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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第35話
398/596

エピソード(外伝) 35-4   ~ケイ視点・カジノ編~






     虚実




      4





 池上さんのアパートからそろそろ帰ろうとしたところで、端末に連絡が入った。

 こういう時間帯の連絡は、大抵ろくな事がない。

「鳴ってない?」

「鳴ってるかもね」

 電源を切りたかったがそれより早く丹下に指摘され、仕方なく端末を取り出し相手を確認する。

 学校最強の良い男が、学校最低の駄目な男に何の用だろうか。

「……今から?石?はい?」

「何の話?」

「こっちが知りたい」

 通話を終え、端末で地下鉄とバスの時刻表を確認する。

 残念ながら終電は当分先で、それこそ向かいを出すと言いかねない勢いだった。

 逃げる気がどれだけあっても、決して叶いはしないと思う。

「じゃあ、お世話になりました」

「あなたも、何かと苦労してるのね」

 くすくす笑って見送ってくれる池上さん。

 こういう気遣いをしてくれるのは彼女達くらいで、昔からの知り合いは夜中に家へ呼びつける程。

 真田さんの言う仲間とは一体なんなのか、改めて考えてしまいたくなる。

「私も行こうか」

 幻聴かな。

 それとも、少し眠いのかもしれない。

 ちょっと、意味の分からない言葉が聞こえてきた。

「大変そうなんでしょ」

 俺の顔を覗き込み、真剣な口調で詰め寄る丹下。

 気持ちはありがたいが、夜中に彼女を連れ出すのは何かと後が怖い。

「それじゃ、真理依さん。映未さん。ありがとうございました。また明日」

「ええ。玲阿君によろしく」

 笑顔で手を振る池上さんと、黙って目線だけで応える舞地さん。

 丹下は二人に深々と頭を下げ、大きな袋を抱えて玄関を出て行った。



 地下鉄の車内は夜も遅いとあって、酔っ払ったサラリーマンや大学生風の姿が目立つ。 

 夢見ごこちで自分という感覚すらないような気分にも見えるが、酒の飲めない俺には残念ながら理解出来ない。

 つまり、何があっても酒に逃げるという手段が使えない。

「玲阿君は、どうかしたの?」

「夜中に呼び出すくらいだから、急ぎの用ではあるんだろうけど」

 親しい間柄といえど、この時間帯に呼びつけるようなタイプではない。

 口調も深刻だったが、後ろで聞こえる掛け声がどうも気になった。

 声質から推測して、木之本君と光。

 善人が集まって、穴に落ちた子犬でも助けてるんじゃないだろうな。

「友達思いなのね」

「報復を恐れてるんだ」

 軽く受け流し、ホームに地下鉄が滑り込んだところで席を立つ。

 目の前のサラリーマンは、がらがらの車内の床に転がったまま。

 幸せが相対的なものだとすれば、本人は今世界で最高に幸せなんだと思う。

 その意味で、酒に酔えるのは少し羨ましく思えなくも無い。

 常に、最低の気分を味わっている自分としては。

 これは相対的ではなく、絶対的なものでもあるが。



 玲阿家に近い駅で地下鉄を下車。

 長いエスカレーターを上り、地上へと出る。

「寒い」

 コートの襟を立て、身震いをする丹下。

 ここは八事周辺。

 名古屋北部は丘陵地帯で、特に木々の多いこの辺りは都心部に比べで数度温度が違う。

 夏は気持ちよく過ごせるが、冬は少し考え物だ。

 寒さのせいか、丹下は口をつぐんだまま。 

 俺も眠くなってきて、頭がいまいち働かない。

 それでもショウの家への道順は迷う事無く、曲がるべき所では角を曲がる。

「ちょっと、気味が悪いわね」

 突然そう呟く丹下。


 周りは長い塀の続く高級住宅街。

 その塀の向こうは竹林や背の高い木々がうっそうと茂り、月明かりや星明りを遮っている。

 街灯もあるにはあるが、風に吹かれた木々のざわめきがその明るさをも揺らすかのよう。

 ユウ一人なら、多分即座に引き返すだろう。

「この辺は出るって聞いた事無いけどな」

「どこでなら出るの」

「さあね」

 丹下が腕にしがみ付いてきたので言葉を濁す。

 こういう事をするために言ったんじゃないんだけどな。

「は、早く」

「お化け嫌いだった?」

「好きな人、いる?きゃっ」

 可愛らしい声を上げ、今度は体に抱きついてくる丹下。

 その肩を抱くより早く、腰の警棒に手を伸ばして目を細める。 

 一瞬感じた強烈な敵意。

 ただ物音はするが、姿は無い。

 少し急いだ方が良さそうだ。

「武器は」

「も、持って来てない」

「走って」 

 背中を押すが、そのまま俺も引っ張られる。

 どうしてかと思ったら、彼女が俺の手を痛いくらいに握り締めていた。

「ちょと、おい」

「何が?」

 大きく見開いた目と、速い呼吸。

 先に行けと言いかけ、その手を引っ張り自分も走り出す。

 重なる足音、重なる影。

 呼吸も視線も、重なっていく。

 らしく無いなと思いつつ、強く握り締めてくる手を握り返し俺は懸命に暗い路地を走り抜けた。



 路地の突き当たりにある玲阿家の玄関をくぐったところで、ようやく足を止める俺達。

 セキュリティは万全で、ショウの父親は銃も所持している。

 ここに忍び込む人間がいるとは思えず、身の危険は去ったと思っていいだろう。

「きゃっ」 

 もう一度叫び声を上げ、俺にしがみ付く丹下。

 今度は警棒を抜き、彼女を背中にかばい姿勢を落とす。

 風に揺られる木々のざわめきで、物音の低位は不明。 

 母屋まで向かった方が得策か。

「うひゃっ」

 場違いな叫び声。

 丹下は俺の背中に飛び乗り、声にならない声を出して足元を指差した。

「ぬぁー」 

 野太い、猫とは思えない鳴き声。

 よく見ると馬鹿でかい山猫が、嫌な顔で俺達を見上げていた。

 さっきからの物音も、多分こいつ。

 俺達を見に来たのか、一応は気遣って護衛をしてくれたのか。

 どちらにしろ猫の気まぐれ。

 人間には分からない。



 今度ははっきりとした人間のシルエット。

 それにようやく、安堵のため息を漏らす。

 ゴーグルを首から掛けているショウは、俺の背中にしがみ付いている丹下を指差した。

「……怪我でもした?」

「誰が」

「丹下さん」

 説明するのも馬鹿馬鹿しく、彼女を下ろして猫を追い払う。

 引っかくなよ、この野郎。

「このどら猫、家の外にいたぞ。法律に違反しないのか」

「この近所一帯まで、許可は得てる。泥棒避けにちょうどいいらしい」

 そういう問題なのかと思いつつ、ショウの首に掛けているゴーグルに指を向ける。

「お前の分もある。着替えは?」

「何も無い」

「ジャージがあるから、それに着替えて駐車場に来てくれ。丹下さんも暇なら見ていって」



 ジャージに着替えつつ、ゴーグルを袖で磨いているショウの話を聞く。

「宝石の研磨?そんなの、一人で出来るだろ」

 というか、一人でないと出来ないと思う。

 俺のイメージとしては、研磨機のベルトコンベアーに原石を近付け磨く作業。

 共同してやる事ではないし、技術やセンスはいるが交代して当たる程の仕事とは思えない。

「大体、その原石は」

 そこまで尋ね、まさかと思う。

 先日のデート。

 その依頼主のシスター・クリスを。 

 案外、誕生石でも贈ってきたんじゃないだろうな。

「ユウの誕生石を贈ってくれた」

 自分の誕生石ではなく、ユウのという部分に切なさを感じる。


 あくまでも人のために。

 自分よりも他人の幸せを。

 そこにわずかな、本当に少しの自分の思いを託すだけ。

 それもこうして自分ではなく、他人を介してのもどかしい行為。

 こいつにそれがどの程度理解出来ているかは疑問だが、俺よりは数段上等な人間なので気持ちくらいは通じてるかもしれない。

「石は分かったけど、一人で削れば良いだろ」

「大きいんだ」

「どのくらい。漬物石くらい?」

「大きいんだ」


 どのくらい大きいか。

 駐車場に置いてあった石は、スクーターくらいのサイズ。

 思いを伝えるためだと考えていたけど、単に嫌がらせかもしれないな。

「本当に入ってるのか、この中に?」

「反応はしてるよ」 

 ペンの形をしたアナライザーを顔の前で振る木之本君。

 この子もまた、自分のためには何の役にも立たない事をやってるな。

「ただスキャンしてみたら、少し奥にあるんだよね。まず石の位置を変えて、カッターで切断。その後原石を掘り出して研磨という手順かな」

「手順は分かったけど、どうして俺が」

「悪いね」

 いや。誰も、謝れとは言ってない。

 何故俺を夜中に呼び出したかを聞いてるんだ。

「休みだし、良いんじゃないの」

 石を撫でながら、勝手な事を言うヒカル。

 その休みをどう使うかは、個人の自由。

 ただし空いているからといって、他人が勝手にスケジュールを組み込んではずはない。

「私、コーヒーでも持って来ようか」

 丹下の言葉に、チェーンソーを振りかざしたショウが視線を向ける。

「食べ物も、少し頼む」

「分かった。誰か、案内して」

「俺が行くよ。付き合ってられん」




 一旦石屋の工房を後にして、馬鹿でかい台所へとやってくる。

 間違いなく寮の部屋よりは広く、壁際には業務用の冷蔵庫が幾つも並ぶ。

 フライパンや鍋は何種類も何組もあり、あちこちにある扉を開けると漬物やら乾物やらがしまってある。

「これ、玲阿君が食べるの?」 

 そんな訳は無いので、玲阿家の門弟達が食べると説明をする。

 ここは母屋で、それ以外に別棟が幾つかある。

 住み込みの門弟は今はいないようだが、食事をしていくのは当たり前。

 それが10人20人ともなれば、冷蔵庫も立ち並ぶという訳だ。

「お金持ちなのかしら、やっぱり」

「玲阿流としては、赤字だろ。ただRASレイアン・スピリッツは、相当儲かってるらしい」

 俺もこの台所に何があるかは詳しくないので、適当に扉を開けて飲み物を探す。

 ここはユウの城なので、案外隠し財産でも置いてるかもしれないな。

「豆からひいていいの?」

「いいけど、そういう味の分かる人間じゃないぞ」 

 木之本君にしろ、グルメというタイプではない。

 ヒカルは言わずもがなで、コーヒーと麦茶の区別が付いているかも怪しい。

 ショウに至っては、味よりもまずは量だからな。

「美味しい方がいいでしょ」

 どうしてもやりたいという目で訴えられたので、仕方なく頷き後を任せる。

 すでにコーヒーメーカーや豆をひく機械は見つけていたらしく、鼻歌交じりで豆をブレンドし始めた。

「峰山さんは、紅茶の方が好きだったんだけど。コーヒーのいれ方も教えてもらったの」

 懐かしそうに、遠い目で語る丹下。

 先輩を慕う気持ち、か。

 俺達が先輩と呼べる人間は数名で、それ以外は敵。

 もしくは、疎ましく思われていただけ。

 下級生のくせに。

 所詮ガーディアンの癖に。

 言い方は色々だが、俺達を助けてくれた先輩は塩田さんとその知り合いだけだ。

 少なくとも丹下のように、鼻歌が出てくるような思いでは上級生に関して殆ど存在しない。

 包丁を持って、今からでも押しかけたくなる奴はどれだけでもいるが。

「食べ物は、どうする?」

「お菓子とか、保存食でいいよ。後片付けも面倒だし。期限切れの奴を探して」

 足元にあった扉を開け、その中を覗き込む。

 ひやりとした空気と、暗所独特の香り。 

 この中に閉じ込められて上にテーブルでも置かれたらと考えたら、少し背中が涼しくなる。

 ただその前に、匂いで気付くかな。

「おにぎりくらい作る?」 

 俺とは違い、優しい事を言い出す丹下。 

 本当そういう事は無駄だと思うんだけど、何もしないというのも彼女からすれば気まずいのかもしれない。


 おにぎりと卵焼きとサンドイッチに缶詰。

 インスタントのスープが多少気にくわなかったのか、そこに刻んだねぎが振りまかれる。

「……匂いがする」

 のそりと部屋に入ってくるショウ。

 犬でも、ここまでの鼻はしてないと思う。

「木之本君達は」

「何が」

「もういい。呼んでくる」



 石にしがみついて何かを測定している木之本君を引き剥がし、その足元で丸くなっているヒカルを起こす。

「ご飯だ。夜食」

「もう、朝?」

 夜食って言っただろうが、今。

「……このブルーシートは」

 バイクが並ぶ簡素な駐輪場の隅に、宝石の原石らしいごろた石は転がしてある。

 その隣にはブルーシートが敷かれ、今目の前にある石と同じような丸みを帯びている。

「古いスクーターでもあるんじゃないの」

 のんきに笑う我が兄上。

 もう少し世慣れている木之本君は、頼りない表情で笑いアナライザーを近付けた。

「反応するね。……ペリドットとサファイヤ。8月と9月の誕生石だったはず」

 俺にとっては、何一つためにならない情報。

 それでも二人を食堂へ送り出し、おそるおそるブルーシートを剥がす。


 木之本君の指摘通り、出てきたのは馬鹿でかい石二つ。

 現地でもっと細かく出来たはずだと思うが、これはシスター・クリスの賜った試練なのかもしれない。 

 俺には、ただの嫌がらせとしか思えないが。

「ご飯、食べないの」

 俺が戻ってこないのを気にしたのか、エプロン姿で現れる丹下。

 以外に形から入る子だったんだな。

「ちょっと、悪い夢を見てた」

「悪くないじゃない。宝石の原石なんて」

 また、夢見がちな事を言い出したな。

 その内、「私の誕生石はダイヤなの」とか言われたらどうしよう。

「宝石が欲しいとか、原石を見つけて来いとは言ってないわよ」

 余程顔に出ていたのか、強い口調で否定する丹下。

 それでも、ごろた石を眺める瞳には星が無数に瞬いている。

 よく分からんが、女の子が好みそうな話ではあるな。

 私のために。私だけのために、原石から取り出した宝石を送ってくれた。

 世界にたった一つの、メイドイン彼氏。みたいなノリで。

「まあ、いいや。俺も少し食べよう。残ってればの話だけど」

「ご飯、一升あったのよ」

「本当、どうしてかな」





 どうにか残っていたおにぎりをかじっていると、ふと疑問が脳裏をよぎった。

「宝石は、どうする」

「どうするって、贈る」

「あのまま贈るって意味じゃないだろうな」

「じゃあ、どのまま贈るんだ」

 思った通りの答え。 

 こういう飾らなさが彼の魅力という人もいるが、それにも限度というものがある。

「ネックレス……。いや、神戸で買った指輪があっただろ」

「ん、ああ」

「あれに付ける。出来るよね、木之本君」

「爪を付けて、そこに宝石をはめ込むという形になら出来るよ。ただ技術的な問題以前に、爪の部分とそこを接着する金が必要になってくる。指輪が金ならね」

 自分は持っていないという顔で首を振る木之本君。

 ヒカルも持っていないし、当然俺も。

「寮に戻れば、あるかもしれないけど」

 丹下の申し出に手を振り、記憶を辿る。

 ショウの部屋にアクセサリーを納めた小物入れがあったはず。

 それを使うのは悪くないが、少し足りない。

 足りないのは量ではなく、もっと別な何かだ。

「……調達してくる。ショウはアメジストの削る感覚を覚えて、光は切り出し。木之本君は、爪をつける準備をして。丹下は、デザインを検索」

「分かった」



 ドアをノックし、返事を待って寝室へと入る。

 流衣さんはすでにパジャマ姿でベッドに入り、壁に背をもたれて本を読んでいるところ。

「お休みのところ、申し訳ありません」

「急に、どうかしたの」

「ちょっと、お願いがありまして。金、18金のアクセサリーがあれば譲って頂きたいんですが」

「四葉の削ってる原石と関係があるのね」

 すぐにベッドから抜け出し、ラックの上にあった小物入れを持って俺の前に来る流衣さん。

 中には幾つもの指輪が整列をしていて、その上では大きな宝石が輝きを放っている。

「爪を作るのなら、指輪の方が良いわよね」

「助かります」

「これでいいんじゃないの。風成の婚約指輪だけど」

 そう言って彼女が手に取ったのは、小粒だが間違いなくダイヤが爪にはまっている金の指輪。

 わざわざ婚約指輪と明かし、なおかつそれを渡す流衣さん。

 それこそが彼女の気持ちの現れだと思う。

「私のでもいいんだけど、私も一応少しは思い入れがあるから。そっちが失敗した時の予備と考えておいて」

「風成さんは?」

「普段は付けてないし、ある事も忘れてるんじゃない」

 苦笑する流衣さん。

 確かに、今俺の首筋に添えられた手に指輪の感触は無い。

「間男か」

「そんな所です」

 そう答え、改めて風成さんの手を確認。

 やはり指輪は身につけていなく、その跡も無い。

「あなたの指輪。四葉に上げるわよ」

「別に良いけど。何かに使うのか」

「大切な事にね」

「よく分からん。俺は寝る」

 そう宣言し、ベッドに潜り込む風成さん。 

 流衣さんは苦笑して俺に指輪を渡し、小物入れをラックへ戻して自分もベッドへ潜り込んだ。

「みんなによろしくね」

「ええ。ありがとうございました」




 さすがに俺も、いきなり流衣さんの婚約指輪だったら重すぎた。

 勿論意味合いとしては風成さんの指輪も同等なんだが、心情的には少し軽い。

 駐輪場に戻っていた木之本君に指輪を渡し、加工出来るかを尋ねる。

「爪を折って、付ける方の指輪にろう付けする。その接着剤にも、この指輪を使っていいのかな」

「いいよ。これで失敗しても、最悪予備がある」

「そうならないように頑張る」

 厳しくなる木之本君の顔。

 俺の台詞は、あまりプレッシャーを緩和するには至らなかったようだ。

「ショウ」

「感覚は分かった」

「よし。光」

「このくらいでいいんじゃないのかな。とりあえずは」

 床に敷かれた新聞紙の上に並ぶ、水晶の原石。

 色の深いものもあれば浅いものもあり、その選択はショウ次第だ。


「丹下」

「持ってきた指輪の爪をそのまま使うのなら、そこに乗っているダイヤと同じ形にカットした方がいいみたいね。改めてデザインを考えるセンスは無いし」

「分かった。ショウと光は、加工する水晶の選別。木之本君は機材を調整して。丹下は、指輪の爪を折って」

 驚いた顔で俺を見つめる丹下。

 ショウはそれには何の関心も示さず、幾つかの原石を照明にかざして光の透過する具合を確かめている。

「私が折るの?」

「大して難しくない作業だろ。少しくらい失敗しても、修正は利くし。違う?木之本君」

「ろう付けの段階で、少しかさを増す事も出来るからね」

「そういう事。持ち主の了解も取ってる。俺は不器用だから、絶対失敗する」


 これは馬鹿馬鹿しくて言いたくなかったが、事実なので仕方ない。

 その分の負担を彼女に背負わせる事になってしまうが、その償いはいつかする。

「のみで叩けば良いのかしら」

「折れれば、どうでもいいよ」

「贅沢な話ね」

 指輪を万力で固定し、その根元に小さなノミの先端を当てる丹下。

 そして案外無造作にハンマーを打ち下ろし、爪を折った。

 折れた爪は指輪が入っていたビニール袋に転がり落ち、支えを無くしたダイヤも取れる。

「お疲れ様。木之本君、後は頼む」

「分かった。ダイヤと同じサイズで作ってみる」

 卓上端末にさっきの指輪の写真を表示させ、それぞれのサイズと角度を測る木之本君。

 この先は彼に任せるしかなく、なんの手伝いようも無い。

「ショウ。石は」

「これにする」

 彼が差し出したのは、透明感のあるアメジスト。

 色はそれ程深くなく、透明感の方を選んだようだ。

「さてと」

 小さく呟き、椅子に座って研磨機のベルトコンベヤーに石を添えるショウ。

 一瞬にして辺りに粉が飛び散り、耳が痛くなってくる。

「後は二人に任せよう」



 無責任と言われればそれまでだが、俺達があそこで出来る事は何も無い。

 むしろそばにいる方が、彼らの集中を妨げてしまう。

 とりあえず食堂に集まり、飲み物を眺めながらソファーへ崩れる。

 丹下は多少不満そうだが、何もしないというのも大切な事。

 それが分かっているからこそ、彼女も口にはしないが。

「あの指輪。ショウはどうするつもりなのかな」

 かなり漠然とした質問をする光。

 ただそれは、深い部分をも付いている。

 今時付き合っている相手に指輪を贈るくらい、日常茶飯事。

 ただあの二人に関して、指輪を贈ったという話は記憶に無い。

 そのくらい純粋で淡い付き合い方をしていたのが理由の一つだが、それとはまた別に指輪のやりとりにもっと神聖な事を感じている節もある。

 それこそ婚約、結婚というレベル。


 今回がそれに当たるとは俺もさすがに思えないが、光の質問に笑って答えるほどの確信は無い。

「ヒカル君は、遠野ちゃんに贈らないの?」

「現実的な事を言うと、贈るだけのお金も無くてね。それに、僕の柄ではないらしい」

 苦笑して、自分の顔を指差す光。

 おおらかなのがこいつの良い所であって、付き合ってる相手にプレゼントを欠かさないなんて馬鹿げてる。

 プレゼントを渡す事がではなく、こいつにそういった細かな事を求めるのが。

 俺とは違い、大きく生きている人間。

 人をねたむとか恨むという感情もなく、純粋に人のために物事を成し遂げられる。

 その分欠落している部分も多いが、それを無理に補って今のおおらかさを無くすのは馬鹿らしい。


「贈ってくれても、問題は無いのよ」

 駐輪場の外から届く低い声。

 漆黒の黒髪を闇に溶かした美少女が、薄ら笑いを浮かべて現れた。

「楽しそうな事してるわね」

 シャワーのような装置片手に近付いてくるサトミ。

 それが一体なんだったのか、木之本君が顔色を変えて後ずさる。

「大丈夫。人には向けないから」

「本当に、危ないよ」

「だから、人には向けないわよ」

 じゃあ、どうして俺には向けるんだ。

 それと、なんかお腹が暖かいんだけど。


「レーザー?」

 外は闇。

 駐輪場の照明もかなり薄暗く、サトミが手にしている装置から真っ直ぐ伸びる赤い光が俺の腹を貫いている。

 レーザーといっても色々あり、イベントで使うのは照明と同じ。

 指示棒代わりのポインターや測量用の物も、大した事は無い。

 とはいえ軍事衛星に積んでいるレーザーは、地表20Mくらいは焼くとの話。

 これは多分、鉱物を切断するためのレーザーだろう。

 今浴びているのは、測量段階のものと思うが。

「届いたなら、届いたって連絡して」

「慌ててたんだ」

「アメジスト。……これはユウのね」

 アメジストは2月の誕生石なので、そこから推測した台詞。

 アメジストも誕生石も分かってなかった俺とはかなりの差。

 彼女は駐輪場の隅にあったブルーシートを剥がすと、その下から出てきたごろた石をいとうしそうに撫で始めた。

「そっちはやらないぞ」 

 きっぱりと言い切るショウ。

 サトミが鷲みたいな目で睨むが効果なし。 

 多少たじろぎはしたが、引きはしない。


 こいつにしては珍しく強気で、自分の意見を主張した。

 ユウへの思いが、サトミへの恐怖心を上回ったという事か。

「分かったわよ。それは、いつ終るの」

「今日中」

「それは、日付をまたぐ前の話?またいだ後の話?」

 苦笑気味に、端末の画面を見せてくるサトミ。

 すでに日付は変わり、刻々と夜明けが近付いている。

 しかしショウは少しも動ぜず、椅子に戻って原石を研磨する作業を再開した。

「削る間に私のをやってもいいんじゃなくて」

「静かにしてくれ。集中してるんだ」

「ちょっと、この子口答えしたわよ」

 反抗期の子供を抱えた親か。 

 しかも、真剣な顔で言うな。

「木之本君」

「台座は付け終った。切り出すだけなら良いよ。ね、玲阿君」

「静かにしてくれ」

「分かったよ」

 すね気味に駐輪場の隅に向かい、シートを剥がすサトミ。 

 でもってごろた石を見て満足したのか、ニヤニヤしながら石を撫で出した。

 おおよそ国際的に評価されている天才高校生とは思えず、マタタビを前にした猫と同じ。

 大体ただの石だろ、こんなのは。


「文句でもあるの」

「いや。別に。とりあえず、適当に切り出せよ」

「切り出した粉はどうするの」

「捨ててくれ。頼む」

 チリ一つ残さず持って帰ると言い出しそうなので、木之本君と一緒に頭を下げる。

 光はといえば、何をするでもなくショウが研磨する姿を見守っている。

 何をする訳でもないんだが、側にいるだけで安心感を与える人間が世の中にはいる。

 ショウは研磨に集中し、光はただそれを見守る。

 夜も明けようという時に何をやっているのかと、大人からすれば言いたくなるような事。

 それでも彼らは、純粋にその行為に没頭している。

 邪念も心の乱れも、何も無い。

 ショウはユウのためにという思いで。

 光は、ショウのためにという思いで。

 向けられる相手は違っても、それはどこかで重なっている。


 俺には決して抱けない。

 もしかすると、そういう資格すら元々無いのかもしれない。

 人の裏をかき、隠し事を暴き、常に隙を窺っている俺には。

 彼らが光の中にいるとするならば、闇そのものの俺は決して彼らには近付けない。

 光があるからこそ闇も存在はするが、重なる事は決してない。



「わ」

「きゃっ」

 突然の悲鳴と、焦げ臭い匂い。

 まさかと思ったが、燃えたのはブルーシート。

 幸い大事には至らず、またショウはかなりの集中を見せていて全く気付いていない。

 と、思いたい。

「あのさ、それって人に当たったらどうなるんだ。鉱石を切断するくらいの熱なんだろ」

「センサーが反応するわよ」

「今は、反応したのか」

 それには答えず、レーザーを振りかざすサトミ。

 不器用なタイプではないが、どう考えても慣れてるとは思えない。

「木之本君、代わって」

「僕も、あまり得意じゃないんだよね。それに、電圧は大丈夫?レーザーだと消費電力は……」

 木之本君の言葉は最後まで続かず、薄暗い照明が消えてモーターの音が収まっていく。

 暗闇の中響くショウのため息。

 慌てて光の後ろへ逃げるサトミ。

 怒鳴られてもおかしくない場面だが、ショウはサーチライトを付けて全員の顔を確認した。

「誰も怪我してないな」

 もう少し他に言う事はあると思うが、ショウが口にしたのはこの台詞。

 そして全員が頷いたのを見て、改めてため息を付いた。

「……そっちの石を先に切る。木之本、クレーンの準備してくれ」

「いいの?」

「いいよ」

 明るく笑い、サトミの肩に触れるショウ。 

 彼女がはにかみつつ、それでも彼の手に触れる。

 このくらいはユウも許してくれるだろう。

「ごめんなさい」

「いや。俺が悪かった。これは、シスター・クリスからの贈り物だからな」

 まず第一に、誰の元へ送られたかと言えばショウのために。

 ひいては、ユウのために。

 サトミとシスター・クリスは親交があるにしろ、今回は次の次。

 それでもショウは、彼女の気持ちを優先するという。

 ユウの事を脇に一旦置いて、自分の仕事を中断してでも。

 こういう大きさや優しさが、女性に支持をされる理由。 

 勿論まずは容姿で惹かれるとしても、この本質がなければあそこまで熱狂的な支持はない。

 ただ必要以上に彼を持ち上げる傾向が無くもない。


 ユウが違うのは、彼をただの高校生として見ている事。

 容姿もそういった性格も含め、自然に受け入れている。

 その彼女のための宝石よりも、サトミの宝石を優先するという彼の行動。

 もてる訳だ、それは。


 おそらくはバイクのメンテ用のクレーンで石が持ち上げられ、木之本君がセンサーを近付ける。

 レーザーで軽くラインが引かれ、今度は出力が上がって石が切断される。

 その中から一つをサトミが拾い出し、改めてレーザーでカット。

 後はサトミ本人が、研磨機で磨き出す。

「本当にいいの?」

 何となく不満げにサトミを眺める丹下。

 彼女への不満。

 ショウへの不満。

 そうして不満を抱いてしまう自分への嫌悪感。といったところか。

「良くはない。けど、ああいう奴だから仕方ない」

「甘いって事?」

「まあね。結局、目の前で困ってる人間を見過ごせない。自分にどれだけの大儀があっても使命があっても、すぐそこに子猫が濡れていれば助けるタイプ」

「何よ、それ」

 例えが馬鹿らしかったか、ちょっと。

「本人が良いって言ってるんだ。俺達が、口を挟む事でもない」

「そうだけど」

「それに今日中に作ると言ったんだから、作るんだろ」

 逆に言えば、その自信があるからこその行為であり発言。

 やると言ったからには、死んでもやるつもりだろう。 

 一日二日寝ないでも、死にはしないと思うが。



 震えるピンセット。

 それに合わせて揺れる輝き。

 誰もが固唾を飲んで見守る中、ショウは慎重に爪へアメジストをはめ込みそっとピンセットを引き抜いた。

 爪が折れる事も、アメジストがこぼれ落ちる事も無い。

 金色の指輪の上でアメジストは一層輝きを増し、小さな爪にしっかりと支えられている。

 自然と起こる拍手。

 頭をかいて照れるショウ。

 暖かい、心から癒されるような空気。

 外を見れば、明け方どころかもうすぐ昼。

 日はすっかり空高く上り、外へ出ると何よりその日差しが目に眩しい。

「寝るか」


 そうショウが宣言し、全員無言で母屋へ向かう。

 おじさん達が何か言っているが、その半分も聞こえていない。

 意識もそうだが、完全に時間の感覚が狂ったな。

 用意されていたらしい布団に倒れた途端、薄れかかっていた意識が消える。


 慌てて飛び起きると、時刻は夜を迎えていた。

 寝るには早い時間だが、少なくとも起きてくる時間ではないと思う。

 困った事になったと思いつつ、部屋を出て廊下を歩く。

「おはよう」

 間の抜けた事を言っている兄を眺めつつ、リビングに揃っている人数を確認する。

 ショウ、木之本君、光。

「丹下とサトミは」

「さっきまでいたけどな」

 あまり関心を示さず、青い宝石箱をいとおしそうに握り締めるショウ。

 当分役に立ちそうに無いので、木之本君に改めて尋ねる。

「僕が起きた時は、宝石の事を話してたよ。丹下さんも欲しいんじゃないの」

 それならまだいいが、夜中の話を引きずってる可能性もある。

 まさかと思うが、どっかでケンカして無いだろうな。

「探してくる」

「二人とも、もう子供じゃないよ」

 のんきに笑う兄の台詞を背に受け、リビングを飛び出す。

 家人に尋ねるが、家の中では見かけてないとの話。 

 やはり、駐輪場へ行くべきか。



 母屋の外へ出て、薄暗い敷地内を横切り駐輪場へとやってくる。

 明かりは漏れているが、何の音も聞こえない。

 照明は防犯用といったところか。

「いないわよ」

 突然駐輪場から出てくるサトミ。

 いるだろ、自分は。

「丹下ちゃんは、いないわよ」

 笑いながら、そう言い直すサトミ。

 そんな事は、見れば分かる。

 余程顔に出ていたのか、彼女は俺の鼻先に指を突きつけきつい目付きで睨んできた。

「怒ってたわよ」

「サトミが、わがままを言うから」

「私だけじゃなくて、ショウにも」

「夢見がちな乙女なんだ。友情よりも、愛情を優先するらしい」

「適当な事言って。まあ、私も反省はしてるけど」

 珍しく殊勝な事を言い出すサトミ。

 確かに今回の件は彼女に非があり、このくらいの台詞で済む問題でないと丹下は言いたかったのかもしれない。

「ケンカしたとか」

「少し注意されただけ」

「注意、ね」

 なんとなく、風紀委員という言葉を思い出した。

 それを自覚してるからこそ、本人は姿をくらましてるんだろうが。

「生真面目なのよ、結局。私もそうだけど」

 そうかなと反論したくなったが、その手がレーザーに伸びたので愛想よく笑ってごまかす。


 彼女の場合は生真面目ではなく、論理に基づいて行動しないと気が済まないだけ。

 そしてその論理を絶対視して、行動が硬直化するケースは多いが。

「気にしてから、慰めてあげたら」

「誰が」

「あなた以外に、誰がいるの」

 誰って、それは俺の役目でもないと思う。

 というか、慰めるって何語なんだ。

「少しは、人を思いやる気持ちを見につけたら。ショウ達を見習いなさい」

「ああいう、出家してるような連中と一緒にされても困る」

 邪念は無い、我は無い、無心。

 あれで肉食を止めたら、本当に坊主そのものだ。

「とにかく、探してきて」

「いるの、まだ?」

「庭の奥に行ったみたい。出るって噂よ、ここ」




 最後に余計な台詞を聞き、サーチライト片手に庭を歩く。

 幸いその姿はすぐに見つかり、俺が向けたサーチライトをまぶしそうに手で遮った。

 彼女が歩いていたのは、うっそうと茂る木々の手前。

 この奥には古井戸があるとユウが言っていた。

 古い家だし、何しろ先祖代々軍人の家系。

 出ないほうがおかしいだろう。

「どうかしたの」

「いや。物騒だし、母屋へ戻ろう」

「そうね」

 案外素直に答え、俺の後に付いてくる丹下。

 しかし言葉は何も発せられず、芝を踏む足音だけが夜空に吸い込まれていく。

 反省、迷い、反発、自尊心。

 色んな感情が彼女の中で渦巻いているのが分かる。


 本人すら分かっていない、心の内。

 俺がたやすく、あれこれ口を挟む事は出来ない。

 他人を慰めるような資格も無ければ経験も無い。

 俺の本質は結局暗い部分に位置し、人を明るい場所へ導くようには出来ていない。

 人の闇、影の部分ばかりを見すぎて、今更明るい元へ飛び出せという方に無理がある。



 ふと見える駐輪場の明かり。

 その奥から響く金属音。

 ショウの指輪はすでに完成していて、手直しにするにしても母屋で出来る。

 だとしたら、あそこにいるのはサトミだろう。

「私は、遠野ちゃんみたいになれないのよね」

 小声でそう漏らす丹下。

 何がと尋ねる間もなく、彼女が自分で話し始めた。

「綺麗で、頭が良くて。でも、それを気に求めずにああやって自由に振舞うなんて」

「単に、わがままなだけだろ」

「私は出来ないの。周りの事を気にしてばかりで。素直に、自分を表現する事が出来ないの」

 深刻な表情で語る丹下。

 そこまで思い詰める事でもないと思うが、そう判断してしまう部分こそ彼女の生真面目さなんだろう。

「私は駄目なのよ」

「何が駄目か分からんし、人の邪魔をするよりは良いだろ」

「そうして自分を押し殺して生きていくのが?」

「なんでも好きにやればいいって訳じゃない。誰かの犠牲の上に成り立ってるとは言わないけど、それはそれで卑下するような事ではないだろ」

 多少一般論過ぎる事を言い、丹下を黙らせる。


 そういう生き方。 

 他人を手助けする生き方に不満を持っている訳ではないだろうが、彼女は彼女なりに自分の性格に疑問を抱いているのは事実。

 ショウ達のように、良いように利用だけされるのをなんとも思わない人間もいるにはいるが。

「じゃあ、やりたい事をやればいいんじゃないの」

「なに、やりたい事って」

 かなり重症だな、これは。

 学校ではガーディアンの教棟の隊長としてさまざまな制約を強いられ、とにかく組織を維持する義務を担っている。

 家では二人の弟妹の姉として、やはり彼らを保護する役目を担う。

 彼女自身という存在を発揮し、自由に振舞える場面はあまり見当たらない。


 ただ誰しも役割や役目は持っていて、制約に基づいて行動しているから世の中は上手く動いていく。

 彼女もそれは分かっているだろうが、いろいろなストレスが掛かって精神的に疲れてるのかも知れない。

「ごめん。今の話は忘れて」

 ぎこちなく笑い、母屋の玄関をくぐる丹下。

 さすがに見過ごす訳には行かず、遠くに鍛冶屋の音を聞きながら彼女を追う。



「……どこ、ここ」

 廊下の行き止まりで立ち尽くす丹下。

 何分広い家。 

 俺も把握しているのは、ショウの部屋とリビングくらい。

 後はうろ覚えで、なんとなく記憶がある程度。

 丹下は引き返すのも疲れたのか、壁を背にして床へしゃがみ込んでしまった。

 よく考えれば、昨日は徹夜。

 少し寝たとはいえ、体も疲れてるか。

「もう少し寝たら」

「寝て、何か良い事でもあるの?」

「悪い夢を見るって事も無いだろ」

「どうかしら」 

 それでも座り込んでいるよりは良いと思ったのか、俺の手を借りて立ち上がる丹下。

 顔色は悪く、肉体的な疲労が精神を追い込んだかもしれないな。


 学校では生徒会と俺達との板ばさみ。

 それでも気丈に振舞ってはいたが、やはりかなりの負担を彼女に掛けていたようだ。

 俺も分かってはいた。

 ただ、大丈夫だとどこか甘く考えていた。 

 何の根拠も無い、身勝手な考えにすがっていたとも言える。

 責任があるとすればそれは本人にだが、見過ごしてきた回りの責任も同等に問われるべきだろう。

 それは勿論、俺も含めて。




 寝室の布団に彼女を寝かせ、照明用のリモコンを枕元に置く。

 あまり調子が悪いようなら、医者に連れて行った方がいいのかも知れない。

「……行かないで」

 立ち上がろうとした俺の手首を掴む丹下。 

 弱弱しい口調と頼りない力。

 彼女はすがるような目で俺を見上げ、すぐにその視線を伏せた。

 俺を頼るなんて重症だなと思いつつ、手の平を彼女の頬と額に当てる。

「熱、はないか」

 呼吸も乱れてはいなく、少し浅いが正常な範囲内だと思う。

 やはり、精神的な問題だろう。

 彼女の手を布団に戻し、その傍らに座って口元を押さえる。

 留まったはいいが、俺はここで何をする。 

 何が出来るのか、と言い換えた方がいいだろう。

 俺よりも流衣さんか、まだしもサトミを呼んだ方が。


「お話して」

 さっきと同じ、すがるような視線。 

 仕方ないか、この際は。

「昔昔、あるところに」

「誰が昔話をしろって言ったのよ」

 お話って言ったじゃないよ。

 大体、ぺらぺら話す事なんて何も無いぞ。

「お話して」

「何の、どんな話」

「昔の話」

 それは今しただろうが。

 ……もしかして、俺の昔の話をしろって言ってるんじゃないだろうな。

「お話」

「廊下を歩いていたら後ろから武装した集団が追いかけてきて、それを指揮してるのはポニーテールの」

 みぞおちから背中に抜ける鈍い衝撃。 

 本気で殴ったな、今。


「なんだよ、昔話だろ」

「もっと前。中等部の話。私は、ユウちゃん達に憧れてたの」

 初めからそう言えよ。

 しかしあの頃の話なんて、ろくなものが無いぞ。

 だけど丹下は、親に御伽ばなしをねだるような顔で俺を見上げている。

 本当、勘弁してほしいな。

「教師をポールに吊り上げた話か。プールに浮かべた話か」

「教室を爆発させた話」

 また嫌な事を言い出すな。

「始めは良くある話で、感じの悪い教師が……」

 目を輝かせて俺の話に聞き入る丹下。


 顔には赤味が差し、表情も穏やか。

 さっきまでの疲労感や倦怠感は、どうやらかなり和らいだらしい。

 彼女にとってのヒーローであるユウやサトミ付き合うのも、また負担の一つだったかもしれないな。

 そのヒーローの片隅に俺がいたという事は、あまり考慮されていないらしいが。













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