトちゃん。
いや。木の枝自体は別に変ではない。
ただ今までの経験上、この爪楊枝みたいな物がろくでもないと判断させる。
「サトミ、お茶をお願い。直接かじっても良いみたいよ」
「煎じるよりはましかしらね」
マグカップにお茶を注ぎ、差し出してくるサトミ。
煎じた場合、この分だけ飲み干す事になる。
それは考えずとも、かなりの苦行。
だとすれば、嫌な事は一瞬で終わらせた方が良い。
息を整え、神経を集中。
目を閉じて、小さく折った木の枝の欠片を口に入れてお茶を飲む。
「どう?」
「……辛いというか、辛いというか。何だろう、これ」
一瞬で飲み込んだはずで、何より口にしたのは小さな欠片。
味は殆ど無く、ただコショウの瓶を間違って飲み込んだ気分。
そんな物は飲み込めないんだけど、つまりはそのくらいあり得ない感覚。
これって刺激で意識を覚醒させるって意味じゃないだろうな。
「私は用があるからもう行くけど、大丈夫ね」
「ありがとう。だるいだけで、問題ないよ」
「分かった。サトミ、ショウ君。後の事はお願い」
最後に私の頭を軽く撫でて病室を出て行くモトちゃん。
今の彼女はここに来る余裕など無いはず。
それでもこうして会いに来てくれた事が、素直に嬉しい。
「にやけてる場合でもないでしょ」
「良いじゃない。やる事もやったし、もう一度寝ようかな」
小さく欠伸をして、ベッドに倒れて目を閉じる。
しかし眠気はあるようで、いまいち無い。
あの木の枝のせいか、変に神経が高ぶってしまった。
モトちゃんは、来てくれて良かったのかな。
結局寝ていられず、取りあえずはペットボトルでお茶を一気飲みする。
「大丈夫?」
「むしろ悪くなった気がする」
覚醒作用はあるかもしれないが、気持ち良く寝ていた所を叩き起こされた心境。
すっきりした気分とは程遠く、さっきの感覚がなかなか薄れない。
多分もう味はしてなくて、残っているのは記憶だけ。
それが余程強烈だったんだと思う。
珍しくペットボトルを一本空にして、ようやく落ち着いた。
こんな気分になるなんて、ドラッグをやる人間の気が知れないな。
「ご飯は」
「ああ、そうか。少しだけ食べる」
ベッドから降り、ジャージを羽織って靴を履く。
昼休みは終わったが食事はしばらく提供されているし、軽食だけなら今日中は食べられる。
私が欲しいのはその軽食で、問題は特にない。
「ショウ達は」
「また荷物でも運んでるんでしょ」
「パン食い競争には出なかったんだ」
「イメージにそぐわないものね」
半笑いで答えるサトミ。
どれだけ早く走ろうと。
どれだけ早くパンに噛み付こうと。
やっている事はパン食い競争。
恰好良さとは対極に位置する競技で、それはショウがやっても同じだと思う。
医療部から一番近い、食事を提供している教室に入りおにぎりとお茶を確保。
それをもそもそ食べて、軽く手足をさする。
痛む箇所は特になし。
最後のスパートはかなり負荷を掛けたので心配だったが、今のところ症状としては現れてない。
「ユウが寝てる間に先生が診察してたわよ。疲労以外は問題ないって」
「そう」
医者のお墨付きもあるなら一安心。
後はゆっくり体を休めるだけだ。
ご飯を食べ終えた所で、改めて眠気が押し寄せる。
さっきの変な辛みも、ようやく記憶から遠ざかってきた。
空いている教室でも探して、少し寝ようかな。
「寝るなら、寮に戻る?」
「そこまで歩くのもだるいんだよね。タオルケットがあれば、ここでも良いけど」
「ここは駄目でしょう」
生真面目な声で否定をしてくるサトミ。
それもそうかと、半分寝ながら心の中で答える。
駄目と言われても、眠い物は仕方ない。
寝てしまえば恥ずかしいも何もなく、気持ちよさが訪れるだけ。
5分で良いから、このまま少し……。
起きたのか、それとも起こされたのか。
時計で時間を確認するが、多分5分も寝ていないはず。
しかし意識は冴え渡り、心の内側から沸々と何かが沸き上がる感覚。
さっきの木の枝が効いてきたのかな。
「怒ってるの?」
「誰が」
「すごい顔してるから」
そんな迫力のある顔ではないと思いつつ、渡された手鏡で寝起きの顔を見る。
良く言えば童顔。
悪く言えば、子供みたいな顔。
迫力の欠片もないとは、まさにこの事だ。
「至って普通だけど」
「だったら、その雰囲気ね。聞こえてたのかしら」
「誰か、何か言ってたの?」
「覚えてないなら良いわ」
ペットボトルでお茶を飲みながら、軽く流すサトミ。
どうやら、あまり良くない会話が近くでかわされた様子。
私の眠気を吹き飛ばすには十分な何かが。
まずはお茶。
次に記憶を辿る。
思い出すのは、おにぎりを食べて寝た事。
後は恐ろしく目が冴えて飛び起きた事。
その間の記憶が一切無い。
寝てる間の記憶があっても困るけどね。
記憶を辿るのは諦め、もう一度寝る。
眠くはないが、起きていてもやる事はない。
気持ちはともかく、体は悲鳴を上げそうな程に休息を必要としている。
眠れなくても、こうして目を閉じるだけで気持ちが安らぐ。
「適当な所で起こして」
「何時に?それとも、何分後?どのくらいの間隔で?」
適当って言ったじゃない、今。
今度もすぐに覚醒。
つまりは、知らない間に寝ていたようだ。
「何か言われた?」
「反応する所だけはすごいわね」
私とは違い、怒った様子はないサトミ。
もしくは、怒る程の価値も無いと思ってるかだ。
「馬鹿にされたとか、そういう事でしょ。それを我慢してて良いの?」
「あなたは寝てなさい。大体せっかくの体育祭に、下らない事で揉めても仕方ないでしょ」
「下らないかどうかは、聞いてから決める」
「だったら、ずっと起きてなさい」
それもそうだ。
なんだかんだと言って寝てるんだよな、私は。
すぐに顔を伏せるが、今度は目を開けたまま。
顔を伏せる理由は無いんだけど、人間勢いという物がある。
さすがに今は気持ちが高ぶっているのか、眠気が訪れる前に生徒の方が訪れた。
「他校の生徒も結構来てるんだな」
「可愛い子、いた?」
「いなくもない」
たわいもない会話で盛り上がる男子生徒達。
これが女子生徒なら、私も転校を考える。
「なんか、調子に乗ってるよな」
誰が。
とは尋ねず、これでも言うかという程聞き耳を立てる。
「あれって、誰」
「生徒会らしい。エリートだろ、エリート。俺達には関係ないよ」
「草薙高校も住みにくくなったな」
「あと半年の辛抱だ」
笑いながら教室を出て行く生徒達。
その足音が遠ざかったのを確かめ、顔を上げてお茶を飲む。
ちょっと飲み過ぎかとも思うが、頭を冷やす材料が他に見当たらない。
「誰の事言ってたの」
「生徒会全般でしょ」
興味もないといった表情。
今の私。
そしてサトミも生徒会だが、その意識はかなり希薄。
元々生徒会とは対立をしていたし、参加したののもつい最近。
意識を持つ方が、むしろ難しい。
まずは深呼吸。
もう少し詳しそうな人間を呼ぶ。
「一応断っておくけど、俺って結構忙しいんだ」
「暇かどうかは聞いてない。私の質問に答えてって言ってるの」
「めまいがしそうだな」
深くため息を付き、それでも私の前に座るケイ。
彼は端末をいじりながら、私に話をするよう右手を動かした。
「生徒会に文句があるって、さっき普通の生徒が言ってた」
「文句がない奴はいないだろ。金はある、権力はある、将来は保証されてる。俺なら、革命を起こすね」
「調子に乗ってるって」
「ああ、そっちの話ね」
何とも薄い。
甘さという物を一切削ぎ取った笑み
聞かない方が良さそうだが、それは今更だ。
ケイは端末をいじりつつ、空いている右手の指を五本とも机に付いた。
そして中指だけ立て、それを前へと動かした。
「体育祭の最後って、騎馬戦なんだ。今年は」
「それで?」
「生徒会の威厳を示すらしくてさ。他校だなんだって、ごつい連中をかき集めてる」
「威厳、ね」
それの行く付いた先が、力の誇示か。
分かりやすいけど、下らないな。
「反抗的な連中も全部叩き叩きつぶすっていうアピールでもあるらしい」
「それ、私も出て良いの?」
「ユウ」
相当呆れ気味に声を掛けてくるサトミ。
言いたい事は分かるし、賢くないのも理解している。
でもここで下がるくらいなら、それこそ転校した方がまし。
生徒会が威厳を保つのは構わない。
正々堂々、自分達の力を示せばいい。
外から人を連れてくるとか叩きつぶすとか。
さっきから寝られない理由がよく分かった。
「ショウ、ショウを呼んで。それと、御剣君を」
「あなた、本気?」
「私はいつだって本気よ。とにかく二人を呼んで。私から、話がある」
すぐに駆けつけた二人に、今の話を説明。
協力してくれるよう、申し出る。
「俺は構わないけど、疲れてるだろ」
「今はまだ大丈夫。筋肉痛になるのは、明日だから」
「俺も構いませんよ。とことんやって良いんですよね」
「相手の出方による。ただ、場合によっては遠慮しないで良い。武器を使う気なら、容赦しなくて良い」
「待ってました、その言葉」
それこそ小躍りしそうな御剣君。
対して、ショウの方はもう少し冷静。
騎馬戦の出場にではなく、私の体調を気遣って。
その気持ちは嬉しいが、今は戦う方が優先される。
自分でもここまでいきり立つ理由はよく分からない。
ただ、ここで下がる理由は一切無い。
だとすれば、進む以外に選択肢はない。
「俺と、武士と。ユウが上として。もう一人はどうする」
「浦田さんは?」
「恥は晒したくないし、死にたくもない。空手部も出るって話だぞ」
「むしろ、楽しいのでは」
根本的に噛み合わない会話。
ただ相当の修羅場は予想され、そこにケイを連れて行くのも少し考え物。
武装出来る状況なら気にしないが、騎馬戦なら良くてジャージ。
七尾君か誰か、戦えそうな人を探すとするか。
静かに開くドア。
軽やかな足音。
甘い、とろけるような甘い、繊細な顔。
「久し振り」
はにかみ気味に微笑み、ケイの手を取る柳君。
そんな彼に、やはり照れ気味に頷くケイ。
妙な空気を醸し出している二人に一瞬見とれ、すぐ我に返る。
「何してるの?」
「名古屋で試合があるから、少し早めに来てみた。体育祭なんだね、今」
「……暇?」
「楽しそうな顔してるけど。僕で良かったら」
良いも何も、これ以上適任な人はいない。
前衛をショウ。
後衛を柳君と御剣君。
そして騎乗するのは私。
想像しただけで、血がたぎってくる。
どうも、あの木の枝が良くないな。
ジャージを羽織り、教棟の外へ出る。
青い空と穏やかな日差し。
心が洗われるような快晴。
朝はそれすらも殆ど意識せず、気持ちの持ち方一つでここまで違うのかと感心する。
「騎馬、組んでみて」
「乗ってから持ち上げない?普通」
「そうなの?」
「ユウが良いなら良いけど」
少し引っかかる言い方をして私達から距離を置くサトミ。
そんな事を言われても、こっちは騎馬戦の経験自体がないので流儀がいまいち分かってない。
そうしている内に騎馬が組み上がる。
でもって3人とも、すでに立ち上がった状態。
「やっぱり、座って」
言われるままに腰を下ろす3人。
どちらにしろ乗りにくいのに代わりはなく、バランスの悪さにも気付く。
柳君の体型がショウと御剣君よりも小さいため、そこだけ沈み込む感じ。
まあ、私はショウに寄りかかれば良いか。
「一度乗ってみる。よっと」
ショウの肩に手を掛け、足を振り上げて御剣君の頭を飛び越える。
何か言いたげな視線を感じたけど、今はもう飛び越えた後。
見なかった事にさせてもらおう。
「立ってみて。ゆっくりね」
高くなる視界。
ただ驚く程ではなく、ショウに負ぶさっている時より少し高い程度。
足場も安定していて、3人が揺らぐ事もない。
不安になる要素は何もなく、後は動いた時にどうなるかだ。
「まず、私が言う方に動いてね。前に出て」
滑らかに前へ出る騎馬。
一瞬後ろに体が流れ、私の方がバランスを崩す。
「慣性でしょ。もっとショウに密着して」
「今でも結構張り付いてるけどね。ショウ、大丈夫?」
「問題ない。乗ってるのにも気付かないくらいだ」
いつにない軽口。
それに気分を良くし、より前傾姿勢を取って彼の肩に手を掛ける。
足は殆ど、ショウの手の平だけに置いている状態。
ただこれで、柳君が無理に手を上に上げる必要も無くなる。
それ以前に、全然届いてなかったしね。
私の言葉通りに、前後左右へと動く騎馬。
ショウに寄りかかった事で、私自身の安定も問題ない。
ただ実戦になれば、私の声だけで動く訳にも行かない。
「丁度二人いるし、ちょっとやってみようか」
「何を」
普通に尋ねてくるサトミ。
対してケイは、すでに背中を見せて逃げ出した。
「予行演習」
軽くショウの肩の叩く。
それを合図に鋭く前へ出るショウ。
御剣君と柳君も遅れず後ろから付いてくる。
ルールはあまり知らないが、騎馬が崩れるのも良くないはず。
それを考えると、この3人なら連携は十分。
ショウと御剣君は兄弟のような物で、柳君はそこをセンスと勘で補う。
私はショウにしがみつくだけで良く、余程無理な動きをしない限りは大丈夫そうだ。
まずはサトミの肩に触れ、その横を通過。
ショウ達の走る勢いで長い黒髪が揺れ、その先端が顔に掛かって流れていく。
相手が女の子ならこういう風情もあるんだろうけど、間違いなく騎馬戦には出ないだろうな。
気付くとかなり遠くまで逃げているケイ。
というか、通路を外れて雑木林の中へと入り込んだ。
ただこれもまた、良いシミュレーション。
生い茂る木々を周囲の騎馬と仮定すれば、それをかわす練習になる。
「行動パターンを決めよう。基本的に右から抜いて。ただそれが読まれてきたら、左から抜く。私からも指示は出すけど、その辺は臨機応変に」
「了解」
気持ちの良い返事が返り、小気味良い動きで木々がかわされていく。
木々を抜いていく間際に、それへ私がタッチ。
相手の帽子を取るイメージで。
また右から抜けば、自然と左側の御剣君が相手と対峙する。
防御はこれで完璧。
そして私達の右手は柳君。
いかにも華奢で、他の二人に比べれば明らかに小さい。
つけ込む隙と思わせる、最良の罠。
三人の動きも今のところ申し分なく、気付けば倒れたケイを追い越していた。
騎馬を崩し、落ち葉の敷き詰められた地面へ降りて三人の労をねぎらう。
「ご苦労様。本番でもよろしく」
「ああ」
「分かりました」
「楽しみだね」
頼もしい笑みで答える3人。
その活躍は、期待ではなく確信へと代わる。
彼等なら私の想像以上の活躍を見せてくれるだろう。
地面から聞こえる、陰気な恨み節はともかくとして。




