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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第36話
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     36-9




 荷物を取りにG棟のオフィスへ行ったところで、初めて気付いた。

「そう言えば、ケイがいない。ヒカルと木之本君も」

「東京に行ってるのよ。教育庁と国会に」

「テロでもやりにいったの?」

 一応冗談で言ったつもりだが、それが本当に冗談かは誰にも分からない。

 まさかとは思うけど、そのまさかをする子だから。

「草薙高校へ介入しないよう陳情に言ってるだけ。テロって何」

「だから冗談だって。でもあの子が出かけていって、会ってもらえるの。まだ、天崎さんに頼んだ方が早くない?」

「知り合いがいるみたいよ。教育庁には。国会は、舞地さんや矢加部さんの親戚を回るみたい」

「ふーん」 

 舞地さんの方はともかく、矢加部さんの親戚というのは気になるな。 

 正確には、矢加部さんという名前に。


 大体ケイと彼女は、犬猿の仲どころか何一つ利害の一致しない関係。

 過去の経緯を考えれば、頼んだり頼まれたりするような間柄ではない。

 もしくは、そういう事を言えない自体にまでなっているかだ。

「実際介入するのを止めるのは無理だけど、時間くらいは稼げる。とりあえず年度一杯は押し留めたいわね」

「出来なかったら?」

「介入されても困らないように持っていくだけよ」

 さらりと言ってのけるモトちゃん。

 中央省庁が介入してきて困らない事は無いと思うが、彼女はそれだけの自信と自負。

 何より責任があるのだろう。

 後ろで傍観していればいい私とは違って。

「多分そろそろ戻ってきてるんじゃない?」

「一度聞いてみる。……お土産は?……私は、買ったか買わないかを聞いてるの。……だったら、間違えてないじゃない。……知らない、聞こえない」

 強引に通話を切り、お土産の無事を確認する。

 いや。彼らの無事か。

「今名古屋駅に付いたって」

「だったら、神宮駅ね」



 荷物を寮へ置き服を着替えて神宮駅へとやってくる。 

 帰宅ラッシュを過ぎ、そろそろほろ酔い加減のお父さんが現れるような時間帯。

 ロータリーには暇そうな若者が溢れ出し、冬の寒さも彼らには通用しないようだ。

「ホームまで行く?」

「そこまでして会いたい相手なの?」

 なにやらひどい事を言い出すサトミ。 

 それは同感で、何より彼らの姿が改札の向こう側に見えた。

「おーい」

 両手を振ると、向こうからも両手を振り返して来た。

 ただし返してきたのはヒカルだけで、他の子は誰一人として反応なし。

 むしろ他人みたいな顔で遠ざかる。


 改札を通った彼らを出迎え、まずはお土産を受け取る。

 ひよこ饅頭と浅草せんべいか。

 なんか、オーソドックスな物を買ってきたな。

「不満なのか」

「別に。それで、成果はあったの?」

「介入する事自体を止めるのは出来ない。国に逆らうのと同じだから。あくまでも、それを和らげて時間を稼ぐだけ。その意味では少し間を置けた」

「介入って、何してくるの」

「草薙高校に認められている生徒の自治権の剥奪だろ。それに異議を唱える者への聴取と処分もセットかもしれない」

 淡々と答えるケイ。

 そして彼の成果は、その時間を押し留めただけ。

 教育庁が介入してくるという事すらイメージが良く沸かないので、何もかもが遠く感じてしまう。

「この役立たずがって思ったんじゃないだろうな」

「そこまでは言わないけどね。意味があったのかなと思って」

「意味、ね。なんだよ、意味って」

 普段とは私が言うような台詞を持ち出してくるケイ。

 さすがの彼も、中央省庁の官僚や政治家相手では普段のようにはいかなかったらしい。



 駅の地下にあるラーメン屋さんに入り、やや重い空気の中食事をとる。

 学校での高揚が嘘みたいな静けさ。

 周りの客の声や笑い声が、余計にこの静かさを協調する。

「……立派な高校生だな」

「そうですねぇ」

 耳に入ってくる、年老いた夫婦の会話。

 何の事かと思い彼らの視線を追うと、店のTVにたどり着いた。 

 そこに映っているのは、執行委員会委員長。

 しかし肩書きは「生徒会会長」となっていて、インタビュアーも生徒会長と呼んでいる。

「何、これ」

 席を立ち、音が聞こえるところまでTVに近付く。

「……経営母体である草薙グループ。そこを支配する高嶋家の専横が第1の問題点。我々は規則を改正する事によりその影響力を排除しました。これは現理事会と、教育庁の協力にも支えられています」

「なるほど。学校を私物化していた経営陣との決別という事でしょうか」

「その経営陣と結託していた一部生徒が規則改正反対を訴えていますが、我々は粘り強く説得していくつもりです」

 拳を握り締め、こみ上げる怒りを必至で堪える。


 よくも平気でこういう事を言えたものだ。

 高嶋家が経営母体なのは確かだが、独断で物事を決めていたとは思わない。 

 むしろ学校の運営は、理事会に一任していたはず。

 理事長は、あの学校問題担当理事にすら好きにさせていた。

 それが今回の結果を招いたという事も言えるが、少なくとも専横と呼ばれる行動は私の知る限り存在はしない。

 それをあたかも自分が悪と戦う存在のように振る舞い、公言するなんて許せない。

 自分達こそが専横的に振る舞い、学校を混乱させているのにも関わらずだ。


「つまらんな。ニュース見ようぜ」

 近くの席で誰かが呟き、チャンネルがスポーツニュースに切り替わる。

 咄嗟に振り返り、拳を震わせながら睨み付けるとチャンネルはすぐに元の番組へと戻った。

「済みませんでした」

 小声で謝る、柄の悪そうなパンチパーマのおじさん。

 何も謝らなくても言いと思うし、店中の空気も一気に重くなった。

「分かったわよ、スポーツニュースでしょ。えーとこれか」

 テーブルのリモコンを掴み、チャンネルを変える。

 もうすぐプロ野球が始まるらしく、中日ドラゴンズの練習風景が放送されていた。

「宇野Jr.。今年も本塁打王は確実だ」

 華麗なフィールディングを見せる外野手の下に表示される字幕。

 最近は、誰かの子供という選手が多いな。


 とりあえず自分のテーブルに戻り、端末でさっきのチャンネルを見る。

 この画面にあの顔を映すのは気に食わないが、何を話すかくらいは聞いておきたい。

 しかし内容は、いかに自分達が正しくて高嶋家と私達が不当かという事に終始する。

 インタビューアもそれに相槌を打ち、彼を持ち上げるだけ。 

 矢加部家の特権でこの間のように放送を止められないのかともったら、CMに入った。

「矢加部家と対立するグループね」

「ふーん」

 どうやら私の知らないところで、色々と戦いは行われている様子。

 ただこの放送を見た人は、私達が騒ぎを起こした張本人と思い込む可能性はある。

「反論は出来ないの?」

「今から質問を受け付けますって」

 画面の下に表示される、「質問」というボタン。

 これを押せばTV局につながるが、仮に選ばれても上手く話せる自信は無い。

 感情ばかりが先回りしそうで、止めておいた方が無難なようだ。

「サトミ達は質問しないの?」

「今私が質問をしても、一般的な意見として流されるだけ……。始まるみたいね」

 愛想よく笑うインタビュアー。

 それに促されてスピーカーから聞こえる女性の声。

 何か聞き覚えがあるのは気のせいか。



「お名前は」

「白木と申します」 

 おい。

「では白木さん。ご質問をどうぞ」

「まず一つ。現在草薙高校に生徒会長は存在しないので、その呼び方はおかしいんじゃないんですか」

 また、嫌な部分を突いてきたな。 

 自然と委員長の顔色も変わり、代行職だとぶっきらぼうに告げた。

「では、もう一つ。改正された規則が厳しすぎて、一般の生徒がかなり不満を抱いているみたいですが」

「過渡期にはいろいろな問題があります」

「だったら、クレームを付けている生徒達が悪いとまでは言えないのでは。厳しすぎる規則や、その運用に問題は無いんですか」

「我々は規則通りに対応している。問題は何一つ無い」

「そんな簡単に言い切れるのですか?高校生がそんななんでも完璧に出来る訳ないですよ。大体私の娘なんて、寝たらよだ……」

 強引に切られる通話。

 良く言ってくれたと褒めてあげたい気分。

 と、赤の他人なら言えるだろう。

「帰る」

「あら、もう?」

「ちょっと用事を思い出した」




 自宅に帰り、鼻歌交じりにTVを見ているお母さんに詰め寄る。

「ちょっと、さっきの何」

「どうしたのよ。目の調子はいいの?」

「だいぶ治った。そうじゃなくて、さっきのTV」

 わざとらしく顔をそむけるお母さん。

 ただ、お母さんの旧姓は白木。

 当然さっきの質問者は、この人以外に存在しない。

「一方的な言い分が気に食わなくてね。あのまま放送が終るよりはましだったでしょ」

「途中で切れたよ」

「やっぱり?通じなくなったから、おかしいと思ったのよ」

 自分はストレスを発散出来たせいか、機嫌のいいお母さん。

 こっちは一気に疲れが出てきて、へたり込みたいくらいだが。


 服を着替え、お風呂に入って少し気分を切り替える。

 ダイニングには、さっき頼んでおいたブルーベリージュースが置いてある。

「即効性は無いんでしょ。それに、これって目が疲れてる時に飲むんじゃないの?」

「その辺は良く分からないけどね。治る気になるんだから、少しは精神的にいいかと思って」

「随分悟ってるのね」

 そこまででもないが、とりあえず一口飲んでみる。

 牛乳を混ぜている分酸味は薄れ、マイルドな口辺り。

 これならジョッキ一杯でも飲めそうな気分。 

 あくまでも気分であって、このグラス一杯でも私には多いかなと思うくらいだが。

「それにしても、すごい騒ぎになってきたわね」

「向こうが勝手に騒いでるだけだと思うよ」

「だといいんだけど。それと、こういうのが来てた」

 テーブルに置かれる一枚の書類。 


「えーと。何。緑が芽吹き始め、風も穏やかになりつつこの頃。皆様、いかがお過ごしですか。さて昨今一部生徒の扇動により学内に騒乱が起きています。ただしこれはあくまでも散発的なものであり、現在学校運営に支障はありません。各父兄におかれましてはご心配なくお過ごしくださるよう、ご報告させていただきます。今後事態の変化によっては強制的な措置を取る場合もございますが、その旨はご了承ください。……理事会だって」

「どうなの、これは」

「煽ってるのは学校と、それに操られてる生徒達。少なくとも私は煽ってないし、その理由も無い」

「ただ、これを受け取った親はどう思うかよね。理事会名で出されてるのなら、こちらを信用するでしょ」

 確かにそうだ。


 これは書類に関してだけではなく、さっきのTVも同様。

 理事会の名前が書かれた書類、TVのニュース。

 それを読んだり観たりすれば、大抵の人間はそちらを信じる。

 正しい正しくないかではなく、世間的な信用や影響力。

 少なくとも私のような単なる生徒の発言など、見向きもされない。

 また私達が仮に正しいと思っている親でも、それほどの影響力がある相手に逆らうという気は起きないだろう。

 停学、それとも退学。

 それは将来の進路をも阻む結果につながるのだから。

 ただ正しくは無いと分かっていても、子供の将来のためになら目をつぶる。

 例えばあの理事と委員長が、その典型的な例だと思う。

 良く言えば愛情。 

 悪い言い方をすれば、歪んだ状況。

 どちらにしろ、私達が困難な立場に追い込まれたのは間違いない。


「あの放送、またやらないのかしら」

「ちょっと」

「父兄の集会とかでもいいわよ。聡美ちゃん達に話して、企画して」

 気楽に言って、ブルーベリーを頬張るお母さん。 

 少なくとも雪野家としては、相手が理事会だろうとマスコミだろうと引く気は無いらしい。

 我が家の影響力なんてたかが知れているし学校にすれば、相手にするまでもないかもしれない。

 だけど私にとっては、何にもまして心強い存在だ。

「退学になったらどうするの」

「そんな事、私が許さない」

「学校を」

「優をに決まってるでしょ」

 こういう理不尽な事を言う人が味方なのは、少し困るが。




 リビングでTVを観ているとお父さんが帰ってきて、お土産の餃子をテーブルへと置いた。

 でもって、TVを指差した。

「観てたよ、会社で」

「惚れ直した?」

「それはどうだろうね」 

 苦笑して廊下へと消えるお父さん。

 お父さんの勤め先は市内なので、観ても不思議はない。

 それにローカルニュースのコーナーだったので、放送されたのは多分東海地区でも限られたエリア。

「……いや、違うか」

 草薙高校に通う生徒の大半は、東海地区出身。

 つまりは、これは親や近隣の学校向けと言う事か。

「TVって簡単に出られないでしょ」

「今はどうなのかしら。この前の騒ぎで注目を浴びてるから、さっきみたいなローカルニュースになら出られるんじゃなくて」

「そう。まあ、それはサトミ達が考えるか」

 考えを切り替えて餃子の箱を開けたところで、嫌な声が聞こえてきた。


 TVに映っているのは、執行委員長。

 インタビュアーが違うので、別な番組か別な局。

 ただ話す内容は、さっきと似通ったもの。

 少し頭が熱くなってきた。

「ジュース、ジュース無い?」

「今飲んだじゃない」

「もっと冷たいの」

 居ても立ってもいられず、お母さんを追い抜いて冷蔵庫に取り付き中を覗く。

 とりあえず目に付いた大きめのペットボトルを掴み、グラスを持ってリビングへ戻る。

 相変わらず委員長が自分の意見だけを滔々と述べ、インタビュアーが相づちを打つという状況。


 グラスにジュースを注ぎ、それを一気に飲み干す。

 炭酸の焼けるような感覚が喉を通りすぎ、その冷たさでかろうじて少し気分が落ち着いた。

「自治を主張する生徒もいるが、自分の事も出来ないで自治も何もない。過去退学になった生徒達も、結局自分の面倒すら見れていなかった訳だ」

「ああ?」

 コップをテーブルに叩き付け、ジュースを注ぐ。

 冷えたはずの頭が再び熱くなり、グラスの中身を飲み干しても全く収まりそうにない。

「やれる事とやれない事の見極めが出来ないからこそ、そういう結果になる。生徒は生徒としての分を守っていれば良く、余計な事に手を出す必要はない。まして学校に反旗を翻すなど、もってのほかだ」

「それで?」

「以前規則改正に反対した生徒達は無意味に混乱を招き、それを助長しただけに過ぎない。結局は単なる自己満足で、ヒロイックな立場に陥っているだけだ」

「ああ?」 

 二階に駆け上がり、端末を持って駆け下りてくる。

 そろそろこっちも限界だ。


「では、会長はそうではないと」

「我々は学校と協調して学校を運営していく。自治など幻想に過ぎず、やった気になっているだけだ。そうして無駄な時間を重ね、勉学がおろそかになる理由にしている」

「なるほど。自治制度が、生徒を駄目にしているという事ですか」

「その通り。やったつもり、出来たつもりになっているだけに過ぎない。そういう人間が社会に出ても、権利だけを主張し何も出来ない」

 何だ、それは。

 自分の事でも言ってるのか。

「混乱を起こして自分達の権利を強引に主張するつもりらしいが、そういうごね得が通る事は断じてない」

「規則は必ず守られる。ルールあっての学校生活ですか」

「当然その通り。規則を守れないのなら学校にいるべきではない。残りたいのなら規則を守ればいい。何も理不尽な内容ではないし、大半の生徒は規則を守っている。守れないのは、守れない側に原因がある」

 守る守らない以前に、運用側に原因があるという言葉は出てこない。

 自分を省みる態度は微塵もなく、一方的に他人を批判するだけ。

 これが仮にも、草薙高校を代表する生徒だろうか。

「今日も学内で集会を開いていたようだが、意義があるのなら群れないで直接言いに来ればいい。こちらとしてはいつでも話を聞く用意はある」

「規則に反対する生徒達が逃げているという事ですか」

「それ以外、考えられない」

 面白い。

 本当に逃げているのは誰なのか、はっきりさせてやろうじゃないか。



「……はい、いつもありがとうございます。CBCお客様センターです」

「今放送してる草薙高校の内容に異議があるんですけど」

「番組へのクレーム、という事でしょうか」

「出演者へのクレームです」

 端末がきしむくらいに握りしめ、震える声をかろうじて押さえ込む。

 スピーカーの向こう側で小声のやりとりが聞こえ、担当者が代わる。

「お待たせしました。今放送している番組のディレクターですが、よろしければ出演なさいますか?」

「します」

「ではご職業、年齢、お名前を」

「草薙高校2年、雪野優。17才」

 後ろから頭をはたかれる感触。

 それに構わず、力を込めて端末を握りしめ続ける。

「分かりました。今スタジオと調整していますので……。もう話せるようです。では、どうぞ」

 視線をカメラの下に向けるインタビュアー。

 その顔が微かに引かれ、愛想の良い声がTVと端末同時に聞こえる。

「生徒会長にご意見のある方から通話が入っています。よろしければ、お名前を」

「草薙高校2年、雪野優です」

「雪野さん。では、どういったご意見がおありでしょうか」

 大きく息を吸い、気持ちを落ち着ける。


 いや。落ち着きはしないが、過剰に高ぶった部分を押さえ込んで口を開く。

「まず一つ。別な番組で白木さんが言ってたように、その人は生徒会長ではありません。生徒会長の代行機関のトップ。代行する組織の一人です」

「なるほど。ではご意見をどうぞ」

「規則改正はともかく、その運用に問題があるから混乱してると私は思います。一部の生徒が権力を乱用して、一般の生徒に圧力を掛けてます。そういった面が全く語られてません」

 険しい顔でカメラを睨む委員長。

 こちらも負けずに睨み返し、話を続ける。

「自分の理屈だけを押しつける事こそ問題で、もっと大勢の人の意見を聞いてそれを取り入れるべきだと思います。今はただ学校と生徒会の一部が、自分達の考えだけで行動していますから」

「なるほど」

「それと最後に一つ。退学した人達は、全員学校のために生徒のために戦った人達です。誰よりも草薙高校の事を思っていた人達で、誹謗や中傷を受けるいわれはありません。彼等がいたからこそ、草薙高校は立派な学校であり続けた。それは誰もが分かってますし、私はそれが誇りです」

 言いたい事は全部言った。

 言いたい事は全部言った。

 後は野となれ山となれだ。

 いや。なっても困るけど。


 委員長が血相を変えて反論しようとしたところで、インタビュアーが早口になってコーナーを終らせた。

 番組はそのままCMへと入り、これでもう彼が話す機会は無くなった。

 後は端末の通話を終えるだけか。

「どうもありがとうございました。お仕事、頑張って下さい」

「え、ああ。こちらこそ」

「では、失礼します」

「あ、はい。どうも」

 戸惑い気味の台詞を聞きながら通話を終えた途端、すぐに着信が入る。

 でもって、もう一件。

 少し冷や汗を掻きつつそれに出る。


「ユウッ、何してるのっ」

 同時に怒るサトミとモトちゃん。

 台詞まで一緒とは、ちょっと感動すら覚えるな。

 冷や汗を覚えながら、それでも端末を強く握り締めて言い返す。

「少なくとも間違えた事は言ってない。そうでしょ」

「言ってる事は間違えて無くても、TVで言わなくても良いでしょ。あなた、公然と学校を批判したのよ」

「だから何よ。先輩達を馬鹿にされて、勝手な事ばかり並べ立てられて黙ってろてっいうの?その方が、よっぽど問題じゃない」

「もういい。ちょっと疲れたわ」 

 小声でそう呟きフェイドアウトするサトミの声。


 彼女よりはもう少し根気のあるらしいモトちゃんは、軽くため息を付いて切り出した。

「ユウの言いたい事は分かるけど、あの番組は東海地区全域に流れてるのよ。視聴率が1%でも、何万人が見てる事になるんだから」

「私たちの主張が広まっていいじゃない。あの身勝手な言い分を並べ立てられるよりは」

「明日からどうなるかとか、考えて話した?」

 その質問には答えない。

 どうして答えられないか。

 そんな事、少しも考えてなかったから。

 モトちゃんはもう一度ため息を付き、疲れたといってやはり通話を終えた。


 確かにあまり賢いやり方ではなかったと、今になっては思う。

 だけどあれを見過ごすくらいなら、学校と戦うなんて言葉は使いたくない。

「私、間違ってるのかな」

 恐る恐る尋ねると、お母さんは何がと言う顔で私を見てきた。

「言いたい事があるのなら言えばいいのよ。少なくとも私は、批判する資格も無いし」

 苦笑して肩をすくめるお母さん。

 そう言えば、先にやったのはこの人か。

「お父さんは、どう?」

「自慢の娘だなって思うよ」

 軽く私の頭を撫でるお父さん。

 それを見てくすくす笑うお母さん。

 世界中の誰もが敵に回っても、この二人だけは私を守ってくれる。 

 理由も理屈も関係なく、私のそばにいてくれる。

 その事が改めて分かっただけでも、良かったと思う。

 この先何あっても、この気持ちさえあれば大丈夫。

 理由でも理屈でもない。

 何より私の心がそう告げている。




 翌朝。

 目覚まし時計より早く起きて、軽く外を走る。

 はっきりしない意識のままシャワーを浴び、制服に着替えてご飯を食べる。

 少しずつ覚醒していく意識。

 蘇る記憶。

 でもって自己嫌悪に陥っていく。

 何も、TV局に連絡する事は無かったな。

 しかも、放送に割って入るなんて問題外。

 本当、我ながらひどすぎた。

「優、どうしたの」

 箸を持ったまま固まる私を怪訝そうに見つめるお母さん。 

 昨日TVで話したのはお母さんもだが、特に気にした様子はない。

 ただ私は思いっきり本名を明かしたので、その違いは大きいと思うが。

「なんでもない。ご馳走様」

「目の調子は?」

「え?」

 それは全然意識していなく、眼鏡こそ掛けてはいるが暗い感じは全くしない。


 多分薬品を浴びて以降、今は一番見えている状態だと思う。

 それ以前の遠くの物まではっきり見渡せる程には戻っていないが、日常生活には何も支障がないレベル。

 もしかすると、TVで言いたい事を言ったのが聞いたかもしれない。

 ただもう一度やってさらに良くなるかは疑問で、今度はストレスと自己嫌悪で悪化する気がしなくもない。

「少し吹っ切れたのかもしれない」

「そう。ブルーベリーは?」

「ああ、そうか。それだけもらう」

 小さな紙袋をもらい、リュックにしまって洗面台に向かう。

 昨日とはまた違う今日という一日。

 後で後悔しようとも、そこには何かの意味がある。 

 そんな思いを、心の中に刻み込む。




 玄関を出たところで、突然明るい光を浴びた。

 咄嗟に顔を覆うが光より早く動ける訳はなく、一瞬めまいがする。

「昨日、見ましたよ。ちょっと、お話を」

 端末片手に、馴れ馴れしい様子で近付いてくるスーツ姿の若い男。 

 その隣には、カメラを構えた女が一人。

 どうやら、私を取材に来たらしい。

 名前さえ分かれば住所を調べるのは簡単で、最近この地域での話題の一つにスポットを当てるといったところか。


 ただしこの馴れ馴れしさと、何よりいきなりフラッシュを浴びせられたのが気に食わない。

 目の調子は悪くはならなかったが、強い光は今でも出来るだけ浴びたくない。

「学校へ行くので、話ならその後で」

「こっちもニュースに間に合わないんですよ。いいじゃないですか、少しくらい」

「それはそっちの都合でしょ」

「取材には答える義務がありますよ。権利を主張したいのなら義務が」

「ニュースに出る義務なんて無いわよ。それと、撮らないで」

 近付いてきたレンズをスティックで押し、手首を返して向きを変える。

 それと同時にフラッシュが焚かれるが、今度は顔を反らしているので事なきを得る。

「ちょっと、ふざけないで下さい。こっちは仕事なんですよ」

「話なら後で聞くって言ってるでしょ」

「これだから子供は。こっちが聞いてやるって言ってるんだから、素直に話をすればいいんですよ」

 非常に上からの態度。


 少しだが、マスコミと言うもの体質を垣間見た思いがする。 

 どちらにしろ相手にする気は無く、何よりフラッシュを焚くのが我慢出来ない。

「私は急いでるの。それと、目に悪いからフラッシュは焚かないで」

「細かいな。雑誌に載れば人気も出て、スカウトが来るかもしれませんよ」

「馬鹿じゃない。それとも、そうやって女の子を騙してる訳」

「言葉には気を付けて下さいよ。こっちは自由にどんな事でも書けるんですからね」

「だったら書けば。それと、撮らないでって言ったでしょ」

 再び近付いてきたカメラをスティックで叩き、地面に落とす。

 鈍い音と共にレンズが取れるが、こちらとしてはせいせいしたくらいで何の感情も湧いてこない。

「取材拒否と暴力ですか。これはちょっと問題ですね」

 舌なめずりが聞こえてきそうな顔付き。

 もしかするとこれが目的での挑発だったかもしれないな。

 どちらにしろこれで臆するようなら、私は今までの人生を歩んできてはいない。

「ちょっと車にお願いします。じっくり話を聞かせてもらうので」

「乗る訳ないでしょ」

「乗らないと、来週号には」

「肖像権の侵害と脅迫。取材倫理規定からの逸脱。名刺か記者クラブの所属証を提示して」

 私の肩を抱きながら、厳しい口調で追及するサトミ。

 男と女はびくりと体を震わせ、後ろ向きに下がり出した。

「顔写真は撮ったから、身元を調べるのは簡単よ。フリーランスでもどこ所属でも、この世界では二度と食べて行けないと思う事ね」

「そ、それは、その。ちょっと、我々もやりすぎの」

「許可無く私達を撮影、もしくはそれを掲載した場合は必ず提訴するからそのつもりで。今後一切例外は無い。どうしても会いたいのなら、裁判所で会いましょ」

「ひっ」

 悲鳴を上げ出す二人。

 それと同時に、周りにいた同業者らしい人間もそれとなく立ち去っていく。


 サトミは私の肩を抱いた腕に力をこめ、自分の方へと引き寄せた。

 柔らかくて気持ちいと言いたいが、妙に力がこもっている。

「こういう事になるって思わなかったの?」

「もう取材は来ないんでしょ」

「来ないわよ」

「だったらいいんじゃない?」

 それもそうね。

 とは間違っても言わず、冷たい指先が喉元を撫でる。

「程ほどにね」

「な、何が」

「何がかしら。頚動脈ってどの辺りかしら」

 知りたくも無いし、教えたくも無いよ。



 教科書を取りに寮へ戻ったところで、あちこちから声を掛けられた。

「見たわよ」

「何がしたかったの?」

「何考えてるの」

「で、次はいつ?」

 次なんて無いと思うし、もう出る気も無い。

 ただ好意的な反応が殆どで、付きまとわれる事も無ければフラッシュなんて当然浴びせられはしない。

 ここは私の居場所なんだなと、しみじみ思う。

「目の調子は、いいみたいね」

「分かる?」

「探るような動きが無いから」 

 手を前に出して歩くサトミ。


 多分それは大げさな表現だが、間違いではない。

 顔を当てるより、手を当てた方がまだましで回避もしやすい。

 サトミがやった程極端な動きはしないにしろ、手で探ったりすり足気味になるのは仕方なかった。 

 でも今ははっきりと見えていて、人の手を借りなくてもいいしスティックを付く必要も無い。

「昨日のあれが利いたのかもね」

「だったら、もう一度出る?」

「いや、それはない」

 はっきり答えて自室に入り、お茶を飲んでいたモトちゃんと顔を合せる。

「おはよう」

「おはよう。調子良さそうね」

「いいよ。目の調子も良くなってきた」

「だったら、私から言う事は無い」

 優しく微笑み、マグカップを片付けるモトちゃん。


 この辺りの包容力が、サトミとの違いだな。

 そう思った途端、後ろからの強烈な視線。

 その事を言ってるんだっていうの。

「えーと、今日の授業はと」

 リュックに教科書を放り込み、それを背負う。

 授業が今日行われるは分からないが、学校へ行くんだから持っていくのは当然の事。

 これは必要とか必要でないという以前に、心構えの問題だ。



 部屋を出て玄関にたどり着くと、改めて女子生徒達に囲まれた。

「すごかったです、昨日は」

「感動しました」

「草薙高校の夜明けは近いですよ」

「雪野優万歳」

 どうも昨日の余韻が残っているのか、かなり浮かれ気味の彼女達。

 私は未だに自己嫌悪を引きずっているため、出来ればそっとしておいてもらいたいが。

「今日はどうするんですか」

「どうもしない。TVにも出ないし、そっちはサトミ達が担当だから」

「えー」

 一斉に上がるブーイング。

 文句があるなら、代わりに出ろと言いたいな。

「とにかく、あれは失敗だった。言った事じゃなくて、TVに出たのが。じゃあ、そういう訳で」


 人の隙間をすり抜け玄関を出て、早足で歩く。

 いつもと同じ景色が今日は色鮮やかに映る。

 多分それだけ、今まで暗く見えていたんだとも思う。

 完全に治った訳ではないが少しずつ元に戻っているのは、改めて理解出来た。

 それは昨日の出来事だけではなく、私を支えてくれた大勢の人の助けにもよるだろう。

 後は慌てず、ゆっくりと進んでいこう。

 そうして私を助けてくれた人へ報いるためにも。



 正門にたどり着いたところで足を止め、後ろを振り返る。

 生徒は後からいくらでも歩いて来る。

 ただ彼らは正門を通り過ぎ、そのまま先へと向かう。

 この先には別に何も無く、今は東から正門に近付いているので中央卸売市場が見えてくるだけ。

 そして正門にたどり着いた所で、看板が目に入る。

 「現在工事中につき、進入禁止。通行は西門か東門から」

 とある。

 東門は神宮駅からも近いので利用する人もいるが、西門は通った記憶も曖昧。 

 ただ正式な西門以外にも通用口は何ヶ所かあるので、そちらへ行けという事だろう。

「工事するような場所でもないよね」

「検問でも作る気じゃなくて」

「まさか」

 そう言って笑いかけたが、サトミはくすりともしない。

 呼び方はともかく、警備員を常駐させる小屋なり詰め所を外側にも作るという事か。

「私達だけ立ち入り禁止にする気かな」

「それか、反抗的な生徒は全員締め出すかね」

「本当だとしたら、許せんな」

「だったら、また演説したら」

 笑い気味にからかってくるモトちゃん。

 これは当分、何かにつけて言われそうだな。



 大きく迂回したせいで、教室に付いたと同時に予鈴が鳴った。

 ゆっくり出てきた生徒は多分遅刻だろう。

「間に合ったな」

 窓から顔を覗かせ、足を引っ掛けて入ってくるショウ。 

 確かに時間は守られた。

 それ以外の事が守られたかはともかくとして。

「危ないから止めてよね」

「遅刻するよりはましだろ」

「ましなの?」 

「さあ」 

 首を振り合うサトミとモトちゃん。

 多分遅刻した方がましだと思うけどな。

「昨日のTV、すごかったな」

「もういいんだって、それは」

「だったら、名乗るなよ」

 優しく笑い、私の頭を撫でるショウ。


 それに少し甘え、体を気持ち分寄せる。

 寄り添いまではしないけど、彼の香りが感じるくらいまでの距離までは。

「ビデオとか無いの」

「無くも無いけどね」

 私を見て、言いづらそうに答える木之本君。 

 正直は美徳だが、今に限っていえば付込まれる隙に過ぎない。

 というか、DDを渡さないでよね。

「校内放送で流していいのかしら」

「良くないわよ」

 スティックを伸ばしてDDを軽く押し、サトミの手から離れたところで足を振り上げ甲に乗せて引き寄せる。

 コピーはいくらでもあるだろうし持ってるのは木之本君だけではないにしろ、目の前にあるものだけでも無くしたい。

「格好良いと思ったけどね、僕は」 

 ようやくの褒め言葉。

 にこにこ笑うヒカルに手を伸ばし、固い握手を交わす。

「真似をしようとも思わないけどね」

 そのまま握りつぶしてやろうとも思ったが、それ以前に手が回らなくて止めた。

 この子の処分は、また後で考えよう。




 ケイが教室に着いたところで本鈴が鳴り、村井先生がやってきた。

「では、HRを始めます。まず一つ」 

 どこかで聞いたような言い回し。

 間違いなく、昨日の私の真似だな。

「何か言いたいの」

「高嶋家の独裁打倒って事くらい」

「されないし、独裁もしてないわよ。あなたは学校を誇る前に、自分を誇れる人間になりなさい」

 あっさりいなす村井先生。

 彼女は私から視線を外し、バインダーを小さく振って教室全体を見渡した。

「今日も授業は行われません。が」

 腰を浮かしかけた生徒は、彼女が手を下に下げる事で沈められる。


 空気が十分落ち着いたところで、彼女は再び話し始めた。

「それは、他のクラスの話。ここでは授業を行います」

 一斉に上がるブーイング。

 その程度には一切動じず、ホワイトボードに今日の予定を書き込み出した。

「午前中は通常に授業。お昼を挟んで、午後から体育。それと授業は行われないけど、テストは実施されるから忘れないで」

「嘘でしょ」

「嘘じゃないのよ。勉強しなくてもテストなんて簡単だと思う人は、教室を出て行って結構。……いないようね、では現国の準備をして」



 今日の時間割にはないが、端末内のデータやネットワーク上の資料は一生掛かっても使い切れない程存在する。

 それらを呼び出し、古典小説を読み進める。

「テストなんて本当にやるの?」

「やっても良いじゃない。何か困る?」

 平然と、枝毛を探しながら答えるサトミ。

 私からすれば天が降ってくるような話なんだけど、彼女からすれば空に雲が浮かんでいるのと同じくらいの反応。

 驚く理由もなければ、慌てて何かをする必要もない。

「……待てよ」

「勉強は良いの?」

「いや。もっと大切な事」

「何よ、勉強より大切な事って」

 苦笑気味に指摘するサトミ。

 確かにそれは言い過ぎか。


 ただ、何かが心の中に引っかかっている。

 昨日のTVでの、委員長の肩書き。

「そう。生徒会長。選挙はどうなったの」

「まだ告知段階よ。でもこれでは、選挙どころではなさそうね」

「それも狙って授業を中止してるのかな」

「上手く利用されてるのは確かね。ただこうした行為があの男へ有利に働くとも思えないし、実際はどうなのかしら」

 枝毛を探すのも飽きたのか、私の髪を手に取るサトミ。

 私のは短いので、多分枝毛になる前にカットされていると思うが。

「前より長い?」

「ああ。最近美容院に行ってないから。色々忙しかったし」

「伸ばしたら、このまま」

「それもどうかな」

 中等部の頃伸ばしかけた事はあったが、不評だったのですぐに止めた。

 端的に言えば、かなり笑われたので。

 座敷童が見たければ、鏡を見るのが一番早い。


「勉強はどうしたの」

「それよりも大切な……、事はないですね」

 バインダーが振ってくる前にそう付け加え、端末に向き直る。

 しかし主人公の気持ちなんて、その時の読み手の心境にも左右されるから一定ではないと思うんだけどな。

 作者の公式な回答がある訳でもないんだし。

 そんな、試験に使われる事を前提とした作品も嫌だけど。

「ほら。この短文を作りなさい」

「はいはい。「あたかも」を使って短い文章を作れ。か」

「えーと。そんな事があたかもしれない」

 後ろから聞こえるヒカルの声。

 本気じゃ無いだろうな、この人。



 まずは1時間目が終了。

 試験に直接役立つような内容ではなかったが、一人で予習している時とは違う勉強の感覚を少し思い出した。

「次は理科よ。理科準備室に行くから付いてきて」

「それはちょっと」

 手を挙げて意見するサトミ。

 言うまでもなく私のためを思っての言葉。

 村井先生はくすりと笑い、静かに教室のドアを指さした。

「大丈夫よ。忘れ物をしないようにね」


 多少憂鬱な気持ちで廊下を歩く。

 自然と景色は暗く見えがちで、これは視力ではなく気持ちが大きく作用している。

 眼鏡を掛け、スティックを取り出し慎重に歩く。

 どちらも今は必要ないが、何かに頼らないと駄目になりそうな心境。

 そんな事に、自分の弱さを改めて痛感する。

 サトミとモトちゃんの手を借りて席に付き、大きく息を付いて机に顔を伏せる。

 意味もなくこの教室を使うはずはない。


 ただ、出来れば避けたい場所。

 しかし、逃げたくないという気持ちもある。

 前回はかろうじて耐えられたが、好んで何度も足を運びたいとも思わない。

 矛盾と不安。

 意識が薄れる中、そっと後ろから肩に手が置かれる。

「大丈夫?」

 聞き馴染みのある優しげな声。

 ゆっくり振り向くと、モトちゃんのお母さんが私の顔を覗き込んでいた。  

「どうしてここに」

「良く分からないんだけど、授業をしてくれって」

「授業?」

「そう。理科の授業」

 ホワイトボードの前でにこりと笑う村井先生。

 モトちゃんのお母さんは彼女に一礼して、そちらへと歩き出した。


「どういう事?」

「さあ」

 大きく首を振るモトちゃん。

 サトミは素早く立ち上がり、まさかという顔で口元を押さえた。

「ちょっと待って。ちょっと待って」

「何を」

「ちょっと待って」

 私以上に落ち着きを無くすサトミ。

 それに構わず、モトちゃんのお母さんはホワイトボードの前に立って今度はクラスメート全員に一礼した。

「初めまして。私は元草薙高校の教師で、元野と申します。教職を離れてかなり経ちますが一応フィールドワークは今でも行っていますので、こういった実験はそれなりにこなせるかと思います」

「名前からも分かるように、先生は元野さんのお母さんです。教師が動かない分父兄の肩に協力してもらうようにもしますので、今後もお楽しみに」

「まさか」

 もう一度呟くサトミ。

 その意味を尋ねる間もなく、モトちゃんのお母さんがドアを指さした。

「必要な機材を端末に転送したので、それを持ってきて下さい」

「私が行く」

「いいの?」

「分からない」

 そう答え、それでも足を踏みしめ立ち上がる。

 導かれた道を歩くために。

 人の気持ちを受け止めるためにも。




 全身が総毛立つ感覚。

 薄暗い室内。

 理科室以上に強い薬品の香り。

 壁に並んだ棚と、非常排気用のボタン。


 「危険・取扱注意」


 の張り紙が、嫌でも目を引く。

 蘇る記憶。

 目の奥に走る痛み。

 強烈なめまいと吐き気。

 それらが疑似的な物だとしても、それを感じている以上現実と変わりない。

 胸に手を当てて息苦しさを堪え、大きく深呼吸してゆっくり理科準備室へ足を踏み入れる。

 棚には全て鍵が掛かり、棚自体も壁に固定されている。

 地震が来ても倒れてくる事はないだろう。


 そう思った途端足元が揺れる。

 地震ではなく、めまいと震え。

 棚に手を付き、思わず小さく悲鳴を上げる。

 視界の隅に映った薬品の瓶。

 瓶と同サイズのケースに入れられて、そのくらいではわずかにも動かない。

 だけど私は慌てて飛び退き、反対側の壁にぶつかった。

 あっさり揺らぐ心。

 崩れ去る自信。

 少し視力が回復しただけでいい気になっていた。

 もう大丈夫だと、どこか軽く見ていた。


 でも現実はまるで違う。

 この場に来るだけで意識は薄れ、心は乱れる。

 立っているのもままならず、手足の震えは止まらない。

 それでも一歩、また一歩と踏み出していく。

 逃げるのは簡単で、誰も責めはしない。

 そうする事が許され、また勧められる今の自分。

 ここに来るのは負担でしかない。

 嫌な記憶が蘇り、ストレスを溜めて視力を悪化させるだけ。


 ここには何もない。

 そう。何も。


 指定された器具を箱に入れ、静かな足取りで準備室を出る。

 慌てる事はない。不安になる必要もない。

 ここにあるのは嫌な記憶と思い出だけ。

 それはもう、過去の話。 

 忘れはしないし消えもしない。

 だけどそれだけに捉えられる必要はない。

 めまいと震えは止まらない。

 鼓動は早く、息は浅い。

 それも私が生きているからこそ。

 薄くても意識を保っているこその証。

 逃げるのなら、すぐにでも出来る。

 でも今は、まだその時ではないと思う。

 自分の足で立ち、歩き、自分の意志で動ける内は。

 そう、まだまだこれからだ。













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