37-5
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気持ちのいい目覚め。
柔らかい布団と良い匂い。
幸せに包まれているような気分の中、欠伸交じりに体を起こす。
見慣れない眺めに、ふと違和感を感じる。
夢の続き。
それとも、また目が悪くなったのか。
そう思う間もなく、金属音が鳴り響いた。
「起きなさい、って起きてる?」
フライパンをお玉で叩きながら現れる、エプロン姿の池上さん。
起きるも何もまだ夜が明ききっていなく、暖房が無ければ震えるくらいの気温。
それでも彼女は、無慈悲にカーテンの閉まった窓を指差した。
「走るんでしょ」
「朝、起きられた時はね」
「よかったじゃない。走ってきて」
体が温まってきたところでアパートへ戻り、朝食に出迎えられる。
ではなく、池上さんに迎えられる。
「シャワーを浴びてきたら、ご飯にするわよ」
「ありがとう」
よく分からないままシャワーを浴び、タオルをかぶってテーブルに付く。
ご飯と海苔と、お味噌汁。
梅干、卵焼き、焼き魚。
典型的な和食の朝食。
ありがたくそれに箸を付け、差し出されたお茶をすする。
「まだ、早くない?」
「遅いよりはいいじゃない」
それもそうだ。
そう納得するには早すぎる時間。
今いるのは寮ではなく、池上さんのアパート。
寮と距離的には大差なく、このままだと朝一番に学校へ付いてしまうんじゃないだろうか。
「さて、食べた?」
「食べたよ」
「食器洗って。私も準備するから」
「分かった」
池上さんが着替えに行ったところで食器をキッチンへ運び、洗っていく。
私は制服を持ってきているので、すでにそれへ着替え済み。
二人分なのですぐに洗い終わり、やはり時間は早すぎると思う。
「じゃあ、行くわよ」
「学校へ?」
「その前に、寄る所があるの」
鍵を開け、挨拶もせずに部屋へと上がる池上さん。
落ち着いた内装。
ただ、家具が以前よりも減っている。
もしかすると、アパートを引き払う事を考えているのかもしれない。
「起きて、朝よ」
お玉でフライパンを叩く池上さん。
さっきのは、これを真似してたという訳か。
マンガでしか見た事は無いが、多分目覚まし時計の方が効果はある。
お玉でフライパンを叩くという部分に面白さを感じての行為でしかないな。
ベッドで丸くなっていた舞地さんは一瞬だけ目を開き、そのまま毛布の奥深くに埋もれていった。
「私は起きなさいと言ったのよ」
返事は無く、毛布がわずかに上下するだけ。
池上さんの早く起きた理由がようやく理解出来た。
「放っておけばいいじゃない。どうせ授業も何も無いんだし」
「世の中、そういう訳にはいかないのよ。先輩が模範を示さないでどうするの」
「学校でも寝てるんだし、あまり関係ない気もするけど」
「それはそれ、これはこれよ。ほら、起きた」
ついに毛布がはがされ、膝を抱えて丸くなっていた舞地さんが現れる。
恨み骨髄に達する眼差しかと思ったが、まだ半分以上寝ているという顔。
冬山では、間違いなく凍死するタイプだな。
「顔洗ってきて。ご飯の用意するから」
「どうして」
「学校に行くのよ」
「誰が」
冗談でやられてもかなり腹が立つけど、本気で言われても腹が立つ。
池上さんも、よくこれに付き合っていられるな。
舞地さんがもそもそご飯を食べているのを眺めつつ、池上さんに話を聞く。
「大学に行っても、同じ事をやるの?」
「まあね。学部は違っても、近所に住むのを禁じられる訳ではないし」
冗談めかした台詞。
ただ前提は、学部が違うという事。
すでに草薙大学への入学は決まっていて、舞地さんはスポーツ科学部。池上さんは法学部。
同じ大学ではあるが学部は違うし、キャンパスも違う。
スポーツ科学部は豊田にあり、法学部は八事。
偶然大学内で会う、という事も無い状況。
それには少しの寂しさを感じる。
私が感じても仕方は無いが。
「食べたわね。雪ちゃん、食器洗って。私は準備をしてくるから」
「分かった」
舞地さんの手を引き部屋へと戻る池上さん。
あれでこの先生きていけるのか、人ごとながら心配だな。
直接学校ではなく、一旦寮へと向かう。
池上さんのアパートに泊まったのは、昨日の渡瀬さん達との会話の流れから。
まだ退寮勧告は来ていないし、サトミ達は寮にいる。
何より池上さんのアパートは疲れるので、寮の生活が恋しくなってきた。
玄関前には生徒が集まり、不安げな顔で相談中。
授業も行われていなければ、昨日のあの騒ぎ。
学校へ行く事自体にためらいを覚えても不思議は無い。
「おはよう。サトミ達はいない?」
「もう出かけたみたいです。心配なら、学校へは行かない方がいいって言い残してました」
「行かない訳にはいかないでしょ。でも、危ないのかな」
私にその判断は付きかねるし、今の話だとサトミ達は否定的。
それなら、無理をする必要は無いか。
ただ、それは彼女達の事。
サトミ達が学校へ行ってるのなら、私が行かない理由は無い。
「じゃあ、みんなは寮に待機してて。サトミかモトちゃんが連絡してくると思うから」
「分かりました」
「じゃあ、気をつけてね」
「いや。それは私達の台詞なんですけど」
学校へ付くまでの間、ずっとうしゃうしゃ笑われた。
何がおかしいのか知らないし、舞地さんはくすりともしない。
「意外に先輩なのね」
「そうかな」
「そうよ。慕われてて良いじゃない。ちょっと見直したわ」
じゃあ今まではどんな評価だったのか聞きたくなるが、先輩としての威厳が無かったのは確かだろう。
威厳自体は、今も無いような気もするが。
「もう着いたと言いたいけど、誰もいないわね」
交差点を渡った先に見える学校の塀。
しかし信号待ちをする生徒はどこにもいなく、塀に沿って歩く生徒もない。
たまたま通りかかったバスもがらがらで、全くと言っていい程生徒の姿は無い。
「廃校にでもなったのかしら」
「怖い事言わないでよ」
「ほら、いるじゃない」
ようやく現れる生徒の集団。
ただし彼らは私達の前を素通りし、高校とは反対側へと歩いていった。
「ああ、中等部」
どうやら中等部に関しては、通常どおりに授業が行われている様子。
それには安心をしつつ、ただ高校には誰も向かっていないのが気に掛かる。
「どうするの」
「どうするもこうするも」
言葉はそれ以上続かず、考えも及ばない。
ただし誰もいないのなら、今高校に行くのは無意味。
多分サトミ達も、この状況で高校には行っていないはずだ。
「サトミとモトちゃんがいる場所へ行けば間違いないんだって」
「自分の考えで行動しろ」
ようやく口を開いたら、これ。
だったら自分はどうしてこの場にいるのかと問い詰めたいな。
「……サトミ?……今、学校の側まで来てる。……中等部ね。分かった」
やはり高校には行っていなかったか。
よく考えればこの学校は、一貫教育。
中等部と高等部は密接な関係にあり、サトミ達が向かうのも頷ける。
正門で、いきなり止められた。
ちなみに止められたのは舞地さんと池上さんで、私はフリーパス。
分かってはいるが、なんか嫌だな。
「何か、ご用でしょうか」
丁寧な物腰で尋ねてくる幼い顔立ちの女の子。
肩にはガーディアンのIDが貼られ、腰には警棒も下がっている。
こういうチェックをいつからするようになったのか知らないが、私はその対象に無いのであまり関係は無い。
「高等部の生徒よ。IDはこれ」
「確認させていただきます」
二人からは受け取り、私には見向きもしない女の子。
いいんだけどね、別に。
「高等部の子が何人か来てると思うんだけど」
「元野さん達ですね。今生徒会長とお話になられてますが、お会いになりますか」
「お願い」
池上さんがそう答えると、そばにいた男の子が一礼して私達についてくるよう促した。
「彼がご案内しますので」
「ありがとう」
規律という言葉が当てはまる光景。
ただ高校のそれとは違い、清々しさと心地よさがここにはある。
やらされているのではなく、やっている。
自主性、主体性。
自分達の意志というのを彼らからは強く感じる。
「あなたはどこへ」
付いていこうとしたところで呼び止められた。
まさか、あなたは教室に行きなさいとか言わないだろうな。
「一緒に行っちゃ駄目なの」
「お姉さんに付いていきたいのは分かるけど、勉強をしないと」
優しい笑顔で諭された。
言ってる事は、何一つ間違ってはいない。
ここが高校だったら、塀を真っ二つにしてるところだけど。
「その子はいいのよ。高校生だから」
「嘘」
冷静そうだった女の子の口から飛び出す、素の声。
でもって私の身長を目線で計り、側を通りかかった女の子と見比べる。
1年生でも、来月には2年生。
ただ、私より小さい子はどこにも無い。
「こんな小さい高校生って。……もしかして、雪野さん」
「ひぃ」と悲鳴をあげて後ずさる女の子。
人を毛虫か何かと間違えてないか。
「し、失礼しました」
それこそ土下座しかねない勢いで謝る女の子。
当然注目を浴びるし、何より謝られる事自体気が滅入ってくる。
「私の事はいいから、仕事に戻って」
「は、はい。申し訳ありませんでした」
青い顔でがくがくと頷く女の子。
多分噂として聞いているんだと思うけど、この調子ではあまり芳しくなさそうだ。
リーフの模様が入った高そうなティーカップ。
芳しい香りが立ち上り、胸の奥がすくような思い。
クッキーを紅茶で流し込み、甘さを苦さで包み込む。
「怒れよ」
私を見ながら鼻で笑うケイ。
ちなみに今は幸せで満ち溢れているので、怒りはすでに霧散した。
我ながら、簡単な性格で助かった。
「で、ここで何してるの」
「大丈夫だとは思うけど、高等部での混乱が波及しないようにと思って話し合いをね」
そう説明し、柔らかく笑うモトちゃん。
笑いかけられた生徒会長は少し緊張した面持ちで頷き、卓上端末を操作してモニターにグラフを表示させた。
「若干トラブルの件数は増えていますが、問題視するほどではありません。全体としての統制も取れていますし、高等部での出来事にも好意的な意見が多いです」
「こっちでは揉めてないんだ」
「年齢的体力的、精神的にそこまでの段階には至ってないのよ。ようやく自我が確立し始める時期で、1年生は自分の事で精一杯でしょ」
「私は今でも、自分の事で精一杯だけどね」
サトミの言葉にそう答え、書類をめくる。
改正や変更といった文字が並び、変更済みと続いていく。
正門でも分かったように、規則が変わったのは高等部だけではない様子。
しかしこれといった混乱は起きていなく、何より学校へ生徒が通っている。
「生徒会長が立派だから、混乱してないの?」
「私の力など大した事はありません。遠野さんがおっしゃられたように組織だって反抗するまで成長していないのと、強制力が高校に比べて低いせいでしょう」
穏やかに話す生徒会長。
彼女はそう言うが運営側の問題も大きいのは明らかで、それだけ高等部は運営が異常とも言える。
つまり管理案も運用次第では、規律は正しつつも今までとあまり変わらない学校生活を過ごせる事の手本でもある。
中学生から学ぶというのは、多少恥ずかしい気はしなくも無いが。
「遅れました」
息を切らせて会議室に飛び込んできて、生徒会長の隣へ座るエリちゃん。
席が空いてるからといって座る場所ではなく、空いているのならモトちゃんの隣も空いている。
それはすなわち彼女が中等部としての立場を示している事の現れ。
加えて、生徒会長に近い立場という事も示していると思う。
「エリちゃんって、もしかして偉い?」
「一応、連合の議長代行です」
「代行?」
「議長はいらっしゃいますが、その補佐的な役割をしていますので」
さらりと言ってのける永理ちゃん。
私は役職どころか、連合自体解散されている。
ちょっと彼女が眩しく見えてきたな。
「浦田さんは、自警局と総務局の総務課長でもあります」
「え。大幹部?」
「まさか。雪野さんに比べれば、全然ですよ」
そう言って、朗らかに笑うエリちゃん。
しかし何が全然って、私の駄目さ加減じゃないだろうな。
「ふーん。すごいんだね。聞いた?」
「自慢の妹だからね」
笑顔で胸を張るヒカル。
その隣には弟がいて、苦い顔で脇腹を抑えている。
「弟はどうなの」
「自慢したい時に弟は無しってね」
だから、隣にいるんだって。
「とにかく、中等部としては高校の混乱に参加する意思はありません。ただ、元野さん達に賛同するという表明はさせて頂きます」
「ありがとう。それだけで十分よ」
「これはあくまでも南地区としての決定ですので。北地区については、私もちょっと」
「それはこっちで。わざわざ、朝からありがとう」
固い握手を交わすモトちゃんと生徒会長。
お互いへの信頼と敬意。
先輩と後輩という枠だけではなく、人としてのつながりを感じさせる光景。
「じゃあ、今から北地区に行くの?」
「ええ。私は学校へ戻るけど、後は丹下さんと一緒に行ってきて」
「私は行かなくても良いと思うけど」
「万が一を考えてよ。南地区はこうでも北地区が同様とは限らないから。みんなの事、お願いね」
地下鉄の丸の内駅で降り、遠くに名古屋城の天守閣を眺めながら北地区へと向かう。
南地区が熱田神宮なら、こっちは名古屋城。
この眺めもなかなか悪くはないな。
「この辺りが、御土居下同心の住居があったところね」
「三の丸」と書かれた史跡の標識を指さすサトミ。
御土居下同心とは、尾張藩主を城から脱出させるための隠密同心。
ショウの先祖に当たる人達で、ただし今はただの公園になっている。
「ショウのご先祖様は、この辺に住んでたの?」
「この辺りは、それなりの身分の人達。ショウの先祖は在郷の武士で、多分今の実家からそう遠くないはずよ」
多分ショウよりも詳しいサトミ。
私からすればなるほどくらいの感想しかなく、お堀を歩く鹿を見てみたいと思うくらい。
本当、こっちはこっちでまた色々と面白そうだな。
「鹿は見ないわよ」
こういうお目付役がいなければね。
やがて見慣れた塀が現れ、奥には高い建物が建ち並んでいる。
南地区や高校より綺麗な感じで、こちらの方が新設校というのが建物からも見て取れる。
「特に、南地区と変わりないね。新しいってだけで。中も同じ?」
「多分変わりないと思うわよ」
懐かしそうに教棟を見上げながら語る沙紀ちゃん。
彼女にとっては母校で、毎日のように中学校を眺められる私達とは違う感慨があるようだ。
ここへ来るまでに時間が経ったせいもあり、正門にいるのは警備員くらい。
彼等に事情を説明し、敷地内へと足を踏み入れる。
雰囲気や正門からの眺めは、南地区や高校と大差ない。
建物が多少新しく、通路の脇にそびえる街路樹がまだ低いくらいで。
「お待ちしていました。元野さんですね」
静かに声を掛けてくる長身の女の子。
モトちゃんが軽く頷くと彼女は丁寧に頭を下げ、生徒会長の使いだと告げた。
「ではご案内いたしますので」
「ありがとう」
「……背、伸びた?」
「少し」
沙紀ちゃんの言葉に、淡々と返す女の子。
ただし顔は赤く、声は震え気味。
感動、それとも喜び。
表情よりも、それらが彼女の気持ちを物語る。
「そうよね。前は、チィちゃんくらいの身長だったのに」
「渡瀬先輩はお元気ですか」
「元気すぎて困るくらい」
「それはなによりです」
穏やかに答える女の子。
しかし、何やら聞き捨てならない台詞を聞いた。
以前は渡瀬さんと同じくらいで、今はサトミと同じくらい。
人間って、そんなに身長が伸びるなのか。
いや。それを言いだしたら、モトちゃんや沙紀ちゃんはもっと背が高いんだけど。
「何食べてるの」
「え」
「いや。背が伸びたって聞いてさ」
「特に普通です。気付いたら伸びてました」
これだ。
背が伸びた人は、これだ。
知らない間にとか、気付いたらとか、何もしてないとか。
それとも、そういう余裕が一番効果的なのかも知れないな。
下らない事を考えてる内に、狭い部屋へ押し込められた。
席は人数分もなく、ショウやケイ達は壁際に立っている。
椅子と椅子の間隔も狭く、正直隣の人と肘がぶつかるくらい。
私は小さいので、その左右の人同士の肘がぶつかりそうだが。
「お待たせしました」
固い口調で狭い部屋に入ってきたのは、いかにもといったタイプの男の子。
名前は違ったが、矢田君を思い出せる雰囲気。
神経質で、周りの様子を気にするといった。
有能かも知れないが、今はあまり良い予感はしない。
「南地区でどういった話があったかは知りませんが、北地区としては学校の意向通りに物事を進めています」
「それはあなた達の自由です。私達は従わせるためではなく、意見を聞きに来ただけですから」
「では、結論は出ています。今言ったように、北地区は学校と一体になって行動します。現在高校で行われている争乱に付いて、皆さん方に協力するつもりはありません」
明確な拒絶。
何人かの取り巻きを連れてはいるが、高校生相手にここまで言えれば大したものだ。
などと感心している場合でもないか。
「我々からの話は以上です。遠くまで来て頂き、わざわざ申し訳ありませんでした」
型どおりの挨拶。
ただサトミが言うように、私達の意見を押しつけに来た訳ではない。
彼には彼の事情。
北地区には北地区の事情があるはず。
それを私達が口を挟む権利はない。
「随分立派になったのね」
苦笑気味にそう呟く沙紀ちゃん。
皮肉ではなく、本当にそう思っているような優しい表情。
生徒会長の方は顔を赤くして、机を手で激しく叩いた。
「私は以前の私ではないんです。確かに丹下さんは先輩ではありますが、今は立場も違う事をお忘れ無く」
血相を変えて話す生徒会長。
それが逆に余裕の無さを感じさせなくもない。
「後輩?」
「まあ、ね。私よりも北川さんの」
「ああ、生徒会」
「それで、南地区の方が何か」
沙紀ちゃんでは旗色が悪いと見たのか、エリちゃんへ狙いを定める生徒会長。
この口ぶりだと、彼女の事は以前から知っている様子。
また、あまり友好的ではないというか親しげではなさそうだが。
「遠野さん達とは友人としてご一緒させて頂いているだけで、他意はありません」
軽く受け流すエリちゃん。
この態度だけ取ってみても格の違いがはっきりと分かる。
それは誰よりも、本人が。
しかし彼女を責められて黙っていられる程、私も人間は丸くない。
「落ち着けよ」
笑い気味に制止するケイ。
彼こそ張りつめた雰囲気は無く、勝手にやらせておけといった顔。
確かに中学生同士のケンカに首を突っ込むのもどうかと思うが、エリちゃんの言葉を借りるなら今は友達としてこの場に来ている。
だったら、私から一言あっても良いだろう。
「第一こうして高校生が大勢で押しかけてくる事こそ、圧力を掛けているようなものです。学校を批判するよりも、まずはご自身達の行動を振り返ってみてはいかがでしょうか。それに付き従うあなたも問題があると思いますが」
ターゲットをエリちゃんに絞る生徒会長。
ここまで大人げないのもどうかと思うが、よく考えれば彼もまだ中学生。
その辺は割り引いて考える必要もあるか。
「大勢と言っても10人に満たないですし、誠意を見せるために皆さんはお忙しい中北地区にまで足を運んで来ています。それと今回の訪問は要望のためではなく、草薙高校としての意思表示にしか過ぎません。また我々として生徒会長への面会を求めてはいませんので、その指摘はいかがと思いますが」
軽く返すエリちゃん。
こっちは本当に中学生かと思うが、兄が兄。
でもってサトミとも触れ合う機会が多いともなれば、これでも抑えているくらいだろう。
「もう結構。議論はする必要はない。早々にお引き取りを」
「では失礼します」
そう言ってドアを開けるエリちゃん。
しかし彼女が出ていこうとしたのと入れ替わりに、誰かが飛び込んできた。
手にはショットガンを持ち、そのまま一直線に生徒会長めがけて走っていく。
「随分面白い台詞を仕込んできたな」
「な、何が」
「俺に対しても理屈を並べるつもりか。とりあえず、グランドを10周してこい」
グラウンドの彼方に見えるジャージ姿。
ショットガンを担ぎ、口に手を当てて速く走るよう促す七尾君。
やっている事は無茶苦茶だが、少し気分は良くなった。
「後輩が迷惑掛けたね」
「私は別に。でも、よろしいんですか」
「よろしいんだよ。生徒会長だろうと何だろうと、俺の後輩に代わりはない。ああいう生意気な台詞を吐くように育てた覚えもない」
「頭が痛いわ」
額に手を当て、ため息を付く沙紀ちゃん。
彼女の心労ももっともで、今までの我慢は何だったのかという話。
大体これでは、学校を何一つ批判出来ない。
「これは高校と北地区じゃなくて、俺とあいつの問題だからね」
「それで済むの?」
「済むさ。あいつがどういう決断を下そうとそれに口出しする気はない。ただ、礼節って物は守らないと」
そう言って、いきなりショットガンの引き金を引く七尾君。
生徒会長は悲鳴を上げ、速度を上げて私達の目の前を駆け抜けていった。
で、礼節がなんだって。
「ちょっと、雰囲気が変わったね」
「元々こうよ。今まで優ちゃん達の前で、猫を被ってただけ」
「そういう言い方をされても困るんだけど。俺の場合、先輩が先輩だし」
そんな彼の視線の先に見える風間さん。
なんのためにここへとも思ったが、確かに彼こそそういう理屈は通じそうにない。
「なんだ、あれは」
「ちょっと生意気な口を利いたんで、かるく説教を」
「ぬるいな、随分。鉛くらい背負わせろよ」
さらりと言ってのける風間さん。
確かに、先輩が先輩だな。
「誰が生意気だって」
風間の頭を真上から掴み上げる大男。
丸刈りで、威圧感のある風貌。
そのまま力を込めたら、首が取れるのではと思うくらいの。
「な、何が」
「お前も走ってこい」
「な、何のために」
「知るか。行け」
投げ飛ばされるようにして解放される風間さん。
しかし逃げ出しはせず、代わりに七尾君を招き寄せた。
「俺は関係ないでしょ」
「無い訳あるか。先輩の言う事は絶対なんだ」
「そう言うノリじゃないでしょう。俺達は」
文句を言いつつ走り出す二人。
先輩と後輩という絆を感じさせる姿。
右動さんは腕を組み、その様子を微笑ましそうに眺めている。
「阿川が連絡してきてさ。北地区に、風間達が乗り込んでくるって」
「はぁ」
「それは冗談として。しかし、まだ学校と揉めてるのか」
半分笑いながら私達を見てくる右動さん。
彼が転校したのは、3年前。
それ以来、何一つ解決していない状況。
彼が笑うのも仕方ない。
「まあ、好きにやるさ」
「好きに、ですか」
「俺達は逃げ出した逃げ出した人間だから、コメントのしようもない。あの時もう少し違うやり方をしてれば、ここまで後を引かなかったかもしれない。と、思いたい訳だ」
寂しげな呟き。
遠くを見つめる視線。
その口元から、わずかにため息が漏れる。
「今だからそう言えるんであって、じゃあ何をすれば良かったは今になっても分からんが」
「後悔、なんですか」
「学校を辞めたのはそうでもないが。結局、後にツケを回しただけだからな。その意味での後悔はある」
彼の苦渋や苦悩は、私には理解しきれない。
当時の出来事も詳しくは知らないし、また彼が言うようにそれ以外の方法が会ったかどうかも分からない。
ただ彼等の行為が無駄とは思わないし、それを無駄にする気もない。
先輩達の築き上げてきた土台の上に私達は立っている。
私達が仮に何も成し遂げられなくても、その時は私達も土台になるだけの事。
無駄なんて事は一つもなく、その積み重ねがいつか高みに届く時が来る。
先輩達と後輩達をつなぐための存在として、私だって少しは役に立てる事もあるだろう。
「走らないんですか」
「もう年なんだ」
「後輩に走らせて、先輩が走らない理由はないでしょう」
「お前、怖いな」
慌てて身を引き、体を解し出す右動さん。
すでに生徒会長は歩くのもやっとの様子で、彼を引き寄せた右動さんが入れ替わりに走り出す。
七尾君や風間さんも後輩だが、彼もまた右動さんの後輩。
伝えたい思い。伝わっている何かはあるはずだ。
「疲れた?」
笑い気味に声を掛ける沙紀ちゃん。
生徒会長はうずくまったまま肩で息をするだけ。
返事は返らず、顔も上げられはしない。
「水持ってこようか」
「甘やかすのは良くないな」
綺麗な、思わず聞き入ってしまう澄んだ声。
振り向いた先に立っていたのは、バンダナを頭に巻いた美青年。
腰に提げた木刀とのギャップが、彼の魅力をより増している。
「佐古さん」
「久し振り。何走ってるんだ」
「それは私にもさっぱり」
苦笑気味に首を振る沙紀ちゃん。
佐古さんは鼻を鳴らし、うずくまったままの生徒会長を木刀でつつき無理矢理立ち上がらせた。
「人を率いたいのなら、弱みを見せるな」
「ぼ、僕は」
「北地区の生徒会長は、古来より文武両道と決まってる。明日から、毎日走れ」
忠告や助言というよりは、すでに命令。
生徒会長はその勢いに押されたのか疲れて何も言えないのか、うなだれたまま教棟へと引き返していった。
「雪野さんに、玲阿君か」
「ええ」
「軽く」
「く」の部分で喉元に向かって突かれる木刀。
半身を開いてそれを避け、スティックを抜いて下からかち上げる。
がら空きの脇腹に跳び蹴りを見舞い、かわされたところで腕に飛びつきひねりを加えて喉に足を掛ける。
「参った」
腱が伸びきる前に降参する佐古さん。
何をしたいのかは不明だったが、私一人が腕にぶら下がっても平気なだけの体力はあるらしい。
「飛びつくなよ」
呆れ気味に諫めてくるショウ。
友達が危険な目に遭って悠長な事を言ってくれるな。
そう思っていたら、地面に落ちていた警棒を拾い上げ私に手渡してきた。
「紙じゃない、これ」
間近でみれば雑な塗装で、木刀ではないとすぐに分かる。
ただしそれは私の視力が低下しているせいもあるが、彼の実力があっての話。
この人なら、割り箸を持っていても真剣と同じだけの威圧感を発すると思う。
「さすがだね」
今度は「が」の部分で懐に手を入れる佐古さん。
その指先がきらめき、手首が返る前にショウの回し蹴りが肩を捉える。
腕はムチのようにしなって佐古さんに巻き付き、ナイフが彼の首筋へと突きつけられる。
「冗談も通じないね、君達には」
「走ってきて下さい」
延々とグラウンド走る風間さん達。
それを遠い目で眺める沙紀ちゃん。
彼女にとっては尊敬すべき先輩達。
その瞳には熱い思いが込められ、自分も一緒に走るといつ言いだしてもおかしくないくらい。
私からすれば、非常識な人達の集団としか思えないが。
「同窓会をやってるって聞いたんだけど」
「上坂さん。下北さん」
「背、大きくなってない?」
可愛らしい感じの小柄な女性が沙紀ちゃんの側により、自分の頭から手を伸ばして沙紀ちゃんの肩辺りに手を当てた。
沙紀ちゃんはそれに困ったように笑って、二人に深く頭を下げた。
「で、あの馬鹿連中は何しているの」
「昔を懐かしんでるんでしょう」
「全く意味不明ね」
興味もないと言わんばかりに視線を逸らす綺麗な女性。
彼女はそのまま私達へと向き直り、値踏みするように一人ずつを見て回った。
「集まりに集まったって感じね。1年前よりは成長してるみたいだけど」
そうかなと思っていたら、彼女の視線は私の頭上を通り過ぎていった。
とりあえず、この人も走らせた方が良くないか。
「右動君達から聞いてるだろうけど、私達は口を出す権限も権利もないのよね。あなた達はよく頑張ってる。ただそれが誇りなだけよ」
明るい笑顔でそう言ってくれる上坂さん。
それは素直に嬉しく、ついこちらも笑顔が浮かぶ。
「破滅に向かっているとしか思えないけど、それはそれでいいんじゃないの」
「破滅って」
「自分の通ってる学校を批判して無事で済む訳無いでしょ。そういう覚悟は必要って事」
突きつけられる現実。
ただそれは分かっている事で、恐れる人は誰もいない。
だからこそ私達はこうして集まり、共に行動をしている。
学校のため、生徒のため。後輩のため。
今までを築き上げてきた先輩達のために。
「せっかく逃げ出す機会を作ってあげたのに」
「済みません」
「あなたも成長したわね。昔は石井さんの後ろに隠れて小さくなってたのに」
「私も、もう2年生。皆さんが学校を去った時と同じ学年です」
「そう」
優しく笑い、沙紀ちゃんの頭を撫でる上坂さん。
下北さんも背を伸ばし、そこに自分の手を重ねる。
「偉そうな事は言えないけど、あなた達なら大丈夫よ」
「私達の恨みを晴らしてね」
「必ず」
真剣な表情で頷く沙紀ちゃん。
下北さんは多分冗談で、「恨み」という言葉を使ったんだと思う。
それでも沙紀ちゃんは、真面目にそれを受け止めた。
「恨み」ではなく、彼女達の思いを。
自分に託された思いを。
志半ばで高校を去り、卒業生にすらなれ無かった人達。
それでも、この学校に思いを馳せる人達。
彼女達に別れを告げて正門を出ると、大男に出迎えられた。
もしかすると三島さんよりも大きくて、さっきの右動さんが普通に思えるくらい。
何よりそれは体型もそうだが、人間的な大きさも起因しているだろう。
「入らないんですか」
「入れた義理じゃない」
即答する河合さん。
彼の隣にいた笹島さんも鼻を鳴らし、サトミの髪に手を伸ばして逃げられた。
「綺麗だけど、愛想がないわね」
「そういうタイプではないので」
「軽く呪ってみようかしら」
赤く燃え上がる笹島さんの瞳。
サトミへ向けて差し出した指先から走る赤い筋。
それが彼女の顔にさしかかる前に、手首を叩いて止めさせる。
「あら、見えた?夕陽と重なると思ったんだけど」
「レーザーポイントなんて」
「もっと安っぽい物よ。光量は、サーチライトと大差ないわ」
ジャケットの袖から落ちてくる小さなライト。
それを足で跳ね上げ、宙に浮かんだところを横から掴む。
「あげるわ。意外に役立つわよ」
「ライトですよね」
「か弱い女には丁度良いのよ。あなたじゃなくて、遠野さんに」
「では」
良く分からないといった顔で私からライトを受け取るサトミ。
今彼女が使おうとしたように目くらましくらいにはなるが、咄嗟に使えるような物とも思えない。
「下らない物押しつけられたって顔ね」
「だって」
「なんでも使い方次第なのよ。遠野さんは、もう気付いてるかも」
「むしろ危険ではないんですか」
「それも含めて」
一瞬垣間見える精悍な表情。
単なる大学生ではなく、修羅場をくぐり抜けてきた者としての。
「まあ、頑張りなさい。というか、これ以上後輩にバトンを回し続けても仕方ないのよね」
「それは分かってます」
「あなた達なら出来るとは言えないけど、悲壮感も無いし大丈夫だと思うわよ。私達の時は、何かと暗かったから」
そう言って笑い、正門から立ち去る笹島さん。
河合さんもため息を付き、正門に背を向けた。
「入らないんですか」
「入れないんだ」
「グズグズ言わないで下さいよ。ショウ、押して」
「おう」
姿勢を低くして、肩からぶつかっていくショウ。
これには不意を突かれたのか、山のような巨体が宙を舞い正門の中へと吸い込まれていく。
ただそこはさすがというべきか、片膝は突いたがどうにか体勢を立て直した。
「あ、あのな」
「入れるじゃないですか」
「精神的な事を言ってるんだ」
「お札を貼られた幽霊みたいな事言わないで下さい」
「もう、ついて行けん」
そう呟いて学内に去っていく河合さん。
私だって彼の言いたい事は分かっているが、ここで立ち止まっていても仕方ない。
過去は過去。
それを清算するという訳ではないが、いつまでもこだわる理由は無い。
彼らが後悔を抱いているとしても、私達はそれに敬意を抱いているのだから。
「すごいのね。あなた達」
涼しげな風のような声。
周りの空気が澄み渡り、深い森の奥から精霊が現れた。
そう錯覚しそうな佇まいを漂わせ、新妻さんが立ち去ったはずの笹島さんと一緒に笑っている。
「河合君や茜は、私達以上に負い目があるのよね。当時の管理案導入には主導的な役割を果たしたから余計に」
「その後運用するところまで見据えての導入ですよね」
「当然問題点も多々あった。だから私達や屋神君と話し合いをしたんだけど、完全でもなかった。それに学校が思っていた以上に介入をしていて、導入後に生徒の自治が守れるかも疑問があった。だから、この子達は立場を変えてまで反対に回ったのよ」
「私の事はどうでもいいの。昔の話。済んだ話よ」
小声でそう呟く笹島さん。
ただし彼女も正門をくぐろうとはせず、またさっきのを警戒してか私達の側にも近付かない。
「大変よね」
「何が」
「色々と。えい」
可愛らしい掛け声と共に、笹島さんの手を引いて走り出す新妻さん。
それにあっけを取られつつ転ばないように必死で追いすがる笹島さん。
気付けば彼女達の姿は正門をくぐり抜けていた。
「簡単な事なのよね」
息を切らして呟く新妻さん。
笹島さんは鋭い目付きで彼女を見据え、何度か足を踏み鳴らした。
「そういう問題でもないでしょ」
「入ってしまったものは仕方ないわ。昔を懐かしんできたら」
「月の出ない晩は気をつけなさいよ」
「お互いに」
たよやかな仕草で手を振り、笹島さんを見送る新妻さん。
病弱という話と落ち着いているイメージだが、今はその例外にたまたまめぐり合わせたようだ。
「私もみんなに会ってくるわ」
「ええ」
「きょうはわざわざありがとう。私達は今更何も出来ないけど」
「いえ。後は、私達だけで十分ですから」
はっきりと、自信を込めて言い切るサトミ。
新妻さんはくすりと笑い、そっと手を差し伸べ彼女の手を握り締めた。
「後はお願い。4月には、生まれ変わった高校へOGとして訪問出来るのかしら」
「必ず」
「期待してるわ」
爽やかに笑い、軽い足取りで歩いていく新妻さん。
私はその背中が小さくなっていくのを見送り、隣にいるサトミを見上げた。
「大丈夫なの?」
「いや。自信ありません。とでも言えばよかった?」
「まあ、それはそれで問題だろうけどね」
「あくまでもモトの代理。あの子ならこう答えると思って言っただけよ」
さらりと説明してくるサトミ。
それってつまり、自分には責任がないって意味か。
殊勝な態度を取ってたけど、一番悪いのは誰かって話だな。
「まあ、いいや。用は済んだし帰ろうか」
「私は少し残っていくから」
「分かった。じゃあね」
「ええ」
私達への挨拶もそこそこに走り出す沙紀ちゃん。
彼女にとっては懐かしい顔ぶれ。
憧れの先輩達。
確かにここで引き止めている場合ではなかったな。
「私達は、学校へ戻る?」
「そうね。一度モトに確認するわ」
端末でモトちゃんと会話をするサトミ。
その表情はあまり芳しくなく、声のトーンも低くなる。
「とりあえず、戻りましょう。授業は行われて無いみたいね」
「モトちゃんは無事?」
「名雲さん達が付いてる」
それを聞いてこちらもようやく安心する。
ただ、サトミの表情は依然として優れないが。
「何かあったの」
「特に無いわ。今までと同じなだけ」
「同じって何が」
「授業は行われなくて、生徒が学校にいない。それだけよ」
確かにそれだけと言われれば、それまでの話。
ただし私達は高校生で、学校に通ってこその存在。
つまり学校に通わなければ、高校生や生徒という肩書きは通用しない。
高校の正門までやってくると、トラックが何台か止まっていた。
荷物を運び込むのではなく、ただ止まっていた。
「何、これ」
気になって近付くと、トラックの後ろにはバリケード。
正門自体も閉じられ、かろうじて人が通れるだけのスペースがわずかに作られている。
「何、これ」
もう一度言って、スティックを抜く。
とりあえずバリケードを足で蹴り、通路を確保。
行く手を遮る分はスティックでどかし、どうにかわずかに空いている正門まで辿り着く。
「何か用ですか」
随分間抜けな事を聞いてくる警備員。
こっちは制服を着ていて、ここは学校。
尋ねる理由は何一つ無い。
「このトラックとバリケードはなんですか」
「すぐにどかしますので」
「いつどかすかじゃなくて、置いている理由を聞いてるんだけど」
それには答えず、正門をさらに閉めようとする警備員。
ただしこちらは小さいのがとりえ。
完全に閉まろうと、柵と柵の間から簡単にすり抜けられる。
もしかしてこのために、私は小さく生まれてきたのかな。
「勝手に立ち入るのは」
「自分の学校へ入るのに、何の許可がいるのよ」
「ユウ、落ち着いて。それとこれを空けて」
「ちょっとどいてろ」
バリケードを蹴り飛ばし、正門の大きな柵に取り付くショウ。
鍵はまだ掛かってないが、警備員達は数人がかりでこれを動かしていた。
しかし彼は腰を落とし、それを一人で完全に押し切った。
息は荒くなり額からは汗が滴り落ちる。
腕は痺れているのか下がったまま。
その隣をサトミは平然と通り過ぎていく。
まあ、いいんだけどね。
「大丈夫?」
代わりにハンカチを出し、彼の額の汗を拭く。
サトミも出してきたが、そっちは私の顔を拭く。
ショウの顔を拭くのは私の役目で、サトミのハンカチを使うのは私の役目。
多分サトミも、その事を言いたかったんだと思う。
「あさっては卒業式ですが、それまでには撤去されるのですか」
静かな口調で尋ねるサトミ。
警備員達は顔を見合わせ、自分達は命令通りに行動しただけだと告げてきた。
そう言われてはどうしようもなく、その命令を出した人間に聞きに行くしかない。
「理事か誰か?」
「ええ。理事会から、バリケードとトレーラーを用意するように言われました。今日は時間が無かったので、トラックを使いましたが」
随分大げさな話になってきたな。
これってつまり、ロックアウトって事か。
「まさか、卒業式をやらせないってつもり?」
「単位さえ取れていれば卒業は出きるから、式自体は形式なんだけれど」
「そうだけどさ」
サトミの言うように、卒業は出来る。
式自体はセレモニーで、そこに出席するしないで評価は変わらないし卒業が取り消される事も無い。
ただしそれに神聖な意味を見出している人もいれば、大切な思い出になると分かっている人達もいる。
何よりこの学校を去る最後の思い出がバリケードとトレーラーでは、あまりにもひどすぎる。
「式自体はやるの、やらないの?」
「さあ。今月一杯は封鎖するとは言ってましたが」
「だったら、やるんじゃない」
スティックで地面を叩き、怒りを発散させる。
彼らはあくまでも言われた事をやっているだけで、責任を押し付けるのは酷だと思う。
それぞれの生活もあれば家庭もあり、命令に従う以外に道は無い。
ただ、それは彼らの理屈。
私達にだって理屈や権利は多少なりとも存在する。
「ユウ、落ち着いて。中に入るわよ」
「モトちゃんは中に?」
「別な門は、まだ封鎖されて無いみたい。時間の問題だろうけど」
「いっそ塀でも壊せばいいんじゃないの」
冗談で言ったつもりだったが、警備員は青い顔をして逃げていった。
ただそれも正解で、冗談は冗談だがやらないという意味でもない。
その後の事を何も考えなければという前提は付くが。
修理費だけでも相当な額で、器物破損という刑法にも触れる。
何よりそんな簡単に壊れるものでも無いだろう。
「今帰ろうとしてたんだけど。来ちゃったのね」
言葉通り、帰り支度を始めているモトちゃん。
確かにバリケードが築かれていては学内に入ってくる生徒もいないだろう。
「ユウ、帰るわよ」
「帰るの?」
「帰らなくてどうするの」
そう言われると困るが、だったらなんのために突破してきたかと言いたくなる。
単に警備員へ悪印象を植え付けただけ。
この後悔は、間違いなく後になってもいい思い出にはならないだろう。




