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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第37話   2年編最終話
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37-9






     37-9




 しっとりした触感と、芳醇なチーズの香り。

 甘さは抑え目で、口の中でサラサラと溶けてただ存在感は確かにある。

 一度、ここのチーズケーキを食べてみたかったのよ。

 私達がいるのは窓際で、ちょうど熱田神宮を上から眺められる位置。

 旧クラブハウスの上からは何度も眺めたが、これだけの緑と敷地が都心にあるのも珍しい。

「楽しそうね」

「……何してるの」

「ケーキ食べてるの」

 後ろのテーブルから私達のテーブルへ移動して、ブルーベリーソースの掛かったケーキを頬張る池上さん。


 それを少しかすめ、口へと運ぶ。

 強い酸味とコクのあるスポンジ。 

 酸味を押さえるためかその分クリームが甘く、これはこれで美味しいな。

「理事を怒らせたって?何してるの、あなた達」

「私は大人しくしてたよ」

「成長したじゃない」

 うしゃうしゃ笑い、頭を撫でてくる池上さん。

 話す気にもなれなかたっとは言わず、改めてここにいた理由を尋ねる。

「女には、事情あるのよ。事情が」

「男と密会とか」 

「うふふ」 

 ケイの台詞に、喉元で笑う池上さん。

 それは随分優雅な身分だな。


 池上さんは笑顔を湛えつつ、ティーカッの縁へそっと指を添えた。

「その内分かるわ。……ちょっと、何してるの」

「ケーキを食べてる」

 確かに名雲さんの前に置かれているのはチーズケーキ。 

 5号のケーキが、丸ごと一つ。

 さっき私が食べたのは、これを1/8にカットしたものだと思う。

 甘さは抑えられているしサイズも小さいので、食べられない事は無いと思う。

 食べるものでもないと思うが。

 当然ショウと御剣君の前にもケーキは並び、3人仲良く食べ出した。

「舞地さんは食べないの」

「あられが食べたい」

 何言ってるんだか、この人は。

 良く分からないし放っておいておこう。

 というか、この人達ここで何をしてるんだ。


「僕は、何にしようかな」

 メニューを広げ、難しい顔で唸っている柳君。

 ただ難しいといっても元が可愛らしい顔立ちなので、むしろその愛らしさが増すくらい。

 オーダーを待つウェイトレスさんが怒るどころか、とろけそうな笑みを浮かべてるのも頷ける。

 というか、仕事してよね。

「ガトーショコラ下さい。それと、ホットミルク」

「かしこまりました」 

 何やら残念そうな顔で去っていくウェイトレスさん。

 私は食べるところまで見られるので、何も残念な事は無い。

「あられは」

「無いって言ってるの。ケーキ食べて、ケーキを」

 名雲さんのチーズケーキを適当にカット。

 彼が睨んできたところでフォークを付きつけ視線をそらさせる。

「まずくは無いな」

 ありがたみの無い感想を漏らす舞地さん。

 ケーキを食べてはしゃぐ舞地さんというのも、あまり想像は出来ないけど。


「それで、話し合いはどうだったの」

「決裂しました。条件はともかく、合意事項に対して有効期限を指定されたので」

「端から合意する気がなかったんでしょ。それで、どうする気」

「生徒主催でも良いんですけどね。私は」

 池上さんの質問に対して、こちらを見ながら話すモトちゃん。

 私は何も言っていないが、このままで済ます気は全く無い。

「生徒主催にしろ、場所は考えてる」

「場所って、何の」

「集まる場所」

 窓の外をフォークで指差し、そのままケーキを口に運ぶ。

 すると全員が、すごい目付きでこっちを見てきた。

 肉食獣に狩られるウサギって、こんな心境かもしれないな。

「熱田神宮って、熱でもあるの」

 額に手を当ててくるサトミ。


 それをぐっと押し返し、立ち上がって窓を叩く。 

 でもって、今度は柳君のケーキを持ってきたウェイトレスさんに睨まれる。

「叩かないで下さい」

「済みません」

「これだから子供は」

「高校生よ、私は」

 鼻で笑い去っていくウェイトレスさん。

 小顔で背が高くて、ウェイトレスの制服は裾が膝の上というなまめかしい格好。

 それに免じて、今回は大目に見るか。

「恥ずかしいから止めなさい。それで、本気なの」

 改めて意志を確認してくるモトちゃん。

 額に手を当てては来ないが、正気な人間を見る目つきではない。

「私はいつでも冷静よ」

「その時点で冷静じゃないだろ」

 軽くケイの脇腹を掴み、黙らせる。

 冷静ならいいなというくらいの事を言いたかったのよ、私は。


 ケーキをもう一口。

 気持ちを落ち着け、話を続ける。

「とにかく、一度全員の意見を聞く必要はあるでしょ。というか、私達としての意志を説明する場が欲しいじゃない」

「それは間違っては無いわよ。でもどうしてあそこなの」

「学校は使えないし、他の施設だって借りるのにお金がいるでしょ。それに今すぐ使えるとは限らないしさ」

「理には叶ってるわね。結果的には」

 サトミの皮肉を聞き流し、改めて窓を叩く。 

 でもって、ウェイトレスさんに睨まれる。

 分かってるわよ、私だって。

「拭く拭く。今拭く」

「そういう問題ではなくて、割れたら危ないと言ってるんです」

「そんな薄いガラスでもないでしょ」

 改めて叩こうとして、トレイで叩かれそうになった。

 まさかとは思うが、村井先生の知り合いじゃないだろうな。

「今度叩いたら、突き落とすわよ」

 客に向かって言う台詞か、それは。

 全く、人を子供だと思って馬鹿にして。

 まあ、怒られるような事はしてるんだけどさ。



 残りのケーキを平らげ、温くなった紅茶で喉の奥へと流し込む。

 紅茶の苦味が甘さを掻き消し、風味が重なり合って何とも言えない味になる。

 本当、幸せはいつも身近にあるものだ。

「浦田君、食べる?」

「一口だけ」

「あーん」 

 ガトーショコラをフォークでケイの口の中へ入れる柳君。

 こういう光景を見るために、私はここにいる訳ではない。

 というか、何をやってるんだこの二人は。

「とにかく、私は冷静で間違った事は言ってないと思う。木之本君、全校生徒に連絡して」

「本気なんだよね」

「責任は私が取る」

「取れるのか」

 ケイの台詞は聞き流し、後は木之本君に託す。 

 彼は小型の卓上端末をテーブルの上に置き、文章を作成して確認を求めてきた。

「こんな感じだけど」

「それでお願い」

「じゃあ、いくよ」

 押される送信ボタン。

 すぐに表示される、送信完了の画面。 

 サトミもモトちゃんも苦い顔はしていたけど、最終的にそれを制止はしなかった。

 また何が正しくて間違ってるかは、彼女達にも分からないだろう。 

 私もこれが最善の策とは思わないが、今はこれ以外に考えは思いつかない。

「誰か、コネがある人が事情を説明した方がいいんじゃなくて」

「多分、矢加部が寄進をしてるでしょ」

「誰か。、彼女に連絡して。説明役をお願いする」

 私の意見を待たずに連絡を取るモトちゃん。

 この時点で失敗だったと言いたくなるが、彼女に頭を下げて物事が解決するなら安いものだ。


 どれ程も間を置かず、紺のスーツ姿で矢加部さんが現れた。 

 彼女の実家はショウの実家よりも遠いので、どうやらこのホテル内にいたようだ。

「お話の内容は理解いたしました。宮司さんにご相談しましたところ、参拝という形式を取るのなら黙認して下さるとの事です。ただし境内では騒がず、他の参拝者の方にご迷惑を掛けない事が前提ですが」

「ありがとう。木之本君、その旨を改めて全員に連絡」

「分かった。立ち入り禁止の箇所は?」

「特にありませんが、神社や本殿の前に集まるのは避けるようお願いします」

「じゃあ、それも伝えるね」

 素早く卓上端末のキーを操作する木之本君。

 私は特に意見はなく、そろそろ日が陰り始めるなと思うくらい。

 ただ熱田神宮は24時間開放されているので、時間についての制限はない。

「何か仰りたい事でも」

「別に」

「仰りたい事は」

「……どうも、ありがとう」

 かろうじてそう口にして、矢加部さんの高笑いを耳にする。

 歯ぎしりでもしたいくらいの心境で、まだ窓を叩きたくなってきた。


 さすがに場の空気を読んだのか、高笑いをすぐに収める矢加部さん。

 というか、初めから笑わないでよね。

「……ごほん。失礼致しました。それで、今日はともかく明日の卒業式はどうなさるおつもりですか」

「どうもこうも、式はやるのよ」

「コンテナが止まってましたが。第一学校は中に入れさせないでしょう」

「だったら、入ればいいじゃない」

 反発気味にそう答え、真正面から睨み合う。

 出来ないからと言って諦めていたら何も始まらない。

 まずは可能性を探り、そして考えられる限りの方法で試してみる。

 嘆くのは、失敗した後も遅くはない。

「全く意味が分かりません。それと、私は用があるので失礼します」

「ありがとう。またお願いするかも知れないけど、その時はよろしく」

 私とは違いに、こやかにねぎらうモトちゃん。

 矢加部さんは微かに笑顔を浮かべ、しかし私には鼻を鳴らして去っていった。

 あの子こそ、窓から叩き落としたいな。

「……ユウ。ここは誰のホテルか知ってるの」

「宿泊する人のためのホテルじゃない」

「誰も理念は聞いてないわよ。矢加部財閥が経営するホテルよ、ここは」

 テーブルににおいてある、お勧めメニューのポップの下を指さすサトミ。


 そこにはホテル名に続き、小さく「矢加部グループ」と書いてある。

 道理で、従業員と肌が合わない訳だ。

 もう一度窓を叩きたいところだが、さっきのウェイトレスさんが果物ナイフを持っていたのでそれは止める。

 というか、監視しないでよね。

「実際、どのくらい集まると思う?」

「1/10行けば良い方でしょう」

 綺麗な人差し指を立てるサトミ。

 ただ、それは私にとっては意外な数字。

 私の予想は1/100も集まれば良い方で、それでも多すぎると思っているくらいだから。

「まあ、いいや。一旦寮に戻って様子を見てくる。サトミ達は、先に熱田神宮へいってて」




 何となく気後れをしつつ、女子寮の門の様子を探る。

 部屋はまだ借りているが、何と言ってもさっき理事と決定的に対立したばかり。

 一斉に警備員が飛びかかってきてもおかしくはない。

「みんな、待ってるわよ」

 笑い気味に声を掛けてくる顔見知りの警備員さん。

 それに頷き、疑問にも思う。

「待ってるのは、遠野さんや元野さんじゃないんですか」

「あなたも一緒でしょ」

 一緒と言われると、残念ながら違うと言ってしまいそうになる。

 能力も慕われ方も日々の努力においても、私が彼女達に肩を並べる事はないから。



 恐る恐る歩いていくと、確かに建物の前には生徒達が溢れていた。

 そして彼女達は私を見て、一斉に表情をほころばせる。

 これがサトミやモトちゃんの代わりのような意味だとしても、やはり嬉しい事に代わりはない。 

「今から行けば良いんですか」

「まだ、間に合います?」

 急くように話し掛けてくる女の子達。

 それに頷き、熱田神宮にサトミ達が待っている事を告げる。

「結構多いね」

「ほぼ全員ですよ。生徒会の人が少し残ってるくらいで」

「そう」

 当たり前だが強制ではなく、行くも行かないも全くの自由。

 その事について、私から言う事はない。

「雪野さんは?」

「ちょっと用事がね」

「分かりました」

 颯爽とした表情で歩き出す女の子達。

 その流れはいつになっても途切れず、玄関の奥にもまだ女の子達の姿が見えている。

 ただこの寮は私やサトミ達がいるので、その影響や気遣いがあるかも知れない。

 寮はここ以外にもあるし、そちらはどうなっているのか分からない。

 それでもこれだけの人数が私達に賛同してくれているのは、ただ嬉しいとしか言いようがない。



 やがて生徒の流れが途切れ、最後の一人が門をくぐる。

 まずは背中からスティックを抜き、玄関に入って端末を取り出す。

「……済みません、セキュリティを最高レベルに。……ええ、門もお願いします」

 警備員さんと連絡を取り、玄関のドアに鍵が掛かる音を背中で聞く。

 今イメージするのは、昨日見た男子寮での紙袋。

 生徒が殆どいないとなれば、仕掛けるのは昨日よりも簡単。

 私達は寮にいないので大丈夫とは思うが、無関係な人に迷惑を及ぼす事だけは出来るだけ避けたい。


 1階から慎重に検索をしていくと、突然ドアが開いて女の子が外に出てきた。

 ピンクのパジャマ姿に眠そうな顔の新妻さん。 

 少なくとも彼女は、熱田神宮に行く気はなさそうだ。

「何してるの」 

「不審者がいないかと思って」

「それは自分じゃなくて」

 私が握りしめているスティックを指さす新妻さん。

 なるほどと思い、とりあえず背中へ戻す。

 ただ彼女の表情はさらに険しさを増し、視線は一層鋭くなっていく。

「結局、関係ない生徒まで巻き込むのね」

「関係ない?」

「寮の子達の事。責任は取れるの?」

 私達の行動を明確に否定する言葉。

 その鋭い視線を真正面から受け止め、自分の胸に手を添える。

「私は強制していないし、する気もない。決めたのはそれぞれの子が自分の意志で決めた事よ」

「そうかしら」

「自分で決めて、自分で行動する。誰かに言われたからとか、流れに身を任せた訳じゃない。決断したのは、一人一人の意志よ」


 そう。

 決めたのは生徒一人一人。

 自主的に行動し、自立した生活を送る。

 それが草薙高校に通う生徒の誇りであり、生徒たる所以。

 私の意見に流されたなんて事はあり得ないし、それは彼女達への侮辱でもある。

「だったら、責任は取れるの?」

 なおも追求する新妻さん。

 彼女の言うように、今回の行動が処分に結びつく可能性は十分にある。

 ただそれも、同じ事。

 それだけの覚悟があるからこそ、彼女達は私達の呼びかけに応じて熱田神宮へ赴いた。

 とはいえ、彼女達が処分されるのならそれを防ぐのが私の役目。

 この身を呈してでも彼女達を守り、盾となるのが。

 彼女達が覚悟を決めているように、私もそれだけの決意はある。


「好きにしたら」

 そう言って部屋に戻る新妻さん。

 私の鼻先でドアが閉まり、再び出てくる様子はない。

 元々私達とは一線を画して行動していて、やや距離があったのは確か。

 それでも今まで私達に協力をしてくれたのも事実であり、そのお礼にドアへ向かって頭を下げる。

 彼女には彼女の進むべき道があるだろう。

 だから私は私の道を行くだけ。

 その先に何が待ち受けようと、それはお互いが自分の意志で決めた事だ。



 最上階まで検索が完了。

 結局新妻さん以外とは誰とも出会わず、本当に人がいるのかと思ってしまうくらい。

 そう考えると、少し背中が寒くなってきてた。

 誰かがいるはずなのに、誰もいない。

 いや。そういう考えが怖い結果を招いてしまう。

 出来るだけ楽しい事を考えながら、今は一刻も早く寮を出よう。


 慌てて走り出した途端、目の前のドアが突然開いた。

 悲鳴を上げつつスティックを振り上げると、ドアから出てきた女の子も悲鳴を上げて頭を手で覆った。

「す、済みません。今、今行きますっ」

 怯えた表情はスティックのせいだろうが、外に出てきた時点ですでにコートを羽織っている。

 つまり出かけるのは私に脅されたからではなく、自分の意志という訳か。

 ただどこかで見た顔。

 それもそのはず、以前からずっと正門前で制服着用を呼びかけていた女の子だ。

 まさか、同じ寮に住んでるとは思わなかった。

 ただ、それはそれ。

 ここで置いていかれては大変なので、慌てて彼女に追いすがる。



 廊下を歩いていく内にドアが一つまた一つと開き、女の子が部屋から出てくる。

 これも私のせいとは思えず、全く理由は分からない。

 ただそれもそれとして、彼女に声を掛けてみる。

「あのさ。どうして、制服着用のキャンペーンをやってたの?」

「どうしてって。普通は毎日違う服なんて着られないし、制服自体もお金を出して買うのよ。勿論奨学金なんて本当に一部の子しかもらえないし。だから、それなら無理にでも制服を着た方がいいでしょ」

「そういう理由だったの」

「勿論、報奨金はもらえるんだけどね」

 最後に小声でそう付け加える女の子。

 ただ、その前に言った事は正直耳が痛い。

 彼女からすれば私達やわがままな存在と写っていてもおかしくはなく、ああいった極端な行動に出たのもそれへの反発かも知れない。

 話せば分かるというか、やっぱり話さなければ分からない事もある。   

 誤解とまでは言わないが、初めから話し合えばあそこまでこじれる事はなかっただろう。

 それは私にも非があり、反省をしなければならない。 


「だったら、私達の事はどう思ってたの」

「さすが草薙高校って思ってた」

 意外にも褒めるような口調。 

 表情は今まで見た事が無いくらいに明るく爽やかで、きらめいている。

「だって、普通学校に逆らうなんてありえないでしょ。でもあなた達は学校に反抗をして、しかもそれが支持されてた。ああ、これが草薙高校なんだなって思ったわ」

「いい事なの、それは」

「それは分からない」

 おい。


 そこは嘘でも、良い事だって言ってよね。

 それに確かめたい事は、これ以外にもまだ残っている。

「学外で有名なのって誰」

「玲阿君と遠野さん。猫木さんは、オリンピック選手だから別格ね」

「はは」

 つい嬉しくなって、笑ってしまう。

 サトミ達もそうだけど、ニャンの名前が出てくるだけで自然に嬉しくなってくる。

「後は最近だと元野さんや丹下さん。御剣って名前も聞いたけど」

 上がるのは大体身内。

 でもって、評判になってもおかしくない程の人達ばかり。

 それで何が嬉しいって、私の名前が上がらない事。

 TVの件は最近だが、目立たないのはいい事だ。

「……私は無名だって思ってる?」

「違うの」

「そんな訳ないでしょ。誰が有名って、あなたじゃない。ナノミサイルって聞いた事無い?」

 聞いた事は無いし、聞きたくもなかった。

 大体そこまで小さくないっていうの。

 多分。



「楽しそうじゃない」

 後ろから不意に声を掛けてくる新妻さん。

 その彼女を見て、女の子はとろけそうな顔ですり寄っていった。

 なるほど。

 急にぞろぞろ出てきておかしいと思ったら、この人が呼びかけたという訳か。 

 しかもこの様子を見ると色んな意味で慕われていそうで、他の女の子達もわらわらと新妻さんに近付いていく。

 モトちゃんんも人に慕われるタイプだが、この人はまた違うタイプだな。

「みんなは早く、熱田神宮に行って。寮以外に住んでる子も誘ってね」

「はい」


「はーい」ではなく、「はい」

 切れのある、はきはきとした口調。

「で、どうしてパジャマなの」

「明日じゃないの。熱田神宮に行くのは」

 完全に素で答えられた。

 深謀遠慮で行動していると思っていたが、それは私の勘違いだったようだ。

「何よ、その目は」

「別に。色々お世話になりました」

「ちょっと待って。すぐに着替えるから。少し寝ぼけてるだけよ」

 ドアの向こうからどたばたと音がして、やがて髪を振り乱した新妻さんが現れた。

 今度は制服にブルゾンを羽織っていて、少なくともピンクの生地は着ていない。

「みんなは先に行ってて。私は、雪野さんと少し話があるから」

「はい」

 綺麗に声を揃える女の子達。

 ここまで統率されているのもどうかと思うが、強制で無いならいいとするか。



 寮の玄関を出た頃になるとすでに他の子は門をくぐっているところ。

 新妻さんもそれを確認し、私の顔をまじまじと覗きこんできた。

「怒ってないのね」

「私はいつも冷静だから」

「寝言は聞いてないんだけど。成長はしてるのかな」

 何やら上からの発言。

 いや。そうではなく、もしかするとそれは彼女自身に向けられた言葉なのかもしれない。

「私は本来、あまり関わりたくなかったのよね。姉さんの影を追うみたいで、気が進まなかった」

「ああ。卒業したお姉さん」

「ただ草薙高校がどんなところか見てみたかったし、あの姉さんが失敗したって悔しがってたからどんな状況かと思って」

「悔しがる」

 おおよそそういうタイプには思えず、常に落ち着いていてしとやかとイメージしか私には無い。

 鈴の音のように笑い、歩けば爽やかな風が吹きぬけ、その足跡には花が咲くといった具合。

 どんな具合かは知らないが、悔しがるという感情とは無縁な人と思っていた。


「口に出した訳じゃなくて、私がそう思っただけ。一応妹としては、その復讐を果たしたくてね」

「お姉さん思いなの?」

「コンプレックス克服もかねてよ。偉大な姉がいると、何かと辛いの。だから、草薙高校には初めは通わなかった」

 固い口調で語る新妻さん。

 表情は微かに陰り、少し雰囲気が重くなった感じ。

 私は兄弟がいないのでその辺の感覚は良く分からないが。

「一応生徒会の一部をまとめてはみたけど、姉さんには敵いそうに無いわね。勿論、あなた達にも」

「私は別に。殆ど、サトミやモトちゃん達がやった事だし」

「意外と謙虚というか控えめなのね。四六時中爆発してるかと思ったわ」

 相当な誤解をされているというか、一体他校ではどういう評価なんだろうか。




やがて交差点の先に、熱田神宮の杜が見えてくる。

 その景色はいつもと変わらず、今日も心地良い風が吹いてくる。

 今の季節の風は冷たいけれど、澄み切って爽やかな空気はいつものまま。

 本当は風など吹いていなくても、何となくそんな気がする。

「信心深いの?」

「全然。クリスマスも甘茶も好き」

「だったら、どうしてここなの」

「近いから」

 そう答え、青になった信号を渡る。

 広い道路にはちらほらと制服姿の生徒が歩いている。

 寮からか、それとも自宅からか。

 この様子だと、サトミの指摘通り1/10くらいは行くかも知れない。

「私達を守ってくれるのかしら、この杜が」

「さあ、どうだろうね」

 清澄な風は心に感じるし、私を包み込んでくれる。


 ただそれは私の勝手な思い込みで、本当に何かがある訳ではない。

 守ってくれたら嬉しいな、くらいの話だ。

 何より神様も色々と忙しく、一々私に関わってる暇もないだろう。

「確かに場所としては悪くないわね。気持ちが落ち着くし、集まっても文句を言われない」

「でしょ」

「ただ、ここに集まって何をするの」 

 その質問には答えず、西門の大きな鳥居を見上げる。

 一度気持ちを落ち着け、姿勢を正して鳥居をくぐる。

 それに何の意味もないけれど、場所を借りるんだからそのくらいの礼節は必要だろう。



 砂利の上を歩いていくと、一気に生徒の数が増えた。

 いや。増えたどころの話ではない。

 さながら修学旅行の大群に出くわしたくらいの賑わいで、行く手はどこまでも生徒で埋め尽くされている。

「どこいくの」

「ちょっと、お茶を」

 右手にあるお茶屋に立ち寄り、植え込みの陰に隠れる。 

 1/10どころではないぞ、これは。

「私はもう行くけど」

「ああ、そう。今日はありがとう」

「それで、いつまでそこにいるの」

「気持ちが落ち着いたら」

「自分で企画したんでしょ」

 そう言って、笑いながら去っていく新妻さん。

 確かに見通しが甘かったかも知れないが、サトミ達もここまでの事態は予想していなかったはず。

 これをどう収集するか、誰か考えてるのかな。

「あーあ」

 お茶屋さんを回り込み、池の畔に立つ。

 影が池の表面に落ちたせいか、口を開けた鯉が一斉に集まってきた。

 しかし彼等に与えるパンも何もなく、ただその姿が物悲しいだけ。

 何となく自分と姿が重なり、ため息も出てくる。

「待ってるわよ」

「エサって売ってる?」

「誰も、鯉の話はしてないわ」

 怖い声を出して、私の肩に手を置くサトミ。

 ここにいるとは新妻さんが教えた訳でも無いだろうし、さすが私の行動パターンはお見通しか。

 手から伝わってくる冷気は、決して気温が下がってきたからでは無いだろう。


「結構集まったね」

「多分、ほぼ全校生徒が来てるわよ」

 冗談を言っている顔ではなく、何より植え込みから見える生徒の数がサトミの言葉を裏付ける。

 ここに集まってもらった事自体に大して深い理由は考えていなく、明日の卒業式について話が聞ければと思っていた。

 しかしこれでは話を聞くどころではなく、新妻さんの言う通り単に学校へ圧力を掛けるだけの行動になってしまった。

「神主さんは怒ってるの?」

「宮司よ。特に何も言ってはいない。ただ時間も時間だし、そういつまでもこのままにはしておけないわよ」

「分かった。本殿の前が一番開けてるよね」



 生徒の横を通り抜け、本殿へ向かう参道へとやってくる。

 正面が本殿で、振り変えるといつもははるか遠くに南門が見ている。

 距離的には熱田神宮をほぼ南北に貫く格好で、しかしその門は生徒の姿で完全に覆い隠されている。

 平日の夕方とあって参拝客はまばらで、彼等の邪魔になる程ではないと思いたい。

 一応道は空けてあり、制服姿なのでさっきも思ったが修学旅行の大集団くらいに見えるのかもしれない。

 鳥居をくぐって大木を眺め、もう一度鳥居をくぐり本殿へと辿り着く。

 そこで改めて振り返り、集まった生徒の数に圧倒される。

 全校生徒が集まっていると言ったサトミの言葉は決して大げさではなく、この位置から見てもやはり南門の所まで生徒で埋め尽くされている。 


 新妻さんにはああ言ったが、ここにいる生徒全員が本当にそこまでの覚悟をしているのかどうか。

 友達が行くから。

 なんとなく、という人もやはり中にはいるだろう。

 ここまでの事になるとは思っていなかったと言うのは、やはり言い訳に過ぎない。

「マイクか拡声器は?」

「これを」

 小型のハンドマイクを貸してくれる木之本君。

 本殿の右手を見ると、警備員さんがこちらの様子を伺っていた。

 その横には売店があり、巫女さんの服装をした女性達もやはりこちらの様子を窺っている。

 確かにこれだけの人間が集まって、一体何をするのかという不安は十分にあるだろう。

 一度、先にこっちへ話した方がいいか。

「済みません。すぐ解散しますので」

「草薙高校の生徒さんですよね」

「ええ、まあ」

「遅くなるようなら、照明を使いますけど」

「照明?」

「ライトアップのテストをするので、少し待って下さいね」




 一旦休憩。

 参道の脇に明かりが点り、生徒達の顔がゆらゆらと揺れる。

 赤く燃え盛るかがり火。

 弾ける薪の音。夕闇の空へ舞い上がる煙り。

 言い知れない切なさと安らぎを同時に感じる暖かな炎。

 生徒達も自然にそちらへ視線を向ける。

「ご協力、ありがとうございました」

 お礼を言って帰っていく熱田神宮の職員。

 かがり火を運び込んでセットしたのは生徒達で、かがり火は南門に続く参道に点々と置かれている。

 生徒達の姿は炎の優しい色に包まれ、ただ光の届かない部分は闇の中。

 辺りは一層暗くなり、紺色の空に浮かぶ雲がかろうじて西日を受けて薄い朱に染まっている。

「これで解散。という訳にはいかないよね」

 雰囲気は十分堪能したが、これを楽しむために集まった訳ではない。

 やはり、何か一言言う必要はあるだろう。

「参道に集まった人達が賛同してくれた。なんて言ってみたら」

「……なんのために」

「場が和むよ」

 この場の空気は凍り付いてるじゃないよ。


 ヒカルを下がらせ、ここはモトちゃんにマイクを渡す。

 やはり私達のリーダーは彼女で、集まった生徒達も彼女の話を聞きたいだろうから。

「私も今更話す事はあまりないわよ」

「明日の式に付いて」

「ちょっと待って」

 大きく深呼吸して、軽く口元で何かを呟きマイクを握り締めるモトちゃん。

 その足元で木之本君がスピーカーを正面へと向ける。


「お待たせして申し訳ありません。今更言葉を並べ立てるのもどうかとは思いますが、明日の式に向けて一言。私達としては卒業式へは、卒業生が全員出席する事を求めて行きます。これに付いては改めて学校側と協議します」

 まばらに聞こえる拍手。

 モトちゃんは小さく頷き、マイクを握り直して話を続けた。

「皆さんから集めさせていただいて、すでにかなりの数にもなっています。これを学校へ提示する事により、生徒の意志を今まで以上に示す事が出来ると思います。ただそれに伴い何らかの処分が下る事も想定されますが」

 さっきよりも大きな拍手。

 モトちゃんの言葉への同意の声。

 異議を申し立てる人は誰もいない。


 闇は一層濃くなり、しかしかがり火の明かりが生徒達を包み込む。

 闇に消えていた部分を月明かりが照らし、彼等の姿は闇の中に輝いて浮かぶ。

「明日はかなりの混乱が予想されると思います。そのため基本的に、学校への登校は控えて下さい。学校との協議は、申し訳ありませんが私達のみで行います。ただその際協力してもらう場面もあるかと思いますので、どうぞよろしくお願いします」


 深く頭を下げるモトちゃん。

 拍手が静かに鳴り響き、森の奥へと吸い込まれる。

 そして彼女は、笑顔で私にマイクを手渡してきた。

「最後はお願い」

「私が?」

「あなた以外に、誰がいるのよ」

「誰って」

 周りを見渡すが、全員私に話せという表情。

 ここに集まるよう言い出したのは私だし、確かに何かを言う必要はあるだろう。

「あんまり気の利いた事は言えないんだけど」

「賛同よりはましでしょ。ほら」

 サトミに背中を押され、モトちゃんの前にと出てきてしまう。


 自然と生徒達は静まり返り、全員が私に注目をする。

 肌で感じる彼等の思い。決意。

 私達に託された希望。

 その思いを受け取った者として、確かに言うべき事はあるだろう。




「最後に一言。今日はどうもありがとうございます。明日はご迷惑を掛けるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 まばらに起きる拍手。

 それに頷き、大きく息を吸って言葉をつなぐ。

「皆さんの思いや気持は確かに受け取りました。後はそれを形に変えるだけだと思っています。その思いを形に変えるため精一杯頑張るつもりです。至らない事もあるかと思いますが、みんなで一緒に頑張りましょう」

 大きくなる拍手。

 そして歓声。

 小さく頭を下げるが、振り向くとサトミがそれでは収まらないという顔をする。

「管理案の問題点と卒業式に特定の生徒しか出席させないのは、本質的に同じだと私は思っています。今回の抗議行動は、その意味もあるとお考え下さい」

 少し収まる雰囲気。

 尻つぼみになった気もするが、これ以上は特に言う事も無い。


「ああ、最後にもう一言。ある先輩から聞いた言葉。信頼する、裏切らない、助け合う。明日はこれを合言葉に頑張りましょう」

「馬鹿」

 後ろから聞こえる小さな声。

 それは聞こえなかった事にして、今の言葉を繰り返す。


「信頼する、裏切らない、助け合う。当たり前の事ですが、実際はそれが難しいとここにいる人は分かっているかもしれません」

 私自身苦い経験を重ね、挫折を味わい、絶望を感じた。

 それでも今、こうして大勢の人達と同じ思いでここにいる。

「当たり前の言葉ですが、それを成し遂げる事こそ本来の草薙高校であると思います」

 拍手は起きず、歓声も聞こえない。 


 ただ私の話を聞いていない訳ではない。 

 私の話。

 いや。その三つの言葉を、それぞれが心の中で繰り返しているのだと思う。

 自問し、自答し。自分の行動は果たしてどうだったかと。

 私はこうして偉そうに言える立場ではない。

 だからこそ、その言葉を繰り返す。

 今こそ、それを果たす時だから。

 静まり返る生徒達。

 ただその瞳は綺麗に澄んでいる。

 この杜から吹き抜ける心地いい風のように。

「それでは、これで解散します。今日はありがとうございました」




 閑散とする参道。

 かがり火も生徒の手で撤去され、今は街灯が距離を置いて転々と灯るだけ。

 日は完全に沈み、参拝客の姿はどこにもない。

「まあ、70点ね」

 うしゃうしゃ笑いながら私の頭を撫でる池上さん。

 100点とは言わないけどさ。せめて80点は付けてよね。

「良く覚えたじゃない」

「覚えてたって言う程難しい内容でも無いでしょ」

「そうなんだけど。真理絵なんて泣いてるんじゃなくて」

 振り返った先で欠伸をしている舞地さん。

 目には涙が浮かんでいるが、おおよそ感動とは程遠いな。

「じゃあ、最後にみんなでお参りして帰りましょう」

 そうモトちゃんが宣言し、本殿へと歩き出す。


 正月とは違い、この場にいるのは私達だけ。

 独特の高揚感や華やかさは無いが、その分気持は透き通っている。

 二礼二拍一礼とあるし、今日はその通りに順序を踏む。

 それだけ今は厳粛な気持でこの場に私は立っている。

「背が伸びますように」

 誰か口に出しているけど気にしない。

 厳粛だ、厳粛。

「この馬鹿。全財産入れてどうするんだ」

「僕の気持を伝えるには、これでも足りないよ」

「警棒、警棒貸してくれ。今の分を取り返す」

 賽銭箱へ身を乗り出そうとしたケイをすごい顔で睨む警備員さん。

 慌ててみんなで彼を引きずり出し、警棒で袋叩きにする。

 本当、とんだ馬鹿兄弟だな。



 警備員さんに護衛。

 もしくは監視をされながら、来た時と同じ西門から熱田神宮の外に出る。

 目の前は国道19号線で、車もヘッドライトがひっきりなしに行き交っている。

「さてと。最後の晩餐か」

 嫌な事を口にするケイ。

 ただ彼の言ってる事は、誰もが思っている事でもあるだろう。

 明日の行動もそうだが、今日の出来事も当然学校は把握しているはず。

 呼びかけをした私達に対する圧力はより強まる。

「サンドイッチでも食べようか」

「参道と賛同でサンドイッチですか。冴えてますな、兄者」

「いやいや。私などまだまだ。とりあえず、パンの耳でももらってきますか」

 そういえばこの人、さっき全財産をお賽銭箱に入れてたな。

 それでも表情は至って穏やかで、柔和。

 この人が神様と言われても、みんなが納得するだろう。


「私は家に帰るけど、みんなは」

 モトちゃんの言葉に、自分も帰ると告げる木之本君。

 二人とも自宅は名古屋ではないが、電車やバスに乗ればすぐ。

 色々と、胸に期す事もあるんだろう。

「ショウ達も家に?」

「ああ」

「俺は嫌な予感がするな」

 何やら小声で呟き、ショウと共に駅の方へと歩いていく御剣君。

 モトちゃんと木之本君もすぐに彼等を追い掛けていく。

「ケイ達は?」

「兄弟仲睦まじく、最後の時を迎えるさ」

「じゃあ、また明日」

 楽しそうに笑いながら去っていくケイとヒカル。

 そして残されたのは、私とサトミだけになる。


 全員が、今日は家族で過ごすつもり。

 だけどサトミの家族は秋田にいて、何より両親とは不仲。

 物理的にも精神的にも、会いには行けない。

「私は、兄さんの様子でも見に行こうかしら」

 そう言って、あっさり私の前から去っていくサトミ。

 家にどう誘おうかと考えていた自分が馬鹿みたいで、ただ彼女がそれ程深刻な様子ではない事に安心もする。

 私も家に戻るけど、一度マンションの様子だけ確かめに行くか。



 エントランスからインターフォンを押すが、反応無し。

 中に入って確かめようとしたら、エントランスの奥にあるドアが開きスーツ姿の紳士が歩み寄ってきた。

「雪野様ですね」

「ええ」

「言付けを預かっておりまず」

 丁寧な口調でメモ用紙を渡してくれる紳士。

 このマンションの管理人で、ただその役割は家賃の取り立てやエレベーターの掃除ではなく住民のありとあらゆる要望に応える事らしい。


 ホテルのフロント。

 もしくはコンシェルジュのようなものだとサトミは言っていたが、確かにその通りだな。

 ちなみにメモには「みんなで私の家に泊まります。渡瀬」とある。

 私が心配しなくても、あの子達はあの子達で楽しくやっていたようだ。

「どうもありがとうございました。では、私も失礼します」

「お休みなさいませ」

「お休みなさい。また、明日来ます」


 どう見ても子供の私にも丁寧に応対する彼の姿勢に感心をしつつ、バス亭を降りて自宅にやってくる。

 玄関を開けると良い匂いが漂ってきて、それへ誘われるようにしてリビングへと入る。

「カレー」

 お父さんの口元へスプーンを近付けていたお母さんと目が合い、思わずそのまま後ずさる。

 世の中に、これほど気まずい場面もそう無いと思う。

「帰ってくるなら、帰ってくるって」

「自分の家なんだから、断らなくても良いでしょ。これ、お土産」

 駅前で買ったコロッケをお母さんへ渡し、自室で着替えで戻ってくる。

 テーブルには私の分も用意されていて、ただ私は自分で食べる。


「優。明日何かあるの」

「どうして」

「学校から連絡があったわよ。明日は自宅で大人しくしているよ」

 スプーンを振り回して説明するお母さん。

 その意味はともかく、自宅にまで脅してくるとは随分ふざけた話だな。

「最近、目の事を言わないね」

「目?ああ、目。調子良いよ。治ったとは言わないけどね」

「学校の事も良いけど、少しは自分も労った方が良いよ」

 そう言って優しく笑い、私の頭を撫でてくれるお父さん。

 暖かくて心地良くて、ずっとこうしていたい気分。


 ただ私もいつまでも子供ではない。

 お父さんの気遣いは嬉しいが、いざとなれば目が見えなくなろうとも戦ってみせる。

「その、さ。明日は一応覚悟しておいて」

「何よ、遺言でも残すの」

 誰も、そんな事は言ってない。

 お茶を飲み、気持ちを落ち着けて改めて話す。

「明日は場合によっては退学になるかも知れないから。その覚悟をしておいてって事」

「何やる気」

「今のところは別に。話し合いで解決するつもり。ただ、どうなるかは分からないから」

「優がしたいようにやれば、僕は何も言わないよ」

「また甘い事言って。退学なんてしてきたら、あなたこそ覚悟しなさいよ」

 全く対照的な二人の言葉。




 ただそれは、どちらも私を思っての事。

 慈しみと思いやりが、私を優しく包み込む。

 みんなもこうして、家族と共に時を過ごしているんだろうか。

 明日という日に備え、自分の力を出し切るために。

 高校生活の最後になるかも知れない時を。













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