39-7
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翌日。
バスに乗り込み後ろや左右を気にするが、特に近付いてくる車はない。
仮にあったとしても、今は走行中。
止まらない限り、飛び降りる事は出来そうにない。
「昨日、事故があったって。その後生徒が飛び降りて、相手の車を燃やしたらしいよ」
「聞いた、それ。誰なの、一体?」
「小柄で棒持ってるらしい。怖いわよね」
乗客が立ちふさがって、誰が言っているのか全く不明。
まさに、小柄故の話だな。
結局これが、世間の評価。
私の意図やそこに至った理由は、どうでもいい。
最も目に付く出来事が取り上げられ、それ以外は顧みられない。
後は面白おかしく尾ひれが付き、気付けば違う次の話題に取って代わられる。
勿論、私の意志とも関係無しに。
とはいえそれも、今に始まった話ではない。
ここで暴れて解決する話でも。
当たり前だが、そんな事をするつもりは初めから無いが。
「草薙中学、草薙中学。草薙中学をご利用の方は、ここでお降り下さい」
雪崩を打ったように降りていく生徒達。
自分が降りるのは次のバス停だが、出口付近に立っていれば流れに乗って降りる以外にない。
それにせいぜいバス停一つ分。
歩いて苦になる程でもない。
乗れていた方が、良いには良いが。
ただそれは、草薙高校に通う生徒の場合。
外に押し出された大人達は、苦い顔で再びバスに乗り込んでいく。
これももしかすれば、草薙中学や高校の悪評につながっているかもしれない。
生徒達は、多分意識もしない。
自分達のした事、その影響を気にも留めない。
だが実際は、こうして迷惑を被ってる人もいる。
その声が発せられない。
もしくは、届かないだけで。
相変わらず挨拶の呼びかけをしている正門前。
それを遠くから眺め、ふと思う。
これもやはり、意図の問題。
本人達はよかれと思ってやっている。
ただ私のように、ここまでしなくてもと考える生徒も多いはず。
などと、あまり朝から考え込んでいても仕方ないが。
正門へ向かうとその声が少しずつ小さくなり、やがて周りは静寂へと包まれる。
挨拶の声は止み、正門前にいた生徒や教職員は完全に顔をそらすか伏せてしまう。
何があったのかと思ったら、どうやら私に対する反応。
昨日の一件が、尾を引いているようだ。
言いたい事は山ほどあるが、それでは心証を余計に悪くするだけ。
とはいえ愛想を振りまく気分にもなれず、不機嫌な顔で正門を通過する。
その途端後ろから聞こえてくる挨拶の声。
戻って一言くらい言った方が良いのかな。
さすがにそこまで恥ずかしい真似はせず、大人しく教室へとやってくる。
席について筆記用具を並べていると、女の子が3人近付いてきた。
「今度は何やるの」
今にも笑い出しそうな、髪全体にウェーブの掛かったお嬢様風の女の子。
何の話かと聞き返すのも馬鹿らしく、迂闊に答えては恥を掻くだけだ。
「新聞部や報道部が騒いでたわよ。取材のために、化粧する?」
リップを取り出す、前髪にウェーブの掛かった優しげな顔立ちの女の子。
その手を強引に押し返し、少し脇に汗を掻く。
「失敗したなって思ってる?今更、思ってる?」
何故か二度言う、清楚な顔立ちの眼鏡を掛けた子。
確かにそれは今更で、中学校からの自分達の行動を振り返るまでもない。
来年にはもう卒業。
それこそ、気付くのが遅すぎる。
「私の事は良いんだって。大体、済んだ話でしょ」
「そう思ってるのは、雪野さんだけじゃないの」
「え」
にやにや笑いながら自分の席へ戻る3人組。
背中にも冷たい汗が一気に流れ、めまいがしそうになる。
私の中では、もう済んだ話。
だが彼女達が言うように。
また周りの反応のように、実際はまだ済んではいない。
事態としては仮に終わっていても、噂や評判が広がるのはむしろこれから。
とはいえ、それを気にしていても始まらない。
人は人、自分は自分。
間違った事はしていないんだから、堂々と胸を張っていればいい。
そう思ってるのが、私一人だけなら問題だが。
やがてHRが始まり、村井先生が私を睨みながら伝達事項を伝えてくる。
別に睨まれる覚えはなく、こちらも対抗上即座に睨み返す。
いや。睨まれる覚えは、いくらでもあるか。
「最近他校とのトラブルが多いと聞いています。各自自重して、草薙高校の名を汚さないように」
自重する方が名を汚すのではと思うが、それは私の考え。
冷静に振る舞うに越した事はない。
「返事は」
静かな教室内。
少し集まる視線。
どうやら、私一人に向けられた言葉のようだ。
「汚した事は、一度もありませんよ」
「言い切れるの?」
「言い切れるから、ここにいるんです」
後ろの方で聞こえる笑い声。
自分としては良い事を言ったつもりだが、人によっては笑い事でしかなかったらしい。
村井先生は何か言いたげにバインダーを振り、しかしそれは言葉にはせず教室を出て行った。
「感動したのかな」
「あり得ない事言わないで」
一言で却下するサトミ。
もう少し、優しい言い方があっても良いと思うけどな。
「今回の件に付いても、少しは反省をしたら」
「反省って、何を」
「たまにすごいわね、あなた。羨ましいわ」
校内一の天才美少女に、憧れを抱かれた。
もしくは、心底呆れられた。
どちらにしろ、滅多にある事では無いと思う。
私に関しては、頻繁に起こっているが。
特に、後者については。
一時限目は古文の授業。
枕草子か。
いまいち自画自賛傾向が強くて、好きではないんだけどな。
とはいえ源氏物語みたいに、馬鹿な男の話も疲れるけど。
「……しどけなし」
古文というくらいで、今は使われてない単語や意味の変わった単語も多い。
同じ日本語でも、辞書が必要なのは少し不思議な気もしてくる。
「だらしない、か」
冷房も無い、暑い時期の随筆。
お姫様達がだらしなくなるのも当然で、庶民の私は言うまでもない。
「雪野優は、いとしどけなし」
取りあえずスティックを抜いて、後ろに突き刺す。
それはケイの鳩尾をしたたか捉え、彼がしどけない様となった。
「馬鹿じゃないの」
「そこ、どうかしましたか」
「全然。お腹が痛いみたいです」
手を挙げて、ケイを指さすサトミ。
年配の教師は彼にトイレへ行くよう勧め、淡々と授業を進めていく。
「何してるんだ」
「たまにはストレスを発散させないとね」
そうショウに答え、スティックを畳んで机に置く。
本当、これは何かと重宝するな。
休憩の時間。
スティックを伸ばし、ロッカーの下のスペースを掻き出す。
ペン、消しゴム、ペットボトルのふた。
「無いわよ」
無慈悲に言ってくる眼鏡っ子。
こう言うのは、ホウキでやってくれないかな。
「出てこないから、無いんじゃないの」
「転がっていったのは見たの」
「金属だよね」
手首を数度返し、電磁石を作動。
改めてスティックをロッカーの下に滑り込ませる。
奥の方で小さな音。
釣りなら、軽い手応えといったところ。
そのままスティックを引っ張り出すと、先に猫のキーホルダーが付いていた。
「これ?」
「そうそう。さすが雪野さん、頼りになるわね」
満面の笑みで褒めてくれる眼鏡っ子。
こういう事のために、このスティックは作られたんじゃないんだけどな。
「雪野さん、これ開けて」
前髪にウェーブの掛かった女の子が差し出したのは、指先ほどの小瓶。
私の手にあったサイズではあるけど、これを開けるだけの力はない。
「ショウに頼んでよ」
「蓋がないから、開かないの」
確かによく見ると、蓋の形状はしているがそこも瓶の部分と結合している。
「危ない物じゃないよね」
「中学生の頃に書いた手紙。昔はやったのよ」
タイムカプセルみたいな物だろうか。
とにかく瓶を机の上に置き、スティックを腰にためて横へ薙ぐ。
スティックが通り過ぎると同時に瓶の上が机に落ち、どうにか中の手紙は破らず済んだ。
「本当、頼りになるわね」
「で、何が書いてあるの」
「教える訳ないじゃない」
おい。
いっそこの子を輪切りにしてやろうかな。
スティックをしまおうとしたところで、お嬢様風の子もやってきた。
「もうやらないわよ」
「何の話?それより、署名だって」
「保証人?」
「年中意味が分からないわね」
せめて、たまにと言って欲しいな。
彼女が机に置いたのは、草薙高校の分校設立反対を呼びかける署名。
私は反対する理由がなく、ペンを出す前に突き返す。
「誰、これを回してるのは」
「エリート意識が強い子でしょ。まずは北部に一校。東西にも一校ずつ。三河地区や岐阜三重にも作るらしいから。そんなにあると、希少価値がなくなるじゃない。草薙高校の生徒ですっていう」
「ふーん」
破り捨てたくなってきたが、それは事前に察知したらしく彼女は雑に他の子へ署名を回した。
せめてもの救いは、殆ど空欄だった事。
そしてこのクラスメートは、誰も書き込もうとしないところ。
でもって、書き込もうとした男にさっきの瓶を投げつける。
「危ないな」
「書かないでよ」
「俺はここの生徒じゃないんだ。学校が減ろうが増えようが関係ない」
だったらそれ以前に、署名自体が無効じゃない。
相変わらず、根本的に意味不明だな。
どうも嫌な感じ。
ケイがとか、私の目がではなく。
今の学校の雰囲気が。
ただ流れに逆らうのは、私も彼等も同じと言えば同じ。
現状を受け入れようとしない点においては。
そう考えると、頭から彼等を否定も出来ないか。
「考えごと?」
SDC本部内の、代表執務室。
そこで何をするでもなくソファーに座っていると、ニャンに声を掛けられた。
「練習は?」
「グランド整備で、今日は外を使えないの。筋トレは済ませてるし、今日は休養日ね」
軽く伸びて、私の隣に座るニャン。
彼女も当然悩みや苦悩は抱えていて、多分それは私のそれとは比較にならない程大きな物だと思う。
何しろオリンピックの指定強化選手で、今は国内の第一人者と言っても良いくらい。
その期待や反感は想像するに余りあり、ただ彼女は思い悩んでる姿を見る事は殆ど無い。
せいぜい試合前に集中する時、多少ネガティブになる程度で。
「何?」
「いや。ニャンはいつも落ち着いてるなと思って」
「ユウユウがいつも落ち着いてないだけじゃないの」
「あのね」
否定しようと思ったがその根拠が見つからず、もごもご言って適当にごまかす。
この時点で、まず落ち着いてないな。
「黒沢さん達の事。全然護衛も何もしてなかったな」
「忙しかったんでしょ。色々聞いてるわよ」
「忙しいというか、それこそ色々あってね。私は何の役にも立たないな」
「良いじゃない、別に。役に立たなくたって。私なんて、走ってるだけよ」
そう言って、明るく笑うニャン。
確かに彼女が走っても、学内の秩序は改善されないし他校からの中傷が減る訳ではない。
なにより根本的に、目的の部分から違っている。
彼女はあくまでも自分のために走っている。
それが結果として草薙高校のためであったり、スポンサーのためであったり、日本のためになりはする。
ただ彼女自身は、自分のために走るという意識を持っている。
身勝手と言えば身勝手。
逆に何の言い訳も出来はしない。
自分のために走るからには、その結果を自分で背負い込む必要がある。
つまり、誰かのせいと言い訳をする余地がない。
その潔さが、私にはただ眩しい。
ふと額に感じる、心地良いぬくもり。
顔を上げると、ニャンが手の平をそっと添えていた。
「熱は、無いわよね」
「どうして」
「重い顔をしてたから。大丈夫?」
私が時々内向的。
気持ちが内向きになるのは、彼女も知っている。
それでもこうして心配をしてくれる、その気持ちが心に染みる。
「大丈夫。自分の小ささを噛み締めてただけ」
「今更?」
「いや。そういう意味じゃなくて、精神的に小さいなって」
「余り気にしすぎない方が良いわよ。ユウユウって、変に思い詰めるから」
変と言われても困るが、思い詰めるのは確か。
とはいえ改める事は、多分出来そうにない。
「何とかなると思うよ」
唐突にそう呟き、不審そうな顔で見つめられる。
確かにこれでは、私自身ですら何を言ってるか意味が分からない。
「まあ、いいや。黒沢さんは?」
「ボクシング部に行くって。見に行く?」
「一応、そのために来たからね。役に立たなくても、いないよりはましでしょ」
「その辺は言いたい事だらけだけど」
なにやら嫌な言葉を残して立ち上がるニャン。
その辺とやらをじっくりと聞きたくもあり、聞きたくもないな。
やってきたのはボクシング部の練習場所ではなく、部室の方。
壁には試合のポスターがいくつも並び、中には戦前のも混じっている。
基本的には高校の試合だが、プロになった卒業生のポスターもちらほらと見える。
これを見て今気付いたけど、柳君のポスターってあるのかな。
一度、水品さんに聞いてみよう。
「何してるの」
ぼんやりしてたとは答えず、奥へ進んでいったニャンの後を追う。
部室と言っても服を着替えるそれとは、また別な様子。
事務室的な機能を持つ場所らしく、小さな会社の事務所といった感じ。
中には端末でチケットを延々と売り込んでいる子もいて、少しもの悲しくなってくる。
今から営業も、どうかと思うな。
企業からすれば、将来有望かも知れないけどね。
「何しに来たの?」
私の顔を見るなり、すごい事を言い出す黒沢さん。
まさか私が、年中暴れると思ってるのかな。
「見に来ただけだって。交渉は?」
「検討はするって」
小声で答える黒沢さん。
ソファーに座っている彼女の前にいるのは、がっしりとした体型の大男。
クルーザーか、ライトヘビー。
典型的なインファイターの雰囲気を醸し出していて、今も拳にはバンテージを撒いている。
黒沢さんは改めて話を切り出し、協力を申し出た。
しかしおそらく部長らしい相手は、いまいち反応が薄い。
ますます営業じみてきてるな。
「何が問題なのよ」
思わず声が漏れ、黒沢さんに睨まれる。
今はまさに、敵を見る目付き以上だったな。
「どなたですか」
「自警局自警課特別……。特別、何?」
「特別室室長」
淡々とフォローするサトミ。
なるほどねと思い、多分覚えるはもう少し先だろうなとも思う。
「直属班の方が、何かご用でも」
「友達として来てるだけよ。それより、黒沢さんに協力しないってどういう事」
「SDCはあくまでも親睦会。意見は多様でも問題ないでしょう」
インテリタイプか。
格闘技をやるなら理屈抜きでとも言いたいが、緻密に色々考えた方が強くなるのは確か。
考えすぎ。
理論ばかりでは、どうしようもないが。
私の考えを読み取ったのか、咎めるような視線を向けるサトミ。
私だってそれを口にするほど馬鹿ではない。
馬鹿な時は、無くもないが。
「そういう訳ですので、お引き取りを。改革派に協力する気も無いですが、現状が良いとも思ってないので」
「分かりました」
あっさりと説得を諦め、席を立つ黒沢さん。
まずは顔を繋いで、話を盛り上げ、商談に持ち込むのは5回目から。
なんて言い出すつもりかな。
「何よ」
「いや。今来たんだから、今説得すれば良いのにと思って」
「本当に、落ち着いてよ」
私の肩に手を置き、懇願するように顔を覗き込んでくる黒沢さん。
信用度0どころか、完全にマイナスだな。
その彼女を後ろに下がらせ、まだ座っているサトミの隣に腰を下ろす。
この子が座っているからには、何か理由があるはず。
ただ相手を言い負かすなら、もう決着は付いていてもおかしくはない。
何かを待っていると考えるべきか。
それとも、やっぱり私が一暴れ。
「ユウは何もしなくていいのよ」
笑顔で。
見ている相手が凍り付くような笑顔で語るサトミ。
この辺は付き合いの長さか、ニャンが一足先にスティックを背中から持って行く。
本当、良く出来た友達だ。
幸い暴れるような事も無く、頬をはらした部員が駆け込んでくる。
部長は席を立ち、彼の肩に手を置いた。
「結果は」
「勝ちました」
「良くやった」
それこそ、小躍りでもし始めそうな部長。
席へ座ったままのサトミは、薄い笑みを浮かべて彼等を祝福しながら口を開いた。
「対抗戦での勝利なら、部費の増額も期待出来そうですね」
「交渉次第ですよ。材料の一つではあるけれど。代表、その辺りも含めてお願いします」
随分虫のいい話だなと思うが、ここで私が叫んでみても仕方ない。
増額するも減額するも、黒沢さんやSDC内の話。
私にはどうする事も出来はしない。
黒沢さんが曖昧に返事をしたところで、サトミは改めて薄い笑みを浮かべて部長に視線を向けた。
「SDCが独立組織とはいえ、予算自体は予算局から出ています。予算局にお知り合いは?」
「いや。あいにく」
「幸い黒沢さんは、現局長と面識があります。今回の件に関して、特別に報奨金を出して頂く事も可能かと」
口を開けてサトミを見つめる黒沢さん。
サトミはきつく彼女を睨んで反応を抑え込み、前のめりになっている部長に向き直った。
「勿論、今回の事とリンクさせるつもりはありません。あくまでもボクシング部の健闘を祝しての事ですから」
「そ、そうですね」
「予算局には、私が連絡をさせて頂きます。黒沢さん、よろしいですか」
「え、ええ。お願いします」
しどろもどろに答える黒沢さん。
なんか、嫌な展開になってきたな。
「それでは、失礼致します」
サトミの先導でやってきたのは予算局局長執務室。
新妻さんは苦い顔で彼女を見上げ、「却下」と一言呟いた。
ただこのくらいは、当然サトミも予想済み。
勝算がなければ、わざわざ訪ねても来ないだろう。
「私とあなたの仲じゃない」
「そこまで親しいとも思わないけど」
思わず咳き込む黒沢さん。
私からすれば、何も今更という話。
面識はあるが、こういうお願いごとをする間柄では無かったと思う。
「どうしても駄目かしら」
「試合に勝ったくらいで予算を出していたら、明日には破産するわ」
「そこを曲げて」
「曲がらないわよ。それより、ガーディアン削減の件はどうなった?その話なら、いつでも歓迎よ」
横へ裂けるサトミの口。
魔女って、結構間近にいるんだな。
「では10名削減しますので、その余剰分を今回の報奨金に」
「……初めから、その気で」
「よろしくお願いします」
「あなた、後でひどいわよ」
怖い声を出し、それでも書類に署名を書き殴る新妻さん。
このくらいで平常心を乱すとは、まだまだだな。
「良かったわね、黒沢さん」
「え」
「何、あなたも一枚噛んでるの?」
据わった目付きを黒沢さんに向ける新妻さん。
これで彼女の怒りは分散されて、予算がボクシング部に使われるとなればむしろ黒沢さんに向かうくらい。
困った話だな、全く。
などと人ごとのように考えながら、本棚に並ぶ資料を眺める。
当たり前だがマンガなどは置いて無く、年次ごとの予算や収支報告書が並んでいる。
どこかを引っ張ると隠し扉が開くって無いのかな。
「……何してるの」
やはり低い声を掛けてくる新妻さん。
取りあえず目に付いた本へ指を掛け、軽く引っ張ってみる。
「秘密の部屋とか無いの。お札の山が埋まってる部屋とかさ」
「何の話?」
そんなに真顔で言い返さなくても良いじゃないよ。
言ってみただけなんだからさ。
「ここにはないわよ」
にこりと笑い、お茶を飲むサトミ。
新妻さんは席を立ち、手にしていたペンを彼女へと向けた。
「どういう事、それは」
「軽い冗談よ。ユウが言ったのと同じ」
「本当に、一度話があるわよ」
「それはまたいずれ。では、失礼します」
SDCへ戻る前にラウンジへ立ち寄り、黒沢さんを休ませる。
普段サトミはこういう面を表に出しはしない。
それはケイの役目だと考えているのと、ただでさえ近付きがたいイメージをこれ以上強めないためだとも思う。
とはいえ表に出してないだけで、私は年中そんなところばかり見ているが。
つまり驚くような事は特になく、またかと思う程度。
後は、そろそろ冷たいジュースも辛いかなと思うくらいだ。
「大丈夫?」
「何が」
平坦な口調で答える黒沢さん。
どうにも重症だな、これは。
「済んだ事は仕方ないじゃない」
「じゃない?じゃないってどういう意味?」
少し棘のある返事。
知らないわよ、そこまでは。
「次はどこに行く?」
「え」
完全に声を裏返す黒沢さん。
そんなに驚く事を言ったかな。
「今のを、また繰り返すつもり?」
「繰り返しはしないけど、解決はしたでしょ。このペースで回れば、すぐに全部の部活を説得出来るんじゃない?」
「誰が、何を説得したの。それと、じゃないって何」
それはもう良いんだって。
私からすればこのくらい、気にするまでもない話。
ただ黒沢さんは抜け殻になる程で、自分と世間のズレを感じなくもない。
「元野さんはなんて言ってるの」
「知らない。モトちゃんいないしさ」
「いなければ、何をしても良いの?」
「そういう意味でもないけどね。子供じゃないから、いちいちお伺いを立てても仕方ないでしょ」
我ながら上手い事を言った。
ただそう思ったのは私だけらしく、黒沢さんは端末でモトちゃんに連絡を取りだした。
「……ちょっと、ひどいんだけど。……そう、その二人」
ひどいって言う黒沢さんも黒沢さんだが、それで分かるモトちゃんもモトちゃんだな。
実際ひどいんだけどね。
「ここに来られないの?……忙しいのは分かるけど、こんな事してたら破滅するわよ」
なんか大げさな話になってきた。
少なくとも今までは破滅してなかったので、何の問題ないと私は思ってる。
すでに破滅した後なら、知らないけどね。
「……一人、来るって」
「誰。木之本君?」
「忙しいらしいわよ、みんな」
暗に、私達も帰れと言いたげな黒沢さん。
だけど一度付いてくると決めたからには、ここで逃げ出す訳には行かない。
そういう意気込み自体が、彼女にとってはこの上なく迷惑らしいが。
若干気まずい空気。
それを一瞬にして払拭する爽やかな風。
「お待たせしました」
颯爽と現れ、黒沢さんに微笑みかけるエリちゃん。
彼女に何を感じ取ったのか、黒沢さんはすがるような表情で彼女の手を取った。
「何か、ありました?」
私達を見ながらの台詞。
というか、「何か、ありましたよね」なんて顔にしか見えない。
「では、行きましょうか」
「どこへ」
「柔道部とアポイントを取ってあります。条件はいくつか出されましたが、修正後合意は可能かと」
すでに既定事実として語るエリちゃん。
不確定な事を言う子ではなく、言ったからにはこれは決定事項。
仕事が早いというか、有能というか。
冗談抜きで、後輩の背中を見るになってきた。
「誰が認めたの、そんな事。私は認めないわよ」
こういう人は放っておいて、柔道部に行くとするか。
柔道部へ行く間、ずっとエリちゃんに絡むサトミ。
しかし彼女はそれを軽く受け流し、あくまでも自分の正当性は主張する。
柔軟ではあるが軟弱ではない。
性格も良くて優秀で、非があるとしたらお兄さんがヒカルとケイって事くらいじゃないのかな。
「交渉は私達がしてるのよ。それを頭ごなしにされても困るわ」
「予算局から、臨時の予算に関する報告が来てたけど。まさか、脅したり騙したりしてないよね」
「何を言ってるのか、全然分からない」
これ以上分かりやすい言い方もないと思うんだけどな。
そうこうする内に、柔道部へ到着。
場所としては、ボクシング部の部室の隣。
たまたま部室から出てきた部長がサトミを見て、こびるような笑み浮かべて去っていく。
「どういう事かな」
「世の中、色んな人がいるわよ」
「じゃあ、そういう事にしておきましょう。……済みません、SDC代表黒沢の代理ですが」
当たり前だがドアを蹴破るなんて事はなく、インターフォンで呼びかけるエリちゃん。
私達もそこまではしなかったけどね、今回は。
部室内へと通され、席へ座る間もなく署名済みの書類が黒沢さんに渡される。
特に書面は必要ないんだけど、つまりは代表に協力するとの誓約書らしい。
後から言った言ってないにはならず、この辺にも抜かりはない。
「ご協力、ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました」
エリちゃんに釣られて頭を下げる黒沢さん。
そうなるのは分からなくもなく、苦い顔で誓約書のあらを探してるサトミよりは数段ましだ。
柔道部の部室を出たところで、サトミが改めてエリちゃんに食ってかかる。
「何をしたの、一体」
「特別な事は、全然。誠心誠意、粘り強く交渉しただけ」
「その通りよ」
突然声を張り上げる黒沢さん。
その内、地獄に仏とか言い出しそうだな。
「そう言えば、あなたは?」
「申し遅れました。自警局自警課1年、浦田永理と申します」
「浦田?浦田って、あの浦田君と親戚?まさかね」
かなり無理矢理笑いとばしたが、エリちゃんの反応は薄いまま。
あの浦田君の親戚なんだから、仕方ない。
「血縁はあるの?」
それは私も聞きたいが、何度聞いてもあるとしか答えは返ってこない。
容姿はともかく性格などは、似ているところは意外と無くもないけどね。
余程彼女が気に入ったのか、まだ文句を言っていたサトミを押しのけエリちゃんの隣に並ぶ黒沢さん。
そして彼女の肩に置き、妙に優しい声を出し始めた。
「SDCに移籍するつもりはない?部活には所属しなくても良いから」
「私は大した事も出来ませんし、一応ガーディアンですから」
「ガーディアンって、ガーディアンでしょ」
私を見ながら、文句を言いたげに呟く黒沢さん。
SDCとガーディアンは相互不干渉って、考えた人は天才だな。
今すぐスティックを抜きたくなってきた。
「誇りもありますし」
はにかみつつ、しかし毅然と答えるエリちゃん。
良く言ったと肩を叩いて叫びたい気分。
最近は、つくづく後輩の成長が眩しいな。
「エリは次期局長なのよ。どうしてわざわざSDCに」
引き抜き無用とばかりに、エリちゃんを引っ張るサトミ。
その反対側からは、黒沢さんが彼女を引っ張る。
なんだ、これ。
雪野裁きでもしろっていう意味か。
「私を引き抜こうとか、思わないの」
軽い冗談。
話の流れ。
特に深い理由はない。
しかしそう言った途端、黒沢さんはエリちゃんの腕を放して飛び退いた。
そういう態度も無いと思うよ。
「希望でも出してるの?」
青白い顔で尋ねてくる黒沢さん。
だから、止めてっていうの。
「言ってみただけ。でも陸上部に籍を置けば、SDCの傘下に入るって事でしょ」
「無理無理。陸上部は、今後3年間募集しない」
社交辞令とか愛想とか、もう少し何か無いのかな。
それとも、そういう余裕がない程ひどいのかな。
SDC代表執務室に戻り、協力を申し出てくれた部活をチェック。
どうやら総数では、黒沢さん達のグループが上回った様子。
それこそ多数決は採用しないけど、大勢は決まったと思う。
「残った部活は、雪野さんとショウさんが懲らしめるとか」
「私はそれでも良いけどね」
「絶対駄目」
声を裏返して叫ぶ黒沢さん。
私だってそこまで無茶じゃないっていうの、多分。
お茶を飲みながら唸っていると、ドアの辺りが騒がしくなった。
「今度は、問答無用で襲ってきたとか」
鼻先で笑うサトミ。
彼等が私達に敵わないのはすでに実証済み。
またロックされたドアの突破は、銃や爆弾があろうと突破不可能。
高校生がどうにか出来る物ではない。
私達がそれをクリアしてきたのは、いくつかのノウハウを持っていたからに過ぎない。
「カメラの映像は?」
「木刀で、ドアを叩いてますよ」
苦笑気味に、卓上端末の画面を見せてくれるエリちゃん。
そこに映るのは、木刀を持った小集団。
やってる行為自体は過激だが、意味としては皆無。
彼女もそれを分かっているが故の落ち着き。
私からすれば、疲れるまで放っておけばいいとも思う。
もう一度お茶を飲もうと思ったが、黒沢さんの表情は重め。
ドアの突破を不安視している訳ではなく、こういう行為に及ぶ事自体への懸念。
それが結局まとまらないSDCに対してか、人の業に付いてかまでは分からない。
分かっているのは、彼女の苦悩。
彼女が嫌うのは分かるが、それなら私が取るべき手段は一つ。
例え対症的と言われようと、私は彼女を守る盾になる。
結果として私が標的になれば言う事もないし、意識を向けさせるだけでも十分。
何より、仲間へ敵意を向けられる事自体が我慢出来ない。
「サトミ、ドア開けて。エリちゃんはショウに連絡。これるなら呼んで」
「了解」
「雪野さん」
「話は聞かない。こういう真似をする連中は、とにかく許せないの」
スティックを抜き、スタンガンを作動。
今回これを使いはしないが、それは状況によりけり。
剣道部が混じってる可能性もあり、その場合は私も遠慮はしていられない。
「ショウさんは、こちらへ向かってるとの事。今、下のフロアまで来てます」
「出来るだけ急ぐように伝えて。私は構わず突っ込むって」
「了解」
「永理。各フロアの部室をチェック。正面玄関は立ち入り制限を掛けて」
的確に指示を出し、それに答えていくエリちゃん。
ここはSDCだが、こういう事態に慣れているのは私達。
何より、黒沢さんを矢面に立たせる訳にも行かない。
「……同調しているクラブは、現在のところ見受けられません。正面玄関、封鎖完了。生徒が若干集まってます」
「会議中と伝えて。チェック範囲を各運動部の活動範囲まで拡大。随時範囲を広げて。それとショウは」
「現フロアに到着、指示を仰いでいます」
「敵集団の武装状況と人数と伝達。ユウは、いつでも出られる」
サトミは私に確認した訳ではない。
ただ襲ってきたと分かった時点で、私はすでに戦える体勢。
それは、私達の中では今更確認する事ではない。
スティック、インナーのプロテクターを確認。
端末の通話機能をオンにして、マイク代わりにする。
これはなくても良いが、あって困る物でもない。
「サトミ、私が通れるだけのスペースを空けて」
「雪野さん」
「話は後で聞く」
「カウント開始します。5、4、3、2、1、0。ドア、開きます」
サトミの言葉と同時に開くドア。
私もそれに合わせて外へ飛び出る。
見上げる間もなく降ってくる木刀。
スティックを頭上に掲げてそれを防ぎ、がら空きの足下へ這うようなローを叩き込む。
何人倒れたか確認もしないまま、突きを連打。
どこで借りてきたのかガーディアンのプロテクターを付けている集団を、問答無用で突き放す。
大した威力のない攻撃に、私が闇雲に暴れてるだけだと勘違いする集団。
ただ私は、スティックを振るう距離を取りたいだけの話。
それも出来ればというレベルで、完全に密着してようと全員なぎ倒すだけの自信はある。
私を中央に据え、周りを囲む武装集団。
狙いはすでに黒沢さんから、私に代わってるかも知れない。
今、そんな事を考えている状況でもないが。
逆を言えば、そのくらいの余裕がある状況。
神経をすり減らし、戦いだけに集中するような相手でもない。
集団の後ろから聞こえる悲鳴。
何事かと思う間もなく囲みが突破され、木刀を手にしたショウが現れる。
「何、それ」
「たまに使わないと、なまるだろ」
「素手の流派じゃなかったの」
「何でも使うのが玲阿流さ」
正眼に構え、すっと腰を落とすショウ。
私が言ったように、彼はあくまでも素手での戦いを指向する流派。
とはいえこれも本人が言ったように、武器が使えない訳ではない。
達人とまではいかないが、高校生の大会なら普通に優勝するレベル。
まして、徒党を組んで襲って食う連中に後れを取る訳がない。
「サトミ、中は?」
「問題なし。増援も、今のところは確認出来ない」
「だって」
「来ないだろうな」
鼻で笑うショウ。
どうやら若干はいたが、来るすがら彼が撃滅したらしい。
「一気に蹴散らすか」
「理由も聞かず?」
「何を」
「それは私も知りたいけどね」
襲ってきた時点で、私達の中では理由も何もない。
そうなれば、語るのは己の力。
ただ、それのみだ。
「せっ」
気合いと共に木刀を振り下ろすショウ。
それは前の方にいた男のヘルメットを、かすめて過ぎる。
当たらない事への失笑が起きたところで、下からせり上がった木刀が男の股間を捉える。
彼が収めているのは剣道ではない。
相手を倒す。
殺すための技術。
卑怯という言葉は存在せず、むしろそれは褒め言葉に近いくらい。
右から押し寄せてきた男の蹴りを木刀で防ぎ、そのまま肩で当たって吹き飛ばす。
襲ってきた男は後ろから来た連中との間に挟まれ、悲鳴を上げる間もなく床へ倒れる。
その間にも左から別な男が襲ってきて、そちらは前蹴りで制止。
一瞬動きが止まったところを、木刀がひらめき喉を突く。
普段。特に学内では殆ど武器を手にしないが、扱いは慣れた物。
だてに、血を吐くような鍛錬を積み重ねてはいない。
私も改めてスタンガンを作動。
床に先端を触れ、自分の周りに円を描く。
その動きに沿って火花が飛び散り、残っていた男達は慌てて身を引き始める。
言ってしまえば、たかが火花。
プロテクターどころか、服さえ着ていれば熱さすら感じない。
この時点で彼等の気構え。練度という物が理解出来る。
「ひ、引けっ」
勝手に来て、勝手に逃げていく男達。
ショウの投げた木刀が誰かの背中に当たり、最後にも一騒ぎあって事態は収束。
後は床に転がった男達を片付けるだけだ。
これは私達の仕事ではないし、正直そこまで関わりたくもない。
「サトミ、外のを適当に連れて行って。見たくもない」
「見ないと駄目でしょ」
笑いつつ、SDCに動員を掛けるサトミ。
その声を端末で聞きながら、スティックを背中に戻して自分達も執務室へと戻る。
黒沢さんは何か言いたげだが、今回私達にこれといった非はない。
やり過ぎという訳でもないし、むしろこれ以外の方法があるなら教えて欲しい。
「相変わらずですね」
苦笑気味に声を掛けてくるエリちゃん。
その言葉に、ふと思い出す。
「御剣君は、私達が変わったって言ってたけど」
「昔なら、何人か骨が折れてたかも知れませんし。ただそれは中等部での話ですから」
それとなく私から距離を置く黒沢さん。
そんな事はやってないと言いたいが、言い切れもしないので黙っておく。
「私からすれば相変わらずで、感心するしかないですね」
「悪くはないんだよね」
「私個人としては。今は自警局でしたか。組織的には知りませんけど」
どうも曖昧な話。
結局、どちらにしろ良くないのではとも思ってしまう。
「じゃあ、骨を折った方が良いって事?」
「良くはないでしょう。御剣さんには、一度先輩の威厳を示してみたらいかがです?」
「御剣君の骨を折るの?」
「今のは聞かなかった事にします」
真顔で私の前から消えるエリちゃん。
いくら何でも冗談だって言うの。