36-1
36-1
玲阿邸の縁側に腰掛け、コーシュカを膝の上に乗せる。
春はまだ遠いが、冬は一歩ずつ北へと帰っていくような感じ。
時折戻っては来るにしろ、今日のように暖かい日が増えている。
「卒業式」
サトミの言葉に反応し、思わずコーシュカを撫でる手が止まる。
時期的には確かにそろそろで、中等部の頃を思い出す。
見送るのは、ある意味自分が卒業するより苦しいのだとあの時知った。
「何かやるの?」
「そういう訳でもないんだけど。もうそんな時期だなと思って」
小さく伸びをして、縁側に寝転ぶサトミ。
時は過ぎ、私達はその流れに乗っているだけに過ぎない。
そうとでも言いたげな台詞。
反論しようにも材料は何一つ見つからず、彼女の言葉を裏付けるような事実が積み重なっているだけ。
学校と執行委員会に押し切られ、自分達は組織の確立もままならない。
塩田さんは解任されたまま、何の成果も見せず学校を去る。
一義的な責任は、もしかすると彼らにあるのかもしれない。
ただしそれを託されたのは私達で、期待に応えられなかったという事実だけが今は残る。
「卒業前に、どうにか出来ないのかな」
「前より空気は私達よりになってるにしろ、管理案のやり方に賛意を示す生徒も多い。こうした混乱の中、ああいった強硬案は意外に受けるから」
人事みたいに話すサトミ。
ただ彼女はもし私達と一緒に行動していなかったら、管理案を推進する側にいたかもしれない。
今のように理不尽な規則でなく、もう少し緩和した条件で推進されたとすればの話だが。
またそうでないからこそ彼女はここにいるし、私達の側にいてくれる。
しかし今の言葉通り、管理案に居心地の良さを感じている生徒がいるのも事実。
彼らからすれば私達は厄介者に過ぎず、また彼らのような意見が今は意外と強い。
中等部や小等部からの繰り上がり組は草薙高校の自由な校風を守りたいと考えているようだが、転入組はそれよりもハイレベルな教育と高待遇を欲してこの学校にやってきている。
生徒がどちらの側にもまとまらない理由には、それもあるんだと思う。
「なー」
一鳴きして、庭へと降りていくコーシュカ。
でもって芝の上にいたすずめに飛び掛り、そのままどこかへ見えなくなった。
猫科の狩りは成功率が低いという話は、今見てよく分かった。
というか、都心で狩りをしないで欲しい。
「でも塩田さん達は、学校に睨まれてるのに卒業出来るの?」
「厄介者払いじゃないかしら。退学させて変に揉めるより、合法的に追い出した方が何かと楽でしょ」
「そのために2年放っておいたって事?」
「私達の2年と、学校側の2年は意味合いが違うわよ。彼らにすれば、10年くらいのスパンで考えてもいいくらいなんだから」
「だったら、その時点で負けなんじゃないの」
「そうならないように、頑張りたいものね」
他人事のように言って、寝返りを打つサトミ。
少し寝ているようで、仕方なくタオルケットをおなかに掛けて私も庭へと降りる。
芝はわずかではあるが青い部分が見え始め、冬の間見なかった雑草も少しずつ生えてきている。
時折吹き抜ける風は冷たいが、日差しにはぬくもりがこもってきている。
春の訪れは、本当にそう遠くはないようだ。
「ばうばう」
舌を出して駆け寄ってくる羽未。
その大きな背中にまたがり、肩の辺りを撫でて歩いてもらう。
乗るなという指摘は毎回受けるが、乗らない事には始まらない。
何が始まらないのかは、私にも分からない。
「最近暖かいね」
「ばう」
「お肉好き?」
「ばう」
声のトーンも大きさも同じ。
ただし彼女なりに変えているつもりかもしれないし、心の中を読んでいる訳でもない。
また彼女からすれば、毎回下らない事を聞く人間だと思っているのかもしれない。
「卒業か」
「ばう」
「返事しなくていいんだって」
「ばうばう」
分かってやってないだろうな、この子。
羽未の背中に乗ったまま、駐輪場の方へとやってくる。
ただしそれは私の意図ではなく、羽未の意図。
たずなも何もないし、さすがに行き先を指定出来る程の以心伝心は出来ていない。
方向や速度を指定は出来るけどね。
「ここに、何かあるの」
「ばうー」
どうやら明らかに、私の言葉へ反応した様子。
もしくは、反応したと思い込みたいくらいの変化。
薄暗い駐輪場の中を覗くと、バイクや自転車に混じって工作機器が置いてある。
大きなカッターと研磨機。
宝石を加工したと言っていたが、どうやらここが作業現場だったようだ。
「自分で出来る物なんだ」
残念ながら私にそういう器用さはなく、何より失敗した時の恐怖が先に立つ。
大体原石を削ってる間に、気付いたら私が全部削れてるなんて事もありそうだから。
とことこと歩いていく羽未に従い、今度は駐車場へとやってくる。
こちらはもう少し整然とした雰囲気で、車以外の余計な物は置いていない。
単に車とバイクの使用頻度の問題で、あまり乗らないバイクの駐輪場は物置になってしまうのかもしれない。
「なぁー」
駐車場の奥から聞こえる低い声。
何かと思って目を凝らすと、猫の群れがこちらを睨みつけていた。
何も睨まれる覚えはないし、不法占拠してるのは向こうの方。
正義は我にあると言いたいが、少し数が多すぎる。
下手に刺激して襲われたら怖いので、羽未を押し立て駐車場の前を通り過ぎる。
「こっちには、何かあるの?」
「ばうばう」
羽未が手を上げ、一台の車のバンパーに触れた。
非常に角張った、RV車にしても規格外のサイズ。
車には傷が目立つものの、その割にへこんでいる場所はない。
つまり傷は塗装部分が剥げているだけで、ボディ自体は損傷を受けていないという事か。
「乗りたいの?」
「ばう」
「私は無理だな。多分、座ると前が見えない」
シートにクッションを2つくらい置けば大丈夫かもしれないが、ボンネット部分も長いので結局視界は遮られる。
何より私が乗るイメージの車ではなく、装甲車という言葉が思い浮かぶ。
「乗りたい?」
断る前からカードキーを振って来る瞬さん。
いつの間にと言いたいが、私が運転しないのなら問題はないだろう。
「みんなを呼んできますね。これで、戦争でもするんですか?」
「やってやれない事はないよ」
冗談で聞いたつもりだったんだけどな。
路地を抜けて一般道に出ると、自然に回りの車が避けていく。
外車の威圧感とは根本的に違う、都心に迷い込んだ虎と言った具合。
これより大きな車は周りにも走ってるけど、迫力という面では敵わない。
ぶつけてしまった時の修理代よりも、ぶつけられた時のダメージを想像してしまう。
「どこ行くんですか」
「飯でも食べるか。まずは高速に」
車線を変えて都市高速に入る瞬さん。
接続線の所で一気に加速し、合流ラインでさらに加速。
早いというより、唸る感じ。
エンジンがというより、車そのものが。
なんか知らないけど、少し背筋が寒くなる。
「大丈夫、ですよね」
「一応法定速度だけど」
「いや、この車」
「全然平気。この速度でぶつかっても、車内は安全だから」
私の聞きたい事ではなかったが、車の性能は理解出来た。
高速を走る内、眼下に海が見えて来る。
工場群と新車の列。
海を行き交う大きなタンカー。
どうやら名古屋港を横断する、名港トリトンを走っているようだ。
「どこ行くんです」
「当てないけど、京都でも行く?」
「行きません」
低い声で釘を刺すサトミ。
瞬さんは「そうですか」と呟き、すぐにインターを降りた。
行っていけない距離ではないが、ご飯を食べにふらりと立ち寄る距離でもない。
景色は工場群から田園風景へと移り、遠くには山の尾根が見え始める。
のどかでほのぼのとした眺めに、自然と心が緩んでいく。
「智美ちゃんの家が、この辺じゃなかった?」
「近いですよ。ちょっとナビを」
端末を操作し、モトちゃんの実家の住所を転送。
即座に、地図上へルートが表示される。
「行き過ぎたか。田んぼの中を突っ切りたいな。……いや、冗談だから」
全員の視線を受け、乾いた笑い声を立てる瞬さん。
大丈夫だと思うけど、監視はして置いた方が良さそうだ。
「よし、斥候を出すか」
何をするかと思ったら、ドアを開けて羽未を外へと連れ出した。
周りは田んぼと畑しかないので危険はないけど、そういう訓練もしていないと思う。
「いけ」
背中を叩かれ、矢のように駆けて行く羽未。
その姿は一瞬にして見えなくなり、第一どこへ行ったのかも分からない。
「大丈夫。ちゃんと家には帰ってくる」
そういう問題なのか。
モトちゃんの実家に着くと、すでに羽未が玄関先に寝そべっていた。
どうも、私よりは数段賢いらしい。
車を降りてその頭を撫で、庭先へと向かう。
「……何してるんですか」
「え」
薬品の瓶を持ち、そろそろと玄関に歩いてきていたモトちゃんのお母さん。
まさか、羽未に掛けるつもりじゃなかっただろうな。
「ショウの家で、会ってますよね」
「万が一と思って。大丈夫、硫酸じゃないから」
なんか怖い話をしてくる人だな。
というか、個人が硫酸とか持っていいの?
「やあ、どうも。ご無沙汰しています」
「玲阿さん」
「何か、良い匂いしますね」
「……智美。10人前にして」
「申し訳ないです」
食事って、人の家にたかりに来る事だったのか。
いいけどね、おばさんの料理は美味しいから。
台所へ向かい、鍋と睨み合っているモトちゃんに声を掛ける。
「ご飯食べに来た」
「狼は」
「羽未だよ。ボルゾイ」
「そんな事だろうと思った」
そう言って、手にしていた包丁を棚へとしまうモトちゃん。
どういう事だと思ってたんだ。
「あの犬は、何食べるの?そんなに量はないわよ」
「骨でいいんじゃないかな。ダシ用の骨で」
勝手に冷蔵庫を漁り、豚骨を手にする。
どう考えても私より骨太で、つまりは私くらい軽く食べられるという事か。
「どうかした?」
「いや、別に。それより、もうすぐ卒業式でしょ」
「ああ、塩田さん」
あまり感慨を示さないモトちゃん。
ただ表情は一瞬固くなり、鍋を見る目が鋭くなる。
それは少しふたからお湯が吹きこぼれたためだけではないだろう。
「ああ、名雲さんも卒業か」
あまりにも当たり前な、しかし今の今まで意識になかった事。
「3年生がいなくて、大丈夫なのかな」
「いる間に決着を付ければいいんじゃなくて」
事も無げにそう言い、うどんをざるに上げて流水にさらすモトちゃん。
思わず聞き流してしまいそうな口調で、大皿を取り出してようやくその言葉の意味に気付く。
「そんな、簡単な話ではないでしょ」
「明確な期限が出来たと思えば、目処も立ってくる。立たせたくなるとでも言うのかな。やっぱり分かりやすい目標が必要じゃない」
水にさらしたうどんを小分けにして、大皿へ盛っていくモトちゃん。
この作業と同じくらい簡単なように言っているが、もしそうだったら塩田さん達が当の昔に片付けているだろう。
「出し汁とって。冷蔵庫にある」
「そんな簡単な話なの?」
「難しく考えすぎ。という事だったらどうする?」
「どうするって、難しくないの?」
「熱いと思うから熱いって言うじゃない」
誰も、我慢比べの話はしていない。
「ショウのお父さんは、何を出せばいいの」
「何でもいいんじゃないの。ショウ以上に雑食だし」
「そういう訳にもいかないでしょ。お客様なんだから」
「多分、ショウへフルコースを出す以上に後悔するよ」
山菜のてんぷらと胡麻和え。
和牛のたたきにすっぽんのおすまし。
軽くあぶった真鯛なんてものもテーブルに並ぶ。
「野菜のてんぷらか」
山菜のてんぷらを食べつつ、鼻にしわを寄せる瞬さん。
大まかなジャンルは確かに野菜だけど、かなり独立したジャンルだと思う。
「生だね、これ」
そう言いつつ、薄切りのたたきを箸でごっそりもっていく瞬さん。
風情とか情緒とか繊細とか。
とにかく、ここまでそういう要素に欠けている人も珍しい。
「お代わりは」
「この汁を」
「あ、はい」
「次は出し入れて下さいね。ダシの素でいいですから」
おわんを運んでいたおばさんが思わず転びそうになり、慌ててモトちゃんが横から支える。
すっぽんの上品なダシが出ていて私にはたまらないんだけど、多分この人には薄い塩味としか感じなかったようだ。
「結局何が食べたいんですか」
「口に出来れば、何でも。ただ、出来れば生以外かな」
「生、以外」
「ビタミンを摂るには、生でも良いんだけどね。ビタミン以外にも色々入ってるんだ、これが」
何が入ってるかは聞きたくないので、庭へと逃げる。
羽未は唸り声を上げながら骨をかじっている最中。
目付きも尋常ではなく、普段の大人しいイメージはまるでない。
こういう姿を見ていると、狼の血が入ってるというのも頷ける。
「美味しい?」
「うぅー」
低い声で唸り、骨を抱える羽未。
私にもこういう態度を取るとは、ちょっと許せんな。
しかし迂闊に怒ると骨の代わりに私を、という事にもなりそうなので放っておく。
「あーあ」
唸る羽未を避け、庭の隅へと歩いていく。
そこにあるのは小さな池。
モトちゃんが言うには、春先になると蛙の大群が攻めてくるらしい。
確かに藻が浮いていたり程良く濁っていたりで、いかにも連中が好みそうな環境ではある。
今は足の生えたオタマが、気持ちよさそうに水面を泳いでいるところ。
この段階ではまだ我慢出来るけど、あまり近付きたくはない。
「カエルか」
まさか、こっちの方がおいしそうとか言わないだろうな。
「もう、春か」
比較的無難な言葉に安心して、近付いてきた羽未の背中に乗る。
「前から思ってたんだけど、どうして乗るの」
「乗りたくなるような背中をしてません?」
「馬なら分かるけどね」
確かにサーカスでも、犬に乗った曲芸を見た記憶は無い。
そのくらい珍しい事なのかも知れないが、私にとっては自然な事だ。
「しかし、ただ飯っていうのも気が引けるな」
「だったら、この池を手入れしたらどうですか。小川が欲しいって、前言ってましたよ」
何故かにこりと笑い、物置へと歩き出す瞬さん。
冗談だったんだけどな、今のは。
初めに引いたラインに沿って、スコップで穴を掘っていく瞬さん。
見る見る内に土が掻き出され、綺麗な溝が作られていく。
「慣れてますね」
「昔はこうして塹壕を掘ってたんだ。何せ、早く掘らないと撃たれて死ぬ」
笑いながら穴を掘り進める瞬さん。
別に笑い事ではないし、ここは塹壕ではないので余った土の処理も必要だ。
「この土は」
「その辺の畑にでも捨ててきて」
全く興味も無いという口調で答えるモトちゃん。
一方のお母さんは、何とも浮き立った顔で掘られていく溝を見つめている。
「分かってるの?カエルがいたらヘビが来るのよ。ヘビが来たら、次は何が来るの」
そんな事知らないわよ。
それに、私の家じゃないしさ。
何て言ったら穴に埋められそうなので、軽く笑ってこの場をごまかす。
「ショウがいればもっとはかどるのに。あの子、何してるのかな」
端末を取り出し、彼のアドレスをコール。
少しの間があり、少し息の上がった彼の声が聞こえてきた。
「何してるの?…寮で?……分かった、すぐ行く」
「行くってどこに」
「男子寮。こんなところで、穴を掘ってる場合じゃない」
「悪かったわね、こんなところで。何のお構いも出来なくて」
言葉のあやじゃないよ。
モトちゃんの嫌味もそこそこに聞き流し、バスと地下鉄を乗り継ぎ神宮駅までやってくる。
車だとそれ程距離は感じないけど、通学にはやはりやや不便。
モトちゃんが寮に住むと決めたのも良く分かる。
私は単純に、みんなのそばにいたいと思ったから。
自立というには、あの頃はまだ幼すぎた。
今でも実家に良く帰るし、そういう言葉を口にする資格すらないのかもしれない。
男子寮の前にやってくると、ロータリーの前には大きなトラックが何台も止り引越し業者のユニフォームを着た人達が忙しそうに荷物を運び込んでいた。
何も卒業するのは、塩田さんだけではない。
単純に言えば、寮生の1/3がいなくなる計算。
しばらくは、こういう光景が続くのかもしれない。
あわただしく人の行きかう廊下を抜け、頭上を通り過ぎるタンスに姿勢を低くする。
こういう時は、自分の小ささを良くも悪くも実感するな。
塩田さんの部屋の前も荷物が半分ほど出され、ダンボール箱が積まれていた。
卒業と今まで軽く口にしてきたけど、これを見て改めて彼が本当にいなくなるのだと実感する。
「来たのか」
大きなダンボールを抱え、部屋から出てくるショウ。
彼はそれをダンボールの山に積み上げ、腰に触れて息を付いた。
「大体終わった」
「え、もう?」
「今すぐ引っ越す訳じゃない。一気に全部片付けると大変だろ」
「なるほどね。だったら、まだいるんだ」
そんな当たり前の事に少し安心し、彼の肩を叩く。
特に意味はないし、叩かれている彼にはもっと意味が無い。
「いちゃいちゃしやがって。風紀を乱すな、風紀を」
無愛想な顔で部屋から出てくるケイ。
彼は荷物を持っていなく、代わりにホウキを担いでいる。
「塩田さんは?」
「中にいる。下品に、自分の名前でも落書きしてるんじゃないのか。まずは、それを消すのが俺の仕事だな」
馬鹿馬鹿しい台詞を聞き流し、部屋へと入る。
キッチンの家具は殆ど無くなり、備え付けの電子レンジが虚しく佇んでいた。
部屋の中もベッドとTVがあるだけで、やけに広く感じられる。
塩田さんはその中で、腰に手を添えて壁をじっと見つめていた。
3年間の思い出。
決して思い出ばかりではなく、辛い事苦しい事もあったと思う。
力不足を感じ、悔しさを味わい、それを私達に託すのは無念なのかもしれない。
彼は何も言わないけど、そんな感慨を抱いていても不思議ではない。
「この壁、穴が空くと思うか」
「え」
「やるやら無いじゃない、出来るかどうかって話だ」
なんか調子が狂うなと思いつつ、壁に手を添えて素材を確かめる。
火災時の脱出口を作るためだと思うけど、多分鉄筋ではなく繊維素材。
それ程厚みは無く、素手はともかくスティックを使えば可能だろう。
「スティックを使えば、空くには空くと思いますよ。それが何か」
「記念に空けて出て行こうと思ったけど、そんな簡単に空くのなら記念にもならないな」
意味はあまり分からないが、ここにいた証を残すという事だろうか。
ただ壁に穴を開けるのが記念というのは彼らしくなく、卒業を前にしてややナーバスになっているのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
「穴を空けてもか」
「そうじゃなくて。管理案とか学校との事。卒業前になんとかします」
「それこそ簡単に言うな」
鼻で笑い、ベッドに手を掛ける塩田さん。
反対側からはショウが支え、それも外へ運び出される。
「ベッドも持っていくんですか」
「ああ。卒業前では、大山と一緒に学校へ住む。どうせ最後なんだ。少しくらい、羽目を外してもいいだろ」
「だったら、大山さんは3年間羽目を外してきたんですか」
「そういう奴なんだ。あいつは。というか、あいつの部屋はどうなってるんだ」
それは私も、興味があるな。
合鍵を使い、部屋へと入る。
ちょっとどきどきしてきた。
「なんだ、これは」
そう塩田さんが言うのも道理。
中は新居そのもの。
前の住人が出て行った後にリフォームするんだろうけど、多分全くそのままの状態だと思う。
部屋にあるのは寝袋と、少しの食べ物。
缶詰やスナック菓子とジュース程度。
後はクローゼットの中に、数着の服があるくらい。
「わっ」
突然外からの悲鳴。
何かと思って飛び出すと、何人かの男の子が真っ青な顔でドアを指出していた。
「ひ、人が住んでる」
悲鳴を上げて逃げていく男の子。
もしかして、開かずの扉扱いか。
確かに3年間の間、ここに立ち入ったのも数える程度と聞いている。
夜中の学校で見かける幽霊の半数は大山さんの見間違いというけれど、ここでもその例は当てはまるようだ。
「まあ、いい。浦田、その辺のもダンボールに詰めろ」
「何か、目に付かない場所へ隠してるんじゃないんですか」
「何を」
「何かを、ですよ」
部屋の中央へ進み、視線をさ迷わせるケイ。
そして軽く部屋の中を見渡して、すぐに戻ってきた。
「考えすぎかな」
「気付かれるような場所には無いから、見つからないんだろ」
「確かに。あったら、本人が回収するか」
特に家捜しもせず、服をダンボールに詰めていくケイ。
それと寝袋をショウへ渡し、お菓子を見て私を指差した。
「いやだ。賞味期限が切れてそう」
「いくらなんでも。……鋭いな」
過ぎているどころか、去年の春で期限が切れている。
あの人が、いかにここへ関心を払ってないかが伺える。
「大山さんも、片付けを?」
「さあな。あいつが何をやってるのか、何を考えてるのかは俺には分からん」
小等部からの親友からしてこの発言。
私には分かるはずも無い訳か。
という訳で学校にやってくる。
副会長は解任されたはずだけど、一体どこに住んでるのかな。
「ここだ、ここ」
生徒会の特別教棟。
その裏口から、普通に入っていく塩田さん。
こちらは警備員はいなく、カードキーをコンソールへかざすだけ。
そういう特殊な場所であり、特殊な人間しか入れないという事か。
廊下に人気が無く、かつかつと響く足音がどうにも背筋を寒くする。
ついショウの腕にすがりつき、危険は無いかすり足で進む。
進もうと思ったけど、そのままショウにずるずると引きづられたので止めた。
これでは間抜けすぎて、幽霊の方が逃げ出すな。
「おや、皆さんおそろいで」
のんきな台詞と共に、優雅な足取りで現れる大山さん。
彼も片付けをしていたのか、小さなダンボールを抱えている。
「引越しですか」
「いえ。企業からの賄賂です。宝石と現金、株券。債券。で、どれにします」
冗談かと思ったけど、笑ってるのは大山さん一人だけ。
ケイすらも反応は見せず、どうやら中は本当に賄賂らしい。
「これは重要証拠として、学校に提出します。卒業する私に贈っても仕方ないと思うんですが」
「卒業祝いなんだろ。俺のところには、何も来ないぞ」
「贈る人間も、相手は見るだろ」
ケイを睨みつけ、廊下沿いにあるドアを指差す塩田さん。
どうも、そこが大山さんの部屋らしい。
部屋といってしまっていいのかは、ちょっと謎だけど。
中は、よくある仮眠室のような感じ。
違うのは床がフローリングで、ベッドと机があるところ。
本棚には学内の規則やガーディアンのマニュアル、部活の記録集。
六法全書や判例集。
なぜか大宝律令と書かれた、古びた本もある。
「こんなのも読んでるんですか」
「官僚は、このくらい古い文献から当たって法律を作成するようです」
「大山さんも?」
「私は単なる見栄とはったり用です。貴族制度や奴隷制度があった時代の法令なんて、今更意味を持ちませんよ」
それもそうか。
しかしこの物腰でこの古文書を見せられると、いかにももっともらしく見えるのは確かだと思う。
それにある程度中身を理解していなければ、使いようも無い。
学校に住むくらいにまで尽くして、だけど成果を残せずに学校を去る。
もしかして一番悔しいのは、大山さんなのかもしれない。
「悔しくないんですか。このまま卒業するのは」
「私は特に。管理案自体には賛成ですしね」
「賛成?」
「システムとしては、という意味では。運用という部分で疑問があるため、反対をしているだけです」
そう聞かされて、意外というよりなるほどと思う。
副会長を務めるくらいの、元々は体制に属している人。
また秩序という意味では、単に治安だけではなく組織同士の関係や学校との関係。
各規則の整合性など、私よりも大局的に物を見ているのは間違いない。
「その辺の話を聞きたいなら、河合さんに会ってみて下さい。あの人こそ、管理案の推進者でしたからね」
「河合さんって、あの大きい」
「何もかもが大きいですよ。体も人間性も。器が小さい、なんて怖い事を言う人もいますが」
低い声で笑う大山さん。
しかし器が小さくては生徒会長が務まるはずも無く、そう言える人は自分の器が余程大きいか無意味な程に自信家なんだろう。
「大学が休みですから、どこにいますかね。ちょっとん連絡を。……大山ですが、時間はよろしいですか……。いえ、後輩が是非お話を伺いたいと。・・ええ、では」
あっさりとアポを取る大山さん。
端末にはすぐに、待ち合わせ先の住所と地図が転送される。
非常に有能かつ、それがまたさりげない。
寝袋を蹴飛ばして遊んでる人とは大違いだな。
「俺が、どうかしたのか」
「いえ、別に。……カレー屋さんですね、ここ」
「今日は、3皿食べたら無料だぞ」
かなりどうでもいい知識を教えてくれるショウ。
間違いなく制覇したな、この人。
「ありがとうございます。今から行ってみます」
「気をつけて」
気を付ける事は無いと思うけどな、多分。
神宮駅前のカレー屋さんに付き、玄関のところに立っている看板に目を止める。
「カレー、3皿完食で無料。トッピングはこちらで指定させていただきます」
カレーに加えてトッピングなら、私は一皿でも怪しいくらい。
店を出てくる人は一応に暗い顔で、食べすぎと食べ切れなくて3皿分支払ったせいもあるんだろう。
「ショウもやる?」
「今日はカレーの気分じゃないんだけどな」
「やらないの?」
「やってやれない事は無い」
意味不明なので、放っておいて店に入る。
鼻腔の奥をくすぐるスパイシーな香り。
景色が黄色く染まり、一瞬にしてインドに旅立ったような気分。
本場のカレーと日本のカレーとは別物らしいけど、これは子供の頃からのイメージなので仕方ない。
「河合さんは」
探す間もなく目に入る圧倒的な存在感。
見えているのはやや丸まった背中。
大食いにチャレンジしている人が多いためギャラリーはいないが、店員の目線は常に彼へと向けられている。
テーブルを見ると、すでに5皿積み上げられていた。
「……3皿じゃないの」
「3皿以上はサービスで、食べた枚数だけキャッシュバックされる」
そう語り、河合さんの前に座るショウ。
でもって河合さんには話しかけず、店員を呼んでチャレンジすると宣言した。
「……君達は」
さすがに私達へ気付き、スプーンを止める河合さん。
隣のテーブルには、もっと細身の男性が二人。
その正面には屋神さんと三島さん。
同窓会でもやってるのかな。
「調子はどうですか」
「今日は7皿で止めようと思う」
「出入り禁止にならないんですか?」
「ならいないんだな、これが」
悪い顔で笑う屋神さん。
間違いなく、この人がごねたな。
「話を聞きたいんですけど」
「少し待ってくれ」
「食べるのはショウに任せて下さい」
「仕方ないな。管理案だったか。今でも、別に間違ってるとは思ってない。生徒は勉強をするために学校へ通ってるんだからな」
紙ナプキンで丁寧に口を拭き、グラスの水を飲み干す河合さん。
確かに外見の割にはがさつなところが無く、むしろ繊細というか細やか。
人は見かけによらないとは、良く言ったものだ。
「管理案より、運用する人間に問題があると思ってる」
「大山さんもそう言ってました」
「後100万年くらいして人間の質が変われば運用も出来るようになるかも知れない。ただ、現状では難しいだろうな。だから屋神達は潰しに掛かったし、今でも揉めている」
経験者の語る重み。
それも、管理案を推進した人が語るからこその。
仮に管理案が施行されていればこの人は生徒会長として草薙高校を卒業し、より高い評価を得ていたに違いない。
今でも彼の知名度はあるにしろ、賛否は両論。
そう思うと、業は深い。
彼というより、この管理案の存在。
そして、人間そのものの業が。
「もう少し食べようかな」
なにげに手を伸ばす河合さん。
その彼を、殺意すら漂わせた目付きで睨むショウ。
一瞬二人の間で火花が散り、辺りの空気がきな臭くなる。
というか、カレーで揉めるな。
「二人とも止めて下さい。河合さんは手を引いて。ショウも睨まない」
「少しくらい良いだろ」
「駄目です。ショウも、止めて」
フォークを構えたショウの手をはたき、それをテーブルへ置かせる。
両手は膝、姿勢を起こさせ、顔も上げさせる。
「行儀良くしてよ、行儀良く」
「あぁ」
低い、狼みたいな唸り声。
放っておくと私にむしゃぶりつきそうだが、この程度で動じる程甘い生き方はしていない。
「口を拭いて、お水飲んで。手を拭いて。はい、食べて」
スプーンをひっつかみ、犬食いで食べ出すショウ。
本当、普段の礼儀正しさや大人しさは一体どこに消えるんだろう。
でもって、このカレーはどこへ入って行くんだろうか。
「草薙高校最強と聞いていたけど、それは君の事か」
薄い表情で笑う、神経質そうな男性。
たしか、杉下さんだったはず。
そういう事は無いと思うが、カレーで血を見るのも馬鹿馬鹿しいと思っただけだ。
「前も話したけど、君達は良くやっているよ。退学者も出していないし、生徒会と学校を相手に互角以上の戦いをしている」
「生徒には支持されてないみたいですけど」
「力を見せつけられれば、誰でも怖じ気づく。君達が力押しに頼らないのも、僕は良いと思ってる。それに風向きは、簡単に変わる。きっかけ一つでね」
皮肉っぽく笑い、ヨーグルトジュースに口を付ける杉下さん。
人ごと過ぎる言い方は多少気になるが、卒業した彼には確かに関わりようがない。
その部分のジレンマが、こういう口調になってしまうのかも知れない。
「親睦会は介入していないみたいだね」
「数度襲われた事はありますけど。目立った行動は、学内では取ってないみたいです」
「草薙高校は他校に頼らなくても、大抵の事は自立してやっていけるからね。資金面、機材、官庁とのつながりでも。連中の下らない手には乗らず、堂々としてれば大丈夫だろう。君達ならね」
「違う場合もあるんですか」
「甘い言葉でささやいて、それに乗ってしまう人もいなくはない」
再び皮肉っぽく笑う杉下さん。
私はその親睦会自体良く分かってないし、接点がないので答えようもない。
「外部から君達を切り崩す手も検討はしているだろうが。親睦会には、どう対応してる?」
「私の友達が、親睦会のメンバーに参加しています」
「参加」
一瞬にして険しくなる表情。
眉間には強くしわが寄り、指先がテーブルを何度となく叩く。
「信頼出来る人間かな」
「あまりしたくない人間です」
「良く分からないが、取り込まれても困らないのなら問題はない。ただ連中は有力者の子弟も多いから、その部分だけは厄介だ」
「気を付けます」
これは私ではなく、ケイの問題。
彼が取り込まれるとは思えないし、向こうも彼を取り込めるだけの力量はないだろう。
カレーハウスを出て、近くのゲームセンターへとやってくる。
さっきの話を引きずり、多少気分が重い感じ。
私は管理案自体を認めたくないくらいで、それを肯定するという意見が良く分からない。
理屈では多少は分かるが、感情の部分でブレーキが掛かる。
出来もしないものを推進する時点で、それは間違っているのではとも思う。
「やらないのか」
エントランスで立ったままの私を振り返るショウ。
ここであれこれ思い悩んでいても仕方なく、少し発散すれば気分も変わるかもしれない。
「そうだね。適当に何か」
「初めまして」
後ろから掛かる、品のいい声。
しかし背筋に嫌な感覚が走ったのは、気のせいではないだろう。
振り返ると、そこには綺麗な身なりをした同年代の男女が愛想良く微笑んでいた。
一見してブランドと分かるような服装。
女の子は装飾品もつけていて、それらは間違いなく本物だろう。
「浦田君が紹介してくれないので、会いに来ましたよ」
「浦田君」
「申し送れました。我々は、こういうものです」
名刺入れから取り出される一枚のカード。
そこに書き込まれた、名古屋学生親睦会の文字。
これが、例のという訳か。
さっきの今で杉下さんを一瞬疑ったが、彼はこの組織にむしろ否定的な雰囲気だった。
逆に彼等が離れたところを狙って、近付いてきたのかもしれない。
「俺達に何か用事でも」
「来週、ちょっとした集まりがありまして。よろしければ、皆さんもご出席を」
「なんのために」
「草薙高校が混乱しているのは、我々も承知しています。その何らかの手助けになれるのではと、私は考えていますが」
愛想の良い。
張り付いたような笑み。
多分人を殺しても、この笑顔は崩れないと思う。
「後で連絡する」
「分かりました。決して、皆さんに不利益な事にはならないとだけ申しておきます。どうですか。こんなところで遊ぶのは止めて、カジノでも」
おおよそ高校生とは思えない台詞。
大体カジノと言う言葉時代、この前のショウへのあてつけかと思ってしまう。
「賭けられる側より、賭ける側の方が数段面白いですよ」
「そういう事はやらないのよ」
「今は、玲阿君と話をしているんですが」
すっと目が細められ、蔑んだ色合いを帯びる。
それは今話していた男だけではなく、周りの人間も同様。
初対面だが、あっさり本性が現れるな。
ショウの実家は名家であり、それなりの資産も持っている。
対して私は、典型的な庶民の出。
先祖は4代辿れればいい方だろう。
素性も知れない馬の骨は引っ込んでろという訳か。
「俺から話す事は、何もないぞ」
搾られるように引き締まっていく周囲の空気。
すさまじい、息苦しさを覚える程の圧迫感。
一歩踏み出したショウの足が回りに激しい振動を生み、親睦会全員の体が揺れる。
「私達に、逆らうとでも?」
「後で連絡すると言った」
「損はさせないので、それは覚えておいて下さい」
私を見もせず話す男。
それはむしろ助かる事で、出来れば同じ場所にもいたくない。
出自での差別結構。
逆にこっちから願い下げだ。
「……邪魔だ。どけ」
大勢で騒ぎながら入ってくる柄の悪そうな連中。
それと向き合う親睦会。
人数的には互角だが、親睦会は女の子も混じっている。
お互いの空気は一瞬にして最悪になったが、しかしどちらも引く気配は無い。
親睦会側の強気は何なのかとも思うが。
「女連れで、格好つけてるのか」
「さあ、どうだか」
「とぼけやがって。そこを」
強引に前へ出ようとした男へ突きつけられるスタンガン。
それは突っ込んできた男の体を震わせ、床へと這わす。
「馬鹿が」
やりすぎなのか、自己防衛が優先されるのか。
判断は微妙だが、この時点では絶対悪いとは言いづらい。
ただその背中を蹴りつけ、改めてスタンガンを押し付けたところで人間性は理解出来た。
「ひっ」
一斉に逃げ出す男達。
倒れている男は放っておかれ、親睦会がそれを取り囲む。
捉えた獲物を見定めるような、酷薄な表情。
倒れている男にも非はあるが、これ以上はやりすぎ。
何より人間を見る目ではない。
「もういいだろ」
「こういう人間は、体に教え込まないと駄目なんですよ」
「済んだと言ってるんだ。警察沙汰になりたいのか」
「大して困りませんけどね」
事も無げに言ってのける男。
そういう背後関係があってのこの振る舞いか。
こんな人間と付き合うのになんのメリットがあるのかと言いたいし、後から連絡する以前にこの場で断りたい。
「いいでしょう。連絡を待ちます」
「ああ」
「では、失礼」
丁寧に頭を下げ、最後に私へと笑いかけて去っていく男。
決して品の良くは無い、見られただけで怒りが吹き出てきそうな視線。
この時点で断りたくなるが、ケイが関わっている以上私の一存決めるのも問題か。
「断ってもいいんだぞ」
「ケイはケイの考えがあるんでしょ。大丈夫」
多分大切なのは、私の感情よりも全体を見る事。
私が少し不快になったからといって、全体を壊してしまう事は無い。
ケイが具体的どう考えてるかまでは知らないが。
「最後はケイを血祭りに上げればいいんだし」
「ああ、そういう事か」
あっさり納得するショウ。
くすくすと笑いあう私達。
こうして笑顔が浮かべられる間は大丈夫だと思う。
張り付いた、作ったような笑顔ではなく。
心から湧き出る感情がある限りは。




