41-9
41-9
お土産のお菓子を少し持って、自警局へと戻ってくる。
ここも購買同様、相変わらずの賑わい。
いや。賑わいという言い方も少しおかしいか。
それでも絶えず人が行き来しているのは確か。
大変だなと人ごとのように思いつつ、文庫本を読んでいるサトミへお菓子を渡す。
「仕事、良いの?」
「少し休憩してるだけ。今日は、もう帰ったら」
「まだ終わる時間でもないでしょ」
「遅いわよ、多分」
壁の時計へ流れる綺麗な切れ長の瞳。
名古屋港高校なら、とっくに下校時間を過ぎている。
そしてサトミの視線は、私の隣にいる女の子へと向けられる。
「慣れない所に来て、疲れてるんじゃなくて」
「まあ、少し」
「という訳」
「なるほどね。じゃあ、駅まで送る。行こうか」
すでに日は落ち、正門へ続く並木道にも街灯が灯る。
左右の雑木林は闇の中で、正直一人では歩きたくないな。
「今日は案内してくれてありがとう」
「ばたばたしてて、ごめん」
「いつも、あんな感じ?」
「それ程の違いはないのかな。多少の波はあるにしろ」
風が吹き抜け、枯れ葉の目立ち始めた街路樹が音を立てて揺れる。
情緒と言えば聞こえは良いが、あまり楽しくない情緒だな。
「怖いの?」
「暗いのはちょっとね」
「あんなに大きい男の子には平気なのに?」
「人間はいいけどさ。お化けはちょっとね」
何となく静かになる空気。
改めて吹き抜ける風。
確かに、お化けはなかったか。
正門を抜ければ、薄気味の悪さも少しは薄れる。
街灯の数も増えるし、民家や店の明かりが道に溢れる。
道路には車が走っていて、そのヘッドライトや走行音が夜の静寂を薄れさせてくれる。
それこそ情緒はないが、怯えて暮らすよりはましだと思う。
「……どこ行くの」
「どこって」
私が向かっているのは、通りから外れた路地。
通い慣れた、意識もしないルート。
「近道?」
「いや。寮への道。勘違いしてた」
「寮」
少し高くなる声のトーン。
名古屋港高校は自宅から通うのが普通。
下宿生はいるかも知れないが、寮は存在しなかったはず。
一人暮らしや寮に憧れるのは、この時期なら当然とも言える。
「行ってみる?そんなに遠くないし」
「良いの?」
「私の部屋も、一応あるから。最近は使ってないけどね」
警備員さんに挨拶をして、女子寮の敷地に入る。
久し振りという程でもないが、今は自宅から通っているので少しの感慨はなくもない。
「えーと」
建物の前まで来たが、そこから先へ進めない。
寮へは時折来ていたけど、自分の部屋には殆ど行っていない。
「前と同じなら、覚えてるんだけどな」
「大丈夫?」
「記憶が確かならね」
自分でも少し不安になりつつ、記憶を頼りに建物へ入る。
廊下を歩く、パジャマ姿の女の子。
リラックスしたその姿に懐かしさを感じつつ、記憶を辿る。
「……こっちは食堂か。ご飯食べる?」
「部屋は?」
「それは大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
それは私も聞いてみたい。
さすがにお昼ほどの混雑はなく、また女子寮なのでがさつさもない。
その分声が甲高いというか、華やいだ雰囲気。
デザートで盛り上がる声が聞こえたりして、ついつい自分もチェックしてしまう。
「遠野さん達は、まだ仕事?」
「だと思うよ。前は泊まり込んでた事もあったけど、今は止めたみたい」
「泊まり込むの」
「どうしても忙しい時はね。……えーと、和食にするか」
お昼も和食だったけど、それ程動いていないのであっさりした物を体が求めている。
トレーニングを少し多めにした方が良いのかな。
鴨ソバをすすり、鶏のささみの薄焼きを半分食べる。
後はもういらないと言いたいが、食べてくれる人が見当たらない。
ショウの存在って、ある意味私に不可欠だな。
「食べる?」
「もういらないの?」
「体型に応じた食欲なの」
「デザートは食べるんだ」
鶏のささみを箸で掴みながら、ぽつりと呟く取手さん。
痛いところをついてくるな。
プリンを食べ終え、お茶を飲んでちょっと一息。
時計を確認し、これからのスケジュールを思い描く。
「泊まっていく?」
「え、ここに?」
「私の部屋でも良いし、空いてる部屋でも良いし。用事があるなら、地下鉄の駅まで送るけど」
時間としては、結構遅くなってきた。
私達にすればまだこれからだが、一般的な女子高生としてはやや気になる時間帯だと思う。
「家に連絡するね」
端末を取り出し、短い会話を交わす取手さん。
了承はすぐに取れたらしく、OKサインが作られる。
ラウンジでまったりしていると、思い詰めた顔の集団がやってきた。
あまり良い予感はせず、お茶の紙コップに顔を付けてやり過ごす。
「雪野さん、お願いがあるんです」
名指しでご指名と来た。
こうなれば逃げる訳にも行かず、紙コップを置いて顔を上げる。
「廊下で騒いでる子達がいまして」
「警備員さんを呼べば?」
寮でのトラブルは私の専門外。
警備員は外部からの防衛と共に、治安の維持も求められる。
と、思う。
「生徒間のトラブルには、余程の事でない限り介入しないと言われて」
「余程の事じゃないんでしょ」
「困ってるんです」
まなじりを上げてすごまれた。
私も困るんだけど、そういう事は考えてないのかな。
ため息くらいは付かせてもらい、取りあえず席を立つ。
「どこ。で、何人」
「正面玄関の近くで、10人くらいです。ただ男子もいて」
「つまりは、調子に乗ってる訳ね。渡瀬さんは、……いないか」
私は早く戻ってきただけで、彼女はおそらくまだ学校。
それでも騒いでれば、誰か知り合いもやってくるだろう。
今はそう願いたい。
とはいえ、頼まれたからにはそれを成し遂げる必要が生じる。
小走りで廊下を駆け抜け、正面玄関前に到着。
ラウンジで聞いたのと同じ光景。
男女が廊下にしゃがみ込み、ペットボトルとお菓子の袋を散らかして騒いでいる。
学校でもこんな光景を見たけど、流行ってるのかな。
「どうにか、なります?」
不安そうに後ろから聞いてくる女の子。
どうにもならないと言う訳ににはいかないし、どうにかするのが私の仕事。
巻き込まないように彼女達は廊下の角の向こう側に隠れさせ、私一人で近付いていく。
耳が痛くなるような馬鹿騒ぎ。
私の足音にも気付かない。
それでも後ろまで来れば、一人くらいは顔を上げる。
あくまでも、音への反応として。
顔を上げ、私を見る子が増えていく。
ただの通行人。
興味も関心もない態度。
しかし全員がそうという訳でもない。
突然立ち上がり、ゴミを拾い出す男。
それを失笑する仲間。
だが彼に付き合って、別な女もゴミを拾い出す。
「何してるのよ」
「真面目ちゃんだな」
廊下に響く馬鹿笑い。
虚ろな、とでも付け加えようか。
笑い声が収まり、妙な沈黙が彼等の間にたれ込める。
視線は私へと流れ、小声でささやき合い始める男女。
やがて全員が立ち上がり、無言でゴミを拾い出す。
こちらを見はしないが、痛い程に私を意識しながら。
ゴミは全部拾い終わり、全員壁際へ整列。
どうやら、私の言葉を待っているらしい。
「喋るなとは言わないけど、そういうのはラウンジや自分の部屋でやったら。それと、ゴミは全部持って帰って」
「は、はい。済みませんっ」
「私に謝られても困るから。こういう真似はしないよう、友達にも言っておくように」
「ぜ、絶対に。も、もう二度としません。済みませんでしたっ」
それこそ、土下座でもしそうな勢い。
本当、こっちが謝りたくなってくる。
「もう良いから。解散して」
「は、はい。今すぐにっ」
どたどたと廊下を走っていく男女。
しかしそれもまずいと思ったのか、すぐに速度を緩めてしずしずと歩き出した。
こっちが走って逃げたくなるな。
それでも仕事は済んだので、角を曲がってその旨を告げる。
勿論、見てただろうけどね。
「帰って良いかな」
「ありがとうございました。これ、少ないですけど」
「良いよ、別に」
「いえ。私の気持ちが収まりません」
強引に押しつけられる紙袋。
これがお金なら相当の額だと思うけど、何となく甘い匂いが漂ってくる。
100%クッキーだな。
というか、どういう気持ちが収まらないんだか。
ラウンジは良い事がないので、自分の部屋を探し当ててそこにこもる。
荷物は少し運び込んできているし、ベッド自体は備え付け。
毛布もやクッションもあって、寝泊まりに困る事はない。
「取りあえず、宿題でもやるか」
「真面目なのね」
「普通じゃないのかな」
「まあ、そうだけど」
苦笑気味に笑う取手さん。
そういえば向こうの学校では、宿題の出る率は低め。
生徒の自主性に任される部分が多かった。
その分やる生徒とやらない生徒の差が激しかったようにも思う。
一方草薙高校は、勉強に関してはある意味強制。
予習復習は当たり前で、宿題は言わずもがな。
授業について行けなければ、そのまま置いて行かれる。
なんて甘い事もなく、補習に次ぐ補習。
授業に付いてくれるレベルまで、徹底的に指導される。
それでも試験の成績が悪ければ、休みを返上してさらに補習。
嫌なら事前に勉強をするより他無く、その意味では自主性は養われる。
という理屈はともかく、勉強をしない事には始まらない。
ただそれだけだ。
宿題と予習復習も簡単に済ませ、軽く肩を回す。
少しトレーニングもした方が良いかな。
「ちょっとジムに行ってくるけど、一緒に行く?」
「本当、追いつかないのね」
「毎日の習慣だから」
「へぇ」
感心するように頷く取手さん。
彼女の前。
つまり名古屋港高校へいる間は、ちょっとすばしっこいくらいの女。
程度の印象しかなかったはず。
実際目立つような行動は取らず、とにかく頭を低くして生きてきた。
そういう行動を取る場面がなかったとも言える。
そう考えると、今の自分。
草薙高校のあり方が正しいのか、という事へ考えが巡ってしまう。
ただ、それはそれ。
周囲の状況がどうであれ、体を鍛えて損をする事もない。
鍛える程の素養も無いんだけどさ。
「……そんなに小さいの?」
「これが限界だからね」
トレーニングジムで私が手にしたのは、小さなダンベル。
小学生でも軽く片手で持つような、ショウ辺りだと持っているのも意識しない程度の軽さ。
私にとっても軽いが、これ以上は手首や肘への負担に繋がる。
また筋力のアップは、私にとっては重要ではない。
あくまでも体力の維持程度として考えている。
適当に負荷を掛けたところで、ダンベルを置く。
次に柔軟。
マットへしゃがみ、胸まで付けてその姿勢を保つ。
逆に柔軟性は、私にとっての長所であり武器。
これと瞬発力があるからこそ、人並み程度に戦える。
「すごいのね」
「毎日やれば、このくらい出来るよ。サトミは絶対やらないけどさ」
「私でも?」
「勿論」
女の子を座らせ、足を伸ばして後ろから軽く押す。
すぐにつま先へ指が付き、膝に額が触れる。
これ以上はちょっときついかなと、背中の弾力から判断。
力を抜いて、体を引き戻す。
「ここまで出来るなら、後は毎日やるだけ。少しずつやれば、一ヶ月くらいで出来るようになるよ」
「出来るのは良いけど、それでどうするの。私、ケンカなんてしないし」
「私もしないけどね。柔らかければ、怪我はしなくなる。無理な姿勢を取っても耐えられるから」
サトミも柔軟性さえあれば、転んで鼻を打つなんて事はない。
というか、そもそも鼻を打つ理由が分からない。
柔軟な筋肉を作るらしい器具の使い方を見ていると、顔に影が差した。
「お時間、よろしいですか」
よろしくはないよと言いたいが、時間に追われてる訳でもない。
マニュアルを元の場所へ戻し、相手を見る。
空手か、ボクシングか。
打撃風の立ち姿で、かなりの長身。
思わずため息を付きそうになってきた。
「よろしければ、お相手願いたいんですが」
「他にいるでしょ、たくさん」
「是非とも、雪野さんとお手合わせ願いたいんです」
あくまでも低姿勢で懇願する女の子。
悪意は感じないし、後ろに控えていた友達だか後輩も頭を下げだした。
「良いけど、軽めにね。ルールは?」
「なんでもありで」
「……本当に、軽くだからね」
トレーニングジムの中央へ進み、開けている場所で向かい合う。
オープングローブの具合を確認。
軽く肘を伸ばし、息を整える。
「もう一度言うよ。軽くだからね」
「はい」
私の言葉はもう聞こえてないのか、瞳に強烈な力がこもりだしている。
敵意はないが、やる気は十二分にあるようだ。
「購買へ、お菓子買いに行かせた?」
「え、何の事ですか」
「こっちの話」
それとはまた別口の様子。
何にしろ、私も今は集中をした方が良さそうだ。
小さく息を付き、アップライトに構える。
体も小さいので、ディフェンスはそれだけで十分。
何より打たれ弱いため、防御ばかりに力を割いてはいられない。
「せっ」
斜め上から振り下ろされる回し蹴り。
当たればKO必至。
当たらなければ、大きめの扇風機でしかない。
下がるのは簡単だが、それを誘うための動きと判断。
振り下ろされる軌道に合わせて前に出て、太ももの付け根に軽く膝蹴り。
上体を反らして蹴り自体はかわし、そのまま軸足にロー。
バランスを崩しながらの肘打ちを受け流し、倒れてきた体を抱え込む。
その勢いを利用して、自分も体を回転させてテイクダウン。
左腕を右足で絡め取り、右腕を上から膝で押しつけてホールド。
がら空きとなった喉へ、軽く拳を突きつける。
「という訳」
戦意を喪失した相手から飛び退き、ただ構えは解かない。
そういう振りをしているだけ。
全ての可能性を考えるのが、戦いにおいての基本。
少なくとも私は、そう教わってきた。
背後に気配。
などと理解したのは、後ろ回し蹴りで木刀を叩き落とした後。
このくらいはごく普通。
卑怯と言う程でもない。
スポーツや試合ならともかく、今は自分の力を尽くして戦う時。
何かを語りたいなら、勝利を掴み取る。
などと、悠長に考えている余裕もないが。
木刀二本での、左右からの突き。
スェーでかわし、臑に飛んできた木刀の上に飛び乗る。
そのまま木刀の上を駆け上り、相手のバランスが崩れたところで飛び後ろ蹴り。
肩に軽くヒットさせ、そこから跳び前蹴り。
振り下ろされた木刀をはね飛ばし、空中でキャッチ。
それを今度は自分で振り下ろし、前方にスペースを確保。
空いた空間に舞い降りて、正眼に構える。
スティックほどではないが、武器の扱いには慣れている。
重さを考慮しても、短時間なら段持ちの相手とだって戦える。
ただ、そう思っているのは私くらい。
襲ってきた子達は全員マットの上に倒れ、腕を押さえているか肩を押さえているか。
今度は全員、戦意を失ったようだ。
「す、済みませんでした」
平身低頭する女の子達。
謝られる理由はないと言いたいが、それは私の常識。
一般的に考えれば、謝られる条件は揃っている。
申し出からして、一対一と考えるのが普通。
加えて、背後からの攻撃。
しかも武器の使用ときては。
「ん、別に気にしてないけど。なんでもありだからね」
これは皮肉でも何でもない。
また仮にこれが厳格なルールの元手の戦いでも、私の意識は変わらない。
目の前の戦いに全力を尽くす。
ただそれだけだ。
打撃系のクラブとも思ったが、武器を使っている所から見て実戦系剣術部か。
これはもう、首謀者は決まったな。
「その。前の部長が」
「言わなくて良い。事情は分かったから。ただ、私以外にこういう事は止めてね」
「そ、それは勿論」
そこで納得されると、ちょっと困る。
というか、私だとどうして良いんだろうか。
「本当に、申し訳ありません」
「良いよ。たまにはこのくらいやらないとね。お互い本気でもないんだしさ」
「え」
声を裏返す、初めに声を掛けてきた女の子。
ちょっと誤解を招いたかな、今のは。
「つまりさ。骨を折るとか、そういう事までは考えてなかったでしょ」
「え、ええ。まあ」
「そういう意味で、本気じゃないって事」
「まあ、それはそうですが」
いまいち納得していない顔。
実際木刀が体に当たれば、打撲は必至。
骨の細い部分、例えば肋骨なら骨折も十分あり得る。
そう考えれば、それなりに本気だったのかも知れないが。
「このお詫びは、後日改めてさせて頂きます」
「気にしなくて良いんだけどね」
「本当に、申し訳ありませんでした」
そこまで謝るのなら、どうして襲ってきたのかな。
体は十分動かしたので、シャワーを浴びて部屋へと戻る。
実戦の勘を養うためには、たまにはあのくらいやった方が良さそうだ。
「あーあ」
ベッドに倒れ込み、クッションに顔を埋めて目を閉じる。
今ならこのまま夢の中へ入っていける。
宿題もやったしトレーニングも済ませたし、後は寝るだけ。
少し早い気もするが、今日はもう寝るとしよう。
体が揺れてるみたいだけど、気のせいだ。
窓から差し込む白い日差し。
室内にたれ込める甘い香り。
少しずつ覚醒する意識。
顔を上げ、口元を確認。
無言でティッシュを手に取り、口を拭く。
「あー」
まずは小さく欠伸。
ぼやけた視界で、室内を見渡す。
ローテーブルにおかれたホットケーキとマグカップ。
ホットケーキの皿には、小さなウインナーとポテトサラダも添えられている。
確か昨日は、寮の自室に泊まったはず。
まだ、夢でも見てるのかな。
「おはよう。コーヒー?紅茶?それともミルク?」
「ホットミルク」
「了解」
用意がされてあったらしく、こぽこぽと音を立てて注がれるホットミルク。
もう一度欠伸をして、ローテーブルの前に座りミルクをすする。
熱すぎず、冷たすぎず。
寝起きには丁度良いくらいの温度。
ミルクの温かさを味わった所で砂糖を入れ、味を変える。
今度は体に滋養が染み渡っていく感覚を味わい、バターを少し付けてホットケーキをかじる。
「メイプルシロップは?」
「少しだけ」
渡された小瓶からシロップを注ぎ、ホットケーキを一口。
そのままソーセージをかじり、ポテトも頬張る。
一通り食べ終え、時計を確認。
ゆっくり支度をしても、十分学校には間に合う時間。
「顔、洗った?」
「まだ」
「シャワーは?」
「いらない」
洗面所へ行き、少し冷たくなり始めた水で顔を洗う。
歯を磨いてトイレを済ませて、後は着替えるだけだ。
「ブレザーで良い?」
「うん」
パジャマを脱いで折り畳み、ハンガーに掛けておいたシャツを着てスカートを履いて。
えーと、後は靴下か。
「……何してるの」
「どっちが似合うかなと思って」
黒の靴下と、猫のワンポイントが付いた靴下を見比べてる取手さん。
……そういえば、昨日ここに泊まったのか。
今の今まで、あまりにも普通に流れすぎて気付かなかった。
もう一度顔を洗い、改めて目を覚ます。
その間に準備は万端。
食器は全部片付けられ、後は私が外へ出るだけだ。
「まだ早い?」
「いや、大丈夫」
そう答え、玄関へ行って靴を履く。
大丈夫でないのは、自分の意識くらいだろう。
まだ半分夢の中を彷徨ってる心境で、自宅でもここまで至れり尽くせりではない。
寮を出て、全身に柔らかな朝日を浴びる。
体が外側からもじんわりと温かくなり、より覚醒が促される。
「ありがとう」
「え、なにが」
「ご飯」
「ああ、あのくらいは普通でしょ」
さらりと答えられた。
何が普通かは不明で、ただ助かったのは確か。
新婚生活ってこんな感じかな。
知らないけどさ。
路地を抜け、草薙高校に面する大通りへと到着。
他の生徒に混じりながら歩道を歩き、そこでふと気付く。
「学校、どうする?」
草薙高校は、もう目の前。
すでに塀が見えている。
ただ彼女は、ここの生徒ではない。
まだ早いので、地下鉄に乗れば十分に間に合う時間。
「……もう一日だけ、通ってみる」
少し間を置いての答え。
喜んででもなく。
かといって、私に気を遣ってでもない。
何か彼女なりの意図が感じられる態度。
とはいえ今日も一日一緒に過ごせるのは確か。
今はそれを、私自身が喜ぶ事にしよう。
普段通りのHR。
そして授業。
真面目に教師の話を聞き、時に彼女に分からない所を教え。
時には私が聞く側に回る。
平穏で、何の憂いもない。
かつて名古屋港高校で味わった、あの感覚。
波乱もなく、穏やかに時だけが過ぎていく。
それはもう取り戻せないと分かっているからこそ、そのきらめきはあまりにも眩しい。
今のこの時間が、かりそめだとも分かっているからこそ。
世界史の教科書をリュックへしまい、次の授業を時間割で確認。
現代国語の教科書を取り出して、ページをめくる。
「呼んでるわよ」
後ろから、背中をつついてくるサトミ。
もう少し上が良いなと思いつつ、後ろを振り向く。
「誰が」
「廊下」
そのまま戻される顔。
初めから、そう言ってよね。
教室の前のドアに見えたのは、生徒の集団。
その中に一際目立つ存在がある。
顔立ちや体格がではなく、雰囲気として。
「私は、用はないんだけど」
席を立ち、ため息混じりに歩き出す。
正直関わりたくないが、教室までこられては仕方ない。
「どうかしたの」
あまり愛想の良くない態度でそう尋ねる。
集団の後ろからささやき声が聞かれ、それとなく敵意も感じる。
ただそれはお互い様。
敵意のぶつけ合いになりそうになる。
「何か問題でもあるのか」
私の肩に手を掛け、集団を真上から見下ろすショウ。
一瞬にして空気は収まり、静まり返る。
そんな彼の気遣いに感謝しつつ、私からも問い直す。
「何か用事でもあるの」
「君は常に攻撃的だな」
「相手によるけどね。それとも、生徒会長にはこびへつらえばいいの?」
苦笑でそれに応じる生徒会長。
ただモトちゃんにならともかく、私は彼に用事はない。
つまりは向こうも、私に用事はないはず。
あったとしても、あまり楽しい要件ではないだろう。
「たまたま、側を通りかかっただけだ。友達が来てるようだな」
「……それがどうかしたの」
一段低くなる声。
文句を言われるような事はしていないし、彼女に関してクレームを付ける気なら私にだって考えはある。
背中のスティックへ手を伸ばしたところで、生徒会長は一歩後ろへと下がった。
その分かりやすい態度にこちらも応え、スティックからは手を離す。
「攻撃的な所は改めた方が良い」
「生徒会長が大勢人を連れてくれば、誰だって身構える。自分こそ、そういう自覚を持ったら」
「君。生徒会長に向かってそういう口の利き方はなんだ」
生徒会長自体に悪い感情は持っていない。
私自身彼に助けられた事もあるし、それについては感謝もしている。
ただ結局は、周りがこれ。
生徒会長という立場。
生徒会という存在を勘違いして捉える人間がいる。
そういう人間とは相容れないし、分かり合いたいとも思わない。
「口の利き方がどうしたんだ」
前に出かけた私を遮るように手を伸ばすショウ。
視線は真っ直ぐ前を見据えたまま。
私を注意した男子生徒は何も答えず、黙って集団の奥へと消えた。
「俺達は良い生徒じゃないし、言われっぱなしで黙ってるほど人間も出来てない。話す時は、もう少し考えてからにしてくれ」
「今日は饒舌だな」
「不要な混乱を招きたくないだけだ。ただ、招いたなら招いたで構わない。その時は、俺達のやり方で解決をする」
生徒会長が言うように、いつになく積極的に話すショウ。
ただそれは彼個人の感情ではない気もする。
振り向けば取手さんが、不安そうにこちらを見ている。
私が暴れて彼女に心配を掛けるより、自分が矢面に立った方が良い。
そんな彼の気遣いに、心が温かくなっていく。
「ショウ君、落ち着いて。ユウも」
私達の間にすっと入り込むモトちゃん。
ショウもさすがに彼女へは逆らわず、さっきの生徒会長同様一歩後ろへと下がる。
つまりは攻撃の意志がない事を示す。
「今更だけど、生徒会長なら自分の置かれている立場や権力の大きさを自覚して。特に私達は、そういう事には過敏だから。あなたが挨拶だと思っても、そう思えない時だってある」
「以後気を付けよう。他意はないつもりだったが」
「つもり」
一瞬鋭くなるモトちゃんの視線。
私もスティックへ、再び手を伸ばす。
「ちょっと不用意だったな」
苦笑しながら、軽い調子で近付いてくるケイ。
彼は生徒会長越しに、後ろへ控えてる生徒達を指さした。
「自分から気付いたんじゃなくて、誰かに言われたんだろ。ここ、元野さん達がいますよ。挨拶でもしたらどうですかって」
「それで」
「そこまで言われて通り過ぎるのも不自然。でも結果はこの通り。生徒会長のメンツは潰れるし、俺達は神経質で性質の悪い連中扱い。めでだしめでたし」
虚しく響く彼の拍手。
めでたいのは私達でもなければ、生徒会長でもない。
彼の推測した筋書きを書いた人間だろう。
「会いに来るなら、もう少し自分の立場を考えた方が良い。思ってるほど軽くないよ、生徒会長は」
「君に言われると、いまいち信じがたいんだが。ここは、私の対応がまずかったようだ」
「分かってくれれば結構。何か不満がある人は、今すぐ前に出てくればいい。殴り合いでも話し合いでも、好きな方法で解決する」
すっと前に出るショウ。
その隣に無言で寄り添うサトミ。
この二人の前に立ちふさがろうという人間がいる訳もなく、返事どころか物音一つ返ってこない。
「では、お引き取りを」
生徒会長の一行が帰ったところで、教室内の雰囲気は元へと戻る。
静かになったのは、私達の会話を妨げないため。
怯えやおそれという空気は特にない。
以前はあったはずだけど、人間は慣れる生き物。
何事もなかったかのように、クラスメートは思い思いに休憩時間を過ごしている。
「今のは、生徒会長に逆らったって事?」
「逆らってはないけどね。少し意見を言っただけ」
「大丈夫なの?」
「気にした事もない」
言われてみれば気付くが、言われなければそれまで。
相手が生徒会長でもその辺を歩いてる生徒でも関係はない。
敵意を示すのなら、それに応えるだけだ。
「この子は特別だから、深く考えない方が良いわよ」
人の頭を撫でながら笑うモトちゃん。
さっき、生徒会長を睨んだのは誰だった。
昼休み。
相変わらずの混雑を見せる食堂で、今日はゆっくり昼食を取る。
余計なトラブルもないし、ご飯は美味しいし、みんな揃ってるし。
幸せって、多分こういう時の事を言うんだろうな。
山菜ソバの残りをショウへ譲り、デザートのヨーグルトを一口。
程よい酸味とアプリコットジャムの控えめな甘さ。
ふっと心が軽くなる感覚。
本当、安上がりな体質で助かった。
特に何事もなく、そのまま午後の授業。
少しの眠気を覚えつつ、教師の話に耳を傾ける。
平穏に過ぎていく時間。
それが当たり前と言えば、当たり前。
本来は考える必要も、維持しようと努力する必要もないはずの。
そう。分かってもいる。
この時が、決して長く続かないと。
だからこそ、貴重なのだとも。
帰りのHR。
今日は何もなかった思いながら、ぼんやりと村井先生の話を聞く。
何もあって欲しくないという、私の願いかも知れないが。
とりとめて意識するような連絡事項はなく、そのHRもすぐに終わる。
一斉に席を立つクラスメート達。
私も席を立ち、リュックを背負う。
「外、出られないんだけど」
廊下へ出ようとしたクラスメートが引き返し、そう呟く。
周囲の喧噪と距離のため、はっきりとは聞き取れない。
また、私に向かっての台詞でもない。
ただ、その声が聞こえたのは確か。
だとすれば、それを確かめる必要はある。
ドアの前で立ち往生するクラスメート達。
その脇を通り過ぎ、警戒をしつつ外へ出る。
バリケートがあるとか、乱闘が起きているとか。
そういう事は無い。
むしろ廊下は静かなくらい。
静かすぎると言うべきか。
左右に分かれて睨み合う生徒の集団。
片方は、いかにも不良といった雰囲気。
もう片方は、クラブ生だろうか。
一触即発。
いつ何が起きてもおかしくない空気。
ただ理由は知らないし、ここで睨み合われても困る。
「邪魔だから、他に行って」
お互いに返事は無し。
私の声だけが、廊下に虚しく響き渡る。
「もう一度言う。邪魔だから、外に行って」
「ガーディアン程度が出しゃばるな」
ようやくの返事。
そして私が誰かは知っている様子。
それなら話が早い。
「ガーディアンとして言ってる訳じゃない。この廊下を使う生徒として言ってる。それとも、ガーディアンとして話して欲しい訳」
スティックを抜き、スタンガンを作動。
電圧を上げ、軽く振り抜く。
たなびくようにして正面へ飛んでいく火花。
それは正面の壁に当たり、きな臭い匂いを残して四散した。
「悠長に、一人一人に構ってる暇もない。全員同時に倒されたいなら、それでも良い」
息を整え、意識を集中。
戦いに無駄な考えをそぎ落とす。
「5秒数える。その後は、一切話は聞かない。5、4、3」
2に辿り着く前に走り去る二つの集団。
この後で彼等がどこで何をしようと、さすがにそこまで関わりたくはないし興味もない。
廊下から緊張感が無くなったところで、教室に閉じこめられる恰好になっていた生徒が外へと出てくる。
そこから先は、普段の放課後。
楽しげな笑い声と軽快な足音。
和やかな空気が廊下を包み込む。
「どこが、ガーディアンとしての発言なのよ」
私の頭に手を置くサトミ。
それもそうだと今は思うが、私個人の発言で暴れ回る方が問題だと思う。
「丸く収まったから良いじゃない」
スタンガンを停止させ、スティックを背中に戻す。
使わないに越した事はなく、ただその時が来ればためらいはしない。
不用意に躊躇して傷付くのは避けたいから。
自分も、そして仲間を守るためにも。
自警局へ到着し、いつものソファーへ座る。
今日も特にやる事はなく、パトロールの準備。
地図を広げ、どこへ行くかを考える。
「頼られてるのね」
お茶を出しながら、くすりと笑う取手さん。
何がと思いながらマグカップを受け取る。
「さっきの事もそうだし、昨日から見てきてそう思った」
「勝手に私が先走ってるだけで、頼られてはいないんじゃないの」
直接言われたならともかく、あれは完全な独走。
やりすぎたと言われるケースである。
「でも、文句を言う人はいなかったでしょ」
「あそこは私のクラスだからね。私の行動には慣れてる」
「そう、ね」
少し寂しげな笑顔。
そこで私も、失言に気付く。
名古屋港高校でも、似たような場面は何度もあった。
教室でも、また。
初めは私の行動を素直に喜んでくれた。
でも時が立つにつれ、その感情は不安と恐怖。
疎ましさへと変わっていった。
悪いのは自分。
それを否定はしない。
ただ草薙高校では受け入れられていた。
そのやり方が当たり前だと思っていた。
都合の良い、独りよがりの解釈で。
気付けば私達は孤立して、学校を去るしか選択肢が残されなかった。
その事を彼女が悔いているのは知っていたのに。
発言が不用意すぎたか。
「ごめん」
「謝られると、私も困るんだけど。雪野さん達を追い出したのは、私達なんだから」
「それは別に」
「やっぱり、この学校の方が合っているのよね。雪野さんには」
遠い目で語る女の子。
寂しげに、切なげに。
名古屋港高校を去る前に、私は彼女に提案をした。
一緒に草薙高校へ通おうと。
でももしかして彼女も、思っていたのではないだろうか。
この先も、一緒に名古屋港高校へ通おうと。
二つの学校、二人の生徒、二つの思い。
それは重なるようでいて、だけと近くて遠い。




