エピソード(外伝) 34 ~サトミ視点~
叡智
覚醒した意識によぎる、数式と漢文。
それぞれの意味と関連性を判断し、意識によぎった理由を推測。
数式には数値を当てはめ、5題ほど計算。
漢文は前後の分を想起し、題名と文章のあらすじを理解。
作者の年表と、同時期の年表を思い出す。
それが無意味な行為と気付いた所で、体を起こし時計に目を移す。
目覚めるには、まだ早い時間。
カーテンの隙間から差し込む日差しは白く、頼りない。
部屋の空気も冷え切り、ベッドの外へ出る気も起きはしない。
休日ともなれば、なおさらに。
目を閉じて、先程の数式を再び思い返す。
そこから似た数式をいくつか思い出し、理論を構築。
無意味なのは分かっているし、誰の役にも立ちはしない。
だけど私にとっては、意味のある時の過ごし方。
自分の世界に浸り、その中で広がる無限を楽しむのは。
誰にも理解出来ない。
理解をしてもらえなかった思い。
覚醒はしているが、体は少し重い。
おそらくは精神的な負担が理由。
こういう時は、自分の弱さをつくづく思い知る。
着替えをするのもだるく、パジャマ姿のまま食堂へとやってくる。
今日は休日。
そして女子寮という気楽さから、同じような格好の人は多い。
あまり褒められた事ではないが、今はその気楽さに浸っていたい。
カウンターの列に並んでいると、軽く肩を叩かれた。
私に近付いてくる人間。
それも親しげに近付いてくる人間は限られる。
今のように、不機嫌さを醸し出している時は余計に。
「着替えたら」
「少しだるいの」
「まあ、あなたは何を着ても似合うけど」
そう言って、くすくす笑うモト。
彼女は白のブラウスにスリムジーンズ。
この子こそ、背が高いので何を着てもよく似合う。
「風邪でも引いた?」
「少し悩みがあるだけ。大した事じゃない」
「そう」
悩みと告げても、深くは踏み込んでこない。
私にはない、人間的な大きさ。
包み込むような優しさが彼女にはある。
だからついつい甘えてしまい、この前のような諍いも起こしてしまう。
そんな人間が近くにいる事の幸せを、私はもう少し噛み締めた方が良いんだろう。
日だまりの中、二人向き合って朝食を取る。
私はヨーグルトとフルーツを少しだけ。
正直それも食べたくはないが、糖分の補給は必要不可欠。
食欲よりも、理屈を優先させる。
「ユウは」
「実家に戻ってるみたい」
クロワッサンをかじりながら答えるモト。
その言葉に、ふと胸が痛む。
私が実家に帰ったのは、一昨年の夏。
あれ以来家に帰ってもいなければ、連絡もしていない。
何より、向こうからの連絡もない。
所詮は捨てられた身。
そして私は、逃げ出した立場。
今更、それを元に戻す方法などありはしない。
無理矢理ヨーグルトとサラダを食べ終え、空の容器を眺める。
「変な実験を始めないでよ」
「まさか」
鼻で笑い、モトの目の前にあった牛乳のグラスから目を離す。
発酵の過程を調べたかったが、あまり楽しくない結果になるのは明らか。
ただその過程を観察した事がないため、一度くらいは試したみたい。
これは明日以降の課題にしよう。
「もう少し、楽しい食事が出来ない?」
「ユウじゃないんだから、食べて幸せという訳には行かないわ」
「乳酸菌や酵母の事を考えて幸せって訳でも無いでしょ」
私の心を読んだような、鋭い指摘。
ただこれは、感応能力以前の問題。
私の底の浅さが原因か。
「今日の予定は?」
「別に、何も」
「少し出かけない?」
特に深い意味はなく、休日を外で過ごすといった程度の表情。
確かに、寮にこもっていても仕方ない。
外へ出て、何かが解決する訳でもないが。
神宮駅前のショッピングモール。
ショーウインドウに飾られた服やアクセサリーを、何となく眺めて歩く。
「素材はどこ原産で、今年の生育とか市場の変動とか考えてる?」
からかうように声を掛けてくるモト。
その通りとはとても答えられず、曖昧に笑って軽く背筋を伸ばす。
「悩みって、両親の事?」
今度は一転、ストレートな質問。
ただ、それ程の不快感はない。
外へ出て無いかが解決した訳ではない。
それでも開放感があるのは確かで、多少はその効果が出ているんだろう。
寮の自室でこの話をされたら、無視をしているか声を荒げてるか。
部屋を飛び出しているかだと思う。
答えなければならない理由はないが、拒む理由もやはり無い。
歩幅に合わせて息を整え、伏し目がちに小声で答える。
「無くもない」
「何かあった?」
「何もないけれど」
そう。
両親から連絡があった訳でも、顔を合わせた訳でもない。
何もないから私は安心をし、気を重くする。
心のどこかで、まだ願っている。
幼い頃のように、無邪気な心で両親に接する事が出来ればと。
でもそれは、叶わぬ願い。
何もかもが今更過ぎる。
その理由を全て両親に押しつける事も出来はしないが。
気付くと熱田神宮の細かな砂利を踏みしめていた。
寮や学校からは目と鼻の先。
その名が示す通り、神宮駅からも歩いていける距離にある。
初詣や七五三だけ通う場所ではなく、近さ故私達はここを訪れる機会も多い。
都心には珍しい多くの緑と、静寂。
周囲の喧噪から隔絶された落ち着いた雰囲気。
ただこの場所にいる事が、心の平穏に繋がる気もする。
「草薙の剣ってどこにあるの」
「本宮の奥にある本殿でしょ」
「実際しないとも言うじゃない」
「昔の神主が盗み見たという話もあるし、第2次大戦中は持ち出した記録もある。無くはないわよ」
とはいえ私も見た訳ではないし、神社側もそこはあまり明確にはしていない。
ご神体の神聖さ故、という理由もあるだろうが。
足下を我が物顔で歩いていく大きな軍鶏。
ただ参拝客がそれに疑問を抱いている様子はなく、軍鶏もここの風景の一つとして溶け込んでいる。
こういうおおらかさが宗教の良さ。
見ているだけで、気持ちも和む。
モトが何を思って私を外へ連れ出し、ここに来たのかは分からない。
それでも心が少しは軽くなった。
勿論、何も解決した訳ではない。
目の前の事ですら、何も。
でも今は、この気持ちを大切にしよう。
それもまた、偽らざる私の気持ちだから。
寮に戻ると、玄関先に人だかりが出来ていた。
ショウでも来ているのかと思ったが、少し違う。
整った顔の男性であるのは変わりない。
彼よりも女性の扱いにこなれていて、そつが無く、腹立たしい。
「……何をしてるの」
声に愛想が無くなるのは仕方ない。
これでは、さっきまでの良い気分も台無しだ。
「兄として、妹の様子を見に来ただけだよ」
「それと女の子に囲まれるのと、関係あるの?」
「これはもう、仕方ないな」
爽やかに微笑んでみせる兄さん。
周りを囲む女の子もさざめくように笑い、彼だけしか見えないという視線を向ける。
馬鹿馬鹿しすぎて、これ以上話す気にもなれない。
「まあ、落ち着いて。秀邦さん、サトミにご用でも?」
「様子を見に来ただけだよ」
「私達は忙しいので、男子寮の方へお願いします」
別に忙しくもないが、ここに兄さんがいれば事態の悪化を招くのは必至。
女子寮は彼のハーレムでもなければ後宮でもない。
何が困るといって、それを悪いと思う人間がいないから困る。
警備員まで彼に付き従うのもどうかと思う。
さすがに男子寮では取り囲まれる事はなく、ただ時折女子生徒以上の熱視線を浴びせる生徒も見受けられる。
「ああいうのに愛想を振りまいてみたら」
「相手によるね」
あまり聞きたくはなかった返事。
相手が違ったらどうなるのかと、つい嫌な想像をしてしまった。
「それで、何か用」
「顔を見に来ただけさ。というか、勝手にこの部屋を使って良いのか」
「問題ないわ」
マンガの並ぶ本棚。
ゲームの積まれた床。
雑然とはしていないが、あまり共感は覚えない眺め。
机の引き出しを開け、何が入っているかを一つ一つ確認する。
「ひどいな、お前も」
「見られたくないなら、鍵を掛けておけばいいのよ」
「ドアには掛かってただろ」
「気のせいでしょ」
「そんな訳あるか」
後ろから聞こえる無愛想な声。
振り向くと、小さな袋を下げたケイが立っていた。
「おはよう、気持ちの良い朝ね」
「もう昼だ。兄妹揃って、不法侵入か」
「誰もいないから、家出したのかと思って。書き置きは無いようね」
「天才少女が聞いて呆れる」
鼻を鳴らし、ベッドに腰掛けおにぎりを食べるケイ。
兄さんはにこりと笑い、彼の隣に腰掛けた。
「怪我の具合はどうかな」
「いつの話をしてるんですか」
「色んな話だよ。見せてもらって良い?」
「男に見せる裸はありませんよ」
明確に拒否するケイ。
喜んで脱がれるよりは余程ましで、私もそんな物は見たくない。
「不純な動機ではないよ。純粋に、医学的な立場から」
「あんた、心理学の助教授でしょ」
「君も最近は、理屈を覚えだしたね」
「服を脱がせるのは、女だけにしておいて下さい」
それにはも納得は出来ないが。
突然の叫び声。
悲鳴ではなく、非常に聞き慣れた。
「牛乳無いよ」
「だからなんだ」
「飲みたいなと思ってさ」
そう言って、ペットボトルのジュースに口を付けるユウ。
そしてもういらなくなったらしく、私に残りが渡される。
「ここはたまり場じゃない。出てってくれ」
「本部に置けない荷物とか、どの辺に置く?」
「置かないんだ。ショウの部屋が開いてる。あっちに行ってくれ」
言われるままに部屋を移動。
こちらも合い鍵は持っていて、無断ではあるが中へと入る。
ケイの部屋以上の殺風景な光景。
トレーニング機器が少しと、雑誌が少し。
後はベッドと机があるくらい。
年頃の男の子の部屋とは思えず、修行僧なんて言葉がふと思い浮かぶ。
「彼はストイックだな。従兄弟と違って」
「同級生だったんですよね」
「少しに間だけね。ふざけた男だった」
それは同感で、ショウと同じ血筋とはとても思えない。
ただあの子は玲阿家でもかなり特殊というか、異質な性格。
曾祖父からの隔世遺伝らしいが、一度調べてみる必要はあるだろう。
ユウは何が楽しいのか、ケイの部屋に戻っていった。
ただここには遊ぶような物は何もなく、鉄アレイを相手にしているよりはましだろう。
「父さん達が名古屋に来てる。……のは、知ってるって顔だな」
「それが、どうかしたの」
私とは違い、兄さんは今でも両親と顔を合わせている。
あの夏の日以来私を連れ出す事はないし、私も尋ねはしない。
時折話を聞き、それを受け流すだけ。
心の重荷を増していくだけだ。
「どうもしないが。一度くらい会っても良いんじゃないのか」
「一昨年の事、忘れたの?」
「忘れはしない。だけど人は、前に進み続ける。俺も、あの人達も。お前も」
「理想は聞いてないわよ」
「現実の話さ。嫌なら無理にとは言わない。ただ、一生背を向けても過ごせないだろ」
過ごせなくはないと答えたいが、自分でもそこには自身がない。
遠野姓を名乗っている以上、私の戸籍は両親の元にある。
成人して戸籍を抜くのはたやすく、そのつもりでもいる。
つもり、としか言えない自分。
本当に戸籍を離脱するのなら、兄さんを後見人にすれば手続きは可能。
だけど私は、その手続きを取ろうとしない。
何が私を迷わせているのか、私にも分からない。
分からないまま、私は迷い続けている。
学校にいても寮にいても、気持ちが晴れる事はない。
意識の片隅に残る両親のイメージ。
怒り、憎しみ、それとも思慕。
重なり合ういくつもの感情が気持ちを鈍らせ、思考を低下させる。
数学の授業。
配信された小テストの、簡単な計算を間違えてしまう。
普段なら数式を見ただけで、意識もせずに答えを書き込む程度の内容。
間違いは単純な計算ミス。
ただ間違えたと言えばそれまで。
気にしすぎといえば、気にしすぎている。
不安定な今の自分を洗わす、端的な例。
すぐに数字を打ち直し、正答を送信する。
答え合わせを始める教師。
それに一喜一憂するクラスメート。
彼等にとって大切なのは、正答の数字。
そこに至る過程でもなければ、論理ではない。
答えさえ合っていれば、サイコロを転がした結果でも満足する。
学校のテストは、実際そんな程度。
今更知った訳ではないが、少し疲れてきた。
昼休み。
図書センターへ向かい、本を探す。
今は何かに没頭し、雑念を消したい気分。
それが不可能なのは分かっているが、このままではバランスを崩してしまいかねない。
こんな行為に及んでいる時点で、崩れてはいるのだろうが。
開架ブースにある卓上端末で、思い付く単語を適当に検索。
表示された本のタイトルをチェックし、候補を絞り込む。
哲学書、物理学の理論書、英文法。
その中から数冊を選び、司書に依頼。
閉架スペースから取り寄せられた本を抱え、閉架ブースの奥へ向かう。
個人用にスペースが区切られ、聞こえてくるのはページをめくる音とペンを走らせる音。
騒がしさとは無縁の閉ざされた世界。
心が自然に落ち着き、意識は本を読む事だけへ向けられる。
宇宙旅行をする最も有効な移動方法について書かれた論文に目を通し、人類が星の彼方へ旅立つのはまだ先の話だとしみじみ思う。
人体への負担がクリアされて光速に到達しても、最も近い恒星までは4、2光年。
大航海時代と大して変わらない。
そこまでして赴く価値があるのかどうか、私には理解も出来ない。
数式と論理にただ感心をするだけの私には。
宇宙に夢を馳せるどころか、現実に打ちのめされただけ。
論文を端に寄せ、小さな図鑑を手に取る。
カラフルな昆虫の写真が並び、その下に申し訳程度の説明文が載る。
外来種ばかりを集めた、やや珍しい本。
日本の固有種をもてはやし、その復活を望む声は多い。
実際に固有種を育て、野に放つケースも。
所詮よそ者は、人間だろうと昆虫だろうと排除される。
その意志には関わらず。
昆虫に、どんな意志があるのかは分からないが。
下らない考えに自分でも笑ってしまい、本を閉じる。
その時巻末でページが止まり、同シリーズの図鑑が目に入った。
それは日本の固有種のみを集めた図鑑。
表紙の写真は、ヤマキチョウになっている。
シロチョウ科の、中部地方のみに生息する種類。
都市部ではあまり見られないが、緑の多いこの学校ではごく希にその姿を見かける時もある。
胸の奥に走る鈍い痛み。
蘇る幼い頃の思い出。
蝶を捕まえ、両親に見せた。
だけど両親は愛想良く笑い、私を体よく追い返した。
一冊の図鑑と共に。
その図鑑とこの図鑑は違う物だと思う。
だけど蝶は、きっと同じ。
あの時私が捕まえたのは、ヤマキチョウ。
岩手にもごくわずかではあるが、生息をしている。
希少種だったから捕まえた訳ではない。
綺麗だと思ったから。
それを見て両親が喜んでくれると思ったから。
私は蝶を捕まえ、見せにいった。
今思えば、後悔しか残らない思出来事。
図鑑を閉じ、本を重ねてカウンターへと向かう。
気持ちは余計に乱れ、沈んでくだけ。
何もかもが失敗だった。
ここへ来たのも、本を選んだのも。
私の人生その物も。
憂鬱な気持ちを抱えたまま、学校へと登校する。
制服着用を呼びかける集団。
その声を遠くに聞いていると、後ろから声を掛けられた。
「おはようございます」
静かに挨拶をしてくる矢加部さん。
儀礼上それに応え、颯爽と歩いていく彼女の背中を見つめる。
彼女との私達の対立が完全に解けた訳ではない。
それでもこうして挨拶をするくらいの関係にはなっている。
単なる時の経緯だけではなく、努力の結果によって。
私達の努力。
そして矢加部さんの努力。
ただそれが、私と両親に当てはまるとは思えない。
その正門に出来ている人だかり。
中心にいるのはユウで、警備員と揉めている。
いや。相手は国会議員か。
どうして議員が女子高生に絡んでいるのかは、今の学校の状況を考えればすぐに答えが導き出せる。
私達は明確に学校へ反旗を翻していて、ユウはその代表格の一人。
彼女をやりこめる事により、自分達の優位性を示したいのだろう。
この程度の相手、簡単にユウがあしらう。
そう思ってみていたが、事態はそう簡単ではない様子。
相手の権力の大きさなど、彼女には関係ない。
これはおそらく、彼女の精神状態。
私同様、あまり良好ではないようだ。
私が沈み込んでいる要因の一つは、おそらくそれ。
ユウが側にいれば自然と励まされ、元気もでる。
だけど今のユウは普段の朗らかさや溌剌さがなく、しぼんでしまった花のよう。
私もそれへ反応し、気持ちを沈み込ませてしまう。
依存。
そう呼ぶのがふさわしいのかどうかは分からない。
ただ彼女を頼りにしているのは確か。
ユウはきっと、一人でも生きていける。
今は心を沈み込ませているけれど、彼女はいつか立ち上がる。
きっと、自分の力で。
今までがそうだったように、今回もまた。
人の力を借りはしても、それにすがりつきはしない。
彼女は自分の足で立ち、自分の意志で前に進む。
私は違う。
自分一人で生きていこうと、家を出た時に決めた。
でも実際は、そんな事は出来もしなかった。
ユウを頼り、モトを頼り。
大勢の人の力に支えられ、ようやく今まで生きてきた。
私一人では、何も出来はしなかった。
強がり、虚像を作り、殻に閉じこもり。
一人で生きているように、見せかけているだけに過ぎない。
淡々と過ぎていく時間。
教師の話は頭の上を通り過ぎていくだけ。
内容自体は、数年前に把握している事柄。
自分の知識とは別な視点で語られれば、興味深く聞く事は出来る。
仮に一般的な自分の知る視点でも、古い記憶を取り戻して考えを再構築する事も出来る。
気持ちが授業に向いているのならば。
だけど今の私に、それは望むべくもない。
休憩時間に呼び出され、旧連合の本部へ向かう。
ユウが取り上げられたスティックについて、みんなで話し合っている最中。
私も、それを聞くとはなしに聞き流す。
自分には遠い世界の話のよう。
虚無感と厭世観が、今の自分を支配する。
ユウの無気力さがそのまま移った感じ。
つくづく人に流されやすい。
ただ影響を受けるのは、ごく一部の人間。
自分の周りにいる、気の許した人間だけ。
だからこそ、影響を受けると言うべきか。
スティックを取り戻しに、今度は職員室へ。
思った通り、自分の力で立ち直るユウ。
彼女は誰の手助けも必要とはしていない。
私はそんな彼女の後を追うだけ。
それだけに過ぎない。
放課後。
ユウに、教棟の屋上へと呼び出される。
少しだけ空が近付き、だけど私がそこへ辿り着くはずはない。
遙か高い、青空の彼方へは。
「これ」
差し出されるパラフィン紙。
きれいに畳まれたそれを開くと、黄色い蝶が現れた。
「ヤマキチョウ」
中部地方に生息するシロチョウの一種。
ただ希ではあるが、東北地方にも生息する。
私が住んでいた岩手でも。
蘇る、幼い頃の思い出。
苦く切ない、だけど消す事の出来ない記憶。
庭先で蝶を捕まえ、それを両親へ見せに行った。
褒められたくて。
一緒に喜んでもらいたくて。
だけど笑顔で差し出されたのは、小さな図鑑。
両親は兄を研究機関へ通わせた謝礼の使い道に夢中だった。
別に、お金に困っていた訳ではない。
家族4人暮らすには、十分な収入もあったと思う。
だけど気を迷わすにも十分な謝礼が支払われた。
そんな事を兄さんは言っていた。
私は蝶を逃がし、図鑑を庭に埋めた。
結局は、ただそれだけの事だ。
何も言わないユウ。
私から言う事も無い。
これがあの時のヤマキチョウとも限らない。
私はすぐに庭へ放ち、両親達はそんな私に見向きもしなかったのだから。
仮にそうだとして、だったらどうすれば良いのだろうか。
このまま風に吹かれ、青空に舞い上がれば良い。
自分で決断出来ない、自分の弱さが願望となって表れる。
だけど屋上に強い風が吹く事はなく、ヤマキチョウはパラフィン紙の上に留まったまま。
そこから動く様子はない。
パラフィン紙ごとヤマキチョウを受け取り、屋上でユウと別れる。
話す事は何もない。
いや。何を話せばいいのか分からない。
彼女がこれを両親から託されたのは間違いない。
だけど、これだけを渡された私にどうしろと言うのだろうか。
贖罪、思い出の共有、決別。
何も理解は出来ず、机の引き出しにパラフィン紙をしまってベッドに倒れる。
頭の中が混乱して、思考が付いていかない状態。
余計な事を委ねられたという怒りすら込み上げてくる。
結局は突き放されたような心境。
それもまた、昔を思い出す。
サトミは一人で何でも出来るからと、両親から良く言われた。
あの頃はただの褒め言葉とも思っていた。
でも今考えれば、それは違う。
私をもてあましていた二人が、遠ざけるために使っていた都合の良い台詞。
難解な質問ばかりぶつける私を疎ましく思っていた彼等が。
それは今も変わらない。
ここに来ても、選択は委ねられる。
だけど私に何を選べと言うのだろうか。
パラフィン紙に包まれた蝶を見せられて。
苦い思い出を抱えて生きて行けと言いたいのか。
深く、重くなっていく思考。
解決の糸口は見えず、心は沈むまま。
闇をさまよい歩くような気分を味わいながら、時だけが無為に過ぎていく。
朝。
窓から差し込む白い日差しが、そうと判断させる。
あのまま寝入ってしまったらしく、服装は制服のまま。
自堕落という事ではないが、褒められた話でもない。
それでも起きられたのは、ドアをノックされたから。
ただインターフォンは正常に作動していて、ドアを叩く理由は一つもない。
端末を操作し、カメラで玄関前の映像を確認。
見慣れた顔がモニターへ映り込む。
仕方なく、キーを解除。
だるい体を引きずるようにして、洗面所へ向かい顔を洗う。
「おはよう」
朝から元気な挨拶。
それへ適当に言葉を返し、ベッドサイドに腰掛ける。
光はそんな私を咎める事も無く、穏やかに微笑み指を指して来た。
「今日は休みだよ」
多分制服の事を言っているんだと思う。
起きぬけなのと、気持ちの切り替えが上手く出来ていない。
今更、表面を取り繕うような相手でも無いが。
「調子悪そうだね」
「見ての通りよ」
つい出てしまう、刺のある口調。
心配してくれる人相手にこれでは、両親も愛想を尽かす訳だ。
「出掛けようか」
唐突な、空気をあまり読まない台詞。
それはまた、彼らしくもあるが。
寮の建物を出たところで、今更気付く。
「どうやって中に入ったの」
女子寮の警備はそれなりに厳重。
友達ですと名乗るだけでは、中へは入れない事もある。
「珪と勘違いしたのかな」
「そう」
彼は比較的女子寮に足を運ぶ事があり、警備員とも顔見知り。
雰囲気はともかく同じ顔なら、許可も出るだろう。
「それで、どこに行くの」
「学校」
一瞬両親のところへ連れて行かれると警戒したが、それは杞憂。
無理強いをする性格ではないし、私もそこまで付き合う気はない。
ただそれでは、今日が休日だという先程の会話とは矛盾するが。
結局外へ連れ出され、冷たい風に晒される。
空は綺麗に晴れ渡っているが、私の心は曇り空といった所か。
コートの襟を立て、首すくめるようにして光の後ろを歩く。
「学校に何かあるの」
「何もないよ」
すぐに答える光。
彼が無いと言えば、何も無い。
嘘をつくタイプではないし、そもそも人を騙す素養に欠けている。
生きていく素養でも、多少疑問に思っているが。
「どうして学校なの」
「言っても良いのかな。高い建物が他に思い付かなくて。デパートの上は、人が多いし」
「高い所?」
「ほら。馬鹿と何とかは高い所に登りたがるって言うし」
それを言うなら、煙と何とかだ。
この人と話していると、悩んでいる自分がつくづく哀れになってくる。
警備員が暇そうに立っている正門をくぐり、学校の敷地へ足を踏み入れる。
不意に両親の姿が現れる事はなく、茶トラの猫が目の前をよぎったくらい。
舞地さんが煮干しを撒いているせいか、完全に猫のすみかになっている。
「猫多いよね、この学校」
「先輩が集めてるの」
「何のために?」
「さあ」
彼女が何を考えてるかは私も知らない。
典型的な世間知らずのお嬢様という面もある一方、傭兵として苛烈な人生も過ごしている。
後は父親から少し距離を置いて過ごしていた時期があったくらいか。
その意味で舞地さんと私は、共通している部分はあった。
あくまでもそれは過去形で、彼女はすでに父親と和解を済ませている。
猫の背中を見ながら、そんな事を考えても仕方ないが。
吹き付ける強い風。
地上より近くに感じられる、青い空。
熱田の杜が眼下に広がり、もう少し空気が澄んでいれば乗鞍岳も見れるだろう。
「どうして、屋上なの」
「高いからね」
「高いと何かあるの」
「気付いてる、とぼけてる?」
結構真顔で尋ねられた。
悔しいが、今は素で分かっていない。
それを認めるのはもっと悔しく、視線を屋上全体へと向ける。
「……何してるの」
「それは、俺の台詞だ」
ベンチウォーマーにくるまり、鼻をすすりながら答えるケイ。
昼間とはいえ、今は真冬。
吹きさらしの屋上に居続ければ、愚痴の一つも言いたくはなるだろう。
「場所取りだよ。場所取り」
「休みの日に、屋上へ来る馬鹿がいるか」
「僕達は来たよ」
「お前は一度、死んで詫びろ」
牙を剥き、兄である光を睨むケイ。
言いたい事は痛いほど分かるが、その辺は同罪だと思う。
二人のやりとりを聞き流し、改めて屋上全体に視線を向ける。
いや。景色を見るべきか。
近くには熱田神宮と、神宮駅前の高層ビル。
南へ視線を向ければ海が広がり、名港トリトンがかすんで見える。
その手前には高架の線路が走っている。
「……リニア」
一気に思考が繋がり、ここへ来た理由が導き出される。
光が言うように、気付くのが遅すぎた。
両親は確か、今日実家へ帰るはず。
飛行機も秋田まで出てはいるが、便数や空港までの移動時間を考えるとリニアの方が早い場合もある。
リニアなら東京経由で、北海道まで向かうはず。
後は盛岡で降りて、地方線に乗り換えれば良い。
何が良いのかは、自分でもよく分からないが。
「あ、来たよ」
唐突に叫ぶ光。
思わずそれへ、反射的に反応して高架橋へ視線を向ける。
確かにリニアが走っている。
東から、西へと向かって。
「あれは東京から来る、下りだろ」
「でも、リニアだよ」
「俺達はリニアを見に来たのか。木之本君か」
ケイが言うように、私達は鉄道マニアの彼とは違う。
あまりもの馬鹿馬鹿しさに言葉も出てこず、フェンスへもたれる。
空は青く、限りなく澄み渡っている。
何もかもが、果てしなくどうでも良くなってきた。
「大体、何時のリニアに乗るって分かってるのか」
「そこは、親子の勘で」
「幸せな奴だ」
「はは、褒められた」
間違っても褒めてはいないだろう。
そうして話してる間にもリニアは次々に高架橋を通過していく。
下りだけではなく、上りもまた。
連絡を取ればどれに乗っているかはすぐに分かる。
ただそこまでするくらいなら、初めから名古屋駅へ行けば良いだけの事。
風に吹かれ、屋上で立ち尽くす必要はない。
「帰りましょ。ここにいても仕方ないわ」
「良いのか」
少し真剣な顔で尋ねてくるケイ。
彼等もまた、父親と距離を置いて過ごしている。
私の心情は、多少なりとも理解はしてくれているはずだ。
振る舞い方や、彼等の心情はともかくとして。
「少なくとも、ここでリニアを見ても意味はないでしょ。寒いだけよ」
「久し振りに良い話を聞いた」
そう呟き、建物内へ入るドアへ足早に向かうケイ。
光もすぐにその後へ続き、私一人が残される。
パラフィン紙を取り出し、黄色い蝶を改めて見つめる。
いっそ風に吹かれて飛んでいけばと思ったが、ヤマキチョウは少し揺れるだけで離れていく気配はない。
未だに未練を引きずる私のように。
かといってこれを自分の手で、風に任せる事も無い。
捨てる事も、突き返す事も出来ない。
ただ、自分の手の中に留めておく事しか。
ふと視界によぎる、リニアの車体。
それは加速を増し、一瞬にして私の前から姿を消す。
パラフィン紙をコートのポケットへ戻し、私もドアへと向かう。
冷たい風の吹きすさぶ屋上ではなく。
私を待ってくれている人達の元へと。
苦い思い出は遠い過去。
でもそれも、私の中にある思い出。
そう考えられる、今の自分。
成長。
そんなものではなく、単に流されただけかも知れない。
だけど人を憎み続けるよりはましだろう。
例えそれが、今だけの感情だとしても。
気の迷いだとしても。
せめて今日くらいは、昔を懐かしみたい。
決して戻れはしない、いつまでも幸福な日々が続くと思っていた幼い頃を。
現実は日々苦しいけれど。
だからせめて今だけは、あの頃の笑顔を浮かべたい。
了
エピソード 34 あとがき
という訳で、外伝もサトミ編でした。
彼女が軟化したというよりは、軟化した設定に変更してみました。
確執だけで過ごす人生もどうかと、私が勝手に思ったので。
蝶の下りは、特に伏線として張ったつもりはなく。
「ああそう言えば、そんな事書いたかな(エピソード 3)」と、ふと思い出した結果。
上手く行ったかどうかはともかく、体裁は整ったかなと。
整って無くても、そこはご了承を。
やはり、非常に内向きな性格。
自己完結型とでも言いますか。
本編のあとがきでも書いたように、ユウ達がいなければ表舞台に立たずひっそりと過ごしてたはず。
そう考えると、今の生き方は本意ではないのかも知れません。
逆を言えば、自分を曲げてまでユウに付き合っている。
つまり、そこまで彼女達への思い入れが強いんでしょう。
分かりませんけどね、本人ではないので。




