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自警局へ戻ったところで、終業時間。
荷物をまとめ、教棟を出る。
途端に押し寄せてくる冷気。
日が落ちると一気に寒さが強まり、温かい飲み物でも欲しくなってくる。
逆に昼間はまだ暖かいので、その辺のギャップが上着などで少し困る。
自宅に到着したところで、着替えを済ませクローゼット内を捜索。
目当ての物が見つからず、階段を駆け下りリビングでくつろいでいたお母さんに尋ねてみる。
「上着ってあれだけ?」
「どれだけか知らないけど、他にどこかしまった?」
「記憶ある?」
「さあ?」
はかばかしくない会話。
しまっているような気もするし、いない気もする。
ただ押し入れの奥や衣装部屋のラックは見ていないから、その中にはあるかも知れない。
「厚手の上着が欲しかったんだけど、見当たらなくて」
「冬物はまだ出してないから、そこにあるのかしら」
出しましょうとは言わないお母さん。
私も探す気になれないというか、どこにあるのかが分からない以上探しようがない。
全てをひっくり返して目当ての上着を見つけても、その後片付けをする気力がない。
上着の捜索は一旦止めて、お茶を飲む。
「スクーター、さっき御剣君が届けにくれたわよ」
「ああ、忘れてた。夜は乗れないから、乗っていくんじゃなかったな」
「前はどうだったの」
「多分、明るい内だけ乗ってたと思う」
初夏を過ぎれば夕方を過ぎてもまだ明るく、私の視力でもスクーターを走らせるのには問題がなかった。
だが今は日暮れが早く、授業が終わると少し切なくなるくらい。
冬はそういう意味では苦手だな。
まだ、秋だけどさ。
お風呂に入り、宿題を済ませたところで寝る時間。
多少余裕のない生活だが、暇で何もする事が無いよりは良いと思う。
ベッドに入り電気を消し、後は目を閉じるだけ。
明日も一日頑張ろう。
夜中。
中途半端な時間に目が覚める。
起きる必要はないが、取りあえずトイレへ向かう。
用を済ませて手を洗い、腕をさすりながら部屋へと戻る。
前に比べて、ある程度慣れれば暗いところでも平気で歩けるようになってきた。
家の中だからというせいもあるが、一歩歩くたびに汗を掻く事はない。
という油断が怖く、一応は壁に手を添えて慎重に進む。
視力が完全に回復するのは、数年先の話。
これについても、少しずつ前に進みたい。
朝。
夜中起きた割には、目覚めは良い。
服を着替え、髪を整え、まずはご飯を食べに行く。
「おはよう。……ああ、お弁当」
買い物するのを忘れていたので、冷蔵庫を確認。
今から作るのはちょっと面倒。
夜の内に、下ごしらえをしておけば良かったな。
「いいや。学食にしよう」
「あっさり諦めるのね」
「人間、あきらめが肝心なの」
適当な事を言い、ハムエッグをかじる。
学食での戦いに備え、今から気合いを入れておこう。
地下鉄に揺られ、神宮駅へ到着。
階段を飛び越える事もなく、エレベーターに乗って地上へ出る。
「……あれ」
見慣れた景色。
ビル街と、それ越しに見える大きな杜。
ただ、今日私が見るはずの景色とは少し違う。
「えーと」
まずは自販機に近付き、温かいお茶を買う。
近くにあったベンチへ座り、それを一口。
少し落ち着いた所で、端末を取り出し路線図を確認。
素で間違えたな、これは。
自宅から草薙高校へ向かう際、乗り換えは必要ない。
一方名古屋港へ向かいたい時は、金山で乗り換えが必要。
名古屋港へ向かう便も出てはいるが、一時間に一本か二本。
とはいえ間違えたのは二駅分。
時間に余裕を持って家を出ているので、大した問題ではない。
すぐに駅へ戻り、今度は南循環線へ乗る。
しばし揺られ、今度こそ名古屋港へ到着。
幸い遅刻する程の遅れではなく、普通に他の生徒と混じって地上に出る。
気を抜いていると、何が起きるか分からないな。
教室で筆記用具を取り出し、軽く一息。
疲れたし、少し寝よう。
地下鉄の中でも寝てたけど、それはこの際気にしない。
「一時間目、体育よ」
通り過ぎ様呟くサトミ。
その前にHRがあるじゃないと、心の中で返す。
「着替えの時間があるから、HRはやらないわよ」
ある意味、エスパー顔負けだな。
心地良い風と、澄み切った青空。
潮の香りがふっと漂い、切なさを少し覚えてしまう。
秋の深まりと潮の香りが重なって作用したんだろう。
「男子は野球。女子は見学。適当にやってなさい」
なにやら投げやりな指示。
ただこの学校は、そういう学校。
その辺りがここに半年間通えてた理由の一つ。
堅苦しくなく押しつけがましくなく、自治ではないが自由度が高い。
無軌道に走る訳ではないにしろ、開放感みたいな物は結構感じる。
チームに分かれ準備運動を始める男の子達。
こっちは見学なので、サトミとモトちゃんとで固まり風が来ない後者の壁際まで移動。
そこにしゃがみ、日差しを浴びて体を休める。
「眠くなるわね」
小さく欠伸をして、膝に顔を埋めるモトちゃん。
サトミはいつの間にか手にしていた文庫本を開き、それを読み始める。
他の女子生徒も似たような物。
ただ全員という訳でもない。
中には立ったまま、黄色い声を上げたり熱い視線を向けている子もいる。
気になるがいれば、誰でも自然とそうなるだろう。
「ユウも応援したら」
「もう少し暖かくなったらね」
凍える程さむい訳ではないが、薄着で立つには風が冷たい。
その点こうして日向で丸まっていれば、春が訪れたような気分。
実際は冬がひたひたと近付いてきてるんだけど、気持ち的には。
白熱してるのかしてないのか良く分からない試合。
つまりは両チームともレベルはそれ程高くなく、ただ和気藹々とした雰囲気は伝わってくる。
こういうとなんだが、たかが学校の授業。
多少の真剣さは必要だと思うけど、勝負にこだわりすぎるのも無粋。
楽しく体を動かせれば、それで良いと思う。
ただそう思えていたのもつかの間。
やけに声を張り上げ、チームメイトを叱咤する生徒が一人。
見た顔ではなく、隣のクラスの生徒だろうか。
あれこれ指示を出し、なじり、一人興奮して騒ぎ立てている。
「何、あれ」
「お金でも賭けてるんでしょ」
さっきの教師以上に、投げやりに答えるサトミ。
モトちゃんに至っては、寝息で答えてくる。
「ああいうのが、いたんだ」
「私は自分のために戦ってるだけよ」
なにやら言い訳っぽい台詞。
彼女も勝負事には気合いを入れる方。
ただ本人が言うように、それは非常に個人的なレベル。
もしくは、私やモトちゃんとの勝負の時くらい。
今目の前で繰り広げられている光景とは少し異なる。
異なるからこそ見ていて面白くないし、私が文句を言われる立場ならとても大人しくはしていられない。
とはいえ私が口を挟む事ではないし、そういう理由も特にない。
「ん」
大きなファール。
そういう事もあるなと思いつつ、手の届かないはるか先を転がるボールを視線だけで追う。
「見てないで取れよっ」
声を荒げながら、そのボールを回収するさっきの男。
立ち上がって走れば、多分手に取る事は出来ただろう。
もしくは私が、試合に深く関わっていたのならそうもしただろう。
ゆっくりと立ち上がり、体を解して息を整える。
座り続けるのも、もう飽きた。
「止めなさいよ」
「止めない。ああいうのは絶対に許せない」
「本当に沸点が低いわね」
サトミに言われたくないと思いつつ、ジャージの上を脱いでモトちゃんに被せる。
風の冷たさも、今は何も感じない。
体の中で薪が焚かれてるような感じ。
それはそれで、確かにどうかとは思うけど。
男と戦っている側のチームに向かい、代打を申し出る。
当然怪訝そうな顔をする男の子達。
女子は見学。
でもって、この体型。
本人でも意味が分からないくらいだ。
「別に良いでしょ、代打くらい」
「打てる?」
「というか、持てる?」
この試合で使っているのは金属バット。
ただ鬼の金棒ではないんだから、心配をされる程ではない。
「ほら」
苦笑気味にバットを差し出してくるショウ。
それを受け取り、持ち上げようとしてすぐに返す。
持って持てない事はない。
持ちたいと思わなかっただけで。
「木製のバットがあるでしょ。そっちで良い」
「打ちにくいよ」
「持ち上がらないよりはましでしょ」
「じゃあ、代打って何」
本当、それは私も知りたいな。
私が騒いでいる内に攻守交代。
次の攻撃で、代打出場をさせてくれるらしい。
「何がしたいんだ」
笑いながら尋ねてくるショウ。
ただ彼も、相手チームで叫んでいる男の事は見えているはず。
私がそれに不快感を覚えているのも。
それを含めての発言だろう。
「ああいうのは我慢出来ないの」
「しろよ」
陰気に呟いた男を睨み、バットを担いで軽くスイング。
少し体は泳ぐけど、特に問題はない。
金属バットでも慣れれば同じ事で、今はその時間が惜しいだけ。
何より、金属バットを使ったから打たれたと言われても面白くない。
「デットボールに気を付けろよ」
「狙われない限りは気にしない」
逆を言えば、狙ってくればこっちもそれなりの対応をさせてもらう。
相手チームはあっさり三者凡退。
対して味方は、ヒットとファーボール。
塁が埋まり、チャンスが巡る。
「代打、代打」
私の声に、嫌そうな顔で振り向く男の子。
せっかくのチャンスを無駄にしたくないと言いたげに。
「大丈夫。ホームラン打つから」
「……ルール知ってる?ホームランって、バットを振る事じゃないよ」
つくづく失礼だな。
気持ちは分からなくもないけどさ。
「ああいう変な男を黙らせたいでしょ。というか、あれは何」
「うっとうしいとは思うけどね。良い球は投げてる」
満を持してと言いたげにピッチング練習を始める例の男。
男の子の言う通り、それなりに走った球。
野球が得意だからこその、尊大な態度。
ただ本当に出来る人は、むしろ謙虚。
試合にも相手選手にも味方にも、敬意を持って行動をするはず。
それがこの男には一切無い。
人の心を思いやる気持ちが。
次の打者は三振。
時間的に、この攻撃が終われば授業は終了。
そして次の打者もショートゴロ。
点数は3-1で相手チームが勝っている状態。
もう後がない。
「代打は、代打」
「……別に勝ち負けへこだわりはしないけど、でもさ」
「だからホームランを打つって」
「良いけどね」
あまり納得しない様子で、それでも代打が告げられる。
わっとどよめくクラスメート達。
ちょっとした冗談。
イベントめいた騒ぎ方。
私も、こんな場面に子供が出てくれば同じ反応をすると思う。
まずは足場をならし、スタンスを広めに取る。
狭くとっても大して変わりはないけど、気分的に。
「ストライクゾーンが狭くない?」
何か失礼な事を言ってくる審判の子。
狭いも広いも、小さいんだから仕方ないじゃない。
「だったら、頭から足先まで全部ストライクゾーンで良いって」
「そういう問題じゃないんだけどね」
「だったら、どういう問題なのよ」
「雪野さんって、そういう性格だったんだ」
少し呆れ気味に返してくる審判の子。
前は猫を被ってましたとは言わず、軽くバットを振って改めてバッターボックスへ入る。
「プレイ」
いきなり胸元への鋭い変化球。
なるほどねと思い、左へスイッチ。
審判の子は、さらに声を掛けてくる。
「打ち方、分かってる?」
「打ち方も持ち方も分かってる。打つのは両利きだから問題ない」
「どうでも良いけど、俺達を殴らないでよ」
不安そうに見上げてくるキャッチャー。
それは大丈夫と答える前に、再び胸元へボールが飛んでくる。
マウンド上では例の男がにやけた顔でキャッチャーの返球を受け取っている所。
色んな意味で気合いが入ってきたな。
「今のはノーカウントで良いからね」
「情けは受けないのよ」
「何時代なんだよ、一体。とにかくぶつからないよう……」
審判との会話中に、三度飛んでくるボール。
内角どころか、明らかに顔の辺りへと。
スピードはそこそこだが、避けるのはたやすい。
だがこのボールは明らかに故意。
だとすれば、私から避けるいわれはない。
すぐさまバットを上段に振りかぶり、目を細める。
タイミングは一瞬。
勿論狙いは外さない。
「せっ」
気合いと共に、バットの重さを利用してそれを力任せに振り下ろす。
真芯とは行かないが、十分な手応えが手の平を通じて肩の辺りにまで伝わってくる。
ボールは矢のような速度で跳ね返り、にやけていた男の足元。
プレートに当たって跳ね返る。
「走ってっ」
自分も走り様、そう叫ぶ。
棒立ちになっていたランナーもようやく気付いて走り出し、まずは一人生還。
その間に自分はファーストを周り、セカンドへ到達。
次のランナーも生還し、これで同点。
ベースの角を踏んで最短距離でのベースランニング。
相手チームがボールを見失っている間に、ホームベースを駆け抜ける。
劇的かどうかはともかく、ランナー一掃のサヨナラホームラン。
私達が勝ったのは間違いない。
ピッチャーライナーがかすめた男は、依然としてマウンドの上で腰を抜かしたまま。
これ以上は、関わる必要もないだろう。
「何がしたいんだ」
グラウンドへしゃがみ込み、鼻で笑うケイ。
その真後ろにボールが落下し、さすがに彼も声を上げる。
オチも付いたし、チャイムも鳴った。
後は気分良く着替えて、これの先の授業に望むだけだ。
昼休み。
お弁当を持ってこなかったので、授業が終わると同時に教室を飛び出し学食へと向かう。
草薙高校なら余程の人気メニューか限定メニューでもない限り、売り切れる事はまずあり得ない。
ただここは生徒数が少ないため、特にパンやおにぎりは元々の仕入れ数が限られている。
それを手に入れられるかどうかは、完全に先着順だ。
そう思ったが、学食はすでに修羅場。
大勢の生徒がカウンターに殺到し、我先にとパンやおにぎりを奪い合っている。
私より教室が近いのか、授業が終わったのが早かったのか。
そもそも授業に出ていないのか。
こうなるともはや、諦めムード。
押しのけて入りたいが、潰されるか弾き出されるか。
カウンターへ到達するのは、多分明日の朝だと思う。
「わ」
私の出した声ではない。
パンを買って、意気揚々とテーブルへ向かっている勝者。
体格の良い生徒が私を見て出した声。
でもって慌てて身を引き、道を譲られた。
親切ともまた違う態度。
少し嫌な予感をしつつ、パンは諦め食券売り場へ向かおうとする。
こちらも当然行列。
それでもパン売り場ほどではない。
味も列に比例した物にはなっているが。
「わ」
再びの声。
トレイにうどんを載せた女の子達の。
今度も明らかに私を見ての発言。
いや。発言ではないか。
どうもあまり歓迎されてなさそうなので、再びパン売り場へ移動。
気付くと、その中央に一本道が出来ている。
余程柄の悪い生徒でもいて、それを避けているんだろうか。
「どうぞ」
後ろから聞こえる声。
何がと思って振り向くと、硬い笑顔でパン売り場を指さされた。
「どうぞ」
意味は分からないが、優先的に買って良い様子。
売り場に殺到していた生徒達も同様の、固い笑顔。
これは逆に針のむしろだと思いつつ、生徒の間を通ってパンを選ぶ。
あまり人気のなさそうな菓子パンを一つと、サンドイッチ。
とにかく空気が悪いので、お金を払ってすぐに逃げ帰る。
勿論パンは離さない。
サトミ達が集まっているテーブルを見つけ、今の話をしようとする。
というか、当然見ていたらしく向こうから話を振られた。
「何者なのよ、あなたは」
「みんなが勝手に譲ってくれただけでしょ。それに、これだけしか買ってない」
テーブルの上に安っぽい揚げパンと、ハムサンド。
それに、自販機で買ったジュースを置く。
食事としてはかなり慎ましやか。
非難を受けるいわれはないと思う。
「野球のあれが効いたんでしょ」
「野球?夏休みの話?」
お手製のお弁当から、磯辺揚げを箸でつまみながら尋ねてくるモトちゃん。
ずっと寝てたな、この人。
サトミがさっきの事を、モトちゃんへ説明。
多少脚色が加わってる気はするが、それ程違ってもない。
改めて聞かされると、自分の事ながらどうかとも思うが。
「だからって、あんなに避けられる事かな」
「ヒーローなんだろ」
じめっとした声で呟くケイ。
それにむっとしつつ、揚げパンをかじって牛乳を飲む。
過剰な甘さが程よく加減され、しっとり感が口の中に広がっていく。
本当、牛乳って偉大だな。
「私が悪いの?」
「さっき張り切ってた男がいただろ。あれがそうだ」
「どういう事」
「普通とは言わないまでも、スポーツ自慢の良くいるタイプ。でも、場の空気を読まずに二打席連続ホームランを打った馬鹿がいただろ」
すっとショウに集まる視線。
ただ、馬鹿では無いと思うけどね。
「その後で、6人連続三振をとった馬鹿もいただろ」
ショウから離れない全員の視線。
勿論馬鹿ではないと思うけど。
ケイはコンビニの袋におにぎりの包装紙を入れ、紙パックのお茶を飲み始めた。
「その結果があれだ。反発だよ、反発。ヒーローへの」
「ショウが悪いの、それって?」
「悪くはないだろ。ただ世間はそんなものだ。草薙高校とは違う」
最後は小声で呟くケイ。
草薙高校は全国から優秀な生徒が大勢集まってきている学校。
それぞれのジャンルでなら、ショウを上回る生徒はいくらでもいる。
彼も無論優れてはいるが、その分多少はすごさが薄れる。
対してここは地元に住んでいる子が通う学校。
また仮にずば抜けた存在がいても、生徒数が少ないため何をやってもとにかく目立つ。
ある程度通えば、全校生徒の顔を覚える人もいるだろう。
「街灯に集まる蛾と同じだ。あれも好きで近付いてる訳じゃない。でもって最後は、熱にやられて地面に落ちる。……俺の話じゃないぞ」
むっとして声を低くするケイ。
それはどうかなと思いつつ、ただ納得が行かない事はまだある。
「ショウの事はともかく、私が避けられたのは何よ。さっきのは普通の生徒でしょ」
「好意的な人間も、たまにはいるだろ。でも、近付きたいとも思わない」
「何で」
「自分達は、ヒーローでもヒロインでもないって思ってるからさ。あー、普通の人間に生まれてきて助かった」
馬鹿げた詠嘆をしながらおにぎりをかじるケイ。
まず言っておきたいが、普通じゃない。
大体、人間かどうかも怪しいんじゃないの。
教室に戻っても、独特の雰囲気は同じ。
中等部の頃、サトミが周りから疎外されていた感じとよく似ている。
自分にそれが降りかかってようやく気付くというべきか。
学校と戦っていた時も感じた、あの感覚
この気まずさ、いたたまれ無さに少し胸が痛む。
「意外とナイーブなのね」
何となく沈んでいた私に話しかけてくる取手さん。
そうかなと思いつつ、端末を手に取り時間割を確認。
次は数学か。
「それに意外と勉強熱心よね」
「普通だよ、私は。何もかもが」
「冗談は良いけど、程々にした方が良いわよ。このクラスはともかく、あなた達を敵視してる人も多いから。呼んだ私の責任でもあるんだけど」
そんな事はないと去っていく彼女の背中に呟き、教科書を用意する。
嫌な顔をされれば当然心は傷付く。
ただいつまでも下を向いていても仕方ない。
傷付こうと倒れようと、私は前に進むしかないんだから。
目が覚めると休憩時間どころか、古典の授業が終わりかけ。
体育の後に食事。
でもって数学なら、寝ない方がどうかしてる。
ただクラスメートの殆どは起きているので、多分どうかしてるのは私だけだ。
「では光源氏は、紫の君をどういう目的で世話するようになったのでしょう」
そんなの、不埒な目的以外の何者でもない。
などと答えそうになる。
少しして卓上端末にその設問が表示され、回答欄も現れる。
確か光源氏の初恋である藤壺の宮と紫の君が、縁戚関係。
それが理由の一つだとされている。
私からすれば、それはそれで不埒としか言い様はないが。
よその国は知らないが、現代日本は一夫一婦制。
結婚をしなくても、相手は一人だけというのが普通。
私もそういう環境で過ごしてきた。
何よりこの手の話に関しては、保守的であり慎重。
あの人も好きでこの人も好きなんて事はあり得ない。
まして自分の好きな人が、別な女性を囲ってるなどとは冗談ではない。
気付くと机を指で叩いていて、サトミに後ろからはたかれた。
分かってるわよ、私だって。
一応は模範的な回答を書き込み、小テストはそれで終わらせる。
ただいつも思うけど、この源氏物語を学校の授業で勉強するのはどうかという気がする。
「そうじゃないの?」
筆記用具を片付けているサトミに尋ねるが、反応は薄い。
また訳の分からない事を言い出したくらいの顔はしたが。
「ハーレムを作って喜んでる男の話でしょ」
「優れた文学作品の話よ」
「根本的に価値観が違うな」
「付いて行けないわ」
しみじみため息を付いてリュックを背負うサトミ。
そこまで変な事を言ったつもりはないが、彼女の常識とは相容れなかったようだ。
「だったらこれが現代に書かれてたらどうなの。読まないでしょ」
「読まないかも知れないわね」
「そういう事を言ってるの。三人も四人も女の人を囲って、何時代の人間よ」
「平安時代じゃない」
それもそうか。
いまいち納得出来ないまま、源氏物語の抄訳本を職員室で読む。
読めば読むほど腹が立つ。
大体最愛の人が紫の君とか言いながら、今度は女三宮。
でもって今度も、藤壷の宮の親戚。
この藤壷の宮自体、お父さんの側室。
本当、どうなんだろうかこれは。
「勉強熱心だね」
感心した様子で私達の側を通り過ぎていく若い男性教師。
そういう訳ではないが、端から見てると勉強しているように見えるらしい。
「あーあ」
さすがに馬鹿馬鹿しくなり、本を閉じて肩を揉む。
ただこれで、試験には多少良い影響が出るかも知れない。
そういうために読んだ訳ではないが。
本を閉じるとやる事が無く、どうも時間をもてあます。
しかし職員室のため、さすがの私も横になる事は出来ない。
とはいえ暇という事は、学内が平和である証。
それは素直に喜ぶべきだろう。
「もう傭兵はいないのかな」
希望的観測を込めつつ尋ねるが、ケイは半笑い気味に首を振った。
「タイプは色々だけど、しつこい奴はしつこい。引き際が分かってない奴は特に」
「引き際?」
「分かってる奴なら、俺達が来た時点で逃げてるよ」
そんな物かと思いつつ、スティックを取り出し少し磨いてみる。
表面には傷一つ無く、持った感じおかしな所も見当たらない。
ただ、それと手入れは別。
汚れていなくても、愛情は常に込めていたい。
「仲間を引き連れて一気に攻めてくるとか、そういう事はないの?」
「マンガの話でもしてるのか」
「現実の話よ」
「そんな事やれば、警察を呼ばれて全員逮捕。警察に甘い物でも送ってるなら別だけど」
何を言っても否定されるというか、はかばかしい返事は返ってこない。
もしかしてこれって、持久戦なのかな。
こもっているのは性に合わず、何より場所が職員室。
お茶を買いに行くと言って、一旦外に出る。
職員室とは比べものにならない開放感。
一気に気分が楽になり、大きく息を付く。
「さてと」
自販機を求めて廊下を歩く。
幸い迷うような広さではなく、どこへ行こうと職員室へは戻ってこられる。
そう考えると草薙高校の広さは尋常ではないな。
中庭を横切る形に伸びている渡り廊下の手前で自販機を発見。
お茶を買い、近くになったベンチに腰掛けて一休み。
職員室で飲んでも良いが、急いで戻る必要は別にない。
端末も持ってきているし、あそこへこもっているのは少し飽きてきた。
背後に気配。
猫とか友達とかそういう物ではなく、明らかな敵意を持った存在の。
振り向くより先にペットボトルを後ろへ投げて、取りあえずの牽制。
植え込みの辺りから変な声がして、警棒を持った男が数人現れる。
そんなに熱くはなかったと思うが、いきなりお茶を浴びせかけられればこういう反応になるのだろう。
空になってしまったペットボトルを拾い、ゴミ箱へ捨てて廊下を歩く。
お茶を飲めばここに留まる理由はなく、少し寒くなってきた。
職員室で、改めて飲むとしよう。
「何しやがる」
「自分達こそ、何がしたかったの」
手には木刀。
敵意は丸出し。
そして人の背後をつけ狙う。
そう言いたいのはこっちの方だ。
傭兵か、学内の不良か。
判別は出来ないが、どちらにしろ同じ事。
襲ってくるなら立ち向かうし、誰かに危害を加える気なら阻止をする。
ただそれだけだ。
「今すぐ学校から出て行った方が身のためだぞ」
特に返事を返す気にもなれず、相手の人数を数える。
全部で5人。
その内、武器を持ってるのが3人。
強そうなのは、一人もいない。
徒党を組んで気が大きくなっているくらいの印象しかない。
「用が済めば、いつでも出て行くわよ」
「今すぐと言ったんだ」
「だったら、自分達が出て行ったら。私もそれで用は済む」
「交渉決裂だな」
どこが交渉かと思いつつ、グローブをはめる。
戦いに備えてではなく、少し寒くなったから。
それが格闘用のグローブというのも、味気ないが。
いきなり振り下ろされる木刀。
この容赦のなさは、おそらく傭兵。
とはいえ感心する事でもなく、半歩下がって切っ先を眺める。
あくまでも木刀を振り回しているだけで、技術も何もない力任せの攻撃。
一降りで力を無駄に使ったのか、いきなり隙だらけ。
木刀を引き上げるタイミングに合わせて前に出て、下から腕を蹴り上げる。
「ぐぁっ」
そのまま木刀が上に跳ね上がり、自分で顔を打って後ろへ倒れた。
武器は持てば良い物では無く、使い方次第。
そしてこれでは、意味がない。
「やりやがったな」
そんな事を言われる筋合いはないが、まだ下がる気はない様子。
一応ショウには連絡し、ただその頃には解決しているだろう。
左右からの同時の打ち込み。
やはり単なる力任せの、連携も何もない動き。
ぎりぎりまでためて息を吐き、軽くフェイントを付けて後ろへ下がる。
お互いが私の動きに反応し、木刀を振り下ろす。
ただ、そこにいるのは自分の仲間。
振り下ろした木刀が止まる事はなく、相手の肩を激しく打ち合い地面に転がる。
「貴様っ」
残りの二人は素手で来た。
スティックを使う気にもなれず、地面の木刀を足で拾い上げて突っ込んできた男の足に転がす。
先頭の男が倒れ、後ろの男がそれにもつれてやはり倒れる。
気付けば全員倒れていて、呻き声を上げている。
廊下を歩いていると、ショウが正面から走ってきた。
「どうしたの」
「どうしたって、呼んだだろ」
「……ああ、そうか」
事情を彼に話し、当たり前だが現場に引き返す事はせず職員室へ戻る。
何と言えばいいのか、あまりにも軽い相手。
軽んじてる訳ではないが、気合いを入れるには程遠い心境。
別に、骨のある相手を求めている訳ではない。
しかしあれでは、自分達が悪者のような気分すらしてくる。
「ケイが言うように、過剰に考えすぎてるのかな。傭兵の事を」
「それはあるだろ。実際草薙高校でも、驚くような奴を見た記憶がない」
「気合いが空回りしてる気がする」
「気を抜くよりは良いんじゃないのか」
慰めとも付かない言葉。
私も無用なトラブルを求めてはいないし、平穏無事ならそれで良い。
ただこうなると、私達の存在の方が問題という気にもなる。
そしてあっというまに下校時間。
これ以上は学校に残れず、そもそも傭兵自体帰って行くだろう。
「少しは分かっただろ」
地下鉄の車内。
吊革に掴まりながら私を見下ろすケイ。
こっちは、何がという顔で彼を見上げる。
「さっき叩きのめした傭兵の事だよ」
「全然分からないけど」
「つまりその程度の認識。気にも留めないし、意識もしない。道端に大きめの石が落ちてて。ああ邪魔だな、程度の」
「そこまでではないと思うよ」
ただあながち間違えた意見でもない。
さっきの連中の事など殆ど忘れていたし、あの段階でも気にすらしていなかった。
良くいる連中、程度にしか。
「食物連鎖の頂点に立ってるんだから仕方ない。シャチや虎はいちいち、自分の強さを考えもしない」
「何、それ」
「例えばの話。狩られるだけの連中は哀れだな」
しみじみ呟き、軽く伸び上がるケイ。
分かったような、分からないような話。
彼の隣にいたショウを見るが、多分私と同じ顔。
何となく理解はしたが、自分の口では説明しづらいといったところか。
混み合う電車を降りて、今日はエレベーターに乗り外へ出る。
すでに日は大きく傾き、西日が私達の影を長く伸ばす。
ただ切なさよりも寒さが先に来て、いまいち感慨めいたものはない。
「そろそろ焼き芋とか鯛焼きが恋しいね」
「焼き芋はともかく、鯛焼きは年中手に入るだろ」
何とも即物的な答えを返すショウ。
この手の話題に関しては、いまいち意思の疎通が難しいな。
その鯛焼き屋さんが見つからなかったため、コンビニで肉まんとあんまんを買って自警局へとやってくる。
「お土産」
まずは肉まんを確保。
後はあんまんの欠片でももらえば、それで満足。
この肉まんも、二口食べれば十分だけど。
「食べないの?」
「さっき、ピザを食べたばかりなので」
「夕ご飯?」
「ええ。仕事が忙しくて、外に出る時間がないんです」
書類の山を見ながら、小さくため息を付く小谷君。
大変だなと思いつつ、一枚手に取り鼻を押さえる。
「いい加減、この備品使用状況書って廃止出来ないの?」
「その手続き自体が煩雑なんですよ。どうにかしたいにはしたいですが」
「私暇だから、今日中に片付ける」
「それは無理だと思うんですけどね。自警局としては廃止で問題ないため、他の局へお願いします」
まずは知り合いのいる局から周り、承諾書をもらって回る。
思ってる事は皆同じらしく、断る人はいない。
「もらってきた」
私一人ではなく、ショウとケイも別な局から承諾書を取得。
すぐに、全局分集まった。
「では、備品使用状況書を撤廃する理由を書いて下さい」
「不必要だから」
「データも添えてお願いします」
堅苦しい事を言い出す小谷君。
大体、データってなんだ。
理由とデータはサトミに任せ、その間に学校の事務局へ連絡。
書類の廃止を要請する。
「……無くさなくても良いですよねって。無くしても良いんですよね」
しばらく続く、同じ会話の繰り返し。
それでもどうにか押し切り、やはり理由とデータを求められる。
「これで終わり?」
「遠野さんが書いた理由とデータを各局に配布して、改めて了承を得て下さい」
「承諾書はもらってるけど」
「つくづく面倒ですよね」
書類の山越に答える小谷君。
今の彼を見て、「もう止めた」とは言いづらい。
それに私は、書類を持ってあちこちを走り回るだけ。
大した手間とは言い難い。
改めて各局を回り、廃止理由とデータの閲覧。
それに対する了承書を取得。
全部揃えて、小谷君へ提出する。
「学校はどう言ってますか?」
「書類さえ揃えば、検討するって」
「では、生徒会としては廃止を要請すると連絡して下さい」
「これで終わり?」
「俺達の出来る事は」
廃止出来る、とは言わない小谷君。
ただそれに向かって一歩でも二歩でも前に進んだのは確か。
後は学校の出方次第で、その返答によって改めて行動すればいい。
「でも、すごいですね」
「何が」
「書類。すぐに集まりましたよ。手間って言うのは走り回る事より、誰も書いてくれないからその説得に時間が掛かるんです」
書類を片付けなら話す小谷君。
自分は本当に、ただ走り回っただけ。
何の実感も、特にはないが。
私としては知り合いに書類へサインを頼んでもらったという意識。
とはいえ新妻さんや黒沢さんは生徒会組織の幹部。
友人でなければ、気軽に会うのは確かに難しいかも知れない。
この辺りもケイの言う、自覚の無さに繋がっているんだろうか。
「まあ、いいや。それで、理由って何を書いたの」
「手続きの煩雑さと、備品の有効活用に役立っていないというのが論点ね。使用状況について検討したが無いから、書類だけが形式的に存在してるだけよ」
「元々無駄な事をやってたの?すごい虚しくない?」
「始めるのも大変だけど、止めるのも難しいの。ユウくらいよ、何でも簡単に考えるのって」
そんなしみじみ言われても困るが、単純な思考。
簡単に考えてるのは確かだろう。
「それで、いつ廃止になるの」
「学校次第でしょうね。向こうは権威主義の固まりだから、この手の書類は大好きよ」
「生徒会自体が提出しなければ問題ないでしょ」
「そういう発想が羨ましいわ」
だったらため息は付かないで欲しい。




