40-3
40-3
用があるという御剣君と別れ、再びショウと学内を歩く。
やはり雰囲気はそれ程悪い訳ではなく、おかしな人間はごく一部。
これは以前と変わりない。
結局は制度や規則ではなく、人という訳か。
どこを歩いているかよく分からないまま、気付くと購買にたどり着いていた。
「寄っていくか」
私の言葉を待たずに、人の間を抜けていくショウ。
一応押しとどめようと腕を掴むが、そのまま体が引っ張られる。
傍目には遊んでるように見えてるだろうな。
実際、半分遊んでるけどさ。
特に目を引くお菓子もなく、ふ菓子を選択。
甘すぎず、重すぎず、でもって高すぎず。
いつでも安心して食べられるお菓子。
ショウに言わせると食べてる気がしないらしいけど、私にはこれで十分。
ちまちまかじっているだけで、幸せな気分になってくる。
「何かの冗談?それって」
「冗談って?」
ショウが選択したのは、ファミリーサイズのペットボトル。
私なら一日掛けて飲むのも苦しいくらいの量で、夏場でも数人掛かりだろう。
「一度に飲む訳じゃない」
そう言いつつ、一気に1/3くらいを飲み干した。
別に良いんだけど、ちょっと嫌だな。
壁際に並んでもたれ、賑わう購買を二人で眺める。
ここの景色こそ、昔から変わらない。
大勢の生徒と笑い声。
人が入れ替わっても熱気は冷めず、幸せな空気だけが存在をする。
何となく見入っていると突然誰かが大声を上げ、生徒が暴れ始めた。
またかと思って動き出すより早く、どこからかガーディアンが現れ騒ぎの主を連れて行った。
どうやら今は、購買にガーディアンが常駐しているらしい。
気が抜けたというか、空回りした気分。
揉め事を望む訳ではないが、仕事と思ったのは確か。
ただ当たり前だけど、私で無ければならないという理由はない。
居場所なんて事を、改めて思い出す。
「どう思う?」
「結構苦しくなってきた」
誰も、そんな事は聞いてない。
結局ジュースは全部飲み干し、建物の外へとやってくる。
日差しは温み、風は穏やか。
空は高く青く、心地良い。
こうなると夏を懐かしく思わなくもないけれど。
不意に目の前を過ぎていく金属製の槍。
実際はかなり距離があるにしろ、勢いがあると鼻先を過ぎていったようにも思える。
「済みません」
謝りながら近付いてくる、背の高い女性。
どうやら、彼女が投げたらしい。
槍投げの選手にしてはかなり細身。
七種競技かな、もしかして。
「すごいですね」
周囲を確認し、別な槍が飛んでこないか確認してグラウンドに出る。
戦国時代だな、まるで。
地面に刺さっている槍を手に取り、引っ張ってみる。
抜くには抜いたが、まず持ち上がらない。
持てもしないのに、どうやってこれを投げるんだ。
「そんなに重いですか」
笑いながら、片手で槍を担ぐ女の子。
太陽を背にして微笑む姿は、さながら戦国武将だな。
「試してみます?」
「肩が抜けそうなので止めます。というか、持ち上がらない」
彼女にお礼を言い、グラウンドから出て肩を押さえる。
私にはやはり、スティックやバトンがせいぜい。
槍は必要ない。
当たり前だけど。
グラウンドの端を歩いていくと、今度はハードルが見てくる。
何度も思うけど、これだと下をくぐった方が早いくらい。
飛び越える事は出来なくもないが、そうなると連続高跳びをやってる気になる。
「……用はないわよ」
私を見るや、自分からそんな事を言い出す黒沢さん。
余程前回の件で懲りたようだ。
「別に、何かしに来た訳じゃないって。SDCは良いの?」
「たまには動かないと。あなたこそ、遊んでて良いの?」
「私は自由に生きてるの」
「そうみたいね」
人の顔を見ながらしみじみ呟く黒沢さん。
言いたい事は色々あるが、ここは陸上部の練習スペース。
取りあえず自重しよう。
ハードルで競争しようとうるさい黒沢さんから離れ、高跳びのバーのところへとやってくる。
「何もないですよ。本当に」
やはり私が声を掛ける前から制してくる青木さん。
一体、私を何だと思ってるのかな。
「SDCは良いの?」
「今日は、後輩に任せてます」
「後輩」
「基本的に、この時期はそうじゃないですか。部活だって、普通ならそろそろ引退してますし」
それもそうか。
去年からバタバタしていたけど、青木さんの言う通り普通ならすでに3年は一線を退いている。
居座ってるのは余程やる事があるか、恥知らすかだ。
まさかと思うけど、私達は後者だと思われてないだろうな。
青木さんは私に跳べとは言わず、穏やかに送り出してくれた。
厄介払いされた気はしなくもないが。
次に来たのは、真っ直ぐにラインを引かれたスペース。
ただ、反対側を見てもニャンの姿は見あたらない。
前ならグラウンドの端から端まではっきり見えたんだけど、今はかなり近くでないと確認出来ない。
「ニャンってどこにいる?」
「にゃん?」
声を裏返す、ジャージ姿の女の子。
確かに、これでは通じないか。
「えーと。なんだっけ」
「猫木」
「そう。猫木明日香」
「ああ、猫木先輩」
ようやくそれで、ニャンと猫木を結びつけた様子。
冷静に頷かれると、結構恥ずかしいな。
でもって背後に気配。
振り向くと、その猫木さんが立っていた。
「ニャンって呼ばないでよ。ユウユウ」
「自分だって」
お互いの体を触れあい、しばしじゃれ合う。
ささやかな、たわいもないやりとり。
私にとっては、何よりも幸せな瞬間でもある。
「走りに来たの?」
「いや。ちょっと学内の様子を見たくて。変わってるようで、変わってないね」
「本質的には昔と同じでしょ。規則の変更も、受け流す人は受け流してるし」
「受け流す」
これは少し無かった思考。
立ち向かうでもなく、従うでもなく。
柔軟に捉え、やり過ごす。
ちょっと目の前が明るくなった気がしないでもない。
私に、そう生き方が出来るかはともかくとして。
走るように勧めるニャンに首を振り、グラウンドへ引かれたラインを指さす。
「勝負は、体育祭までお預けよ」
「あら、私に勝つ気」
「当然」
胸を張り、自信を込めてそう答える。
中等部以来、彼女との勝負は連戦連敗。
タイムでも一度も上回った事はない。
敵わないのは、今更言われなくても分かっている。
それでも生涯、私は彼女に挑み続ける。
私が私である限り、ニャンがそこにいる限りは。
二人で盛り上がっていると、さっき声を掛けた女の子に見つめられていた。
どうも、私が何者か測りかねているらしい。
「先輩のお知り合いですか」
「小等部からの親友よ」
「親友。他校で、陸上部をやってるとか」
「全然。この学校の生徒」
普通に親友と言ってくれるニャン。
その一言だけで、私には十分。
今日一日は、幸せに過ごす事が出来る。
「勝つとか言ってますけど、何かするんですか」
「100M走」
「誰と」
「私と、ユウユウで」
「へぇ」
平坦な声で返事をする女の子。
何しろニャンは、オリンピック指定強化選手。
国内では敵無しで、世界各地を転戦しているレベル。
それに勝つと言い切る小柄な女が出てきたら、誰でも戸惑い驚くだろう。
ニャンがそれを受け止めていれば、余計に。
「一度走ってみたら?論より証拠でしょ」
「別に証拠を示す必要はないんだけどね。スパイク、部室にある?」
「一式揃ってる」
「仕方ない。ちょっと調子を見てみるか」
部室で着替えを済ませ、入念にストレッチとアップを行いスタートラインに立つ。
今は遠く彼方に見えるゴール付近。
はやる気持ちを抑え、深呼吸をして意識を少しずつ集中させていく。
「誰か、タイム測って。それと、あなたも一緒に走ってみたら」
「私もですか」
「本物と走るのも、良い経験よ。ユウユウ、いいよね」
「問題ないよ」
すでに意識はコースと自分にのみ向けられる。
隣に誰がいても、私のやる事は一つ。
スタートを切り、コースを走り、ゴールを駆け抜けるだけ。
それ以外に意識を向ける余裕もない。
「用意……。スタート」
勢いよく地面を蹴りつけ、倒していた姿勢を徐々に上げる。
顔に掛かる猛烈な風圧。
一歩踏み出すたびに足がきしみ、体が揺れる。
腕を振り、バランスを制御。
全速力で駆け抜けたくなる衝動を堪え、まずは序盤を乗り切る。
視界の片隅に見える、グラウンドの景色。
ぼんやりとしたそれがみるみる後ろへ流れ、息が少しずつ苦しくなる。
それでもなお手足を動かし、前へと進む。
足に感じる確かな感触。
頬を打つ強い風。
意識は薄れ始め、やがてゴール以外には何も見えなくなる。
ここでようやく最後の力を振り絞り、全力疾走。
そのゴールすら、遙か彼方に消えていく。
膝に手を付き、激しく喘いで息を吸う。
ちょっと本気で走りすぎた。
どうも一度走り出すと、我を忘れるな。
「タイムは、まあまあね」
伏せている顔の前に伸びてくるストップウォッチ。
どうにか11秒は切っているが、自己ベストではない。
まだ走り込んでないし、フォームもバラバラ。
体育祭までの課題は満載だ。
「どうだった?」
これは私にではなく、一緒に走っていた子への言葉らしい。
そんな事も今思い出すくらいの状況。
今日一日は、多分何も出来ないだろう。
「もう一度お願いします」
アスリート特有の負けん気の強さ。
将来大成するのかなとも、何となく思う。
「ですって。どう?」
どうもこうも、こちらはすでに限界。
口を開く事すら苦しい。
それを見かねたのか、ショウが私の頭を軽く撫でながら答えてくれた。
「多分限界だから、やるにしろ数日は間を置いてくれ」
いや。数日どころか、出来れば一週間くらいおいて欲しいけどね。
深呼吸を繰り返し、どうにか顔を上げられるまでにはなった。
帰りは、彼に負ぶさって帰りたいくらいだな。
「という訳で、諦めなさい。今撮ったビデオでも分析してきたら」
「はい」
多少悔しそうに、それでも素直に頷いて去っていく女の子。
しかし、ビデオまで撮ってたのか。
「人を、後輩の指導材料に使わないでよね」
「たまには良いじゃない。それと、あんな走りで私に勝とうなんて100年早いわね」
「その言葉、体育祭まで覚えてなさいよ」
「ふ、笑止」
何とも余裕の態度のニャン。
とはいえ向こうは、アジア記録保持者でオリンピック指定強化選手。
当たり前といえば当たり前なんだけどさ。
結局学内を見て回るどころではなく、歩くのがやっと。
よろめきながら、どうにか自警局へと戻ってくる。
「また走ってきたの?」
私のふらつき具合と赤い顔。
首から掛けたタオルを見て、そう推測するサトミ。
中等部以来の親友は鋭いなと思いつつ、持ってきたペットボトルのお茶を空にする。
「陸上部の後輩と走ってきた」
「あなた、いつから陸上部だったの」
それもそうか。
言葉足らずどころではなかったな。
「ニャンの後輩と走ってきた」
「それもいいけど、自警局の後輩も面倒見て上げてよ」
「何が」
「何もかもがよ。それとあなた達が出会ったガーディアン達の報告書が届いてる。目を通しておいて」
面倒な事になった。
とは口が裂けても言わず、卓上端末を引き寄せ報告書を読む。
ガーディアンには間違いなく、草薙高校にも籍がある。
ただ御剣君が言っていたように、他校出身者。
特に問題行動があったとも、注意人物であるとも書いてない。
「結局あれは、なんだったの」
「前もあったでしょ。人間権力を握れば、変わるものよ」
「そんなものかな」
「優には縁のない話じゃなくて」
そんなものか。
今の私は、一応自警局の幹部。
多分権力も握っているはず。
だけど自分では以前と何も変わってないし、周囲の扱いも同様。
権力の大きさに気づいてないだけかもしれないが。
「ちょっといい?」
「え。俺ですか」
だれもいないドアの前で、自分の顔を指指す小谷君。
これが、私に対する後輩の態度だ。
「俺なのよ。そこ座って」
「はぁ」
どうにも気まずそうな態度。
怒られるとでも思ってるのかな。
「今の学校ってどう」
「漠然としてますけど、それほどは問題ないでしょう。規則の面は、改良の余地がありますけどね」
私と大きくは違わない考え。
とはいえむやみに憤る訳ではなく、あくまでも冷静。
次期局長という話も頷ける。
「私に出来る事ってある」
「え。まだ何かするんですか」
「迷惑って言いたいの」
「一度退学になってるんですよ。少しはおとなしくしてた方がよくありませんか」
気遣うような事を言ってくれる小谷君。
本当、だれが先輩かという話だな。
「私は役に立たない?」
「そういう訳ではないんですが。あまり頼り過ぎるのもどうかと思って」
「頼り過ぎ」
「俺は雪野さん達程優秀ではないですけど、先輩に頼ってばかりもいられませんよ」
そう言って笑う小谷君。
私もそれに頷き、納得をする。
先輩として出来る事を考えるののいいけど、後輩離れをするのも大切なのかもしれない。
どうも思った通りにというか、意識の向けどころが定まらない。
明確な敵がいた以前は、そんな事を考える必要もなかった。
暴れる生徒を拘束し、横柄な教師を放逐し。
横暴な理事と対峙する。
でも今は、明確なこれと言った相手がいない。
不満ばかりが、ただ募るばかりで。
「お茶、どうぞ」
そっとマグカップを差し出してくれるエリちゃん。
私の方が頼ってばかりだなと思いつつ、それに口を付ける。
「卒業を前にして、焦ってるとか。そういう事ですか」
自分でも思って無かった事を指摘する小谷君。
別になにも焦ってはなく、卒業自体を現時点では強く意識していない。
心の奥底では、もしかして違う事を思ってるかも知れないが。
「そうでもないけどね。半年間ここにいなかったせいか。疎外感じゃないけど、ブランクも感じてて」
「ごく普通に馴染んでますよ」
「そうかな」
「どうも不安定ですね」
今更そんな事を言われても困る。
というか、私が安定していた時はあったのかな。
少し冷めてきたお茶を飲み、改めて考える。
そもそも自分が、この学校へ戻ってきた理由。
単なる懐かしさ、郷愁。
多分深く考えてもいなかったと思う。
以前はここに通っていて、仲間も大勢残っている。
だから自分も、もう一度。
そのくらいの気持ち。
自分自身でそれを否定する気はないが、強い目的意識が無かったのは確か。
無論戻って悪い理由はないが、敢えて戻る必要が合ったのかと聞かれれば少し困る。
気付くとソファーへ横になり、タオルケットを掛けられていた。
これには、さすがに自己嫌悪に陥る。
人と話をしていながら寝るとは、言語同断としか言いようがない。
顔を上げても小谷君は当然おらず、周りを忙しそうに人が行き交っているだけ。
改めて、自分の駄目さ加減を痛感した。
「起きたわね」
笑い気味に声を掛けてくるモトちゃん。
欠伸混じりに頷き、タオルケットを畳んで首を振る。
意識はまだ完全に覚醒して無く、体も重い。
そもそも、調子に乗って走った時点でこうなるのは分かっていた。
短慮、なんて言葉が脳裏をよぎる。
「目、大丈夫?」
「何が」
「最近、また思い詰めてるみたいだから」
「特に、今のところは」
予兆めいた物は感じず、快調とは行かないがそれなりに見えてはいる。
ただモトちゃんが言うように、少し安定を欠いてるのは確かだと思う。
そうなるとここへ戻ってきたのが、良い選択だったかは少し疑問。
以前の学校では、ここまで負担に感じる出来事はまず無かった。
それが多少なりとも視力の回復に繋がったのは間違いなく、だけど今は負担の連続。
とはいえ今更戻る事が出来る訳もなく、自分の考えの浅さを恨むだけだ。
「少し休んでみたら?」
「ガーディアンを?それとも、学校?」
「どちらでも。休むのが負担になるなら、無理にとは言わないけど」
「そこまで思い詰めてる訳でもないけどね」
これはあくまでも、私の意見。
冷静に外から見ているモトちゃんの意見ではない。
休む、か。
正直良い選択肢とは自分では思えないが、安定を欠いてるのは間違いない。
体面を気にしている場合ではないだろう。
「少し考えておく」
「それと、もう終業よ。帰る準備しておいて」
タオルケットを抱えて去っていくモトちゃん。
結局今日は、一日寝ていただけか。
家に戻ってご飯を食べ、目薬を差す。
やはり今のところ問題はなく、暗さも感じない。
ただ悪化するのはいつも突然。
次の瞬間目の前が暗くなっても不思議ではない。
こうして考える事自体、あまり良くないのだけれど。
「調子悪いの」
「え」
上から私を見下ろすお母さん。
自分はといえば、ソファーの下で直接床に座り込んでいる。
座って悪い場所ではないが、敢えて座るところでもない。
「どうも最近、不安定ね」
お母さんからも出てくる、この言葉。
どうやら自分で自覚してる以上に問題がありそうだ。
「不安定って何が」
「急に黙ったり、難しい顔したり。悩みでもあるの」
「さあ」
具体的に何という悩みではない。
かなり漠然とした、とりとめのない不安。
後は己の力の無さ、頼りなさを痛感してるに過ぎない。
そうする内に再び押し黙り、自分の心の中に沈み込んでいた。
元々そういう傾向はあるが、最近はそれが多いような気も自分ではする。
「悩まないよりは良いけどね」
「そうかな」
「悩みなんて何もありませんって、どこの王様よ。人としてあり得ないわよ」
妙に力強く断言するお母さん。
ただ言いたい事は、私にも分かる。
生きていれば大きい小さいはあるにしろ、何かの問題にぶつかる。
それが必ず解決出来るとは限らず、心の負担となってのし掛かる。
もし悩みのない人がいるなら、その問題を誰かが全て片付けてくるか気付いてないだけだ。
私としては人としてあり得ないとまでは思わず、少し羨ましいなと思いもする。
その気楽さ、不安のない生き方に。
自分にとってはあり得ないとは分かっていても。
翌日。
学校に登校し、教室で筆記用具を揃えていると周りが少しざわめき出した。
何かと思う間もなく、理由が向こうから歩いてきた。
顔を伏せ、だるそうに歩くケイ。
その隣で、周りに愛想を振りまきながらヒカルがやってくる。
「どうしたの」
「ちょっと時間が出来たから、たまにはと思って。朝は、気持ちの良い挨拶から始まるね」 どうやら正門の挨拶運動に感化された様子。
いたな、ここに。
おおよそ不安も何も感じてなさそうな人が。
「ヒカルって、何か悩みはある?」
「僕も人間だからね。悩みの一つや二つはあるよ」
「例えば」
「この質問にどう答えれば良いのかな、とか」
なんだ、それ。
結局答えるような悩みが無いって事じゃない。
ただこの人も飛び級で大学院に進学している訳で、苦労は積み重ねているはず。
人並み以上に、問題には直面もしてると思う。
それを負担だと口にしたり、私達にそう感じさせた事は今まで無いが。
「ユウは、悩みでも?」
「色々あって困ってる」
「悩み多き思春期だね。何もないよりは良いと思うよ」
明るく笑い、後ろの席へ向かうヒカル。
相変わらず神々しいというか、突き抜けてるな。
「ケイは」
「この世の全てに、矛盾を感じてる」
誰も、そんな事は聞いてない。
教室を移動し、理科実験室へとやってくる。
思い出される事はいくつもあり、少し呼吸が浅くなる。
念のため、もう一度目薬は差しておこう。
「カエルの解剖でもやるのかな」
いきなり、嫌な事を言い出すヒカル。
そんな事をされたら、ストレスどころの騒ぎじゃない。
というか、退学しても後悔しない。
「せいぜいフナだろ」
「何がせいぜいなのよ」
「ゲコゲコうるさいぞ、カエルは」
妙に楽しげに話し出すケイ。
まさかと思うが経験者か、この男。
「麻酔くらい掛けるわよ」
不意に話へ割って入るモトちゃん。
顔色が悪いのは、決して気のせいではないだろう。
何となく空気が重くなっているところで、理科の教師。
この場合は、モトちゃんのお母さんがやってくる。
彼女は実験専門の講師。
私達も週に一度くらいのペースで合っている。
「今日は、味覚について実験してみましょう」
その台詞に胸を撫で下ろし、目元を押さえる。
今は結構ストレスが掛かったと思うけど、異変はない。
これならもう大丈夫。
なんて油断していると急に悪くなりそうなので、過信はしない。
実験用のテーブルに置かれる、塩と砂糖。
確かに味覚の実験っぽいけど、味気ない事この上ないな。
「やる事は簡単です。ビーカーに水を注いで、塩を入れて下さい。それを舐めて、さらに塩を入れる。その繰り返しです」
「順応の実験ね」
説明を聞くより先に呟くサトミ。
何をやるかはともかく、塩水を飲みたくはないのでビーカーをケイの前へと持って行く。
「飲まないぞ」
「無理矢理飲むのと自分で飲むのと、どっちが良いの」
「悪魔め」
まさか、この人にそんな事を言われるとは思わなかった。
どこかに、劇薬とか無いのかな。
底の方に塩がどっぷりとたまり、ケイが何も言わなくなったところで一旦止める。
「味は?」
返事もないと来た。
あまり役には立たないな。
「では今度は別なビーカーに水を注いで、砂糖を入れて下さい」
「……それは塩だ」
さすがにめざとく見つけるケイ。
仕方ないので砂糖水を作り、彼へと渡す。
「あー」
砂漠を彷徨い、オアシスで水を飲んだ人が多分こんな声を出すと思う。
心底なんて言葉がよく似合う響き。
「順応と閾値の実験だけど、あまり意味ないわね」
「何が?」
「良い匂いでもずっと嗅いでると、匂いを感じなくなるでしょ。それは順応、つまり匂いに慣れたという事。それと刺激が一定以上だと、それ以上は同じ。そのラインを閾値というんだけど」
分かったような分からないような話。
私達はがぶがぶ塩水を飲ませただけなので、どう変化したのかが理解出来ない。
「どうかしたの?」
怪訝そうに声を掛けてくるモトちゃんのお母さん。
でもって塩のたまったビーカーを見て、ため息を付いた。
「飲めとは言ってないわよ、誰も」
「全員退学にさせて下さい」
「そういう権限は、私にはないの。気分が悪いなら、胃洗浄でもする?ホースを用意するけど」
ごく普通の口調で尋ねるおばさん。
それは見てみたいけど、見たくないな。
「大丈夫だと思うけど、調子が悪くなったらすぐに言って」
「ホースは飲みませんよ」
「死ぬよりは良いでしょ」
嫌な台詞を残して去っていくおばさん。
ただたわいもない事をやってる間に、少し気分は軽くなった。
今の事だけだとしても、この気持ちを否定する理由は何もない。
気分の良いまま昼食を食べる。
焼きおにぎりとサンマの唐揚げ。
お吸い物は、小さな松茸が浮かんでいる。
これだけで秋を満喫した気分。
デザートには栗饅頭も付いていて、言う事はない。
「のんきな女だ」
陰気に笑い、おかゆをすするケイ。
さっきの塩水が、余程堪えたようだ。
「何がのんきなの」
「それはとぼけてるのか、分かってないのかどっちかな」
「分かってないから」
「やっぱり、つくづくのんきだな」
改めて言われなくても良いし、分からないから聞いている。
何より、せっかくの楽しい食事。
変な事を考えながら食べたくはない。
ケイはおかゆを食べる気も無くなったのか、土鍋ごとショウに譲ってお茶を飲んだ。
「この前、ガーディアンを捕まえただろ。その前は、SDCの揉め事にも首を突っ込んだ」
「あったね、そんな事も」
言われみて、今気付いた。
私の中ではすでに過去の話だが、どうやらそうでもないらしい。
「生徒会長や総務局長にも怒鳴り込んでるし、目に余る行動が多い」
「それは私が悪いの?」
「相手が悪いと思えば悪いんだろ」
なるほどね。
その辺はそれぞれの理屈、捉え方の違いか。
とはいえ、私から譲る気は毛頭無いが。
「だけど、ユウには矛先が向いてない。何故か」
「知らない」
「言うまでもない。もっと他に、気に障る人間がいるからさ」
一斉にケイへ集まる視線。
誰が気に障るってこの人以外にいないだろう。
「……俺は関係ないんだ」
即座に否定するケイ。
だったら他に誰もいないじゃない。
食堂で話す事でもないと思ったのか、そのまま自警局へ移動。
会議室に集まり、話の続きを聞く。
「この中で、前期も学校にいたのは」
手が上がるのはモトちゃんと木之本君。
私達は上げようがない。
「矛先が向くとすれば、この二人。ただ、二人はここに留まる事が多い。となれば、誰が目立つ」
「……実際に活動している1、2年生?」
「必然的な流れだよ」
そういって話をまとめるケイ。
確かに前期に私達は学校におらず、目立ちようがない。
それこそ、話題にすら上らなかっただろう。
逆に1、2年生は、何かにつけて目に付いたはず。
自警局という性質上、余計に。
「大攻勢を仕掛けてくるとか、学校の非主流派と組んで何か仕掛けるとか。噂はいくらでもある」
「放っておくの」
「基本的に1、2年生が自分で招いた事だ。俺達が口を出しても仕方ない。見守る以外に、何が出来る」
彼らしい、突き放した物の考え方。
言わんとしている事は分かるが、感情としては納得出来ない。
ただ分かってなかったのは私くらいの様子。
サトミもモトちゃんも、それは承知済みという顔。
木之本君は何も言わず、ショウも黙って床を見つめている。
「本当に何もしなくて良いの?」
「どうしてもとなれば、勿論手は差し伸べる。でもケイ君が言ったように、彼等自身で解決する事もまた大切なのよ」
「分かるけどさ」
モトちゃんが言っているのは理屈。
それが正しいのは分かる。
ただ私は感情で物を言っているので、話が噛み合う事はない。
何より、それなら私達の存在は何なのかという話。
曲がりなりにも彼等に先輩と呼ばれ、時には慕われ。
だけど肝心な時に何もしないなんて。
そんな事で良いんだろうか。
「まあ、俺達があまり前に出すぎてもな」
やはり否定的な意見を述べるショウ。
いわゆる後輩に後を譲るという考え方。
私達は、半年後には卒業。
その後は、手を貸したくても貸す事は出来ない。
だから敢えて見守るしかないという。
「それに、困ってる訳ではないんだから」
物言いたげな私を見て、そう声を掛けるモトちゃん。
確かに彼等から、困ったという話を聞いた事はない。
実際能力的にも、大抵の事はこなせるはず。
渡瀬さん達は学校との抗争にも参加してきて、修羅場の経験もある。
私が勝手に気を病んでも仕方は無く、それは単なる空回りに過ぎない。
「雪野さん、優しいから」
唐突に呟く木之本君。
それを聞いて、吹き出すケイ。
もう良いんだって、それは。
「優しいっていうかさ。何のために普段先輩だ後輩だって言ってるのかと思って」
「分かるけどね。それにいざとなれば、僕達も黙って見てはいないよ」
「いざってならないと、駄目なの?」
「みんなが言うように、僕達が前に出すぎるのは控えた方が良いと思う」
結局話はそこに行き着く訳か。
肝心の後輩はどう思ってるか、一度それとなく聞いてみよう。
数人を会議室へ呼び寄せ、話を聞く。
で、どうやって何を聞く。
「最近、調子はどう?」
頼りにならないと思ったのか、無難なところから切り出すサトミ。
私だって、そのくらいの事は言えるんだって。
後になって思えばさ。
「問題ないですよ」
「困ってる事は?学校の事や生徒会の事で」
「別に、何も」
「ほら、ユウが戻ってきたからみんなも負担に感じてると思って」
なかなかに良い言い訳。
なんて思えばいいのかな、私は。
「特に、それ程の変化も無いですよ。むしろ助かってるくらいです」
朗らかに答える渡瀬さん。
それに気をよくして、彼女の頭を軽く撫でる。
ケイがなれ合いだと呟いてるが、気にしない。
「御剣君は、どう?」
「俺も、これといって。どうかしたんですか」
「私だって、後輩を心配する気持ちはあるわよ」
「へぇ」
世にも奇妙な言葉を聞いたという顔。
サトミがそこまで冷酷とは思えないが、後輩を心配すると口にするタイプとも思いづらい。
渡瀬さん達はともかく、中等部で一緒に過ごしてきた御剣君からすれば別な意図があると疑りたくもなるだろう。
「何か不満でも」
「いえ、滅相もない」
そういう態度が問題だっていうの。
少し気まずくなったところで、モトちゃんが話を引き取る。
「私達も来年には卒業でしょ。だから、あなた達に少しずつ権限を委譲していくつもり。だからその気構えや覚悟を持って欲しくて」
さすがモトちゃん。
すぐにぼろを出したサトミとは雲泥の差だな。
でもって、私を睨むのは止めてくれるかな。
「後を引き継ぐ程の力もないですけど、現状維持なら何とか」
消極的というか、何とも彼らしい事を言う小谷君。
モトちゃんはその言葉に深く頷き、彼の言葉を受け止めた。
内々では、次期自警局長は彼。
候補は他にいなくもないだろうが、ここまでバランスが取れた人は他にいない。
また人当たりも良く、あちこちでぶつかりあう事もない。
モトちゃんの穏健な路線を引き継ぐには申し分ない人材だと思う。
神代さんや緒方さん達は事務方になるとして、問題は以前のF棟隊長。
ガーディアンの筆頭を誰にするか。
それは彼等が決めれば良い事ではあるが、ポジション的にはガーディアンの象徴。
組織の顔の一つでもある。
実力的には御剣君で申し分なく、あの風間さんでも勤めていたくらいなので問題は無い。
不安定要素は、これでもかという程存在するが。
ようやく空気が和み、何となく雑談モードに。
自然会話は私達の先輩の話となる。
「塩田さんとか物部さんくらいだからね、私が先輩だって思える人は」
天満さんや大山さん達もいるが、ガーディアンに限定すれば彼等くらい。
基本的に先輩後輩という付き合いは無く、特に上からは疎まれていた。
「結局上が頼りないと苦労するんだ。駄目な先輩がいると、余計に」
自分の事でも言ってるのかと思ったが、どうやら違う様子。
例により、塩田さん批判らしい。
懲りないな、この人も。
ケイは机に腰掛け、渡瀬さん達を見ながら熱弁を振るい出した。
「どうして俺達が、こんなに苦労してるか分かる人は」
「学校や生徒会に問題があるのでは」
生真面目に答える真田さん。
ケイは半笑いで首を振り、自分が座っている机を手で触れた。
「昔、すぐにこういうところに座りたがる馬鹿がいた。当時は連合がまだ存在してて、大切な時にその男は議長を務めていた。そいつに問題があった」
「問題?」
「とにかく使えない奴だった。その辺はほっつき歩く、暴力は振るう、仕事はしない。女に振られて泣く。ああいう輩がいたからこそ、後輩である俺達は辛酸を舐めている」
全然違うと思うけど、本人は気持ちよく喋ってるし放っておこう。
というか、未だによくここまで恨めるな。
「あの下忍こそが、諸悪の根源。災厄をまき散らした張本人なんだ」
「そういう事は、ご本人に言ってみては?」
「言って分かるような奴じゃないんだ、あの下忍は。ああなっては駄目だっていう良いお手本だよ」
「お前が言うな」
後ろ回し蹴りを首に食らい、そのまま床に倒れるケイ。
気付くと塩田さんが、倒れた彼の傍らに立っていた。
ドアが開いた気配はなく、こういう話をしていたので予感はあったが何の予兆も感じなかった。
隠業の技は、相変わらずだな。
「死ね、死ね。一生呪われろ」
「呪われてるのはお前だろ。それで、何の話だ」
「あんたが役立たずだったから、俺達は今でも苦労してるって話ですよ」
「それは俺だけの責任でもないぞ。俺の先輩が悪いんだ」
さらに転嫁される責任。
お互い、自分が悪いって発想はないのかな。
でもって必然的に、全員の注目はその塩田さんへと集まる。
「大学はどうしたんです」
「時間が空いたから見に来ただけだ。先輩として」
「先輩」
醒めた口調で繰り返すサトミ。
そういう反応も無いと思うが、彼が来て解決する事も特にはない。
頼りになる先輩ではあるにしろ、誰しも決して万能ではない。
まして彼に頼りっっぱなしというのも、今更ながら気が引ける。
そこでふと思う。
渡瀬さん達は、こんな心境なのかと。
別に不満があったり、駄目だと考えてる訳ではない。
ただ私達は自分の足で、もう歩き出している。
その事を、彼女達も言いたかったのかも知れない。
私自身が本当に、そこまで自立しているという意識はないが。
だからこそ余計に、自分の足で歩きたいとも。




