36-6
36-6
朝日が眩しく、サングラス越しでも少し辛いくらい。
出来るだけ目を閉じ、スティックを頼りに医療部から東門へと歩いていく。
寮生や近隣住民のために、門から医療部はすぐ近く。
目をつぶっていても迷う事は無い。
むしろ、目を開いている方が迷うんじゃないだろうか。
「迎え、来てますよ」
真横から聞こえる声。
門は警備員さんが常駐しているので、多分その声。
しかし、迎えって何なんだ。
「人が来てるんですが」
「車が止まってます。昨日の夜から」
東門前の広い通り。
塀の脇に停められる一台の車。
その隣に歩み寄り、中を覗き込む。
シートを倒し、仰向けになっているショウ一人。
「ちょっと」
窓ガラスをノックし、目を覚まさせる。
ショウは敏感に反応し、天井に頭をぶつける寸前で動きを止めた。
「何してるの」
「寝てた」
別に間違ってはいない。
私の聞きたい事でも無かったが。
「今日退院するとは限らなかったんだけど」
「退院したんだろ」
「まあね」
「だったら、乗れよ」
いまいち噛み合わない会話。
それでも助手席に乗り込み、サングラスをかけ直して目を閉じる。
後は彼の運転に任せて、休むとするか。
静かに走り出す車。
走ってると分かるのは、シートから伝わってくる振動と若干感じる前からの圧迫感。
昨日は良く寝られたので眠気は無く、目を閉じていても日差しが気持ちいいと思えるくらい。
隣にショウがいて、車内は暖かくて、自然と心も温かくなって。
幸せって、こういう事を言うのかな。
「欠伸してるけど、大丈夫?」
「な、なに?」
悲鳴みたいな声を上げてくるショウ。
でもって彼は私の目の前に、大きな手をかざした。
正確には、かざされた風圧を感じた。
「起きてるのか」
「目は閉じてる」
「どうして欠伸って」
「しなかった?」
「したけどさ」
少しの間を置いて答えるショウ。
欠伸をしたと思ったのは、わずかな空気の揺れと呼吸音。
遮蔽された車内だから分かる事で、外ならここまで敏感には感じなかったと思う。
「本当、達人だな」
「欠伸が分かっても、何の役にも立たないじゃない」
「それはそうだが」
ゆっくりと停車する車。
すぐ隣にバイクが付き、その振動が車内にまで入り込む。
こうなるとショウが何をやってるかは理解しづらい。
基本的には音と空気や床の振動を把握しているだけ。
ただ前みたいに神経をすり減らしている訳ではなく、あくまでも自然にそれが分かるだけの事。
眩しささえ我慢すれば目は開けられるので、無理に目を閉じる必要もない。
だけど今は閉じている方が楽で、この方が自分にとっては自然。
とにかく無理をする必要は無く、出来る事だけをやっていけばいい。
「信号変わったよ」
「……見えてるのか」
「他の車が前に出たでしょ」
「出たと言う程遅くも無いぞ」
すぐに加速の感覚がして、体が横へと流れ出す。
視力を失った時の車酔いの原因はこれ。
自分の感覚とは関係なく体が振り回され、平衡感覚が完全に狂ってしまっていた。
目が開けていれば視点を一点に定めて平衡感覚を保てるが、今は目を閉じている状態。
この場合は揺れに合わせて体をそちらへ傾ける。
一番手っ取り早い方法で、運転手が酔わないのもこのせいだ。
「結構混んでるね」
「見えてるのか」
「ラジオラジオ」
「ああ。そうか」
ため息も付かないでよね。
女子寮まで送ってもらい、彼の手を借り自分の部屋へとやってくる。
距離を考えれば良かったんだろうけど、お母さん達に心配を掛けるのも少し気が引けた。
最近立て続けに病院通いをしてるので、これはさすがに私も気を遣う。
本当に何もかもを頼り切るというのは、やはり難しい。
「朝帰り?」
「不良」
「不潔ですっ」
「見損なったわ」
以前とは違う罵声を浴びながら廊下を歩き、自分の部屋へと辿り着く。
誤解だと言いたいが、訂正するのも馬鹿らしい。
何より、誤解でも私の気分は悪くない。
「どこ行くんだ」
「部屋へ」
「通り過ぎてるぞ。本当に大丈夫か」
「何一つ問題ない」
今は浮かれて通り過ぎただけだ。
などとは口が裂けても言えないので、それ以上は何も言わずカードーキーをスリットに差し込む。
「おはよう」
「ああ、いたんだ」
サトミの声がする方へ手を振り、靴を脱いで部屋へと上がる。
部屋の中なので少しだけ目を開け、彼女の顔を確かめる。
優しい、私をいたわるような表情。
その体に抱きついて感謝を伝え、手を取ってクローゼットの前まで連れて行く。
「服出して」
「学校へ行くの?」
「行くよ」
「制服でいいのね」
この部屋については私よりも詳しいので、すぐにベッドへ制服と上着が並べられる。
後は服を脱いで、それに着替えるだけだ。
「脱ぐなよ」
少し怖い声を出して制してくるショウ。
普通逆だと思うんだけど、この辺がいかにも彼らしい。
「ああ、そうか。すぐ着替え終わると思うけど、どうする?」
「ここの駐車場に車を置いてくる」
「分かった。玄関か、門で待ってて」
軽く肩に触れる感覚がして、足音が遠ざかりドアが閉まる。
それを確認してから服を脱ぎ、サトミから渡される順番で身に付けていく。
今私が判断したのは音と振動だけ。
つまり彼が玄関の内側からドアを閉めても、出て行ったのと同じ音はする。
ただこれは、彼の人間性を考慮しての話。
間違ってもそんな真似はしないし、同じ部屋にいても見ようとはしないだろう。
まあ彼になら見せても困りはしないが。
「赤いけど、熱でもあるの」
「いや、全然。春じゃないの、そろそろ」
「まだそこまで暖かくはないでしょ。上着は」
「着るよ」
後ろからコートを掛けてもらい、袖を通す。
最後に腕から足に掛けて軽く触れ、おかしいところが無いか確認。
サイズの小ささ以外は問題ないだろう。
「外までお願い」
「いいけど。急にどうしたの」
「これからは、人を頼る事にした」
「そう?あなたってそう言いつつ、結局自分でやるから怖いのよね」
それでも私の手を取り、ゆっくりと歩いていくサトミ。
玄関に来たところで足を動かし、自分の靴をつま先で引き寄せる。
行儀は悪いが、裸足で飛び出ていくよりはましだろう。
「今、頼るって言わなかった?」
「履くのは自分で出来るから」
ただ理由はそれだけではない。
さすがに私も、サトミに靴を履かせてもらうには抵抗がある。
端的に言えば、彼女にそういう真似はさせられない。
これは頼るとか頼らないといった事とは別な話。
多分モトちゃんなら理解してくれる事だと思う。
「モトちゃんは?」
「まだ寝てるわよ。昨日も遅かったから」
「サトミは遅くなかったの?」
「交代で寝たから。今はちょうど、私が起きてる時間だったの」
なにやら壮絶な話になってきた。
徹夜ではないけど、二人はそれに近い事をしていた訳か。
ただし今の私にそれは無理があるし、手伝える事も限られている。
今の私は体調に気を付け、少しでも早く元に戻るよう心がけるのが先決だ。
「ユウが退院したのは伝えてあるから、学校には来ると思う」
「休むつもりだったの?」
「言ったでしょ、ずっと起きてたって」
真横から聞こえる綺麗な欠伸。
これを思うと、ショウの欠伸はライオンのそれに近かったな。
人と嬌声と熱気。
玄関を埋め尽くす女子高生のエネルギー。
正直近寄るのもためらわれる程のパワーで、多分蛍光灯の一つくらいは簡単に付くと思う。
「私は昨日入院してて、今送ってもらっただけ」
「誰と話してるの」
「誰って」
なんとなく手を伸ばすが、その先は固い壁。
玄関から入ったホールなので、音が非常に反響しやすい。
こうして人が多かったり反響すると、音の定位が掴みづらい。
これは今後の課題だな。
「とにかく何も無いんだから解散して」
スティックを背中から抜いた途端、ホールの空気が凍り付いた。
まさかと思うけど、これで殴られると思ったんじゃないだろうな。
「杖よ杖。ショウ、手をお願い」
「ああ」
今度はどよめきが沸き起こり、肌で敵意を感じ出す。
誰だ、私が慕われてるって言った人は。
「じゃあ、サトミ」
サトミの柔らかい手を握るが変化なし。
というか、むしろ敵意が強まったんじゃないのかな。
とはいえ実際に妨害してくる人は誰もいなく、あくまでも冗談の範囲内。
時折感じる刺すような視線は、その限りでは無いと思うが。
サトミに手を引かれて、正門へと辿り着く。
いつもの制服着用を呼びかける集団の声は無く、ただ空気は途端に張り詰める。
これにはさすがに目を開けて、一度状況を確認する。
正門に並ぶ警備員。
トンファー型の警棒は腰から抜かれていて、これだけでかなりの威圧感。
警備員の態度も高圧的で、あまり朝にはふさわしくない光景と言える。
名目は昨日の正門での騒動を考慮してといったところだろう。
ただこれにどんな意味があるのかは分からないし、生徒を力づくで押さえ込むと言う姿勢を示すのなら逆効果。
むしろ反発を強めるだけだ。
朝日が辛くなってきたので目を閉じ、スティックを足元へ向けて歩き出す。
何もしていないのならこちらも関わる必要は無い。
逆に少しでも何かあれば、その時はその時。
相手の出方によってこちらの態度も変わってくる。
例え目は見えていなくても、私にも出来る事はある。
「お待ちを」
言葉は丁寧だが、口調はやはり高圧的。
サトミが足を止め、「何か」と静かに問い返した。
「IDを拝見します。不審者確認のためですので」
「どうぞ」
素直にIDを取り出すサトミ。
あくまでも音でそれを把握しているだけだが。
「……結構です。何かと物騒なので、お気を付けを」
警告、牽制と取るべきか。
サトミはやはり静かに挨拶をして、正門をくぐりぬけた。
ただの嫌味を言うだけにこれだけ人数を揃えたのだとしたら、むしろ感心してしまう。
何より私は見えていないので、何の効果にもなっていないし。
教室はいつも通り。
クラスメートの笑い声と会話。
賑わってはいても、騒々しくは無い。
その心地よさに身を任せたくなる程よい暖かな空気。
「全員揃ってますかね。では、HRを始めます」
淡々と話し始める初老の教師。
こちらは目を開けたくないので、閉じたまま話を聞く。
村井先生なら、バインダーが落ちて来るところかもしれない。
「昨日学内であった騒動は皆さんの方がご承知だと思います。それについてのアンケートを取るので1時間目の授業は中止にします」
別段歓声は上がらず、教師もこれといった事を言いはしない。
昨日の出来事に私達が大きく関わっているせいもあるだろう。
「今から端末に送信するので、各自回答して下さい。誰の回答かは特定されない、らしいです」
なんだ、それ。
匿名性を求められるアンケートや要望書は、身元を調査しないという前提でこちらも提出をする。
しかし今回は、マスコミまで駆けつけるような大騒動。
生徒一人一人の指向性を確かめるには絶好の機会。
そう、迂闊な事は書けないな。
「これ、名前を書くところが無いね」
今の台詞は聞かなかった事にしよう。
まずは、第1問。
「昨日の騒乱に加わりましたか」
騒乱という表現自体、物々しさを感じてしまう。
傍観したといいたいが、最終的には巻き込まれたので参加に丸を打つ。
第2問。心情的に、どちらのグループに肩入れをしましたか。
断固として、旧連合に丸。
というか、こんな素直に書いて良いのかな。
「これって、絶対誰の回答か調べるよね」
「そのためのアンケートでしょ」
もう終ったらしく、文庫本を取り出してしおりを机に置くサトミ。
答えを見ようと思ったが、文庫本で押し戻された。
「ちょっと」
「目に悪いでしょ」
そういう問題なのか。
ただしじゃれていても仕方ないので、前を向いて端末と向き合う。
字がちらちらして、結局サトミの言うように目への負担は大きい。
しかもこの字が小さいと来ては、読みにくい事この上ない。
離れれば余計に見えにくいし、おじいさんおばあさんどころの話じゃ無いな。
「代わりに答えて」
「ひどいわね、あなたも。第3問。誰が混乱の原因と思いますか」
「学校」
「まだ続くのよ。1旧連合2生徒会3生徒4学校」
「だから学校だって」
「もういい。大体無理して答える義務も無いのよ」
「え」
真横。
つまりは通路から聞こえる驚きの声。
どうやら、ちょうど教師が通りかかったらしい。
「遠野さん。その、一応全員に回答義務がありますので」
「それは失礼」
悪びれもせず答えるサトミ。
多分愛想笑いの一つも浮かべてるだろうが、教師は背筋が凍る思いだろう。
「その、一応私達も全員が回答するよう監督する義務がありますので」
「分かりました。では、続けます」
「済みません」
謝らないんでよね、もう。
というか、謝らせないで欲しいな。
「次、行くわよ。解散したはずのガーディアン連合が存在する事について、どう思いますか」
「何一つ問題なし。学校の横暴」
「……次。旧連合を扇動している生徒達をどう思いますか」
「何一つ問題なし。一部人間には問題あり」
サトミの横から刺すような視線を感じるが、目を閉じているので分からない。
という事にしておこう。
「次。旧連合の呼称は何がいいですか」
「そんな質問もあるの?別に旧連合で良いじゃない」
「悪意のある呼び方にしたいんでしょ」
「元野智美と愉快な仲間達じゃないの」
なにやら、間の抜けた事を言い出すヒカル。
仲間はともかく、愉快って事はないだろう。
「元野智美と」
「ちょっと」
同時に叫ぶ私とモトちゃん。
しかしサトミは回答を終えた後らしく、次の質問を読み始めた。
「今後はどうするべきだと思いますか」
「今まで通り、話し合いで解決する」
「これで終わり。お疲れ様」
意外に少ない質問項目。
わざわざ授業を潰してまでやる事とは思えないが、義務は果たした。
後はゆっくり休むとしよう。
「ケイの答えとか見れないの」
「簡単よ」
匿名であり個人を特定しない方法で集計してると始めに言ったはず。
しかしサトミはあっさりと答え、鼻を鳴らした。
「何、これは」
「どうしたの」
「旧連合解体賛成って書いてある」
「カムフラージュだ、カムフラージュ。俺は誰よりも、学校の事を思ってる」
非常にふざけた事を言い出すケイ。
しかしそんな下らない答えのために、目を開けたくもない。
これはこれで、またストレスがたまるな。
「大体これって意味あるの?」
「人間性は分かるだろ。学校が情報を掴むって分かってて、それでも反抗的な回答をする生徒。俺なら、即刻処分するね」
「それとも協力的な生徒を集める材料にするか」
「こんなの嘘でもなんでも書けるじゃない」
「だったらこういう考え方もある。授業を潰して時間を稼いでるって」
「何の」
そう尋ねたところで、鼻先に指の感覚。
噛み付いてやろうと思ったが、これはケイの方が気配を感じたらしく素早く引っ込められた。
「昨日は会合ばかりやってたから良く知らないだろうけど、あちこちで騒ぎが起きて授業どころじゃない状態だった。だから少しクールダウンさせるつもりじゃないのかな」
「騒いでる生徒なら、教室にこないんじゃないの」
「二日も暴れれば、大抵飽きる。でもって手っ取り早い対象は、なんと言っても教師。本当、ご苦労様です」
どうやら近くをまた通りかかったらしく、ケイの言葉に逃げていく教師。
このクラスで教師に敵意を見せている人はいないが、それは例外という訳か。
「授業のボイコットとか吊るし上げをやったらしい。当然学校も黙ってないから、何か手は打ってくる。だからこのアンケートはその時間稼ぎって事」
「分かったような、分からないような」
時間を稼ごうと、こうしている間に生徒はエネルギーを蓄えられる。
むしろ逆効果ではないかと思うが、それは私の考え。
少なくとも学校は、私よりは深く物事を考えているだろう。
問題なのは、その考えの方向性だが。
休憩を挟んで始まる二時間目の授業。
入ってきたのは若い男性教師。
そして後ろのドアも開き、重い足音が聞こえてきた。
訓練を積んだ足音であり、かなりの重さを感じさせるところからして武装しているのも明らかだ。
「後ろは気にしないように」
すごい事を言って英語の授業を始める教師。
私は目を閉じているので気にしなくても済むが、一番後ろの席に座っていたら気になら内どころの話ではないと思う。
「警備員?」
「20人くらいいるな」
耳元で聞こえるショウの声。
こういったグループが幾つかあり、巡回するのか常駐するのか。
初めからこうして押さえ込まれれば、かなりの抑止効果はあるだろう。
ただそれは物理的な面だけで、抑圧された分精神的な不満は一層募る。
「警備員だよね」
「トンファー持ってるぞ」
「ああ、朝に見た」
物腰は柔らかいが、目付きは笑っていないタイプ。
性質が悪い以前に関わりたくないタイプ。
ただそれはこちらの考えであって彼らの考えではない。
また、向こうが関わってくるのならこちらもそれなりの対応はする。
「授業中の私語は認められているんですか」
早速目を付けられた。
そして教師が答えるよりも先に、通路側から足音がする。
「授業はちゃんと聞くように」
「だったら邪魔するな」
「なんだと」
「教室へ勝手に入ってきて、偉そうに口を利くなっていってるんだ」
空気の避ける音がして、小さな悲鳴が聞こえてくる。
それきり警備員は押し黙り、ずるずると足を引きずるように下がっていった。
「殴ったの?」
「喉を軽く押しただけだ」
「軽く、ね」
首周りはともかく気道は鍛えようが無いし、知識があれば気道への攻撃が死につながるとも理解する。
動きとしては単純だったかもしれないが、かなり効果的な攻め方をしたらしい。
つまりは、玲阿流の攻め方を。
奇妙な緊張感をはらんだまま授業が終り、教師が出て行くと同時に警備員が集まってくる。
どうやら授業中は彼らも無闇に暴れられない規定のようなものがあるらしい。
「あまり調子に乗らない方がいい」
「実家が古武道の宗家だって?随分格好良いね」
「しかし、大人に逆らうのは良く無いな」
高校生を取り囲むのが大人のやる事かと思うが、これは私が口を出す事ではない。
あくまでもショウ。玲阿家の話。
これは彼自身が。
「古いだけで偉そうにされても困るんだよね。洗練って言葉知ってるかな」
「卑怯な手ばかり強いと思ってる?ルールって知ってる?」
「所詮は人殺しの流派だな。それなのに臆病者の家系と来た。ひどいね、随分」
とりあえずスティックを抜き、ゆっくりと立ち上がる。
以前のショウならこの時点で相手は床を舐めていた。
今の彼は、それでも自制するだけの心を持っている。
ただしそれは彼の話であり、私にそこまでの自制心はない。
私は玲亜流ではないが、多少なりともその教えを受けた人間。
彼は我慢しても、私が我慢する理由は無い。
「落ち着けよ」
「いいや、落ち着かない」
「目の事を言ってるんだ」
「それよりも大切な事があるでしょ」
「無いだろう」
かなり呆れ気味に諭してくるショウ。
彼の気持ちは嬉しいし、ここで暴れれば彼の努力も無に帰してしまう。
しかし私には、この気持ちを押さえきれない。
これはむしろ、殴られるより悪質な暴力だ。
それに対象が私達に向けられている内はともかく、他の子にまで向けられたらどうするのか。
それを止めさせる為にも、我慢するべきではないと思う。
「女の子の方が怒ってるよ。やっぱりお父さんと一緒で、君も逃げるタイプ?」
「黙ってろ。今はこっちで話してるんだ」
「そう言わずに、まぜてくれよ。デートとかしてる?それとも、もっと……」
言葉は最後まで続かず、かすれた声だけが一瞬頭上を通り過ぎた。
教室内の空気は一瞬で凍り付き、警備員が彼に襲い掛かる事も無い。
私は見てはいなかったが、彼らは何が起きたかを理解しただろう。
そして、誰を相手にしていたかも。
プロテクターやトンファーなど、彼の前では紙同様。
追っていたはずの獲物が実は虎で、自分達が丸裸であったと今更ながら気付いたはずだ。
「という訳でお引取りを」
ショウがさらに飛び掛ろうとする前に、そう口にするモトちゃん。
自然と彼の気はそれ、高まっていた怒りが収まっていくのを肌で感じる。
警備員は我先にと逃げ出し、足音と共に何かを引きずる音が遠ざかる。
「少しは我慢したら」
「少しはしただろ」
「お父さんよりもユウの方が大事なの」
「それは、その。あんだ、あれ」
しどろもどろになり、満足に答えを返せないショウ。
それは言うまでも無く私に関わる事で、嬉しくなると同時にこっちも少し焦ってくる。
ただ気分がいいのも間違いはなく、こういう守られる感覚は悪くない。
後ろから感じる陰気な視線はともかくとして。
それが名目だったのか。
理由ははっきりしないまま、特別教棟へ呼び出される。
呼び出した相手は生徒指導課。
余程の事が無い限り私達も呼び出された記憶は無く、ただ最近は思い当たる節はいくらでもある。
「こちらにどうぞ」
案内をしてきたスーツ姿の女性に促され、広い会議室に通される。
相変わらず目は閉じているので、全ては人の話と音の感覚から感じ取っているんだけど。
「少々お待ち下さい」
「ご丁寧にどうも」
なにやら言っている子もいるが、それは聞き流しスティックで足元をさぐる。
特に危険なものは無く、音の返りも綺麗。
多分一般教棟とは材質も違うんだろう。
「来たぞ」
いつに無く固い口調で呟くケイ。
緊張というよりは怒り。
彼にも感情があったのだと思わせる瞬間。
その感情を向けられたくはないと思える程の厳しさが肌を通して伝わってくる。
彼がここまで高ぶる相手。
「座れ」
いきなりの横柄な命令口調。
この時点で、教職員側に例の理事がいると確信する。
「先日起きた騒乱に付いて問いただす。首謀者は誰だ」
「お前だろ」
小声で、しかし聞こえる程度の声で呟くケイ。
凝縮された敵意がこちらへと向けられるが、それに反応する人間は誰もいない。
また彼の言葉は、私達の共通認識ともなりつつある。
「お前、言葉には気を付けろ。ここでの会話は、全て記録に残してるからな」
「生徒にお前も無いだろ。自分こそ、言葉に気を付けろ。これが第3者に公開された場合の心象を考えて発言しろよ」
「なんだと」
「スピーチライターや行動学者をつけてるんだろうが、少しは言う事を利いた方が良いぞ。パワースーツなんて、一瞬の見た目に過ぎないからな」
そう挑発し、鼻で笑うケイ。
ただし彼の言っている事は最もで、横柄な態度を取っていい事は何もない。
この記録が公開された場合でも、この場面でも。
「改めて聞く。首謀者は誰だ。元野智美。お前が扇動したとの情報も入っているが」
「我々が学校へ到着した時点でデモは起きていました。監視している警備員や通話記録を調べてもらっても結構ですが、私達はデモの発生については一切関与していません」
「それで通用すると思ってるのか。お前達の組織の名前を挙げてデモも騒乱も行われたんだぞ」
「起こした人間が口にしただけでしょう。我々が関与したという具体的な証拠はおありですか」
「証拠など必要ない。名前が叫ばれた事実を言ってるんだ」
「困りましたね、これは」
ため息を付くモトちゃん。
どう考えても彼女の意見の方が正しく、理事には無理がある。
それでもモトちゃんは声を荒げる事無く話を進めようとしているが、何よりこちらの話を聞くつもりは向こうには無いだろう。
「では、私も発言してよろしいでしょうか」
甲高い、舌なめずりが聞こえてくるような若い女の声。
以前聞いた事のある声質で、確か弁護士とか言ってたな。
「今回の件は騒乱罪が適用されるケースで、高校生とも言えど刑事罰の対象となります。また障害、暴行、器物破損なども適用されるでしょう」
「では、適用なさったらいかがですか」
さらりと返すサトミ。
なにやら折れる音がして、それこそ歯ぎしりでも聞こえそうな雰囲気が辺りにたれこめる。
「私は弁護士なので、訴追する権限はありません」
「では、今の話はなんのために?高校生を恫喝するのは、刑法に抵触しないんですか」
「なんですって」
「思った事を口にしただけです。今の会話も当然記録に残っていますから、後日弁護士会で話し合っても構いませんよ。刑事事件ではなく、証拠として採用される民事事件として扱ってもらえば都合も良いですよね。誰の言い分が正しいのか、一度対外的に公表するのもよろしいのでは」
激しく机を叩く音。
高校生挑発にここまでたやすく乗るのもどうかと思うが、こちらが高校生だからかもしれない。
人生経験は比べ物にならず、年齢は自分達の方が圧倒的に上。
普通に考えれば私達は彼らの意見に従うだけの存在。
また普通の状況なら、私達ももう少し姿勢を低くしているだろう。
相手が彼らでなかったら、という注釈も付きそうだが。
「法律論を振りかざすのも結構ですが、弁護士同席で何のお話ですか」
サトミを押さえる形で割って入るモトちゃん。
この冷静さが彼女の持ち味であり、私達が信頼する所以。
相手にはいないタイプでもある。
「騒乱の責任を取ってもらう」
「だから、お前だろ」
「黙って。自然発生だと私は聞いていますが」
「何」
低い、出方を窺うような口調。
モトちゃんは一呼吸置き、机に肘をついて静かに語り出した。
「犯人探しも結構ですが、我々は自然発生で構わないと言ってるんですよ」
「何が言いたい」
「譲歩していると……。失礼」
突然言葉に詰まるモトちゃん。
即座に彼女へ駆け寄り、その体に触れる。
「……熱い。風邪引いてない?」
「熱があってだるいだけ。大丈夫」
「人の事を言う前に、自分こそ大丈夫じゃないじゃない」
当たり前だが無理をしているのは、私だけではない。
特に彼女はこの集団の中心として、さまざまな重圧に耐えてきている。
意にそぐわない事、慣れない事も平気な顔をしてやってきた。
風邪と言うよりは、疲労がここに来て吹き出てしまったのではないだろうか。
「医療部まで送る。ショウ、来て」
「私は大丈夫」
「大丈夫じゃないから言ってるのよ。代わりはどうにかするから」
「どうするのよ」
苦笑気味に指摘するモトちゃん。
彼女だけではなく、私達も分かっている。
以前決めた継承順位にしろ、あくまでも臨時的なもの。
能力的にモトちゃんと匹敵する人は何人でも見つかるかもしれない。
だけど彼女と同じ信頼を抱かせ、慕われるだけの人はどれだけいるか。
北川さんも沙紀ちゃんも、能力的には決して引けを取らない。
だけどみんなが認めるリーダーともなれば、彼女達には悪いがやや弱い。
それは個人的な資質だけではなく、今までの経験もある。
少なくともモトちゃんは塩田さんが解任されて以降、この組織を引っ張ってきた。
その事実もまた評価されているし、誰もが彼女を認める理由のひとつ。
北川さんや沙紀ちゃんでも駄目なら、私は言うまでも無い。
「たるんでいるから、風邪を引くんだ。さっさと出て行け」
おおよそ教育に関わる人間とは思えない台詞。
これだけでも学校に反抗するには十分な理由で、とりあえずスティックを机の上に置く。
「落ち着けよ。それと、早くモトを医療部へ」
「私は」
「心配しなくても、代わりはいる」
「言いたくないけど、どこにいるの。俺とか言わないでしょうね」
「それも面白いけど。まあ、真打登場って事で」
端末で話し始めるケイ。
その直後にドアが開き、規則正しい歩幅で一人の生徒が入ってくる。
芯の強さを感じさせる顔立ちと物怖じしない態度。
前生徒会長はモトちゃんへ視線を向け、静かにドアを指差した。
「後は任せてくれ。とりあえず、君の代理を務めよう」
「本来なら、私があなたの代理なのよ」
「細かい話はいずれ。彼女を早く」
「あ、うん」
サトミと一緒に左右からモトちゃんを支え、スティックで床を確かめる。
共倒れになりそうな気もするが、彼女の隣は譲れない。
「まず、今回の趣旨についてご説明願おう。弁護士が同席している理由も。私は草薙高校の生徒会に所属しているので、法律論としてはみなし公務員。暴言その他の行為は、公務執行妨害として訴える権利も有している」
「子供が何を」
「その子供が治めているのが、この学校なんだ。生徒の自治権は、中部庁の条例でも認められている。学内の紛争は一義的に生徒が解決する権利を有するとある。それで弁護士が何の用かな」
「子供を訴えるくらい軽いのよ」
「好きなだけ訴えればいい。ただし生徒会にも、卒業生の顧問弁護士団が付いている。彼らと戦うのなら止めはしないが、生徒の自治は最高裁でも認められている。さて、趣旨を窺おうか」
一方的に前会長のペースで進む議論。
後は任せておいて良さそうだ。
医療部でのモトちゃんの診断は、疲労との事。
今度は彼女が病室のベッドに横たわる。
「私はいなくても大丈夫みたいね」
「あなたはいないと困るのよ」
厳しい声で指摘するサトミ。
どうも私よりは、モトちゃんの方を必要としているようだ。
ただそれは誰もが認める事で、別に異論はない。
「とにかく寝てなさい。後で報告に来るわ」
「休んでれば良いんじゃなくて」
「あなたの代わりはいないのよ」
きっぱりと言い切るサトミ。
そういう彼女も多少疲れ気味で、自然とため息が漏れている。
「サトミも寝ていったら」
「私は大丈夫よ」
「そうは思えないんだけどね。済みません、ベッドもう一つ」
「ざるそばじゃないのよ」
そう言いつつも、自分からベッドへ潜り込むサトミ。
二人の間をカーテンで仕切る必要は無く、また病室には彼女達二人だけ。
邪魔だとしたら、それはせいぜい私くらいだろう。
「じゃあ、ゆっくり休んでて」
「ユウは寝ないの」
「私は何一つ問題ないから」
「あなた、根本的に間違ってるわよ」
なるほど。それもそうだな。
スティックを頼りに病室を出て、ドアの閉まる音を背中で聞く。
腕時計をした右手を耳元に添え、時間を確認。
一度ケイと連絡を取り、モトちゃんの事を報告する。
「ショウはいいよ。向こうへ戻って」
「分かった。無理するなよ」
「場所が場所だから大丈夫」
「そういう問題なのか」
軽く肩に触れられる感触がして、軽快な足音が遠ざかる。
やがて病室前の廊下には静けさが訪れ、自分の鼓動だけが聞こえるような感覚。
一旦患者が搬送されれば耳を覆いたくなるような騒ぎにもなるが、患者のいない病院はこんなもの。
サトミ達は寝ているだけなので、騒ぎようも無い。
少し力を抜き、壁にもたれて息を付く。
足でスティックを振り上げ、舞い上がったところを横から蹴り付ける。
勢いをつけた経て回転をして振り下ろされる警棒。
その逆からも足を振り上げ、連携した攻撃をする。
「な、なんだ?」
聞き馴染みのある慌てた声。
再度の攻撃は控え、床へ落ちたスティックを足で引っ掛けあがってきたところを横から掴む。
「お前、見えてるのか」
「目は閉じてる。何か用」
「別に用は無いが」
多少言いよどむ名雲さん。
彼女が病院で寝てるともなれば、来ない方がおかしいか。
「聞いてるかもしれないけど、軽い疲労だって。無理理過ぎたんじゃないのかな、やっぱり」
「遠野も寝てるって聞いたが。お前はどうなんだ」
「私は大丈夫」
「説得力無いな」
確かに症状として一番明確に現れているのは私。
ただ見えないのはすでに今更で、それを前提に考えれば別に困る事は無い。
「しかし、前会長とはな。随分嫌なタイミングで持ってきた。勿論、学校や生徒会にとってのな」
「何が」
「この学校で以前から支持を受けているのは、むしろあの男の方。旧連合に対して反発的な人間や生徒会のメンバーでも、あいつが出れ来れば意識は変わる。今まで外に出てこなかった分、インパクトも強い。悪い奴がいるな、多分」
前生徒会長を呼び出したのはケイ。
モトちゃんが倒れる事までは想定していなかったと思うが、タイミングを計っていたのは今となれば明らか。
学校の事を一番思ってるかは知らないが、一番策を巡らせているのはまちがいない。
「それで、元野さんは」
「寝てる」
「会えないのかな」
「サトミも寝てるからね」
彼氏とサトミ、どっちを優先するか。
モトちゃんはどう答えるか知らないが、私はサトミを優先する。
第一二人の寝ている姿なんて、絶対人には見せられない。
「なんだよ、来るんじゃなかったな」
「来る事には意味があるの」
「会えないなら同じだろ。それと、お前はいつまでここにいるんだ」
「二人が出てくるまで」
「もういいよ」
呆れた顔をして帰っていく名雲さん。
それ程おかしな事を言ったとは思えないが、彼にとっては肩を落とすくらいの事ではあったらしい。
どちらにしろ再び廊下には静寂が戻り、自分の鼓動と吐息だけが聞こえてくる。
それからどれだ経ったのか。
ドアの開く音がして、軽く頭が撫でられた。
「まだいたの?」
「ずっといるの」
「意味が分からないわ」
そっと抱きしめられる体。
私も手を回し、サトミの体に自分の体を寄せていく。
お互いの気持ちをお互いに伝え合うようにして。
そしてぬくもりを確かめ合い、それは私達の中にあるんだと理解する。
「モトも熱は下がったし、大丈夫みたいね」
「サトミはどうなの」
「よく寝たから。元々寝不足だったのよ」
頭の上から聞こえるかすかな呼吸音。
軽く胸が上下し、鼓動が落ち着いていく。
「あなたこそ、目の調子はどうなの」
「ニ三日はこのままだと思う。目さえ閉じてれば問題ない。それに寝てて治るものでもないし」
「それが問題なの」
後ろからの柔らかな感触。
私を挟んでサトミと抱き合うモトちゃん。
私は二人の温かさに包まれ、そのぬくもりに幸せを感じる。
世界のどこにも無い、今ここにだけある幸せ。
ささやかで、なんでもない。
だけど私にはかけがえの無い、守るべき幸せが。
「もういいの?」
「夕方まで寝てればよくもなるわよ」
「え」
腕時計で時間を確認。
お昼くらいだと思っていたが、時刻はすでに夕方どころか夜と言っていい時間。
人が通るたびに反応はしたので寝ていた訳ではないと思うが、ちょっと自分でも驚いた。
ただそれだけ集中していた証かもしれない。
「学校との会合は?」
「前会長がまとめたみたい。詳しくは知らないけどね」
「……そつがないわね」
端末で情報を確認したらしく、くすりと笑うモトちゃん。
私は終ったという話しか聞いていないので、状況に対する認識は二人と変わりない。
言ってしまえば学校や弁護士よりも、二人の方が大切だったから。
「継続協議として、防止策を話し合う。これを足がかりに学校と交渉する気かな」
「でしょうね。ただ、彼は今後も協力してくれると思う?」
「一度外に出たからには、本人もその気でしょ。私達も、勿論」
力強くそう言うモトちゃん。
病室を出たい以上、逃げ道は無い。
厳しい言い方をすれば、そういう事でもある。
私自身、学校に来る以上は見えていない事を言い訳には出来ないしするつもりは無い。
駄目なら下がるだけの事。
それが私の選ぶべき道で、出来る事だから。
医療部を後にして、女子寮へとやってくる。
サトミに手を引かれ、スティックを頼りにして。
こうなると、ベッドで寝ていたのは誰かという話だが。
まずは食堂に向かい、食事をとる。
そう言えば、今日はお昼も食べてなかったな。
普段なら忘れる事は無いが、それだけ意識が二人に向いていたらしい。
空腹時に重いのは避けたいので、素うどんを頼む。
ショウなら空腹だからと言う理由で、ステーキくらい食べそうだが。
「あー」
軽く声を出し、気分を良くする。
うどんの美味しさとダシの美味しさ。
何よりこの暖かさが心を和ませる。
サトミ達のぬくもりとはまた違うんだけど、私を暖めてくれるのは間違いない。




